蛍火   上の巻



 いずれの御時にか、都から離れた郡の郷(さと)に一人の美しき姫君ありき。
 名は茜子。人々、あかね姫と呼び愛しみたまいき。此はあかね姫の数奇な物語なり。




 
 あかね姫の父、天道早雲は中流貴族。この度、受領に任命されて、都から東国の任地へと旅立った。その中に、この美しき弟姫も居た。
 育ち住み慣れた都を離れ、父と共に任国へ。
 交通機関が発達している現在と違って、それはそれは大掛かりな都下りの旅であった。再び生きて都へと帰れるのかすらわからない道行き。
 あかね姫には自分の他に同母、異母と数多(あまた)の兄弟姉たちが居た。これもまたこの時代の常であった。だが、任地まで共に赴いたのは、この姫だけであった。あかねは早雲の弟姫(おとひめ)。そう一番年下の姫であったのだ。
 年の頃合は十台半ば。もうそろそろ婿を迎えても良い年頃。
 もう良い年頃のこの父には、独身の姫は弟姫のあかね姫だけであった。父は決してあかね姫をないがしろに考えていたわけではない。任地の有力者に姫を嫁がせても良いと考えていた。そうすれば姫も末永く幸せに暮らせると思ったのだ。その上天道家もますます安泰となるだろう。
 この時代においては、勿論、恋愛さえも私欲の対象とされた。
「受領は倒るるところに土つかめ。」という諺がある。都を離れて地方へと任命された受領たちの多くは、上手く立ち回って、任地で貪欲に私利私欲を貪る者が多かったのもこの時代の常。そう、「受領」は決して任命された者にとって「不利益」となる話ではない。いや、むしろその逆であろう。
 数多の中流貴族の中には、わざわざ受領にしてもらうために、中央の高級貴族に「賄賂」を漬け届けるものまで居たという。
 あかね姫、生まれだちは雅やかで、父にも良く仕え、この時代の淑女の嗜みでもあった歌も管絃も巧みであった。
 良く知る人々は、かの姫が受領の任地へと赴くことを大変惜しんだともいう。今とは違って、蛮国へと下ることは、並大抵の覚悟では勤まらない。ましてや、何不自由なく育ってきた貴族の娘。
 だが、あかね姫は言われるままに父親と共に任国地へと旅立った。
 勿論、不安が全くなかったわけではない。
 これも己に課せられた運命だと、淡々と割り切った。
 手元には、母が残した「観世音菩薩の像」。亡き母の形見の小さな木彫り仏であった。何でも母親のずっとずっと前の祖先から伝えられてきた家宝だという。母親の縁の薄かったあかね姫に、この小さな立像は預けられた。
 



「姫さま、お目覚めでございますか?」
 御簾の向こう側からしわがれた声が聞こえた。
「ばあや。」
 ふと起き上がる長い髪の娘。
「そろそろ朝餉の支度が出来ましてございませば。」
 そう言って起床の時を告げる。これは都に居た頃から変わらない風景。姫は上半身をたおやかに起こし、御簾の内から外を眺めた。美しい紫色の花が千路に咲き乱れているのが見える。紫陽花だ。
 夕べから降っていた雨はあがって、久しぶりに覗いた太陽の光が紫陽花の葉の水玉にきらきらと煌めいていた。
 任国へ着てからそろそろ一月ともなろうか。ようやく、この田舎の地にも慣れてきたところであった。都の華やかさは無かったが、田舎は田舎ののどかな良さがあった。人々がこまめやかに蠢いている埃っぽい都と違って、任国地は生活自体もゆったりとしたものだった。
 今ある在所は、昔から建つこの辺りの領主が使っていた古い建物だそうで、所々柱が黒ずんでいたが、雨露を凌ぐのに不自由はなかった。かなり裕福な領主であったのだろう。
 受領の赴く土地にも様々あって、今回、あかね姫の父が任務を授かった場所は東国とはいえ、田畑開けるなかなか肥沃な土地であった。最初、この郷へと足を踏み入れた父は飛び上がって喜んだという。
「中央を牛耳る官僚へ、姉姫たちを嫁がせた甲斐があったというものよ。」
 と悦に入っている。
 あかね姫の生母は、これまた美しき姫君であった。姫の姉たちも、勝ると劣らぬ「美貌の姫」として都で時めいていた。父の身分が低かったので、上流貴族の正妻とまではいかないにしろ、皆、それぞれ二の妾か三の妾にはなっており、それぞれに婿様に可愛がられていた。
 何不自由のない退屈な田舎での生活。
 都から着いて来た少しの従者と、この土地で新たに仕え出した従者と。
 今あかねを起こしたばあやは、ここへ来て雇い入れた。その昔、やはり受領としてこの地へ来た従家の姫君に従っていたことがあるという。都人の生活様式も一通り知識があり、その上、この土地への貴族も深い。早雲は快くばあやを雇い入れ、姫に付き従わせた。
 ばあやも年の頃合はもうとっくに五十路は過ぎていただろうが、足腰立ち、良く働いた。年の功のなせる業か、思慮も深く、都を離れて寂しい想いをしていた姫の話し相手にも不足はなかった。すぐに早雲やあかね姫の気に入る召し人の一人となっていた。
 
