サイレントムーン
第五話 痣



一、

「ほんと、日が落ちるの早くなっちゃったわねー。」
 とぼとぼと歩く、帰路。
 結局、あれから、二時間ほどみっちりとしぼられた。いや、いじり倒されたと言っていい。
 日はすっかり傾き、そろそろ日没を迎えるだろう。ついこの前まで、この時間帯でも太陽はギンギンに空から照りつけていたというのに。
 この春から新任で赴任した若い数学教師。故に、指導熱心で通っていた。
 どちらかといえば、問題児の部類に入る、乱馬。このまま、放り出すのは不味いと、かねがね思っていたようだ。一学期末も、かなり特別にしぼられたが、今日はそれ以上だった。
「たく…。あの野郎。何か俺に恨みでもあるのかよー?」
「何か、最近、失恋したって、噂が流れているから、いらついていたのかもね。」
 あかねがそれを受けた。
「失恋?」
「何でも、学生時代につきあっていた彼女さんだったそうよ。」
「あの野郎、失恋の腹いせに、許婚が居る、俺をいたぶったのか?」
「腹いせだけじゃなくって、ほんと、あんたの成績って、結構やばいから、自業自得ってところも大きいわよ。」
「さては、俺たちが親公認の許婚だってことに、腹立てやがったんだな!失恋の鬱憤を俺で晴らすなっつーのっ!」
「もー!そんなわけないでしょーが。単純に、あんたの出来を心配して、留年させないように気を遣ってくれたんじゃないの?」
 肩を並べて、歩きながら、噛みあわぬ会話を続ける、二人。
「でも…。」
 あかねは乱馬の方を見やりながら問いかけた。
「あんたが、ああいうのに興味があるとは思わなかったわ。」
 あかねがポツンと言葉を投げた。
「ああいうのって?」
 きょとんとあかねを振り返る。
「数字の単位よ。ほら、あんた、先生から単位表一覧が書いた下敷き、貰ったじゃないの。」
 と返答を返した。
「ああ、あれか。ちょっと、興味があったんで貰ったんだ。」
 乱馬は言葉を投げ返した。

 そう、さっきの補修の時、ノートに下敷きなしで数式を書いていたら、先生が貸してくれた下敷き。なんでも、学校出入り業者から貰ったとかいう、数単位が羅列して書かれた下敷きだ。帰りがけ、貰って来たものだった。
『何だ?早乙女。数字に興味でもあるのか?業者にもらったものだし、特に先生も固執するような物でもないからな。あげよう。』
 そう言って、快く差し出してくれたのだった。
「ちょっと見せて。」
 あかねは、乱馬が手にしていた、その下敷きを、手に取った。
「別にいいけど…。」
 目を通すと、大数と少数の単位がずらっと並ぶ。漢字表示、SI接頭辞(国際基準単位)、10を基準とした単位表付けが、きれいにまとめられてあった。
「うわあ…世の中って、知らないことだらけねえ。」
 それをまざまざ眺めながら、あかねがそんな言葉を投げかけてきた。
「…だな。」
 乱馬も同意する。
 数字一つの呼称をとっても、こんなにあるとは。
「一、十、百、千、万、億、兆、京…使ってもせいぜいここまでだものね。垓、じょ、溝、澗、正、載、極…、更にまだ上が、こんなにあるんだ。」
 と目を光らせる。
「大数だけじゃなくて、少数もこんなにあるんだね。少数なんて、せいぜい厘くらいまでしか知らないわ、あたし。でも…あんたがこんなのに興味持ってたなんて。」
 と不思議そうに見つめてくる。
「いや、これ見てると、こう数字にはロマンがあるっていうか…。」
「数字にロマンがあるの?」
「ああ、例えばこれとか。」
 そう言いながら、裏側を見せた。
 そこには、様々な数字や公式が書き入れてある。円周率だの、ルートだの、三角関数だの。数学嫌いには頭が痛くなりそうな羅列だ。乱馬が指さしたのは、ある語呂合わせ的な記述。
「ニククナクフタリヨレバイツモハッピー…何?これ…。」
「一秒間に光が進む光の距離…だそうだ。」
「2997024058M/S…ちょっと苦しい部分もあるわね。」
「ま、それはそれで、語呂合わせとしたら、面白いんじゃねーの?」
「光速かあ。ま、それを越えて行くのは無理な話なんでしょうね。」
「わかんねーぞ。未来のことは。だって、それなりのスピードで電線の中、電気が走り抜けてるんだろ?」
 電柱と電柱を繋ぐ電線を指さしながら、乱馬は笑った。
「電流って、プラス極からマイナス極に流れてて、で、電子はその逆で…って習ったけれどね。」
「そーだっけ?」
「うん…。電子が発見されたのは、電流よりかなり後のことだったから、あえて修正されなかったって習ったじゃない。」
「そーだっけ?全く、覚えてねーな…。」
「ま、確かに、文明の利器にお世話になっていても、その仕組みなんて、殆ど知らないものね。」
「ああ。だから、災害なんかが起きてしまえば、それこそ原始人に近い生活しかできねーよな。」
「でも、そうなったらそうなったで、野生児のあんたは、全然こたえないでしょ?」
「それは、おめーも同じじゃねーのか?」
「あたしはあんたほど、野生児じゃないもん。」
「でも、世間の女子に比べたら、すぐに馴染めると思うぜ。俺は。」
「何か失礼ね…その見解って…。」
 あかねは下敷きをもう一度、まざまざと見た。
「でも、確かに、単位の漢字表記なんて見ていると、面白いわね。「涅槃寂静」とか「無量大数」とか…仏教用語よこれ。」
「へー。仏教用語ねえ…。」
 何故こんな下敷きを貰って来たのか。それは、ある単語に目が吸い寄せられたからだ。
 「SI接頭辞」と書かれたところに、「アト」というのがあり、「刹那」「六徳」「虚空」という三つの漢呼称が並んでいたのが目に入ったのだ。
(これって…奴らが言ってた「アトロイド」と関係あるんじゃ…。)と直感したからである。
 特に昨今のIT技術分野は、SI接頭辞を用いることが多い。大数では「デカ」「ヘクト」「キロ」「メガ」「ギガ」「テラ」、少数では「デジ」「センチ」「ミリ」「マイクロ」「ナノ」「ピコ」など。この辺りは、乱馬も少しは、聞きかじっていた。

