サイレントムーン


エピローグ

 
 薄水色の空がどこまでも貫いていく。山々は美しい緑に彩られ、瑞々しい。ただ、やはり、山の中。下界に比べて、気温は低いようだ。半袖では、肌寒い。
 水が溜まった辺りで、思わず足をとられそうになると、グイッと引っ張ってくれる逞しい手。
 また、一回り、大きくなったような気がした。
 見上げた頭には、トレードマークのおさげが、ゆらゆらと揺れている。
 あかねの髪は、少し、高校生の頃から伸びていた。首筋が見えるほど短かった髪は、肩ぐらいにまでかかっていた。そう、最近になって、伸ばし始めたのだ。


「っと!おまえさー、この頃、修行をさぼってるツケが来てねーか?」
 ニッと白い歯が、顔から覗いている。
「そんなことないわよ!」
 少しムッとした表情で言い返していた。
「そーかな?」
「そーよ!あんたみたいな、野生児育ちじゃないもの、あたしは。」
「たーく、相変わらず、可愛くねー言い方するよな!」
「それより、この辺りであってるの?」
 あかねは、きょろきょろと辺りを見回した。
 と、風が木立を揺らすと、上から、陽光がこぼれ落ちた。
 気温は低地に比べ、低いといえども、まだ、日差しの中には、夏の気配が残っている。
「ああ、多分、この辺りだと思うぜ。」
「多分…か。曖昧過ぎない?」
「大丈夫だよ。ガキの頃から慣れ親しんだ山だからな。」
 そう言いながら、木の幹を触る。
「何年ぶりになるのかな?」
「四年ぶりよ。」
「そっか…あれから、もう、四年も経つのか。」
「…の割には、進展してないわよね。あたしたち。」
「そーかな?」
 クスッと乱馬が笑った。
「してないわよ。だって、まだ、許婚のまんまじゃないの。」
「まー、それはそーだが…。」

 実のところ、四年経って、少しは仲が進展している。
 相変わらず、晩熟なところは変わらないが、あの一件以来、少しずつ、ほんとうに少しづつ、二人の距離は確実に縮まってきている。
 それが証拠に、あかねの手をギュッと握ったまま、乱馬は獣道を進んだ。彼女が迷子になることを嫌がっている…というよりは、少しでも近くにいたいという、純粋な想いが見え隠れしていた。
 まだ、夏の日差しだとはいえ、そろそろ、深山には秋が近づいている。コロコロと虫たちの声が流れ始めていた。

 あれから二人、結局、別々の大学へと進学した。
 あかねは、スポーツ科学から、柔道整体師への道へと舵を切った。ゆくゆくは、プロ格闘家として無差別格闘界を駆け上がって行く乱馬の専属整体師になりたい…そう思ったからだ。
 力がある彼女には、向いている職業ではないかと、誰しもが思った。柔道整体師の資格取得ができて、スポーツマネージメントのことも学べる、大学へと進学した。
 柔道整体師は、国家資格だ。そろそろ、本格的に資格試験の勉強を始めねばならない頃合に差し掛かっていた。
 対して、乱馬は、体育系の学部が充実している大学を選んだ。そこから推薦入学の勧誘が来ていたし、学費免除で就学できるのは、有りがたかった。入学と同時に拳法部へと所属し、そこから、無差別格闘の学生大会を皮切りに、最近はプロの大会にも、ちょくちょくエントリーをして、そこそこの戦績を収めていた。
 乱馬は一応、規律の厳しい体育会の部活動に入ったので、天道家を出て、拳法部の合宿所兼学生寮で暮らしている。
 が、時折稀にある、休日に、日帰りで天道家に顔を出しては、あかねとの喧嘩ランデブーを楽しんで、また、戻って行く。そんな生活をしていた。
 相変わらず、付かず離れずの「許婚」の立場は変わらなかったが、確たることは決めていた。
 そう、つまり、いつかは、所帯を持つという、大きな目標。
 とはいえ、まだ、女に変身する体質は、戻せてはいない。もちろん、秘密を守り抜く、努力もそれなりにしていた。