 ばあやがつっと言った。
「この辺りの川面には、この季節になると蛍が乱舞するのだそうでございます。」
「蛍?」
 あかね姫の目が輝いた。
 話には聞くけれども、そう夜を自由に行き来できる環境には無い己。都の近くにも蛍の名所はあったが、勿論足を運んだことも無い。
 一度はこの目で蛍を見てみたいと思っていた姫。好奇心が頭をもたげてきた。
 最初は見ること聴くことが珍しいその生活にもそろそろ慣れかけてきて、ここら辺りで「刺激」が欲しいと思っていた頃合い。
「ねえ、ばあや、私も蛍を見てみたいわ。」
 駄目もとで頼んでみた。
 暫く考え込んでいたばあやが、ふっと姫を見上げて言った。
「その願い、叶えてさしあげましょうか。」 
「本当?」
 姫の目が輝いた。
「丁度、今夜は、お館様もこの辺りの豪族、九能様のお屋敷へお招きになっているとのこと。今夜ならば、こっそりと館を抜け出すこともできるでしょう。夜になるのをお待ちくださいませ。」
 

 夜、父親たちが出払ってしまうと、館はシンと静まり返る。
 待っていましたとばかりに館の警護たちにそっと酒を忍ばせて、体よく酔わせてしまったばあや。
「お館様がいらっしゃらない時くらい、ゆっくりと宴を楽しまれよ。」 
 と愛想良く炊き付ける。田舎の荒くれ男たちも、酒の魅力には勝てないようだ。皆、一様に気分よろしく酔い始める。
 鮮やかな謀であった。
 頃合を見計らって、ばあやは姫の袖を引いた。
「昼間に、蛍の乱舞しそうな場所を見つけてございますれば、姫様、これへ。」
 従者を伴うことなく、姫は闇に紛れて館の外へ出た。
 梅雨時の夕べ。どことなく蒸し暑さが漂う不快な夜。だが、姫はこんな冒険に心を時めかせる。
 今でこそ、深窓へと収まっているが、元々は男勝りな性格と好奇心の塊のようなお転婆だった。もし、身分というものが無かったら、こんな田舎へと暮らしてみたいとも内心思うような娘だったものだから、ぬかるんだ足元も全く気にならなかった。

 案内されたのは近くの沢。
「わあ…。綺麗。」
 思わず息を飲んだ。
 蛍たちが文字通り蒼白く輝きあいながら、短い恋の光を解き放つ。そこは蛍たちの浄土であった。
 姫は美しさに見惚れて、その光が輪になって誘う方へと足を自然に手向けていた。
「これ、姫様、あまりそこを離れてはなりませぬ。足元が暗ければ。」
 ばあやの声も気にならぬほどに。
 暫し見惚れていた姫は、ふと蛍の光が途切れたのを感じた。はっとして目を上げると、蛍火の中に、もっと大きな光を見つけたのだ。それはゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「誰?」
 姫は光に向かって言葉を投げかけていた。

