巻三 乱馬の秘密

一、

 その日から乱馬が放った言葉がどこかに引っかかりを持ってあかね姫の胸に巣食っていた。

『恋したことねえのか?その年まで・・・。』
 ないわ・・・。だって、傍にそんな素敵な男の人なんて居なかった。

『おめえの周りにはおめえのこと大事に思ってる奴がたくさん居るんだろ?』
 下心を秘めている男ならたくさん居る。身体が欲しいだけ。私に天皇家の血を受けた子供を産ませたいだけ・・・。そんな男しか居ないじゃない・・・。

『その早乙女の何某って男だって・・・。』
 そんなことあるわけないじゃない・・・。

『きっとそいつもあかね姫のこと想ってるに違いねえ・・・。じゃねえと身体張っておめえを助けたりしねえさ・・・。』
 ただの偶然よ・・・。彼が助けてくれたのは・・・

 繰り返される乱馬の言葉を借りた自問自答。
 いくら考えても堂々巡りで何も解決しない命題。
 

 あの日、九能皇子に襲われかけた日から暫く乱馬は姿を現さなかった。
 その間、都では「旋風」と貴族たちに恐れられた盗賊集団が暴れまわっていたから、きっと彼女はその統率で忙しく夜を過ごしているのだろう。あかね姫はぼんやりと風の噂に耳を傾けた。
 乱馬の来ない夜は深く闇に包まれて、物足りないような気がした。
(まるで殿方を待っているみたいじゃないの・・・。)
 あかね姫は闇に向かってふと苦笑いを投げかけた。

 春になると宮中は俄かに騒がしくなる。
 そう、桜の季節の到来は、何かと気忙しい内裏なのである。
 今日もまた、歌会や宴が其処ここで賑やかに行われる。
 宮中の人々は長かった寒い季節に別れを告げるのに忙しいのだ。
 あれ以来九能皇子はあかね姫に言い寄らなくなっていた。あかね姫はひとつ厄介事が減ったくらいしか考えていなかった。
 その裏に陰謀が張り巡らされているなどとは夢にも思わず、訪れた水ぬるむ季節を楽しみながら過ごしていた。

 そんな宴に決まって顔を合わせる早乙女の君。

 遠巻きにぼんやり眺める君は、己が思ったよりずっと凛々しく、立居振舞もきりりとしていた。多分、天皇の血を引く他の誰よりも聡く、また人望も人気も美貌も非の打ち所がないだろう。
 彼が臣下に下ったのは、母親の身分が低かったせいもあるが、一方で九能皇子の母、正妃の指図であったことは誰の目にも明らかであった。
 不遇の皇子。
 人々はそう呼んでいた。
 この不遇の皇子は臣下に下ると、東国へと下された。東国にある荘園の整備のために派遣されたと言う訳だ。それも都から彼を遠ざける姦計の一つだと聡い人々は噂しあった。
 だが渦中の彼は人々のさがしい好奇の目など一向に気にしている様子も無い。
 今回、都に戻ってきたのは、天皇の即位の儀礼が近づいているからである。先帝が亡くなられてからそろそろ一年を迎えようとしていた。長く伏していた喪も明けて、晴れて即位されるのである。その準備のために呼び戻されたらしい。
 早乙女の君は都に居る間、その空気を満喫しようと精力的に動き回っているようだ。
 何処へ言っても彼の周りには女人が溢れていた。確かな知識と話術の巧みさ。そして何よりもいい男ぶり。持て囃されない訳は無い。
 
(もう・・・。乱馬があんなこと言うからよ・・・。何故、私が彼を意識しなくちゃいけないのよ・・・。)

 あかね姫は自然と彼の姿を追っている自分に気がついて唖然とした。
 物腰の柔らかさ、堂々たる男気、しなやかさと逞しさの両方を持った身体つき。確かに女官たちが立ち騒ぐに値する貴公子である。
 時々、かち合う視線に、彼は黙って微笑みを返してくる。
 慌てて目を反らすあかね姫。
 そんな繰り返しの日々。

(どうして、私が赤くならないといけないのよ・・・。)