「でも、良く、休みが取れたわねー。」
 あかねが乱馬を見上げながら、そんな言葉を吐きだした。
「この前の大会の優勝のご褒美だよ。何が欲しいかと監督に聴かれたから、五日くらいの遅い夏休みが欲しいって言ったんだ。」
「そこよ!よく、監督が合宿所を抜けるのを許してくれたわねー。」
「一応、山へ修行に入るって届けて来たからな。俺。」
「あんたさー、そんな、いい加減なこと…。」
「いい加減なことじゃねーぞ!だって、ここは、ガキの頃から、俺と親父の修行場だったしよー。それに、俺に直に鍛えろって、言ってきたのは、おめーじゃねーか!」
「まあ、そうは言ったけれど…。」
「おめーも、女子選手権が控えてんだろ?」
「とは言っても、まだ先、年明けよ。」
「年明け、上等じゃねーか!気のスペシャリストと言われている俺が、直に修行をつけてやろーってんだ!有りがたく思えよな!」
「気のスペシャリストねえ…。」
 そうだ。乱馬の気技は、ますます磨きがかかってきている。制御も正確で、ピンポイント攻撃も腕を上げている。気技に関しては、彼の右に出る選手は居ないとまで世間で評価されている。
「おめーの気の扱い方は正直、怖いしよー!」
「失礼しちゃうわね!」
「だって、あんな中途半端なもん、家の道場でぶっ放してみろ、天道道場が何回崩れ落ちるか…。おじさんに大目玉食らうのは目に見えてっぞ。だから、ついでに、この山ン中で思いっきり修行をつけてやるぜ!」
「修行が、目的なの?」
「おいおい、他にも目的を持てるだろ?だから、わざわざ、来たんだろーが!多分、この辺りだった…と思うぜ。」

 乱馬は、ある程度、見当をつけると、縦走路を反れて、少し斜面を下り始めた。
 広葉樹の脇に下っていく、小さな獣道。あかねの手を引いたまま、ゆっくりと、降りて行く。

 と、その途中、ぱあっと、光が弾けて、視界が開けた。眩い光が、視界を通り抜ける。
 そこから下方に、煌めく湖が見えた。

「あ…見えた。」
 あかねが目を輝かせる。
「ハート型してるか?」
「うん、してるよ!」
 そう、あの「心臓池」だった。
 いつかまた来よう…その約束を果たそうと、乱馬がわざわざ、連れて来てくれたのである。

「黒い大岩の跡も、多分、この上辺りにあると思うぜ。」
 乱馬がニッと笑いながら、上を指さす。
「あっちはいい!行かないわ!」
 あかねがしかめっ面を返した。
「何で?」
「だって…気持ち悪いもん!」
「もう、あのイソギンチャクはいねーと思うけど。」
 そう言った乱馬に、あかねは、ブンブンと頭を大きく横に振って見せた。
「当たり前よ!居たらたまんないわ!それに、触手の残骸なんて、見たくはないもの!」
 と吐きだすように言い切った。
「あれは、亜空間での戦いだったから、痕跡なんてないんじゃねーの?」
「でも、万が一見えたら、嫌なの!そう、嫌なものは嫌なの!行きたくないのっ!しつこいなあ、乱馬は!」
 あかねは、心底、嫌だという顔を乱馬へと手向けた。
「しつこいのはお互い様だろ?」
「あたし、あっさりしているつもりだけど。」
「どこが…。まーいいか。上に行くのはやめとこう。」
「だから、最初から行かないって言ってるじゃない!」
 あかねは苦笑した。
「でも、強烈な出来事だったよなあ…。あれは夢だったんじゃないかとも思っちまうほどに。」
「あの人が、かぐや姫だったなんて…。未だに信じられないわ。」
「『竹取物語』のかぐや姫は、色んな伝承が混じって出来上がったものだろう?ま、モデルの一人…でいいんじゃねーの?」
「モデルが異星人…だなんてね。」
「あり得る話だと思うぜ。『竹取物語』にしたって、光る竹とか、すぐ育っちゃう姫君とか…。それに、月に帰って行ったし。ありゃあ、サイエンスフィクションそのものじゃねーのかよ?」
「それじゃあ、風情も何もなくなっちゃうよ。」
「でも、確かに、俺たちは…カグヤと呼ばれた人型の生命体に出会っただろー?」
「あたしは、ずっと捕まって気を失っていたに等しいから。残念ながら、あんたほどの、強烈な記憶は無いわ。」
「男の俺に惑わされていた…ってか?」
「惑わされてなんかいないわよ!惑わされていないからこそ、撃退できたんじゃないの!」
「それもそーか。おめーが、あの偽者に、惑わされていたら、あの時、地球は滅びていたかもしんねーもんなあ!」
 カラカラと乱馬は笑った。
「それより…。ハート型の湖、降りてみましょうよ。」
 そう言いながら、あかねは、光る湖を指さした。
「そーだな。色々確かめたいこともあるしな…。」
 乱馬はあかねの手を、くいっと引っ張った。そして、先導に立って、細い道を下り始める。心臓池に向かって。


