サイレントムーン 第三話
第三話 白うさぎ



一、

 穏やかな、秋の入り口の昼下がり。
 教諭が白いチョークを片手に、懸命に板書している。
 科目は古典。課題は「竹取物語」、いや、文学史の解説だった。
「えー、竹取物語は、 『物語の出で来はじめの祖(おや)』と紫式部が、『源氏物語』の中で評しているとおり、日本最古の物語だと言われているぞ。その成立は、平安初期と言われているが、もっと古い時代に、元の物語は形成されていて、それを当時の誰かが編纂して組みなおしたとも言われている。紀貫之、源融…様々な候補者がいる。が、未だ謎に包まれている。」
 教科書片手に、教諭が竹取物語についての、うんちくを語っている。
「主人公は言うまでもなく、かぐや姫だが…。この「かぐや」という名前にも、色々な意味を含んでいるんだぞ。例えばだな…。」
 黒板に「迦具夜比売」という文字を書き入れながら、説明を加えていく。
「迦具夜…。これは、『古事記』の垂仁記に「迦具夜比売命」という記載があって、モデルになったのではないかという巷説もあるぞ。この『古事記』によると、迦具夜の父は大筒木垂根王(おおつつきたりねのきみ)と言って、京都の山城に綴喜(つづき)という地名があるから、そこを領地としていたということも考えられる。更に、彼女の祖母に「竹野」と書いて「たかの」という女性の名前も出て来るから、竹尽くしで面白いぞ。
 もっとも、迦具夜というのも、本名だったかどうかはわからない。平安時代ごろまでの女性名は、ほとんどが通称で、本名ではないからな。
 竹取物語を、も「物語の出で来はじめの祖」と称した紫式部も、そのライバルの「清少納言」も通称名であって、本名は伝わっていないんだ。誰の娘で誰の嫁だった…などの出自はわかってきているが、名前だけは未だに判明していないんだぞ。
 『源氏物語』や『枕草子』といった秀逸な文学作品をこの世に遺したにもかかわらずな。」

 興味のある事柄ならともかく、授業など、退屈しのぎにもならない。
 真剣に聞こうという努力すら、最早、乱馬には、欠落していた。
あかねのいない教室は、無味乾燥とした世界に見えた。
 何より、気合が入らない。

「乱馬…。何か今日は、腑抜けてるな。」
「んだんだ…天道が居ないのが、そんなに寂しいか?」
 大介とひろしが、そんな言葉をかけてきたくらいだ。この二人だけではない。クラスメイトの男子たちの、やっかみが半分入った、言葉が横から飛んでくる。
「四六時中、一緒に居ないと、調子が狂うってか。」
「天道もこれだけ愛されたら、幸せだよな。」

「うるせーよ!」
 同級生たちの賭けてくるちょっかいの言葉を払いのけながら、そう口にした。

「でも、珍しいよな。」
「健康体の天道が、体調を崩すなんてよ。」
「おまえ、この前、一緒に山へ修行に行ったとか言ってたけど、無理させたのか?」
「いや…。別に。」
「あかねと、山ン中で、あーんなことや、こーんなこと、やってたんじゃねーよな?」
 背後から大介が、乱馬の首根っこに腕をかけてきた。
「あーんなことや、こーんなことって何だよ?」
「こーんなことだ!」
 いきなり、おっぱいをもむ動作を乱馬へ手向けた。
「こら、ふざけんなっ!」
「あかねとなら、オッケーだろー?」
「親公認の許婚だしよー。親も目をつぶってくれそーじゃん。」
「ほんと、うらやましいぜ!」
「許婚同志の身体の会話。山ン中で、やってたんじゃねーのか?」
 ひろしまでもが、反対側でにやりと笑ってくる。
「するかー!んなこと!」
 つい、怒鳴ってしまった。
 と、ヒュンとチョークが教壇から降って来て、トンと乱馬の額に当たった。
「くおら!早乙女!真面目にきかんかー!」
 国語科の教師が教壇で怒鳴っている。
「たく…。お守役の天道が居ないと、授業を受ける気も持たないのか?おまえは。」
「あ…。はい。すいません。」
 教諭は、つかつかつかと歩いて来て、乱馬に当たったチョークを回収する。ついでに、こつんと軽く乱馬の額を掌で叩いた。
 一緒にふざけていたひろしと大介にはおとがめなし。

 あかねの欠席は、クラスメイトたちにとっても、珍しいことと受け止められているようだった。
 あかねの仲良したちも、「どうしたの?」と乱馬へ声をかけてくる。
「朝から熱出して、くたばってるよ。」
 今朝から、至る所、からの、問いかけが投げかけられっぱなしだ。健康優良児並みに元気に満ち溢れたあかねだ。彼女が寝込んだという事は、周りに不可思議に映るらしい。

 いや、乱馬も、猜疑心に満ちていた。

 授業中、晴れ渡った秋の空を見上げて、丸一日、あかねのことばかりを、考えていた。

(まさか…あの傷が発端になってるんじゃねーだろーな。)
 秋山修行で受けた、あの腕の裂傷が、ふと気になった。今は予防接種が行き届いているので、破傷風など、怪我が起因となって劇症化する病は少なくなってきている。が、それでも、完全になくなった訳ではない。腕の傷から病原菌が入ったと、考えることもできる。
 今朝見たときも、包帯に血が滲んでいた。
(それに、観てくれた東風先生も、気になることを言ってたっけ。)
 昨日、東風に言われたことが、頭の中をこだまする。

