蛍火   下の巻


五、

 玄馬僧都の指図で、天道の館に、護符がたくさん貼り付けられた。
 護符は、玄馬僧都が一つ一つ、朱で、丁寧に呪文を書き連ねていった。まだ紙は高価な宝物だったこの時代。九能の若君も惜しまずに、僧都へと半紙を差し出した。
 この若君。あわよくば、悪霊を退散させた後、あかね姫と添い遂げようと下心があったのも否めない事実だ。
 何十枚、いや何百枚という札に朱の阿字を入れてゆく。
 集中するために、僧都は一切の者の入室を禁じた。太陽の光が穏やかに入る南向きの部屋で。瞑想に入りながら、物凄い勢いでこの護符をしたためていった。
 
 護符を書き終わると、今度はそれを一枚一枚丁寧に館の戸や部屋の四隅にのり付けしてゆく。
 柱や鴨居一つ一つにもそれは貼られた。剥がれぬようにしっかりとだ。
 どの戸毎にも朱符が恭(うやうや)しく貼り巡らされた。

「こんな赤い札如きで、本当に怨霊を退散できるのか?」
 九能の若君は半信半疑で、僧都の手並みを見続けていた。
「まあ、見ておれ。魔物は護符には寄り付かぬものなのだ。」
 玄馬は笑いながら軽く避難を受け流す。
 門柱から、奥の厠に至るまで。貼り付けられた護符。

 最後にあかね姫の臥せっている奥の臥所(ふしど)へ。ここには他の倍以上の護符がびっしりと貼られていった。

 姫の臥所に護符を貼り終わると、玄馬僧都は静かに言った。

「よろしいか、太陽が西の端に沈んでしまってからは、明日の朝、真新しい太陽が東雲(しののめ)から昇るまで、決してこの部屋の中から扉や窓を開いてはなりませぬ。」
 僧都は言い含めて戸を立った。

「僧都殿はどうなされる?この部屋には入られぬのか?」
 早雲が後ろから声を掛けた。
「私ですかな。私は、庭先で護摩を焚きながら悪霊退散の加持祈祷を一晩続けまする。再びこの世に、早乙女の若君の霊が迷い出でぬように、成仏のためのご祈祷をいたします。ゆえに、この臥所は殿や九能の若君にお任せいたしたれば。それに、これは、僧都と幽霊の闘いにございまする。」
「げに、頼もしいお言葉じゃ。」
 早雲は大層、心強く思った。
「今夜は奇しくも満月。今宵、一晩加持祈祷を続け、姫の傍に悪霊を寄せ付けねば、早乙女の若君もご無事に成仏いたしまするでしょう。この護摩壇の業火に御身を焼かれて。」
 慣れた手つきで、玄馬僧都は護摩壇を作ってゆく。
 そして、器用に火打石から火を起こし、焚きつける。
 紅い炎がぼっと護摩壇を走った。
 そこへくべられる、護符。香木も一緒に放り込んだのだろうか。香ばしき匂いが当たり一面に漂い始めた。

 天道家の館の人々は、悪霊の存在に、大いに心を乱れさせた。 雑司仕えの侍女や下男たちは、皆、一様に、館の外にあるあばら家へと身を潜めた。守りの武士(もののふ)たちだけが、弓矢や槍、刀を携えて、館の津々浦々までを取り囲む。まだ、この時代は「武士」は下働きの一役職に過ぎぬとはいうものの、この都から離れた遠隔の地。農作業などで鍛えこんだ「荒くれ男」だけはたくさん居た。
 殆どの者たちは、九能家の郎等たち。
 彼らは若君の将来の嫁御を守るために、喜んで配置に就いた。

 母屋のあかね姫の臥所には、父の早雲と、その婿になる九能の若君。そしてもう一人。あかね姫のばあやと良く知りおいたる侍女二人。その五人だけであった。

 あかね姫は心もそぞろに、ずっと布団へと臥せっていた。
 姫の周りには御簾が下ろされ中には次女が二人かしずく。そして、御簾の周りを取り囲んで、父と若とばあやが見守るように座した。
 姫の枕元には、母親の形見の観音菩薩像が、置かれた。
 慈悲深いその御顔は、柔らかい笑みを浮かべながらあかね姫を枕元から見上げた。

