星迎へ   第一段



 いずれの御時にか。一人の乙女ありき。名を茜之丞と言いき。賢しく孤高の姫なれど、訳ありて、異形の男姿の姿形にてありけり。



 戦国時代。応仁の乱に始まった争乱の世。その最中に、生まれ育った姫が居た。彼女の名はあかね。茜色の夕焼けと共に、生を受けた女の子であった。
 実はあかね姫には大きな秘密があった。
 あかね姫の父親は天道早雲と言う武人であった。名も家柄もそこそこあり、小さきながらも一国一城の主。勿論、城とはいえども、天守閣のあるような立派な城ではなかったが、それでもそこそこの領地がある田舎城主の一族の長であった。
 この時代、長子相続が主流となっていた。そう、勇猛果敢な男子の有る無しが、家督を継いでいくための必定条件となりつつあった。男子が居なければ家督は別の一族に組み入れられる。それが武士一族の掟となっていた。
 だが、不幸かな、父の天道早雲には、本妻、妾の隅々に至るまで、男子に恵まれなかった。これもまた奇異なことであった。
 このままではいずれ御家は断絶の憂き目を見る。
 早雲は一計を案じその危機を乗り越えようとしたのである。
 そう、最後に正室との間に生まれた弟姫のあかね姫を、女子(おなご)ではなく、男(おのこ)として育て上げたのだ。
 勿論、極秘裏に。このことを知りうるのは、あかね姫を育てた乳母のみという徹底振り。あかね姫という名も普段は使わず、茜之丞(せんのじょう)と呼び習わしていた。
 姫ではなく、男として育て上げられた「茜之丞」。
 人となりも勇猛で、少し背丈が小さいと言えど、立派な男子としてまかり通るに至った。顔立ちも少年のそれよりも、少し優男風に見えはしたが、この茜之丞、刀、槍、そして弓矢と、どこの男子とも引けを取らないほど巧みであり、また力も強かった。
 そう、誰も茜之丞を「真(まこと)は女」とは思わなかったのである。
 父も不憫とは思えども、茜之丞を男子として育て、扱った。
 いつも傍らに侍らせ、嫡男として可愛がった。
 生母は茜之丞を産んだ直後に身罷り、後ろ盾は乳母のみ。

 茜之丞もまた、年頃になるまでは、己が何故、男の姿になっているのか、疑問にすら思わず、その数奇な運命を受け入れた。


 あかね姫が茜之丞として生を受け、その運命を歩みだしてはや、十六年という年月が流れようとしていた。
 相変わらず戦国の世は食うか食われるか。弱い武家集団は強き者へと飲まれてゆく。その過酷な状況下にあって、天道家は何とか持ちこたえていた。というのも、早雲が類稀な果敢な武士だったということと、その嫡男の茜之丞が若いながらしっかりとしていたからだと、領地領民たちは絶大な信頼をこの領主親子に寄せていた。
 領地領民たちは、慈悲深い天道親子を信頼していたし、早雲も家臣、臣下、領民を大切にする良き領主として君臨していた。
 戦乱の世にあって、都から遠い東国という土地柄もあいまって、戦禍からは遠い国であった。だが、だんだんとその空気も濁り始める。
 少しずつではあったが、戦火の煙の匂いが立ち込め始めていた。いつこの豊かな国が戦場へと化すか。早雲も茜之丞も、その日その日を肝に据えながら暮らしていた。

 或る日のことだった。
 桜の花びらが舞う春のこと。
 春の陽気の中、茜之丞が早雲と国中を見回っていた時のことだ。
 一人の若者が行き倒れているのに遭遇した。
 彼の袂には、立派な栗毛の馬。倒れ込んだ主人を心配げに見詰めるその真摯な瞳。
 若者は一目で名だる武将とわかるような鎧冑に身を固めている。戦火を逃れてきたようで、懐に一つ深い創傷を負っていた。その傷から来たのだろう、意識も朦朧と、茜之丞が近くへ寄ったときには虫の息だった。
「捨て置けばいずれ死に至るだろう。」
 早雲は係わり合いになるのを躊躇しながら、離れようと茜之丞に促した。
 だが、心根が優しい茜之丞は、どうしても捨て置く気にはなれなかった。
 このまま彼を見捨てれば、明日の朝日も拝むこともできないだろう。息が絶え、野犬どもに喰らわれるのが関の山だ。
 まだ息がある者を見捨てる。それほど後味の悪いものは無い。
「父君。私はこの武将を見捨てることはできません。たとえ、明日、野辺の露に消え果ようとも、そのような薄情なことは武人としてもあるまじき行為かと思えます。」
 凛と胸を張って父を顧みた。
 父も一度言い出したらてこでも引かない茜之丞の心は良く知っている。
「良かろう。ここでふれ合ったのも何かの縁(えにし)に違いない。茜之丞、おまえが責任を持って、その武人の末期の水を取ってやれ。」
 と承知した。
「それでこそ父君っ!」
 茜之丞はにっこりと微笑むと父親に軽く礼を述べた。そして共の者に命じて、その武将を城に連れ帰った。

