巻四 炎上

一、

 次の夜は朔だった。夜、月は輝かない。
 電灯など無いこの時代、月明かりはかなり重要な夜の明かりの一つであった。が、それが無いと言う事は人目を忍ぶのには絶好の条件となりうる。
 勿論、人々は重々それも承知していて、昨今、都大路を横行している盗賊集団、疾風への警戒を強めていた。宮中もしかりで、警戒のためにそこここへ検非違使たちが貼り付けられる。

 屋敷中が寝静まる夜中、早乙女の君はいつものように起き上がった。
 そして、床下にひそめてある乱馬の装束へと腕を通す。
 微かな衣擦れの音は、暗闇に静かに響き渡る。着替えが終わるとそっと寝屋を抜け出した。
「君・・・。」
 廊下を渡ろうとして声を掛けられた。振り返ると母がひっそりと立っていた。
「母上・・・。」
 早乙女の君はじっと彼女を振り返った。
「行くのですね・・・。」
 問いかけにこくんと一つ頷いた。
「母は何も申しますまい・・・。おまえ様が思うとおりに突き進めばよいのだから・・・。それより、これを・・・。きっと何かの役にたちましょう・・・。」
 渡されたのは一本の短剣。
「これは?」
「大丈夫・・・。由緒ならばれはしませぬ。我が家に代々伝わる古い短剣です。どこの誰が作りしか、今では分からぬほど昔の代物。これをお持ちなさい。・・・。刃は今のものと比べ役にはたちませぬが、この剣には陰陽術を跳ね返す力を秘めていると聞き及んだことがあります。そう、呪器として長く伝えられてきたもの。八方翁との戦いも今回は熾烈を極めましょう。きっとそなたを守ってくれまする。だから、これをお持ちなさい。」
 母はじっと息子を見た。
「母君・・・。ありがとうございます。遠慮なく、いただきます。」
 にっこりと微笑みあった。
「君・・・。しっかりと自分の目で見て、そして己のその手で明日を掴み取りなさい。それがどんな厳しい道でも母は厭いませぬ。己の信じるままに生きなさい。後悔だけはせぬように・・・。それがそなたの運命ならば・・・。」
 寂しげに眺めるその瞳は、息子との惜別を決意していた。
 もう、彼はここへは戻らない・・・。いや、この息子と会えない。微かな予感があった。
「母君・・・。行ってまいります。」
 乱馬は微かに微笑み返してそう口にすると、たっと闇へと消えていった。

