最終話  君よ知るや南の楽園



 俺は暗がりの沖合いで、静かにそいつと対峙した。
 
 あかねは俺の後ろで確かに言った。あいつは「海竜」だと。
 
 「海竜」とは、この島原を守っている海の神だ。少なくとも昔話にはそう伝えられてきた。数多(あまた)居る綿津見の神の一頭。
 その姿は大きく、人間など一飲みにできるという。長い身体を持ち、たくさんの魚のウロコと輝く赤い瞳と。想像上の生き物でしかないと思っていた。
 本当に、こいつが「海竜」が変化した奴なのか。
 だったら、何故、俺の前に、それも二度も姿を現したのだろうか。

 だが、今の俺にはじっくりと考察を巡らせる時間はなかった。
 奴が言うとおり、闘いながらこの渦を越え、新しい世界へ飛び出せるか、それとも、この海の藻屑へと消え行くのか。二者択一。どちらかに一つだ。
 いずれにせよ、後悔だけはしたくはない。
 俺はあかねを守る。そして、こいつと永遠の愛を誓い合いたい。
 明日の太陽をこいつと一緒に仰ぎ見るんだ。

 決戦の時は訪れた。

 俺たちの進んできた方角には、この結末を見届けようと、巫女たちがひしめき合う。

「あかね…。これをおまえに託す。」
 俺は静かに持っていた櫓をあかねに手向けた。
 あかねは黙って頷きながらそれを受け取る。
 俺は目の前の男と闘わなければならない。こいつが本当に海竜ならば、二人がかりでも倒せないかもしれない。
 いや、二人で闘え。そう言いたげに奴は俺たちを見比べる。
 だが、あかねは巫女だ。いくら腕っ節や気位が高くても、こんな未知数な奴と闘わせるわけにはいかねえ。それは俺の役割だ。
 だとしたら、あと、彼女に託すのはただ一つ。目の前に待ち受ける「死の領海」へ漕ぎ出だすこと。カヌーが横転しないように櫓を預けるということだ。彼女が漕ぎ、そして俺が奴と直接剣を交える。
 このコンビネーションが、最良だと俺は判断したのだ。
 
「あかね…。落ち着いて行けよ。俺は、絶対、奴からおまえを守りきってやる。」

 自分自身に言い聞かせながら、俺は静かに腰から太刀を引き抜いた。親父が俺に託した一振りの刀剣だ。
 その剣は待っていたと言わんばかりに、俺の手に馴染んだ。
「ほお、なかなか良い剣を持っているではないか。」
 海竜は俺を見てにっと笑った。
 静かに向き合う二艘のカヌー。そして二人の男。

 先に動いたのは奴のほうだった。
 かっと飛び掛り際に、俺目掛けて櫓を繰り出してきた。

「おっと!」
 俺はひょいっとその櫓を避けた。
 ぴしっと音がして、髪の毛が少量、後ろに切れ飛んだ。
「何っ?」
 櫓の先が光って見えた。いや、彼が持って攻撃してきたのは櫓ではなかったのだ。そう、それはモリだった。
 ひゅっひゅっと奴は連続してモリを突き出してくる。早い。
 そのとき身体が大きく揺れた。
 あかねが櫓を漕ぎ始めたのだ。俺は慌てて腰を低く落とし、バランスを取った。
 あかねの力は、半端ではなかった。か細いからだのどこにこれだけのパワーが眠っていたのだろう。女はなかなか櫓を使いこなせないというが、さすがにこいつも海の民の巫女として修行を積んだだけはある。
「えいっ!えいっ!えいっ!えいっ!」
 リズムを取るためだろうか。あかねは掛け声をかけながら、櫓を懸命に動かし始めた。すうっと動き出すカヌー。

「逃がさんっ!」

 その後ろから奴がモリを突き立てると、これまた俺たちを追い始めた。そう、彼のモリは櫓になるように細工されているようだった。いや、自在変化にその棒切れが変化しているのかもしれねえ。