 あの刹那…。カグヤが人型を解く手前に見せた、湖の光景。それが、心臓池に見えたこと。二人、共に、鮮明に覚えていた。

『私は、ひっそりと、この湖に根を張って、この命尽きるまで、涅槃寂静の姿になって、生きていきます。』
 そう言いながら、青い蓮のクリスタルを手に、湖に消えたカグヤ。
 いや、消えたというより、そのまま、光に包まれて、乱馬とあかねが、亜空間から生還したのだった。
 その後、カグヤがどうなったのかは、知らない。
 知る必要もないのかもしれなかったが、二人、気になっていたのだ。


「涅槃寂静…って、確か、仏教用語だよな。何で、カグヤさんが知っていたんだろうね…。」
 あかねはふっと、呟いた。
「多分…彼女たちの星と俺たちの国の言語を繋ぐ、翻訳機が紡ぎ出した言葉じゃねーのかな…。」
 乱馬は、歩みを進めながら、それに応えた。
「翻訳機?」
「ああ…。そういう機械でもシステムでもなけりゃ、異星人や古代北魏の人間の会話だって、成立しなかったろーしよ。それに…。数字の単位の下敷きに載ってたんだ。涅槃寂静って。
 いや、それだけじゃねえ。アトロイドの「アト」、ナノロイドの「ナノ」、「刹那」に「虚空」それから、「六徳」、「アラヤ」にも漢字(阿頼耶)があったぜ。全て、SI接頭辞、それから漢数の小数単位に通じてやがった。
 だから、涅槃寂静…それは、すなわち、小数単位の最小値値と同義だと思うぜ。つまり、涅槃に入るくらい、ゼロに近い状態…。その状態で、この辺りに、ずっと、眠り続けるっていう意味じゃねーのかな。」

 多分、乱馬は、あかねと同じことを考えているに違いなかった。
 カグヤの背後に見えた、湖の景色。
 それが、この、心臓池なのではないかと。

 そして、湖面近くに、降りて来た時に、あかねが、指をさした。

「湖面が、光っているわ。キラキラと。」
「水が澄んでいるせいかな。」
 湖面に近づくと、草木が生い茂っていた。人が殆ど足を踏み入れない深山の地。ある程度仕方がないことだ。その生い茂る草木を分けて、湖面へと近づく。
 上から見ればハート型の池だが、ここまでくると、その形態はわからない。
 この茂みの向こうに、どのような景色が広がるのか。
 近づくにつれ、乱馬もあかねも、無口になっていった。
 二人の、草を踏む、乾いた足音だけが聞こえる。繋いだ手は、決して離されることはなく。いや、ギュッと握りしめていた。

 やがて、湖の水面が、すぐ側に見えた。
 水面と平行な地面に足をつく。

「ああ、あれは…。」
「すげえ!」

 二人一緒に、息を飲む。
 予想だにしなかった、光景が、湖面に広がっていた。

 湖の水面に、真っ白な花が咲き乱れていたのである。
 白い花の中には、黒いオシベが顔をのぞかせていた。


「これって蓮(はす)…いえ、睡蓮(すいれん)…ね。」
 あかねが言った。
「睡蓮?」
「ええ。花が水面近くで咲いているから。でも、黒いオシベの睡蓮なんて…あたしは初めて見たわ。」
 そう言った。
「そっかー。蓮じゃなくて、確かに睡蓮かもしれねーな。いや、花の種類なんて、この際、意味は無ぇーのかもしれねーけど…。」
 乱馬はポツンと吐き出した。
「白い花。この白い花びらは、蓮白玖の…。そして、黒いオシベは…蓮黒玖の…。いや、恐らくは、これが、カグヤさんの…本当の姿。」
「カグヤさんの本当の姿?」
「ああ。俺の推測だけど、ターリネ星人は、地球で言うところの、植物が進化した生命体だったんだと思うぜ。」
「どうしてそう思うの?」
「だって…お前を絡めとったのは、つる草だったろ?何となく、人間じゃなくて、植物みたいなんじゃなかったのかなって思えるんだよ。俺には。」
 ポツンと乱馬が言った。
「だから、この姿で、ここに…。」
「ああ。こうして、根を張って、その命が尽きるまで…蓮白玖と蓮黒玖…いや、連玖という愛した地球人をに想いを巡らせながら、こうやって美しい花を咲かせたんじゃねーのかな。
 かぐや姫は、そっと、人知れず、この場所で、遥か天空の故郷を思いながら…愛した人の夢を見ながら、眠り続けるんだろうぜ。この、姿のままで。」
 さわさわと、湖の方から、涼やかな風が、吹き渡ってくる。