「これは、これは、先客が居たとは。」
 澄み渡る男性の声がした。
 目を上げると、上背のある逞しい腕が、持っていた燈籠をこちらに差し向ける。一人の公達が涼やかな目でこちらを眺めていた。公達の後ろには一人の稚児が控えている。燈籠の紅い光が共にゆらゆらと輝いて見えた。
 
「月夜にほだされて蛍たちの舞を楽しみに来て見れば、あな、珍しや。美しき姫君がいらっしゃる。これは愉快だ。」
 ふと気がつくと、衣擦れの音と共に、公達は姫の傍らに立っていた。
 
 思わず姫は頬を染めた。

 月明かりに照らし出される、凛々しい姿。背中まで伸びる長い美しい髪がさらさらと後ろに靡いている若者。薄蒼の狩衣が浮き上がって見えた。
「暫し、蛍の夕べを、共に楽しみましょう。」
 公達はそう言うと、胸元から横笛を出した。そして徐に、楽曲を奏で始める。
 心に染み渡るような美しき旋律。その音色に蛍たちもひらひらと光を放ちながら舞い上がってゆく。
 それは幽玄様の世界であった。この世のものとは思えぬ美しさ。
 暫し姫は我を忘れて、まろやかな笛の音色と蛍たちの乱舞を愉しんだ。

 つっと笛の音が止まった。

「今宵はここまでにしましょう。」
 若者はそう言うと笛を大事そうに仕舞った。
「姫、そなたは、お見かけせぬ顔ですね。こちらへ来ていかほどに?」
 訛の無い声があかね姫をとらえた。そう、この辺りの人々の言葉ではない、殿上人の都言葉だ。この公達は都の人なのかもしれないと姫は思った。
「まだひと月も経ちませぬ。」
「おお、それでは新しい受領様の娘御か?」
 こくんと頷くあかね姫。公達はにっこりと微笑んだ。
「これはこれは、このように美しい姫君も共に都から参られましたか。これも何かの御縁。もしよろしければ、明晩も私と蛍を愛でてはくださいませぬか?」
 この時代、返事をした時点で、男女の仲を認めたことになる。あかね姫は流石に躊躇った。父の手前もある。
「何、心配はご無用だ。少しの間あなたと都の話をしたいまでのこと。それ以上のことは望みませぬ。」
 公達は柔らかく笑った。
 何故か香る懐かしい微笑み。
「ばあやが良いと言ったら参りましょう。」
 あかね姫はそれだけを伝えた。
「それでは明晩、月があの山羽に掛かる頃、ここでお待ちしています。」
 公達はそれだけを言い含めると、くるりと背を向けた。そして、侍らせていた稚児を呼び、しずしずと沢の反対側へと帰って行った。橙色の燈籠の火が遠ざかってゆく。あかね姫は暫し、呆然とその火の後を眺めた。

「姫。」
 傍らで様子を伺っていたのだろうか。ばあやが声を掛けた。
「ばあや…。」
 その声に我に返る。
「美しい公達でございましたな。」
 ばあやは歯抜けた口元でにっと笑った。
「ばあやはあのお方をご存知なの?」
 姫はじっとその顔を見返した。
「いいえ、存じませぬ。都から来られたようではありまするが。」
「どうしてそう思うの?」
「言葉でございます。この辺りの言葉ではありませぬからな。さぞや高貴なお方とお見受けできまする。姫様、お名前は?」
「言ってはおりませぬ。」
 名前を告げることは互いに好意を示したということになる。相手も自分も、今宵は明かさなかった。

「ねえ、ばあや。明日もここで会おうとかの方はおっしゃいましたが。」
「明晩もお館様はお出かけになるときいておりまする。こっそりとお出なされば問題はなかろうと思いますれば。」
 ばあやはにんまりと微笑みながら言った。
 あかね姫の顔がぱっと明るくなる。初めて会った殿方なのに、どこか惹かれるものを感じたからだ。
「さあ、ぼちぼち夜も更けて参らせれば、姫様、お戻りを。」
 