(こんなものを知ったからって、理解できるって訳じゃねーが…。あいつら、やっぱり、こういう科学技術の粋(すい)を使って作られた人造生命体か何か…ってことなんじゃあ…。)
 そう直感したのである。
(確か…アトロイドには、「せつな」「ろっとく」「こくう」、その三階級があるって言ってやがった…。)
「刹那」「六徳」「虚空」。そこに打たれたルビを読むと、偶然とは思えなかった。しかも、刹那の横に「アト」という接頭辞が一緒に表記してあった。

「ねえ、乱馬、乱馬ったら!」
 横であかねが何かを怒鳴った。
「あん?」
「ほら見て、夕焼けがきれい。」
「おっ!」
 確かに美しかった。川沿いに眺める秋の空の夕焼け。真っ赤に萌えあがっていた。
「きれいだな。」
 フッと緩んだ頬。
「この前まで、夏だったのに…すっかり秋よね。季節が過ぎ去るのって早いわよね…。」
「何、年よりじみたこと言ってやがる。」
「だって、そうじゃない。そろそろ、進路希望出さなきゃいけないし。」
 とチラチラ乱馬を見やる。あんたはどうするの?と問いだ出すように。
「出たとこ勝負…とか書けねーか。」
「当たり前でしょう?」
「だろーな…。」
「あんたは決めたの?進学するの?それとも…。」
「まだ、そこまでの結論には、至ってねー。でも、この前、言ったように、全く考えてねー訳でもねーからな。」
 と投げた。
「ふーん。」
「進学を選んだとしても、スポーツ推薦枠を取ることになるだろーから、必死で勉強することもねーし。その分、もうちょっと…まだ、もうちょっと時間があるから、ギリギリまで考えてみようと思ってるんだ。推薦取るか…それとも、進学しないでこのまま修行に出てプロの道を探るか。いずれにしても、無差別格闘を興隆するための道へ行く…、それだけは決めているぜ。」
 今日は、素直に言葉が流れていく。
「そっか…。あんたなりに、進路を、ちゃんと考えてるんだ。安心した。」
 そんな言葉があかねから漏れた。
「あたりめーだ!人生かかってんだからな。」
「人生…そうよね。先は長いものね。ちゃんと考えなきゃダメだよね。やっぱり。」
「そーゆーことだ。だから、俺のこと…心を配ってくれるのは嬉しいけど、気をもむなよ。それから、おめーはおおめーの思う道を行け。何も、道場や俺に縛られることはねえよ。」
 ポソッと頭に手をやった。そして、わしわしと撫でる。
「わかってるわよ!子供じゃないんだから。」
 頭を撫でられて、少しムッとしたあかね。
「ま、いずれにしても、結論出したら、おめーに、いの一番に話すから。もうちょっと、待っとけ。な?」
「うん。」

