蛍火   中の巻


三、

 早乙女の館から辞したその日の昼過ぎ、早雲があかね姫を見舞った。
 あかね姫は、今朝方から風邪を召されて床に臥している。侍女がそう父君に申し上げたのだ。
 受領の殿上から帰って来ると、早雲は床に伏せっていた娘を心配げに覗いた。
 
 勿論、あかね姫は風邪などではなく、昨夜の外出のせいで起き上がれなかっただけなのであるが、ばあやの機転で「病」ということにされてしまった。朝方からうとうとしたおかげで、もうすっかりと頭は冴えていた。

「あかね姫、大丈夫かね?」
 早雲は御簾の向こう側から声を掛けた。
「はい…。一日寝ておりましたら、もうすっかりと。」
 あかね姫はゆっくりと答えた。
「おお、そうか。折角、輿入れ先が決まったのに、身体を壊されてしまえば、元も子もないからな。」
 早雲は意外なことを口にした。

 もしかして、早乙女の君が早雲に婚儀を早速申し込まれに来たのだろうか。
 そう思って色めき立ったのも束の間。
 別の名前を父は口にした。
「九能家のご嫡男が、姫に是非に輿入れ願いたいと申されてな。」
 上機嫌で父は語った。
 姫は頭を杭で打ち抜かれたような衝撃が走った。
 もし、昨日までの姫君であれば、即座にその話にも乗れたのであろうが、今は違った。
「父上、そのお話、御遠慮申し上げたくございますれば。」
 姫君は布団に座して、静かに言い放った。

「何と?」

 父君の声が止まった。

「姫っ!」
 御簾が上がって父君が血相を変えて飛び込んで来た。
 勿論、何よりも氏、一族を大事にするこの時代。家長の言を覆すことなど許される筈は無い。
「もしやそなた、誰かと密通…。」
 そこまで言って早雲は口止めた。他に人の気配がないか、咄嗟に確かめに掛かったのだ。
 辺りはシンと静まり返り、ただ、しとしとと夕闇の向こうに雨の滴り落ちる音だけが響く。
 まだ、通い婚が大っぴらに行われていた時代だ。一人や二人の密通者があっても、嫁ぐことは出来た。だが、一族の明暗をかけて決して来た縁談だ。そんな不義は許される筈も無い。
 早雲は、血相を変えて娘に詰め寄った。

「父君はそんな淫らな女だとお思いですか?」
 あかね姫は悲しそうに見返した。
「ならば、何故、九能の君で不都合があるのだ?あかね姫。」
 ぐいっと乗り出す早雲。
「もしや、姫は他に好いた男が出来たとでも。」
 恥じらいながら姫は頭を垂れた。
「誤解はなさいますな。父君。確かに婚儀を申し込まれましたが、私の身体は、母君の観音如来像にかけても潔白にございます。」
 静かに言い放った。
「あかね姫っ!」
 父の表情が一際厳しくなった。
「ならぬっ!どんな男伊達でも、父の決めた縁談に逆らうことはならんっ!それに、そなた、本当に不義を働いておらぬか、確かめねばなるまいっ!誰かあらんっ!」
 早雲は大声で館の者を呼んだ。
 そして、入ってきた侍女に何やら耳打ちした。
 侍女はこくんと頷くと、そそくさと部屋を出て行った。

「お館さま。何をなさいまする!」
 ばあやが慌てて入ってきた。
「ばあやっ!おまえがついていながら、姫に男を近づけるとはっ!ええい、おまえもっ!」
 いきり立った早雲が刀の柄に手をかけたとき、あかね姫がぎゅっと止めた。
「ばあやには罪はありませぬ。全ては私の不徳のいたすところ。もし、ばあやに手をかけさせなさるなら、この舌噛み切って、私も身罷りますっ!」
 激しい姫の言葉に、早雲は一度握りかけた柄を手放した。
「まあ、よい。じきに、おまえが潔白の身かどうか、わかるというものだ。男と通じておらねば良し、通じておれば、手打ちにしてやるからそう思え。」
 父の剣幕の激しさは衝撃の大きさを物語っているのだろう。

