サイレントムーン
第八話 無限回楼



一、

「電脳生命体…か。」
 乱馬に与えられた、ラボの中の部屋。天道家の寝室に似せてある。四角い旧式の電灯傘。紐付きのスイッチ。それから、天井板のくすみ。全てが寸分の狂いもなく、再現された部屋。玄馬こそ居なかったが、まるで天道家に居るように思えて、それなりに、落ち着く。疲れた身体には、畳の上が一番心地よい。蓮白玖の気遣いなのだろう。
「あいつ…軟弱だし、突拍子もねーことばっかする…けど、悪い奴じゃ、ねーよな…。」
 一度は殺されかけたとはいえ、今は全く殺意はない。殺そうとした理由も明白に話してくれた。恐らく、嘘はないだろう。そう思った。
 蒲団に横たわりながら、己の手を天井へとかざしてみる。
 その手には、ホクロや痣だけではなく、血管や骨、それから、毛穴まで、見事に再現されている。一見しただけでは、本物と見紛うくらいの、精巧さだ。
 だが、確かに違和感がある。時折、ひずみのような乱れの波動を感じる。それは、微々たるものだが、確かに「実体」ではないという、わずかな「ずれ」があるのだ。
 実体は、男のまま、このラボの医療室で眠っている。目を閉じ、身じろぎ一つせず、横たわっている。
 蓮白玖によると、生命維持装置でちゃんと生命活動は保持されているという。一種の幽体離脱のようなものだと言う。ただ、己の心と思考が、その本体の内にあるとは、どうしても思えなかった。そのくらい、蓮白玖の母星の技術は精度が高いということなのだろう。



『アトロイドやアラヤは実体を持たない電脳生命体なんだよ。』
 そう言い放った、蓮白玖。
『だから、アト化しているときは、気弾攻撃は効きにくいんだ。』
 そう付け加えた。
『アト化?』
 乱馬がきびすをかえすと、蓮白玖は一つ頷いた。
『アト化。つまりアトロイドの時のボクらは人型をしている。今のボクのように。』
 お面をかぶった青年。それが、蓮白玖のアト化した姿なのだ…とでも言いたいようだった。
『逆に、アト化を解いた状態…つまりは、実体になったら…うさぎの姿になるんだ。ボクと蓮黒玖の場合はね。』
 と、意外なことを言った。
『アト化を解く?』
『そう。ボクや蓮黒玖は、うさぎをベースにしたアトロイドなんだ。』
『なんで、うさぎになるんだ?人間じゃなくて。』
『それはうさぎに対して失礼かもよ。』
『だって、うさぎはどちらかというと、弱者の動物だぜ?肉食獣の餌になる動物。人間だって食うことがある動物だ。』
『君はうさぎを食べたことがあるのかい?』
『ああ、あるさ。山ごもりしていて、己の手で動物を捕まえて食うこともあるからな。猪、鹿、うさぎは恰好の食料になる。』
『なるほどね…。結構、野蛮だな。』
『仕方ねーだろ?山修業してたら、背に腹は代えられねーことだってあるんだからよー。』
『ボクらがうさぎ化できるのは、まさに、ボクらの生命体を作るベースにうさぎという証拠に他ならないのさ。』
『でも、何で、人間じゃなくて、うさぎがベースになるのか…普通、逆に作らねーか?』
 そう。乱馬に取って、そこが気になったのだ。
『カグヤさまが、何故、うさぎをベースに、ボクたちを作ったかなんて、わからないよ。異星人の考えることだし…。』
『それもそーだな。異星人の考えることはわかんねーか。で、その滑稽なお面は外れないのか?』
『いいや、このお面は外れるよ。』
『なら、何故外さない?』
『太陽光線が苦手なんだ。ボクたちは。』
『あん?太陽光線が苦手だあ?化け物か?』
『単純に、明るい場所を好まないんだ。アトロイドは。』

 そう言えば、このラボの中は、薄暗い。

『何だかよくわからねーが、いろいろ事情があるんだな。』
『但し、実体化してうさぎになったら、リスクもあるんだよ。』
『リスク?』
『実体化すると、直接攻撃の影響を受けてしまうからね。』
『ということは、何か?うさぎになったら、俺の気弾や攻撃は効く…ってことになるのか?』
 そう尋ねると、
『ご明察。そのとおりさ。実体化して居るときは、攻撃が当たれば、壊れる。実際、君を殺そうとした時、蓮黒玖に不意打ちを食らって、壊れたのを見たろう?』
『ああ…。見た。貴様に、やられるかと思った瞬間、蓮黒玖がおめーを打ったんだっけ。見事に打ち抜かれていたな。』
『あの時のボクは、まだ、完全に傷が癒えていなかったから、アトロイドの姿に戻っていなかったんだ。』
『あん?戻れねえ?』
『だから、うさぎ化していた。ある程度以上の傷を負った時、ボクらアトロイドはアト化を保てなくなるんだよ。つまり、アトロイド化が解けて実体になるんだ。ボクラの実体は「うさぎ」だから。ほら、それが証拠に、蓮黒玖の奴、君の逆襲を受けて、至近距離から気技を打たれて、突然、黒うさぎに戻ったろう?』
『た…確かに。』
 乱馬は頷いた。
 身動きできない状態から、本体目がけて打った、気弾。それを受けて、蓮黒玖は人型からうさぎへと変化していたのを、確かに見たからだ。
『つまり、気弾が効きにくいアトロイドにも、ある一定の条件下では、ちゃんと気弾でダメージを与えることができるんだよ。』
『ある一定の条件?』
『至近距離で撃たれて、バリヤーを貼る余裕が無い時さ。』
『バリヤー?』
『バリヤーと呼ばれている、物理攻撃よけの見えない幕さ。それに、バリヤーはうさぎ面で張る。』
『うさぎ面?』
『ああ。この面は高機能の機械なんだ。僕らの攻撃は全て、この面を通して行われる。つまり、この面を外したり、破壊したら、不利になるんだ。実際、蓮黒玖の奴も、君に面を弾かれて、黒うさぎに戻ったろ?』


