星迎へ   第二段


 その後、乱馬とあかね姫の関係は、懇(ねんご)ろになっていった。
 年頃の男と女。それはごく自然な成り行きであった。
 互いに、これほど惹かれあう異性に出逢ったのは初めてだった。

 次第に彼女は、乱馬の前では茜之丞として、接する時間より、あかね姫として接する時間の方が長くなる。
 人目を忍ぶように、夜の闇に包まれてから、二人、天道家の屋敷の離れで逢瀬を重ねる。そんな生活。

 二人の関係はすぐさま、乳母の知るところとなった。
 常に茜之丞の傍に寄り添うように仕えてきた乳母。天道家の古くからの腹心。
 姫と同じころに生まれた男の子を持っていたが、衛生事情が悪いこの時代。彼女の息子は育たなかった。あかね姫が乳を含まなくなったころ、ふっと亡くなってしまったのだ。
 そのまま、乳母の息子が生き残っていれば、茜之丞としてのあかね姫の一番身近な男児になったには相違あるまい。が、彼女の息子は育たなかった。
 そんなことも相まって、乳母はあかね姫を、いや、茜之丞を、我が子のように愛しんで育てた。亡くした息子へ注がれる筈の愛情を、彼女に誠心誠意注いで育ててくれたのだ。それだけに、茜之丞の乳母に対する信頼も、どのくらい厚かったか、分かろうというものだ。
 だから、茜之丞も、乱馬のことは乳母には隠さなかった。
 乳母も最初は驚いた。だが、お家のために「男」として生きることを余儀なくされた見目麗しい姫が、あまりにも不憫でならなかった彼女は、この二人の逢瀬を見てみぬふりを決め込んだ。
 あかね姫が乱馬との短き夜を過ごす時は、誰もその周りに近づかぬように気を回した。侍従、侍女たちを遠ざけ、二人きりの時間を作る。
 乳母にとっては、姫が「女」として愛する男に抱かれる、その現実が心から嬉しかったのだ。
 また、乳母の目にも、早乙女乱馬という若武者は、その気概も志も、そこら辺の郎等共どは一線を画する「良き男」に見受けられた。或いは、この当主の早雲も、彼ならば受け入れるのではないかと、密かに期待もしていたようだ。

 乱馬の前にだけ出す、女性としての本当の姿。
 茜之丞としての昼間の姿とは全く異なる、柔らかな瞳の輝き。
 最愛の人に抱かれ、優しく愛でられる度に、その「美しさ」は妖艶を増していった。
 
 茜之丞の父、早雲が、そんな彼女の異変に気がつかぬ筈は無い。茜之丞の日々美しくなる肌艶に、その確信を強くした。


 或る日、早雲は茜之丞と乳母を、己の近くに呼んで、問い質(ただ)した。

「茜之丞。おまえ、あの若武者をどのように思って居るのじゃ?口さがない人々は、もしや、おまえに「男色の好み」があるのではないかと密かに噂しあっておるのを、知っておるか?」

 事実、茜之丞は傷を受けた若侍のところへ、好んで夜語りに参られると、実は屋敷中の好奇の眼差しが二人の上に手向けられ始めていた。勿論、乳母は彼の元から、全ての人を遠ざけているので、固く閉ざされた部屋の中で何が語り合われているのかは謎であった。
 だが、秘密裏ほど、人目を引かぬものは無い。これもまた、世の条理であった。

