第三話 素性


 

 仄かに香る甘ったるい香り。
 焦がれていた乙女の柔肌とは、このように滑らかで温かいのか。胸いっぱいに芳しき香りを吸い込みながら、かき抱く幸せ。
 
 そんな甘い時の狭間から目覚めた時、すでに太陽は昇りきっていた。

 夢だった。
 そう、柔らかな肌も、充実した思いも、全ては太陽の光と共に掻き消えてしまった。
 ふっと目覚めて溜息を吐く。
 と、床にあかねの姿がないのを俺は認めた。

「あかねっ?」

 俺が眠っている間に、どこかへ消えてしまったのだろうか。
 満月の日まであと二日だというのに。

 焦った俺の背後で人の気配がした。
 あかねではない。

「誰だっ?」
 俺は武器を取って身構えた。

「たく、このバカ息子。父親の気配も忘れたか。」
 聞き馴染みのある声が入り口からこぼれてきた。
「お、親父?」
 逆行の中に立った人影は、ふいっと放浪癖のあるここの主。俺の親父だ。
「暫く見ないうちに、また背が伸びたかのう。はっはっは。」
 仁王立ち笑い。
「親父…。」
 俺はあかねの所在を聞こうとして、親父を見上げた。

「乱馬よ。」
 親父は俺の言おうとしていることがわかったのか、一瞬マジな顔を手向けてきた。
 じっと見詰め合う父と子。
 と、いきなり親父は俺の背中をバンバンと平手で叩いて笑い出した。

「いやあ、こいつめっ!大した奴じゃっ!行方知れずになっておった若巫女様を介抱しておったとはのう。わっはっはっは。」
 何を言い出すのかと思って俺は親父を見た。
「何だよ。その若巫女様ってーのはよっ!俺が面倒見てたのは…。」
 と言いかけてはっとした。

 え?若巫女様って…。

 言葉を呑みかけた俺の背後でもうひとつの気配が立った。

「いやあ、乱馬よ。でかしたぞ。」
 
 にっこりと立っていたのはこの島の最長老の八宝斎じじさまだ。
 小さな顔中の皺がくちゃくちゃになりながら、目を細めて俺を見上げている。

「親父、説明しろっ!これは一体…。」

「何を寝とぼけておるのじゃ。おまえは。…おぬし、二三日前に娘を助けたのだろう?」
「ああ、助けた。」
「だから、それは、数日前に斎島から行方知れずになっていた若巫女様だったんじゃよ。巫女様の姿が消えたと、大騒ぎになっておってな。」
「んな騒ぎ、俺は聞いてねえぞ。」

「そりゃあそうじゃ。もうすぐ成年式じゃ。騒ぎが表に知れたら、大変なことになっておるでな。若巫女様が居なくなったことは、ごく一部の人間しか知らされてはおらなんだ。」

 八宝斎じじさまが補足して付け加えた。
 確かに、若巫女様が居なくなったとなったら、成年式を迎える男連中が黙っているわけはなかろう。

「ほとほと困り果てておったそうじゃ。そしたら、遠眼鏡を占える斎島の古巫女様が、この早乙女島付近にいらっしゃると卜占されたそうでな。」
「古巫女の卜占だって?」
 きょとんと俺が見上げると、親父が笑った。
「幼き頃から修行をつまれる巫女様の中には、遠眼鏡や予知能力など、特殊な力を備えられる御方がおいでなのじゃよ。人間、何でも精進して修行を積めば成るものでな。ほっほっほ。」
 これまたじじさまが笑った。
「じゃあ、あいつが、若巫女様だったってことか?」
 俺は言葉を投げ返した。

「そうじゃ。ワシが今朝早くこの洞窟に帰ったときは驚いたぞ。何しろ清廉な巫女様の姿があられたからなあ。それに、もしかして、おまえが巫女様をかっさらってきたのかとも思ったぞ。」
 親父が真顔で俺を覗き込んだ。
「バカか。俺はあいつが若巫女様だったってことも知らなかったんだ。」
「そうじゃろう、そうじゃろう。巫女様もご自分の身分はおぬしに話しておらぬとはっきりと言いなさったからな。…。でも、万が一、間違いごとがあれば大変。だから、この睡眠香を焚き込めておまえを眠らせ、斎島のお使いに若巫女様を調べていただいたんじゃよ。」

