星迎へ   第三段


 月日の流れは、悠久のようでその実、早い。
 乱馬を待つあかね姫の上に、秋は過ぎ、小雪舞い散る冬が来て、新しい歳が明け、桜が咲き、再び夏への炎を上げた。
 そして、天の川が冴え渡る、秋に入り口へと差し掛かる。
 今と違って、戦国の世は旧暦を元に人々は生活をしている。七夕も新暦の今よりはひと月後。まだ真夏の太陽は照り付けるとはいえ、何処と無く秋の気配が立ち込め始める。
 昼間は汗だくになる日が続いていたが、夜になると、涼やかな風が渡り始める季節になった。
 そう、乱馬と分かれて一年という歳月が流れようとしていた。


 あかね姫は、約束どおり、ずっと男の姿に身を固め、乱馬の帰還を待ちわびた。
 勿論、家人たちの前では、今までどおり「天道氏の嫡男」として立ち居振舞うことを忘れなかった。着るものも身につけるものも男。髪型も何処から見ても武人の若君のまま。
 膨らみ始めた胸も、さらしでしっかりと巻き上げ、厚い胸板に見せかける。
 日々、父と共に馬で野山を駆け巡り、武人として身体を鍛えることも忘れはしない。
 たった一つ、女の部分が残っているとすれば、それは、乱馬という最愛の男性を待ち焦がれる心だけだろう。
 約束の時は目の前に迫る。
 移り行く季節を眺めながら、あかね姫はただ、その日を待って待って待ちわびた。
 
 戦乱の世は一向に治まる気配は無く、相変わらず「下克上」の世は続いていた。
 末法に入ったからだと、僧侶たちは嘆き、人民たちもいつ生活が一転するかわからない、不穏な空気を吸いながらも、その日その日を必死で暮らし続ける。
 茜之丞として乱馬の帰りを待つあかね姫。その耳に「吉報」はなかなか届けられなかった。いや、吉報どころか、野に解き放った間者たちが持ち帰る情報は、早乙女氏には厳しいものばかりであった。
 早乙女氏を滅ぼした九能氏は、ますます勢力を広げ始め、武蔵一体を皮切りに、だんだんとあかね姫たちの地方へも、その影響力を強めてきていた。
 今月はどこの小さな領国が九能氏の手に陥落しただの、明日はこの郡目掛けて攻めあがって来るやもしれぬなどと、人々も口さがく噂をし合った。
 最初は勇猛と打倒九能氏と沸き立った早乙女氏の残党の話も、すっかりと途切れてしまって久しい。

 「信じて待つこと。」
 この一年間に、あかね姫はどれだけの我慢をしてきたのだろうか。
 一人で寝る静かな夜は、乱馬の逞しい腕を思い出す。乱馬もまた己を思い出してくれているのだろうか。
 恋焦がれながら指折り数える、朝と夜は、いつしか「七夕の夜」へと時を導いていた。

 あれから一年。約束した日は今夜だった。

 だが、当然のことながら、早乙女氏の音沙汰も、何もあかね姫の元へは届けられなかった。
「乱馬…。あなたはこの空の下の、どこに立って、七夕の星たちの逢瀬を見上げているのかしら…。」
 寝られぬままにあかね姫はふっと夜空を見上げた。
 髪は若君らしく、後ろで一つにくくられている。前髪も落とし、きりっと引き立つ凛々しい顔を星空へと手向ける。
 今日は夕立も無く、空は澄み渡るほど美しく星たちが輝いていた。
 ひっそりと静まり返る奥の庭。その向こう側には、雑木林が続く。あかね姫は吹き抜ける夜風に誘われるままに、屋敷を囲う土塀から外へ出た。
 どこからともなく、秋の虫たちが、恋を求めて鳴きひしめく。鈴虫やコオロギ、松虫たちの、呼び合う声が草陰からうるさいほどに響き渡る。その上に輝く、星の河。
 あかね姫は気がつくと、天道家の裏山にひっそりと立つ、小さな祠の前に出ていた。天道家がこの小高い丘の下に小さな要塞のような屋敷を建てた時、一緒に祀ったという、元々このあたりを守っていた土地神の祠だと、父親からは聞き及んでいた。どんな言われがあり、どんな御利益をもたらしてくれるのかさえ知らぬ小さな祠。それらしく、注連縄を張り巡らせ、あたりを少しだけ平らにならしてある聖なる場所。
 そこから見上げる星空は、最高に美しかった。
 幼少の頃から泣きたくなると、あかね姫は独りでにこの場所にやってきては、空を見上げた。大概は澄み渡る青い昼間の空だ。そして、遥かに富士の高峰を望む。
 人知れず、ここへ来ては泣いた日々。理由は様々であったが、今日は、まだ帰らぬ乱馬を想い、ここまで深く入って来た。手には小さな蜀を持っていた。

「乱馬…。約束の日は今日だったけれど…。あなたは帰ってはくれなかったのね。」

 今は交流甚だしい九能氏を、一度滅ぼされた氏族が倒すのは至難の技。乱馬がここへ来られない理由もわかってはいたが、溜息が一つ漏れる。あの時、すがり付いてでも一緒に行くべきではなかったか。そう思うと、後悔という言葉が脳裏に浮かんでくる。
 じっと待つことしか出来ない自分がもどかしかった。
 いつの間にかあかね姫は祠のたもとに腰を下ろし、うとうとと眠りかけていた。
 満天の星たちは、あかね姫を静かに見下ろし続ける。