『本当に、つる草でついた傷なのかい?』

 乱馬があかねの気の乱れを察し、山中を駆け抜けて助けに入った時、絡まっていたのは、確かに「つる草」だった。が、擦ったり切ったりした裂傷だけでなく、火傷のような傷があると言っていた。
 それが、乱馬にも、引っかかっていた。
(あかねを助けた時…あいつ、変なこと口走ってたな…。というより、何であんな恰好で、吊り下がっていたのか…、ちゃんと、状況の説明を、あいつから聞いてねーよな、俺。)
 そうだ。あの時、自分も、平常心を失っていた。あかねを助けることに無我夢中で、何故、そんな事態にあかねが陥ったのか、肝心なことを、当人から聞きだしてはいない。

 あの時のことを脳裏に浮かべて思い出してみる。授業など、そっちのけで。




 あの時…彼女を捕まえるために、あかねの気配を追って、山の中を駆けていた乱馬。あかねは気をまき散らしながら走っていたので、軽々と彼女を追えていた。
 乱馬の気を捉える感覚は、なかなかこれが、鋭かった。気技を上手く扱えるようになるにしたがって、増して来た乱馬のの能力の一つだった。しかも、探る気は、最愛のあかねだ。四六時中、彼女の気にさらされて生活している。
 スタートしたときから、気を探りながら、余裕で追いかけていた。
 最初、あかねは真正直に、渡された地図上の道しか、駆けていなイのが、面白いようにわかった。
 ところが、ほぼ追いついたと…思ったところで、いきなり、それも、忽然とあかねの気が消えたのだった。
 かなり、近くにまで迫っていたにもかかわらずに…。何か、大きな力に飲み込まれるように、消滅したのである。
 もちろん、乱馬は焦った。
 真っ先に浮かんだのは、切り立った崖が続く道の途中で、彼女が転落でもしたのではないかという不安。
 山の中では、あかねは素人同然だ。それゆえ、スタートする前、父親たちが、地図に書かれた道から大きく外れることはするなと、言い含めていた。離れても、せいぜい数十メートルくらいでやめておけと。それから決して無理はするなと。下手をすると、迷って遭難するとも限らない。
 が、たとえ、大きく外れてしまったとしても、乱馬には気の気配で、見つけられると高をくくっていた。
 そもそも、それが間違いだったのではあるまいか。
(あいつ…道をそれて、隠れたんだよな?にしては、気配の消え方がおかしい。)
 一瞬、不安が過ぎったのだった。
(とにかく、あかねが消えた辺りへ急ごう。行ってみればわかるよな。)
 そう思った。
 あかねが消えた辺りは、靄がかかって白み始めていた。
(この辺り…だな。あいつの気が消えたのは。)
 感覚を研ぎ澄まし、あかねの気配を探ったが、近くであかねの気配は立たない。
 気が察せないということは、気を失って倒れているか、それとも、故意に気を抑えて隠れているか。そのどちらかになろう。
(靄を利用して、タイムアウトになるまで、隠れるという作戦に出たのかもしれねーな。)
 隠れたとしたら、気が消えた辺りから、そう、遠くへは行くまい。
 乱馬は、そのあたりを探ってみることにした。
 己の気を研ぎ澄まし、あかねの気配を探るが、やはり、見当たらない。よほどうまく隠れたか、何かアクシデントに見舞われたか。
 この靄だ。靄が立つということは、湿気を多く含んで足場も悪い。となると、足跡が残っている可能性も高い。そう思って、地面を丁寧に見ながら、あかねの辿っただろう道を探す。が、それも容易に見つからなかった。
(まさか…靄で道と崖の境がわからなくなって、下に落ちた…とか。)
 一瞬、過ぎった不安。
 それを立証するように、急に響いてきた声。

「きゃあああ!」

 そう遠くないところで、彼女の悲鳴が上がったのだ。
 確かに、あかねの声だと思った。
 悲鳴が上がったということは、何らかの危険があかねの身の上に起こったということ。この山の中、猪や熊という猛獣に出会ったのかもしれない。いや、足を滑らせて崖から落ちたのかもしれない。
 懸命に声のあがった方角へと走り始めた。
 そして、獣道の脇の崖下で、ツタに絡まり、宙づりになっている、彼女を見つけたのであった。
 後は、無我夢中、あかねを助けに飛び込んで行ったのである。


(あん時、あいつ…変なこと一瞬口走ったよな。)
 ぼんやりと、消しゴムを握りこみながら、再び、思い返して見る。


 
『あれほど、道を大きく反れるなって、親父たちに言い含められてたんじゃねーのかよ!』
 と、そいつは強く言い放って来た。
『あのねー、あたしは、ルートから五メートルも離れて居ないわよ。』
 と、抱きとめられた腕の中から、強い口調で言い返す。
『五メートルだあ?何寝ぼけてやがる!』
 すぐに、怒声が飛んできた。
『寝ぼけてなんかいないわよ!』
『百メートル以上離れてるぜ!』
『百メートル?そんなはずないわ!』
『離れてる!』
『離れて無いわ!』

 あの時交わした押し問答を、思い出していた。
 道を外れたことに、文句を投げつけると、そんなに道を外れていないと、口走っていた。



(靄(もや)がかかってたからな。道を見誤ったとか…。でも、あの辺りは一本道だ。確かに、心臓池の周りに獣道はついているが、別ルートだ。あの道には繋がらねえ…。それに、あいつ、崖上を見上げて、びっくりしてやがったようだし…。)

 考えても、わからないことだらけだった。

(やっぱり、禁足地に入ったのが影響しているとか…。)
 そこまで考え至って、ブンブンと頭を横に振るう。
(いや、あれは、中坊の頃、あの辺りで修行していた、修験道の爺さんから聞かされた、ただの伝説だろうし…。あそこが、禁足地そのものだと、決まった訳じゃねえ…。)

