蒐(あかね)


巻一 夜盗の少女「乱馬」

一、

 空風が轟々と音をたてて吹きすさぶ早春の夜更け。
 あかね姫はふと人の気配を感じて目覚めた。

「誰?」

 傍にあった小袿(こうちぎ)を羽織るとそっと寝屋を出た。
 中庭に下りると、まだ明けやらぬ夜は冷え冷えと、天には星がさめざめと照り輝く。
 懐に小刀を忍ばせて、確かに音がした草陰の方へと恐る恐る足を進める。

 あっと思ったとき、草陰から手が伸びた。
「誰かっ!!」
 そう叫ぼうとして、口を塞がれた。
 見ると、少女が一人、そこに蹲(うずくま)っていた。
「悪いな・・・。何もしねえから・・・。その、少しだけここに匿って貰えねえか・・・。」
 少女は静かに耳元でたどたどしく囁いた。
 小袖袴というみすぼらしい男のような井手達。後ろに一くくりにされた髪をなびかせ、泥だらけの顔を覗かせた。恐怖で身体は凍りつきそうになったものの、暫くその少女を見上げた。
「天地神明に誓って何もしねえから・・・。」
 鋭い鷹のような目とは裏腹に声は穏やかに耳元に響いた。
 あかね姫はこくりと頷いた。
 細腕の女ではどうにもならないという恐怖と共に湧き出たのは好奇心。この姫は元来お転婆で好奇心だけは男並に強かった。腕っ節はないが、いざとなれば直ぐ隣で寝ているお婆(ばば)を起こせばいい。そう思った。
「わかりました。さ、こちらへ・・・。」
 大胆だと思ったが、あかね姫は今しがたまで己が臥せっていた寝屋へと彼女を導いた。部屋には微かな香は焚きこめられていて、夜中の闖入者をゆらりと迎え入れた。
 思うに彼女は追われているのだろう。でなければ、こんな宮中の奥深くまで忍んでくる筈がない。夜盗か、それとも物好きな庶民か。
「ありがてえ・・・。頼んだぜ・・・。」
 彼女はそう言うとにっと笑った。

 ややあって、表が俄かに騒がしくなり始めた。
 
 やっとあかね姫に仕える女官たちが起き出して、何事かと耳をそばだてる。あかね姫は行李の奥へ彼を押し込むと、何事もなかったように寝床へと滑り込んだ。
「姫さまっ!」
 お婆がよたよたと顔を出した。
「何事です?」
 あかね姫は涼しい顔をして、燭台を持って現れたお婆に尋ねた。
「先ほど、内裏の方に賊が入りましてな・・・。こちらの方へ逃げてきたと検非違使の者が庭先で大騒ぎしておりまする。」
 皺くちゃにしながらお婆はあかね姫にどうするべきか判断を伺った。
「こちらにはわらわが居るだけです。他に誰もおりませぬ。物音もしませんでした。いや、したかも知れませぬ。犬だと思うておりましたが・・・。」
「犬めでございますか?」
「確かめたわけではないのではっきりとは分かりませぬ・・・。」
「いつでございます?」
 お婆はあかね姫に問うた。
「つい今しがたのこと。そう時もたっておりませぬ。」
「して、その物音はどちらかへと?」
「此方(こなた)じゃ。此方の方へと消えていったように思いましたが・・・。」
 適当に手を指し示した。
「それは、本当でございまするか?」
「わらわが嘘を言ってなんとする。検非違使の者に伝えよ。それが賊かどうかは知りませぬが、物音が此方の方へと消え去りましたと。さあ、用が済んだらさっさと寝屋へ戻られませ。夜明けまでまだ時間がありまする。わらわももう少し眠りたい・・・。」
「わかりましてございます。」
 お婆は姫の言葉を信じたのだろう。一度深くお辞儀して部屋を出て行った。

