星迎へ 第四段
その夜を最後に、茜之丞は男装束から女装束に戻った。
そう、一人の姫君として、本来の見目形に戻ったのだ。
館の人々だけではなく、領地中の人々が驚愕した。今まで「男」と信じていた若が本当は「姫君」だったのだ。何か悪いものにでも憑依されたのではないかと、話す者まで居た。
だが、あかね姫には、人々の好奇の眼差しなど、どうでも良かった。
本来あるべき姿。今まで剃り上げていた前髪も伸ばした。そして、手にしていた弓刀を手放し、たおやかな美しい手で、管絃を爪弾いた。元々持っていた貴婦人としての才覚。ずっと封印されていたその才能が、一気に開花してゆく。
あかね姫の噂は、国中だけではなく、諸国へと伝わって行くことになる。
「天道氏のあかね姫は、気高きまでの美しさがある。男と生まれたならば、一度きりでもその腕に抱きたいものよ。」
と。
娯楽など殆どない戦乱の世。門説経などの語り部たちが、面白おかしく噂を広げてゆく。噂が噂を呼び、国中だけではなく、近隣の諸国から、姫君を人目見んと好奇の人々が集まり始める。中には、姫に求愛する武人なども現れた。
姫はすげなく断り続けた。
中には力づくで襲い掛かる、不埒な野郎も居た。
だが、姫は元は武人の茜之丞として鳴らした腕前。並程度の男が敵う女人ではない。
襲い来る男どもは尽く、姫の手で沈められれた。
「我は誠に強き者しか、交わりはせぬ。」
最後にはいつもそう吐き棄てる。
孤高の姫君と、周囲の者たちは囃し立てた。
その評判が評判を呼び、更に、あかね姫の噂は広がる。
「姫よ、早乙女の君が身罷られてから、どうしたというのだ?」
父親の早雲殿は心配げに姫を見守っていた。痛々しいまでに変わり果てた姫の姿。
「本来ならば、もう、子供の一人もご出産なされてもいい年頃というのに。この父が不甲斐ないばかりに、おまえには気苦労ばかりかけてきた。」
早雲は、不憫に思いながらも、姫のやりたいようにやらせていた。
この悲運の姫に、自分は何も言う資格などない。
あかね姫の噂は、いつか九能氏のお館さま嫡男の耳元へと届いた。
「ほお、世にそんな面白い姫君が居るのか。それは是非にこの目で拝んで見たいものよ。」
早乙女氏を滅ぼしてからというもの、九能氏を留め置く勢力はなくなった。
周りを併合しながら、九能氏はどんどんと勢力を伸ばす。いつか、征夷大将軍にでも命ぜられて、都へ駆け上がり、この戦乱の世を統一するのではないかと一目置かれるようになっていたのだ。
その嫡男は、まだ若い。
まだ単身で、そろそろ正室を求めているともっぱらの噂であった。
「その姫君を連れて来い。直々に吟味してやろう。もし、こちらになびかぬときは、天道氏諸共滅ぼしても構わぬ。」
若は手の者に言いつけた。
戦にまみれた九能氏の武士ども。
手には弓と刀をつがえ、何百騎にも及ぶ軍勢を、天道氏のたもとに使わした。
元々はしがない田舎部族。
戦うことも敵わずに、すぐさま九能氏の軍勢に周りから囲まれた。
白旗を揚げて場内へ敵を招き入れるしか、最早打つ術も無い。
あかね姫は凛と胸を張り、館の屋根の上に立ち上がった。
「やい、聞けよ、九能の武士ども。我こそは天道茜之丞改め、天道あかね。女人ではあるが、気高き武士(もののふ)の心は棄てては居らぬ。もし、私を所望するのであれば、大将自らここへ赴き、私と合間見えるが良い。それとも、何か。九能氏はこの私をも恐れる臆病者なのか?」
弓矢をつがえていた、九能氏の武将どもは、皆、一様に気の強き姫君を望み、舌を巻いた。もし、ここを正面突破し、天道氏を滅ぼし姫君だけを奪還せしめば、九能氏は女一人我が物には出来ぬ不能者と、世間の恥を晒してしまう。いや、あの気の強い姫君はこれ見よがしに館に火を放ち、見事に自害を遂げるだろう。
どうしたものかと、九能氏の手のものは、お館に引き返し、若、直々に、その旨を乞うた。
「面白い。そは誠に強い姫君であることよ。気に入った。是が非でも我が正室に迎えん。」