 そうこうしているうちに、陽はとっぷりと暮れ落ちた。
 窓は締め切られたまま。勿論、戸も錠が下ろされ、屋敷はひっそりと静まり返る。
 その中を、玄馬僧都の祈祷の声だけが、不気味に流れ出す。
 雨こそ降り出しはしていなかったが、湿気を含んだ不快な晩であった。護摩壇の向こう側から、妖しい赤い月が昇り出す、満月。
 満月に照らし出された館。煌々と光る瓦屋根。建物の影は、満月に落とす闇が深くなる。明るい部分と暗い部分の明暗が、くっきりと浮かび上がっていた。
 早乙女沢で鳴くのだろうか。蛙たちの恋の歌がかしましく、響き始める。それは姦しく夜空に響き渡った。

 月は天上に昇りつめた。と、それまで星影さやかに澄んでいた空の雲行きが怪しくなり始めた。
 生温かい風が通り抜け、湿った空気が雨の匂いを微かに運んでくる夜半。煌々と照らしつけていた月も、張り出してきた薄雲へと身を隠し、燈籠のぼやけた光のようにおぼろげに見える。
 やがて、ポツポツと雨が天上から滴り始める。
 庭先に下りていた武士たちは、一斉に木陰へと身を寄せる。
 

『あかね姫はこちらにおわすか…。』
 突然、雷のように轟き渡る声。
『姫君よ、お迎えに上がった。』

 澄んだ中でも凄みのあるそんな声色(こわいろ)。

 
「誰そ?」 
 武士たちは一斉に色めき立った。一瞬のうちに緊張が走る。

 ドンドンドンと音がする。

「開けてはならぬっ!これは物の怪の声じゃっ!!」
 その物音を聞いた玄馬僧都が思わず、庭を固める武士どもに、怒鳴りつけていた。

 
『頼もう…。あかね姫はこちらにおわすか。』

 ドンドンドンドンとさらに荒々しく戸板を叩く者。だが誰も、門戸を開けようとはしなかった。武士たちは、玄馬僧都の声に足元がすくんでしまった。


 と、門の向こう側の男は諦めたのだろうか。
『私を中へ招き入れたくないというならば、押入るまでよ。』
 そう凄んだ声と共に、戸板を叩く音がぴたりとやんだ。
 得も言われぬ緊張感が、守りを固める武士たちの身の上を走り抜ける。
 と、門戸の外側で、ごうごうと突風が起こった音がした。がたがた、みしみしと戸板を揺らせる。

『悔しや…。ここに尊き朱の符文ありき。』
 門戸の外で唸り声がした。それは地が震(な)うるような恐ろしげな男の声であった。
 その声の余りの凄まじきに、大の武士たちは、思わず、持ち場を離れて、逃げ惑った。

「恐るるなっ!朱札がある限り、奴は入っては来られぬ。」
 玄馬僧都は門戸の脇から逃げ惑う、武士たちを一喝して言った。

 それでも、門戸の外からは、門を壊そうとでもしているのか、ガタガタみしみしと戸板がきしむ音がする。地震でもないのに、揺れるのだ。気味のよい物ではなかった。



「始まったか。」

 あかね姫の臥所の隅に座して、じっと瞑想にふけっていた九能の若君が言葉を吐いた。少しは腕に覚えがあるのだろう。この若君は帯刀を携えて壁に寄りかかっていた。
 狩衣の上から腕を組む。そして、外の気配の異常を誰よりも早く読み取っていた。
 外の物音は気になったが、決して朝日が昇るまでは、この臥所を開けてはならぬと、僧都に口をすっぱくするほど言い置かれている。
 彼はじっと我慢して、外の気配に耳を澄ませた。

