サイレントムーン
第十話 静かなる月




一、


 すぐ頭上で轟音と共に弾けた光は、幾頭もの胡蝶へと姿を変えていく。
 そして、音もなく、空間に飲み込まれるように弾けて飛んでいく胡蝶たちの群れ。青の数は、幾百、幾千。数えきれない胡蝶が目の前で弾けて消えていく。
 乱馬は、ただ、黙って、その様子を見ているしか手立てが無かった。
「蓮白玖ーっ!蓮黒玖ーっ!」
 声の限りに叫んでも、二人の影を見出すことはできなかった。

 遥か上には、サイレントムーン。赤い月が、不気味に乱馬を見下ろしながら照らしてくる。
 まだ、全てが終わりではないことを、その月明かりが示しているようだった。

 と、ふわっと身体が浮きあがった。
 ここは、万有引力など、最早、無効な亜空間。
 身体が上へ上へと、浮かび上がって行く。
 その脇を、サイレントムーンが照らしつけてくる。その赤い光の中を、ひらひらと、青白い胡蝶が一頭、上空から舞い降りて来た。
 さっき、見た、数多の胡蝶のうちの一頭なのだろうか。まるで、乱馬を、見つけて嬉しがっているように、ひらひらと舞い降りてくる。
「胡蝶?」
 すっと、手をその蝶へと差し伸べた。
 と、胡蝶は、乱馬の左手に翅を休めて止まった。
 その胡蝶から、声が響いて来た。
『乱馬…。』
 それは、確かに蓮白玖の声だった。
「蓮白玖?」
『ボク…最後の力を振り絞って、これを君に託すよ。受け取って!』
「受け取る?」
『ボク…が生きた証…だ。』
「生きた証?」
『ボクと同じ、女体化できるという運命の刃を持つ君なら…きっと、これを扱える筈だから…。…あかねさ…んを助け…て…幸せになって…ボクが、成し遂げられなかった分まで。』
 ジジジと胡蝶の影が揺らめき、スッと消えた。空気に溶け込むように。と、掌が俄かに温かみを持って光るのが見えた。そっと、掌を開くと、そこには、小さな青い石が、浮かび上がった。穏やかな気がそこから流れてくる。
 軽く握りしめると、一気に、「蓮白玖」の「記憶」が乱馬の脳内へと流れ込んできた。蓮白玖が保ち続けた、連玖(れんく)という一人の人間の、強い想いと共に。
 一瞬で乱馬の脳裏へと入りこみ、流れて行った。
(蓮白玖。…やっぱりおまえ…。)
 乱馬はその青い石をそっと握った。
 と、握った石から、一筋の光が、スッととある方向を指して、飛んでいく。まるで、そこへ行けと言わんばかりに。
「あ…。」
 その光が飛んだの先。そこに、空間の裂け目があるのを見つけた。
 薄い光が、チラチラと漏れているのが見えた。

 すると、身動きを封じられていた身体が、嘘のように軽くなっていた。
(そうだ…俺は…、あかねを助けなきゃなんねーんだ!)
 ギュッと握った青い石、体内を巡る闘気の塊が、集まり始めるのがわかった。不思議に思って見ると、その石が、掌にぴったりとくっついていた。
「そうか…。俺にくっついて、手助けをしてくれるってか!上等だ!」
 乱馬はニッと笑って、石を見た。見たことが無いような真っ青な光を輝かせ始めた。乱馬の闘気に反応して光っているようだった。その光は、段々と強くなる。
(これを握りしめて、戦うぜ!)

 空間の裂け目の前まで行くと、壁がメリメリと音をたてて、崩れ去った。
 と、同時に、パッと視界が開ける。
 今度は広い空間。果ては見えない。
 と、光がどこからともなく差し込め、その中に人影が浮かび上がって来た。手を伸ばせば、届きそうな距離だ。

『やっと、会えたわね。乱馬。』

 その人影は、乱馬を見つめながら、そんな言葉をかけてきた。
 それは、にこやかな顔の女性だった。長い黒髪を後ろになびかせ、赤い着物のような服を肩から掛け、こちらを向いて、座った状態で、空に浮いていた。
 殺気は無い。いや、気、そのものが、一切感じられなかった。
 生きている感じはしない。一切の気の流れが無いのだ。
 ジジジと音をたてて、その空間にひびが入っている。まさに、画像の中に立っているかのようにも見えた。

「おまえは誰だ?何故、俺の名前を知っている?」
 いぶかりながら、乱馬は女へと言葉を継いだ。
『我が名はカグヤ。かぐやのみこ。』
 女は自分の名を語ると、じっと、乱馬の瞳を見据えて来た。その姿は、おとぎ話から抜け出て来た天女のように、光り輝いていた。背中から肩にかけて「領巾(ひれ)」のような長い布がひらひらと垂れて揺れている。
「カグヤ?…ということは、蓮白玖や蓮黒玖を使った異星人…か?」
 乱馬はそう問いかけていた。
『ええ。正確には、その異星人のかぐやのみこの、わずかに残った一部分…です。』
 と透き通る声で言い放った。

「あかねは、どこだ?どこに居る?」
 単刀直入に、声をかけた。

『あかねさんなら、ほら、ここに…。』
 彼女は、掌と掌を胸の前でくっつけて、スッと何かを浮かせて見せた。
 両掌の上には、一抱えもあろうかと言う鏡が浮いていた。その鏡面の中に、確かに浮かび上がる画像。
 真っ白い花嫁衣装に身を包んだあかねが、じっと、腰を落として地面に座っているのが、見えた。
 あかねは満面に微笑み浮かべ、誰かを見つめているような仕草を見せている。
 誰かいるのかと思って見渡すと、黒い影があかねのすぐ傍に立った。その影はみるみる、己の姿に変化をしていく。
 男の乱馬。そいつは、真っ白い、タキシードを着こんでいた。

『これは、あかねさんの夢の世界。』
「あかねの夢の世界?」
『このビジョンは、彼女が望む究極の夢…。』
「あかねが望む夢?」
『完全な男に戻ったあなたと、永遠の愛を誓うこと。それが彼女の究極の夢。』
 そう言われて、乱馬の瞳が少し曇った。
 今の自分は、女化している。この赤みがかった髪も、それから、豊満な胸も、少しだぼだぼの服も。あかねの望んでいるものとは違う。
 乱馬とて、ずっと女化する体質を持って居たいとは望んでいない。でも、まだ、完全な男に戻るには時間が、かかりそうだった。

『愛する女性の究極の夢が、己と永遠の愛を誓うということに尽きるなら、もっと喜んでもいい筈なのに。あなたは、ちっとも、嬉しそうな顔をしないのね。乱馬。』
 カグヤは、少し不思議そうに乱馬を見つめ返した。
「ああ…ふつうなら、喜ぶところなのかもしれねーが…。でも、今の俺は完全な男にはまだ戻れていねー。だから、ぬか喜びは出来ねえ。」
 そう答えていた。
『喜ぶどころか、哀しい目をするのね、あなたは…。』
「男に戻った乱馬(おれ)を嬉し気に手向けるあかねの瞳が、この胸に痛く突き刺さってたまらねえ。おれには、あれは、偽りの世界にしか見えねえ!」
 そう言いながら、ギュッと拳を込めた。今にも、あかねの夢を叩き割りたい…という衝動にかられ
る、自分が居る。男の姿に戻った自分を、嬉しそうに眺めている夢の中のあかね。どこか、空々しいとさえも思った。