「父上。いつか、申し上げようと思っておりました。私は、かの君の前では、茜之丞ではなく、あかねとして接しております。」

 長い沈黙が父子の上を流れる。

「そうか。おぬし、あの男に恋焦がれるようになってしまったのか。」
 
 年頃の女が男を慕うのは、何も珍しいことではない。だが、彼女の恋愛は、お家の大事にも関わってくる。

「ならば訊かん。もう、男と女の間に流れる深い河を渡ってしまわれたのか。」
 父の目は厳しかった。真っ直ぐに刺すように見詰めてくる。
 嘘は言えまい。茜之丞は腹をくくった。
 父の前でこくんと縦に揺れる小さな頭(こうべ)。
「お察しのとおりです。父上。」
 澄み渡る声が響いた。
 父の早雲は、くわっと目を見開いた。当然であろう。
 あかね姫は事もあろう二、重大機密をどこの馬の骨ともわからぬ若武者にばらし、その上、身体を重ねたというのだ。二人揃って手打ちになっても不思議ではない。
「父上。浅はかなこの茜之丞をお許しください。この上は何なりと罪を受けましょう。かの君には何もとがはありませぬ。」
 茜之丞は床に頭をすり付けて、父に嘆願した。
 当然の成り行きとして、この父の怒りを買うのは、避けがたきことだと思ったのだ。己が乱馬と逢瀬を重ねることは、天道氏への裏切り行為に等しいだろう。
「あいわかった。」
 父は静かに立ち上がると、席を立った。
「どこへおい出ます?父上っ!」
 深々と下げた頭をふっと起こし、茜之丞は慌てて父を見た。
「かの御方の下へ参るっ!」
 父は懐に、帯刀を深々と突き立てると、そのまま、勇み足で部屋を出て行った。
「父君っ!」
 慌てて縋ろうとする茜之丞に、背中越しに投げつける言葉。
「おぬしは黙って見ておれっ!!」
 その勢いは留まることがないほど、激しいものだった。
 茜之丞は父に激昂を買ったのだと直感した。もしかすると父は乱馬を切りに行ったのかもしれない。
 矢も盾溜まらず、茜之丞は父の後を追おうとした。だが、その様子を見ていた父の参謀でもある腹心、八宝斎の翁が茜之丞の行く手を阻んだ。

「若っ!ここはお留まり置きを。殿には何かお考えがあってのことでございましょう。」

 程なくして、茜之丞の乳母が、大慌てで呼びに来た。
「若君さま、殿がお呼びでございますれば。」
 茜之丞は慌しく、立ち上がると、乳母の後を付いて行った。

 もしや、父は乱馬をいきなり切り捨てたりはしなかったか。それとも、抵抗して乱馬が父を一刀両断にしなかったか。
 茜之丞は気が気でなかった。何度か狩衣の裾を踏みつけそうになりながら、足早に急いだ。
 この障子の向こう側には、父と乱馬が居る。
 息も切らせず、雪崩れ込むように部屋へと足を踏み入れる。

 だっと開けられた障子の向こう側には、静かに和む二人の武人の姿があった。予想に反して、両者とも穏やかな顔をしている。
 部屋の隅に据えられた燭台から、静かに蝋燭の火が揺らめく。
「おお、茜之丞。来たか。」
 父は微笑むようにして招き入れた。
「父上っ!乱馬殿っ!」
 茜之丞は息も荒く、二人を見比べる。
「これ、そのように乱暴に足を踏み入れなさるな。茜之丞。いや、あかね姫。」
 茜之丞の顔がはっと灯りに火照った。
「父上…。」
 確かに、今、父は「あかね姫」と己を呼んだ。
 父にこの名前を言われたことは、いまだかつて記憶の淵には無い。いったいどういう心境の変化なのか、彼女には度し難かった。

「これ、何を突っ立っておるのじゃ。ここへ座れ。」
 父は部屋の中央へと彼女を誘った。茜之丞は開け放たれた障子を丁寧にしめると、改めて狩衣を調えて、二人の前に座した。

「あかねよ、今までよくぞその姿で耐え忍んできてくれた。いくらお家のためとはいえ、父も不憫でならなかったのだ。」
「父上?」
 茜之丞には、父が何を言わんとしているのかすぐには理解できず、不思議そうに父を見返した。早雲はうんうんと頭をゆっくりと振りながら、茜之丞を見詰めた。
「この早乙女の君を我が婿として迎えようと思うがいかに。」
 父が口にした言葉は、茜之丞の予想だにしない衝撃的なものだった。
「父君のお許しが出た。あかね姫。」
 穏やかな瞳を乱馬は茜之丞に手向けた。
 
 こは夢か?