 はっとして顔を背ける。
 それが「恋」というものだと知るにはまだ、あかね姫は純朴すぎた。
 いつしか彼の噂に耳を自然に傾けている。
「ねえ、早乙女の君、夏になる頃、また、東国へ行ってしまうんだって・・・。」
「へえ・・・都下り。」
「なんでも、新しく即位される天皇に成り代わってまた、東国の守りを固められるために下向なさるそうよ・・・。」
「それって、体のいい厄介払いではなくって?ほら、九能皇子のご母堂さま、早乙女の君に嫉妬なさってるって・・・。」
「かもしれないわね。」
「あーあ。宮中が寂しくなるな・・・。」
「今のうちに言い寄ろうかしら。」
「あら、ダメよ、かの君にはほら、黒薔薇の君がいらっしゃるわ。」
「そうね・・・。」

 黒薔薇の君。
 そう、彼女もまた華やかに咲いている宮中の仇花。あかね姫と同じ年頃の乙女であった。九能皇子の同母妹にあたる。傲慢で鼻持ちならないところは母親譲りだと噂されていた。

「ねえ、黒薔薇の君、かなり御執心なのよね・・・。」
「性格はともかく美貌はおありの方だから・・・。後ろ盾が正妃さまですもの・・・。」
「東国へご一緒に下られるのかしら?」
「さあ・・・。そこまでは。」
「それにほら、牡丹の君もいらっしゃるわ。」
「そうね・・・。長い黒髪が自慢の、絶世の皇女さまね。」
「あの方も早乙女の君にべったりですものね・・・。」
「まだいらっしゃるわ、右京の君。」
「本当におもてになる方はどこか違いますものね・・・。」

 そうなのである。
 あるだけでも三つ、四つ。この早乙女の君の周りには宮中の華が咲き競うように寄り添っていた。そんな中にいるので、近寄ることもできない。ましてや言葉など交わしたこともなかった。

 こんなこともあった。

「あっ・・・。」「わっ・・・。」
 ある時、宮中でぶつかった。
 見上げると早乙女の君。
「だ、大丈夫ですか?すいませぬ・・・。寝不足で。」
 早乙女の君は頭を掻きながらあかねに詫びた。

『寝不足?』

 その言葉があかね姫の頭を雷同のように駆け巡った。
 寝不足ということは、毎夜抱く女性には不自由していないということなのか。
 飛躍的に考えてしまう己が情けなかった。
「いえ・・・。ぼんやりとしていたのは私の方ですから・・・。」
 それだけ言うと、さっとその場を立ち去った。
 嫉妬、猜疑、それとも失恋。


 物思いは彼女を軽い風邪へと導いた。翌日から彼女は熱を出して寝込んでしまったのだ。
 この時代、風邪を引き込むだけで死に至ることもある。
 医者なども、祈祷師とたいして変わらぬ処置しかしない。卜占に優れた祈祷師がやってきて卦払いをするのが関の山だった。
 誰が呼んだのか、祈祷師の八方翁が仰々しくやって来た。
 都一と評判の高い宮中の陰陽師のじいさんだ。小さな体にいくつもの皺を称えた顔。一目見ただけでは好々爺のような人あたりで気さくそうだった。彼はあかねを軽く診察すると、懐から赤い札を数枚取り出した。何やら仰々しい文字が黒い墨でそれらしく書き連ねてある。
「これで少しは陰の気も紛れますでしょう。悪霊も寄り付きませぬ。さ、これを部屋中へお貼りなさいませ。」
 と言いながらあかねに渡した。
 それからごにょごにょと何やら護摩を焚きながら呪文みたいな言葉を唱えると、妖しげな粉薬も出してくる。
「その御札とこの粉薬。これで七日ばかりゆっくりと臥せっておれば、良くなるでしょう。なあに、心配は要らぬ。食を取られたあと、この薬を湯と共に召しませ。姫ぎみ・・・。」
 八方翁はにっと笑いながら皺だらけの手を差し出した。
「くれぐれも、薬、飲み忘れることありませぬように・・・。ワシはこれにて・・・。」
 仰々しく礼をすると翁は静々と部屋を出て行った。
 お婆が後に続いて部屋を出た。
 あかねは力の入らぬ身体を持て余しながらも、じっと枕元へ置かれた赤い札を見た。不気味に札は血の色をたたえてそこにあった。手を伸ばそうとして止めた。何故か、触るのも躊躇されるようなそんな強い念気を感じた。
(きっと、陰陽師の念誦が篭められているありがたい御札なんだわ・・・。あの八方翁とかいう陰陽師、腕も一流だって宴などで皆一様に噂しあっていたものね・・・。)
 その時はそれで済ませてしまった。