 初めて、前向きに少し先の未来予想図をあかねに話せたと思う。

(その前に、あの連中と、また、関わることになっちまうんだろうが…。今度は負ける訳には行かねえ。あいつらの好きにはさせねー。絶対、あかねは守る。この身体で!)
 下敷きを鞄に詰め込みながら、瞳をギラギラと輝かせる。

 その日から、今までに増して、真剣な面持ちで、道場へ籠り始めた乱馬であった。



二、

「何か、この頃、真剣に身体を動かしているわねえ、乱馬君。」
 道着にアイロンをざっとかけながら、かすみが、あかねへと声をかけた。
「今までが不真面目だったとでも言いたいの?お姉ちゃん。」
 横で、洗濯物をたたみながら、あかねが返事を返した。
「そういう訳ではないのだけれど…。道場に籠るときの、乱馬君の顔つきが、変わってきたようだから。」
「はっきり言ったんさいよ。余りに激しく動き回るから、道場の床板や壁がぶっ壊れて修理費がかさむのが心配だってさー、かすみお姉ちゃん。」
 横からなびきが声を挟んだ。
「あ…お姉ちゃん、そっちを、心配してるんだ。」
 あかねは苦笑いを浮かべて、姉たちを見比べた。
「この前、二階の窓とお蒲団と、庭の常夜灯と…壊されちゃったから、今月余計な出費がかさんじゃったし。これから年末に向かっていくから、やりくり大変になってくもんね。」
 金の亡者だけあって、なびきの指摘は鋭い。
「最近の乱馬、気合が入りまくってるから、あたしでも近寄りがたいもの…。」
 あかねがポツンと吐き出した。
「あかねでも、近寄りがたいの?」
 なびきが不思議そうに尋ねてきた。
「はっきり言って、怖いわ。今のあいつの間合い…。」
「間合い?」
「うん。間合い。下手に間合いに入ろうものなら、無意識に攻撃されると思うわよ。ほら、お父さんたちも乱馬がいる間は、道場に入っていかないでしょ?あれはさー、乱馬の間合いにうっかり入って、滅多打ちにされるのが怖いからよ。だから、お姉ちゃんたちも、乱馬が居るときは、道場に近寄らない方が懸命よ。今の気迫だと、素人玄人の見分けなく、攻撃されちゃう可能性が高いから。」
 同じ無差別格闘流の使い手らしい、あかねの説明だった。
「君子危うきに近寄らず…ね。」
「気を付けるわ。」
 姉たちは頷いた。
「でも、逆に、あれだけ、張り詰めて、集中しているから、乱馬が一人で籠っている時は、道場が壊れることは無いと思うわよ。」
「ほんとに?」
「どういう道理よ、それ。」
 姉たちがあかねを見つめて来る。
「破壊することが、あいつの修行の目標じゃないようだし。」
「じゃあ、何を目標にしているの?」
「多分…気の制御。」
「気の制御?」
「ええ…。できるだけ少量の闘気で、最大の威力を出そうというのを目標にしているんじゃないかしら。」
「そんな目標まで、わかるの?あかねちゃん。」
 かすみが不思議そうに問いかける。
「乱馬くらいの手練れになってくると、考えそうなことは何となくわかるわ。気を高ぶらせているから、動きも荒く激しく見えるけれど、足元も拳も、あれでいて、すごく繊細に繰り出しているのよ。あたしじゃ、あの境地に達するのは、まだまだ精進が要るわ。」
「やっぱり、乱馬君は凄いのかしら?」
「うん、凄いよ。まだまだ強くなると思うわ。」
 かすみが投げた問いかけに直球で答える。
「珍しいわね。あんたが、乱馬君のこと、掛け値なしで褒めるなんて。…てことで、乱馬君の修行姿、望遠レンズで撮ってみたの。買わない?」
 そう言いながら、ずらっと、修行にまい進する乱馬の姿を収めた写真を、その場に並べた。
「なびきお姉ちゃん…。」
「あんたが買わないなら、珊璞や右京に吹っ掛けてもいいけど…。」
 いつ、いかなる時でも、金儲けを忘れない、この次姉のありように、あかねの顔が引きつったのは言うまでもない。