 そこまで、考えが至った時、頭上で教科書片手に、顔をしかめているひな子先生と瞳がかち合った。
「早乙女君…。さっきから、当てているのに…。返事もしないなんて…。おしおきします!」
「え…?」
「八宝五円殺!」
「うわああああっ!」
 逃げる暇もなく、闘気をひな子先生に吸い上げられていく。
 あっという間に、吸い尽くされて、ペラペラになり、机にへばりつくことになってしまった、乱馬。

「おめーらしくないな、乱馬。」
「反撃一つできないとは、情けないぞ!」
「あかねが居ないこと、そんなに気に病んでるのか?」
「同じ屋根の下に住んでるんだから、家に帰ったら会えるだろうに…。」
「四六時中一緒に居ないと、調子でないなんて…。」
『重症だな。』
 ひろしと大介の声が重なった。
 やれやれ…という表情で、乱馬を見下ろして来た。
「うるせー!」
 乱馬は、ヘロヘロになりつつも、親友たちへとムスッとした表情を投げ返していた。



二、

「畜生…。ひな子先生の奴。見境いなく人の闘気を吸いやがって…。」
 道端で拾った枝を杖がわりにつきながら、ぶつくさ文句を垂れたれ、天道家へと帰宅した乱馬。
「ただいまー!」
 そう言いながら、玄関へと入ると、そのまま、二階へと上がった。
 まずは自室として使っている二階の和室の襖を開き、背負っていた鞄を放り込む。その足で、あかねの部屋へと向かう。
 トントンと一応ノックをしてから、中へと足を踏み入れた。
 カーテンは開いているものの、何となく陰気臭い。窓が締め切られているからだろう。
 あかねはまだ、ベッドの上で寝ていた。
「具合はどうだ?」
 扉を後ろ手に閉めながら、問いかけて見る。
「まだ、だるいわ。熱も下がり切らないの。」
 氷枕を背に、あかねは蒲団から顔を出した。確かに、瞳は潤んでいて、熱っぽい顔つきをしていた。
「そーか…。で、医者には?」
「行ってない。」
「何で?」
「何となく。風邪でもなさげだし。」
「喉とか痛くねーのか?」
「うん。朝は痛いと思ったんだけど…今は、何ともない。多分、朝は、乾燥してただけなんじゃないかなあ…。」
「でも、だるいんだろ?」
 コクンと頷いてくる頭。
「お医者様には、熱が下がってから行くわ。」
「おい!それじゃ意味ねーぞ。」
「多分、疲れよ。」
「疲れ?修行のか?」
「だけじゃなくって、夏の疲れとか。」
「年よりじみたこと言うなよなー。」
 そう言いながら、乱馬は窓を開きにかかった。
 ふわっと、カーテンが揺れて、秋風が入って来た。風に乗って、庭の金木犀の香りも一緒に入って来る。この花が咲きだすと、本格的な秋の到来だ。
「閉めっぱなしだと、空気も濁るぜ。」
 まだ、熱があるのだろう。あかねが蒲団を被った。
「寒い…とか言わねーよな?」
 その動作に、問いかける。
「熱があるからかな…。ちょっと、冷える気がするの。」
「たく…。おめーらしくねーな!」
 そう言いながら、あかねの勉強机の前に会った椅子に腰かける。背もたれに掴みかかり、逆向きに座った。キーっと金属製の音がしなって、椅子が少し回った。
「ほれ…。ゆかとさゆりからだ。ここ、置いとくぜ。」
 手にしていたバインダーノートと配られたプリントを、トンと机の上に置いた。
「おめーが休むもんだから、大変だった。」
 ふうっと溜息を吐き出す。
「どう、大変だったの?」
「みんな、勝手に色々詮索しだしてよー。なんか、おめーが体調崩したのは、連休中に俺が修行で無理させたからじゃねーかとか、色々言われたぜ。」
「まあ、当たらずしも遠からじ…じゃない。」
「おい!修行に連れだしたのは俺じゃねーぞ!第一、俺は、反対した訳だし。」
「確かに、反対していたわね。あたしが行くこと。修行するのに、あたしが邪魔だったの?」
 単刀直入に聞いてくる。
「邪魔…つーか…ちょいと、曰く付きの修行場だったんでな。」
「曰く付きの修行場?」
 あかねが問い質すと、ポツンと乱馬は言葉を投げた。
「あの修行地は、かつて、修験道の修行場の一つで…女人禁制だったらしいんだ。」
「女人禁制?」
「日本の山岳信仰の場は、昔から女を寄せ付けないところがあるだろう?今でも奈良の大峰山の一部のように、女が入れない山もあるしよ。」
「あの辺り、そんな女人禁制を強いた修験道の修行場だったの?」
「俺も、人づてに聞いただけだから、詳細はわかんねーんだけど…。かつては、そうだったらしい。富士山なんか、明治時代になるまで、女性は登頂が許されてなかったしよー。訊くところによると、最初の登頂者は男装して登ったらしいぜ。」
「ふーん…。そっか。やっぱり、そういう曰く付きの修行場だったんだ。あのあたりって…。」
 納得したかのように、あかねは言葉を投げると、溜息を吐き出した。
「何か、気になることでもあったのか?」
 乱馬は鎌をかけてみた。あかねが何故、あそこで宙づりになっていたのか。本当のところを知りたいと思ったからだ。
「ま、山なんて大方、女人禁制…みたいなところ、多いじゃない?あそこに限ったことじゃなくって。山も海も女は連れてくな…みたいな…どこもかしこも、修行場と言われるところは、そんな感じでしょ?今は男女平等とか言われて、女を真っ向から拒否するところは少なくなったとはいえ…。大相撲の土俵だって女人禁制貫いているしさあ。そう言う修行場だったのなら、ある程度、女性を排斥しても、仕方ないのかもね。」
「やっぱ、熱っぽいか?おめーが、女人禁制を肯定するなんてよー。」
 思わず、苦言してしまった。普段は、女扱いすると、途端、食らいついてくる彼女は、今日に限ってやけに大人しい。そう思えたのだ。
「別に…。古式ゆかしい場所なんかには、男性禁制のところもあるでしょ?巫女さんなんて、その代表的なものだしさー。」
「まー、そー言われてみれば、そーだけどよー…。ところで…、あいつはどーした?姿が見当たらねーが。」
 乱馬は、部屋を見渡して問い質す。
「あ、ラビちゃんのこと?朝、飛び出して行ったきり、戻って来ないのよ。」
 とあかねは吐きだした。
「あんた、まさか、あいつを追い出したとか。」
 チラッと乱馬を見やりながら、問いかける。
「んな訳ねーぞ!第一、俺が追い出したところで、野良うさぎじゃねーか。すぐ、戻って来ちまうだろーが。」
「それもそーか。」
「戻って来てねーのか?」
「うん…。かすみお姉ちゃんやおばさまに聞いても、戻って来てないって。Pちゃんみたいに、放浪癖でもあるのかしら…。」
 はああっとため息を吐き出された。
「P公の放浪癖…ありゃ、特別だからな。」
「どう、特別なの?」
「方向音痴だし。あいつ。」
「方向音痴って、まるで、良牙君みたいなこと言うのねー。」
「あ…別に良牙と似てるだなんて一言も言ってねーぞ!」
「似てないわよ。良牙君は人間でPちゃんは動物な訳だし。…にしても、あんた、小動物には嫌われるわよねえ。」
 と、また、チンプンカンプンなことを言い始めた、あかねであった。
「はあ?」
「ラビちゃん、あんたのこと、足蹴にしたり、噛みついたりしてたじゃない。まるで、Pちゃんみたいに。」
「知るか!あっちが、勝手に噛みついてきやがったんだ。」
 昨日噛まれたことを思い出した乱馬が、思いっきりしかめっ面を見せた。右手の中指の絆創膏の下に、ラビに噛みつかれた傷があった。そう深い傷ではなかったが、ばい菌を持って居たら大変だと、東風先生のところに引き返して、消毒してもらった。
「もう、戻って来ないのかなあ…。」
「元々、ウチで飼ってたわけでもねーし。飼い主探す手間が省けて良かったんじゃねーのかあ?」
「ポスター無駄になっちゃったね。」
「あれ…貼るつもりだったんだ。」
「当たり前でしょ?」
「ま、それだけ、口が滑らかに動くようになったんなら、ほんとに、疲れただけなのかもな。まだ、熱が下がり切ってねーみたいだから、今日は、道場に立つのは諦めて、ゆっくりしとけよ。」
 あかねの元気が少し戻ったことに、ホッとした乱馬は、そう言うと立ち上がった。
「窓、どうしよう?閉めてこうか?」
「いいよ。空気も入れ換えないと、息が詰まってくるし。それに、金木犀がいい香り、しているから。」
「ま、今日のところや、ゆっくり休め。」
 今朝がたは、黒兎に邪魔されて、行ってきますのキスは、手の甲にしか捧げられなかった。今なら邪魔者は居ない。風邪でもなさそうなので、うつる心配もない。なら、唇に…。
 軽い下心にほだされて、すっとあかねの手を取った。
 あかねも、次に来る乱馬の行動が、瞬時に読めたのだろう。少し、緊張した面持ちではあったが、潤んだ瞳が、乱馬を見つめ返してきた。