『このままでいいの?』
 凛としたカグヤの声が、響いた。
『このまま、永遠に幸せな夢を見ながら、彼女を眠らせてしまってもいいのかしら?』
 カグヤは、鏡面に映るあかねへと視線を手向けながら、女の躯体のままの乱馬へと声をかけてきた。

「それは…いやだ…。」
 乱馬から声が漏れた。
 喉を押しつぶすような声で、吐きだしていた。
「…第一、あそこ……あそこに居るのは、俺じゃねえ…。」
『でも、あの躯体は、あなたのモノよ。』
 カグヤはそう吐きつけてきた。少し厳しい口調だった。
「違う。躯体はそうなのかもしれねーが、俺は…本当の俺は、今、ここに在る。あれが、俺の躯体だったとしても、中に居るのは俺じゃねえ!偽りの俺だ!」
 乱馬は、はっしと、あかねが対しているタキシード姿の己を睨んた。
『あなたが、あの躯体を取り戻しても、また、水を浴びたら変化するわよ。あのまま愛を誓ったら、永遠に男のままで居られるわ。』
 そうカグヤは畳みかけて来た。まるで、乱馬を困惑させるように。
「水を被って女になる身体に戻っても…かまわねー!」
『本当にそうなの?あかねさんは、女に変化するあなたを、許婚として肯定しているの?』
 カグヤは乱馬を煽るように言葉を投げてくる。
「ああ、あかねは、俺の変身体質を…否定はしねえ!あいつは、いつも、俺が女に変化しても、男の俺と同等に対してくれるんだ!いや、御託は要らねえ。水と湯で変身を繰り返す、情けねー身体だが、俺は男だ。あかねの許婚の早乙女乱馬は俺だ!だから、あかねを取り戻す!この、俺の元に!」
 ギュッと両手を握りこんだ。

『そこまで覚悟ができているのならば…、これをあなたに託しても大丈夫ね。』

 カグヤはそう言いながら、パシュッと何かを、乱馬へと投げた。
 それは、キラキラと紅い輝きを放ちながら、乱馬の右掌へと吸い込まれるように入って行く。
 真っ赤なクリスタルの欠片だった。
 乱馬の掌に触れると、キラキラと輝き始める。

『やっぱり、あなたの手に、それは馴染むのね。』
 そう言いながら、カグヤは笑った。

「これは…もしや…あいつの…。」
 キラキラと輝く赤い石。そこから漏れて来る気には、あかねの同じ気が漂っている。
 この、赤い石の出所を聞こうと、顔を上げた時、サイレントムーンが、いきなり、真っ赤に燃え上がった。否、それだけではない。シュウシュウと、甘い臭気と共に、どす黒い嫌な何かが、その月の向こう側から雪崩れ込んできたのである。

『こんなところに居たんだね…。バグどもよ!』
 どこからともなく、カグヤに似た声が、響いて来た。カグヤのような清涼さはなく、どこか、おどろおどろしいドスが混じった声だった。
『随分、探したよ。クズどもよ。まさか、私のアブストラクト・マグネック・フィールドの中に、のうのうと紛れ込んで、潜(ひそ)んでいようとは…。でも、見つけた以上、もう逃しはしないよ。』

 乱馬の足元から、どろどろした汚泥のような煙が漂い始めた。
 甘ったるい匂いをまき散らしつつ、じわじわと迫って来る黒い煙。
 わずかに開いた穴から入りこんでくる。と、一瞬、空間が戦慄いて、その黒い煙は一転、触手へと変貌を遂げた。
 ブワッと勢いよく、触手に変化し、乱馬たちへと襲い掛かって来た。

「八ッ!」
 カグヤは、スッと真上に飛び上がって、触手の襲撃を見事に避けて見せた。
 が、乱馬は飛び損ね、ずるっと、そのしなる触手に捉えられてすっ転んだ。と、肢体へ瞬時に巻きついた触手に、身体がみるみる巻き込まれていく。

『ふふふ。絡めとったぞ。これで、乱馬、おまえは、もう、動けぬ。』
 乱馬を釣り上げて、つる草は得意げに言い放った。その草からは、上にいるカグヤと同じ顔が、にゅっと飛び出して来た。美しいカグヤ…というよりは、悪に染まった不敵な美人の顔が、そこに現れた。触手に生えた顔。不気味を通り越して、滑稽とまで思えた。

『さて、それはどうかしら?』
 その空間の高みから、カグヤが、声をかけてきた。

『負け惜しみは、見苦しいぞ!わらわのバグめ!ちっぽけなくせに!!』
 女は、そう、カグヤへと声をかけた。
「あれは、カグヤのバグなのか?」
 ツタにグルグル巻きにされた乱馬は、遥か上に浮いている、カグヤを見上げながら、声を荒げた。
『ああそうさ。あれはただのバグだ。』
「どいうことは、おまえは何者だ?」
『わらわがカグヤの本体だ。ふふふ、バグめ!もう、何もできまいよ!早乙女乱馬…こいつの最期を見届けるくらいのことしかできぬわ!』
 そう言って、ツタがしなる。グッと乱馬の身体を抱えこんで、ギチッと力を込めた。
「つっ!」
 乱馬から、苦し気な声が漏れた。そう。引きちぎれんばかりの力で、締め上げられたからだ。体中の血が、止まってしまうようなくらい、締め付けられる。
『見事に女化しておるよのう…早乙女乱馬。』
 すぐ目の前で、黒ずんだカグヤの顔が、嬉しそうに笑った。
「それが…どーしたっ?」
 乱馬は、真正面に現れた顔を睨みつけながら言い放った。
『面白いよのう…。ふふふ…。おまえ、あの男…連玖(れんく)と同じ女溺泉に落ちたそうだのう。』
「連玖…。そうだな、あいつも、女溺泉に溺れたんだっけ…。そして、蓮白玖と蓮黒玖に分割されたんだっけ。」
 締め上げられつつも、フッと乱馬は笑顔をこぼした。
『わらわを愛した間抜けな男。わらわに性別など無いのに…。そして、わらわより先に命尽きた男。』
 クククとあざ笑いながら、黒いカグヤは乱馬へと御託を並べていく。それを、遥か上のカグヤは、黙って聞いていた。
『哀れよのう…。この星のホモサピエンスという種族は。その命、我らよりも、遥かに短い。我が一族の瞬きの間くらいしか生きられぬ。なのに、カグヤを愛するとは…不憫な奴め!』
 そう言って、ホホホと高笑いを響かせる。
「そっか…。蓮白玖と蓮黒玖の元になった、連玖という男は、カグヤさんを愛していたのか…。やっぱり…この石の欠片が教えてくれたことは本当だったのか。」
 乱馬はギュッと、青い石が埋まっている掌を握りしめた。

 蓮白玖が時たま見せた憂いた気。それから、カグヤのことを語るときの、どこか嬉々とした様子。
 蓮白玖が、カグヤに惹かれていたのは、薄らぼんやりとわかっていた。その想いが、実は、「深い愛情」だったのだと、今は手に取るようにわかる。
 蓮白玖はカグヤを、愛していたのだ。