 洗濯物を小分けして、それぞれの置き場へと持って行く。ふと、見ると、道場からは、乱馬の気迫に満ちた声が漏れて来る。
 実際、乱馬が鬼気として道場で身体を動かしていると、外から覗き込むことすら躊躇われる。
 そのくらい、激しい気迫が彼の所から流れてくるのだ。
「でも、乱馬ったら、何、あそこまでムキになっているのかな…?」
 疑問に思えてならなかった。
 もちろん、闇雲ではなく、あかねを守りたいという一つの目標が、彼を駆り立てていたのだが、あかねの知るところではなかった。。
 早雲も玄馬も、共に無差別格闘流の使い手故、あかねと同じように、乱馬が稽古をし始めると、そそくさと道場から退散を決め込んでいた。やはり、間合いの怖さを知っているからだろう。

 玄馬は、それでも乱馬の父親である。放浪しながら、乱馬を育ててきた。故に、この鬼気迫る乱馬の修行のありように、一言モノ申したかったようで、彼が道場から上がって来たのを見計らって、声をかけた。
「お前、何を焦っておるか知らぬが…そのままでは、強くならぬぞ!」
 道場への長い廊下ですれ違いざまに一言、投げたのである。
「俺はやりたいようにやってるだけだ!ほっといてくれ!」
 と、擦り抜けようとすると、ガッと手を掴まれた。その手を振り切って、玄馬を睨み据える。
「何だよ!しつけーな!」
 ムスッとした表情を投げつける息子に、容赦なく玄馬は声を荒げた。
「そんな我武者羅に動くだけでは、上には登り詰められぬ…と忠告してやっておるのだ!おまえ…一体、誰とやり合おうとしておる?」
「別に誰ともやり合う気はねーよ!」
 不機嫌に吐きだした。
「この父の目はごまかせぬぞ。この前の夜陰の相手…奴ともう一度やり合うつもりのではないのかのう?」

 その言葉に、ハッとした乱馬。

(もしかして、あの夜…庭先の攻防を、親父に見られていた?)
 息を飲んだ乱馬に、ニヤッと玄馬がほくそえんだ。やっぱりな…と瞳が語る。

「して、相手は何者だったのだ?少なくとも、良牙君…ではないな?」
 そう問い質された。
 誤魔化せない…そう、観念した乱馬は、
「相手は得体の知れねー化物だ。」そう、一言投げた。
「化け物?妖怪か?それとも呪泉の被害者か?」
「妖怪…というより、マシンだな。」
「マシンじゃと?」
「ああ。人の心を持った機械生命体…みたいなやつだ。」
「アンドロイドのことか?バカな、そんなもの。」
「この世には存在しない…そう言いたいんだろうけど、俺は確かに遭遇したんだ…。恐らく…あかねも。」
 あかねの名前が息子の口から出て、玄馬の細っこい目が、眼鏡の奥で見開かれていく。
「その案件…あかね君が絡んでいるというのか?」
「ああ…。」
「強かったのか?そやつ。」
「親父や俺たちが言う、強さとは違う類の力を持っていやがった。…で、負けた。というより、闘い方が、てんでわからなかった。いや、わからねえんだ!」
 ギュッと拳を握りこむ。
「珍しいな。おまえが、はっきりと、己の非力を認めるとは…。それで、修行しておったのか…。」
「親父ならどうする?得体の知れない相手と闘うとき…。どう、相手を攻める?」
「フン!得体の知れぬ相手なら、今までもたくさん相手にしてきておろう。おまえはその時、どうやって、闘い抜いてきた?」
「今まで相手した連中とは違う、未知の相手だぜ。過去を振り返ったところで、ヒントなんかねえ!」
「何を怖気づいておる。おまえらしくもない。得体が知れぬ…なら、ワシらもそうではないのかのう。変身できる…。ワシらも立派な化け物だぞ。」
 と、玄馬は胸を張った。
「でも、元をただせば、俺たちは人間だぜ。血の通った。」
「フン!血が通っていない機械人間が相手…、上等ではないか。相手が機械人間なのであれば、ただ、壊せばよいだけのこと。違うか?」
「壊す?」
「ああ、そうじゃ。どんなに知能が進んだAIであろうが、機械は機械。例えばこの電灯。」
 そう言いながら、灯る蛍光灯を指さす。
「ここへ直接攻撃を加えるのはもちろん有効だが、電気を供給する元を叩けば、全部が止まってしまおう?何も個体だけを叩けば良いというものではない。少し考えればわかることじゃ。」
 そう言われてハッとする。
(もしや、あの時…俺は焦るばかりで、状況を冷静に見ることができなかっただけなのか?)
 シロが高度な機械だったとしても、身体から力が抜けたのに、理由があるのではないかと思った。ひな子先生の「八宝五円殺」に近いからくりがあるのなら、例えば彼女が使う、五円玉のようなタネが。
「何も、闘いは力と力のぶつけあうだけではない。早乙女流の基本は、動と静だ。懸命に動きつつも、感覚を研ぎ澄まし、相手をよく観察し、闘い方を見極め、また動く。忘れたか?それに…。」
 ゆっくりと後ろを向き、乱馬の元を去りながら、玄馬は言い放った。
「得体の知れぬ相手なら…お師匠様が一番それに相当すると思うがのう…。がっはっは!」
 笑い飛ばしながら去って行く父親。
 思うに、このスチャラカさにどれだけ泣かされてきたろうか。