 ややあって、一人の僧都が家に招かれた。
 この辺りを支配する寺社の僧侶なのだろうか。派手な袈裟を羽織っていた。手にはそれらしく数珠を持ち、お札などを携えていた。

「さあ、玄馬僧都。この姫です。不義密通を働いたかどうか。あなたさまのその法力で見破ってくださりませ。」
 早雲はきっとあかね姫を睨みつけた。
 玄馬僧都は家の者に言って、急ぎ湯を沸かさせた。
 湯を用意する間に、玄馬僧都は持って来た大きな布包みを広げて見せた。中から出てきたのは、大きな鉄製の釜であった。
「これは鳴釜(なるかま)と申しましてな。この辺りでは、様々な卜占をこれで行いまする。」
 そう言いながら祭壇を組んだ。いつも卜占をしているのだろう。慣れた手つきでどんどんと祭壇は組まれていった。
 それから、あかね姫に向かって言った。
「このお札に息を吹きかけ、身体を擦り付けさせなされ。」
 あかね姫は言われたとおりに、ぺらんとしたお札に息を吹きかけ、そして、身体へと札を擦り付けた。これを持って占うのだろう。
 やがて、大きな釜に湯が注ぎこまれた。それから、玄馬僧都は護摩をその釜の下で焚き始める。その間中、経文のような呪文を唱え続ける。手を揉みしだき、振り回し、あかね姫の息と身体が掛かった札を祈祷してゆく。
 それから、沸き立った釜の中に、札を投じて印を結び、再び呪文を唱える。

 と、あら不思議。釜がキーンと金属製の音をたてはじめた。ぐつぐつと煮えたぎる釜の中の湯水。音は周りの人々の耳に痛いほど伝わってゆく。
 早雲を始め、祭壇を取り囲んだ人々は、僧都の動作の行方をじっと眺めていた。

「結果が出ましたな。」
 玄馬僧都はちろりと後ろを振り返った。
「姫君の身体には一点の濁りもありませぬ。清らかな乙女でございますれば、何処へ嫁御に出されても恥ずかしくはありませぬ。」
 
 ほおっと早雲の溜息が漏れて来たように思えた。それが一番危惧していた事柄だったからだ。
「これで九能家への面目も立ったというもの。次の吉日に、九能の若をこの家にお招き出来るぞ。」
 
 だが、早雲の喜び顔とは裏腹に、姫の顔は著しく曇った。身の潔白を証明できたとはいえ、望まぬ婚姻を結ばねば成らぬことは耐えがたき事であった。

「嫌でございます。私は、九能家には輿入れいたしませぬ。」

「この期に及んで、何を言い出すのだ?姫っ!そなたが心寄せた男がどのような麗人であろうと、この父親の決めた婚儀には従ってもらう。それが天道家の姫の定めだ。」
 早雲はきびっと姫を睨み下ろした。

 と、その時であった。茹っていた釜が更に大きな音を張り上げた。それだけではない、パシッという大きな音が一つ鳴って、中の湯が弾けとんだ。

「おお、これはっ!」
 玄馬僧都が思わず叫び声を上げた。
「いかがなされた?」
 早雲も覗き込んだ。
「鳴釜にヒビが。」
 僧都はそう言ったまま、ある方向に指を定めた。
 黒光りする釜を良く見ると、大きなヒビが入っていた。湯はそこから少し染み出していた。
「不吉じゃ。」
 僧都はそう言ったまま口をつぐんだ。
 それから再び、あかね姫の方へ目を転じると、持っていた札をに三枚、彼女へと再び擦り付ける。それからそれを、割れた湯の中へと投じる。白に朱文字で書かれた札。それは湯の中でじわりと朱が滲み出してきた。
「おおお、何とっ!この姫君には悪霊が集ってくるのが見えまする。」
 玄馬僧都は恐れおののきながら言葉を放った。
「悪霊だとお?」
 早雲が再び驚き声を上げた。
「私には見えますな。この姫に惹かれて出てきた物の怪が姫を食らい尽くそうと牙を立てたのが。」
「何と…。」 
 早雲は絶句した。
「かの君はそんな悪霊や物の怪の類(たぐい)ではありませぬ。」
 あかね姫は思わず叫んでいた。
 