「君・・・。健やかに・・・。」

 母のどかはそっと闇に問い掛けた。


 乱馬は走った。
 男の身体の方が自由が効く。出来る限り時間を節約したかったので、夜陰を必死で駆けた。
 目的地は薬餌園といわれる場所。
 そう、宮中の奥にある薬草園だ。
「あそこだな・・・。」
 乱馬は目標を定めると、さっと夜陰へと紛れた。
 今頃、盗賊の手下たちは、闇夜に紛れて都大路のあちこちで大騒ぎを起こしている筈だ。ここから目を反らすためである。至る屋敷へと潜り込み、盗賊の本領を発揮して様々に溜め込まれた貴族どものお宝を掠め取ろうとしている筈だ。手だれの早雲と玄馬に任せてある。時々ドジを踏むが、腕は立つので頼りになる盗賊だ。
 こっそりと中を伺う。
 園の入口には門番が交代で見張っている。中は薬草が植えられている。
「よし・・・。」
 乱馬は持ってきた竹筒を取り出すと、頭からざばっとかけた。
 と、みるみるうちに身体は縮み、女へと変化を遂げる。
 乱馬はゆっくりと身を翻すと、たっと駆け出した。そして、門番に見つからないように、山背後側へと足を踏み入れる。竹の柵が続く外側をくまなく見詰めて潜入できそうな箇所をチェックする。
 女の身体は便利だった。男のときより小さい分、少しの隙間で中へ入り込むことが可能だからだ。
「よし、あそこっ!」
 乱馬は竹が崩れかかった箇所を見つけて駆け寄った。今の身体なら難なく滑り込めそうだ。
 乱馬はふっと一つ深呼吸をすると、門番に見つからないようにさっと闇を駆け抜けて蔀へと身体を引き寄せた。土の匂いがふっと鼻をつく。ごそっと少しだけ音がしたが、幸い誰にも見咎められずに中へと入ることが出来た。
「第一関門突破ってとこかな・・・。」
 中は広い畑のように畝になっていた。そこに添うように、雑多な草がそこここから生えている。乱馬は東風がしたためた絵を頼りに、草を選別してゆく。生憎、闇夜なので良く目を凝らさねばならない。星が今にも天から落ちそうなくらい光り輝いていた。夜露が濡れて、地面は滑りやすくなっている。
 注意を払いながら奥へと進んでゆく。
「あった・・・。あれだ。」
 一際背高の草がにょっと闇へと伸びているのが目に入った。
(この季節、生々と天へと伸びているのは生命力の強いこの草くらいなものだからすぐわかるさ。)
 東風はにこやかに乱馬に告げてくれた。
 絵と一応見比べて、間違いないことがわかると、乱馬は短剣を出して草葉を手折った。
 青臭い匂いがして、草の汁がべっとりと手についた。
「あまり気持ちの良い臭いじゃねえな・・・。」
 苦笑いして手折った草をがさごそと巾着袋へと突っ込んだ。
「さて・・・。早く持っていかねえと・・・。」
 そう思ったときだった。
 
 ヒュンっと鼻先を矢が掠め飛んだ。

「賊めっ!」

 怒声と共に幾人かの男たちが見えた。

「ちえっ!見つかったか・・・。」
 乱馬はたっと駆け出した。
「追えっ!殿上の薬餌園へ潜入せし、盗賊。皆の者出あえっ!!」
 罵声が上がり、そこここから検非違使の男たちが集まってくる。
「面倒だな・・・。」
 乱馬はむすっと声を放つと、弓矢を避けてざざざっと薬草を薙ぎ倒しながら逃げた。
「正面突破だぜっ!!」
 乱馬は門へと突っ切った。
 正面には幾人かの男たちが矢を番えているのが見えた。
 一斉に浴びせ掛けられる弓矢を器用に避けながらも懸命に駆けた。
「へっ!軽いもんだぜっ!!」
 門を全速力で駆け抜けると、脇目も振らずに道を駆けた。

 息を弾ませながら坂道を転げるように走り、歩を緩めた。

「!」

 激しい気を傍で感じた。
 見ると、検非違使が一人、馬に跨って静かにこちらを見詰めていた。
「よお・・・。また会ったな。」
 そいつは低い声で乱馬へ吐き出した。
「おめえ・・・。あんときの・・・。」
 乱馬は汗を拭いながらそいつをきっと睨み上げた。
「へっ!探したぜ。てめえを今度こそ倒してやるってな・・・。」
 弓をつがえながら男はにやりと笑った。
 そう、初めてあかねと出会った夜に、こいつに傷つけられたその記憶がさっと乱馬に甦る。
「あんときは捕り逃がしたが、今度は絶対逃がさねえ。俺は、他の奴らとは違うぜ。覚悟しな・・・。」
(こ、こいつ、やっぱりできるっ!)
 乱馬はじりっと追い詰められてゆく己を感じていた。脂汗が額から流れ落ちた。
「おめえ、名前は何て言うんだ?」
 馬上の男が見下ろしながら問い掛けた。
「人に名を聞く前にてめえから言いやがれ・・・。」
 乱馬は不敵に答えた。
「ふっ!気の強いアマだな・・・。良いだろう。俺は響良牙ってんだ。てめえは?疾風の女長、乱馬か?」
「ああ・・・。だったらどうすんだ?」
「決まってる、俺が仕留めてやる。行くぜっ!!」

(こんなところで時間は取れねえっ!あかね姫が待ってるんだっ!)
 
