巻二、早乙女の君

一、

「姫さま、また朝寝坊でございまするか?」
 お婆はあかね姫を毎朝起こしながらそう苦笑する。乱馬が来た次の日はどうしても寝床が恋しくなる。それが事の道理であった。いつも彼女は眠り香を焚いてくるようで、隣で眠るお婆は香の効き目よろしく、一晩ぐっすりで、いつも、すっきりと目覚めるのが性質が悪かった。
「もうちょっとだけ・・・。ね・・・お婆・・・。」
 あかね姫は情けない声を上げる。
「ダメでございます。今日も宮中で歌会がございます。さっさと起きやって、支度してくださらぬと、婆が困りまする。」
 と容赦ない。
(面倒なんだから・・・。)
 あかね姫はいつも乱馬が帰った翌日は、もう少しまどろんでいたいと願うのであった。そのくらい、彼女との他愛のないお喋りはあかね姫にとって楽しい時間であり、夜が更けることを忘れさせてくれた。
 殆ど己の身の上のこと話さない乱馬であったが、時々話してくれる東国のことは興味深い。
 歌枕に聞く不死の山や東国の荒ぶる野武士たちの話。
 どれを取ってもあかね姫には未知の世界であった。憧れるような目付きでじっと聞き入るのである。
 
 昨夜も乱馬はあかね姫の傍にやって来た。
 そして東国のことをいくつか話してくれたのである。
「乱馬はどのくらい東国に居たの?」
「ああ・・・。二年ほど居たかな・・・。近くまた行かなきゃならねえかも知れねえけど・・・。」
 乱馬は懐かしげに答えるのである。
「どうして?ずっと都に居ればいいのに・・・。」
 あかね姫が大きな目を瞬かせて首を傾げると
「都は嫌いだ・・・。」
 乱馬はぽつんと吐き出すように言った。
「嫌い?」
 あかね姫は彼女の真意がよく飲み込めなくて聞き返した。
「この都大路には人間の欲望がどろどろと渦巻いてる・・・。富める者は貧しきものを踏み台にして生きてるんだ・・・。」
 乱馬の肩は震えていた。
「あかね姫・・・。俺と来ねえか?都なんか捨てちまって・・・。」
 乱馬はゆっくりとあかね姫を振り返りながらそう問いかけた。
「え・・・?」
 あかね姫はどう返答して良いか分からず言葉を止めていた。
 そんなこと可能な筈は無い。どうやってこの世界から抜け出せると言うのか。今更庶子に下るのも出来るものではないだろう。温室に育った姫ならば。
 ましてや見知らぬ東国へ下ることも。夢のような話である。
「ごめん・・・。おめには土台無理なことだったよな。」
 寂しげな瞳があかね姫を捉えた。
(何?)
 何か心に突き刺さるような感覚を覚えた。乱馬の瞳の憂いが己を刺したのである。
「乱馬・・・。」
 
「今日は帰る・・・。またな・・・。」
 そう言うと乱馬は足早に夜陰へと消えていった。

(乱馬・・・。何かあったのかしら・・・。)
 あかね姫はぼんやりと昨夜の彼女のことを思い出していた。
 いつもは時が過ぎるのが勿体無く感じるくらい楽しい時間なのに、昨日は何となく寂しげだった。
 いや、時々感じる彼の憂いた瞳の輝きは何を表しているのだろうか。物言いたげに見詰める瞳に、どきっとさせられるのである。
 その瞳は少女のものではない。凛と透き通るその輝きに何処かで出会ったことがあるような気がしてならなかった。だが、それが何なのか、いや誰の瞳と同じ輝きなのか。あかね姫には思い浮かばなかった。
(あの瞳の輝き・・・。何処かで・・・。)