 時折俺は、繰り出される奴のモリを剣で必死に応酬して耐えた。

 だんだんとカヌーの揺れは激しくなり始めた。
 どうやら、渦の近くに来ているらしい。潮の流れが急に早くなる。俺はバランスを取りながら、必死で追ってくる奴を牽制する。
 奴は潮の流れに苦戦して櫓を立てるあかねをあざ笑うように余裕だ。ぴたりと俺たちの後ろについて来る。そして思い出したように突き上げてくる武器。
 必死でそれを薙ぎ払った。バランスを保ちながら剣を振りかざし、モリの切っ先を交わすのだ。
 キン、キンと金属のぶつかる音がする。ぱっと火花が散ったように見える。
 奴は俺たちを渦巻く潮の中へと誘い込んでいった。

 ぐらっ!
 と、カヌーが渦にすくわれて大きく揺らいだ。
 一瞬だったが俺に隙が出来てしまった。

 はっと思った瞬間だった。
 奴はモリをすいっと伸ばして来た。俺の方ではなく、あかねの方を急襲する。

「しまったっ!!」

 思ったときは既に遅い。

「きゃっ!!」

 あかねの櫓がすくい上げられて、弾け飛んだ。

「そらっ、これでどうだっ!!」
 奴の声が直ぐ後ろでした。再び飛び掛ってきたモリは、あかねの身体を横へと薙ぎ倒していた。

「あかねーっ!!」

 そう叫んだ時には、あかねの身体は弧を描いて、海中へと投げ出されていた。

「乱馬あーっ!!」
 あかねの絶唱が聞こえた。

「ふふ、今度はおまえの番だっ!!」

 奴は再び大きくモリを振りかざしてきた。
 ぐっと前のめりになって、おれはその棒へとつかみ掛かった。
 こうしてはいられない。あかねの姿が波間に消えてゆく。

「ぐっ!でやああああーっ!!」
 俺は渾身の力を込めて、奴から差し出されたモリを奪い取るそれから俺は、奴に反撃を加えることなく、すぐさま海へと飛び込んだ。
 おそらく、そのまま取って返して奴を強襲すれば、或いはその時点で勝敗はついていたかもしれない。
 だが、俺はそうしなかった。奴との勝負よりも、もっと大切なものにこだわったのだ。
 奴のことには眼もくれず、ただひたすらに海へと飛び込んだ。ざんぶと頭の先から水飛沫が上がる。

「あかねーっ!!」

 目をしっかりと開けて海底へ沈んでゆく彼女の姿を追った。
 そう、奴との勝負など、もうどうでもよかったのだ。俺は、あかねを見失うことの方が恐ろしかった。
 あかねの身体はずんずんと下へと沈んで行く。
 そうだ。足枷が化されたままの彼女では、恐らく、自力で浮上することができまい。俺が助けてやらないと、このまま彼女は二度と浮上できないのだ。

「あかねーっ!!」

 俺は懸命に追いすがった。
 再びこの腕にあかねを収めるために。
 思い切り手を伸ばし、沈み行く彼女の体をがしっと掴み取った。
「あかね…。」
 俺は最後の力を振り絞ってあかねを抱え込んだ。
「あかね…。俺は絶対におまえを離さない。」
 息が続かなくなった俺は、あかねを抱えたまま、海中へと一緒に沈んでゆく。いや、正確には渦に引き込まれていったのだ。だが、絶対俺はあかねを離さなかった。

『何故、おまえはを勝ちを投げ出した?』

 上から声が響いてきた。

「そんなこと、簡単だ。あのまま決着をつけて勝ったとしても、あかねを失っちまえば全ては無だ。」

『何故おまえは、その若巫女にこだわる?そんなに若巫女がいいのか?』

「俺は…。若巫女だからあかねにこだわってるんじゃねえ…。あかねはあかねだからこだわるんだ。それに、俺は約束した。ずっと傍であかねを守ると。だから、このまま一緒に海の藻屑に消えようとも、この手は離しはしない。あかねは俺の…かけがえのない存在なんだ。」