 ドタドタと渡り廊下を抜けてお婆が行ってしまうと、あたりはまたしんと静まり返る。

「もうし・・・。そこのお方、もう誰も来ませぬ・・・。安心してこちらへ出てまいりなされ・・・。」

 あかね姫はこっそりと行李に向かって声を掛けた。
 ごそっと行李の蓋が開いて、のっそりと隠れていた少女が出てきた。
「助かったぜ・・・。」
 少女はふうっと溜息を吐いた。
「こちらへ・・・。あなた怪我をしておられるのでしょう・・・。」
 あかね姫は少女を自分の傍へと招き寄せた。そして、彼女の薄い絹衣の下の腕をたくし上げた。
「お、おい・・・。」
 少女は焦りながら彼女を見詰めた。
「やはり・・・。刀でもかすったのですね・・・。きちんと手当てせねば、このくらいの傷でも参ってしまうことがあります。」
 傍にあった薬箱へと手を伸ばした。
「何もしないよりは幾分かましでしょう・・・。」
 あかね姫は薬草を取り出すと、それを手慣れたようにしごきながら傷ついた腕に塗ってゆく。
「おめえ・・・。変わった奴だな・・・。」
 少女が不思議そうに見詰めた。
「わらわがですか?」
 あかね姫は手を動かしながら彼に言い返した。
「だって・・・。そうじゃねえか。こんな夜更けに侵入した俺にだぜ、こうやって傷まで手当てまでするなんて・・・。どういう神経してんのかと思ってよ・・・。ましてや、おめえを襲うかもしれねえ相手なんだぜ・・・。俺は。」
 ぎらぎらと目を輝かせながら不思議そうにあかね姫を見返した。
「おまえさまにはわらわは襲えぬ。」
 あかね姫はふっと言葉を洩らした。
「何故そう断言できる?」
「だって、そなたの身体からはそういう下衆な殺気は感じられぬ。それに、傷ついた者は高貴も下賎もありませぬ。分け隔てなく手当てするのが人としての務めでしょう?」
 あかね姫は薬を塗り終えると少女の袖を丁寧に元へと伸ばしてやる。
「気に入ったぜ・・・。俺の名は乱馬。おめえの名は?」
「茜子(せんし)・・・。皆はあかね姫と呼びます。」
「そっか・・・あかね姫か・・・。いい名前だな。ありがとうよ・・・。また、来らあっ!」
 少女はそう言うと、たっと天井へと駆け上がった。なんという身軽さだろう。

「・・・またな。」

 天井で一度そう言うと、旋風と共に、少女は夜陰へと消えた。

「変な子ね・・・。乱馬・・・。男言葉を話す、男のような名前の・・・。」
 あかね姫は少女が去った闇を見詰めてぽそっと言葉を吐いた。

 あかね姫にとって紛れも無くそれは、まさに「運命の出会い」であった。


二、

 翌朝、朝餉(あさげ)の折りにお婆に昨夜のことをいろいろと聞いてみた。
 いったい宮中で何があったのか。昨夜の騒ぎは何だったのか。
「何でも、今、都を横行しておりまする夜盗が宮中へ入り込んだのだそうでございます。」
「夜盗?」
「はい・・・。盗賊団疾風(かぜ)と都では評判の高い夜盗どもでございまして。何でも、狙った獲物は確実に捕えて、あっというまに盗ってしまうというのでございます。その頭の乱馬とかいう若者はそれは、颯爽としていていい男ぶりだそうでございまする。長い髪を靡かせて、ひらひらと舞うが如くの身のこなし。」
 「乱馬」という名前を聞いてあかね姫の心は一瞬ざわついた。今、お婆は「男」と言ったが昨夜出会ったのは「少女」であった。が、そんなことはおくびにも出さず、平然を装いながら言葉を継いだ。
「で、昨日は?その乱馬とかいう男が乱入したのですか?」
「さて・・。藤波の君の部屋へ入って、大陸伝来の翡翠玉を掠め取って行ったそうでございます。頭の乱馬を検非違使の良牙が切りつけたのだそうでございますが、寸でのところで取り逃がしたと大騒ぎになったのだそうでございます。」
「藤波の君といえば・・・。」
「そうでございます。先頃、お父上の右大臣様がお求めになった翡翠玉でございます。」
「そうか・・・。彼女の父君の右大臣が荘園でかなり酷い税取立てをして、手に入れたというあの・・・。」
「滅多なことを申すではございませんっ!姫さま。」
 お婆が咎めた。
「で、その夜盗はそんなものを盗んでどうするのでしょう?」
「巷の噂では、盗んだものを売りさばき、貧しき者どもへと分配するのだそうでございます。」
「私利私欲のために盗るのではないと?」
「ええ・・・。いつも、彼とその仲間は貧しきものへ還元してしまうのだそうで。巷では大変評判が良いのでございます。」
「そう・・・。」
「で、姫さま・・・。」
 こほんと咳払いを一つしてお婆は話題を急に変えた。
「あのう、九能皇子くのうのみこ)さまから和歌を預かっておるのですが・・・。」
「要らぬ・・・。」
 あかね姫は急に冷たい表情になって一言答えた。
「そうは申されても・・・。姫さま。返歌くらいは返しませぬと・・・。」
「私はまだ男には興味がないと言っておろう?それとも、お婆は私があの男と添うて欲しいと思っているの?」
 あかね姫はくるりと背を向けた。返歌を返すということはその男に興味があるということを示すものだ。わざと焦らるような歌を作って相手をもっとその気にさせたり、或いは熱い恋愛が始まることもある。宮中奥深いところに居る女性にとって和歌を貰うことは「求愛」されていることと同じ重きがあることなのである。
 その気がない以上、返歌など返す気にもなれなかった。
「でも、姫さま・・・。」
「まだ、おじいさまの喪も明けぬのに・・・。九能の君は何を考えておられるのか・・・。」
 お婆はふうっと溜息を吐いた。
 あかね姫は今年で十五歳を迎える。十五といえば、この時代、適齢期も適齢期。いや、相手がまだ見つからぬという方が珍しかったのかもしれない。このあかね姫、幼少時からお転婆で鳴らしていた。
 次の天皇の七番目の皇女として、元貴族の女御から生まれた。だが、後ろ盾が物を言う世界。姉君が何人かいたのだが、母には早くに先立たれていた。それだけではない、母の生家は貴族とはいえ正五位下の低い位。正五位といえば、そこまでが所謂貴族と並び称されるぎりぎりのライン上。
 何に置いても生家の身分が物を言う。そんな貴族社会の中にポツネンと育ったのだ。
 皇女という身分でも、母の身分次第で決してそれに胡座をかけない、それが彼女たち皇族の理であった。母親の実家が後ろ盾になるのである。
 あかね姫の父にはたくさんの女御や夫人が居た。正妃は今を時めく藤枝氏の血を引く后から生まれた皇女だった。通称を墨染(すみぞめ)の君と言った。彼女は気性が激しく、政略にも長けていて、願いは唯一つ、己の嫡男、九能皇子の天皇即位にあった。そのためならいくら手を汚しても構わない。そういったタイプの人間であった。