 ずっと気になりながらも思い出せない。


「さあ、ぼんやりなさいまするな!早く支度をすまされませぬと遅れてしまいますよ。」
 お婆は考え込んでまだ寝ぼけて突っ臥したままのあかね姫にもう一度声を掛けた。


二、

 その日の歌会は桃の木の下。
 季節の変わり目と言ってはこうやって宮殿では華やかなお祭騒ぎが行われる。
 今日の主催者は九能皇子だった。
 通り一遍の歌の競演が繰り広げられる。短冊に次々と連歌されてゆく風雅。名人も凡人もそれぞれ技巧を凝らした歌を作って浅い春の一日を楽しむのである。
 歌会がはねた後、いつものような宴になる。
 軽い食事のこともあるし、本格的な酒宴のこともある。
 相変らず九能皇子は余念なく、あかね姫に何かと言い寄ってくる。この日は酒が入っていたために、いつもよりもしつこくあかね姫に絡んだ。
「そなた・・・。もういい加減に我が申し入れを受けてはいかがかな・・・。」
 赤い顔をしながらあかね姫ににじり寄ってくる。
 いつもはひらりとかわしてしまうあかね姫であったが、この日はなかなかその毒牙から離れられずにいた。九能皇子の母君が傍に侍っていたからである。
「皇女さま・・・。皇子がここまで言っておりまするゆえに、ぼちぼちと色好い返事をしたくださっても宜しいのではあるまいかのう・・・。っほっほっほ。」
 上機嫌である。この気難しい正妃は、兎に角、感情に任せて物を言う、家来たちも、一目置いているのは次の天皇(すめらみこと)の権勢を一身に受ける正妃だからである。後ろ盾もわが国随一の大豪族とあっては、誰も異を唱えられなかったのである。
 あかね姫は困ったものだと適当に口裏を合わせていたのがいけなかったらしい。
 一人去り、二人去り・・・。歌会の宴は夕暮れに近づくとさり気に人々は引き始めた。いつもなら、適当なところであかね姫も下参するのであったが、この日に限ってその機を逸してしまっていた。
 気がつくと、広い部屋に、九能皇子と取り残されるような形になっていた。
 さすがに不味いと思った彼女は姉のなびきが辞したときに一緒に帰ろうとした。
 が、袖をきつく掴まれたまま、九能皇子に呼び止められた。
「まだ、良いではないか・・・。あかね姫。」
 上機嫌で酔っている九能皇子は甘い酒気を浴びせながらあかね姫を堰き止めた。
「いえ・・・。もう陽があんなに傾いてございまする・・・。」
 あかね姫はこの場を擦る抜けようと必死だった。いつもも宴と違う状況に焦りを感じていたのである。
「何なら、今宵はここにて一宿されると良かろう・・・。」

(冗談じゃない!)

 あかね姫は顔こそにこやかであったが、心は憔悴しきっていた。
 ここに泊まるということは、九能皇子と夜を共にすることと同じ意味を持つ。
 この時代、、あらかたは妻問い婚だったので男が女性の家を夜な夜な訪ね歩いていたが、今日は宴があった。ましてやその主催者である九能皇子。
「そうなさいませ・・・。」
 にんまりと笑って九能皇子の母君が席を立った。彼女が是と言えばそれが条理になってしまう。
「いえ・・・。私、所用がござりますれば・・・。」
「先ほど、姫の宮の者へ使いを出したれば、ごゆるりととのご返事でございましたよ。どうぞ、三日三晩、泊まられてごゆっくりなされればよろしかろう・・・。ここを我が家と思うて・・・。」
 やられたと思った。
 そう、始めからお婆と仕組んで己をこの宴に呼び寄せたのではないかと。
 この時代の夫婦の契りは、三日三晩かけて行われる。殿方が女のところに三日三晩通い詰めたところで祝いとなるのである。
「さて、わらわもこれにて・・・。ご機嫌宜しゅうに、皇女さま。」
 そう言うと、正妃は後ろへと下がった。

 不味いっ!圧倒的に不利だ。


「さあ、あかね姫、ちこう・・・。」
 九能皇子がにんまりと笑った。
(今夜は逃がしませぬぞ・・・。)
 声にこそ聞こえなかったが目がそう言いたげに光っている。
 あかね姫は後ずさる。額からにじりでる汗。どうやってこの場をかわそうか。
 そればかりがぐるぐると頭を巡り始めた。
 普段着ならば、たっと駆け出して表へ出られる。が、生憎今日は重い十二単。拷問のようなこの分厚い着物は身体ずっしりとのしかかる。素早い動きなどできるはずがない。近くへ寄ろうものなら最後、捕えられるのは目に見えている。
 このままでは間が持たない。
 そう思ったとき、彼は現れた。