 城の奥。茜之丞の居住する館の一角に布団を敷き詰め、武人を寝かせる。
 看護するために、甲冑を脱がせて驚いた。
 この武人、己とそう年が違わない様子だったのだ。
 どう見計らっても二十歳には満たない。ようよう、成年式を終え、前髪を切り落とした年頃という感じであった。
 それなのに、数十キロもあろうかという甲冑を着込んで、茜之丞でも引くのに苦労しそうな立派な弓矢を番(つが)えていた。
 茜之丞が見つけたときには虫の息だったこの武人。三日三晩ほど意識を失ったままであった。それが、茜之丞の看病の甲斐あってからか、それとも、持ち前の体力の強さからか、三日目の朝に床の中でふと意識を回復した。

「ここは…。」
 目覚めた。武人は、辺りを見回しす。その枕元に、ふっとなずんだ茜之丞の瞳を見つけて、思わず刀を探す振りをした。
 茜之丞も反射的に己の刀に手をかける。一触即発。
 互いの真ん中に緊張が走る。

「そう力みなされるな。見たところ、刀傷が一つ。それが膿んで我が領地の道に斃れておられたのを、若様に助けおかれたお命。無駄になさいますな。」
 茜之丞の脇からしわがれた声が若者たちを制した。それは茜之丞の乳母であった。
「そなたが、私をここへ?」
 武人は荒ぶりかけた気を収めながら茜之丞を見上げた。
 こくんと頷く茜之丞。
 武人はすぐさま刀を離し、荒れた気を納めた。
「かたじけない。」
 武人はそれだけを言うと、再び布団へと倒れ込んだ。
 まだ傷は癒えていない。腹に巻いたさらしから血が滲み出している。それからまた、まどろみ始めた。

 一度意識を取り戻すと、不思議なくらいに回復が早かった。
 元々この武人が持っていた強靭な体力。回復する力も人並を超えていたのだろう。
 茜之丞は誠心誠意、父親に約したとおり、甲斐甲斐しく若者の介護を続けた。
 武人も、閉ざしていた口を開き、己の身の上を少しずつ語り始めた。

「我が名は早乙女乱馬。見てのとおりの武人だ。生国は武蔵国中。そのあたりの一国の領主、早乙女氏の嫡男だった。この乱るる世の中。家人の一人の寝返りに合いて、花見の宴を儲けた夜、不慮(すずろ)に隣国の領主に城ごと乗っ取られた。父も母も異母兄弟たちも、その騒乱に沈み、無念にも一人、ここまで逃れ来た。力尽きて行き倒れたところを、貴君に助けられたようだな。」
 と。

 彼が口にしたことが、本当のことかどうかは、茜之丞には度し難かったが、その口調からは、嘘偽りではないことは何となくわかった。
 今は下克上。
 虎視眈々と上に上がることを望む武人たちが居る。己が上に競りあがるためには、裏切りも厭わない。
 茜之丞の父、早雲の言に寄れば、確かに武蔵国には早乙女氏という一族が居て、最近、戦火の内に滅ぼされたという。そんな噂が風に乗って流れてきたのだ。
「まこと、臣下が主君を裏切るとは。嫌な世の中になったものよ。明日の我が身も、危うい。そんな戦乱の世はいつまで続くのか。」
 早雲は苦々しい顔を茜之丞に手向けた。
 強い者が僅かな隙を突いて弱者を滅ぼし、高みへと駆け上る。裏切りと血に塗り込められた激しき戦。それに巻き込まれるのはいつも弱い農民などの民である。




 彼が意識を取り戻して数日後。
 まだ、癒えていない傷に、摘んで来た薬草を煎じた膏薬を持って乱馬の部屋へ入る。すっかり馴染んだ彼は、布団の下から「かたじけない。」と一言告げた。
「良く効く薬草が手に入ったから。」
 茜之丞は、乳母が煎じた薬草壷をへらでしごきながら語りかけた。
「いつもかたじけない。」
 そう言いながら乱馬は上体を起こした。
「これを塗りこむから、着ているものをはだけていただけぬか。」
 茜之丞は顔を上げた。
「あい、わかった。」
 彼は着ていた着物の帯をほどき、ぐっとはだけ出した。
 少し痩せこけた感じはしたが、初めて直に目にする男の身体は眩しく見えた。 己とは決定的に違う厚い胸板と逞しい鎖骨。そして筋骨。
 一瞬、心が乱れた。
 と、布団の端に足を取られた。