 と、部屋の中央の御簾の中であかね姫がピクンと動いたように思った。


 門戸に貼り付けられた朱符のせいで、中へ入ることが叶わぬ早乙女の君の霊魂は、今度は何を仕掛けてくるのだろうか。
 玄馬僧都はいよいよ、法力の声を張り上げた。

 浮かんでいた月がいつの間にか、厚い雲の下にすっぽりと隠れてしまった。
 不気味にその辺りだけ、光が篭れる。
 凪いで居た風がゆっくりと吹き始めた。湿った空気は、不快なほど、蒸し暑さを増す。
 と、待っていたかのように、ゴロゴロと雷鳴が轟き始めた。
 夜陰の中に浮かび上がる、白光の稲光。それは、悪霊の所存なのだろう。何の前触れもなく、いきなり、空気を引き裂くような雷鳴が炸裂する。

「ひいっ!」
 大の武士たちが、その音の衝撃に耐えかねて、さっと軒へと逃げ込む。
 すると、今度は雨がザアザアと空から物凄い勢いで叩きつけられてきた。
 早乙女の君の霊魂は、豪雨と雷で、館を取り囲んだようだった。闇の中へ紛れ込む、深淵の闇。このまま、屋敷ごと飲み込んでしまいそうな雨雲が一転俄かに沸き立ったに違いない。
 逆巻く雨と風と雷は、留まるところを知らず、天道の館へと降り注ぐ。

 時を経るうちに、雨風は一層激しくなった。
 横殴りに滴り落ちる水と、逆巻く風と。溜まらず、人々は軒先へと駆け込む。
 だが、玄馬僧都の焚きつける護摩壇は、豪雨にも消えることなく、轟々と炎があがっていた。

 バキッ、ドンッ!
 物凄い音と共に地が震えた。そう、雷鳴が門戸を直撃したのだ。
「うわあっ!」
 武士たちは、慌てて門から遠ざかる。
 ぶすぶすと門戸が焦げる匂いがした。ちろちろと炎が上がるのが見える。肝を失った武士たちは、勇ましさをすっかりと忘れて、皆、軒先に一目散に逃げ惑った。
「くわばら、くわばら…。」
 そう念じながら、郎等どもは身を寄せ合って地面へと蹲(うずくま)っていた。

 ひゅるっと風に煽られて、門戸に貼り付けてあった朱符がはらりと千切れ剥がれた。ひらひらと風に舞いながら、闇に吸い込まれてゆく。
 それを待っていたかのように、門戸はガタガタと音をきしませながら大きく揺れた。

「ふふ、かかりよったな。」
 その有様を見て、玄馬僧都はにやりと笑った。

『あかね姫はどこだ…。姫…。』

 門戸の外から妖の声が近づいて来た。
 ゴオオッ!
 つむじ風が朱札の剥がれた門戸をこじ開け、吹き抜けて行った。

「やつめ、まんまと屋敷の敷地へと入り込みよったか。」
 玄馬僧都はほくそえんだ。
 実は、こうなることを予想して、玄馬僧都はわざと、門戸の朱符を剥がれ易く貼り付けていたのだ。彼の目的はあくまでも、早乙女の怨霊の完全なる退治にあった。そう、惑い出た魂を、この地で浄化させること、それが使命だと思っていたのである。単なる退散や姫の守護だけではなかったのだ。
 そのためには、怨霊を取り入れなければならない。朝になって帰ってしまえば、荒んだその御魂は、夜になるとまた再び、姫を求めてやってくる。夜毎、姫を探し当てるまで、彷徨い続けるだろう。
 退治してしまうには、かの迷える魂を呼び寄せて、業火に焼き尽くすのが一番手っ取り早いと思ったのだ。
「見ておれ。ワシの法力の力で、必ずおまえを成仏させてみせん!」
 玄馬僧都はわしっと数珠を握りなおした。それから、火へと次々に護符をくべてゆく。それらは、降り注ぐ雨ににも関わらず、一切衰えない護摩の火に揺られ、煌々と燃え上がるのだ。
「夜明けの太陽が昇る時、貴様はこの護摩の業火に焼かれて無へと帰すのだ。」
 そう心で念じながら、玄馬僧都は法力の秘法を続けた。