 そうだ、夕べ共に過ごしたあの公達、早乙女乱馬からは、確かに人の肌の温もりを感じた。

「姫よ、昨晩はどちらへ参られた?正直に申されてみよ。」
 姫の叫びを咎めて、早雲が促した。

「この裏にある沢の畔のお屋敷まで足を伸ばしましただけでございます。」
 あかね姫は隠すことなく胸を張って言ってみせた。
「沢ですと?もしかして、西端にある、早乙女沢のことでございますかな?」
「早乙女沢?」
 耳馴染んだ名前に姫はふときびすを返していた。
「百聞は一見にしかず。付いて来られよ。」
 玄馬僧都は地元を熟知しているのだろう。
 あかね姫とその父、早雲を促して立ち上がった。そして、前に立って歩き始めた。

 夜道と昼間の道では随分感覚が違うものだと、足を運びながらあかね姫は思った。夜は暗くて見えなかった道が、今は雑草の生え具合まで良く見えた。
 昨晩、一昨日晩はこの道を確かに歩いたと思う。つっかかりかけた大石もあった。一本道だった。
 暫く歩くと、沢にぶつかる。
 静かな沢であった。雨に打たれて水がちろちろと脇から流れ込んでゆく。その水面には緑の藻がいっぱい茂っていた。
「ここが早乙女の沢でございまする。」
 玄馬僧都は意味深に目を向けた。
「早乙女の沢か。また、何故にそんな名前が?美しい乙女がここで水浴びでもされますかな?」
 早雲が切り返した。
「いいや、そんな耽美な沢ではござりませぬ。」
 玄馬僧都が笑って答えた。だが、その目元は全く笑っていなかった。
 夕ともなれば蛍が乱舞する美しき沢。しかし、昼間見るその風景は、荒んで見えた。夜闇の中では見えない雑草が鬱蒼と生え茂っているのが太陽の下、良く見えるからであろう。苔むした水の匂いも鼻にかかる。
「なるほど、何かが棲んでいそうな場所ですな。」
 早雲は険しい表情を浮かべた。
「こちらへ…。」
 玄馬僧都はどんどんと足を進める。沢伝いに、雑草を掻き分けて歩いていった。

 と、沢の畔の少し広がった空き地へと一行を誘って止まった。
 ざわざわと生温かい風が吹き抜けて流れた。

「ここは?」
 早雲は辺りを見回して立ち止まった。
 辺りは緑の雑草が人の背丈ほどに立ち生える、荒れた空間がぽっかりと開けていた。良く目を凝らすと、所々に朽ち果てた木杭や瓦が落ちている。中には焼け焦がれ黒ずんでいるものもあった。
 明らかに人家の址。そう見て取れた。
「姫様、もしや姫様が参られた屋敷とは、ここのことではありませぬか?」
 玄馬僧都はその場に立ち尽くしているあかね姫に問いかけた。 
 あかね姫は己の目を疑った。確かに、夜陰に紛れてはいたが、まさに、昨晩、あの公達の若君と琴を爪弾いた屋敷はここであろう。
「やはり、そうでございましたか。」
 何事も見通した目で玄馬僧都は姫とその父、早雲を見上げた。
「ここは?この屋敷址は一体…。」

「ここは、早乙女氏の屋敷址でございます。」

 しずと一人の若者の声がした。
 振り返ると、紺色の狩衣を着た一人の公達が立っていた。切れ長の目にがっちりとした体格。
「これは、九能家の若君、帯刀殿。」
 早雲が見上げた。
「先ほどお館へ伺いましたれば、こちらへ姫ともども参られたと。」
 あかね姫を見て公達は笑いかけた。
 姫は思わず身体に力が入るのを自覚していた。もしかして、父はこの公達と己を娶わせようとしているのではないかと直感したからだ。
「なかなか美しい姫君ではござらぬか。ふふ、気に入りましてにございます。」
 公達はすっと姫の傍に立った。

 ざざざざと風が薙いで一行の傍を通り抜けた。

「ふふ、魔物め。まるで姫に触るなとでも言いたげな。」
 九能の若君は誰彼と無く、言葉を吐きつけた。
「魔物とな?」
 早雲ははっとして九能の若君を見返した。

「姫君の美しさに惑い出でし魔物でございましょうや。」
 九能の若君は鼻先で笑って見せた。
「早乙女氏はその昔、九能家に滅ぼされた一族。違いましたかな?」
 玄馬僧都が静かに語りだした。
「強いものが弱いものを滅ぼす。人の世のこれは条理。」
 九能の若君は胸を張って言い放った。
「確かに、それが騙まし討ちでなく正々堂々と行われたものであれば。」