「全て、わかったぜ!この石のおかげで!」
 そう言って、はっしと、己をあざ笑う黒いカグヤの顔を睨んだ。
「おまえは…カグヤさんなんかじゃねえ!似ても似つかねえ、化け物だ!」
『何の戯言だ?わらわはカグヤぞ。美しく永遠に光り輝く、かぐやのみこだ!」』
 ゆらゆらと触手と共に、黒ずんだカグヤの顔が乱馬の目の前で揺れた。
「いや違う!おまえは、カグヤさんなんかじゃねえ!同じ顔をしていても、違う。おまえは…オクトなんだろ?アラヤの偉大な創造主にして、ターリネ星の支配者の!」
 締め付けられる痛みに堪えながら、乱馬は、静かに吐きだした。

 と、乱馬に絡みついた触手の、気の流れが変わった。もっと、どす黒く、邪悪な感じに。いや、触手だけではない、飛びだしていたカグヤの顔つきも変わった。若いカグヤの顔から、少し妙齢に、つまり少し年齢が高い女の顔へと、変化を遂げたのだった。

『ふふ、わらわの正体を見抜くとは。一応、褒めてやろう。いかにも、わらわは、オクト。アラヤの創造主にして、偉大な神霊。』
 カグヤより、少し目がつり上がっている。開いた口から、尖がった牙が覗く。

「神霊ねえ…。そんな、清浄なモノには見えねーけどよ!へっ!オクト!おまえ、カグヤと共に、この地球へやって来ていたんだな。」
『何故そう言いきれる?』
「おまえがカグヤと一緒に宇宙船に乗りこんでターリネ星を出たのは、永遠の命を育んでいくはずの躯体が老化し、自力では立て直せなくなっていたからなんだろう?だから、カグヤさんと共に宇宙船に乗りこんできた。つまり、ターリネ星を捨てたんだ!」
『ふふふ、そうさ。わが身一つで、カグヤと同じ宇宙艇に乗りこんだのだ。そして、コールドスリープしたまま、この地へ降り立った。カグヤと共にね。』
「そして、動けぬおまえは宇宙艇に残り、カグヤさんをこの地上に降ろし、探査させたんだ。この大地を闊歩していた地球人のデータを取り、それに化けたカグヤさんは、やがて、古代社会に溶け込み、その圧倒的なターリネ星の科学や文明の力を巫女的な神事に見せかけて、この地に住んでいた、古代の人々の病や怪我を治し、慕われていったんだ。
 カグヤさんは、その中で、連玖という青年に出会い…そして、恋に落ち、やがて二人は愛を語り合う仲まで進んだ…違うか?」
『ふふふ、当たらずしも遠からずだ。それで?』
「連玖と接するうちに、いつしかカグヤさんは、おまえの命令に背き始めた。この星をターリネのファームとすることを躊躇し出したんだ。いや、おまえに逆らおうとした…。
 不味いと思ったおまえは、まずは己の肉体の力を取り戻そうと試みたんだろう?」
 乱馬は睨みながら、続けた。
「このままでは、生きながらえない…そう判断した、おまえは、ある一計を案じ、すぐさま実行に移した。
 それは、自ら、カグヤに化けること。カグヤは己の身体から分身させたアラヤだった。同じ遺伝子を持つならば、お前の持つ科学力で、化けて、成り切るのは容易だったじゃねーのか?カグヤさんを隔離し、そして、連玖を言葉巧みに、誑(たぶら)かした。そして、連玖を女に変化させて、コアにして繋いだんだ。己を復活させるための人体エネルギーを搾取するために!」
 乱馬は続けた。
『ほう…なかなか、面白い見解をするんだね。』
 顔は乱馬を見下げた。
「女化させた連玖をコアにしたおまえは、幾ばくかのこの星の人間から、生気を食らい、力を取り戻そうとしたんだ。
 でも、まだ、整備がすんでいなかった捕縛システムを使ったために、結果、お前を完全体にする前に、連玖は力尽き、その命を終えた。
 そう、連玖が死んだせいで、おまえは完全体になることができなかった。
 仕方なく、おまえは元の身体に戻り、再び、深い眠りに就いた。次にシステムが正常に動かせる程度の人間が、この地上に繁栄するまでの、間。己に従順に作られた、蓮黒玖と共に。違うか?」


『ほほほ。そうだ。中々近いところまで、推理できたな、小僧!褒めてやろう!』
 そう言い放ちながら、顔はイソギンチャク状の触手の中に埋もれて見えなくなってしまった。
 代わりに、ゆらゆらとそこら中に充満する、触手が一斉に動き始めた。
『だが、一部、間違いもある。今から、それを正してやろうぞ!わらわは、カグヤに化けたのではなく…カグヤの身体へ入りこんで、憑依してから、人間の生気を吸ったのだよ…。小僧!』
 そう言って、触手から再び、顔を突き出した笑った。
『カグヤは、いわば、私の分身。私の血肉を分け、作った電脳生命体。従って、その躯体は私の物でもあるのだ。わかるか?故に、乗っ取り放題なのだ。わらわは古くなった躯体を捨て、カグヤの中に憑依してやったのだよ。
 ククク。それから、連玖を口説いてやったわ!一緒になろうと。一つになって新しい生命体を作ろうと。』

「おまえ…カグヤさんの身体を乗っ取った上、連玖を騙したのか?」
 乱馬は激しく言い放った。
『そうよ…全て、騙されたあいつが悪いのだ。そして、わらわは、上手く騙した奴を女体化させてコアにし、人間の生気を吸い続けてきたのだよ。システムが完全ではないことは、もちろん知った上でね。
 連玖が息絶えた後は、乗っ取ったかぐやの身体を自分で改造して、生命を繋いできた。殆どは眠ったままでね。
 数十年に一度目覚めれば、蓮黒玖を使い、若き娘を富士の樹海に招き入れて…それを餌にして再び、命を繋ぐ。それを繰り返して来た。そうして、完全復活の時が巡ってくるのを、じっと待っていたのだよ。』
 顔は再び触手に消え、ゆらゆらと、黒い岩とそこから幾重にも伸び出すイソギンチャクのような触手を揺らせていた。不気味な姿だった。
『ククク…。そして、ようやく、時が満ちた。今宵、これから、あのあかねとかいう、おまえの許婚。あれをコアに、この星の人間の生命エネルギーを吸い上げて、再び、大いなる力を取り戻すのだ!わらわは、オクト神霊として、全復活し、このを第二のターリネ星にしてやる!ククク!』

「反吐(へど)が出そうな、話だぜ。でも…安心した…。おまえが、カグヤさんじゃねえ…ことがわかったからな。だから、存分にやれるってもんだ。」
 ペッと乱馬はツタへと唾を吐きつけた。
『最早、わらわはカグヤと一心同体ぞ。小僧!この上に居るのは、わずかに残った、小さなバグのカグヤに過ぎぬ!』
 へらへらとツタが声を放つと、
「けっ!嘘つけっ!俺の目は誤魔化せねーぞ!おまえはカグヤさんに乗り移ったと同時に、彼女の心をその身体から分離させたんだ!俺にはわかるぜ。その、ムンムンとした嫌な気は、上にいる、カグヤさんとは全く異質の別物だ。だから、身体はカグヤさんの物かもしれねーが、心は違う!」
 そう、威勢よく吐きだすと、パキパキと手の関節を鳴らし始めた。