 年頃になったあかね姫の元に、ぼちぼちと和歌が届くようになったのは最近のことであろうか。
 倍以上もあろうかという親父や同じ年頃の皇子まで。彼女の黒髪は翠なし、また、その気丈さも学の高さも、人並み以上で、宮中に咲いた一輪の可憐な花であるには違いなかった。
 彼女に言い寄る一人、異母兄の九能皇子は母や祖父の権力を傘に被り、かなりの傍若無人ぶりを極めている。あかね姫自身は好意を持つというより、「嫌悪」を抱いていた。己の意思などままならぬ世界ということをあかね姫はまだ理解するには心が幼すぎたのである。
 この時代、異母兄弟であれば、結婚の対象になった。
 特に天皇家はその性格上、古代から血族の濃さを誇った一族であった。
 だから、九能皇子があかね姫に求愛するのも特に問題はなかったのである。

 もうすぐ、祖父の前天皇の喪が明ける。
 そして、新しく即位するのはあかね姫の父でもあり、九能の父でもある東の宮であった。

(乱馬・・・。面白い盗人であった・・・。また、会おうと帰って行ったが、また会えるかどうか・・・。)

 あかね姫は汁椀を片手にほうっと溜め息を吐いた。


三、

 宮中の生活はただ、だらりんと毎日が優雅に過ぎてゆく。
 もうすぐ木の芽が吹く。春が近い。
 まだ、朝方は冷え込みが厳しく、霜がうっすらと地面に降りてはいるが、もうそこにまで暖かい季節はやって来ている。
 宮中もまた、春の息吹を感じ、自然と浮き足立ちはじめていた。。