 乱馬は間合いを見計らって一気にたっと動いた。
 男の馬の方へと駆け出したのだ。

 ビュンっと弓の弾ける音がして続けざまに飛んでくる矢。
「うっ!」
 一本が右腕を掠った。血がはじけ飛ぶ。
「ちぇっ、外したか。次はどうだ・・・。」
 畳み掛けるように射られる弓矢。
「俺は、負けるわけにはいかねえんだーっ!!」
 飛んできた弓を片手にぎゅっと掴むと、乱馬は目の前に立ちはだかる馬に向かって突進した。至近距離に乱馬が駆けて来た物だからかえって狙いが定まらない良牙。

「やあーっ!!」
 乱馬は渾身の力を振るって手にした矢じりを良牙のまたがる馬の胴体目掛けて突き立てた。

 ヒッ、ヒヒ―ンッ!!

 溜まらないのは馬だったろう。前足を上げてそそり立った。
「うわーっ!!」
 馬のいななきと共に良牙の身体が激しく揺れた。バランスを崩して落馬する。どさっと鈍い音がした。
 だが、乱馬はそんなことには目もくれず、また反撃に出ることもなく、ただただ、その場を一目散に駆け抜けた。
「待て―ッ、畜生、卑怯者っ!!」
 良牙が投げ出された地上で怒鳴っていたがお構いなしに駆けた。
「待ってられねえんだよっ!悪いなっ!」
 そう心で吐き出して、構わず駆け続けた。

 闇夜の先ではあかね姫が、多分、苦しみながら待っている。薬草を飲ませなければ命さえ危ないかもしれない。
 その思いだけが彼を突き動かしていた。


二、

「熱い・・・。身体が・・・。燃えるように・・・。」
 
 あかね姫は薄れ行く意識の下でずっと喘ぎ続けていた。
 昨夜、乱馬と別れてから急に容態が悪化したのだ。熱が一気に上がり始めた。
 お婆はおろおろとあかね姫を見詰めていたが、成すすべなく、ただおろおろとあかね姫の周りを巡っていた。
 日中に出した八方翁への使いは「宮中の重大事に備えるために今日はどなたにもお会いできませぬ。」という返事を持ってすごすごと引き下がってきた。
「姫様の一大事というに・・・。」
 宮家の人々は、あかね姫の容態が悪化してゆくのを心配げに眺めていた。
「大丈夫・・・。あたしはそんなに柔な身体ではありませぬから・・・。心配なくお休みなさい。お婆。そなたの方が参ってしまわれたら誰も私の看病をしてくれませぬではないですか。」
 夜になっても傍を離れようとしないお婆をあかね姫はそう言って嗜めた。
「でも・・・。姫様にもしものことが・・・。」
「だから、明日の朝になれば熱も引きましょう。ほら、さっきお薬もちゃんと飲みましたし、お札だって守ってくださいますよ・・・。信じないと、ね、お婆。」
 あかね姫は柔らかにそう言い含めた。
「では、何かございましたら遠慮なくお婆を起こしてくだされませや・・。姫様。」
 お婆はようやく姫の申し入れを受けて隣へと下がっていった。
 あかね姫にしてみれば、今夜も乱馬が来る予感があったのだ。お婆が傍に侍っていれば、乱馬は警戒して入って来ないだろう。だから、余計に人払いしたかったのである。
(乱馬・・・。何か私に言いたいことがあった筈・・・。きっと来るわね。)
 苦しい息の下からあかね姫はそう信じて止まなかった。
 