(確かに、あの時。蓮黒玖の野郎は俺を足下に組伏して、完全に油断してやがったからな。その一瞬の隙に攻撃した結果…俺の気弾は奴の黒うさぎ面を打ち破っていた。バリヤーを張る余裕がなくて、易々と、撃破できたのか。)
 そう考えると、攻略法がわかったような気がした。
 面を狙えば良いのだ。
(まあ、そう易々と、面を壊されねーように、用心深くなっているだろーけどな…。蓮黒玖(奴)も。)


『そうそう、君をアトロイドにしたのは、気を吸われなくなるっていう理由もあるんだよ。』
『気を吸われなくなる?』
『アトロイドやアラヤは、生命の気が食事みらいなものだから、気を直接、吸うことがあるんだよ。君も、夜の公園でボクと対峙したときに体感したろ?』
 そう言えば、気弾は一切効かなかった、それどころか、己の気を吸われていた。ひな子先生に気を吸引されるときの感覚にも似ていた。
『確かに…。あの夜の公園の闘い…気の攻撃は無効だったし、気を吸われるような感覚に陥っていたな…。』
 掌を開いて見つめながら、そう吐きだした乱馬。

『アト化していれば、同じ土俵に上がったことになるから、気弾は有効だよ。但し、多少、地上のそれとは違和感やずれがあると思うけれど。だから、特訓しなきゃならないんだよ。その身体にも慣れておいた方がいいし。』
『特訓ねえ…。』

 いまいち、蓮白玖の言っている、アト化によって生じるメリットやデメリットの理屈は理解できない乱馬だった。が、生身の姿で闘うよりも、理に適っているということだけは、おぼろげに理解できた。

(とにかく…頑張るしか、ねーか…。)
 ふううっと、深いため息を吐きだした。

 それより、心配なのは、あかねだ。
 どういう処遇を受けているのか。次の満月までは、奴らは何もしないし、出来ないと蓮白玖は言っていたが、本当にそうなのか、心配でならない。

(あかね!待ってろ!絶対、俺がこの手で助けてやるからな!)
 グッと、虚構の右手を握りこんだ。
 降りて来る、眠気。

『ちゃんと、寝なよ、乱馬。アト生命体も休息は必要だ。ましてや、本体が居るおまえには、もっとな。だから、食って、寝て、回復しないと力は発揮できないからね。』

 蓮白玖の声が、すぐ近くで響いたような気がする。

(そうだ…寝なければ…。)


 こうして、あかねを助けに動く、期日が来た。


「ちゃんと、休養とれたかい?」
 ひょいっと、蓮白玖が乱馬へと声をかけた。
 天道家を模した茶の間のテーブルには、朝食が並べてあった。
 見てくれは美味そうな朝ごはん。だが、その実態は、見てくれとはかけ離れた、味を持つ異星人の食べ物。その材料は、地球上のあらゆる食物をベースに作られたサプリメントのようなものらしい。中には普通食べない昆虫や雑草などの成分も含まれているので、毎度、無理矢理、口の中へ放り込んでいる状態だ。
「もうちょっと、美味そうに食べられないの?」
 一緒に食べている、蓮白玖が、声をかけてくる。
「美味くねーから仕方ねーだろ?見てくれが完ぺきなだけに、返って、気持ち悪いというか…。」
「なら、元の食材の姿に戻そうか?」
「いや…。それも勘弁してくれ。ゴキブリとかハエとかだったら、もっと食べられねー!」
 と、顔をしかめた。
「いや、そっちじゃなくて、錠剤とか、単なる液体に戻そうかってことだけど…。」
「それができるなら、早く言え!そっちの方が、まともじゃねーか!」
「地球食の形の方が、食が進むだろうってせっかく、気を遣ってあげているのに…。」
「だから、それが余計なんだ!たくぅ!食事のたんびに髪の毛をかすみさん風にしやがって!」
「何ならあかねちゃん風にしようか?」
「だから、やめれ!そーいゆー変な気の回し方は!」

 どことなく、この蓮白玖。行動パターンが突拍子ないのだ。乱馬を気遣っているのか、単なるおちゃらけか。得体が知れない部分がある。
 自らを「バグ」みたいなものだと、言っていたのも、あながち、嘘ではないような気もしてくる。
 あかねを取り戻す闘いに、臨む前だというのに、緊張感の欠片もない。
 とはいえ、どんなに不味い食事でも、しない訳にはいかないから、必死で口へ運び入れる。あかねの手料理の方がマシなのではないかとすら、思えてくる、奇怪な味。見た目が完ぺきだから、余計に違和感が突き抜けてくるのだ。この、不可思議な食卓を、何度、重ねてきただろう。