「うまくいきもうしたか?八方翁さま。」
「ええ、それはもう・・・。後は一週間後が楽しみですなぁ・・・。あの媚薬とワシの念で彼女の心は九能皇子さまへと注がれることになりましょうぞ・・・。くくく・・・。」
「ほんに・・・。それでこの宮家も安泰。」
 お婆はこそっと八方翁に耳打ちした。
「九能皇子もさぞかしお喜ばれになられましょうぞ・・・。未だあの姫さまに御執心のご様子。ただ、一つだけ気がかりがありまする。」
「何でござろうか?」
「あの媚薬、たまに拒絶反応が起こって、病を増殖させることがありましてのう・・・。いや、ほんに稀なことではありまするが・・・。」
「その場合姫は?」
「なあに、ワシが念を送り続けますゆえ、それは大丈夫でしょうぞ・・・。後は一週間後に・・・。あ、それと・・・。この屋敷に妖しき者の気配がありますれば・・。姫様のご様子から目を離しなされますな・・・。」
「ありがとうございまする。八方翁どの・・・。これは少ないですが御礼ですじゃ。後は事が上手く運びましたれば・・・。」
 とお婆が目配せした。
「これはこれは・・・。ほほ・・・。金の音でございまするな。また、宜しくお願いいたします。ではワシはこれにて・・・。」
 一目を忍ぶようにそっと門を出た。

「ふう・・・。これであの姫も、我が九能皇子へ年貢を納めるじゃろう・・・。万が一、彼女の心に別の者が住み着いており、拒否反応が出れば、そはそれで・・・。それより、気になる。この屋敷から立ち昇る強い気・・・。ま、所詮ワシの敵には成り得ぬがな・・・。さてと、後は次の斎宮を卜占せしめ、彼女の生き胆を喰らうだけじゃ・・・。ふふ、これで我も積年の願いが叶う。永遠の闇がここに君臨するのだ。その中心は邪神さまとワシと・・・。愉快愉快・・・。ふっふぉっふぉっ・・・。」

 八方翁は夜の闇へと溶け込んで行った。


二、

(はあ・・・。嫌だなあ・・・。)

 あかね姫は溜息を吐いた。

 八方翁が帰ってからというもの、お婆は置かれた薬を強要する。
 一口飲んで吐き出しそうになるほど、その薬は不味かった。
「ほうれ、我がままいいなさるな。良薬は口に苦いものでございます。」
 お婆は全部飲み干すまでじっと傍らを離れない。
 お白湯に溶かして、濁った白い液体を一気に咽喉へと流し入れる。焼きつくような嫌な味が咽喉の奥から胃袋へと流れ落ちるのが分かる。
 途端、身体が発光するのではないかと思うほど、身体の奥から熱がこみ上げてくる。変な気持ちになるのである。
 つい今しがたも、寝る前にと飲まされて床へ就いたところだ。
 胃袋の中から逆流させたくなるような衝動を抑えて、あかね姫はじっと蒲団へと這いつくばっていた。
 何度目かの溜息を吐いたときに、気配がした。