「貴様、九能氏を愚弄するつもりか?」

 その言葉尻を捕まえて、九能が僧都へと身を乗り出した。

「何ぞ?何も、九能殿のご先祖が騙まし討ちを仕掛けたなどとは、言ってはおりませぬが。」

 ピンと張り詰めた緊張の糸。
 暫し、若君は僧都と睨みあった。

「ふん、早乙女氏など、取るに足らぬわ。もう滅びた種族であれば。」
 若君は己がムキになりかけたことを自嘲気味に言い放った。
「本当にそう言い切れますかな。」
 玄馬僧都は無表情で九能の若君へ言い放った。
「どういう意味だ?」
 九能の若君が問い返す間もなく、
「姫君のその様子を見ても。」
 と付け加える。

 荒れ果てた屋敷の址に立つ姫は、すっかり血色を失っていた。
「姫君っ!」
 早雲がかすれた声で姫へと問いかける。
 放心し虚ろげな眼を見開いた艶やかな姫の顔。そこへと立ち尽くしたまま。



四、

 それ以来、あかね姫は床へと臥せってしまわれた。
 取るものもとりあえず、うわ言のように、早乙女の若君の名を呼び続ける。
 血色の良かった姫の頬は、たかだか二三日のうちに、みるみる痩せこけてしまった。

「いかがしたものであろうか…。」

 早雲は困り果ててしまった。
 九能の若君も心配げに、早雲の館へと足繁く通った。
 だが、姫君はまるで若君のことが目に入らない様子だった。この自尊心高い若君は、それだけで、すっかり姫の虜になっていた。
 思うように手に入らぬ高みの女ほど、それを得じと男は心を砕くものである。何より、この姫の美貌と玉肌は、都かぶれの田舎豪族には、玉のように眩しく見えた。
 是が非でも己の妻に迎えたい。そう望んだのだ。

 早雲にしても、願ったり叶ったりの縁談話。無闇に手放したくは無かった。
 姫の病を平癒させ、輿入れさせたいと強く願った。

 九能家へ楯突いたと一度は追い返された、玄馬僧都が再び呼ばれた。
 都から離れたこの偏狭の地では、玄馬僧都の他に、物の怪を退治する力を持ち合わせた高僧は居ない。ましてや都から呼び寄せたとしても、間に合わぬ。あかね姫の病状は刻一刻、目に見えて危機的状況に陥り始めていた。
 