 畜生。そういうことか。この甘ったるい香りは。だから俺は目を覚ますことなく、夢の中で…。
 ぐっと握る拳。

「そしたら、おまえ、律儀にも、巫女様の身体一つ触れてはおらんかったんじゃとなあ。若巫女様を調べた女官が言って居ったぞ。」
 親父が俺をちらっと見やった。
「まあ、もし、おまえが巫女様に手を付けておったら、そのまま永遠に目覚めることもなかったろうがのう。」
 嫌な笑いを八宝斎じじさまが俺に手向けた。
 もし、あかねが俺と密通していたら、そのまま頚城を切ってすまきにして、海へでも投げ込むつもりだったのだろう。
「若巫女様もおつきの女官も、おまえの紳士的な態度に感謝されておったぞ。」

 そうか。あかねは若巫女だったんだ。

 俺はそのまま放心したように佇み続けた。何とも言えぬ虚脱感が俺を襲っていた。
 当然だろ?
 若巫女と言えば、一生に一回きりしか男と交わらねえ。成年式の晩だけだ。俺には手が出せない遠い存在。

 成年式…。

「親父っ!あの子はもしかして今年の若巫女様なのか?」

 がばっと起き上がって俺は真摯な目を親父に手向けた。

「おお、そうさ。だから、斎島では大騒ぎになっとった。巫女様が不在のままでは「若水の儀」が執り行われぬとな。」

 俺の脳裏にあかねの言葉がよみがえった。

『次の満月の夜が明けるまで…。お願い。他の人に、あたしのことは言わないで。ここに居させて。』

 そう言いながら乞うように見詰めた円らな瞳。

「で、若巫女様は?」
 俺は親父を見上げた。
「お帰りになられたよ。ほうら、あそこにまだ見えるかも知れぬぞ。」

 俺は矢も立て溜まらず、洞窟を飛び出した。
 直ぐ目の前に広がる青い海原。
 そこをすうっと去ってゆくボートの陰を見つけた。
 人間が数人、少女を囲んで座って漕いでゆくのが見えた。 
 遠すぎて声も聞こえまい。
 俺はただ、岸壁に立って、ぐっと握りこぶしをつかんでいた。
 遠ざかる人影に、あの笑顔が重なって見えた。

「あかね…。」

 もしかしてあいつは、若巫女である自分を嫌ってここまで逃れてきたんじゃないのか。若巫女と言えば聞こえがいいが、体のいい儀式の生贄だ。若巫女を抱けた男だって、一夜限りの泡沫(うたかた)の夢。交わりを持った後だって他に正妻を貰って、とっとと家庭を作っちまう。
 時々あるのだそうだが、若巫女と交わって出来た子は女なら再び若巫女となるし、男ならば人知れずどこかの海へ流されるという。
 もし、おまえが、この共同体に伝わるその馬鹿げた儀式が嫌だと言うのなら。そして、俺を頼って生きてくれるのなら…。


『乱馬…。この先何があっても、あたしを守ってくれる?』

 脳内をあかねの澄んだ声がこだました。どこか儚げな横顔が一緒によみがえる。

『ああ、約束する。ずっと傍でおまえを守ってやる。』
 そうだおれはそう答えた。この口ではっきりと約束したんだ。

「待ってろ!あかね。俺は絶対におまえを迎えに行く。」

 遠くで波の音が聞こえる。
 その時俺は決意した。
 この腕にあかねを抱くのだと。他の男には絶対に渡さないと。
 俺は若巫女を抱きに行くんじゃない。あかねを貰いに行くんだ。

 そのまま俺は駆け出すと、海岸線を懸命に走った。荒くれる波を掻き分けて、そして、若宮島に駆け上り、あかねを奪う。
 若いということは、無謀な賭けに出られるというものだ。
 頭が固くなった年寄りたちが俺の内心を聞いたらすっ飛んじまうだろう。勿論、若巫女を掻っさらうということは、この共同体に喧嘩を吹っかけるのと一緒だ。島の神々をも敵に回すことになるからな。
 でも、女一人だけを犠牲にして繁栄する社会なんてクソ喰らえだ。あかねは逃げたかったんだ。若巫女という立場から。