「どうしたんだよ・・・?らしくねえな・・・。」
 夜陰に乱馬の笑い顔が浮かんでいた。
「乱馬っ!」
 ぱっと明るくなった。
 待ってたのよと云わんばかりに寝屋へ招き入れる。
「うかねえ顔なんかして、床を敷いてさ・・・。」
 からかい気味に言葉をかける。
「茶化さないで!これでも一応病人なのよ・・・。」
 膨れっ面をしてみせる。
 ぷっと吹き出した二人。
 あかね姫は落ち着くと乱馬を見上げて話し始めた。
 彼女とはどんなことでもすんなり話せる。そんな気がしたからだ。
「風邪引き込んでしまってね・・・。軽い風邪だと思っていたんだけれど、全然埒があかないの。おまけに、お婆には変な薬を盛られるし・・・。良いこと無いわ。最近。」
 ふふっと力なく笑った。
「らしくねえな・・・。薬・・・ちょっと見せてみな。」
 そう言いながら乱馬は傍にあった湯のみを手に取った。そして、少し残った薬湯を取り出した布へと染み込ませた。
「何やってるの?」
「いんや・・・。別に・・・。どんな成分使われてるか、知り合いの薬師に見せてやらあ・・・。」
 と笑った。
「たく・・・。らしくねえな。おめえが臥せってるなんてよ・・・。俺はまた恋煩いか何かと思ったぜ。」
 軽い口調で言った。
「恋煩いかあ・・・。あたし、自分の気持ちが良くわからなくなって。ちょっとこのところ変なの。体調の不調も多分そのせいね・・・。」
 あかねは熱っぽい目でそう答えた。その答えに乱馬の肩がびくんと動いた。
「お、おめえ・・・。す、好きな奴でもできたのか?」
 珍しく真剣な目をしながら乱馬が覗き込んで尋ねた。
「・・・。それも良くわからない。でも、もしかしたら好きなのかもしれないわ・・・。その人のこと。」
「あ、相手は誰だ?九能皇子とか。」
「それは絶対ないっ!!」
 冗談はやめてと云わんばかりに首を横に振る。
「乱馬、やきもち妬かないでね・・・。」
「はっ!何で俺がやきもちなんか・・・。第一俺は女だし。そだろ?」
「何剥きになってるのかしら。」
 ちょっと乱馬を煽った後であかねはぼっそりと吐き出した。

「早乙女の君・・・。」

 ぽつんと息と共に漏れる言葉。
 乱馬の動きが一瞬止まった。お下げがゆらっと一瞬動いた。

「そっか・・・。」

 安堵のような溜息のような言葉を吐き出した。

「よく分からない。早乙女の君のことを考え出すと、心が騒ぐの。無性に不安に掻き立てられる。」
「・・・・・・。」
「この前まではこんな気持ちなかった・・・。なのに、何故か今は・・・。時めきで胸が潰れそう。でも辛いの・・・。」
「辛い?何でだ?」
 乱馬は不思議そうにあかねを見返した。
「かの君の周りはいつも女官たちが群がって、近寄る隙なんてないわ。ましてや自分から文を出す勇気なんて有りはしないもの・・・。だからいつも遠巻きで見ているだけよ。それだけ・・・。」
 あかね姫は乱馬を見て微笑んだ。
「でも・・・。」
「でも?」
「いい。同じ空間に居られるだけで。・・・。こんな気持ちはじめてなの・・・。人に打ち明けるのも。だって・・・。乱馬にも責任の一端があるのよ。」
「責任だって?」
「乱馬が変なこと言うから・・・。あたし、だんだん意識してきちゃったんだもの。叶わない恋って分かってるわ。」
 寂しげにあかね姫は笑った。
「なあ。あかね姫・・・。」
 乱馬は身を乗り出してぎゅっとあかねの手を握った。
「乱馬?」
 急に差し出された両手にあかね姫は目を丸くして見返していた。
「もし、もしもだ、俺がその・・・。」
 そう言いかけて乱馬は言葉をつぐんだ。
「乱馬?」
「しっ!誰か来る。」
 人目を忍んで時々話しに来る彼女。誰にも見咎められてはならないのだ。
「またなっ!あかねっ!!」
 慌てて手を放すと次の瞬間にはダッと天井へと消えていった。
「姫さま?人の声がしたようですが・・・。」
 お婆がひょいっと顔を覗かせた。
「いえ・・・。寝ぼけておりました。独りごとをぼそぼそと私があの朧月に向かって話していただけです・・・。」
 あかね姫は襖越しに見える朧月を見上げた。

(乱馬・・・。あの瞳の輝き。あの日の早乙女の君に似ていた・・・。九能皇子に手篭めにされそうになって逃げた牛車に乗る前の・・・。何故?どうして重なるの・・・。)