『姫…。あな、悔しや。館にも朱符が…。』

 早乙女の君の魂は、館の上空を駆け巡っているのだろう。姿かたちこそ見えなかったが、野太い男の声と、何か見えない力が通り過ぎる気配が感じられた。
 物の怪の怒気は、そこら中から伝わってくる。
 見えないとは言え、大の武士たちでも、そのおぞましさになす術がなく、槍刀を握り締めたまま、震えていた。
「ひいい…。」
 武士たちはすっかり弱気になってしまい、ある者は、気を失い、またある者は護摩壇の火へ向かって南無さんと念仏を唱える始末。皆一様に目の前の現実に胸を塞(ふた)ぎ慄(おのの)き恐れた。





六、

 早乙女の若君の御魂が、門戸を破って敷地内へ浸入した頃のことだ。
 臥所の中で匿われていた姫が、ふと顔を上げた。

「早乙女の君。」
 それまで血色のなかった姫に、赤みが戻る。
 布団の中から起き上がると、立って歩こうとした。
「姫君っ!お気を確かにっ!!」
「どこへ召しますっ!!」
 侍女二人が、両脇から姫を抱えた。
「離してっ!若君が私を呼んでおられますっ!私は行かねばなりませぬ。」
 あかね姫は抵抗をした。

「何事ぞ?」
 早雲が異変を感じたのか、御簾の外側から声を掛けた。

「早雲さま、姫様がっ!」
 あかね姫の尋常らしからぬ行動に、侍女たちは必死で抗いながら、御簾の外へと声を掛けた。

「あかね姫っ!」
 思わず御簾を上げて、父君と九能の若君が中へなだれ込んだ。
「姫っ!御免っ!」
 九能の若君は、そう吐き出すと、侍女たちと共に、姫の身体に抱きついて、その動きを封じ込める。

「若っ!早乙女の若っ!姫はここでございますっ!」

 あかね姫は大声をたててわめき散らした。
 部屋の中の空気が、一瞬、澱んで黒ずんだように見えた。だが、護符でしっかりと守られた部屋は、一瞬のうちに浄化され、何事もなかったように澄み渡る。
「これは…。」
 早雲は怪しみて、護符を見上げた。護符は鈍い光を上げて、連座している人々を見下ろした。

 と、護符に反応するように、玄馬僧都の声が部屋へと染み渡ってきた。

『案じなさいますな。魔物には姫の声も姿も見えませぬ。この朱符に守られておれば…。落ち着いて、姫君を守り通されよ。もうすぐ夜が明けます。それまで守り通せば、姫君もこの家も安泰にございましょう。私はここから護摩を焚いて、皆さまを守り通してご覧に入れますぞ!』

「なんとも頼もしいお言葉かな。」
 早雲はありがたくお札を伏し拝んだ。


『姫。あかね姫。どこに…。姫ーっ!!』
 館の上空を舞い上がりながら、物の怪は姫を呼びながら探し続けた。
 だが、真っ赤な朱墨で書かれた文字は、姫の立ち上げる、声さえも遮断しているのだろう。
 
 物の怪の姫を求め続ける気配は、臥所の中の人々にも、感じられた。
「私はここにっ!若っ!」
 姫は狂おしいまでの叫び声を上げ続けたが、彷徨える若君の元まで届かなかった。
 誰も、姫の口元から立ち上る、黒い気炎には気がつかなかった。
 そう、早乙女の君の館に招き入れられた時、彼女は、乱馬の口伝えに、「妖しの気」を体内に入れられていた。だが、誰一人、それに気付いたものはなかった。
 


『あかね姫。姫ーっ!』
 館の周りを取り巻きながら、探し回る物の怪もまた、必死で姫君を捜し求める。

「早乙女の君。何故にこの世にまだ未練を持たれて、禍を持て、この屋の姫を惑わし続けられますぞ。いづくんぞ、浄土に身罷らん。」
 玄馬僧都は、徘徊続ける早乙女の若君の怨霊に向かって叫ばれた。