『そこまでしておまえは、愛する者を守ろうとするのか。よかろう。おまえの力、最後まで見せてもらおう。』

 そんな声がすぐ傍から響いてきたような気がする。
 
 そうだ、俺はあかねを守りたい。

 そう思ったとき、尽きかけていた俺の体の中の闘志が満ち溢れてきた。ぎゅっとあかねを抱く手に力をこめ、閉じかけていた目をくわっと見開いた。
「俺は生きるんだ。こいつと共に。」
 そのまま俺は全身全霊に力をたぎらせた。俺の体のどこに、そんな底力が眠っていたのだろうか。体内に込みあがってきた気を俺は一気に爆発させる。
 がぼっと泡の立つ音がして、俺の体は海面へと競りあがる。それから俺は波間に揺れていたカヌーを手繰り、ぐったりとしているあかねと共に、その上に身を投げ出した。
 はあはあと荒い息が俺を包み込む。
「あかね…。」
 俺は腕に抱えたあかねをそのまますっぽりと包み込んだ。
「誰が何と言おうとも、俺は、俺はおまえを守る。」
 俺は荒い吐息を吐きながら、あかねの額にそっと口付ける。それから、彼女を抱え込んだまま、再び剣を取った。
 そして、正面からじっとこちらを見据えていた奴と再び対峙した。
 いつでも来いと言わんばかりに、「海竜」の野郎を見据えた。

 ふっと奴が泥むように笑った。

「何が可笑しい?」
 俺はまだ荒い息を弾ませながら奴を睨み据えた。

「よかろう…。おまえたちの描く「明日」とやらを俺は見てみたくなった。」

 それから奴は持っていたモリを俺たちの頭の向こう側にさっと差し出した。

「え?」

 彼の持っていたモリの切っ先から、稲妻が走った。と、海原が一気に開けた。暗い海の中に現れた一筋の光の道。

「行け。海竜の命を受けし若者たちよ。その手で新しい世界と秩序を生み出すが良い。」

 それは現実の声だったのか、それとも、ただの幻聴に過ぎなかったのか。俺たちの身体は、眩いばかりの大きな光に包まれていった。

 水の打ち寄せる音が微かに聞こえる。ゆりかごに乗ったような心地よい振動。

 次に俺たちが目覚めた時は、夜の闇がすっかりと明け白んでいた。差し込んでくる真新しい太陽の光。大海原に投げ出されたように、小さなカヌーの上に二人。折り重なるように倒れこんでいた。
 あの闘いは夢だったのか。それとも、幻だったのか。
 俺はあかねを守るように抱いていた。傍に、柔らかく温かいあかねの肌があることを確認して、俺はほっと安堵の溜息を吐き出した。

 ふっと起き上がった俺の目の中に飛び込んできたのは、青い島垣だった。
「陸(おか)だ…。」
 遥かにそれを望みながら俺は言葉を発した。
「陸(おか)…。」
 いつのまに目覚めたのだろうか、俺の腕の中であかねがそう反芻した。

 目の前に広がるのは、見たことがない陸地。もしかすると海竜が俺たちに宛がった新天地なのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
 俺たちは小さなカヌーの中で、抱き合わんばかりに喜び合った。今、生きているということ。生きて新しい朝に真新しい陸を見出したことに。
 俺の首から下げられていた、血晶石が、朝日の輝きを受けながら、美しく光り輝いていた。海竜の血の血肉が固まってできたという玉石。
 いつの間にかあかねを縛り付けていた足枷も取れていた。自然に外れるような代物ではなかった。
 きっと海竜の奴が外してくれたに違いない。そう思わずにはいられなかった。