「ごちそーさま!」
 ふうっと間食して、ため息が漏れる。
「コーヒーでもいれようか?」
「コーヒーみたいな見てくれの不味い汁か?」
 つい、そんな言葉を言いたくなる。
「いや、これは、天道家からくすねてきたものだから…。多分、大丈夫だと思うけど。」
 そう言いながら、インスタントの顆粒コーヒの容器をトンと差し出した。
「おお…。これは、、まさしく。インスタントコーヒー!」
 乱馬の顔が輝く。
「いれてあげるよ。」
 そう言って、手をかざすと、ポンとマグカップが現れた。趣味の悪い魔法を見ているようだ。ここは電脳世界なので、このラボのマスターである、蓮白玖の思い通りに、色々取り出せるし、片づけることもできるのだ。いい加減慣れてもいい頃なのだが、未だ、魔法のような現象を見せつけられると、落ち着けない。
「待て!冷や水で作る気か?これ、現物なんだろ?第一、冷や水じゃ溶けねーぞ!」
「なら、沸かすよ。」
 指先一本で熱闘が出る。
「便利な手だな…。っつーか、ほんとは湯を入れる前にコーヒーをカップにいれるんだが…って、おい!どれだけ濃くする気だ?そんなの、苦くて飲めねーぞ!」
 万事この調子である。
「いいから、これ片して、もう一回、マグカップから出せ!頼むから、一杯くれー、まともなコーヒーを飲ませてくれー!」
 乱馬の怒声が響き渡る。

 数分後、クルクルと、スプーンでかき混ぜながら、コーヒーに一口つける。
 久々に味わう、まともな飲み物。ふうっと、溜息と共に笑顔がこぼれる。
「嬉しそーだね?でも…。よく、この苦いの飲めるなあ…。乱馬は。」
 蓮白玖が不思議そうに、乱馬を見た。蓮白玖の口には合わないらしい。一口飲んで、すすーっと遠ざけた。
「たく…お前を見てると、あかねを思い出すぜ。」
 コーヒーをすすりながら、そんな言葉を吐きだした。
「どーして?ボクはあかねさんと似ていないと思うけれど…。」
 不思議そうに見つめて来る蓮白玖。
「見てくれはな…。でも、その、不器用さ、それから大雑把さ、料理の味の何たるかが全然わかってねーっつーか、わかろうとしない所なんか、そっくりだぜ。」
「そんなに不器用なの?あかねって。」
「ああ、不器用、不器用。その上、素直じゃねーし…。」
「でも、好きなんだろ?乱馬は、あかねのこと。」
「まーな。」
「あかねも乱馬のことが好きなの?」
 唐突に投げられた、言葉。
「ああ…多分…な。」
 少し小さな声で答える。
「随分、曖昧な関係なんだね。愛を語り合ったことは無いの?」
 蓮白玖は少し、不安げな瞳を手向けた。
「ねーよ、んなもん。」
「恋人…なんだろ?どうして?好きってはっきり伝えないの?」
 その問いかけに対して、重い口を開いた。
「あかねの想いを面と向かって聞いたことは無え。もちろん、俺の気持ちを打ち明けたことも無え。でも、それが俺たちなんだ。」
「大丈夫なの?強くお互いが通じ合っていなければ、この先に進むのは、不安なんだけれど。」
「どういう意味だ?」
 乱馬は蓮白玖へと言葉を継いだ。
「あかねさんが乱馬のことを信じていなければ…彼女はカグヤさまが作りだした闇に飲まれてしまうかもしれないから。」
「それなら、心配はねーよ。あいつは、闇に飲まれるほど、柔な奴じゃねー。あれでも、無差別格闘天道流の担い手だ。」
 乱馬は、即座に言い切った。
「無差別格闘天道流?」
「あいつの家の流派だ。そして…、同時に、無差別格闘早乙女流二代目の俺の、許婚だからな。」
「許婚?」
「ああ、許婚だ。だから、わざわざ愛を語らなくても、想いを伝えあわなくても、心は一つなんだ。」
「心?」
「たとえ、表面では反発しあってても、共に、惚れちまった事実は曲げられねーってことだよ!それに、あかねの心は強いぜ。おめーらが思って居る以上によ。」
 そう言って、少しだけ笑顔を作った。

(俺は、まだ、何一つ、あいつに伝えてねーんだ。俺が思い描いている未来も、それから、この想いも。戻ったらちゃんと伝えてえ…。だから…絶対、この手に取り戻してやる!)

 乱馬の瞳には、決意の炎が燃え始めていた。



二、

 一方、こちらは、とらわれの身のあかね。

 甘ったるい強い香りが、どこからともなく漂ってくる。とてもいい匂い。薔薇…それとも…。

 そう、思った時、フッと浮き上がった、あかねの意識。

 目を見開いてみると、辺りは白んだ世界が続いていた。霧に閉ざされた深遠な、森の中。太陽光なのだろうか。天上から薄い光が差し込めてくるようだった。
 靄ががかった世界は、芳香がきつい花のような香りに包まれていた。恐らく、夢の中でこの匂いを嗅いだ…そう思った。土塊や霧の湿気た匂いは、全く漂ってこない。
 強い香りがどこから漂ってくるのか、確かめようと、身を起こそうとして、ハッとした。
 足が動かなかったからだ。いや、足だけではない。起き上がろうとして、ままならないことに気付く。よく見ると、己の身体にいっぱい、透明なつる状の物が巻きついているではないか。それも、一本や二本ではない。五ミリほどの細い線状のものが、束になって、あかねを拘束していた。これでは、動ける筈がない。