ならばとて、九能の若君は、自ずから隊列に加わり、天道氏の館を目指した。
再び巡り来る季節は真夏。
九能の手の者は、天道家の館を取り囲んで、一匹の犬すら逃げないように目を見張らせる。
「ご苦労であった。」
大きな白馬にまたがった、九能家の嫡男、帯刀が手綱を回してそこへ現れた。
すぐ目の前には、天道氏の左程大きからぬ屋敷。煌々と天道氏の御旗が紺碧の夏空へと棚引いている。
「麗しの姫君は、あの屋敷内か。」
帯刀は目を細めて遠眼鏡を取った。
天道氏の館の中央に聳え立つ屋敷の大屋根。その中ほどに彼女は居た。
すっくと立った気高き姿。男様の髪型ではない。何処にでも居る姫君の長き垂れ髪、薄く施された化粧、そして、女性用の袿(うちぎ)の上に甲冑という井出たちは、美しいほどに目立っていた。
「おお、あれがあかね姫か。噂に違わぬ美姫(びき)ではないか。」
九能の若は満足げに微笑んだ。
「彼女ならば、まさに我が妻に相応(ふさわ)しい。さっそく、誰かあらん。」
そう言うと、そそくさと天道氏の館へと使いを渡す。
使いの持って来た文を眺めながら、早雲は思案に暮れていた。
「あかね姫を若へ差し出せ。さもなくば、天道氏は領地農民まで尽く皆殺し。」
書にはそう書き連ねてある。
城の武士たちだけなら何とでもなる。だが、領地民までにも禍が降りかかるのは領主として耐えがたきことであった。
「茜之丞…。いや、あかね姫。」
父親の早雲は、悲痛な眼差しで娘を見た。
「父上。数々の親不孝をお許しくださいませ。私の御心はもうとうに決まっておりまする。そのために「女」へと戻ったのでありまするから。」
宣としてあかね姫は父を見上げた。
「父上、お願いがございまする。今回の件、領地民には無関係なれど、最早禍を免れることは敵いますまい。せめて、民の者には迷惑をかけぬように、私は…。」
彼女の真っ直ぐに見つめる瞳は、何を話そうとしたのか、父には瞬時に理解できた。あえてあかね姫の言葉を遮るように、早雲はゆっくりと言葉を継いだ。
「姫…。そなたがそこまで申されるなら、父も何も申すまい。存分になされよ。それがおまえの志であるならば。たとえ天道氏の未来が潰えても、これも、運命と諦めようぞ。」
父は寂しげに笑った。
「ありがとうございます。父上。」
あかね姫は深く頭を下げた。
「これを九能の大将へ。」
姫は予め、書き連ねていた文を、九能氏へと使わせた。
その文には
「明晩、七夕の宴へ大将御自ら参られよ。共に、男星と女星の逢瀬を愛でん。」
という趣旨の文が、簡潔に書き認められていた。
「おお、これは。」
九能の若君は、あかね姫が申し入れを快諾したものと、浮かれ足だった。
七夕の宵がどんなものか、この、趣味人の若は全く知らぬわけではなかったからだ。何より、こんな田舎武士の娘が、七夕の節会を知っていることが、いじらしいと思った。
明けて七月七日。
その夜は見事な天の川が天空を見下ろしていた。
天道の館は、朝から家人たちがかいがいしく動き回った。
やれ、ご馳走の準備だの、宴の設営だの。家人たちは精一杯のもてなしを、九能の若君のために整えたのである。それも、早雲の指図であった。
「肴も酒も料理も、全て、贅を尽くしてご用意いたせ。」
その立ち居振る舞いに、家人たちは、あかね姫が九能の若君へと嫁がれると思った。武士たちも、台所の女人も、汗水をたらして働きずくめた。
夕刻になって、早雲は、家来たちを集めて言った。
「今日は大儀であった。皆のものには悪いが、今宵の宴は九能の若君と我ら親子だけの静かな夜にしたい。多分、九能の若君もそれをお望みの事と思われる。本日用意いたしてもらった宴は、九能の若君の家人たちにふるまおうと思う。何、この縁が上手くまとまれば、我が天道家の領地民に至るまで、三日三晩の宴を開いて、祝い明かそう。今夜は皆々、家に帰り、ゆっくりと身体を休められるがよろしかろう。」
当主の早雲は家人たちを前にそう言い放った。