 と、ガタガタっと窓の向こう側で、音がした。
 何かが屋根瓦に乗っかったような音。
 ハッとお互い取ったままの手を握りしめたまま、音のした方へと瞳を転じた。
 と、白い塊が、開いた窓から、飛び込んで来るのが見えた。

「わああっ!」
「きゃっ!」

 そいつは、握りしめていた手を振りほどかんばかりの勢いで、窓から二人目がけて、降りて来た。

 咄嗟に、手を離して、薙ぎ払った。
 バウンと音がして、あかねのベッド脇の壁へと、吹っ飛ばされて、張り付居たかと思うと、ズルズルとそいつは、あかねの寝ていたすぐ脇へと壁伝いに落下して、蒲団の上に投げ出された。
 一体、何が侵入してきたのか。恐る恐る、瞳を開く。と、飛び込んで来たのは、白い長い耳。目を回して、うずくまっていた。

「え?うさぎ?」
「今度は…白うさぎ?」

 また現れた、闖入者に、乱馬もあかねも、不可思議な瞳を浮かべて、ただ、ただ、見入ってしまった。



二、

「で?今度はその子が、紛れ込んで来たっていうの?」
 呆れたと言わんばかりに、なびきが白うさぎの方を見やった。
「ええ。今度はこの子が、あかねちゃんの部屋に入って来たんですって。」
 かすみが、抱き上げ乍ら、にこにこと、茶の間に座っていた。
 その隣には、乱馬がムスッとした表情を浮かべて、座卓両方の手で杖をついていた。それぞれの中指に、絆創膏が見える。
「で?あんた…また、噛まれたんだ。」
 クスッとなびきの口元が笑った。
「笑うな!」