 誰がこんなことを…。

 そう思った時、傍で何かの気配が立った。

「やあ、お目覚めかい?」
 今度は女性ではなく、聞き覚えのあるような、ないような、青年の声がした。声の方へ瞳を移すと、黒いうさぎのお面を被った人が一人。高木の上から、こちらを見ている。人間ではないことはすぐに知れた。というのも、そいつは、空を浮いていたからだ。
「あなた…誰?」
 キッとした瞳でそいつを見上げる。恐らく、そいつが、自分をこうしたのだと、咄嗟に思い至ったのだ。記憶の中にある、うさぎ面相の男。
「あんたは、確か…。あたしと乱馬を襲った、変な奴…。」
 だんだんに甦ってくる、気を失う前の記憶。鮮明に思い出した。
 自分の部屋で、乱馬と語らって居たときに、唐突に現れて、襲って来た、あの男だった。
 と、高みの上から、男はすうっと、音もたてずに降りてきた。そして、あかねの傍に立つ。

「僕の名前は蓮黒玖。」
「れんこく?」
「ああ。君は僕のことを、ラビと呼んでいたけれどね。」
「ラビ?」
 と、きびすを返して、目を見開いた。
「うさぎのラビ?」
 そう問い質すと、青年の身体は一瞬、ぶれて、スウッと黒うさぎの形に変化した。
 信じられないことに、男は黒うさぎのラビの姿へと変わったのだ。
 その、変化を目の当たりにしても、あかねは、少し戸惑いの表情を浮かべただけで、強い動揺をしなかった。というのも、許婚の乱馬のおかげで、ありとあらゆる変身体質の人間を目の当たりにしてきたので、慣れていたのである。
「おや?それほど、驚かないんだね。」
 うさぎはそう話しかけてきた。
「あら、あんた、変身しても話せるのね。」
 淡々と言葉を投げかけるあかね。
「そうか…。やっぱり、変身する人間を、目の当たりにしているのか…。君は。許婚の乱馬も、そーなんだろ?」
 と黒うさぎは言い放った。
 乱馬の名前をそいつから聞いて、あかねの表情が変わった。
「そう、乱馬よ。…乱馬は?どこに居るの?」
 辺りを見回しつつ、あかねはうさぎへと声をかけた。
「奴なら、ここには居ないぜ。」
 黒うさぎが言った。
「どこへ行ったの?」
「さあな。おまえを置いて、逃げたさ。あの場からな。」
 ゆすぶりをかけるその言葉に、はっしと睨み据えたあかね。
「そう。安心した。あの場を逃げ出せたのなら、それでいいわ。」
 と微笑みながら言葉を続ける。
「君を置いて逃げたのに、許せるんだ。なかなか慈悲深いんだな。」
 ニッと黒うさぎが笑ったように見えた。
「ご心配なく。あいつは、ただ、しっぽを巻いて逃げるような奴じゃないわ。」
「いたく、買ってるんだな。そんなに奴を信用しているのか?逃げたのに。」
 そう畳みかけてくる、黒うさぎに向かって、吐きだした。
「ええ。あいつはしぶとい…というより、しつこいわよ。負けたまま引きさがらないの。勝つまでしつこく絡んでくるわよ。」
「ほお…。だが、今度、俺と対峙するときは、奴の最後だぜ。二度目は無い。」
「あら、乱馬があんたみたいな、うさぎ野郎に負ける訳ないわ。」
 はっしと、うさぎを睨み据えるあかね。
 と、クククと黒うさぎが笑い始めた。
「なるほど…この勝気さ。ご主人さまが気に入るのもわかるぜ。」
「ご主人さま?」
 怪訝な顔で蓮黒玖を睨んだ。
「あんたは、いったい、あたしと乱馬を、どうするつもりなの?」
「さあな。ご主人様は、どうしたいんだろうな。」
 と、うそぶく蓮黒玖。
「あんたは、ご主人さまの命令で動いているだけなのかしら?」
「ああ、そうだ。主の命は絶対服従だからな。」
「あんたのご主人さまって誰よ?どんな男なの?」
「男じゃないよ。そもそも性別なんか超越している、高みの存在さ。」
「まさか、両性具有なんてこと…。」
「性別など、最早、あの方には無意味だ。」
「それってどういうこと?」
「おまえたち、この星の民には理解を越えている存在なんだよ。」
「この星?」
 その言い方に、不可思議さを感じたあかね。そのまま、きびすを返していた。
「俺もご主人さまも、おまえたちの言葉では「ユーマ」。未確認生命体さ。」
「もしかして、地球外生命なの?」
 信じられないという顔を手向けながら、あかねは蓮黒玖を見た。
「ああ…。おまえたち、原始的な生物生命体とは異なる、高等生命体だ。」
「その、高等生命体さんは、地球侵略でも考えているのかしら?」
 半信半疑で言葉をかける。
「侵略か…ある意味そうなるのかな。」
「絶滅させるつもり?」
「そんな野蛮なことはしない。ただ、この星をターリネ星のファームにするだけだ。」
「ファーム…農場?」
「ああ。家畜のね。」
「家畜?」
「なあに、君たち人間を我々の生命維持のために、家畜として飼わせて貰うだけだ。」
「何、ふざけたことを言ってるの!」
「ふざけてなどいない。大真面目な話だ。」
「あたしたちを、家畜にして食べる気?」
「ああ。でも殺すなんて、野蛮なことはしないよ。チューブを繋いで、必要な分量だけ生体エネルギーを少し、吸わせてもらうだけだ。死にはしないし、痛みも伴わない。そう、眠ったまま、醒めない夢を見て、永遠の命を与えてもらえるんだぜ。」
「冗談じゃないわ!そんなことさせるもんですか!」
 あかねはうさぎをはっしと睨み返した。
「おまえが足掻いたところで、どうにも出来る話ではあるまい?非力な人間の女一人に何ができる?」
「くっ!」
 動かせない身体では、どう抗おうとしても、無理だった。今のままでは、文字通り、手も足も出ない。
「ま、安心しな。誰も死なさないし、赤い血も一滴も流さないぜ。流すとしたら、おまえの許婚の血だけだ。」
 黒うさぎは、そう言ってニヤッと笑った。
「乱馬は負けないわ!必ず、この状況を打開してくれるわ!黒うさぎさん。」