「だてに、格闘バカをやってねーな…。親父。少なくとも、相手が何であろうと、俺は俺を保って、闘い抜いていくしかねえってか。そうだな。結局、それしかねーか。」

 グッと丹田に力を入れなおした。
「サンキュー…親父。ヒントにはなりそうだ。」
 そう吐き出して、母屋へと入って行った。

 かいた汗を流そうと、そのまま風呂場へと足を進めた。と、あかねが出てくるのとかち合った。

「お?湯上りか?」と声をかけると、コクンと小さく頷いた。
「今あがったところよ。」
「じゃ、俺が使わせてもらうぜ。」
 そう言いながら、あかねの傍を通り抜けようとした。
 と、その時、目に入ってしまったのだ。不細工に包帯を巻いたあかねの右腕が。
 あかねの傷は、だんだんに癒えてきている筈だ。最近は痛がらなくなった。消毒と包帯は、かすみが買って出てくれていた。夜、風呂を上がって、寝る前にかすみが巻いているようだった。だから、あまり気にも留めて居なかった乱馬だった。
「……?」
 普通、風呂上がりなら、包帯は巻かずに出てくるだろう。もし、傷口がじゅくじゅくしているのならば、絆創膏か何かでガードしてから風呂に入るはずだ。それをしないのなら、ある程度傷が癒えているという証拠。それなのに、不自然に巻かれたあかねの包帯。まるで、隠している…そんな風に見えた。

 もしや…。

 予感が走った乱馬は、あかねの左腕を取った。
「あかね!傷を見せろ!」
 そう言われて、戸惑ったあかね。ビクンと肩が動く。
「もうほとんど治っているから、心配ないわ。」

 そう言って、乱馬の元を去ろうとした。
「いーから見せろっ!」
 多少乱暴だと思ったが、不器用に巻かれた包帯へと手をかけた。と、ハラリと包帯がめくれて、廊下の板の上に舞い落ちる。
「それ…。その傷…。」
 今度は乱馬が声を震わせる番だった。

 あかねの右手の土方手首にかけて、炎を象った赤い痣が浮き上がっていたからだ。まるで、迦楼羅炎のような炎の痣。

「大丈夫。湯冷めしたら、消えるから。」
 さっと隠すように、腕を曲げると、あかねは乱馬の手を振り切った。そして、逃げるように駆け出して行く。下に落ちた包帯はそのままに。
 すぐさま後を追おうとしたが、頑なになった彼女は、心を閉ざしてしまうかもしれない。そうなれば藪蛇だ。少し時間を置くべきだ。そう判断し、あえてすぐには追いかけなかった。
 乱馬は包帯を拾い上げると、グッと胸の前で握りしめた。
「畜生!俺としたことが…ぬかったぜ!」

 己の考えを、一度、きちんと糺すために、浴室に入った。石鹸で汗を流し、湯船へと身を沈める。
 湯に浸ると、案外、散らばった考えをまとめやすい。

「あれは傷なんかじゃねえ…。多分、マーキングだ。誰かが、あかねを確実に手に入れるためにつけた刻印。」
 肩まで湯に浸かりながら、思考を張り巡らせる。
「やっぱり、東風先生が最初に診たてたのは、間違いじゃなかったんだ!そして、あの不可思議な連中が関わっている…。」
 うさぎに化けるような連中だ。つる草に見せかけるのは容易かったに違いない。いや、乱馬の目をくらませることなど、簡単だったろう。
 恐らく、あかねが熱を出したのも、あの傷のなせる業だ。あかねの身体が激しく何かに抵抗をしていたと思えた。そして、多分、今も、彼女の身体は闘っているはずだ。意識の下で、無意識に。
「許せねえ!あかねにあんな痣を作りやがって!」
 冷静にならねばと、思えば思うほど、激高していく想い。あかねを愛している乱馬にとって、耐えがたき事柄だった。
「あいつ、一人、悶々と悩んでやがったに違いねえ…。」