 乱馬はムッとしながら、言葉を投げ返した。 

 そう、今度は黒うさぎではなく、白うさぎが飛び込んで来た。




 あの後、あかねの寝床から、そいつを捕まえようと手を伸ばした時に、今度は左手の指をカプッとやられたのであった。
「ってっ!痛えーっ!」
 一瞬の油断から生じた隙。そこに付け込まれて、噛みつかれた。
「あらあら、また、噛まれちゃった。…。ダメよシロちゃん。」
 あかねは、うさぎに対して、そっと声をかけながら、にっこりと微笑んだ。と、うさぎの白い頬が赤らんだように見えた。実際そんな訳ではなかろうが。
「よしよし…。害は加えないから。平気だから、大人しくなさい。」
 老人と子供、同じ年頃の男子、それに加えて、小動物には一定の人気を博するあかねだ。乱馬を噛んでいた口を離し、すっぽりとあかねの腕の中にちょこんと収まった。
「また、うさぎ…。今度は白か?いや、待てよ、この人を小馬鹿にしたような瞳の輝き。おめー、まさか、黒うさぎと同一個体じゃねーだろーな?」
 ジロリと瞳を翻すと、今度は肘をガブリとやられた。
「痛ってー!やっぱり、毛を脱色しただけじゃねーのか?」
「バカなこと言わないで。黒うさぎが白うさぎに変化する訳ないでしょーが!呪泉郷で溺れた訳でもないでしょーに!」
 あかねは乱馬から白うさぎを引きはがすと、そんな言葉を投げつけた。
「うんにゃ、わからねーぞ!この俺様を蔑むような瞳。あいつと、そーっくりだ。」
 その言葉に起こったのか、また乱馬に襲い掛かろうと、あかねの腕の中で白うさぎは、バタバタと手足をばたつかせる。
「そんなに興奮しないで!こいつ、バカだけど、悪い奴じゃないから。」
「おい、こら!そのバカだっつーのは余計だろーが!」
 また、うさぎの乱入で、キスを邪魔された乱馬は、面白くない。
「だって、バカじゃないの。そんなに声を荒げて突っかかるから、敵だって思われるんじゃないのかしらねえ。」
「けっ!いい、根性してるじゃねーか!このうさ公!」
 腕をまくしあげる乱馬を横目に、あかねは、ふうっと溜息を吐き出した。やれやれと言わんばかりに。
「そう言う好戦的な態度が、小動物に嫌われる原因なのよ、あんたは。」
「別に好かれたからって、得なこともねーだろーが!」


 そんな、すったもんだがあったのである。


「で?この子の名前は?」
 あかねから伝え聞いた話をするかすみに、くすくす笑いながら、問いかけたなびき。
「シロちゃんですって。」
 かすみが言った。
「シロちゃんねえ。まんまじゃん。」
「たく…センスね~ーだろ?」
 なびきの言葉に、乱馬がこれ見よがしに、吐きつけた。
「それはいいとして、黒い子が去って、白い子が来た訳か。…偶然かしらね。」
 なびきは思った通りを投げて来た。
「こいつが、あいつの後を受けて、やって来た…とでも言いたいのか?おめーは!」
「あら、案外あり得るかもよ。」
 なびきが軽く言い流した。
「…な、訳ねーだろが!」
「だって、似てるじゃない、黒い子と。」
「やっぱ、かすみさんも、似てるって思ったのかよ?俺も何となく似てると思ったんけど…。」
「バカね…。気のせいよ!ラビちゃんはオスだったけれど、この子はメスだしね。」
 この天道家の天真爛漫な長女が、同意見かと、少しばかり浮つきかけたところを、バッサリと切り捨てるなびきの言葉。
「同じうさぎ属だから、似ててあたりまえじゃん。耳も長いし、目も二つあるし、口は一つで鼻は一つ。うさぎなんてみんな、人間から見たら、同じ顔してんじゃないの?見分けつく?あんたは。」
「からかってんのか?おめーは?」
「ま、同じところから迷い込んだのだったら、親が同じの兄妹ってことも考えられなくもないけれど。色違いの。」
 やはり、体よくからかわれていると思った乱馬は、それ以上、なびきへ言葉を発するのを辞めてしまった。
「で?暫く、ウチで面倒見るの?」
 なびきはかすみへと問いかけた。
「ええ。自ずから飛び込んで来たし、ラビちゃん用にうさぎのエサも買っちゃったのが余っているから。」
 かすみがにこにこと笑った。
「で、P助の皿を使いまわす…んですか。」
 ポツンと言葉を投げた乱馬。
「ええ、衛生上、人間様のお皿を使う訳にはいかないから。」
 かすみはそう言うと、うさぎ専用のエサをカラカラとPちゃん専用皿へと注ぎ入れる、犬猫用をPちゃんに使っているのだ。
(良牙の野郎が聞いたら、泣くぜ…今のセリフ…。)
 そう思いながら、苦笑いを浮かべる。

 こうして、居なくなった黒うさぎの次に、天道家で面倒を見てもらえることになった白うさぎのシロ。

「この子、黒い子より、人に慣れているって感じね。」
 かすみがそんなことをポツンと言ったように、黒うさぎよりは、穏やかな感じに見えたようだ。
「そうね。エサの食べ方もおだやかだわ。同じようで性格は違うのね。やっぱり女の子だからちょっとは穏やかなのかしら。」
 なびきも、そんな風に評した。
「そーか?俺には好戦的なんだけどな…。」
 が、乱馬にはどことなくトゲがある態度を取っていた。
「それは、あれね。あんたが好戦的な態度を取ってるからじゃないの?この子も、やっぱり、あかねにはなついてるんでしょ?それが気に食わないでヤキモチ妬いてるんようじゃ、この子だって、好戦的になるわよ。」
「だから、こいつはメスだろ?ヤキモチなんて…。」
「妬いてないの?これを見ても?」
 ザッと座卓の前に並べられた、写真。
「な…何だこれはーっ!」
 目をひん剥いたのは、当然の行為だった。
 あかねが嬉しそうに、黒は白、それぞれのうさぎを抱く写真がある、もちろん、それだけではなく、様々な写真が並べられたからだ。その中の一枚に、今朝、あかねの手の甲にキスする乱馬の写真まで混ざっていたからたまらない。
「てめー、いつの間に!こんな写真を!デバガメしてやがったのかあっ!」
 真っ赤になって、写真をわしづかみにする乱馬。わなわなと写真を持つ手が震えた。
「あーら、気が付かなかったの?」
「おまえなー!」
「うふふ、いくらで買ってくれる?」
 抜け目のない守銭奴の義姉だ。
「買うかーっ!」
 そう言って目いっぱい否定に走る。