家人たちは、宴に参加できないことを少し残念そうに思ったが、身内だけで九能氏の嫡男をお迎えして、そのまま、あかね姫と縁を結ぶのだと、それぞれ納得した。
この切羽詰った状態では、あかね姫を九能の若に差出し、関係を持って外戚となる以外は天道家の家を存続させる道はない。あかね姫は最後の砦なのだ。
九能の若君があかね姫を気に入れば、そのまま、室として迎え入れるだろう。二人の間に男子でも生(な)せば、九能氏の外戚としての地位も安泰だ。
人払いしてまでも、早く、あかね姫と縁を結ばせたい苦しい手の内を、家来たちもわかったのだろう。誰も異を唱えるものは居なかった。
子飼いの本当に身近な従者だけを残し、早雲は、九能氏に対して、謀反の心がないことを見せしめたのだ。
少なくとも両陣営の人々はそう理解した。
夕暮れになって現れた九能氏の嫡男、帯刀は、屋敷に人影がないのを最初は訝(いぶか)った。
「まさか、武人を後ろに控えさせ、我を謀(たばか)り打ちにする気ではなかろうな。」
じろりと辺りを見回す。この若も名うての剣士であると、巷の評判であった。
数十貫はあろうかという大きな黒い立派な鎧兜。それに付き従う従者どもも、剛勇の構え。
早雲は謀反の意がないことを、己が刀などの武器を何一つ身に装することなしであらわそうとした。烏帽子はかぶっていたが、甲冑など勿論、装着せずに、直垂(ひたたれ)だけにて静かに九能の若と対峙した。その身構えも腰も頭も低かった。
「本日は七夕の宴なれば、姫共々、精を尽くして若君を持て成しましょうぞ。」
そう言って軽く拍手を打つ。と、襖の向こう側から、得も言われぬ、美しい琴の音色が響いてきた。
「こは?」
「あかね姫にてございまする。」
早雲は深く頭を下げると、ゆっくりと立ち上がって、思わせぶりに襖を開いた。
「おお…。」
暫し若君は姫の姿に目が釘付けられた。十二単とまではいなないが、美しい袿(うちぎ)に身を固めた、色白の姫が目の前に姿を現したからだ。
「これは、噂に違わぬ美しき姫君よ。」
九能の若はにんまりと微笑んだ。舐めるような視線で姫の頭先から爪弾く手、そして、ゆらゆらと揺れる下半身を見やった。
ぎゅっと結ばれた唇と、凛と弦を見下ろす目に、男には絶対に靡かぬと言わんばかりの気高き心も感じさせる。
「気に入られましてでございますかな?」
早雲はふっと笑みを浮かべた。
それに対して若は満足げに首を縦にふった。
一心不乱に琴を爪弾くあかね姫。今宵、彼女の白い肢体をこの腕に抱ける。そう思うと、天にも昇らんばかりの気持ちであった。だが、おくびにもその助平心は出さず、すすめられるままに、酒を一献、また一献と重ねてゆく。
他の九能氏の郎等たちは、別室にて、酒宴のもてなしを受けていた。無礼講と言わんばかりに、酒と料理が目の前に置かれている。どれも、贅のありたけを尽くされたもの。酌をする女人が見当たらす、老婆と少数の下人しか居ないことだけが残念ではあったが、今宵は若のための宴だと、皆、それなりに満足している様子だった。
庭で炊かれたかがり火は赤々と闇を彩る。
若はあかね姫の琴を肴に、心地よく酔われていった。
そして、夜更け。
九能氏の郎等たちも、心地よく酔いしれていた。
勿論、若君も。
そろそろ、夜風が涼やかに吹き抜けてくる。
「さて…。世も更けて参った。本日の床は、あちらの離れにご用意してございますえれば、朝までごゆっくりとお過ごしくださいませ。」
早雲はちらりとあかね姫を見やった。わかっていると言わんばかりの物言いだった。
「あちらの離れか…。この場所でも良かろうに。」
そう言いながら若はにわかに立ち上がり、あかね姫の傍に擦り寄った。あかね姫の肩がビクンと動いた。力が入ったのである。
若の目にはその様子面白おかしそうに映ったのであろう。
「姫。」
そう言いながら酒臭い息を吹きつける。
あかね姫は妖艶な笑みを浮かべてそれを一蹴した。
「若、私の寝屋はあちらでございます。ここは、母屋に繋がり、誰が覗いているやらわかりませぬ。」
とやんわりと言い含める。