『口惜しき、我が身。吾妻と添い遂げられぬまま、この身終わりき。姫もまた同じ心持たれん。誰ぞ知るらん。我らが恋しき想い。』
 空から声が舞い降りてくる。
「あなた様の無念は、許婚の姫君への想い。それはそれ、ここに居られる姫は無関係ぞ!退散されよ、そして、我が法力で作りし業火によりて、浄土へ参られよ。」
 玄馬僧都は力を込めて数珠を手繰り始められた。
『我、知りぬ。かの姫、我が許婚の君の転生されし姿。我が求める姫が魂、ここにありき。我、それを得じ。』
 その法力を付き返さんばかりの声が響いた。
「何と、あかね姫は、あなたの許婚の生まれ変わりだと申されるか?」
 玄馬は思わず声をあげた。意外な言葉であった。かの怨霊がかようにまでも、あかね姫に固執なさるのはそのためかと納得もした。
 だが、その法力の手を緩めようとはしなかった。
「いかに、姫君が許婚の君の生まれ変わりだとしても、今は、別の人生を歩んでおらるる。それを見守るのが、肉体無き早乙女の君の本領だとは思われぬか?姫の幸せを願ってこそ。」
 
 バキバキっと空を稲妻が走る。
 玄馬の進言を真っ向から否定するが如くの霹靂(はたたがみ)であった。

「わかってはくださらぬか。では、私も君を滅ぼさねばならぬ。でやーっ!」

 玄馬僧都は更に力を込めて、護摩を焚き始めた。
 自制心を失った霊魂ほど厄介なものはない。あかね姫を守る手立ては、これしかない。そう思うと自然力が入った。

『うおのれえーっ!我が身をその業火で焼き尽くすつもりか?』

 バチバチと護摩の火が上空へと立ち上がる。館の上を彷徨っていた、早乙女の君の怨霊に喰らい付くように火柱が上がった。
 火の粉にまみれた怨霊が、苦し紛れの声を張り上げるように、館の上の空気が雷同する。

「所詮は叶わぬ恋なれば、その想い鎮められ、本来あるべき冥土へと旅立たれよ。あかね姫は諦めて。」
 玄馬僧都はふんぬっと力を込めると、印を結ぶ。そして、己の持てる全ての力を注ぎ始める。
「もうすぐ陰闇の夜が明けまする。真新しい太陽の光と共に、この業火で焼き尽くしてあげまする。そなたの無念も、未練も全て。」

 うおおおおっと、上空で苦しむ声が轟き渡る。
『あかね…。』
 苦しそうな一声で彼女の名を呼ぶと、荒ぶる気はすうっと空気へと溶け込み始めた。
 彼の気配が消えた。
 やがてくる静寂。

 誰も気がつかなかったことがもう一つあった。
 あかね姫の枕元に置かれた、観音菩薩像が、微かに光を放ち始めたのだ。まるで蛍火のように、点燈しはじめる。
 その光に同調するように現れ出でし、闇の光。

 そうだ。どこからともなく、白き数多の光が点滅しながら舞い降りてきたのだ。

「これは…。」
 玄馬僧都は思わず、印を結んでいた手を止めた。
「蛍が何故、この屋敷に?」
 不思議そうに見上げた。

「おお、蛍じゃ。」
「蛍…。」
 庭の隅で怯えていた武士たちも、皆、一様に空を眺めて、呟き始めた。

 どこから飛んでくるのか。何百、何千もの、蛍。
 雨上がりの蒸せた空気の中、艶やかに光を放ちながら、導かれるように飛来する。
 天道の館へと降り注ぐ光の乱舞。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。
 始めは一つ一つの頼りなげない、小さな光だった塊が、凝縮されてゆくように、一つと頃へと集まり始める。
 豆粒の光が握り飯粒に。いや、鞠ほどの粒に。見る見る膨れ上がってゆく。やがて、白き光は、まばゆい太陽のように、白熱の光をたたえ始めた。




 その光は、あかね姫の臥所にも届いた。

 ついさっきまで、重苦しいほどに感じていた暗鬼が、すっと消えたように静まった。いや、この中に座する人々は皆、そう思ったのだ。
「悪鬼め、姫を諦めて去ったか。」
 まずは九能の若君が、清々としたと言わんばかりに吐き出した。
 さっきまで、狂うほどに暴れていたあかね姫も、ふっつりと抵抗を止めていた。まだ正気に戻ったわけではなかったが、浅い呼吸を若君の腕の中で繰り返していた。
「これで、この姫の温もりは我が手に。」
 九能の君は慢心した。
 