「姫さま、はよう支度なされませ。」
 お婆が慌ただしく姫を焚き付ける。
 今日は月初めの歌会が催される。歌合戦を競うのだ。
「まだ、蒲団にもぐっていたいのに・・・。」
 あかね姫はふうっと溜息を吐く。白い息が天井へ向かって立ち昇るのが見えた。
「ああ・・・。十二単など、面倒なだけ・・・着とうない。」
 あかね姫は独りごちた。
 貴婦人の正装といえば、十二単。色鮮やかな着物を羽織るのである。あかね姫はこれを着るのが一番苦手であった。兎に角、重いのである。相当な重量がずっしりと身体にのしかかってくる。動きも緩慢にならざるを得ない。それが一番辛いのであった。
 彼女は平安期の女性としては珍しく、武芸にも少しだけ秀でていた。弓矢を番え、男勝りに糸を引く。また、長い槍を振るわせれば、その辺りのへなちょこ貴族らには負けなかった。宮中を守る検非違使隊長の良牙が目を回すほど、腕が立った。
「あかね姫は男に生まれてくれば良かったのに。」
 直ぐ上のなびきの姉君はいつも彼女を見てそう言ったほどだ。
 あかね姫もそう思っていた。退屈な深窓の女よりも、もっと自由に浮世を生きたいと、常に思い描く乙女でもあった。
「わがまま申されても、今日はダメでございまするよ。お婆の言う事を聞いていただきます。」
 お婆はあかね姫をぐっと睨みつけた。
 お婆に怖い顔をされれば、それ以上逆らえず、あかね姫は大人しく支度に身を任せた。高貴な人々は、決してその着替えも自分の手では行わなかった。帯紐が何本も身体に巻きつけられ、何重にも衣が重ねられた。
「良くお似合いでございますよ。」
 お婆は仕上がったあかね姫を見て目を細めた。
「後は、黒髪を美しく整えましたら、どんな男君も姫に目を惹かれまする。」
 本当のところはそれが一番厄介だとあかね姫は思っていた。
 月日を重ねる毎に、男たちからの求愛の文は増える一方であった。
 長い髪を丁寧にすかれ、美しく整えられる。この時代、貴族といえども、風呂に入るということは滅多になかったから、髪もどことなくべっとりとしていた。が、あかね姫の髪は、さらさらと流れるように長く床まで届く。
 美人の条件の中に、長く美しい黒髪が入っていた時代である。他にも、色が白く、また決して無闇に人前に顔をさらさないのが乙女の条件でもあった。人々は深窓に育てられた姫君を想像し、見切りで求愛することもあったくらいである。決して日の光の元へ自由に立ち回れるものでもなかったのである。
 こんな生活を強いられるようになって数年が過ぎた。
 実際あかね姫はいい加減辟易していた。
 子供の頃はあんなに身近だった太陽が、こんなにも眩しく感じられるとは。
 外の息吹を感じる度に、あかね姫は日の光を見上げた。だが、それもままならないことが多い。外出は決まって牛車。御簾の内からしか町並みも見えない。
 あかねはこの前迷い込んできた乱馬が羨ましく思えた。あの少女にとって日の光はきっと、当たり前の奔放な暮らしをしているのだろう。今日もこの太陽の中を奔放に闊歩しているのだろうか。

 春うららかな淡き太陽。

 久しぶりの参内だ。
 御所の木々も神々しく輝いている。
 実際、歌会は退屈だった。歌も教養の一つとして、巧みな者は持てはやされたが、皆一様に天上人を上げへつらう歌ばかりを詠みたがる。そして、ご褒美を戴いてホクホク顔だ。そんな臣下たちのいやらしさを見るのにも辟易しているあかね姫であった。
 適当に春の目出度さを筆にしたため、あかね姫は他の姫たちと共に、ぽつんと座っていた。
 歌の巧みさよりも外の景色の方があかね姫には興味深く楽しげに見えた。鳥たちはしきりにさえずり、愛を交歓し、移り来る暖かい季節の到来を待ち望む。
 と、ざわっと近くに侍る姫たちが色めき立った。
 何事かと彼女たちの姦しい視線の先を見た。
 其処には、凛々しき公達が一人、涼やかに入ってきた。

「誰?」
「早乙女の君よ。」
「へえ・・・。あれが噂の光る君。」
「いい男ぶり・・・。」
「いつ任地からお帰りになったの?」
「さあ、つい最近ってお聞きしましたけれど・・・。」