「ふふふ。誰が覗こうと一向に私は構わぬが。」
若は身を更に乗り出してくる。
「若がよろしくても、私はいやでございます。人の目が気になれば、上手く添い寝を遂げられますやら…。」
添い寝という言葉に若は反応した。こういう言葉が自然に漏れるということは、最早彼女の承諾を得たも同じことだ。
「姫は、男は初めてか?」
その言葉に、はにかむように頷いて見せた。勿論、嘘だ。
「ならば恥ずかしいと思うのも無理はなかろう…。よし、寝屋に案内いたせ。…そこで朝までたっぷりと可愛がってやろうではないか。」
そう言いながら唇を寄せてくるのを、あかね姫はひょいと潜り抜けて、すっと立ち上がった。
「では、こちらへ、お出でませ。」
淡々と前に立って歩き始める。
ふられた形になった若は、怪訝な顔をちらつかせたが、少しの我慢でこの高慢な姫を自分の元で存分に抱けるのだと納得した。いくら姫が嫌がろうと、寝屋に入ってしまえばこちらのものだ。
姫はゆっくりと離れの方向に歩き出した。
そうだ。かつて、乱馬と逢瀬を重ね、愛し合ったあの思い出の部屋だ。
渡り廊下から見上げる天の川が、あかねを刺すように光り輝いているように見えた。ちらりと見上げた満天の星たち。その中に、今宵、一年ぶりの逢瀬を重ねる男星と女星が光り輝いているのだろうか。
「さあ、姫。」
行灯が仄かに輝く離れの部屋の前で、九能の若が一つ微笑んだ。そしてぐいっとあかね姫の手を取った。
散々じらされたのだ、これからは存分に楽しませてもらう。
そういう意志が感じ取れた。
「若、先に床にてお待ちください。」
あかね姫は肩に力を込めて小さく言った。
「そうはいかぬ。今、このまま姫君を。」
突然、若があかね姫に襲い掛かった。そう、彼が「男」に立ち戻った瞬間であった。
だが、あかね姫は元は「茜之丞」として、男としてならした身のこなし。九能の若の追尾をすいっとかわした。
「な?」
酔っ払っていたとはいえ、軽くいなされて、若は前につんのめった。
「お覚悟っ!」
あかね姫は着物の下に隠し持っていた短刀を振りかざした。乱馬から別れ際に貰った思い出の代物だ。
次の瞬間、つっと、あかね姫の細腕から鮮血が流れて落ちた。
「ふんっ!小癪な。私にそんな手が通用するとでも思っていたのか。」
前に立ちはだかった九能の若は、がっしと短剣の柄を握り返していた。
「ううう…。」
いくら男として腕を鳴らしていたとは言え、元は女性。九能の若は短剣をゆっくりとあかねの方へと戻して行く。
「可愛さ余って憎さ百倍とはこのことか。貴女のその頚城をこの短剣で掻き切ってくれよう。」
若があかねの短剣をその右手に握り返そうとした瞬間であった。
ぱあっと赤い光が寝屋から眩しく煌いた。
「何?」
吹き抜ける生温かい風。
そこに漂うのは、正しく「妖気」であった。
「何奴だ?そこに居るのはっ!!」
尋常の様ではない気配に、思わず血走る若の声。
『忘れたとは言わせぬ。九能の嫡男よ。』
部屋の中で響き渡る声。
「乱馬っ!!」
あかね姫はその気の主をすぐさま見抜いていた。九能にとってはおぞましき怨霊の気でも、あかね姫にとっては懐かしい。
「お、おまえは、早乙女の…。」
『いかにも…。正面切って挑んだ戦いに、おまえの姦計にあって、二度までも滅ぼされた恨み、決して忘れはせぬ。その上に、我が妻に手をかけようなどとは…。』
「我が妻だと?」
『そうだ。あかね姫は、我が愛しき妹背(いもせ)。おまえの手になど汚させはせぬ。』
乱馬の身体はほんのりと光り始める。
「実体の無い貴様が、どうやって、私を倒すというのだ?」
九能の若はきっと睨み返す。
あかね姫はすかさずに、短刀を奪い返し、それを振りかざす。
「猪口才なっ!」
九能の若は自分の脇差に手をかけた。だが、何か強い力で引っ張られているのだろうか。脇差は抜けなかった。
「うぬぬ!何故、抜けぬ?」
一瞬の遅れは、致命的な結果を招く。
「我が夫、乱馬殿の無念、我ここに晴らしたりっ!でやーっ!」