「おおお!やっとあかねと関係を進める気になってくれたのかね?乱馬君!」
「仲良し、結構!大いに関係を進めてよーし!息子よ!」
 背後から父親たちが、その写真を手に取った。

「あんたが買わないなら、お父さんたちに売ってもいいわねー。」
「やめろー!売るな!」
「じゃあ、買って!」
 てっと出される右手。
 買うも地獄、買わぬも地獄。というより、やはり、天道家内では、キスのひとつもできないと、大きな溜息が乱馬から漏れる。
 そんな乱馬の様子を、じっと興味深げに眺める瞳が二つ。シロの瞳であった。



三、

 あかねの夕飯は、少し遅れて、乱馬が持って上がった。
 その後ろに、うさぎがくっついてくる。乱馬には敵愾心を抱いているようだが、襲っては来なかった。乱馬が手を出さない限り、襲うつもりはないようだ。

「おーい!夕飯、持って来てやったぜ。」
 そう言いながら、部屋に入る。
「ありがとー。」
 一日安静にしていたので、少し、元気が出たようだ。
「食ってる間に、枕の氷、かえてきてやるよ。」
 そう言って、氷枕を手に、再び階下へと降りる。その時、うさぎはくっついて来なかった。今頃、あかねがお粥を食べるところでも、観察しているのかもしれない。

 己で水を触るのは、変身しそうでうっとうしかったので、かすみへと、氷を換える作業は頼んだ。もちろん、天道家の長女は、二つ返事でその作業を引き受けてくれた。
「後はお願いね。」
 そう言って、氷が入って、再び冷やっこくなった枕を、乱馬へと渡した。
「はい。ちょっと、熱も下がったって、言っていました。この調子で下がってくれればいいんですけどね。」
「氷枕で肩を冷やさないように、巻いていたタオルも取り換えてね。」
 そう言う気遣いをするのが、この長姉だった。
 同じ姉でも、デバガメ次姉とは全く違う。心からそう思った。

 氷枕を抱えて二階に上がると、あかねは、お粥を懸命に食べていた。

「食欲も戻ってきたようだな。」
 その様子を見て、少し安堵した乱馬だった。
「まーね…。熱っぽくなくなってきたから、食べ物も苦みがなくなったわ。」
「そっか…熱っぽいと、苦みが出ることもあるのか。」
 あまり、熱に見舞われない乱馬は、そんな言葉を返した。たとえ熱があっても、この男は食べる。食欲がなくなる…という経験は無いに等しい。
「どら…。」
 あかねが食べ終わると、おでこへ手をぴたっとくっつけてみた。あかねの紅顔がすぐ目の前で揺れる。
 額から感じる熱は、確かに、少し冷めたような気がした。
「後は、ゆっくり眠れば、明日は学校行けそうだな。」
 と吐きだす。
「朝になってみないとわからないよ。体力あるかどうか、わかんないし。」
「おめーらしくねーな…。」
 そう言いながら、持って来た、アルコール消毒布を取り出すと、己の手を拭き始める。そして、東風が処方してくれた、塗り薬へと手をやった。
「乱馬?」
「消毒して、包帯、かえてやるよ。」
「自分で、できるわよ、そのくらい。」
「おめーがやると、寝てる間に解けるぜ。ほれ、昼間自分でやっただろ?もう、めちゃくちゃに絡まってるじゃねーか!」
「あ…。」
 あかねの不器用は、健在だ。自分で自分の手に包帯を巻くのは、器用な人間でもやり辛い。ましてや、利き腕では無い方を使うのだから、余計にだ。
「東風先生ほどうまくはできねーかもしれねーが、おめーがやるよりはいいと思うぜ。」
 そう言いながら、軟膏を塗って行く。
「ちょっとは、痛み引いてきたか?」
「うん…。少し腫れも引いたような気がするわ。」
「やっぱりその熱…この傷から来てんじゃねーだろーな?」
「違うと思うよ。」
「ま、いいや。」
 乱馬はあかねより器用だ。ゴツゴツとした男の手。その手のぬくもりが、あかねには一番の薬になるのではないかと、思えてくるほどだ。
 みるみるうちに、包帯に包まれていく、傷。
「っと…早く良くなるようにおまじない。」
 そう言って、再び取った手。と、少し、呼吸を飲んで、辺りをキョロキョロと見回した。
「何、やってるの?」
 不思議そうにあかねが尋ねてくると
「あ…その、デバガメ女がカメラ抱えてねーかって…。」
「はい?」
 しこたま、なびきにデバガメ写真を撮られて揺すられた…など、あかねに言える訳は無い。
「ま…いーや。別に後ろめたいことしてる訳じゃねーし。」
「はあ?」
「ほれ、おまじない。」
 そう言って、己が巻いた包帯に、唇をスッと寄せた。
 本当は、このまま、唇を奪いたい。でも、なびきがデバガメカメラを仕掛けていたら、面倒だ。そう思って、我慢した。まだ、気軽に唇を合わせられるほど、心の距離が縮まった訳ではない。そう自分に言い聞かせた。
(唇を合わせるのは…もうちょっと先まで、お預けだな…。まだ、進路に結論を出した訳でもねーし…。)