「かぐや姫…か。あのさ…乱馬。」
「あん?」
「実はね…。あの時、あの空間から去り際に、カグヤさんが本当の名前をあたしに、教えてくれたんだ。」
「本当の名前?」
「ええ…。「かぐや」というのは、この地で誰かれとなく呼び始めた「通り名」で、本当の名前は別にあったって…。その名前を、教えてくれたの。」
「ふーん…で?本当の名前は?」
「あかね。」
「え?」
「あかね…。彼女の母星では「愛する娘」という意味になるらしいわ。ずっと前に、優しかったお母さんからつけてもらったんだって。」
「そっか…。おまえと同じ音の名前なのか…。」
 そう言いながら、そっと、あかねの肩を引き寄せた。
「蓮白玖たちは、彼女の…カグヤの本当の名前を、知っていたのかな?…いや、案外、知っていたのかもしれねーな。古の女性は、結婚するときにだけ、名前を明かしたそうだから。」
 そう、ポツンと言った。

 吹き渡る風が、睡蓮の花をゆらゆらと揺らせた。
 と、どこから紛れ込んだのか、胡蝶がひらひらと、乱馬とあかねの上を舞い始めた。一頭ではなく、もう一頭。戯れるかのように、仲良く追いかけっこを楽しむように、舞いながら飛び交う。
 そう。美しい睡蓮の周りには、数多の生きとし生ける者たちが、憩い、集い、生の営みを謳歌していた。
 水面の魚たち、それから、小さな水生生物たち。水連に混じって水草も浮かぶ。その湖畔には、空を舞う胡蝶、そして、小さな虫たち。それだけではない。野ネズミや野うさぎなどの小動物。そして、天を舞う鳥たち。

「さて…あんまり長居していたら、麓まで降りられなくなるな…。」
「もう帰るの?」
「ああ…。俺たちは、これを戻してお暇(いとま)、つかまつろーぜ。」
 乱馬は、あかねを促した。
「そうね…あたしたち、これを、カグヤさんに返しに来たんだものね。」
 あかねは、来ていた服の胸ポケットから、赤い石を取り出した。
 別れ際に、カグヤがあかねに渡した、赤い石。
「カグヤさん…いえ、異星から来たあかねさん…ありがとう…。あたし…これからも、乱馬と共に、歩んで行きます。だから、あかねさん…あなたも…せめて、この湖の中で、愛した人の思い出と共に幸せに眠ってくださいね。」
 あかねは、そう言って、掌をゆっくりと開き、赤い石を水面に落とした。

 ぽちゃん…。

 そのまま、ゆっくりと弧を描きながら、澄んだ水底へ落ちて行く赤い石。その石を見ながら、乱馬はあかねへと声をかけた。

「なあ…、まだ少し先の話だけど…卒業したら、一緒になろうぜ。」
 やっと、切り出せた言葉。
「それって、もしかして…。」
「プロポーズ…だ。」
「もうちょっと、気の利いた言葉はないの?」
「ねーよ!」
「ストレートね!」
「悪いか!」

「わああ…。見て、湖面に月が登ってきたわ。」
 少し顔をあげたあかねから、そんな言葉が漏れた。同じく視線をあげると、湖面の少し上に、うつむいた上弦の月が昇っていた。
「おまえなー!離し逸らすなよ!ちゃんと、先に返事を聞かせろよな!」
 少し不機嫌な顔が、あかねの前で揺れた。
「嫌よ…って言ったらどうするの?」
「言わせねーよ!だって、俺たちは許婚なんだぜ。そーだろ?」
 そう、言葉を返すと、すっと引き寄せて、ギュッと抱きしめた。

 柔らかな吐息が、すぐ側にこぼれる。柔らかく、優しい、それでいて強引な抱擁。そして、返事を待たずに触れた唇。差し入れられた舌は、あかねの心を掬い取っていく。


 風が、ゴオッと音をたてて、湖から渡って来た。
 一斉に、睡蓮の花が、風に揺られて、音をたてる。さわさわ、さわさわ。音と共にほのかに漂う、花の香り。
 まるで、良かったねと、言って祝福してくれているようだった。
 
 熱い口づけの後は、無言のまま、顔を真っ赤に熟れさせ、うつむく二人。まだまだ、晩熟であった。


「さて…戻ろうぜ…。風が出て来た。」
 照れ隠しにそう言いながら、キュッと握りしめてくる、一回り大きな手。
「そうね。」
 極上の微笑みをかえして、握り返した、あかね。
「蓮白玖…カグヤさん…。また、来るぜ。今度は、きっと、俺たちの一粒種を連れて来るから。」
「一人しか、要らないの?」
「バーカ!まずは、一人だろ?」
「双子だったらどうするの?」
「あー、もー、屁理屈こねるな!可愛くねーな!」
「可愛くなくて悪かったわね!バカ!」
 嬉しそうに、痴話喧嘩を始める。これもまた、この二人の流儀。
 その、喧嘩を聞きながら、サワサワと湖面の睡蓮が風に揺られる。

 東の空には上限の月が少し高く昇り、二人の痴話喧嘩に耳を傾け続けていた。










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