 あかねと二人心中するようなこの計画。でも、何故か畏怖心はなかった。何とでもなるんじゃねえかと思ったのだ。
 この島国が駄目なら、もっと広い世界を求めて海原に出ればいい。
 綿津見の神々は、きっと俺たちを新しい場所へと導いてくれる。そんな予感がした。
 勿論、俺の決意は秘密事項だ。誰にも言えるわけではねえ。親父にだって、村の長老にだってだ。
 そうと決まれば俺は、周到に準備を始めた。
 若水の儀まであと二日。出遅れちまったが、若宮島へ向かうカヌーだって整備しなきゃなんねえ。
 俺は没頭したね。成年式を迎える奴らは二日前から、島手伝いもしなくて良いことになってる。
 今日辺りから、今年成年式を迎える、ここいらの島々の若者や祭りを楽しみに来る物見有山の見物客たちが、それぞれの船を漕いで集まり始めている頃だろう。
 祭りが最大に盛り上がったとき、若水の儀が始まる。

 あかねが帰った後、俺は彼女が乗ってきたカヌーの場所へと様子を見に行った。最初からこれをきちんと調べておけば、あかねが巫女だということを見抜けたかもしれねえ。
 カヌーはしっかりとした作りだった。俺が普段使ってるおんぼろのカヌーとは雲泥の差がある。巫女神官が乗るだけあって、丁寧な細工も施されている。カヌーの底には、綿津見のレリーフが見事に彫り込まれている。
 覆いかけていた葉っぱを退けて、俺は丁寧にそのカヌーを整備しにかかった。
 或いはこいつに命を預けることになるかもしれねえから。
 え?元々あかねのカヌーだからあいつに返してやるのが筋じゃねえかって?
 実は、彼女は引き上げる時、親父に言い残したそうだ。自分が流された時に使っていたカヌーを、礼として俺に託してくれと。そう言って引き上げていったのだ。
 言わば、彼女が俺に託してくれた唯一の道具って訳だ。
 カヌーは南海の島に住む俺たち海人にとっては、大切な宝だ。こいつがなければ、漁をすることだってできねえし、他の島へも渡れねえ。
 俺は彼女が残してくれた、このカヌーで荒海を渡るつもりだった。
 風に微かに嫌な湿気がある。
 もしかすると、成年式の夜辺りには、嵐がくるかもしれねえ。あくまでこれは俺の勘であったが、こと、おてんとう様のことに関しちゃあ自信があった。

 脳天気な親父は、黙って俺の成すことを見物していやがった。
 飲んだくれの荒くれ親父とまではいかねえが、久々に島に帰ってきたのも、祭りを楽しむ魂胆が見え隠れしている。
 親父はこの島一番の武道家だった。その強さは半端じゃねえと巷で言われた。その親父に唯一感謝していることがあるとすれば、ガキの頃からその武道伝播にしごき回されたことだろう。親父の躾けは並ではなかった。
『強くなれ。それが、この荒海の中を生き残る力となる。』
 それが親父の口癖だった。
 体中に痣を作って己を鍛錬した俺。数年前に親父も荒くれ生活に見切りをつけ、今では方々へと放浪三昧の気ままな生活を送っていた。後は自分の力で生きていけと言わんばかりに。
 親父に叩き込まれた、海人としての力と技を、初めて本格的に試すことになる。或いは親父の奴、俺のその成長を見届けに帰ってきたのかもしれねえ。まあそれは買いかぶりすぎか。
 
 明日はいよいよ成年式。
 俺たち新成年にとっては、人生の最初の晴れ舞台の日だ。
 酒をちびちびやりながら、ずっと遠巻きに俺のなすことを見ていた親父が、何を思ったか、ひょいっと自分の腰に後生大事につけていた一振りの太刀を俺の傍にトンと投げた。

「親父?」

 怪訝な顔を見上げた俺に、親父は静かに言った。

「おぬし、明日は若水の儀に臨むつもりなのだろう?それを持って行け。」

 冴え渡る月が俺たちを天空から照らしつける。まん丸にちかいそれは、大きく妖しげに光り輝いていた。
 
「でも、親父。この剣は親父の秘蔵品じゃねえのか?」

 俺は半信半疑で見詰め返した。俺たちの社会では、刀剣類は至上の宝物と同じだ。親父の剣は、いつも傍から見ていて、羨むほどに美しく輝いていた。まさに、この島の最強だった猛者に相応しい風格を持った刀剣だった。貧乏で、ロクな甲斐性もない親父が、何でこんな立派なのを持っているのか、子供心に不思議に思い続けたものだ。