『大丈夫、湯冷めしたら消えるから。』
 そう発したところを考えると、入浴など熱を加えると浮き上がるのだろう。そして、湯冷めして体温が下がると消える。だから、傷の手当をするかすみにも見えなかったし、乱馬も見ることができなかった痣。

「ちゃんと、さしで話をしねーと!」

 そして、赤チャイナ服と黒ズボンという、普段着に着替えて、あかねの部屋へと、急いだ。


三、

 
「あかね…。入るぜ。」
 乱馬の声が部屋の前で響いた。
 返答は無い。が、決意を固めてきた乱馬は、ドアノブを開いて中に入った。
 あかねは勉強机に座って、鉛筆を走らせていた。真面目な彼女のことだ、受験勉強に取りんでいるようだった。
「何?何か用?」
 きつめの言葉が返ってきた。勝気な彼女らしい、言動だ。
「ああ…。話がある。ちょっと面貸せ!」
 そう言って、背後へと立った。
「話って?」
「その、腕のことだ!」
 強く言い放った。
「腕のことなら、心配はいらないわ。だからほっておいて!」
 顔をこちらへ向けることなく、言い放ってくる。
「ほうっておける訳、ねーだろーが!」
 そう言って、無理やり、あかねの手を引っ張った。
「乱暴しないで!」
「しねーよ!とにかく、話を聞かせろ!こいつは、ただの傷じゃねーんだろ?」
「だから、大丈夫だって!」
 はっしと睨み据えて来るあかね。頑なになっているようにも思えた。
 掴んだ右腕。さっき、鮮明に見えていた傷は、どこにも見当たらない。
「ほら、何もないんだから!」
 そう言って、ふり切ろうとした腕に、乱馬は、持ってきたステンレスボトルの湯をかけた。