『ならば、この乾いた湖を、乱馬とかいう、そなたの許婚の血で、真っ赤に染めようぞ…。』
 どこからともなく、声が響いて来た。低い女性の声だった。

「誰?」
 あかねは、その声の主に向かって、叫んだ。

「これは、これは、ご主人さま。自ら、お出ましで?」
 黒うさぎは、そう言うと、パッと再び人型に戻った。黒うさぎの面を付けた青年に。

『ああ…。そなたが、あかねを連れて来てくれたと知ったから。早く会いたくてね。』
 そう、声が響くと、ゴゴゴゴ…、と、霧の向こう側で、地鳴りのような音が響き始めた。
 と、そそり立つように、黒い大きな影が一つ、浮き上がってくる。黒い塊。その形状に、あかねの瞳が見開かれていった。

「え…?」

 やがて、露わになった、その固まりを見て、言葉を吐きだした。

「これって…あの時の…大岩。」

 そうだ。父たちや乱馬と共に、修行に入った富士のふもと。乱馬との追いかけっこ勝負の合間に見た、あの、あかねが乱馬をやり過ごすために隠れようと思った、根本に大きな穴が開く大岩が、姿を現したのだ。

『そう。見覚えがあるでしょう?この大岩。』
 女の声は、まさに、この岩の中から響いてきている。
『そなたを、どれだけ待ち焦がれていたか…。』
 くすくすと笑い声が、大岩から響いて来た。
 と、同時に、ザワザワと騒然とした気配が、岩から泡立ってくる。もぞもぞと、岩の割れ目から、這い出してくる、何本ものつる草。見覚えのある、妖艶な赤色のつる草。
 得も言えぬ恐怖が、あかねの脳裏を突き抜けて行った。
 と、あかねの右腕が、ポウッと光を放ち始めた。あの時、山修業で、つる草に付けられた傷の有った辺りだ。湯上りの時にだけ浮き上がった、あの炎の形が、俄かに現れた。

『あの時は、捕まえ損ねてしまったけれど、今度は逃さない。そなたは、私(わたくし)の物。』
 岩から這い上がってくるつる草は、あかねを目指して、迫って来る。
『そして、早乙女乱馬から滴った血で、そなたを真っ赤に染めてやろうぞ、あかねという、その名にふさわしい、赤色に。そなたは乱馬の血に染まって、永遠の時を刻み続けるのだ。私にその美しい肉体を与えて。』
 ホーホホホと高らかな笑い声が響く。

「いや…。やめて…。来ないで!」
 恐怖に打ちひしがれながらも、懸命に逃れようと足掻くが、身体には別の、透明の紐状の物体に巻きつかれていて、全く動けない。
 ズルッズルッと、あかねを目指していた赤いつる草が、とうとう、あかねの足に届いた。
 と、一斉に、手を広げるように、何本ものつる草が、あかねの肢体へと、襲い掛かった。

「いやああああ!」
 悲鳴と共に、哀れ、あかねは岩から這い出して来た、つたに、身体を覆われてしまった。

「たく…。乱暴だな…。ご主人さまは。手加減…ということを知らないみたいだ…。」
 空に浮きながら、黒うさぎ面の男は、吐きつけた。
 一部始終を横から眺めていて、思わず、目を覆いたくなったのである。