「元は、この剣はおまえのために貰い受けたようなものだからな。」
 と、意味深なことを言う。

「あん?」
 怪訝な声を張りあげると、ニヒルな笑いを浮かべながら、親父が話し出した。
「今語ろう。おまえの出生の秘密を。」

 何だ?藪からぼうに。

「実はな、おまえは若巫女様の落としダネなんじゃよ。…あれは今から十五年ほど前、ワシがこの島の砂浜で修行をしておったときのことじゃ。小さなカヌーに乗った赤子が流されて来よったんじゃ。良く見ると、斎島のシンボル、綿津見の神のレリーフが彫りこまれてあった。一目でワシにはわかったよ。先年の若水の儀で身ごもった若巫女の落とした男児だとな。それが、おまえじゃ。」
 だんだん口調まで真剣実を増してきやがる。
「んな話、初めてきいたぜ。」
 俺はアゴをぐいっと引っ張り上げて親父を見上げた。
「当たり前じゃ。初めて話すことじゃからな。…で、この太刀はおまえをくるんで乗せていたカヌーの中にあった御印なんじゃよ。」
「ほお、で、なんで親父が俺を育てる気になったんだ?ただ、流れて来た赤ん坊なんだったら、他にも育てられる奴が居たろうに。」
「ふふん。何を隠そう、おまえの父親はこのワシだとわかっておったからな。」
「あん?」
 俺は何を言い出すのだと言わんばかりに、親父を見据えた。ちゃんとした論理に展開してねえぞ。話の筋が見えねえじゃねえか!
「だから、その前の年の成年式の若水の儀で、ワシが若巫女様と交わったんじゃよ!ばか者。」
「はあああ?」
 俺の口はあんぐりと開きっぱなし。
「そんじゃ何か、てめえが若水の儀で、その若巫女様と交わって、それで生まれた息子が俺って言いたいのか?」
 確かめるように話をなぞる。
「そおじゃ。」
 親父は腕を組みながら頭を縦に振った。
「そんな、上手い具合に、父親のてめえのところに俺が流れ着いたのかよう!!」
「いかにも。偶然にも、ワシはおまえを抱き上げたのじゃ。これは綿津見の神様がこの息子を父親のワシの手で育てよと言われているのに違いない。そう思ったので、男で一つで貴様をここまで育て上げてやったのじゃ。感謝せいよっ!」

 唐突にそんなこと言われても、俺の頭の中は混乱するばかりだった。暫く口もきけずに、呆然としていた。
 確かに俺と親父はあんまり身体つきも顔つきも似てねえ。

「なあーんちゃって。信じたかあ?」

 甲高い笑い声とともに、響く親父のスチャラカな言葉。

「て、てめえ…。嘘か?今のは。」

「わっはっはっは。なかなか面白い作り話じゃろう。」
 ときた。
 あのなあ、一瞬たりとも真に受けた俺って…。

「こんのお、クソ親父ぃ…。」
 わなわなと手が震える。
「じゃあこの太刀は何なんでいっ!!」
「さあな。我が家に代々伝わる古い刀じゃよ。ワシの爺さんのそのまた爺さんの爺さんの…。わからんくらいに昔のな。」
 親父は俺をおちょくって、すっとしたような顔を差し向けながら言った。
「ま、いずれにしても、役にたつことがあろうて。案ずるな。ちゃんと刃こぼれなどないように、手入れだけは入念にしてあるからのう。これをおまえに授けておこう。父のせめてもの成年へのはなむけぞ。」
 差し出された剣は、確かに古い。こうやって間近で手に取るのは初めてだった俺は、今までこの太刀の古さなど、気がつかなかった。
 作られてざっと百年以上は経っているだろう。
 すっと刃を引いてみると、親父が言うように、良く手入れされた刃が光って見えた。太刀には儀式用に形骸化したものと、実戦に向くものと、大きく分けて二つあるが、これはどちらかというと後者の、いわゆる使う剣にあたるだろう。
 親父はデタラメ話で俺を煙にまこうとしやがったが、この太刀だけはありがたく貰い受けることにした。
 俺の手の中に、馴染むように納まった一本の古い太刀。

「いずれにしても、己の思う信念のまま、突き進めば良かろう。おまえは成年するのだ。そう、これからは己の耳と目と足で確かめ、冷静に研ぎ澄ました頭で考え、判断を下してゆかねばならないのだからな。未来はおまえ自身の手で切り開いてゆけ。」

 親父は或いは、俺が明日、やろうとしていることに、薄々気がついていたのかもしれねえ。そんなふうに俺に向けてはなむけの言葉を贈ってくれた。
 とりもあえず、明日の成年式。若水の儀に勝ち抜くこと。それが俺に化せられた使命。
 心が震えた。



つづく



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