 スッと手から唇を放すと、シロと目が合った。何をしているの?と言いたげな瞳が、こちらを見つめて来る。

「ここにも、デバガメがいやがったんだっけ!」
 ふうっと漏れる溜息。

「ねえ、乱馬?」
「あん?」
「夕方、言ってたこと…少し、教えてくれないかな。」
「夕方言ってたこと?」
「うん…。今回籠った、修行場のこと…。ほら、女人禁制だったとかいう、あれ。」
「ああ…あれか。」
 ベッドサイドに腰を下ろして、あかねへと向き直る。
「その…修験道の修行をしていた人から聞きかじったことでもいいわ。」
「気になるのか?」
「うん。」
 頭が縦に小さく揺れた。その反動で、カランと氷枕の氷が動く音がする。
「最初に言っとくが…。ガキの頃に聞きかじった話だからな…。俺の記憶も定かじゃねーぞ!いーか!気にするなよ!聞いたら、とっとと忘れろよ!」
 少し内容に躊躇いを持っているのか、そんな言葉を乱馬は吐きつける。あかねが気に病むタイプの娘だということは、今までの付き合いの中でわかっている。故に、そう前置きで念を押したのだ。

「あれは、中学生になるかならないかの頃のこと…だから、五年くれー前のことだけど…。
 修行場であの辺にテント張って修行していた頃、あの辺りを塒(ねぐら)に修験道修行しているというおっちゃんに、たまたま、遭遇してよー。丁度今頃だったか。でも、天候が物凄く荒れてたんだ。台風が来ていたのかもしれねーけど。」
 乱馬は淡々と話し始めた。
「修験の山にはそれなりの山小屋があったりするだけど…。あそこの山にもいくつかそういう山小屋が備わっててよー。その一つに潜り込んだら、先客が居てさ。それが、山伏姿のおっちゃん…まあ、六十歳前後かな…修験行者が居て、あの辺りの伝わる、昔話を退屈しのぎにしてくれたんだよ。」
「昔話?」
「ああ…。かぐや姫の伝説をな。」
「かぐや姫って、あの、『竹取物語』の?」
「そうだぜ。俺たちが良く知る、おとぎ話とちょっと話の筋が違ってたけど。」
「違っていたの?」
「一般に知られているのは、竹から生まれたかぐや姫が美しく育って、それを見染めて何人かの男に言い寄られて、結婚するのが嫌だからって、無理難題難癖つけて拒否していく話…だっただろ?」
「まあ、ザッと説明すればそうだわよね。」
「最後に帝(みかど)に見初められて、結婚したいと詰め寄られた時、実は私は人間じゃありません…月から来た天人で、とある罪のせいで、ここへ流されましたって告って、有無も言わせず、月世界へ帰って行く…そんな話だったろ?」
「あんたが、説明すると、情感も何も無いけど…確かに、大雑把には、そう言う話だわよね。」
 乱馬的な解釈に、少し苦笑いを浮かべながらも、あかねは頷いた。
「まあ、細かい事は、差し置くとしてだ…。あの辺りに伝わっているのは、ちょいと内容が違うんだってよ。」
「あの辺りって?」
「富士山の裾野辺りって言ってたなあ。富士山は、今でこそ活動を休止しているけれど、一昔前までは現役で火を噴き上げてたんだろ?」
「ええ。三百年くらい前だったかしら。最後に噴いたのは。」
「噴煙を噴き上げるから、不死の山…とか呼ばれて、有史以来、崇められる山だったってーのも、理解できるよな?不老不死と大きな関わりを持っていたのも、わかるよな?」
「うん…で?」
「その…。あの辺りには、かぐや姫は月ではなく、不死の山…つまり富士山へ帰って行った…という伝承があるんだとー。」
「月じゃなくて、富士山に戻ったの?初めて聞いたわ。第一、かぐや姫って天上人じゃなかったっけ?」
「まあ、イメージからすると、天から来たお姫様…だけどよー。修験行者のおっちゃんによると、かぐや姫の伝説って、そこかしこに残っていて、伝わる土地によって、若干、話が変わってくるんだそうだ。まあ、かぐや姫に限らず、浦島太郎だって、桃太郎だって、瓜子姫だって…語り継ぐ地域によって少しずつ違うらしいんだけどよー。」
「じゃあ、月に帰還しなかったかぐや姫は、どうしたの?」
「不死山に帰って行ったかぐや姫を追って、帝も不死山に登って、二人、泉に入水して命を絶った……なんてバリエーションの話だったな。俺がおっちゃんから聞いたのは。」
「へええ…。初めて聞いたわ。」
「だろ?俺も、へっ、てなったくれーだからな。で、修験行者のおっちゃんが言うには、その時、最後にかぐや姫が身を投げた湖の名が、宇宙湖(うつのうみ)っていう湖なんだそうだ。」
「あ…この前、帰り道にチラッと話してくれた、湖よね…。それって。」
「ああ。今は地図にも載らない、幻の湖で…。実際に、あの修行場辺りに湧いていた…とも言われているんだ。
 有る伝承では、宇宙湖に身を投げても、永遠の命を持つかぐや姫は死ななかった。けれど、帝は息絶えた。そのことを嘆き、かぐや姫は月へと戻っていったそうだ。その後、宇宙湖は枯れ果ててしまったらしい。
彼女の涙が、愛する男の儚い死で枯れ果ててしまったからだというんだ。そして、心に深い傷を負って失意のままま、かぐや姫は天へと帰って行った…なんて結末の話もあるんだとよ。」
「そうなんだ…。ちょっとかわいそうな話ね。」
「永遠の命とはいかないまでも、天上人の年数が長ければ、人の一生なんてあっという間のものなんだどうけれど…。この話、まだ続きがあるんだよ。」
「どんな続き?」
 あかねが身を乗り出して、乱馬へと問い質す。
「宇宙湖のあった辺りは「禁足地」として、立ち入りが制限されたそうだ。特に、女性は近づいちゃならねーんだってよ。」
「なんで?」
「宇宙湖が、かぐや姫を、もう一度、この地に降臨させたいという願望を持っているからだそうだ。」
「湖が思考なんて持つわけ?」
「おっちゃんが言ってた話だからな。詳しくはわかんねーけど。一人残された帝がかわいそうだとか、かぐや姫がまだ己の罪を浄化していなかったのを許せなかったとか…宇宙湖が思ったそうだ。」
「己の罪の浄化?かぐや姫って罪を償えたから天上から迎えが来たんじゃなかったっけ?」
「だから、俺の知ったこっちゃねーって…。」
「でも、そう言えば、かぐや姫の犯せし罪って、『竹取物語』の本文にも結局、言及が無かったわよね。『竹取物語』の最大のミステリーなんて言われているしさー。…で?話を戻すけれど、何故、禁足地に女性は近づいちゃいけないの?」
「女だと、宇宙湖が、かぐや姫を再び招こうと狙って置いた「壺」に食われるからだそうだ。」
「壺?」