 あかね姫は彼女が去った方角を眺めながらまた一つ溜息を洩らせた。


三、

「畜生っ!奴ら、許せねえっ!あかねにまで手を下そうとしてやがる・・・。何のために?俺を蹴落とすためにか?俺を呪詛しただけでは気がすまねえのかっ!!」
 乱馬は夢中で夜を駆けた。身体に残るあかねの手の温もりと愛しさと。
 弾けてしまいそうなくらい、怒りが体から込み上げてくる。
 乱馬にはうすうすわかていたのだ。奴らがあかねに毒を盛ったことが。祈祷師八方翁。奴は食わせ者だということも承服していた。
 羅生門を抜けて暫く田んぼを行くと、そこにみすぼらしい蔀がいくつも見え隠れする。其処には都からあぶれ出した人々が日々の暮らしを営んでいる。或る者は身体を病み、或る者は重税から逃れ、或る者は身寄りを失ったそんなはみ出し者たちの居る場所だ。
 門代わりに立てかけられた竹を潜り抜け、彼はその集落へと入っていった。
「お頭っ!おかえりなさいませっ!」
 乱馬の帰りを待つかのようにその荒くれ集団たちはざわめきを上げた。帰って来た棟梁を快く迎える場所だ。
「久しぶりのご帰還で・・・。で、今度はどちらへ?」
「何処の屋敷を襲うので?」
「どこだっていい・・・。そうだな・・・。いつも庶民を虐めている藤枝持長のところでも襲うか・・・。」
「へいっ!でお頭は?」
「俺は今回も抜ける・・・。ちょっとそんな心境じゃねえんだ。」
「今度のお帰りは?」
「分からぬ。怪我が治り次第戻っては来るが・・・。玄馬、早雲!任せたぞ。」
「御意っ!!」
 二つの返事が同時に響いた。
 彼女は安心したようににっこりと笑みを返すとまた姿を消した。
 盗賊集団の女惣領。それが乱馬の持つ顔の一つであった。もう一つ別の顔を持っていたのである。
 いや、本来の姿と言うべきだろうか。
「東風は何処だ?」
 乱馬は傍で武器をならしていた一人に問い掛けた。
「東風殿なら、いつもの井戸の傍らにおられましたよ・・・。」
「そっか・・・。井戸か・・・。」
 乱馬は向きを変えると、井戸端の方へ向かって歩き出した。

「東風っ!」
 乱馬は黙って井戸端で手を動かしている青年に声をかけた。年のころなら三十前後といったところか。乱馬のように長く伸びた髪を後ろにまとめ、みすぼらしい茶褐色の麻衣をつけていた。
「やあ・・・。乱馬の君、帰ったかい・・・。」
 にこにこと振り返った。
「で、どうだった?あかね姫のご容態は。」
 声を落として尋ねてきた。
「あんたの言うとおりだったよ・・・。ほら。」
 と言って差し出したのは禍々しいあの枕元に置かれていた御札だった。
「どら・・・。」
 東風は汚れた手をぱっぱと衣で払ってそれを受け取った。そしてしげしげと眺めた。
「ふふ・・・奴の、八方翁の陰札だな・・・。」
「それと、これだ。」
 乱馬はさっきあかね姫の部屋で染みこませて来た布を差し出した。
 東風はそれをくんくんやったり何やら液体に付けたりして、少しこねくり回した。
「睨んだとおりだな・・・。これは「媚薬」だ。それも幻影草の・・・。」
 東風の顔つきが途端厳しくなった。
「あかね姫は?」
 東風は畳み掛けるように聴いていた。
「一進一退ってところかな。だるそうだった・・・。」
「今日で五日目くらいか・・・。やばいな・・・。」
「やばいって?」
「もしかすると彼女が他に念を入れた男に惹かれ始めていたらぼちぼち症状が出るだろう。勿論、九能皇子へ惹かれ始めてもそれは同じだな・・・。これは強力な念誦と媚薬で構築される一種の陰陽術だ。見ろよっ!」
 ふんっと梵字を結んで東風は念を札へとかけた。

 ボンッ!