「あっ!」

 前につんのめりかけたところを、逞しい手が支えてくる。
 さわさわと風が通り抜けた。

 一瞬彼が顔をしかめた。
 茜之丞を支えた時に、傷口に少し触ったのだろう。
「す、すまぬっ。」
 茜之丞は慌てて上体を起こした。
「傷口、大丈夫か?」
 動揺しながら言葉を吐き出した。
「大丈夫。何、これからその膏薬を塗るのだから、気にはなさるな。」
 乱馬はふっと軽くなずむように微笑みかけた。
 その笑顔の眩しさに、思わず茜之丞は目を背けた。何故か直視できなかったのである。
 気もそぞろに膏薬を彼の傷口に塗りこむと、逃げるように部屋を出た。
 いつまでたっても、心臓の鼓動は鳴り止まない。こんな気持ちは初めてだった。
 異性に心惹かれたことなど、これまでにない。それ相応の男子が居ても、胸の時めき一つ持たないで来た。
 茜之丞には、それが「恋」の始まりだろうとは露とも思わなかった。

 その出来事があってからというもの、茜之丞には、手向けられてくる乱馬の瞳が眩しく見え始めた。その瞳に見つめられるたびに、今までに感じたことがない、柔らかき想いが心を満たしてゆく。不思議な感覚だった。今まで味わったことの無い気持ちだった。
 
 かの早乙女乱馬、若いながら、物言いも物腰も男気に溢れていた。
 おそらくこの郡(こおり)のどんな武人も彼には叶うまい。
 いつしか茜之丞はぐんぐんと乱馬に惹かれていった。
 強い男に惹かれるその想い。女としてはごく自然な理。
 勿論、女という本当の姿はひた隠し、男として接することも忘れはしなかった。
 身体に受けた深い創傷も、茜之丞と乳母の看病の元に、だんだんと癒え始める。始めは立ち上がることも叶わなかった彼も、夏の暑さが増すごとに少しずつ精気を取り戻した。

 或る夕のことだった。
 じめじめした梅雨も明け、真夏の太陽が、紺碧の空から照らし付けた名残の夕暮れ。
 その日初めて床を上げた彼は、茜之丞を呼んだ。
「一度、私と剣の手合わせしてはくれぬか。そろそろ鈍り切った身体を立て直したい。」
 茜之丞は二つ返事でその依頼を受けた。
 彼がどのくらいの剣の使い手か興味があったからだ。
 傷を受けていたとは言え、彼の肉体から溢れてくる、眩しいくらいの生気。
 茜之丞もこの郡きっての剣の使い手。
 勿論、竹光を手に取る。真剣で渡り合うわけではない。竹光と言えども、武器には違いない。茜之丞と乱馬は、はっしと睨みあった。

(この男、やっぱり強い。)
 切っ先から溢れてくる気。びんびんと迫ってくる。十分に間合いを取っている筈なのに、大きく見える彼の姿。
 本当に病み上がりかと思えるほどの、充実した気力。腰を落とした彼の目は「孤高の鷹」のものだった。じりじりと押される気。だが、それに対抗するが如く、茜之丞は、息を深く吸い込んだ。
 夕陽が真っ赤に二人を染める。
「参るっ!」
 そう言って先に飛び込んできたのは乱馬の方であった。中段からいきなり横へと竹光を倒し、薙ぎ払ってくる。
「でやあっ!」
 茜之丞は身軽に飛び避けた。身体が小さい分、体重も軽く、動きも軽やかだった。
 だが、乱馬は続けざまに剣を薙ぎ払ってくる。力の豪剣だった。
「はっ!ほっ!やっ!」
 避ける茜之丞も必死だった。少しでも切っ先に捉えられれば、軽く吹っ飛ばされる。そのくらい危険な剣を投げかけてくる。
 だが、避けてばかりではやられる。虎視眈々と乱馬の隙を狙いながら動き回る。
 乱馬の剣は力任せに振り上げるので、次の動作に移るまでに、僅かだが時間的空間が発生する。いつか、茜之丞はそれを読み始めていた。これを上手く利用しない手はない。
 茜之丞はふっと身を屈めた。
「でやーっ!」
 乱馬が再び剣を大きく振りかざした時、茜之丞は逃げると見せかけて攻撃に移った。ダンッと砂地を蹴り上げる。
 ふわっと浮き上がった茜之丞の身体。見事な虚空を描きながら、乱馬の真上に舞い降りてくる。
 だが、乱馬はその動きを予想していたかのように、今まで大きかった次の動作への振りが、今度は隼のように弾丸攻撃へと移る。