 こそこそと囁きあう宮中の姫皇女たちの声をあかね姫はぼんやりと聞いていた。
 
「相変らずね・・・。あんたは男に興味がないの?」
 同母姉のなびき姫があかね姫に言った。
「何がですの?お姉さま。」
 あかね姫は何を言われたか分からずに姉をきょとんと見返した。
「あの人よ・・・。今入って来た公達。」
 なびき姫はこそっと耳打ちした。
「あの人が何か?」
 あかね姫はますます分からないという顔を姉君に向けた。
「光る君よ。噂くらい聞いたことあるでしょうに。」
「光る君?ああ・・・。稀代の色男って噂の。で、あの方が光る君なの?特に輝いていらっしゃる様子もありませぬが、姉君。」
 あかねは不思議そうに姉に尋ねた。
「たく・・・。これだからあかね姫は・・・。昨年、臣下に下って早乙女氏を戴いた元皇子よ。彼は・・・。今、人気絶頂の美男子なんだから。彼の心を誰が射止めるかって、そりゃあ、皆興味津々なのよ。」
「あたしは興味なんてないわ。」
「そっか・・・。興味もないか。あかね姫らしいわね・・・。」 
 なびき姫は苦笑した。
 と、熱い視線と共に、早乙女の君が傍を通った。
 悠々と歩くその様に、女たちは一斉に色めき立つ。あかね姫はうざったいものを見るような目で彼を見上げた。
 早乙女の君はあかね姫の前を通る時、にっこりと微笑んだ。
(え?何?)
 あかね姫は彼の視線の柔らかさに一瞬、ドキッと心音が鳴った。
「あらあら、光る君があかね姫を見て微笑みかけたわ。ひょっとして、あんたに興味持ったのかもしれないわよ・・・。」
 姉は目配せしながらあかね姫に話し掛けてきた。
「関係ないわよ・・・。」
「そお?言い寄られたらどうするつもり?」
「有り得ないわっ!!」
 あかね姫はうんざりした表情で姉を見返した。

(たく、あんな優男(やさおとこ)のどこが良いっていうのよ・・・。)

 あかね姫は過ぎ去る彼の後姿を睨みながらそう心へ吐き出した。
 その日は無事に一日が過ぎ去った。
 何人かの男たちは相変らず、あかね姫に言い寄ってきたのだが、いつものように適当に愛想を振り撒いて適当にあしらった。
 早乙女の君の周りには女御たちが殺到したようだが、あかね姫とは一言も言葉を交わすこともなく、歌会は終わったのである。