二、

『フン!それがどうしたというのだ?確かに、カグヤの心は、この上のバグと共に分離させてやったわ!ふふ、でも、そんなこと、もうどうでもよい。見よ…もうすぐ、私が作ったシステムが稼働させた、サイレントムーンが、天高く上る。お前たちに絶望という引導を渡してやろうぞ!』
 そう言いながら、ツタは乱馬を別の方向へと促した。乱馬を締め上げていたツタが、あかねが映し出される、闇色の玉の方へと彼を動かして見せたのだ。
 いや、それだけではない。
 ゴゴゴという地鳴りと共に、乱馬の目の前に、黒岩が姿を現した。
 富士の裾野で、最初にあかねを引きずりこもうとした、あの穴あき岩だ。
 見ると、そいつの四方八方から、触手が方々へと伸び上がっているのが見えた。その中の数本が、乱馬にがっちり絡みついている。他の触手も、方々の何かと繋がっているのは、明らかだった。
 
 と、大きな月が、こちらを照らしつけているのが見えた。見たことも無いレッドムーンだった。
 その明かりは、真っ赤な光を放って、空を緋色に染め、輝いている。
 もちろん、星は見えない。
 さんざめく美しい真赤な月の光。そいつが、締めつけてくるツタと女乱馬の身体を、妖艶に照らしつけて来る。
『この月が天上に来た刹那、おまえの許婚は、我が手に落ちる。あの男と口づけた瞬間、わらわが、あの身体に憑依してやるのだ!さすれば、わらわはあかねと一心同体化し、この星は我が領土となる。』
 女は、そう言いながら、ホホホと高笑いした。
「けっ、一つ忠告しといてやらー!あかねは、てめーに蹂躙されるような、そんな、柔な女じゃねーぞ!」
 腹の底から、どすが利いた女の声で、吐きつけた乱馬。
『負け惜しみを!ならば、とくと見るがいい。おまえの真の躯体を操って、あの娘を虜にする瞬間をな!そして、死んでいけ!血飛沫を上げて!』

 目を凝らしてみると、あちらがわに映る、あかねの周りには、びっしりと、透明なツタが絡みついているではないか。いや、あかねの躯体だけではない。男乱馬の抜け殻にも、びっしりと、まとわりついていた。
 ドクンと、こちら側で女に変化した乱馬を絡めとるツタが戦慄いたように思えた。と、黒いツタが、一瞬にして、透明に変わった。まとわりついたツタの棘が、女乱馬の腕や足に食い込んで来た。
「つっ!」
 真っ赤な血が、身体から滴り落ちて流れていく。ドクンドクンと心臓の音が響き始める。

『さあ、覚悟を、おし。』
 ツタを生やした大岩が声をかけた。
『おまえの躯体…あの抜け殻が、あかねへと永遠の愛を誓って、口づけた瞬間、おまえの肉体から血が噴き出して、あちらの亜空間を真っ赤に染める。その、血の池に浸って、おまえの許婚は、永遠に冷めない夢路へと旅立つ。そして、わらわは、彼女の身体を生きたまま乗っ取って、この星の人間どものエネルギーを得て。若さを復活させ、再び悠久の時を刻み始める崇高な肉体へ戻るのだ。何千年、何万年も滅ばぬ、美しい肉体を手に入れる。ほほほ、ほほほほほほ。』

「へんっ!馬脚を現しやがったな。この、大年増!」
 乱馬は叫んだ。
「絶対に、あかねは渡さねえ…。」
 乱馬は、丹田に気合を込めた。
『あがいても無駄だ!』
「そんなの、あがいてみねーとわからねーだろーが!うおおおおおお!」
 ありったけの気を、丹田へと溜め始めた乱馬だった。左手に握った青い石の塊を通し、一気に高まっていく己の闘気。



『得体の知れぬ相手なら、今までもたくさん相手にしてきておろう。おまえはその時、どうやって、闘い抜いてきた?』
 脳裏に父、玄馬の声が流れ込んでくる。
『乱馬よ!闘いは臆したときに、既に敗することが決まる!最後まで諦めるな!これは、早乙女流の一番要の教えじゃ!』
 子供の頃から、ずっと言われ続けて来た言葉。
『おまえをあかね君と引き合わせたのも、守る者ができれば、男はもっと強くなるからじゃ。親心もわからんのか!』
 様々な、玄馬の戯言が、頭の中を駆け抜けて行く。スチャラカ親父のスチャラカ説法。しかし、どれもが、的を射てくる。
『ふん、女化する身体が何じゃ?それを気にするなど、女々しいと言わんでなんとするぞ!背負え!様々な因縁を!そして、もっと強くなれ!乱馬よ!』



 
(そうだ…。俺は、いつも我武者羅に、闘い続けてきた。親父の教えのとおり、諦めず、どんな卑怯な手を使ってでも、闘いに勝ち続けて来た!今回だって、俺は負けねえ!あかねは、絶対に取り戻す!この手にっ!)
 グッと握りしめた、左手。そこから溢れんばかりの青い闘気が沸き立って行く。

 と、その時だった。
 天上の天の月が、一瞬、黄金色に光った。
 パアアアッと光が差した。
 どうやら、天頂に達したようだった。太陽の如く、ギラギラと黄金色を放ち、光り輝く。

 と、目の前に下りて来た、闇の球。その中から、男乱馬の声が響いた。
「あかね…。愛している。」
 タキシードを着こんだ乱馬から漏れてきた声。
「永遠の愛を…今、ここで誓おうぜ!」
 はっきりと聞こえてきた。
「乱馬…。」
 目の前の闇の玉に映し出された、あかねの瞳がゆっくりと、男乱馬へと差し向けられ、開いていく。
 そして、差し迫ってくる、タキシードを着こんだ乱馬へと、その熱い視線を投げかけた。
「乱馬…。もっと、あたしに近づいて…。」
 はっきりと象る口。そして、乱馬の手をすいっと取った。

『くくく…そのまま、熱い抱擁と口づけを。そうすれば、この星はわが手に…。』
 ほくそ笑む、女の声。それが、女乱馬の耳元で響いた。

「あかねっ!」
 本体の女乱馬が、叫んだと同時に、あかねが、動いた。
 素早く、迅速に。誰もが思い浮かばなかった、予想外の行動へと出たのだ。

 バシャーン!

 手にしたステンレスボトルから、水を思い切り、タキシード乱馬へ向けて、ぶっかけたのだった。

 いつ、どこから持ち込んでいたのか。いや、恐らく、蓮黒玖に捉えられる直前、乱馬が手にしていたステンレスボトルをそのまま持っていたのだろう。中に入っていた湯は当然、温度が下がって水になる。
 もちろん、実体ではあったが、女乱馬はこちらの世界でアト化している。故に、タキシードの乱馬は女体変化しなかった。水をかけられても、男のままだった。
 変化しない乱馬。その有様を見て、あかねの瞳が険しくなった。
「あんた、やっぱり、乱馬じゃない!」
 あかねは一声投げると、はっしと、乱馬を睨み上げた。
「お…俺は乱馬だぜ?お…おまえは完全体の乱馬が好きなんじゃねーのか?!」
 少し視線を泳がせながら、タキシード乱馬はあかねへと声をかけた。
「いい加減なこと言わないで!乱馬は確かに変態体質だけれど、それはそれでいいのよ!あたしにはちゃんと、わかるの!変身しない乱馬は、乱馬じゃない!あんたは偽者よ!」
 
 バチコーン!