 二人手を取り合い、新天地へと漕ぎ出した。
 人の手がまだ入ったことがない別天地。勿論、家もない、畑もない。何もない生活が始まろうとしている。
 だが、俺たちは喜び勇んでそこを目指した。
さあ、カヌーを下りて、できることから始めよう。最初は小さな一歩でも、いつか大きく実を結ぶだろう。
 自然は厳しいだろうが、これからは二人いつまでも一緒だ。やがて俺たちの子孫がここへ集い、そして繁栄してゆく。そんな情光景が瞼に浮かぶ。
 ここは俺たちの開く新しい「楽園」。誰も知らない俺たちだけの南の楽園。
 


「なあ、あかね…。これからはいつまでも一緒だ。もう、若巫女じゃねえ。おまえは…。」
「そうね…。これからもずっと傍に居て、あたしを守ってね、乱馬…。」
「ああ、約束だからな。」

 腕に抱きしめるあかねの柔らかい身体。
 すぐ傍にかかる息吹。それを包み込める幸せ。

「あかね。」
 






「あかね…。」
 俺は、朝の息吹の中に感じる彼女の柔らかい身体をそっと抱きしめる。今日も目覚めたら彼女と交わそう、甘いキスを…。

「ちょっと!何すんのよっ!いきなりーっ!!」
 バシっと飛んできたビンタ。その衝撃ではっと目が開く。
「あかね…。」
 寝ぼけ眼で俺は怒りん坊の顔を見上げた。
「だから、なかなか目覚めないから起こしに来て上げたのに。何よっ!いきなり抱きついてきて。」
 真っ赤に熟れた顔が目の前で揺れた。

「あれ…。南海の孤島は?俺たちの楽園は?」

「ちょっと!いい加減にしないと、怒るわよっ!!」

 きょとんと見上げる。
「あれ…。ここ天道家じゃねーよな。」
 見慣れた風景ではない。畳の部屋も襖も障子もない。丸太がむき出した気の匂いのする建物の中。
「たくうっ!本当に寝ぼけてるのね。ここはロッジよ。昨日からお父さんたちやお姉ちゃんたちと、皆で海水浴ついでにリゾート地へ来たんじゃないの。もうっ!忘れちゃったのぉ?」
「リゾート、海水浴、ロッジ…皆…。」
 回らない頭で記憶を辿る。

「あ、そっか…。」

 ポンと叩く掌。
 へ?じゃあ、今までのは全部夢?それにしては生々しかったな。一晩中、濃い夢でも見てたのかあ?

 混濁する記憶と現実に俺ははあっと一つ溜息を吐いた。
 でっかいスクリーンで、長い映画でも見ていたような感じ。

「もう、皆待ってるから、早く起きてよね。」
 世話女房よろしく、あかねが布団と俺を引き剥がしにかかる。
 
 ま、いいか。夢でも。楽しかったし…。それに、傍にこいつが居る。

 君よ知るや南の楽園。そこに確かに息づいた愛がある。
 それが夢だったのか、それともデジャウだったのか、今の俺にはわからねえ。でも、一つだけわかってることがある。
 …俺がずっと傍に居てあかねを守ってやるってこと。夢の中の俺も、今ここに居る俺も、不変の気持ちだ。
 それだけで十分じゃねえか。な、あかね。


 俺は微笑を一つ返すと、掛け布団を持ったあかねの手を取る。そして、すっと自分の方へと引き寄せる。

「おっはよー、あかね。」
 
 そう呟くと、軽く目を閉じ、ふわっと触れた唇。
 とろけるような柔らかさ。
 不意を付かれたあかねは固まってる。
 その傍を悪戯っぽい笑みで通り抜ける俺。

「さ、飯だ飯っ。朝飯だ。」
 そう言って晴れやかに伸び上がる。

 それはいつもの朝の風景。
 いや、ちょっとだけ自分の気持ちを素直に表現した俺の新しい朝だった。



 完





 ラストはいきなり現代へ?
 これは乱馬の夢だったのか、それとも遠い過去の話なのか・・・それは皆様のご想像におまかせします。・・・というベタな、とってもベタな終わり方。お後がよろしいようで。

2003年夏 一之瀬けいこ


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