『フン!下手な力の加減は要らぬ。確実にこの星をファーム化させなければならないという使命が、私たちには、あるからね。
 それより、さっさと、あの子の愛する男のデーターを寄越しなさい。』
 女は蓮黒玖へと命じた。
「そんなに、せっかちにならなくても…。まだ、満月が上って来る時間じゃないですよ。」
『つべこべ言わずに、おまえは私の言う通りに動けば良いの。早乙女乱馬とか言う出来そこない男のデータを少しいじって、完全無比な男に仕立てて、とっとと、あの小娘を虜にしなければ、バグの奴ら、何をしでかすか、わかったもんじゃないからね。』
 と、女は言い切った。
「カグヤさまが、そこまで用心深くなるのは…何故です?相手はとるに足らないバグじゃないですか。」
 蓮黒玖は、ジジジと何かのデーターを、耳から飛ばし始めた。それに反応して、大岩がチカチカと光り輝き始めた。
『バグに過ぎないとはいえ、蘆頭(ろうず=役立たず)たちのベースは、このカグヤの本来の躯体と連玖(れんく)だからね。スペックは低いバグとはいえ、決して油断はできない。』
「それは、用心深すぎやしませんか?まあ、用心にこしたことはないのしょうが。」
『そう。とにかく、急ぎなさい。月が登り始める頃までには、準備を整えてしまうのよ。わかった?』
「了解です、仰せのままに。」
 そう告げると、蓮黒玖はすうっとその場を飛び去った。
 ズルッ!とぬめった音を発てると、あかねを虜にした、ツタは葉を自ら削ぎ落し、その姿を電線へと変化させた。そして、気を失ったあかねを、少しずつ、岩の方へと導いて行く。
『さて…。床へ連れて行ってあげなければね。そこに繋いで、醒めない永遠の夢を、見せてあげるわ…。乱馬とかいう男のデーターを元に、素敵な伴侶も作ってあげる。女に変化しない、完全無比の男に仕立ててあげるからね…。彼の虜にされて、骨抜きになればいいわ。うふふ。あはは!』
 女は笑い声をあげると、声を出すのを辞めた。
 あかねが岩の割れ目の中へと引きずり込まれると、辺りは再び、静けさを取り戻して行く。
 何事もなかったかのように、ただ、白靄がかかる深遠の森へと立ち戻って行った。

 

三、

 漆黒の闇がどこまでも続く世界。そこへ、一人頬り出されたあかね。誰も居ない、孤独の世界。そして、身動きもできない。
『乱馬…。助けて…。』
 その場に居ない、許婚の名を呼ぶ。

『大丈夫…。彼は必ず、来るわ。』
 どこからか、澄んだ女性の声が響いて来た。少し高めのトーン。
『それに、まだ、あなたは動ける筈よ。』
『動ける?ツタに絡まれたのに?』
『ここは、私の作り出した世界。現実世界と隔絶されている世界。奴らにまだ見つけられていない世界だから。』
 その声に、我に返った。
『奴らにまだ見つけられていない世界?』
『ええ、噛み砕けば、そうよ。まだ、あいつらは、ここの存在を知らないの。周りを見てごらんなさい。』

 辺りを見て、驚いた。
 そこは、色のない、セピア色の世界が広がっていたからだ。
 確かに、現実世界とは、一線を画していた。

 と、ひらひらと目の前を、一頭の蝶が揺らめいて飛んで来るのが見えた。光り輝く虹色の身体から、白い鱗粉をふりまきながら、あかねの少し頭上で留まる。その胡蝶の周りだけ、光り始める。不思議な光景だった。
 と、胡蝶は、あかねの頭の上をぐるりと一巡りして、ゆっくりと、胸の高さにまで降りて来た。
 やがて、胡蝶の周りに、光が差し始める。その光は、だんだんに強く輝き、胡蝶が光に飲まれるようにして消えた。代わりに、浮き上がって来た、光の塊。目を凝らすと、丸い物に変わった。

『これは…。鏡…。』
 空間の中にポツンと一つ、その鏡は浮かんでいた。
 良く、神社などに置いてある、丸い鏡面。
 青錆びた銅鏡ではなく、作られた当時の銅の輝きをしている。鏡面も美しき研磨されていて、己の姿が綺麗に映りこむのが見えた。己の姿の真横に、胡蝶がひらひらと飛んでいるのも見えた。と、次の瞬間、傍で羽ばたいていた胡蝶が、鏡の中へと、消えるのが見えた。
『来て、こっち側へ…あかね。』
 女性の声が再び響いて来た。信じられないことに、鏡の中から聞こえたように思う。
『来てって言われても。』
 どうしたものかと、鏡の前で迷っていると、スッと中から手が飛び出して来た。女性の白い手。それが、あかねの左手を掴んだ。と、手は、グイッとあかねを引っ張った。
 そのまま、スッと壁を抜けるような感覚を覚えた。と、一瞬辺りが激しくきらめき、光の洪水が、真正面から己目がけて差し込めてきた。その余りの眩さに、目を閉じる。
 どのくらい、目を閉じていたろうか。それとも、閉じてなどいなかったのか。
 気が付くと、目前に、あかねの手をつかんだまま、面をかぶった女性が立って居た。「目と鼻と口」だけが開いた白いお面だ。それに顔をすっぽりと隠していて、面の下の顔はわからない。
 さっき、あかねの周りを飛んでいた胡蝶が、ひらひらと、女の上で飛び回っていた。
 服装は、着物や巫女装束というよりは、もっと古い、貫頭衣(かんとうい)と呼ばれる、頭を出す穴が開いただけの白い衣装に似た、ラメの白い衣装を着ている。こんな衣装を身にまとった、埴輪の写真を見たことがあると、咄嗟に思った。