「何奴?」
 九能皇子は気配のした方をきっと顧みた。
「忘れ物を少し。」
 悪びれる風なく、彼は答えた。
 早乙女の君であった。
「無粋だな・・・。おぬしは。」
 九能皇子は早く行けと云わんばかりに吐き捨てた。
「え?」
 早乙女の君は軽々とあかね姫を抱きあげた。十二単を着こんでいたのにである。その重量など物とも思わぬくらい軽々と持ち上げた。
「な・・・?」
 驚いたのはあかね姫の方である。
「早乙女の君、何を血迷うたか?」
 九能皇子が叫んだ。
「迷いなどしてはおらぬ。忘れ物を取りに参りましたと申したでございましょう。先ほど、家まで送りますると姫君とお約束したのでございますから・・・。それを果たしに戻っただけでございます。のう?あかね姫。」
 にこっと笑うその眩しさに思わずあかね姫は頬を染めた。逞しい腕。殿方の腕がこんなにも力強いなどとは、今の今まで意識したこともない。
「誠か?あかね姫?」
 九能皇子は厳しく言い返した。
「ほうれ、先ほどの和歌のやりとりの折に申しておりましたでしょう?早咲き桜を見たいと。だからこうして・・・。」
 早乙女の君は目配せした。適当に申し合わせよとそう黙視していた。
「はい・・・。確かに先ほどの歌合戦の折に、私と・・・。」
「さて・・・。参りましょうか。牛車が待ちくたびれておりまする。」
 早乙女の君は振り返ることも無く、九能皇子の前を堂々とすり抜けてあかね姫を抱いたまま玄関へと消えた。
「あな、口惜しやっ!!」
 地団駄を踏んで悔しがる九能皇子。

『あの早乙女の君、なんとかしなければなりませぬか・・・。それにしても、わらわの申し入れを断るとは・・・。見ておいで、あかね姫。この恨みは必ず・・・。』

 傍で耳を立てていた九能皇子の母君は、ぎゅっと手を握り締めた。あわよくば、このまま息子の思いを遂げさせんとお膳立てしたことが無駄になったのだ。面白いはずがない。
 彼女の頭を陰謀が駆け巡り始めた。


三、

 このままどうなるのか。
 
 あかね姫は一抹の不安を感じながら早乙女の君の腕に抱かれていた。この男、重さを知らぬのかと思えるほど軽々と彼女を持ち上げている。
 十二単。何十キロもあろうかというこの唐衣裳(からぎぬも)を着ているのに、である。
 この男に組み臥されたら、おそらくどんな抵抗もできまい。彼女の心音は波打ち始める。どんな男と添い寝するにしても、無理矢理は嫌だ。そう思った。
 彼は牛車へ乗せると、そこであかね姫を放した。一緒に乗り込むのかと思えば彼はあかねを乗せてしまうと涼やかに言った。
「ここから先は牛車に送らせましょう。都の人々の口は何かと煩いですから・・・。私はこれにて・・・。」
 名代の好色男と噂に高い男なのにである。てっきり、ちゃっかりと一緒にと思っていたあかね姫は返って気が抜けた。
「また、お会いいたしましょう。あかねの君・・・。」
 彼はそう言ってにっこりと微笑むように笑うと、そっと御簾を閉めた。

(何故・・・。彼は、あの場に来て、あたしを庇ってくれたの。それに・・・。何故、牛車へ一緒に乗ろうとしなかったの・・・。)
 それより解せぬのはかの君が己の名前をはっきりと口にしたことだ。「あかねの君」。確かに彼はそう言った。宮中で何度か遠巻きに顔を見てはいたが、直接言葉など交わしたことは無い。なのに、彼は一介の皇女である己を知っていた。
(矢張り、好色な公達なのかしら・・・。)

 あかね姫は理解に苦しんでいた。

 牛車はゆっくりと都大路を南下してあかね君の居へと辿り着いた。そう内裏から遠い場所ではなかったがかれこれ半時ほど経っていた。日はとっぷりと暮れていて、すぐさま燭が灯された。
 