「おお、夜が明けたかえ。」

 御簾の外で、ばあやが、しわがれた声を上げた。
 ふっと連枝窓の方へ目を転じれば、確かに辺りが明るくなっている。それだけではない。一筋の光が、この部屋に向かって差しかけてくるではないか。

「夜明けだ。勝った。我らは悪霊に勝ったのだ!!」
 九能の若君がまず勝どきを上げた。
「おお、悪霊めも、朝日には敵わなかったと見える。」
 早雲もふっと笑顔になった。
 
 張り詰めていた緊張は緩んだ。ほっと誰しもが肩の力を抜いた。
「朝の清々しい光を拝まん。」
 早雲は、立ち上がり、ゆっくりと戸板に手をかけた。連枝窓越しに入ってくる溢れんばかりの光を神々しい朝日だと疑う者は一人も居なかったのである。それが敗因であった。
 連枝窓を開け放った早雲は、辺りの暗闇に、目を疑った。
 窓の向こうに広がるのは、夜の闇。朝日だと思って見紛うたのは、蛍の燈り火。

『我、愛しき姫を見つけたり。』

 突然、隠れていた妖気が炎と立ち上り、震えんばかりの声が轟いた。

「しまったっ!」
 異変に気がついた玄馬が、だっと法力の印を結ぼうとしたが、既に時は遅かった。

 闇の中に浮かびあがった、一つの黒い影が、さあっと開け放たれた戸板目掛けて飛び込んでいった。

「うわあああーっ!」
「あれえーっ!」
 悲鳴とも叫び声ともわからぬ声が臥所で響き渡る。
「姫ーっ!!」
 早雲の叫び声が一つはっきりと聞こえただけであった。
 
 中へ入った黒い気と共に、一条の光がまばゆく臥所の中からきらめき渡った。
 観音像から解き放たれた光であった。
 そして、光は瞬く間に最後の輝きを見せ、すっと闇へと吸い込まれてゆく。

 異変に気がつい慌てふためいた玄馬僧都が、バタバタと廊下を渡り、臥所へ入ると、そこには、人心地を失った早雲と、九能の若君、そして二人の侍女が、折り重なるように倒れ臥していた。
「早雲殿っ!九能の若君っ!しっかりなされよっ!」
 玄馬僧都は声を荒げたが、二人とも意識を失って斃れ臥している。
 勿論、中央に寝かされていたあかね姫の姿は、どこにもなかった。
 
 ふと目を上に転じると、二つの白と黒の影。

 きっと見上げた玄馬僧都に、二つの影が映った。
『姫君は我が手に。もう離さぬ。』
 それに答えて、姫君は艶やかな笑みを返した。
『往こう。』
 若君の柔らかき声。 
 そして、そのまま、姫を抱え、空へと立ち昇る。

「姫ーっ!!」
 人心地を取り戻した、父君の早雲が叫べども、二人の影は止まらず。ただ、天空の闇の中へと吸い上げれられて行ってしまった。
 塊になって飛んでいた蛍火が、その光と共に、遥か空へと舞い上がり始めた。ふわふわとまた、一つ一つの無数の玉になり、天上へと舞い上がる。

 その光景は、この世のものではなかった。儚き命を運び去る蛍火のたまゆらな輝き。
 やがて、蛍たちも何処へか、消え去ってしまった。




 辺りは何事もなかったかのように闇の中に静まり返る。



 
 姫の臥していた辺りは、彼女の枕元に置かれていたはずの観音菩薩像が、穏やかな微笑みを向けて座していた。
 その木の体には夜露が滴り落ちたように、濡れそぼち、暫くの間、蛍火と同じような淡い光を解き放っていたという。
 二度と再び姫が帰ることはなかった。





 人々、これ、古の恋の成就した証と怪しみたまいき。
 今は昔の奇異な出来事。後の世まで語り伝えんとや。














底本
上田秋成『雨月物語』より「吉備津の釜」





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