 二つの影はゆっくりと舞い上がる蛍火の中を、帰って行った。



二、

 次の日は朝から雨がしとしとと降りこめていた。
 夜更けまで沢で蛍火を見ていた姫は、少し遅くまで布団に臥せっていたが、誰も気に留める者も居なかった。早雲も上機嫌で明け方帰ってきて、そのまま受領の執務をこなしている。
 姫は夜に備えて、ゆっくりと身体を休めた。

 日が暮れる前に、早雲はまた九能家へと行って出掛けて行った。
 このところ毎晩のように九能家へと足を運ぶ。九能家と言えば、このあたり一体を実質上管理している豪族だった。
 早雲が出払ってしまうと、また、雑司たちはくつろぎ始める。ばあやは抜け目なく、家人たちを呼び寄せ、酒を振舞わせる。それが計略とは知らない家人たちは、酒に酔いしれ、いつしか深い眠りに就く。

「姫様、こちらへ。」
 ばあやがまた姫の袖を引いた。
 促されて、姫は再び館を抜け出す。月が山羽に掛かろうとしているのが見えた。姫はその細い足を懸命に動かして、約束の場所へと急いだ。
 蛍が舞う沢。
 その仄かな光の洪水の中に、一際目立つ灯火があった。沢の畔に目印のように灯る橙の灯篭。

「姫。必ず来られると思っていました。」
 公達がすっと現れた。
 昨夜と少し趣の変わった狩衣に身を通して、さらさらと長い髪を夜風に靡かせている。
「今宵は雨になるやもしれませぬ。ここで蛍を愛でるのも良いが、我が館へおいでなさいませ。」
 公達はあかね姫を誘った。
「でも…。」
 ふと後ろを振り返ると、ばあやがこくんと頭を垂れた。
「ばあやさまもどうぞ。何、下心などありませぬ。あの美しい月にかけても。」
 天上の朧月が雲間からぼんやりと二人を照らしている。微かに香る湿った空気の中に、確かに雨の匂いがする。
「我が館はすぐそこでございますれば。」
 姫は請われるままに公達の後ろへと従った。

 沢の畔を軽く半周したくらいの場所に、その館は建っていた。
 堂々とした門構えに、煌々と照らされた灯り。
 だが、見てくれの荘厳さに比べて、中はひっそりと静まり返っていた。従者たちは眠りにでも就いているのだろうか。

「夜更けゆえに、大したもてなしはできませぬが。」
 公達はそう言うと、姫とばあやを館へと上げた。
 中は質素な作りであった。部屋の隅には牡丹灯篭が煌々と焚かれて、二人の影を妖しく揺らせた。
 公達の手の音に反応して、すっと襖が開き、料理の皿が広げられた。川魚、野菜の炊き合わせ、餅など。派手ではなかったが、心尽くしのご馳走であった。
「毒などは入っておりませぬゆえ、ご安心して召し上がりなされ。」
 公達はにっこりと微笑んだ。少し箸を持ったまま考え込んでいた姫であったが、見たところ、姫の来るのを見越してわざわざ用意してくれたもののようだ。無下に断るのも悪いと思った。
 恐る恐る口元へ触れる。
 初めて食べる味であった。薄くも無く濃くも無く。まろやかな味。
 懐かしい。そんな気がした。

「姫は都から来られたのですね。」
 公達はゆっくりと語り始めた。
「はい。父上の下向に伴ってここまで。」
 姫はぽつんぽつんと己の身の上を話し始めた。自分の出生のこと、母とは死に別れたこと、そして父に伴われてここまで都から下ってきたこと。
「都か…。何もかも懐かしい。」
 ふと公達は憂いを帯びた目を空へと差し向けた。
「あなたさまは。」
「私も、都から来ました。もう随分と経ちますれば。それより、そなたの琴を聴かせてはくださらぬか。」
「え?」
「姫は琴を嗜まれる。そうではありませぬか?」
「どうしてそれが…。」
 あかねは琴のことなど公達には何も告げていない。確かに、琴を爪弾くことも出来る。
「姫のその指先を見ていますればわかります。それに、都の姫君は皆、一様に琴を嗜まれましょう?琴ならばそこにあります。」
 公達はいつの間にか用意された琴を指差した。
「姫様、宴のお礼に、一曲、奏でて差し上げなされませ。」
 ばあやが傍らから進言した。あかね姫はこくんと頷くと、琴を爪弾き始めた。
 コロン。ポロン。
 琴はあかね姫の指に吸い付くように弾けて、美しい音色を奏でた。公達は笛を取り出して、姫の奏でる琴に合わせ、悠長な音色を吹き始めた。姫の琴は公達の笛に、ぴったりと合う。不思議と心が洗われる。
 流れてゆく時間を惜しみながら、二人は互いの楽器を合わせ続けた。