 じょぼじょぼじょぼ…。

 湯が床に滴り落ちる。
「何するの!」
 あかねは声を荒げた。
 湯が滴った右腕に、俄かに、赤い痣が浮かび上がった。
「やっぱりな…。」
 乱馬は、持っていたタオルで、こぼれた水を拭きながら、あかねへと視線を投げつけた。
「温めると、浮かび上がてくるんだろ?その傷。」
 あかねは無言で、乱馬を睨み据えた。
「だから、どーだっていうの?」
「ちゃんと俺に聞かせろ!この傷を受けた時のこと!包み隠さずに!」
「あんた、見ていたんじゃないの?」
「ああ…。見ていたさ。だけど、慌てていたからな。見たままのことが、真実だったのか、今は、疑っているんだ。おめーあの時、変なことを口走っていたしな…。俺が目の当たりにしたことと、おめーが目の当たりにしていたことは、違うんじゃねーのか?それに、東風先生が指摘したように、その傷、本当はつる草なんかじゃなくて、全く別のものにつけられたんじゃねーのか?そうなんだろ?」
 畳みかけるように、一気に言葉を飛ばす。かなりの早口だ。
 その激しさに、思わず、あかねは視線を外した。
 そう…乱馬が言うとおりだったからだ。
 その様子を目にした乱馬は、グッと拳を握りしめた。そして、
「これは…おめーには、話すまいと思っていたが…それじゃ、フェアじゃねーしな…。先に俺から話すぜ。」
 そう言い放ち、どっかとあかねのベッドに座りこんだ。
「話す?」
 いきなり、話すと言われて、戸惑いを見せたあかね。一体、乱馬は何を話すというのか。見当がつかなかった。
「ああ。俺の身の上に起こったこと、話してやる。おめーは不安に駆られるかもしれねーけど、瀬戸際に立たされている現実から、目を逸らしちゃいけねーからな。」
「現実…。」
「ああ…。俺も包み隠さず、話すから、その後、おまえも話してくれ!」
「だから、何の話をするつもりなのよ?あんたは!」
「おめーが熱を出してくたばっていた晩、変な連中に襲われた話だ!」
 その言葉に、えっという表情を傾けたあかね。全く意にしていなかったことを、いきなり乱馬が口にしたからだ。
「俺の寝ていた部屋の窓、庭の常夜灯が破壊されていたろう?それに寝ていた蒲団だって、焦げた跡がいくつかあったはずだ。」
「あ…。」
 あかねの瞳が見開かれていった。そう、確かに見た。常夜灯が破壊されたあとと、乱馬の蒲団の焦げ。
「でも、あの夜は、良牙君と闘ってたって…。」
「以前の良牙ならあり得たかもしれねーけど、今の良牙は、いきなり決闘を申し込んで夜中にここへ上がりこんで来ると思うか?」
 真摯に話しかけてくる乱馬の勢いに、戸惑いつつも、乱馬の言にも一理あると思った。
 初めてこの街に現れた頃は、乱馬との果し合いを望んで、夜討ち朝駆けで天道家にやってきた良牙であったが、この頃は、そんな物騒な理由のためにここへ来ることはなくなっていた。彼が尋ねてくるときは、ほぼ、必ずと言っていいほど、土産物を手にしてくる。それも、方向音痴の彼らしく、口にする地域と土産物の地域は悉く違っているが。
「それに…。良牙は岩は砕けても照射や熱放射はできねえ…。俺も然りだ。竜巻は起こせても、照射や熱放射は論外だ。焦げ目なんて、つけられねーぜ。そーだろ?」
 あかねはゴクンと唾を飲み込んだ。そう。どこかあの闘いの痕跡は、おかしかった。いつもと明らかに違っていた。
 どんな気技を使っても、せいぜいできるのは、風を起こしたり、衝撃波で物を打ち砕くのみ。焼き払ったり、氷以外の物体を溶かしたりということはできない。乱馬の蒲団はタバコを落としたよいうな焼けた痕があった。それに、窓は溶けた痕跡もあった。そんなことができる敵とは、一体何者なのか。
「武器を持っていたの?その敵は?」
 と問いかけるのが精いっぱいだった。
「いいや、武器は持っていなかった。全て、瞳から繰り出された攻撃だった。」
「瞳?眼力か何かだったの?」
「残念ながら、避けるのが精いっぱいだったから、詳細は確かめていねえ…。が…言えることは、相手は人間じゃ無かったってことだ。」
「人間じゃない?じゃあ何なの?妖怪?」
「血の通った生命体じゃない。…例えば、ロボットのような、人造生命体だと思う。」
「人造生命体…。」
「本人は、アトロイド…という言葉を使っていた。」
「アトロイド?アンドロイドじゃなくて?」
「ああ、アトロイドだ。そられから、奴らが、実体かどうかもあやしい…と思う。」
 ポツンと乱馬は声を落とした。
「え?それってどういうこと?」
「バーチャルリアリティ…つまり仮想現実の産物かもしれねーってことだ。」
 そう、乱馬は、ラビとシロが互いに言い合っていたとき、じっと彼らを観察していたのだ。
 彼らからは、気は一切感じられなかった。生物全てにある「気」が全く流れていないような違和感。そればかりではない。常に聞こえた小さな音。画像が乱れるときに流れるノイズに似ていた。そして、極めつけは、シロとラビの消え方だった。まるで、空に吸い込まれるように視界から消えた。その消え方が、テレビやパソコンの画面の消え方と、一瞬、似ていると感じたのである。
「バーチャルリアリティー。まさか乱馬から、そんな言葉を聞くなんて、思わなかったわ、あたし。」
 あかねは、クスッと笑った。
「笑いごとじゃねーぞ!言っとくが、今、話したことは全て、本当のことだからな。嘘は言ってねーぞ!」
「わかってる…。乱馬がユーマ(UMA)に襲われたんだったら…多分、あたしも…。」
「ユーマ?」
「未確認生物のことよ。生物って言えるのかどうかはわからないけれど…。だから、あたしも話すわ。あの時、何が起きていたのかを。」