『やっと、会えたわね…。あかね。』
 女は、穏やかな声で、あかねに対した。
 さっきまでのセピア色ではない。この世界には、色があった。

『何故、あたしの名前を知っているの?』
 用心深げに、少し身構えながら、あかねは女性へと問いかけた。
『ふふふ。あなたは覚えていないかもしれないけれど、私は、あなたに、一度会っているのよ。』
 と女性は、そう答えた。もちろん、あかねには、このような奇怪な面をかぶった女性の記憶は浮かばなかった。
『あたし、あなたにお会いしたことなんて、無いと思うんですけれど。』
 と困惑気味に答え返す。
『そうね。あなたが物心つくかつかないかの頃だから、覚えていないわよね。でも、確かに、あなたに会ったのよ、私は。』
 静かに女性は言った。
『百歩譲って、あたしがあなたに会ったことがあったとしても、何故、あなたはあたしを、ここへ呼んだの?』
 当然の問いかけであった。
 相手が自分に会ったことがあると、言い切った以上、ここで出会う必要がある…ということだ。
『それは…あなたに預けたものを、受けとる必要があったからよ。あかね。』
『あたしに預けた?何を?』
 不可思議な顔を、面かぶりの女へと手向けた。何も、思い当たることがなかったからだ。
 と、あかねの右手に留まっていた胡蝶が、ひらひらと舞い上がった。その様子を見て、
『あなたに説明している暇はないわ。もうすぐ、奴らが来る。あなたの夢の世界を、手に入れるために。それまでに、あなたを夢の世界へ戻さなければ、全ての計画が終わってしまうの。』
 面かぶりの女は、そんな言葉を吐きつけた。
『奴ら?』
『あなたをとらえて、動けなくした奴らよ。』
『もしかして、黒いうさぎと、不気味な岩のこと?』
 コクンと一つ頷いた面かぶりの女。
『だから、手っ取り早く、返して貰うわね。』
 そう言葉を投げると、女は、己の左手をあかねの胸の谷間辺りに、ぴたっと差し出した。掌をあかねに向けて、印のようなものを指先で結ぶ。
 と、胸の谷間から、何かが飛びだしてきたのが見えた。
 赤い飴玉ほどの塊が、あかねの胸から飛び出し、そのまま、面かぶりの女の手へと、すっぽりと入って行くではないか。
 呆気に取られたまま、それが何かもわからぬまま、見つめていると、面かぶりの女はその欠片を見て、フッと笑みをこぼした。
『あかね。あなた、とても素敵な恋をしているのね。』
 そう言いながら、面かぶりの女は、まざまざと、あかねから出てきた石を眺めている。
『え?』
『ふふふ、この石が真っ赤に変化したことが、何よりの証拠よ。』
 恐らく、乱馬のことを言い当てたのだろう。何も言い返せず、黙って固まっていると、
『おかげで、何とかなりそうよ。』
 面かぶりの女は、意味深な言葉を投げてきた。
『何とかなるって?』
 全く意味がわからないあかねは、面かぶりの女へと疑問をぶつけた。
『ごめんなさい。説明している暇はないわ。でも、この石は希望の証。これで、この星の命運にも、少しは明るい兆しが見えてきたわ。』
『え?星の運命って、家畜化するとかいう、あのふざけた話ですか?』
 黒うさぎたちが言っていた言葉を思い出して、あかねが、せっついた。だが、面かぶりの女は、その説明もしようとはしなかった。いや、恐らく、している暇(いとま)が無かったのだろう。
『本来ならば、私が全てに始末をつけなければならないことなのに…それができないの。あなたや、あなたの愛する、乱馬という青年に託すしか、方法は残されていないの。
 だから、あかね…。私と出会った記憶は、悪いけれど、ここで、デリート(消去)させて貰うわ。奴らに、私と遭遇した痕跡を知られたくないから。あなたが、ゼロ化される前に、これだけは回収しておきたかったの。これから、あなたを、とんでもない試練が襲うと思うけれど…。大丈夫。あなたには、彼が居る。早乙女乱馬という、あなたの守り人がね。彼の存在だけは、決して、忘れてはいいけないわよ。
 それから、偽の乱馬に気を付けて。心を持って行かれないようにしてね…。本物の乱馬はあなたを助けに来る。
 あなたなら、見分けられるはずよ。本当の乱馬が。』

『本当の乱馬?』
 あかねは女にきびすを返した。
 
『ええ…。嘘偽りで固められた虚構の乱馬ではなく、女に変化しても一途にあなたを思い続ける、本当の乱馬を。彼を信じること。これだけ美しい石を生成させたあなたですもの。できるわよね?
 だから…。デリートするわ!あなたの脳内に遺された、私と関わった記憶を、全て!』
 そう面かぶりの女は言いながら、両手を天へとさしあげた。両掌を頭上へ伸ばし、そして、ゆっくりと真正面へと下ろして来る。
 と、天上から真っ黒な煙状の漆黒の闇が、降りてきた。
『え?何…これ…。』
 真っ暗な闇が、あかねの身体を飲み込んでいく。その闇に飲まれて、何もかもが消し飛んでいくような感覚に襲われた。
 と、その刹那、一瞬、女の面が割れたように見えた。実際割れたのかどうかはわからなかったが、面が吹き飛んで、女の素顔が見えた。
『あ…この人…。』
 一瞬脳裏に浮かんだのは、幼き日の一節。それも、すっかりと記憶の外へと押しやられていた、小さな記憶。母が亡くなって間がない頃、父や姉たちと共に来た、富士五湖旅行の、ほんの僅かな時間。家族から離れて、一歩踏み込んだ、綺麗な湖の記憶。そこで、出会った、女の顔と、面かぶりの女の顔が、重なったと思った。
『あたし…この人から虹色の石を…確かに預かった。』
 そう、納得した途端、目の前が真っ暗になった。そう、闇に飲まれた瞬間だった。
 ザアアア…っと、真夜中の放送が途切れたテレビジョンのように、一瞬、思い出した記憶と共に、いくつかのことが、脳裏から脱落していく。手放したくない…と思って居ても、削除されていくのがわかった。
 そして、あかねの意識も薄らぎ始める。今しがた、面かぶりの女と話していたことも、胸から飛びだした石のことも、綺麗に記憶から抜け落ちて行く。