 何故だろう。初めて合わせた気がしない。
 知らない音色なのに、聞き覚えがあるような、懐かしさ。
 姫は夢中で琴を鳴らし続けた。

 奏でていた旋律がふっと途切れた。
 しなやかな太い手が姫に伸びる。ふと力が緩んだ。
 はっと気がつくと、彼の腕の中に居た。
「お戯れを…。」
 あかね姫はそれだけを言うのがやっとだった。
「私はそなたをずっと待っておりました。姫…。」
 公達は姫をぎゅっと着物の上から抱きしめると、耳元で囁いた。
「あなた様は始めからこのようなつもりで…。」
 覆い被さる身体を押し戻しながらあかね姫は続けた。
「月に誓って何もなさらないと言われましたのに…。」
「月は厚い雲の中に隠れ去ってしまいました…。それよりも、やっと待ち続けた姫にこうして再び巡り合えましたれば。」
 彼が何を言わんとしているのか、あかね姫には皆目検討がつかなかった。
 身体をくねらせて、青年の呪縛から逃れようと足掻いたが、所詮はか弱き女性。ぎゅっと抱きしめられてしまっては身動きすることも叶わなかった。
 だが、予想に反して、公達はそれ以上の行為に及ぼうとはしなかった。じっと、姫の身体を腕に抱きしめる。ただそれだけ。
 やがて、あかね姫の波打った心臓は落ち着きを取り戻し始めた。緊張がふっと抜け落ちたのだ。
 衣擦れの音が耳元でさやさやと囁きかける。

(私もこのお方を知っている…。)

 微かな既視感(デジャウ)。彼の匂いも、胸の感触も、触れるもの全てが懐かしい。勿論、先ほどの音色も。

「もう別れの時が参りましたね。」
 寂しそうに顔をあげる公達。
「あと少しで夜が明けます。そろそろお戻りになる時間にございますれば。」
 ばあやがふっと言葉を挟んだ。
「もう、そんな時間に…。」

 後朝の別れとまでは言わないが、一抹の寂しさがあかねを取り巻いた。
 ずっとこのまま、彼の胸に静まっていたい。そんな願いが脳裏を駆け巡る。

「今宵は姫のおかげで楽しく過ごせました。よろしければ、また、お会いしとうございます。私の名は「早乙女乱馬」。姫君は。」
 つと公達の口から初めて名前が漏れた。
「私は、天道早雲が娘、茜子。あかね姫にございますれば。」
「あかね姫…。」
 乱馬はにっこりと微笑んだ。
 互いに素性を明かした時点で、男と女の契りの約は結ばれる。そんな時代であった。
「婚儀(ことぶき)整え、いずれ、そなたをお迎えに上がりましょう。姫君はいかに?」
 そう申し上げれば、あかね姫は頬を染めながら
「お待ち申し上げております。」
 と答えた。
「御印を。目を閉じて、あかね姫。」
 乱馬はそう言うと、あかねの着物を少しだけ襟ぐりからはだけた。そして、玉のような白い首筋の下辺りへと口を這わせた。
ふうっと吐きつけられる、甘露の吐息。ぞくっとするほどの快感があかね姫の身体を駆け抜けて行った。
 そして、口伝にあかねの体内へとゆっくり吸い込まれてゆく甘い息。その存在を確かめるように吸われ、吹き入れられる熱い吐息。
 姫はうっとりと乱馬に身を預けた。

「必ずお迎えに上がりますれば…。」
 乱馬は軽く微笑んだ。


 それからどうやって、館を辞して自宅へと帰りついたのか。あかね姫の記憶はそこでぷっつりと途切れた。




つづく




(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。