 あかねは、乱馬へ向き直ると、己の身に何が起きていたのかを、丁寧に話し始めた。
 乱馬が襲われた話を聞いて、自ら話すことを決意したのだ。
 山の中で二股道の一つに足を踏み入れたこと。そして、乱馬をやり過ごすために、隠れるという選択をしたこと。上手い具合に、大岩を見つけて、その根元に開いていた穴へ隠れようと思い付いたこと。
 崖から下に降りたのではなく、小さいながらも石段のようなものがあったこと。
 それを伝って降りる途中、石段が欠けて無くなっていたこと。どうしようかと思案したとき、太いつる草が目に入り、それを利用しようと掴みかかったこと。その瞬間、つる草が電線ケーブルのような紐状の人造物に取って代わって、あかねに襲い掛かって来たこと。不気味な女の声がしたこと。そして、電撃攻撃を食らい、動きを封じられて、大岩に開いていた穴へと引きずりこまれそうになったこと。

 全てを話した。

「そんなことがあったのか…。」
 乱馬は腕組みしながら、軽く頷いた。
「信じてくれる?」
「ああ…。あん時の俺には、信じられなかったろうが…今なら信じられるぜ。俺の目の前でも、説明できないような事象が起こったからな。」
「乱馬には、つる草はつる草にしか見えていなかったのよね?」
「ああ。上から覗き込んだ時は、何に絡まっているかまでは、詳細はわかんなかったが、下に降りた時は、おめーがつる草に絡まって宙づりになっているようにしか、見えなかった。あかねが見た人造物は、既に元に戻っていたさ。それから…。二股に道は分かれてなんかいねーぜ。」
 最後に気になることを吐きだした。
「え?確かに、二つに分かれていたんだよ。あたしが通った時には。」
「いや、あの辺りは一本道だ。ぐるっと回って元のところに戻って来られるようになっていたからな。あのあたり、岩じゃなくて、山王権現の小さな祠があるんだが。」
「祠なんて無かったよ。」
「祠までの道筋で誘い入れられたのか。」
「誘い入れられた?」
「ああ。恐らく、おめーを狙ったユーマが、一本道から外れるように仕掛けたんだろう。で…恐らくユーマは、おめーが引きこまれそうになった大岩と関係している。大岩の割れ目の先に居たのか、或いは大岩そのものがユーマだったのか、今となってはわからねーが。
 そして、今回俺が襲われたのも、おめーが体験した事象と、同じ根を持っているんじゃねーかと…思う。」
「そっか…結果的に、乱馬も巻き込んじゃってたんだ、あたし。」
 少し、複雑な表情を傾けて、うつむいたあかね。
「バーカ!そんなこと気にすんじゃねーよ。」
 ツンと指であかねのおでこを突っついた。
「奴らの目的が何なのか、さっぱりわからねーけど…。もしかしたら、古い伝承に絡んでいるかもしれねーな。」
「古い伝承?」
「俺が、かの地で修行していた行者に聞いた話だよ。お前にも話したろ?」
「かぐや姫が富士山の泉に身を投げたって話?」
「そっちじゃなくて、不老不死の薬を得るために、かぐや姫が再び、地上に降ろしたいと思って居る湖の話だ。」

 そこまで話した時だった。

 部屋の蛍光灯が、バチバチッと音を発てて、揺らめいた。かと思うと、バチッと大きな音を鳴らし、明かりが消えた。

「きゃっ!」
 あかねは、乱馬の胸へと飛び込んだ。乱馬もあかねを引き寄せて、身構える。
「誰だ?そこに居るのは!」
 少しだが、何かの気配を察した。人ではなく微小な気配。いや、正確には、小さなノイズ音だ。

 カタンと窓がしなって、人影がそこに立って居た。
 半分の月、半月を背に、その姿が洗われる。青年が一人、そこに膝をついてこちらを見ていた。いで立ちは真っ黒な衣服だった。黒一色の滑らかな布と、ズボンをはいている。
 そして、黒いうさぎのお面をかぶっていた。顔は全く見えない。

「なかなか、面白い見解を、話していたね。早乙女乱馬。」
 聞き覚えのある声が、そいつから流れた。
「てめー…その声…。ラビ…か?」

「僕の名前は蓮黒玖(れんこく)。そして、確かに、君たちはラビと呼んでいたよ。」
 そいつは、そんな言葉を投げた。
「ラビ…ラビですって?」
 あかねの瞳が見開かれる。目の前に居たのは、うさぎではない。手も足も人の形をしている。
「あかね!前に出るな!おめーがラビだとしてだ…、貴様、何しに来やがった?」

「あかねさんを迎えに来たんだ!決まっているだろう?」
 そう言って、蓮黒玖と名乗ったそいつの面の奥の瞳は、黄金色に淡く光を放ち始めた。


つづく




(c)Copyright 2000-2017 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。