 最早、彼の法力なしでは、片は付かぬ。
 九能の若君もぐっと堪(こら)えた。

「この姫君のご様子。まさに物の怪が姫君へと憑りついた証拠でござりましょうな。」
 玄馬僧都は淡々と答えた。
「その昔、この地は早乙女氏の荘園が栄えておりました。」
 玄馬僧都はゆっくりと語り始めた。
「誰が、昔話などせよと言ったっ!」
 九能の若君が割り込んだのを僧都は制した。
「まあ、お聞きなされっ!あかね姫を助けたいのでござろう?」
「ぐぬ…。」
 僧都にそこまで言われてはぐうの音も出ない。
「早乙女には一人の聡明な公達(きんだち)が居た。名を乱馬という。」
「早乙女乱馬?」
 早雲は僧都を見た。
「左様。人となり剛健にして、慈悲深く、当代切っての名君と歌われ申した。…ところが、かの君に嫉妬した隣の郡の若が、これを謀略にはめて、陥(おとしい)れなさったという。無常にも、若はこの地にて非業の最期を遂げられたという。その後、早乙女氏の領地は全て、隣の郡の領家へと吸い上げられてしまった。早乙女氏は滅び、その代わりに栄華を極めた氏もいる。これもまた人の世の流れのまじゃ…。」
 敢えてはっきりと言及はしなかったものの、暗に隣の郡の領家は九能氏のことだと言いたげに、玄馬は顔を上げた。
「その早乙女乱馬という若君には、一人の美しい許婚が居たのでございます。」
 玄馬僧都はつっと言葉を続けた。
「許婚?」
「ああ。元々早乙女乱馬も都の出自でな、この地に受領としてやってきたある貴族だったのだよ。それがこの土地で根を下ろし、器量の良さで領土を広げていったのだよ。」
「なるほど…。元々この土地に居た者としては、心安からずというところで、隣の郡の領家は、後進の早乙女氏を滅ぼしにかかったと。」
 早雲の言葉に玄馬僧都は然りと頭を垂れた。
「強い者、器量の良い者、それが栄華を極める。人の世の常ではある…。」
「その滅ぼされた若君が都に残したままの、美しき許婚はどうなりました?」
 早雲は気になったのだろう。僧都に尋ねてみた。
「都から聞こえてきた噂によれば、姫君は、早乙女の君が亡くなられてから剃髪なされた。…それも、また人の世の定めなれば。しかし、若君の菩提を弔われても、姫は若君を忘れられなかったそうな。いつしか、姫は蛍舞う池に身を沈めたと言われておる。蛍は人の魂を亡き恋人の下へと運ぶ。そんな話を信じられていたのじゃろう…。」
「何と…。」
 早雲は思わず袖を濡らした。
「姫には忘れ形見が居た。勿論、若君との間に生された娘。姫は剃髪される前に、その娘に観音菩薩像を残したと言われております。」
「観音菩薩像…。」
「何か?」
 玄馬僧都は早雲を見返した。
「あ、いや、我が亡き妻の形見に観音菩薩像がありましたれば…。」
 早雲はふと言葉を吐いた。
「何、観音様の像ならば、どなたでも持っておられるもの。特別珍しいわけではありますまい。」
 九能の君は隣から口を挟んだので、その話はそこで途切れた。
「その姫君の血筋は、いまだ絶えずに居ますのでありましょうや?」
 早雲はゆっくりと僧都を見やった。
「さあ…。それはなんとも度し難い。まあ、血筋が生きていなさっても不思議なことではないですがな。」
 僧侶はにっこりと細い目を線にして笑った。
「早乙女氏が滅びたのは、もう、数十年も昔の話であろうに。そんな、古い昔語りの男が、何故に、今、あかね姫を狙う?それに何故そんなことがことが僧都様にわかるのだ?」
 九能の若君は憮然とした表情を僧都に差し向けた。
「ふふふ…。人間年を重ねるとな、要らぬ物語だけはたくさん聞きかじおり思慮も深くなると言うものじゃ。おまえ様も年を取ればわかること。」
 九能の若君は合点がいかぬと腕を組みながら僧都を睨み付けた。
 僧都はぐっと身を乗り出して言った。

「見よ。姫君のご様子を。あれは尋常の様ではあるまい?」
 
 床に臥したまま、虚ろげに天上を見上げる姫の弱々しい瞳に、九能の若君も納得せざるを得ない。この時代、病は全て「魔物」のせいだと信じられていたのだ。

「恐らく、早乙女の君はあかね姫の中に、己の許婚の姿を重ねておられるのだろう。或いは、あかね姫はその許婚の姫に似ておられるのかもしれぬ。同じ名前を持つ姫君だからな。」

 早雲の顔が一瞬、凍りついた。

「同じ名前とな?」

 思わず問い返していた。

「早乙女の君の許婚の氏名(うじな)は、昔のことゆえ、もう忘れ去られたが、姫の名は「茜子」と言いなさったそうじゃ。」
 僧都は静かに言い放った。
「待て。何故そんなことがわかるのだ?」
 九能の若君は納得がいかないとまた、僧都を睨み付けた。
「愚僧がこの地へ参った時、加持祈祷をかの館で執り行ったことがあってなあ。そなたの父君に依頼されて。その折に、古い古文書でその名をはっきりと認めたのじゃよ。…それだけのことだ。」
「父君が?」
 九能の若君はぎょっとして僧都を見つめ直した。
「毎年、六月の満月の日にな…。早乙女の若はその日に業火に焼かれてお亡くなりになったと伝えられておるので、その供養にと…。五年ほど前のことじゃったかな。」
 
「同じ姫の名に、早乙女氏を滅ぼした家…。様々な因縁が、あかね姫を取り巻いて、呪っているのであろうか…。」
 早雲はぺたんと床の上に座ってしまった。

「案じなさいますな。この玄馬僧都に全てお任せあれ。私とて、無意味に修行を重ねて参ったわけではない。」
 そう言いながら僧都は笑った。



つづく



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