 丑三つ時を過ぎたころ、一陣の風がビュンと外を駆け抜けた。
 カタカタと御簾を揺らして、張り付いていた御札が二、三枚、煽られて飛んだ。
 
「たく・・・。情けねえな・・・。何神妙な顔して寝込んでやがる・・・。」

 待ち焦がれていた声がした。
「乱馬・・・。来てくれたのね・・・。」
 あかね姫は弱々しく見上げた。起き上がる元気は残されていなかった。
 潤んだ目が痛々しい。
「ほらよっ!薬だ。こいつは効くぜ。」
 と言ってにっと笑ってどさっと巾着を投げた。
 彼の気配を館の人々は気がついていないようだ。乱馬は用心のために、隣部屋へ先に伺ってまた香を炊き込めたのだろうか。それとも、お婆はあかね姫の看病に疲れきっていたのだろうか。ぐっすりと眠っているようだった。
 人が来ないのを確認すると乱馬はそっとあかね姫の方へと近づいた。
「何、病人面してやがる・・・。」
 そう言って笑った。
「どこからくすねて来たの?」
 あかね姫は傍らに落ちた巾着の中から何やら薬草を取り出している乱馬を見咎めて言った。彼女の本業が盗人であることを思い出したのだ。
「ちょっとな・・・。典薬寮(てんやくのつかさ)から。」
 乱馬はすらりとそれに答えた。
「て、典薬寮(てんやくのつかさ)ですって?薬餌園から取って来たの?」
 あかね姫は目を丸くして力なく問い掛けてきた。
 そしてじっと乱馬を見上げて言葉を継いだ。

「ねえ。お願い。私なんかのために無理しないで。」

 そう言わずにはいられなかったのだ。いくら彼女の身のこなしが見事だと言っても、見つかれば只事ではすまないだろう。放った言葉は震えていた。
「心配してくれんのか?」
 乱馬はあかね姫を見詰め返した。
「当たり前でしょっ!!」
 つい声を荒げた。しまったと思ってあかね姫は口をつぐんだ。誰かの耳に入ったら大事である。
 二人は息を殺したが、気配はなかった。
「乱馬・・・。ほら、そこ、また怪我してるじゃない。」
 あかね姫は誰も来ないのを確認すると、乱馬の着物をめくった。そこには血が少し噴出した跡がある。少し深くえぐられた傷だった。さっき、検非違使の良牙とやりあったときに弓が掠った痕だった。
「無理して、痛めたんでしょ?」
「こんなの、ほっといても治る。大丈夫!」
「ダメだって言ってるじゃない。傷はほうっておくと膿んできて命を落とすことだってあるのよ。」
「とにかく・・・。無理しないで。お願いだから。」
 それ以上は言葉が紡げないのか、あかね姫は黙ってしまった。己の身体が病に侵されていることも一瞬忘れていた。
 あかね姫は己の着ていた着物の袖を破ると、それを彼女の腕の傷に巻きだした。決して器用ではなかったが傷口を丁寧に包んでゆく。
 己の熱のことなど忘れているようにあかね姫は夢中で手当てした。
「あかね・・・。本当は・・・。俺は・・・。」
 乱馬は抑えていた感情が一気に吹き出してくるのをぐっと抑えた。これ以上の言葉を継いでいいものかどうか。迷ったのだ。

 己の秘密。
 
 急に乱馬の細い腕が伸びてきて、あかね姫の身体をぎゅっと抱き締めた。
「乱馬?」
 意外な彼女の行動に驚いたのはあかね姫の方である。
「あかね・・・。俺は、おまえが好きだ。だから、早く元気になってくれ・・・。八方翁とかいう祈祷師なんか信用しちゃいけねえ・・・。奴は何を企んでいるかわかったもんじゃねえ。ましてや九能や正妃の息の掛かった奴なんか・・・。」
「え?」
「ごめん。今はまだこれ以上は言えねえ・・・。だけど俺はどんな姿に身をやつしていようと、必ずおまえの傍にいるから。おまえのこと守ってやるから・・・。」
 震える声でそれだけ言った後、持ってきた薬草の葉を何枚か千切ると、口へと放り込んだ。そして噛み砕きながらもぐもぐと口を動かす。そう、東風にそうしろと予め言われていたのである。
「乱馬?」
 乱馬はそっとあかね姫を己へと抱き寄せた。それ以上は聞くなというように。そして一度あかね姫を覗き込むと、目を静かに閉じた。
 ふわっと頬に触れるあかねの長い髪・・・。そして柔らかい唇。
「え?」
 あかね姫は押し付けられた口から薬草の香りが流れ込んでくるのを感じた。柔らかく噛み砕かれた葉を乱馬は己の口から押し出した。
 くんと押し入れられて広がる薬草の苦い味。口移しで飲まされた薬草。
 乱馬の吐息を間近に感じた時、あかね姫は己の目を疑った。
「乱馬?・・・。早乙女の君?」
 合わさった口はそう象った。
 乱馬の身体が一瞬、男に見えたのだ。それも、己が恋い慕う、早乙女の君に。
 身体に絡む乱馬の細い腕は逞しい男の腕に、そして、目を閉じられた彼女の顔が確かに早乙女の君に見えたのだ。