 と音がして札から赤い炎が上がった。めらめらと札は音をたてて燃えてゆく。と、書かれた字が一瞬闇へと浮かび上がる。

「す、すげえ・・・。」
 乱馬は目をぱちくりとあけてその様子を見守った。

「このくらい大きな陰の気がここへ篭められているってわけだ。もし、彼女の心が陰陽師からの念を拒んだら・・・。」
 ごくんと乱馬は生唾を飲み込んだ。
「おそらく、そう長くは持つまい・・・。」
「それは死ぬってことか?」
 乱馬はきっと東風を見詰め返した。
「ああ・・・。多分な・・・。」
 ぎゅっと握り締める拳。
「死なせたく無い・・・か。当たり前だな。」
 ちょっと耳を貸せと言う素振りを見せて東風は乱馬を手招いた。
「・・・・・・。」
「ということだ・・・。危険だが、彼女を救うにはそれしかない。」
 東風は手立てを話し終わるとにっと笑った。
「やるか?乱馬・・・。」
 乱馬は当然と云わんばかりに一つ大きく頷いた。
「それしか方法がないのなら・・・。命なんかとっくに捨てた身だからな・・・。俺は・・・。」
「なら、行けっ!丁度明日は新月だ。暗闇に紛れれば、人目は避けられるだろうよ・・・。だがな。八方翁の奴、おまえの気もそろそろ感ずく頃だろうな。俺の結界もそう長くは持つまい。薬餌園は厳戒な警備網が張り巡らされている。こればかりはおまえの手下たちには突破が無理だろうな・・・。おまえ一人で立ち向かわなきゃならない・・・。それでも行くか?」
 東風の問いかけに、乱馬はただ、黙って首を縦に振るだけだった。
「それで、あかね姫を救えるのなら・・・。」
 とだけ手短に言った。
「なら、行けっ!俺は止めないっ!!惚れた姫君を守りたいっていう気がおまえからビンビンに伝わってくるよ・・・。幸運を祈る・・・。そして、取ってきた薬はさっき教えた方法で彼女へ含ませるんだ。いいな・・・。」

 乱馬は立ち上がると、東風を見詰めてにこりと笑った。

「今夜は帰る・・・。少しでも力を貯えておきたいからな・・・。」
「それが宜しいですね・・・。乱馬・・・。いや早乙女の君。」

 東風は乱馬へと言葉をかけた。それには答えずに乱馬は井戸端を後に歩き出した。傍らを闇に紛れて男たちが駆けて行く。今夜の獲物を定めに出かけてゆくのだ。彼らの雄姿を見送ると、乱馬は反対の方向へと一人歩き出した。
 東風以外知ることの無い己の秘密。仲間たちも彼女の本当の姿は知らない。
 星を見上げると、何かを決意するように拳を握り締めた。
 そして、誰も居なくなった闇へと駆け出した。