「やーっ!!」
  
 乱馬の剣が真っ直ぐに伸び上がった。そして、着地したところの茜之丞の喉元へと突き立てられた。茜之丞はなす術もなく、振り上げたまま固まってしまった。
 勝負はあった。
 だが、乱馬は表情一つ変えず、そのまま剣を茜之丞に入れてゆく。
「え?」
 茜之丞が躊躇する間もなく、彼の切っ先が振り上げた竹光を薙ぎ払い落とした。

 バチンッ。

 竹の乾いた音がして、茜之丞の手から滑り落ちる。予想だにしなかった、乱馬の二段攻撃に、茜之丞の身体のバランスが崩れた。
 砂埃がこうこうと立ち上り、気がつくと、目の前に乱馬の逞しい胸板があった。がっと乱馬に抱きかかえられ、身体の動きが固定された。

 時が止まった。

「な…。」
 茜之丞の心臓が激しく波打った。
 勿論、今の今まで殿方にこうやって抱きすくめられたことなどない。熱い吐息が真上から流れ込んでくる。
 抵抗も全て金繰り取られて、茜之丞はそのまま立ち尽くした。声すら出ない動揺。
 どっどっどと心音が高鳴る。

「そなた、やはり、女であったか。」

 真上で乱馬の声がした。
 気がつくと、彼の野太い手が、茜之丞の胸の上辺りをすっぽりと包み込んでいた。普段はびっちりとさらしを巻きあげ、平らに均したその辺りが、僅かだが今の戦いで盛り上がっていたのだ。頑強な晒しの下にある、本来の膨らみ。乱馬はその感触を手でなぞっていた。
「な、何をっ!」
 茜之丞は、荒々しい声を上げて、抗おうとした。だが、押さえ込まれて身動きだに出来ない。圧倒的な力の差が露呈した。
「ふふ、ふふふふ。」
 乱馬の笑う声が漏れてきた。
「そうではないかと思ったんだ。時々見せる、茜之丞殿の柔らかな仕草。丸い線。」
「ち、違うっ!私は男だっ!」
「嘘だ。この胸の膨らみは、男には無い。」
 乱馬は言い切った。
 言葉とは裏腹に、明らかに動揺している茜之丞。力とて、本当の男である乱馬には到底及ばない。
「そなたは強い。本当の男以上に…。だから私はそなたに惹かれた。すまぬ、確かめたかったのだ。茜之丞殿の本当の姿を。」
 それから、灰色の綺麗な瞳が茜之丞を捉えた。
「私が恋焦がれるのは、迷惑だろうか?」
 その言葉に茜之丞は、身体から力がふうっと抜けてゆくのを感じていた。
 激しく波打つこの脈動は何だろう。今まで経験もしたことがない胸の高まり。そして熱く火照った身体。
 乱馬のことは嫌いではない。いや、そのむしろ逆で、看病しながらも少しずつ惹かれていた。
 本来ならば、女性として、当然持つべき、異性への関心。それが今までこそげ落ちていた茜之丞には、何がどうあるべきさえもわからない。激しい動揺となって己を襲っていた。
 この激しい感情が「恋焦がれる」というものなのだろうか。
「私は…。」
 真摯に手向けられる鷹の視線に、飲み込まれてゆく。逃れえぬ獲物なのかもしれない。
「迷惑などとは思わない。もし、そなたのその想いが本当のものであるならば。」
 その言葉に耳元で囁かれた睦言。
「この想いに、嘘偽りなど、あろう筈が無い。茜之丞。」
「私の本当の名は茜之丞ではない。あかね。それが真の名前。」
 そう象る桜色の小さな唇。その時、茜之丞は「女」に立ち戻った。
「あかね…。あかね姫か。好い名だ。」
 乱馬はただそれだけを言うと、あかね姫を胸に沈めた。
 ぎゅっと思い切り抱きしめる。
「乱馬…。」
 伝ってくる彼の胸の鼓動と、その逞しい、真の男の身体。
 包まれながら、安堵感が彼女の胸に広がっていった。
 二人で成す、広き柔らかな世界。

 凪いでいた風がふわっと吹き抜けてゆく。
 ヒグラシの声がキキキキと突き抜ける木立。

 気がつけば、二人は火照った唇をどちらからともなく重ねていった。








一之瀬的戯言
 危なかった・・・もうちょっとで乱馬が茜之丞(あかね)を押し倒しそうになっていた。
 本当はそこまで書きたかったけれど、スン止め。やっぱりね。
 実は、茜之丞というのは後で考え直した名前です。最初の創作では茜太郎「センタロウ」とつけていた私。・・・大文字煎太郎と同じ読みの上に「アカネタロウ」と読んでしまうと相棒に指摘されて、あえなく改名(笑
 なお、半さんが考えてくださった候補から「茜之丞」と改名させていただきました。(THANK YOU 相棒。)
「茜」はセンと読みます。


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