 あかねの強烈な平手打ちがタキシード乱馬へと入った。
 
「あたし、騙されないからねー!」
 鼻息荒いあかねを前に、おろおろし始める、タキシード乱馬。

『今よ、乱馬!思いっきり、溜めた闘気を、あなたを束縛している黒い触手にぶっ放して、引きちぎりなさい!』
 天上からカグヤの声が響き渡った。

「おう!いっけー!俺の熱い闘気ーっ!」
 乱馬は、己を絡めとっていた、黒い触手を握りしめた。そして、左手にため込んでいた闘気を、一気にその触手へと、ぶっ放した。

 バリバリバリ!ドオッ!

 と、乱馬の手から放たれた青い闘気が、瞬時に彼の身体を捉えていた触手へと解き放たれ、電極のように、触手の中を一気に流れて、触手が生えている黒い岩状の塊を強襲する。

 バチバチバチッ!
 放電音と共に、『ぐわああああっ!』っという、女の悲鳴が、轟き渡った。
 すると、今度は、メキメキと音をたてて、乱馬を束縛していたツタが、その身体からはがれ始めた。
 一つ。また一つ。空に溶け込むように、触手が乱馬の目の前から消えてなくなっていく。
 いや、こちらの女乱馬だけではなく、タキシードを着こんた男乱馬からも、それから、あかねからも、彼らの周りを取り巻いていたツタが、乖離して消滅し始めた。

「蓮白玖が結んだ女乱馬の躯体…、その、アト化を解きなさい!」
 天上から、カグヤの声が響き渡った。と同時に、何らかの衝撃波が、女乱馬の躯体を、サアッと通り抜けて行った。
 と、女乱馬の身体が、一瞬、緋色に染まってきらめいた。

 パパアッ!

 女乱馬の身体は、光ったまま、目の前にあった、闇の玉へと吸い込まれるように飛び込んで行く。

「うわあああっ!」
 目の周りが一瞬、緋色に光った。

 バチンッ!

 と、今度は、勢いよく、耳元で、音が鳴り響いた。
 
 ズズーン!
 鈍い音がして、尻から、その空間へ着地していた。つまり、大きな尻もちをついたのだ。
「痛ててて…。」
 ハッとして目を見開くと、女の躯体は吹き飛び、己は、タキシードを身にまとっていた。
 そう、男の躯体の中に、意識と共に、すっぽりと入りこんだようだった。アト化が解けて、女乱馬の身体から己の肉体へと、意識が乗り移った。そう、元の身体に戻ったのだった。
 目の前には、思いっきり足を後ろに引き、身構えたあかね。タキシードを着て、尻もちをついた己へと、もう一発、カウンターパンチを浴びせかけようと、花嫁衣装のまま、右手を大きく振り上げる様子が見えた。
 シュッ!
 すぐ傍で、あかねの鋭い拳が襲い来る。これを食らったら、ダメージもでかい。
「っと!」
 乱馬は、辛くもあかねの右カウンターを外した。そして、パシッと左手で受け止める。
「乱暴は無しだぜ…。ったく、せっかく、自分の身体を取り戻せたんだからよ。痛いのは尻もちだけでいい!」
 にたっと笑った乱馬。
「何、訳の分からないこと言ってるのよ!」
 あかねは勝気な瞳をギラギラと輝かせて、反対側の手から拳を繰り出そうと、身体をひねった。
「だからぁ!俺だ!今、ここに居るのは!さっきまで憑依していた偽りの俺じゃねー!!意識も身体も本物の俺だ!このタコ!」
 そう言いながら、繰り出されたあかねの左拳を、パシンと右掌で受け止めると、握って見せた。
「嘘!あたしを謀ろうとしても…。」
「嘘なんかじゃねーぞ!良く気を探ってみろ!わかんねーのか、このバカ女!」
「何ですってえ?」
「さっき、偽者を見抜いたのは褒めてやる。が、本物の俺の気がわからねーのかよ!この寸胴女!」
 寸胴女、呼ばわりされて、あかねが激高した。
「誰が、バカで寸胴すってぇ?そっくり、あんたに返してあげるわー!乱馬のバカ―ッ!女おとこ!」
 と、雄叫びを上げた。そう言いながら、胸の中へと、思い切り飛び込んで来た。
 どうやら、本物の乱馬の気を、彼女なりに察したらしい。
「乱馬のバカ!バカバカバカ!」
 そう言いながら、顔を胸になすりつけてくる。
 この憎たらしい激高振り、そして、不器用な甘え方。それはあかねそのものだ。そう思うと、独りでに笑顔がこぼれてくる乱馬だった。
「たく、あいっ変わらず、かわいくねーなー!おめーは!でも…まあいい…。それよか、こんな小競り合いをしている場合じゃねーぞ!見ろ!」
 と、あかねの肩を持ちながら、乱馬は視線を先へと流した。
「え?」
 我に返ったあかねは、彼の胸板から顔を離し、乱馬が目で指した方を見た。

 おどろおどろしい気が、その方向から流れ出して来る。どす黒い、それで、また、甘い香りがどこからともなく、漂ってくる。

「何?あれっ!」
 思わず、問い質していた。
「説明してーのは山々だが…修羅場は終わっちゃいねーんでな。詳しいことはあとだ。それより、戦えるよな?」
 乱馬はあかねの肩を、ポンと一つ軽く叩いた。
「うん、戦えるわよ!」
 あかねは再び、拳を作って見せた。
「上等だ!」
 ニッと乱馬は笑った。
「で?あいつは?あれは、何なの?敵?」
 目と鼻の先に、ゆらゆらと揺れる不気味な物体。それも、幾重にもイソギンチャクのように無数の触手が揺れている。
「ああ、敵だ。富士の山ン中でおめーを引きずりこもうとした、化け物…だ。」
「化け物?」
「ああ。おまえ、修行に入った山で、変なツタに絡まれたんだろう?あれが、そいつの本体だ。」
 乱馬は真すぐにそいつを見つめながら言った。
 ゴクンとあかねは唾を飲み込んだ。
 確かに、乱馬の言は的を射ている。黒い触手を蠢かせている黒いモノは、岩そのものにも見えた。

 ひょおおおお!
 と、真正面から、強い風が吹き始めた。
『もうちょっとだったのに…。許さぬ!許さぬぞ!』
 触手が、不気味に蠢いている。

「あれが、おまえを束縛し、それから、俺たちをハメた化け物の正体だ。」
「あれが、化け物の正体。」
「だから、ふんどし締めてかからねーと。」
「あたし、そんなモノはいてないわよ!」
「いいから、合わせろ!」
「うん!」
 コクンと頷いたあかね。



三、

 花嫁衣装のあかね。それから、タキシード姿の乱馬。
 凡そ、この場には似つかわしくない姿の二人がそこに居た。
 幾ばくかの闘いを経て、やっと、巡り合った二人だった。カグヤの放った光によって、あかねの元へと運ばれて、元の男の身体へと入りこんだ乱馬。
 アト化は解けて、人の身体に戻っていた。