四、

 彼女は集落を出ると夜陰を駆けて、羅生門を潜った。
 この羅生門は都の南玄関として立てられた大きな門であった。朱雀を守るために設えられた建物だ。
 都は東西と北を山で囲まれているが、この南だけは遥かに淀川を望んで、平野が開けていた。それを守るためにと作られた大きな門であった。が、今ではこの周辺はすっかりと下賎な者の溜まり場と化していた。都から追い出された難民たちが雨露を凌ぐために住み着いたのがそもそもの始まりだったらしいが、訳のわからぬごろつきをはじめ、多種雑多な下賎の者たちが住み着く治外法権的な場になりつつあった。
 乱馬は闇夜に浮かぶその大きな門を横目に見ると、今度は東の方へと足を向ける。そして、外れにある立派な屋敷へと吸い込まれるように消えていった。
 寝静まった大きな屋敷には人の気配は無い。大方みな部屋でまだ夢を見ているのだろう。誰も居ない事を確かめると、彼は部屋へとそっと足を忍ばせた。
「お帰りなさい・・・。」
 傍らで声がした。見ると上品な貴婦人が心配げにこちらを見ていた。長い髪を床まで垂らし、快くそのすす汚れた少女を迎え入れる。そして、手慣れたように、彼女を湯殿へと誘った。
「まだ夜明けまでには暫く時間がございまする。湯に浸られたら、暫く横にならせませ・・・。そのままではお疲れが取れませぬでしょうに・・・。」
 と丁寧に乱馬を出迎えた。
「母上・・・。」
 乱馬はすまなさそうに一礼すると、湯殿へと足を入れた。カポンと音がして、湯気が立ち上がる。
 湯を一浴びすると、摩訶不思議、女の福与かな体から強靭な男の肉体へとみるみる変化を遂げた。
「いつまでこのような不便な身体を引き摺らなければならぬのだ・・・。俺は・・・。」
 苦々しく湯に浸った。
「あかね姫・・・。そなたに本当のことを打ち明けても、それを受け入れてくれるのだろうか・・・。」
 漏れる溜息に湯はぴちゃんと弾けた。
「早乙女の君。着替えはここへ置いておきまする。母はもう一休みいたしますゆえ・・・。また・・・。」
 湯殿の向こうの女性はそう声をかけるとそっとそこを立ち去った。
 母の身分が低いからと宮中では皇位を弾き落とされた。臣下に下った。それはそれでよかった。別に政(まつりごと)などに興味はなかったからだ。だが、その後下された東国領への赴任。ここで異変が起きた。誰かに呪詛されたのだ。そう呪いを穿たれた。
 あの宮殿の陰陽師、八宝翁が妖かしの術を用いたのだ。火がつくような業に身体中を焼き尽くされて気がつけば、不遇な身体になっていたのである。
 八方翁は彼に死を与えようと呪詛(じゅそ)したようであったが、失敗したのだ。たまたま、呪詛されたときに彼と一緒に居た東国の陰陽師、東風の方が少しだけその能力に勝っていたからである。しかし、名陰陽師の東風でも、その呪詛を完全に返すことはできなかった。命は救われたが、大きな副作用が残ってしまった。そう、水と湯で性が入れ替わってしまうという呪いを穿たれてしまったのである。
 悲劇だった。
 もちろん、そのことは東風と彼の母だけの秘密にされた。

「畜生っ!!」

 順風万端に来た人生。だが、その日から運命は変わった。
「東国のために、力を尽くしなされ。そういう天地神の導きでしょう・・・。」
 東風は彼にそう説いた。腐りきった都などもうさっさと捨て去って、今度は東国に理想郷を作ろうというのである。
「優美な貴族の世の中はもうそろそろ終焉を迎えます。これからは武士(もののふ)の時代になりましょう。富める力より武力に秀でるものの勝ち・・・。そんな末世に入ります。」
 東風は穏やかに彼に東征を勧めた。
 そのために組織した武力集団が東国に密かにいくつか世を忍んで存在していた。
 腐りきった都の貴族社会には未練など無かった。この度の帰京もその準備のため。いや、だからと言って彼が世の中の転覆を謀っていたわけではない。
 都を離れて静かに東の国で暮らそうという決意を固めるためにもう一度この地へ戻ってきたのである。
 東風は女と男に自在に代わるその姿を巧みに使えと言った。密かに帰京して試した腕は何時の間にか都中を震撼させる盗人へと噂を広めている。今頃、検非違使たちがその威信をかけて彼女、乱馬を探していることだろう。だが、誰もその所在を掴めないのは、自在に入れ替わる男女のせいだろう。
 彼も得意満面に都での不遇を笑った貴族たちへの復讐を兼ねて暴れまわった。東国に居た頃に覚えた武術は役にたった。その逞しさと精悍さは人知れず、相当な手だれになっていたのである。
 あの日もそうやって入った御所。そこで不覚にも検非違使の一人に弓矢で撃たれた。幸い掠っただけで大事には至らなかったが、逃げ惑う途中でふと入った御所の奥。そこにあかね姫が居たのである。
 その精悍さと優美さから言い寄ってきた女たちと彼女は決定的に一線を画していた。
 傷ついた己を丁重に介抱してくれたあの偽り無き優しさ。その心の美しさに気がつけば夢中になっていた。
 何か事がある度に女に変化して彼女の元へ通ったのは、己の本当の安息場所を見つけたからに他ならなかった。

「あかね姫・・・。俺はそなたを守る。この命など、そなたを守るためになら・・・。たとえ果てても・・・。絶対に八方翁の計略など跳ね返してやる。」

 早乙女の君はそう呟きながら湯から上がった。



つづく



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