 やがて、面の女のことも、それから、幼い日の湖の記憶も、遠くへと流れ去っていく。
 
 代わりに、花の香りが、漂い始めた。どこかで嗅いだ、その香り。嫌味なほど甘い香りが立ち込めてくる。

 一人、暗闇の中、花の香りを嗅ぎながら、佇む。
 光はない。真っ暗な闇。
 音もなく、ただ、強烈な匂いだけが、辺りを支配する。
 と、地平線に、サアッと一本、光が走って行くのが見えた。
 何の光だろうかと思って、そちらへ瞳を手向けると、白い月が、地平線を登り始めた。
 地上からいつも見上げている、うさぎが餅をついている形が、ぼんやりと月の中に浮かび上がって来る。静かなる月。その清涼さに見蕩(と)れた。
 感情の起伏も無いままに、ぼんやりと眺めていると、その月のうさぎの影が動いたようにも思えた。
 と、その影は、うさぎではなく、いつしか人の形へと変化し、あかねの前に現れた。
 あかねに立っ向けられた笑顔。その笑顔を見て、ハッとした。

 そこには、彼が…乱馬が立っていた。

『乱馬っ!』
 思わず、声が漏れた。
『待たせたな…。あかね。』
 赤いチャイナ服の笑顔が、こちらを見て弾ける。
『来てくれたの乱馬?』
『ああ…。やっと、あかねを探し出せた。』
 そう言いながら、にっこりと微笑む。そして差し出された手。
 確かに乱馬の手。でも、何故か冷たかった。人肌のぬくもりは、無い。その手を離そうとしたとき、ギュッと握りしめられた。まるで、離すなと言わんばかりに。
 あかねは、全身の力がこそげ落ちて行くのを感じた。
『もう、絶対にこの手は離さないから。』
 乱馬の口から柔らかい言葉が漏れて来る。コクンと頷いて、手を握り返す。
 何故だろう。さっき、手を掴んだときに一瞬流れた、「手を離さなければ」という感情が薄れて行く。代わりに、離してはならないと、誰かが頭の中で命じてくる気がする。
 本当に、隣に立っているのは、乱馬なのか。そう、疑問を抱きながらも、盗み見る、横顔。紛れもなく、眉のつり上がり方、整った鼻、そして、自信に満ちた瞳の輝き。赤いチャイナ服と黒いズボン。どれをとっても、乱馬に見えた。彼の発する気は…。恐らく、これも乱馬だ。
『行こう…あかね。』
 乱馬はそう言うと、あかねの手を掴んだ。柔らかな気が乱馬から流れてくる。花の良い香も一緒に。
 さっきまで、あれほど鼻についた花の香りが、不思議と気にならなくなった。人間の鼻は匂いになれるというから、きっと、馴染んでしまったのだろう。
 乱馬はあかねの手を引くと、ゆっくりと歩みだした。
 二人、進んで行くセピア色の世界は、瞬時に美しい世界へと華やいだ。見たことも無い白い花が、ここぞとばかりに咲き誇っている。それは、蓮の花に似ていた。
 ふわふわと花頭を揺らめかせて、美しく咲き誇る、薄ピンクの花。
『どこへ行くの?』
『みんなが向こう側で待って居る。ほら、教会の鐘の音が聞こえるだろう?』
 えっと、思って乱馬を見ると、チャイナ姿からタキシード姿へと転じていた。あかねのその洋服も、いつの間にか、ウエディングドレスへと転じていた。

 一体これは…。

(夢の世界だから、何でもありなのかもしれない…。それとも、これは、あたしの願望が見せる幻の世界?)

…幻の世界でもいいじゃない。あかねが幸せなのなら…。
 虚空からそんな声が耳元へと囁きかけてくる。天の声か、それとも、地の声か。
…だって、あかねは、彼とこうなることを、ずっと夢見ていたのでしょう?…
 誘惑するように、甘い香りと共に、声が気持ちよく響いてくる。

(そうよね…。目覚めれば消える世界だものね…。)

…そうよ…。あかね。夢の中くらい、彼に優しくしてもらうといいわ。…

 すうっと、あかねの瞳から光が消えていった。
 差し込めるのは、漆黒の闇。それが、瞳の中にまで降りて来る。
 
 そんな、あかねの表情を、モニターで確認しながら、蓮黒玖は言った。

「天道あかね…。主さまの手中に落ちたか…。それでいい。醒めぬ夢を見続けて、せめて、穏やかに眠れ。」
 そう、言い放つと、別のチャンネルへと波長を合わせる。
「さて…。こちらも、そろそろ、お出ましかな。遊ぶ準備をしなければ…。」
 彼が見つめるモニターの先には、懸命に走り続ける二つの人影があった。一つは白いうさぎ面をかぶった青年。そして、もう一人は、おさげを後ろになびかせている、赤髪の娘。
「もしかして…あれが、変身後の乱馬なのか?」
 見覚えのあるおさげ髪を垂らして、走って来る娘。
「面白い!二人とも、ここで、俺が葬り去ってやろう!」
 蓮黒玖はにんまりと笑った。


つづく





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