 あかね姫の咽喉元へと薬草が滑り込んでゆくのを確認すると、乱馬はつけていた一度口を離し、あかね姫をきつくその腕の中に抱き締めた。
 柔らかな鼓動と、甘い吐息と、そして堪えられない愛しさと。こみ上げてくる想いを一度だけ抱き締めることで振り絞った。

「早く良くなれよ・・・。あかね・・・。また会おうぜ・・・。」
 
 離れ際、それだけをあかね姫に告げると寂しげな笑みを浮かべてそこを立ち去っていった。

 あかね姫はただ呆然と乱馬が触れた桜色の唇に手を当てて、消えた彼の気配を追っていた。


三、

 あかね姫の病はその日を境に快方へと向かった。

「あの薬草は何だ?」
 数日経った頃、乱馬は東風へ訊いてみた。
「内緒だよ・・・。ふふ。」
 そう言って取り合わない。
「それより・・・。奴ら、俺たちのことを薄々感づいたようだぜ・・・。陰気をずっと感じる。」
 東風は少し険しい表情になって乱馬に向けて言った。
「結界が崩れかかっているんだ、ほら。奴らがここへ乗り込んでくるのももう時間の問題だよ。どうする?乱馬。」
 乱馬は腕を組んだ。
「潮時ってことか・・・。わかった。善は急げだ。今夜中にここを引き払おう。奴らに気取られて乗り込まれないうちに。今夜中に都から離れるんだ。それぞれバラバラに。そして、東へ行こう。」
 即断だった。
「わかった。で、乱馬はどうする?」
「そうだな・・・。後で皆と合流する。まだ都での任務が残ってるからな。早雲と玄馬に後は任せるよ・・・。俺は別に行動する。あと数日もしらたまた任地へと下されることになるだろうから・・・。」
「それが得策だな。ところで乱馬。」
「あん?」
「嫌な卦が占いに出ていた。何かとてつもない陰謀が宮中の奥で蠢いてるよ。中心にはあの八方翁が居る。それから九能皇子母子だ。あかね姫も危ないと出ている。いや、おまえ自身が、早乙女の君にも刃が向いている。また呪詛されるかもしれぬ。わかっていると思うが・・・充分に気をつけろ。」
 東風は忠告を入れた。
「ああ、わかった。で、東風はどうする?」
「君と一緒に行く。占いの卦もそうしとろ出た。邪念は打ち砕かねばならないだろう。この都を守るためにも・・・。」
 東風はそれだけ言うとにっと乱馬を見て笑った。
 こくんと頷きあった二人。
「行こう・・・。闇が呼んでいる。」
 東風は乱馬を促した。

「早雲、玄馬っ!来いっ!てめえらにここの後始末を任せる。先に都を出ろ。小椋池で落ち合うぞ!いいなっ!今夜中にここを引き払うんだ。いいな?」
 乱馬は声を張り上げて子飼の夜盗へ檄を飛ばした。
「おうよっ!乱馬、後は俺たちに任せておけっ!」
 かんらからと玄馬が笑った。
「野郎どもっ!さあ、ここを出るぞっ!早くしろっ!!」
 早雲ががなった。
 喧騒が始まった。