 乱馬はあかねの左肩に左手を置いたまま、ゆっくりと立ち上がる。あかねも、乱馬に合わせて、腰を上げた。
 ギュッと握った右手に、気を集めていく。

「あいつは、宇宙からこの地へ降り立った生命体だ。悠久の時を生きている、電脳生命体…なんだそうだ。」
「電脳生命体?」
「ああ…。母星はターリネ星。というらしい。そして、あいつは、ターリネ星のアラヤという生命体。」
「ターリネ星のアラヤ?」
「ターリネ星のアラヤの偉大な創始者にして、最高の存在…オクト神霊…とかいうらしいぜ。」
 乱馬は、はっしとそのイソギンチャクを眺めながら言った。
「神霊とかいう崇高なモノじゃなくて……岩からウジャウジャ生え出している、ウニとかイソギンチャクの化け物にしか見えないんだけれど…あたし。」
 あかねは乱馬へと、見たままの感想を述べた。
「確かにそーだな。とても、高等生命体には見えねーな。でも、力は未知数だ。侮れねーぞ。」
「で?勝算はあるの?」
「ああ…。任せな。」
 そう言って、乱馬は不敵に笑った。

 辺りには凄まじい風が流れていく。ゴオゴオと音をたてながら。
 さっき、乱馬がぶっ放した熱気が、そこら中に充満していた。
 そればかりではない。靄がかかっていたせいか、湿気も空気に含んでいる。
 この状況で、彼がぶっ放す技は、たった一つ。
 落ち着き払っている様子から、あかねには、ありありと察することができた。

 そう、飛竜昇天破。この熱された空気の中に、氷の拳をぶっ放すつもりなのだろう。
 涼しい顔をしながらも、左手に氷の闘気を集めている有様が、透けて見える。
 
「ほんとに、大丈夫なの?」
 少し不安げに、乱馬を見やった。
「バカ!大丈夫だ。カグヤと蓮白玖が、共に、とあるものを託してくれたしよー。」
「とあるもの?」
「ああ…。左手には蓮白玖が遺した力と、右手には俺の力の元がぎっしりと詰まってやがる。」
 そう言って、にっこりと微笑んだ。
「蓮白玖?って」
 きょとんとあかねは乱馬を顧みた。カグヤのことも蓮白玖のことも、あかねは何も知らない。
「俺を助けてくれた恩人だ…。白うさ公の本当の名前だよ…。」
「じゃあ、乱馬の力の元って?」
「俺にとって一番大切なものだ。だから、俺を信じろ、あかねっ!」
 乱馬の真顔がすぐ側で揺れる。
「わかった…信じるわ!」
 あかねも言い切った。
「じゃあ…。俺の右掌の中央。ここを…この赤い石を目印に、気を集中させろ!あかねっ!」
「うん!任せて!」

 まだ、気弾を思うがままに操れないあかねだった。でも、身体を流れる気を、乱馬へと乗せることはできると思った。ふうっと深い深呼吸を一つ。そして、グッと瞳を閉じる。
 こうして、視界を遮断すると、集中できる気がした。
 風の音が傍で轟々と音を鳴らしている。
 その中を縫って聞こえてくる、乱馬の呼吸の音。一定のリズムを守って流れて行く、深い吐息。
 その吐息の躍動へ、己の呼吸も合わせていく。
 と、乱馬の中を流れる冷気があかねに触れてくる気がした。冷たい気だが、それを取り巻く気は逞しく、美しい青色をしている。まるで、あかねの気を優しくない交ぜにするかの如く、囲んでくる。その冷たい青い気に、自分の中に沸き立つ、赤い闘気を、少しずつ託していく。

(乱馬…。全部持って行って。あたしの気…。全てあなたにを託すわ!)
 そう言いながら、青い気へと、己の赤い気を乗せて流していく。


『お前たち、一緒に、ここで葬ってやろう。』
 気を集めていたのは、乱馬とあかねだけではない。この、オクト神霊と自らを呼ぶ化け物も、気を集めていだ。おどろおどろしい、曲がった気。その気で、乱馬とあかね、この二人をなぎ倒そうと、ほくそ笑む。
『ターリネのオクト神霊に逆らった罪、その身で受けるが好いわ!!』

 ドッゴーン!

 それは、禍々しい灰色の気弾だった。
 真上に上った赤い月は、オクトが投げつけた黒い気に、真っ黒に染め上がる。まるで、新月のように、暗く影となる。
 と、熱を帯びた烈風が、二人の上を猛スピードで吹き抜けてきた。
 乱馬は、微動だにしないで、拳を握りしめたまま、グッと堪えていた。
 まだ、打たない。打つタイミングではない。そう、思ったからだ。

『汝ら、深遠の闇に飲まれて、骨の髄まで溶けてなくなるがいい!そして、我が肉体に、取り込んでやろうぞーっ!』

 グワシッ

 月から漂ってくる黒い気が、乱馬とあかねを丸のみにしていく。その瘴気は荒れ狂う真っ黒な炎となった。
『この黒い炎に焼かれて、無事だった生命体は居ない。ホーっホホホ!ホーホッホホ!』
 荒れ狂う風と共に、己の勝利を確信して、オクト神霊はあざけり笑った。

 真っ黒な炎が乱馬とあかねを包み込んでしまった。
 そして、メキメキと音をたてながら、膨れ上がってくる。
 苦しい。息ができない。いや、それだけではなく、喉を焼いてくる。
 あかねはギュッと瞳を閉じた。その閉じた瞼が、みるみる、暗くなる。深遠の闇が広がる。それに脅威を感じながらも、必死に、気を乱馬の青い気へと、己の気を合わせ続けた。乱馬が勝つと信じて。ただひたすらに。
 そのあかねの送って来る、清浄な気は、乱馬の闘気に馴染んで、何倍、いや、何十倍、何百倍と闘気を押し上げて行った。
 と、ふうっとあかねの身体から出た闘気が、一縷の真っ赤な炎となって瞬時に乱馬の右の掌まで勢いよく駆けあがっていく。緋色の燃え盛る闘気が乱馬の右手に燃え移った。
 左に青い闘気、右に赤い闘気。左右、違う色の闘気の炎が、乱馬の手で燃え盛る。

『今よ、打って!あの月、目がけて!』
 カグヤの声が、すぐ傍で響いた。

「いっけー、飛竜昇天破ーっ!」
 乱馬は、無我夢中、左に握りこんだ、氷の拳を突き上げた。
 乱馬が放った青い氷の闘気が、蓮白玖の寄越した青い石を介して噴き上げた。
「こっちも行け―!迦楼羅昇天破!」
 繰り出した右手は、あかねから貰った真っ赤な闘気。赤い闘気は、火柱となって、先に放った青い乱馬の気の上を、駆け上がっていく。
 左手から飛び出した青く光る龍神の長い胴体。右手から噴き上げた真っ赤な迦楼羅鳥の噴き上げるような猛火炎が渦となって巻きついて行く。青い龍と赤い迦楼羅鳥の闘気の饗宴だった。
 乱馬が放った左右の闘気は、青と赤、二つの気弾は、一つの塊となり、黒い月、サイレントムーン、そのど真ん中を貫いていった。

 ドッゴーン!