 俄かには信じられないという顔をして、茜之丞は二人の武人を顔を見比べた。

「訊くところによると、早乙女氏は家柄も申し分が無い武家一族だ。ワシも、この乱馬殿の男気は傷が癒えてからの形振りでよくわかっておる。その刀も槍も弓矢も、申し分がない武人だ。」
 早雲は腕を組みながらゆっくりと言葉を継いだ。
「私には男の子は居ない。ゆえに、今までそなたを男として育て上げ、家の格式を保とうとしたことも確かだ。だが、いつまでも、おまえをそのまま男として据え置かれるものではないだろう。おまえが本来の「女」として血筋を伝えなければ、結果は同じこと。この家は途絶えてしまう。…ここら辺が潮時だと思っていたのだ。」
 その言葉を受けるように乱馬が言った。
「だから、私はそなたのことを率直に貰いたいと早雲殿にお願いした。生涯おまえを大切にし、添い遂げようと思うと。」
 茜之丞の心臓はトクトクと音をたてながら、唸り始めた。だんだんと見開かれる目。
「だが、その前に、婿殿はどうしてもやらなければならないことがあるそうじゃ。」
 早雲は再び口を開いた。
「やらなければならないこと?」
 茜之丞はじっと乱馬を見返した。

「私も武士(もののふ)の子なれば、我が一族を撃ちし憎き九能一族を破らねばならぬ。それが武人たるものの務めだ。」

 静かな声が部屋に満ちた。
 そうだ、元々彼は、騙まし討ちにあい、ここまで落ち延びてきた武人。その事実がぶり返す。
 早雲があかねに向き直った。
「ここからは大事な話になる。乱馬殿によれば幸い、あの騒乱を逃れた早乙女家の武人たちが、虎視眈々と九能氏を倒す準備を進めているという。先ほども一通の書簡を持って忍びの者が現れた。」
 と、一通の密書を乱馬が差し出した。
「これだ。」
 したためられた墨の上に、それらしい文書が見えた。
「私は行かねばならない。九能氏を倒し、再び早乙女氏を復興する。…そして、志を遂げれば必ず姫を迎えに上がる。」

『私も一緒に行きたいっ!』

 思わずそう声が漏れそうになったが、ぐっと唾を飲み込んで抑えた。
 彼がこのような大事なことを父や己に打ち明けたということは、もう、心は決まっているのだろう。

「姫。あ、いや茜之丞。今しばらくおまえには、その男の姿で、ここに在って欲しい。彼の帰還を待ってほしいのじゃ。そして、彼が九能氏を打ち滅ぼしたときは、ここにて晴れて祝言。」

 姫は消え入りそうな声で答えた。

「わかりました。私は茜之丞として、乱馬殿の帰還を待ちましょう。」
 声は震えていた。

 男を待つことは女の勤め。…いつだったか、侍女の一人がそんなことを茜之丞に漏らしたことがある。戦乱の続く世にあって、いつも駆り立てられるように出てゆく武人の夫を待つこと。これは女の定めなのだと彼女は言った。その寂しげな横顔をふと思い出したのだ。

「おお、受けてくれるか。姫。」
 乱馬はにっこりと微笑み返した。気高き武人の微笑み。
「婿殿は明日、武蔵へ向かって旅立たれる。一日も早く、九能氏を倒すために。」
 早雲はそれだけを言うと、すっと立ち上がった。
 後は若い者同士、しっかりと志を固めておけとでも言いたかったのだろう。