「あかね・・・。俺が守ってやるからな・・・。」

 乱馬はぎゅっとあかねを助けた時に腕に巻かれていた絹衣の布切をそっと握りしめた。あの日からその衣をずっと肌身離さず身につけていた。
 絹衣を握り締めるだけで自然に力が湧いて来た。
 激情にかられてあかね姫を抱き締めたあの夜。ああいった大胆な行動に出てしまった後だ。あかね姫の前に姿を現すことも叶わないでいた。また、早乙女の君は風邪で病に臥せっていることになっている。宮中へもだいぶんとご無沙汰していたのである。

「乱馬の君はどうする?・・・。」
 夜盗たちの出立が落ち着いた後、東風が乱馬を顧みて言った。
「たまには宮へ帰らねえと・・・母君も心配すっかもしれねえな・・・。」
「それが良かろう。俺は忍んでゆく。母君にも久方ぶりにお会いしたいからな・・・。」
 乱馬は誰も居なくなった夜盗の集落をこっそりと後にした。
 枯葉がカサカサと音を立てながら、もぬけの殻になった人家の間を吹きぬけた。
 羅生門を潜って、都大路へと足を踏み入れた時だった。
「あれは・・・?」
 乱馬は闇夜が真っ赤に浮かぶのを見た。
「火事か?」
 東風は赤く輝くように光る方向をじっと見定めた。間違いない。それは燃え盛る火の手だった。
 何故か大きな胸騒ぎが起こった。
「あの方向・・・。あれは・・もしかして・・・。」
「とにかく、急ごう!」
 東風は乱馬を促した。そして、懸命に赤い炎の上がる方へと二人は駆け出した。
 近づくにつれ、予感は確信へと変わって行った。
 火元はどうだかわからないが、今まさに燃えているのは乱馬の本来の住処、そう早乙女の君の館そのものだったのである。
 消化施設など整えられていない時代であった。どんな小さな火でも一度燃え上がると、勢いは止められないほどに烈火となり得る。
 折からの乾燥した空気に煽られて、彼らがそこへ到達するころには、熱を感じるくらいに激しく燃え盛っている最中であった。

「母君っ!!」

 乱馬はいつしか必死の形相で駆け出していた。
 周りには何処から集まってくるのか、都の人々が見物を決めこみながら火の手を眺めていた。めらめらと上がる炎。
 ごおーっと木造作りの母屋が音を立てながら燃え盛っている最中だった。柱が黒くシルエットのように浮き上がって見える。ぱちぱちと建物が断末魔の叫びを上げていた。
「待てっ!」
 東風が一人、乱馬の腕をがっしと掴んだ。
「離せっ!!あの炎の中には母君が居るかもしれねえんだっ!!」
「馬鹿っ!死にに行くつもりか?もうあれだけ轟々と炎が上がっておる。無駄に命を落としてどうするんだ!!」
 東風は叱責した。無理難題を言っていることも分かっていた。
 いつしか乱馬の頬を涙が伝わり始めた。
「畜生っ!!何故だっ!!何故こんな・・・。」
 乱馬は泣き叫びながら、燃え上がる己が屋敷を見続けた。東風は険しい顔をして、今にも駆け出しそうな乱馬の袖をぎゅっと掴んで引き止めていた。

「母上ーっ!!」

 咽喉を振り絞って叫んだが、傍らに居る東風以外、誰の耳元にもそれは届かなかったろう。

 その日の未明、早乙女の君の館は炎へと飲み込まれ灰となって消えた。
 行方不明の下人、女官数知れず。また、母、長閑(のどか)の君も戻らなかった。



つづく




八方翁・・・八宝斎
お婆(ばば)・・・コロン
辺りの顔を想像していただくのが妥当かと(苦笑
いえ、別にいいんですけどね・・・

パラレルです・・・ご容赦ください(焦


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