あかね姫は逆手に持った短剣を、思い切り、九能の若の喉元に突き立てた。
「うわああああーっ!!」
九能の若の断末魔の叫びが、屋敷中に響き渡る。
あかね姫が九能の若の体から身を引いた時、ドズンと鈍い音がして、巨体が寝屋の中央へと斃れた。うつ伏せになった若の体から、紅き鮮血が流れ出す。
「終わった…。全て終わった。」
あかね姫は肩で息をしながら、斃れた若を見詰めた。カランと手から滑り落ちる短剣。
だが、あかね姫の身体からも、溢れんばかりの鮮血が滴り落ちていた。九能ともつれ合った時に、傷ついていたのだ。
九能の若が斃れた弾みに、部屋に灯されていた行灯が傾き、燭の火が燃え上がった。あかね姫はその炎の中に、暫し立ち尽くす。それからそのまま、炎の中に倒れこんだ。
若の悲鳴を合図に、早雲が館に火を放ったのだろう。館のそこら中から火の手が上がった。九能の郎等どもの叫び声が母屋の方でいくつも重なる。
主を失った軍勢は烏合の衆と成り下がるのも時間の問題だ。
ごうごうと燃え始める赤い火柱。
だが、最早、あかね姫の耳元には、屋敷中から上がる喧騒の音など、聞こえはしなかった。ただ、目の前を揺らめく赤い炎の音だけが響き渡る。
あかね姫は傷ついた身体を静かに床の上に投げ出していた。仰向けに見上げるそこに、懐かしき微笑が静かに己を見据えていた。
あかね姫も、また、ゆっくりと彼に笑みを手向けた。
『あかね…。』
白く輝く乱馬の口元がそう動いた。
あかね姫は最後の力を振り絞って、手を上にと差し上げた。掌が一瞬大きく開く。
「乱馬…。」
火の中に沈んでいた身体がふわっと浮き上がる感覚。何かに優しく抱き上げられたような感じに捉えられた。
『これで、やっと姫を我が腕に抱ける…。』
耳元で聞こえる言の葉。
『乱馬…。私をしっかりと抱いて…もう離さないで。』
そう念じながら目を閉じた。
『ああ、もう、永遠に離しはしない…。』
その夜、天道氏の領地の民たちは、燃えあがる館から、静かに天を目指して昇ってゆく、男女二人の姿を見たという。
白く闇の中に浮かび上がる二人の姿に、人々は、七夕の夜に天の男星と女星が地上に舞い降りてきて逢瀬を楽しんでいたのだと口々に噂しあった。
いや、先に天に上がった乱馬という男星が、地上に残した妻、あかね姫を迎えに降りてきたのだと、天道氏ゆかりのあるものたちは囁きあった。この地上では添い遂げられなかった儚き愛も、次の世ではきっと幸せになって欲しいと願わずにはいられなかった。
その後、天道家は再び興隆することはなかった。天道早雲も、あの七夕に館に火を放って以来、姿を消した。あかね姫の遺体も見つからなかったという。
対した九能氏は、嫡男を失って以来、その勢いがふっつりと途絶えてしまった。そして、いつしか後進の武家勢力へと飲み込まれて行った。弱肉強食の世界の厳しき世の習わし。
今も空の星たちは、変わらぬ光を地上へと注ぐ。
悲しき言い伝えを光り輝かせながら。
完
戯言
「雨月物語」の一作「菊花の約」を底本に広げた世界。
「菊花の約」は「義兄弟」のちぎりを交わした「左門」と「赤穴」の物語です。再び会おうと約束した日は「九月九日」。そう、重陽(ちょうよう)の節句です。菊酒を飲む風習が古くにあったそうです。
なお、本当は「男武士」の世界を描いた作品です。約束を守るために、自ずから命を絶ち、百里を駆けて義弟(左門)の元にかけつけた義兄(赤穴)の話です。
それを乱×あで書くにあたり、無理やり「男女の契り」に変えた私。そんなもんで、あかねちゃんは前半部「男装の麗人」で書かせていただきました。
また、乱馬、幽霊だし、九能ちゃんは乱入するし…。限りなく「やっちまった感」が強い作品になっております。
なお、選んだ「七夕」は、旧暦を意識しています。現在の七夕は新暦にそっているのが殆どですが、本来は八月中頃だったことを最後に付け加えさせていただきます。
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