 と、微かに人の気配がした。

「誰?」
 あかね姫は持っていた刀の柄に手をかけた。
 女とはいえ、武人だ。人の気配を察知できるくらいの能力は持っている。
 後ろに広がる雑木林の方に、確かに感じる気配。
 生温かい風が頬を撫でながら正面から吹き付けて来る。
 目を凝らすと、ぽおっと蒼い光が浮かび上がったように見えた。その光を見据えたあかねの目がぐっと見開かれてゆく。
「貴方は…。」
 瞳はじっとあかね姫を佇みながら微笑みかける若武者の姿を捉えた。

「乱馬っ!」

 夢中であかね姫は駆け出していた。

 だが、蒼い光の中に居る彼は、右手を前に押し出して、あかね姫を制した。その真摯な瞳と、待ったをかける手に応えて、あかね姫はその場で動きを止めた。
「乱馬?」
 あかね姫の言葉に静かに彼は応えた。

「私は、約束を守るためにここまで来たんだ。あかね姫…。」
 虚ろげな瞳は憂いを帯びながらも、愛しげに自分を見下ろしている。
「やっと、御本懐遂げられましたか?」
 あかねは乾いた唇を開いて乱馬に問うた。彼が自分の元へ帰ってくるというこは、九能氏を倒し、お家を再興したという証であったからだ。
 すぐに答えは無かった。乱馬は暫し考えているように口をつぐんだ。
 再び湿った風が二人の間を吹き抜けた。
 いつの間にか、周りで鳴き盛っていた虫たちの声も聞こえなくなっていた。
 寂しげに口元に笑みを浮かべると、乱馬は静かに言葉を解き放った。

「姫…。本懐を遂げられず、そなたを迎えに来られなかった私を許して欲しい。」

 それは腸(はらわた)に染み入るような静かな声だった。
 あかね姫は驚いたように、乱馬を見詰めた。

「私は最早「陽世(うつせみ)」の人にはあらず。霊(たま)の形にて身を現した者なり。」
 消え入りそうな蒼い声が苦しげに答えた。
「すまない。そなたと固い誓いを交わしていたのに、今の私はそなたをこの胸に抱くことすらできないのだ。」
 あかね姫はその時、初めて、彼がこの世の人ではないことを理解した。
 そう、彼は戦いに敗れて死んだのだ。
 戦慄(わなな)くような唸り音をあげて、風が凪ぎ渡っていった。

「いいえ、乱馬。私は…約束を違わず、霊魂に身をやつしても、ここへ、…私の元へ会いに来て下さったことが嬉しゅうございます。」
 じっと待ち焦がれた男性(ひと)を見詰めるその瞳。
「姫っ!」
 乱馬は苦しげに彼女を見た。
「ああ、そなたをもう一度抱きたい。この腕に…。でも、今の私にはそれは叶わぬ。…天の男星と女星は今宵、合間見えることが出来るというのに。」
 搾り出すように悲痛な声だった。
「乱馬、たとえその身、滅びてしまわれても、あなたの心は未来永劫私の傍にありまする。そして、私の心もずっとあなたの傍に…。だから…。」
 言葉を継ぐあかねの目から一粒涙が零れ落ちた。
「たとえ、霊魂だけになられても、あなたさまは私の夫。私はあなたさまの妻。それはずっと変わりはしませぬ。今生だけが全てではありませぬ。」

「姫。」
「はい。」
「また再び、生まれ変わっても、そなたは私の妻で居てくれるだろうか。」
「勿論…。どのような世界に生まれ変わろうとも、私はあなたさまを見つけ出します。そして、夫婦として何度でも契りを交わしとうございます。」 
 ザザザザザっと木々の枝が音を発てて夜空に棚引いた。その上にある星たちが一斉に輝いた。

「あかね姫…。」

 乱馬はあかね姫に手を差し伸べると、軽く微笑んだ。
「乱馬…。」
 その手はすっとあかね姫の手先を通り抜けた。実態ではない彼は、姫の手には触れられないのだ。空気のように通り抜ける彼の身体。両手を広げてすっぽりとあかね姫を包み込むような動きをした。
 その胸にも、その髪の毛にも触れてくることはなかったが、温かい何かが触れるのを身の回りに感じた。

「そなたに出逢えて良かった…。」

 確かに耳元でそんな声がした。
 それから眩いばかりの蒼白い光が解き放たれ、あかね姫を包み込んだ。それから、ぱっと弾けるように煌くと、すっと夜空に吸い上げられるように消えていった。

 あかね姫が正気に戻った時は、もう、何の気配も感じられなかった。
 ただ、空の銀河が、降り注ぐようにあかね姫の頭上をキラキラと瞬きながら流れて天を流れてゆくのが見えた。
 再び静けさの中に、虫たちの声が戻ってくる。

 
「乱馬、私もあなたに出逢えて良かった…。」

 あかね姫は今しがたまで傍に居た気配の名残を愛しむように、ぎゅっと自分の細い腕を抱きしめた。




つづく




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