「あれれ、姫さま、帰って来られたのでございますか・・・。」
 お婆が呆れたと云わんばかりに出迎えた。
 あかね姫は牛車を先導していた者に丁寧に礼を尽くすとほっと溜息を吐いた。
「お婆・・・。もし今日と同じことをわらわにしでかしたら今度は暇を出しますからね・・・。」
 という念押しも忘れなかった。
「はて、何のことやら・・・。」
 お婆はとぼけていたが、確信犯に違いない。九能皇子との婚儀はこの家が栄えるためにも絶好の機会には違いなかったからだ。

 その晩、乱馬がひょっこりと現れた。

 あかね姫は彼女の顔を見たとき、得も言われぬ安心感を覚えた。自ずと笑みが零れ落ちる。
 
「どうかしたのか?」
 乱馬は不審そうにあかね姫を覗き込んだ。
「何かあったのか?」
 労わるように聞いてきた。
「ええ・・・。夕方少しばかり怖い思いをしたから・・・。」
 あかね姫は脱力したように答えた。緊張が乱馬の顔を見た途端にほぐれたのだ。
(何だろう・・・。この安堵感。)
 乱馬の瞳には己を癒す力が備わっている。そんな優しさに満ちていた。
「大変だったんだな・・・。で、おめえ・・・、その、好きな奴とかいねえのか?」
 あかね姫の話を一通り黙って聞いていた乱馬が尋ねた。
「好きな人?・・・。考えた事もないわ。だから居ないのね・・・。きっと。」
「そろそろ縁談を決めねえといけねえんだろ?恋したことねえのか?その年まで・・・。」
 乱馬はじっと彼女を見詰めた。
 こくんとうな垂れるあかね。己から恋をするなんていうことは考えた事もなかった。気になる人にも出会ってこなかった。ただ目に入るのは熱い下心を秘めて言い寄る九能皇子のような男だけ。
「おめえの周りにはおめえのこと大事に思ってる奴がたくさん居るんだろ?気がつかないのか・・・。」
「さあ・・・。」
「その早乙女の何某って男だって・・・。」
 そう言うとふっと乱馬は言葉を止めた。
「まさか・・・。稀代の色男が?」
 あかね姫は不思議そうに乱馬を見詰め返した。
「色男か・・・。誰が名付けたんだろうな・・・。本当にそうなのか。誰も知るまいに。」
「乱馬?」
 小言で呟いた乱馬を咎めてあかね姫が聞き返した。
「・・・。なんでもねえよ。でも、きっとそいつもあかね姫のこと想ってるに違いねえ・・・。じゃねえと身体張っておめえを助けたりしねえさ・・・。」
 誤魔化すようにごもごもとは切れ悪く言った。
 あかね姫は黙った。果たして本当にそうなのか。
「この世にはどうしようもない恋愛っていうのもあるけどな・・・。感じる事も大切なときもあるんじゃねえか・・・。」
 そう言いながら寂しそうに笑った。何か歯に衣を着せたような言い様だった。
「さて・・・。俺はこれで帰る。雨降ってきたしな・・・。」
 バラバラと音を立てて流れ出す春の夜の雨。
 乱馬はさっと衣を返すと、いつものように天井へと駆け上がった。


 何故かあかね姫は乱馬の寂しげな横顔が焼きついて離れなかった。
 

(どうして・・・。乱馬の瞳、あんなに柔らかくて優しいんだろう。誰の瞳だろう。同じような輝き、あたしは見たことがある。どこでだかは思い出せないけれど・・・。変ね。彼女は女の子なのに。気になるなんて・・・。)
 初めて乱馬を意識した瞬間だったのかもしれない。

 清とした夜は白み始め、また新しい一日が明ける。



つづく




なんだかなあ・・・「落窪物語」とか「とりかえばや物語」とか影響が出ているかも・・・(笑
とりかえばや物語・・・この骨子を使って一度乱あを書きたいと思う今日この頃。
結構おもしろい話なんで、是非、原文読破してくださいませ・・・。


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