 一瞬、戦慄いた、黒の満月。
 乱馬が放った青と赤の気は、月のど真ん中を貫いてもなお、留まることなく、猛烈な烈風となって空を引き裂いて行った。

 パアアアッ!

 と、大きな閃光が、空を走った。目を開けて居られないほどの、光の洪水が、黒い月から溢れだした。

 ピシッ!

 何かが割れる音が、上空で響き渡る。

 ピシピシピシ…。


 次の瞬間、今度は、上空で輝いていた、サイレントムーンの表面にひび割れが走った。そのひびは、瞬く間に、月の表面へと広がっていく。

 パシッ!

 月の表面から、何かが離散した。キラキラと輝きながら、粉々に砕かれて、落ちて来る欠片。
 危険だと悟った乱馬は、咄嗟に、あかねへと覆いかぶさった。
 花嫁衣装のあかねを、欠片の飛散から守るように、グッと、己の胸板へ顔を押しつける。
 あかねは、力尽きて目を閉じたまま、乱馬の胸の中にすっぽりとおさまっていた。その顔には、微かな笑みがこぼれていた。
 

『うぎゃああああっ!』
 背後からオクト神霊の叫び声が響いてきた。薄目を開いて、その方向へ瞳を転じた乱馬は、一瞬、我が目を疑った。
 そう、離散した欠片が、槍の如く、一斉に、オクト神霊のイソギンチャク状の本体へと、降り注いで落ちていったからだ。
 暗闇の中で、落下する、サイレントムーンの無数の欠片たち。まるで、割れた鏡のように、キラキラときらめきながら、その尖った切っ先で、オクト神霊を切り裂いていく。いや、切り裂いたのは、本体だけに留まらなかった。黒い物体から蠢き出ていたその触手も、尽く切り刻んでゆく。
 まるで、サイレントムーンの欠片一つ一つが、意志を持っているかのようだった。
 あかねを抱えた乱馬や、少し上に居たカグヤからは避けて、落ちて行く。
 張り付くように落ちて来た月の欠片が、びっしりと、イソギンチャク状のオクト神霊の躯体へと、張り付いて、その蠢きを封じてしまったのだ。
 イソギンチャク状の触手は凍ってしまったかのように、ピタリと動きを止めた。

『何故だ?何故、こんな陳腐な人間ごときに…わらわが敗れた?何故だ?』
 苦しそうな声が、黒い物体から漏れ聞こえてきた。

『それは、生命を弄(もてあそん)んだ罰ですわ。』
 凛とした声が、響いた。カグヤがオクトへ向けて、言い放ったのだ。
『あなたは、不老不死にこだわるばかりに、心を失ってしまった。ターリネの誇りも、それから希望も全部。だから、もう…ここで終わりにしましょう。お母さま!』


 上から、一頭の胡蝶がひらひらと降りて来た。七色の輝きを放ちながら。
 その胡蝶が、黒い岩のてっぺん辺りに、音もなく止った。
 と、同時に、オクト神霊の本体。黒い大岩が、まといつく触手と共に、一瞬、ドクンと戦慄いたように見えた。
 すると、「うわああああああっ!」オクト神霊の長い悲鳴が轟き渡ったていく。
 その叫びは、だんだんに小さくなっていく。
 シュウシュウと黒い岩もその動きを止めるかのような、唸り音が響き、やがて、辺りは静寂に包まれていった。





「終わった…のか。」
 ふうっと、長い溜息を吐きつけながら、乱馬は、スッと己の前に降り立った、カグヤへと声をかけた。

 コクンと揺れたカグヤの頭。その彼女に向かって、オクトに最後の引導を渡した胡蝶が、ひらひらと、戻って来た。その胡蝶を、右掌に迎えながら、憂いた瞳で翅を見つめた。

『ありがとう…あなたたちのおかげで、全てに終止符を打てました。』
 カグヤは、寂し気に笑った。
 乱馬はあかねを抱いたまま、カグヤへと声をかけた。
「あんたは、この後、どうするんだよ…かぐや姫。」
『あなた方をここから送ったら、この亜空間を永遠に閉じます。』
 静かにカグヤが答えた。
「閉じて、あんたは、ここにずっと居る気か?」
『ええ…。もう、私の母星、ターリネ星は滅びてしまいました。宇宙の藻屑へと消えてなくなったのです。』
「やっぱり、滅んだのか?ターリネ星は。」
『はい…。ターリネ星を照らしていた恒星の爆発によって、出来たブラックホールに飲まれて、跡形もなく…。皮肉なものです。永遠の命を手に入れたはずの私たちの母星が、年老いた恒星の爆発によって、滅びるなんて。』
「所詮、永遠の命なんて、夢のまた、夢ってことか。」
 乱馬は、ふっと、愁いを帯びた瞳を、カグヤへと手向けた。
『ええ…。己の生命体を永遠に保つ技術があっても、恒星の爆発は止められなかったのですからね。
 だから、私も、この亜空間を閉じて、永遠の眠りに就きます。』
「そいつは、いただけねーな…。」
 乱馬は、険しい顔をカグヤへと手向けた。
『私は、存在そのものが罪の塊でした。永遠の口無い命と身体を持つなど…生命の冒涜以外の何物でもないでしょう。それに…。私は、あかねさんと出会うまでに、何人もの命を奪い続けて来たんですもの。母を…オクトを倒すという目的のために。』
 ふっと、カグヤは言葉を投げた。
「それは、どういう意味だ?」
『私は、オクトと同じです。己の命を長らえるため、自身が身を潜めていた亜空間に紛れ込んで来た人間の…若い娘のエナジーを食らったこともあったのです…。目的を果たすためには、そうやって、細々と命を繋ぐしか術がなかったから…。そう…。あなたが愛するあかねさんの命をも、奪っていたかもしれないのです。私は。』
 カグヤは小さく呟いた。
「あかねの命を奪う?」
 乱馬の顔が少し険しくなった。
『ええ…。今から十数年前、彼女が私の空間に足を踏み入れた時に。母を亡くしたてのこの子に、母の元へ行かないかと誘いました。あの時、私のエナジーは枯れかけていたから。たとえ、幼い子供の小さなエナジーでも、欲しかった。』
「……。」
 乱馬は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
『でも。この子は、それを拒否したわ。姉たちを指し於いて己だけが母と会うことはできないと…。そう言って、母の元には行かないと、はっきりと言葉にしたの。聡明な子だと思ったわ。』
 その言葉を聞いて、あかねらしい、と乱馬は思った。
『だから、私は、この子のエナジーを食らうのを辞めたの。人間ではなく、小動物のエナジーで声明を繋いだの。』
「小動物?」
『ええ。わずかだけれども、足しにはなったわ。そして、この子に…あかねさんに、これを託したの。もうすぐ目覚めるオクト神霊を倒す刃になればいいと…ね。その見解は当たっていたわ。彼女があなたを連れて来てくれたから。連玖と同じ呪いに穿たれた早乙女乱馬という戦士を。』
 そう言いながら、カグヤは、掌に留まった胡蝶をフッと吹き付けた。と、胡蝶は虚空へ消え、代わりに赤いクリスタルのような欠片が、掌から現れた。
「それは…。あの時、俺に投げて寄越した…。」
 乱馬は瞳をクリスタルへと手向けながら、問い質した。
『そう。あなたの右手に埋まっていた、赤い石よ。この石に、あかねさんはその澄んだ闘気を集中させ続けた。それが、炎となって、あなたの気と共に、オクトを砕いたのよ。
 あなたには、これの力の源が、何だったのか、わかったみたいだけれど…。』
 そう言ってカグヤは、乱馬へと微笑みを投げた。
「あかねの気が滲み出していた不思議な石…だったからな。こいつは。」
『彼女に預けたこの石は、彼女の無垢な心で真っ赤に染まったのよ。それが、あかねさんの闘気をマックスに引き上げ、あなたを助けた。この石に溜まっていたのは、好きな人への…そう、乱馬、あなたへの、あかねさんの純粋な想いそのもの…だから。』