「不老不死の薬を作る製造機らしいぜ、その壺は、若い女性…まだ男を知らない生娘(きむすめ)だけを引きずりこんでは、食らって、不老不死の薬を作るんだとよ。おぞましいよな。不老不死の薬の材料が生娘だなんてよー。」

 乱馬の言葉に、あかねの心音がトクンと鳴った。
(もしかして…。あの時、引きずり込まれそうになった岩って…その話と関係している?)
 あかねの身体に絡まったつる草は、人造物へと変化し、確かに、あの岩の割れ目へと、あかねを引きずりこもうと蠢いていた。しかも、得体の知れない女性の声がしていた。割れ目は女の怪物の住処で、そこに己を引きずりこもうとしていた…。そん考えられる。
 乱馬が間一髪で飛び込んでくれたため、難は及ばなかった。女性の声もいつしか聞こえなくなっていたし、電線に変化したつる草も、元に戻っていた。
 あの時の状況を思い出して、少し顔が青ざめたあかねだった。あの時に感じた恐怖。まだ、生々しく、彼女の脳裏に残っていた。

「その壺が若い女性の生気で満ちたら、不老不死の薬ができあがって、それにつられてかぐや姫が再びこの地に降りて来る…らしいぜ。壺に満ちた、不老不死の薬を取りにさー。」
「そんなこと、あり得るのかしらね。」
「さあね…。でも、おじさんの話によると、実際、昔から、禁を破って、山に分け入った何人かの娘が、あの修行場び近くで遭難したらしくてよー。そんな、話を聞きかじってたから、おめーを連れて、あの山に修行に入るのは、嫌だったんだよ。俺は。」
 と、乱馬は早口で言った。
「まあ、結果、何もなかったけど…。でも、怪我しちまっただろ?」
 それに対して、返答は無かった。
 急に黙り込んだあかねに、さすがの乱馬も気が付いたらしく、「どーした?」と声をかけてきた。
「ごめんなさい…。夜風が冷たくなって来ちゃって。また、熱が上がったかなって。」
「そりゃ、大変だ。」
 乱馬は、慌てて、窓を閉める。確かに、日暮れて、吹いてくる風もひんやりとし始めている。半袖では、肌寒いくらいだ。
「ごめん…。やっぱ、刺激が強すぎたかな。この話。」
 乱馬は少し頭を下げた。

「大丈夫…体調が悪いだけだし。あ、でも、そんな話聞いちゃったら、ハートの湖、もう行けないわね。あの辺が禁足地だったらたいへんだもの…。湖の主に食われたくないし…。あたし。」
 明るく、あかねが言い放った。
「それは大丈夫だよ…。食われるのは、若い生娘だけだって、言ったろ?」
「それって、どういう意味?あたしだって、若いわよ!」
「だから、生娘じゃなくなってから、行ったらいいってことだよ!」
「生娘じゃなくなってからって?」
「これ以上俺の口から言わせるな!ニブチン!」
 そう言い放つと、乱馬はベッドから徐に立ち上がった。
 生娘でなくなる…つまり、結婚してから後に…ということを示唆したのだった。が、このニブチンは気付いていないようだ。
「さてと…。俺、ひと汗流してくるわ。夕方の稽古、すっ飛ばしちまったし。ちゃんと毎日身体を動かしておかねーとな。」
 そう言って、あかねの食べ終わった食器が乗ったお盆をを持つと、そそくさと、部屋を出て行ってしまった。相変わらずの晩熟の乱馬だ。キス一つも残さない引き際。否、残してくれたのは、まじないのキス。

 
「人を食らう壺…か。壺じゃなくて、あれは、岩だったけれどね。それも、多分…機械仕掛けの。」
 乱馬が立ち去ってしまうと、あかねは、ふと、そんな言葉を吐きだした。

 と、白うさぎの耳がその言葉に反応した。ピクンと耳が、立った。

「明日は、熱が下がっているといいな…。」
 そう言うと、すっぽりと布団へと潜り込んだ。



つづく



  諸説ありますが、『古事記』の垂仁天皇の妃、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売」(かぐやひめ)の記述がかぐや姫のモデルになっていて、「山城国綴喜郡(京田辺市周辺)」辺りが物語を編んだ作者の舞台設定という捉え方が主流になっています。調べてみると、結構面白いです。
 この作品の舞台は山梨側。富士五湖の周辺を比定してあります。が、実際、かぐや姫の伝説が残っているのは、静岡県側です。富士市辺りでは、かぐや姫は富士山に消えたことになっているそうです。
 確かに、『竹取物語』の終盤に、富士山の名前の由来のくだりも出てくるので、富士市に伝わる竹取伝説も物語の成立にかかわったことを匂わせます。
 宇宙湖(うつのうみ)は山梨県側の忍野八海辺りの古伝承に存在する、枯れた湖から引っ張っています。(実在は疑われているようでありますが。)
 もちろん、拙作には、「なんちゃって創作話」もそれらしく混ぜておりますゆえ、全面的に信じないようにお願いします。

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