 早雲が部屋から去った後、二人は静かに向き合った。

「あかね。急な話で申し訳ない。私は明日の朝、ここを旅立つ。」
「乱馬っ!」
 そのまま息せき切って彼女は乱馬の胸に縋った。本当は行くなと口にしたい。それは無理な話だとわかっていた。己もまた「武人」の形をしている。武人は武人たる覚悟を持たなければならない。それは幼少時から父に叩き込まれたことでもある。
 だが、こみ上げる惜別の想いはどうしようもなかった。明日はここを立つ、彼を、せめて今夜だけはこの場所にせき止めたい。その一心だった。
「姫。」
 乱馬はゆっくりと彼女の身体を抱きしめた。
「そなた、今宵が何の日か知っているか?」
 耳元で囁いた。
「知りませぬ。知りたくもありませぬ。」
 涙が頬を伝う。その水滴を拭いながら、乱馬は続けた。
「今宵は七月七日。そう、七夕だ。」
「七夕…。」
 耳馴染まぬ言葉であった。当然だろう。今は戦乱の世。雅(みあび)やかな宮中ならともかく、武人として育てられてきた、茜太郎には「七夕」の伝説も風習も知る由がなかった。
「古い伝説だよ。昔、引き裂かれた天の恋人たちが、一年に一度だけ、天の川を渡って逢瀬を重ねることを許される夜だ。そう、惹きあう男と女の特別な夜だ…。」
 乱馬はゆっくりとあかねの身体を押し倒してゆく。それから彼女の背中の下に左手を入れ、右手でなぞるように男のように束ねられた髪を掻き揚げた。
「七夕…。」
 見上げる唇が小さく反芻する言葉。
「約束しよう。再び、七夕を迎える日、必ず、私はここへ戻る。あかね姫と添い遂げるために。」
 ぎゅっと力が入った腕。
 そのまま重なる影。すうっと消された燭台の火。
 別れの夜の睦み合い。どちらからともなく求める熱き魂と身体。
 引き裂かれた天の恋人たちも、今、この空の上で、こうやって愛する者の睦ましい交わりをかわしているのだろうか。
 いつもよりあかねは激しく乱馬を求めた。乱馬もまた、そのあかねの想いに応えるかのように、ぶつかってくる。何度も何度も、互いの存在を確かめるかのように愛し合った。

 永遠に終わらない夜は無い。
 気がつけば、それは白み始め、時を告げる鶏たちが鳴いた。

「暫しの別れだ、あかね姫。」
 乱馬は乱れた着物の襟を正し、愛しげにあかねを見下ろした。まだまどろみの中に居た彼女の白い頬に、そっと唇を宛がう。その淡い接吻を待っていたかのように見開かれる清純な瞳。
 もう一度目を閉じ、深く合わせた唇。
 朝の訪れがこれほど疎ましく思えたのは今日が初めてだろう。

 乱馬は甲冑に身を固めると、すっくと彼女の前に立つ。
 せめて別れの朝くらいはと乳母が用意してくれた雅やかな女性の着物に袖を通すあかね。男髪が静かに揺れた。

「暇乞いはせぬ。約束どおり、七夕にはそなたの元へ戻って来よう。」
 リンと響き渡る青年の声。
「私もあなたのお帰りをここでじっと待ちます。」
 あかね姫は三つ指を揃えて一つ深く頷いた。
 旅立つ男はふり返ることなく、彼女の元を離れた。ふり返れば決意は乱れる。それがわかっていた。今の彼女は茜之丞ではない。「あかね」なのだ。

「これをそなたに。」
 乱馬は持っていた短刀を、あかね姫にすっと差し出した。
「これは…。」
「早乙女家に代々伝わる短刀だ。これを私の代わりにそなたの元へ置いてゆく。」
 あかね姫は両手でその短刀を受け取った。金糸銀糸が張られた美しい装飾。手の中に短刀はすっと納まった。
 
「きっとそなたの元へ帰る。だから…。」
 もう一度、あかね姫の身体を渾身から抱きしめる若者の姿。あかね姫は静かに目を閉じた。その瞬間を永遠に塗りこめるために。

「私は待ちます。ずっと、あなただけを。だから、きっと、戻って来て。」
「ああ、きっとだ。あかね姫。約束だ。」

 互いにあわせる唇に誓いを込めた。

 それから乱馬はすっと立ち上がると、後ろを振り返らずに、騎乗の人となった。出会ったときにまたがっていたあの栗毛の馬だ。
 去り行く背中に、あかね姫は一つ頭を垂れた。



 彼が立ち去った後の屋敷は、火が消えたようにひっそりと静まり返る。

 

 その日から延々と流れる天の川を疎みながら今一度の逢瀬を待ち続ける織姫のように、あかね姫は乱馬を待ち続けた。




つづく




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