「でも、俺を助けてくれたのは…その石だけじゃねーぜ、かぐや姫。」
 乱馬は、左手から、もう一つの塊を、カグヤの方へさし出した。美しい青色の石の欠片。

『え?』
 左の人差し指と親指で、それをしっかり挟み持ち、カグヤへと手向けた。
『これは…。』

 それは、美しい、青い光を放つ、石だった。

「かぐや姫、あなたには、これが、何かわかるんじゃねーのか?多分、俺よりも、あなたが持つべきモノだ。…だから、これは、あなたに戻しておくぜ。」
 そう言って、乱馬は、カグヤへとその青い石を、あかねを抱えたまま、カグヤへと戻した。

『連玖…。』
 その欠片を手に、思わず涙を流した、カグヤ。
 キラキラとその躯体が、カグヤの涙の雫が落ちて、美しく輝いた。

「それは、連玖が、君に渡した、婚約の証だったんだろう?富士山のふもとで拾った、青い石の欠片。連玖の想いが詰まった石だ。」
 カグヤは、その石を握りしめた。
「己の存在そのものを罪と思うなんて、それは違うと思うぜ…。不幸にして、罪を背負ってしまったのなら、償い続ければいい。それに、帰る場所が無いのなら、連玖と共に過ごした不死の山裾に留まったっていいんじゃねーか。閉ざされた空間に留まろうだなんて…それは、愚行だ。じゃないと、あんたを心から愛した、連玖が…否(いや)、俺にとっては蓮白玖だな、…あいつが、浮かばれねー。それに…。」
 乱馬は、真摯にカグヤへと言葉をかけた。
「もうあんたも、その形態を保つのは限界…なんだろ?」

 乱馬のその言葉に、カグヤは大きく頷いた。

「私…このまま、生きていていいのかしら…。」

「ああ。日のない世界ではなく、月も日も照らす、この、不死の山裾で、元の姿になって、ひっそりと暮らせばいい。その命が尽き果てるまで…。多分、あいつも…連玖…いや、俺の友人の蓮白玖も…それから蓮黒玖も、それを望んでいるはずだから。」

 乱馬がそう言い放ったと同時に、カグヤの身体がパアッと光り輝いて、そのまま、閃光と共に、弾けた。
 その光の眩さに反応したのか、あかねの瞳もゆっくりと見開かれて行く。

「乱馬…あれは?」
 乱馬の腕の中から、あかねがひょいっと顔を出して、声をかけた。
「あれは…俺たちを襲って来た、闇を払拭してくれた「かぐやのみこ」という名前の異星人だ。」
「かぐやのみこ?もしかして…あの…おとぎ話のかぐや姫?」
「ああ。俺たちの伝承では、確かに、その名前で呼ばれているんだっけな。」


『ありがとう。乱馬。』
 光の向こう側で、カグヤの声が響いた。
『あなたの言葉に、私も決心がつきました。私の犯した罪は、決して消えることはないけれど…。連玖と共に、この不死の湖に留まります。』
 サアッと湖の風景が、開けた。

「あ…ここは…。」
「ハート型の…。」

 二人が目にしたのは、見たことがある、湖の形だった。
 そう、「心臓池」と玄馬が名付けた湖に似ていると思ったのだ。

『乱馬が言う通り、もう、私はこの形態を維持できない。だから、人の言葉を話すのは、これが最後…。後は、ひっそりと、この湖に根を張って、この命尽きるまで、涅槃寂静(ヨクト)の姿になって、ひっそりと、この星の…この場所で…生きていきます。』
 
 そう言うと、光は乱馬とあかねを包み込んだ。

『乱馬…それから、あかね…ありがとう。あなたに出会えて良かった。最後に、これをあなたに…。これの放つ光で、あなたたしは、戻れるはずよ。あなたたちの居た世界に。そして、その世界の呪縛も解けるわ。』
 光はあかねにフッと降りて来て、あかねの頬を、愛おし気に撫でた。
 あかねの瞳が、ぱあっと見開かれていく。その目の前に、赤い石が光り輝いていた。
 そして、すっと、あかねはその光を、右手で愛でるように撫で返した。
『あかね…。私とあなたが邂逅したのは、偶然では無くて、必然。そして、あなたが乱馬と邂逅したのも…必然。だから、その、稀有の結びつきを、ずっと大切にしてね。
 乱馬…あなたも、あかねの…その手を、絶対に離さないで…いつまでも、守り続けて…あげて。そして…幸せに…なって…。』

「ああ…。この手は離さねえ…。ずっと、二人、手を取り合って生きて行くさ。」
 そう、乱馬が呟くと、あかねの手を取った。

『戻りなさい。自分の世界へ…。』

 光はそう発しながら、乱馬とあかねを、包んだ。
 瞬きができないくらいの光の洪水が、、あかねがカグヤから渡された、赤い石から溢れて来た。
 乱馬はギュッと、あかねの手を握りしめた。


「帰ろう…一緒に!」
「うん…。帰ろう!」



 光の渦に飲み込まれて、再び、目を開いたとき、そこは、あかねの部屋だった。
 何事もなかったかのように、蓮黒玖が現れる前の、風呂上がりの、二人きりの場面が、そこに広がっていた。
 もちろん、天道家の人々も、何事も無かったかのように、家の中でそれぞれの場所で、時を刻み始める。天道家の人々だけではなく、巷の人々、全員から、枷や束縛にあった、記憶は消えていた。

 だが、乱馬とあかねの二人だけには、あの不可思議な空間の記憶は消えず、残っていた。

「夢…じゃなかったわよね。」
「ああ…。多分…。おめーの、その傷が、その証なじゃねーのか?」
「あ…。」
 あかねの肘についていた傷。真っ赤に燃え滾る炎の印。それが、パアッと一瞬光りつけると、ふうっと、肌に吸い込まれていくように、消えていった。

「良かったな…。」
 そう、象ると、乱馬はゆっくりと、あかねに唇を合わせた。
 帰って来られて良かった…そして、これからは一緒に歩んでいこうと。言葉には載せなかったが、唇に想いを込めた。
 瞳を閉じ、全ての想いを、あかねへ…。
 あかねも、ゆっくりと瞳を閉じ、乱馬の想いを受け止めた。

 金木犀の甘い香が、ほのかに漂う、秋の宵。
 窓辺の向こうには月影は無く。ただ、秋の星空が、キラキラと光を放ち、さんざめいていた。



つづく






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