四、

 その夜、乱馬がひょっこりとあかね姫の寝屋に現れた。
 それも、誰もが眠る丑三つ時に。
 
「誰?」
 
 あかねは前と同じように気配を感じて先に目覚めた。

「勘がいいな・・・。おめえ・・・。」
「そなたは・・・。」
「乱馬だよ。久しぶりだな、お姫様。」
 簾の外からこっそりと声がする。
「まあ、大胆ね・・・。誰にも咎められなかったの?」
 あかね姫は驚きながら彼女に問い掛けた。勿論、簾の向こう側へはいかなでそのまま蒲団の中でだ。
「皆、よく眠っちまってる・・・。」
「で・・・。今度は何の用なの?」
「別に・・・。特に用はねえよ。ちょこっとおめえの顔を拝みたくなって・・・。立ち寄ったのさ・・・。」
 あかね姫は警戒しながら声を掛ける。
「何か用があるから来るんじゃないの?何か盗みに来たとか・・・。」
 けらっとあかね姫は笑った。
「けっ!俺は姫が思うような下衆な盗人じゃねえよ・・・安心しな。何も盗らねえから。」
「そんなこと言われても・・・。こんな夜更けに・・・。」
 あかね姫は物言いとは裏腹に少しわくわくしていた。
「話に来ただけだよ・・・。こっからそっちへは行かねえから安心しな。約束するよ。」
「わかった、信用してあげましょう・・・。で?」
「今日は傷が癒えたからお礼に来たんだ、ほらよっ!」
 乱馬は何かをあかね姫に向かって投げた。
 ドサンと何かが投げ込まれた音がする。
「ちょっと・・・。そんな物音立てたら・・・。」
 あかね姫は小声でそれを咎めた。
「大丈夫。隣で寝ている婆さんなら気にすんなよ・・・。眠り香焚いといてやったから、朝までぐっすりさ。」
「そなた、やはり・・・。」
「けっ!疑い深い姫様だなあ。何にもしねえって。折角のお喋りに邪魔が入ったらいやじぇねえか。」
 とにっと笑う。
「それよか、それ・・・。」
 あかね姫は半信半疑な素振でこそりと蒲団から上半身を出して、投げ入れられた物を手に取った。
「これは?」
 月明かりの中、翳してみれば、草を束ねられたものに見えた。
「薬草だよ。この前の薬、よく効いたぜ。ありがとよ・・・。傷口も膿まずに綺麗に治った。で、お礼代わりに持ってきた。」
「あまり見たことがないわね・・・。何の草かしら・・・。野草ね。」
 手にとってじっと眺めてみる。
「結構そこここの山に入れば自生してるんだがな・・・。おめえと同じ名前の草だよ。」
「同じ名前の?」
「ああ・・・。あかね草って奴だよ。」
「あかね草・・・。」
「茜色ってあるだろ?」
「あの、夕陽と同じ色の?」
「ああ、あれに染める草でもあるんだぜ・・・。」
「え?」
 あかねはまざまざと手にした草を見た。暗がりで良く色は見えなかったが、何処から見ても普通の緑の草っぽい。
「染料ったって、花や茎を使って染めるんじゃねえよ。そいつの根っこを使って染めるんだ。見事な茜色に。」
「へえ・・・。知らなかったな。根っこを使って茜色に染めるなんて・・・。」
「おめえ、あかねってどんな風に漢字に書くか知ってるか?」
 乱馬はにっと笑ってあかね姫を見返した。人懐っこい目をしている。
「まあ、失礼ね。そのくらいわかるわよ。草冠に西って。自分の名前ですもの・・・。茜色。西に沈みし夕陽の色ですもの。」
「まあ、半分は正解だな。でも、もう一個字があるんだぜ・・・。」
「え?」
「草冠に鬼。これもあかねと読める。」
「草冠に鬼?」
 指でなぞってみた。「蒐」。
「ああ・・・。このあかね草ってやつは、鬼や人の血の上に生えるって言われてるんだ。だから根っこから赤い顔料が取れるって・・・。」
 勿論、あかねには初めて聞くことだった。
「へえ・・・。乱馬、漢字書いたり読めたりできるの?」
 あかね姫は興味津々に尋ねた。当たり前だ。漢字を読み書きできるのはごく限られた身分の者たちである。あかねとてすらすら読み書きできるものではなかった。漢字は男のものであり、ほんの一部の特権者たちだけが使う文字であった。あかね姫とてそうたくさんの漢字を読み書きできる訳ではなかった。こんな夜盗の少女ごときが扱えるものではないからだ。
「あ、聞いただけだよ。お、俺が書けるわけねえだろ・・・。」
 何故か上擦りながらぼそぼそ歯切れ悪く乱馬は答えた。
「ま、そんなところね・・・。」
 あかね姫はくすっと笑った。
 こんな和やかな気分になったのは久しぶりだ。
「でも失礼ね・・・。あたしの名前の元になった草に鬼の字を当てるなんて・・・。」
「そうでもねえと思うけどな・・・。」
 二人は示し合わすように笑った。
「俺、あかねって名前好きだ。」
 乱馬はボソボソッと口元で呟くように言った。
「ありがとう・・・。乱馬。」
 あかね姫はにっこりと微笑んだ。乱馬には月明かりに照らされてその微笑みは輝いて見えた。
「それからこれ・・・。」
 そう言って差し出したのは赤く輝く美しい石だった。
「これは?」
「只の石だ。今は暗いからわからねえだろうが、血の色してるんだぜ。茜色、おめえの色だ・・・。あ、言っとくが盗んだものじゃねえ。拾ったもんだ。安心しな。」
 そう言って悪びれずに笑う。
「綺麗・・・。」
 あかね姫は月明かりに照らされて不思議ね色に輝くその小さな碁石ほどの小石をかざして喜んだ。

「じゃ、俺ぼちぼち行くよ・・・。なあ、また、覗きに来ていいか?あ・・・。勿論、こっからそっちへは入る気なんてねえからよ・・・。お姫様・・・。」
 はにかむように尋ねてきた。
「いいわよ・・・。別にこっちへ入ってくれたって・・・。あたしに何もしないって約束してくれるなら。」
 あかね姫は明るく答えた。
「また来てくれる?」
 と付け加えるのも忘れなかった。
「ああ、きっとまた来る。」
「約束よ・・・。」
 二人はこっくりと頷き合った。
「じゃまたな・・・。」
 そう乱馬は言い置くとまた、たっと天井の闇へと消えた。

(不思議な子ね・・・。)
 あかね姫は彼女が消えた方を向いてふうっと溜息を吐いた。
 何故だろう、彼女が来るとほっと安心したようなそんな気持ちになった。中性っぽい魅力というのだろうか。ただの少女ではないことは何となく察しがついた。
 あかね草をぎゅっと握り締めてあかねはふうっと溜息を吐いた。


 それから時々乱馬は時々あかね姫の部屋へ忍んでくるようになった。 
 相変らず唐突にやってきて、また、ぱっと帰ってゆく。そんな現れ方だった。
 あかね姫もまた、長い夜の話相手として、彼女が来るのを待ち侘びるようになっていった。



つづく




東の宮
次の日が昇る方角ということから、皇太子のことを「東の宮」と表現することがあります。
今でも皇太子さまの館は「東宮御所」と呼び習わすのもその名残。


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