サイレントムーン
第二話、黒うさぎ



一、
 
「うーん…。」
 東風はあかねの右腕の傷を見るなり、腕を組んで唸った。
「あの…。先生…何か?」
 あかねは、上目遣いで東風を見上げた。
「これ本当に、植物でついた傷なの?」
 あかねの右腕の裂創を見ながら、東風のメガネが少し光ったような気がする。
「え…あ…。はい。この前、乱馬たちと山へ修行に入った時、つる草を掴んで、その時についた傷ですけど…。」
「つる草を掴んだ時ねえ…。」
 包帯を解くと、肘から手首にかけて、赤く爛れた傷が痛々しく浮かび上がってきた。掌にもポツポツと傷があった。

 山から帰って三日過ぎた。山で受けた腕の傷が、中々治らないあかね。
 かすみに常備薬を塗って貰い、包帯を巻いて様子を見ていたのだが、一向に治る気配を見せない。それどころか、ジュクジュクと傷口が湿ってきた。膿んでは大変だと思い、学校帰り、東風の診療所へ立ち寄ったのであった。
 東風は整体師だ。骨や筋肉の不具合を診るのを専門にしていたが、怪我の類も診察してくれる。西洋医に診てもらうよりも、慣れた東風先生がいいと、立ち寄ったのである。
 あかねの後ろには、乱馬が、ちょこんと立って居た。気になって、ついてきたのである。

 山中の一件以来、再び、二人の距離は縮まっていた。進路を巡って少しばかり険悪になっていたムードも氷解し、元に戻りつつあった。いや、また、少し、心の距離が近くなったかもしれない。

「木や草を不用意に掴んだら、擦り傷や切り傷ができるのは、特に不思議ではないのだけれど…。」
 メガネを片手に、舐めるようにあかねの肘から手首を眺めて、東風は、首をひねった。
「何か納得いかねーところでもあんのか?東風先生。」
 衝立の横に立ったまま、乱馬が声をかけて来た。
「あいや…。つる草でこんなに激しい傷ができるとは、思えなくてね。本当に、つる草だったのかい?有志鉄線なら、まだ、納得がいくんだけれど。」
 東風は乱馬へと声をかけた。
「有志鉄線みてーな、物騒なもんは、あの山にはねえよ。それに、俺が助けに入った時は、腕とその寸胴に、つる草が奔放に巻きついていたんだぜ、先生。」
 乱馬が言葉を投げた。
 「寸胴」という言葉を使われて、カチンと来たあかねが、ふんぬっと左腕で肘鉄を食らわせた。
「痛ってーな!何しやがる!」
 わき腹を抱えこみながら、乱馬はあかねへと怒声を浴びせかけた。
「寸胴じゃなくて、胴体!あんた、言い方間違っているわよ!」
 鼻息を荒げながら、あかねが言った。
「てめーは寸胴だから寸胴で、いいんでーっ!」
 鼻息と共に吐きだす、きつい言葉。
「何ですってぇ?」
 再び、痴話喧嘩の風が吹き荒れ始める。

「あ、ほらほら、あかねちゃん、暴れたら治療できないよ。それから乱馬君も、あかねちゃんは患者さんなんだから。あんまり、刺激するようなことは言わないでね。」
 たははと笑いながら、東風は、二人の間に仲裁に入る。
「まあ、乱馬君も見ていたんなら、つる草が原因の傷なんだろうけど…。でも、正直言うと、つる草なら、こんな、えぐれた刺し傷は出来ないと思うんだ。棘があっても、ここまで深く、差し込まないよ。まるで、動物にでも噛み疲れたような、深い刺し傷がここにあるだろう?」
 あかねの腕を指さしながら、そう言った。深い傷が一つ。肘の真ん中にあった。そのあたりを中心に腫れあがっているようだった。
「おまけに、擦り傷や切り傷や刺し傷だけじゃないなんだよね。」
 脇に置いてあった薬剤の蓋を開けながら、東風は再び、傷について言及を始めた。
「擦り傷や切り傷や刺し傷だけじゃねえって?」
 あかねの脇から、乱馬の方が言葉を継いだ。
「熱傷…つまり火傷(やけど)のような傷もあるんだよ。」
「火傷ねえ…。」

 二人の会話を真横で聞きながら、あかねはグッと唇を結んだ。思い当たることがあったからだ。

(この傷…やっぱり…。)
 この傷をつけたのは、つる草ではない。最初と最後こそ、つる草の形をしていたが、絡みついて引っ張られたとき、確かに、電線ケーブルのような人造物に取って変わっていた。そして、あかねが、気を浴びせかけて引きちぎろうと思った瞬間、電撃のような攻撃を仕掛けてきたのである。東風が「火傷のような傷」と言ったのは、恐らくその時につけられたのだろう。
 故に、東風が不思議がるのは、当然なのだ。さすがに、東風は名医である。あかねの傷が、不自然なことにすぐさま気が付いたようだ。
 が、本当のことを、ここで打ち明けるのは、はばかられた。それは、乱馬が傍に居たからである。
 割れ目に引きこまれそうになった刹那、助けに入ってくれたのは、まさしく乱馬であったが、彼には、つる草しか目に映らなかったようだ。ということは、彼が飛び込んで来た時、人造物は形状を再びつる草に戻していたことになる。
 たとえ、ここで、あかねが受けた攻撃や理不尽なことを、一部始終を話したところで、寝ぼけていたんじゃねーのか…と、あしらわれるのが、関の山だ。実際に、その電線を、乱馬が見たのではないのだから。それに、女性の声はあの後、ぴったりと止んだ。岩も何の変哲も無い、普通の岩に戻っていたし、機械仕掛けでは無く、ただの岩だった。
 あれは、きっと、幻だったのだ。霧の中で見間違えたか、幻聴を聞いたか。そう、思えてきた。
 となれば、あくまで、「つる草を掴んだ時に出来た傷」だと押し通した方が、丸く収まる。そう思った。

「無我夢中でつる草につかまったから、途中、ズルズルって。多分、その時にこすっちゃって、火傷みたいな傷になったように思うんですけど。先生。」

 あかねは東風へと言葉を継いだ。

「なるほどね…。摩擦で火傷が生じることは、充分にありえる話だね…。」
 東風は、ピンセットで綿をつまむと、さっき開けた瓶の溶液を浸し、あかねの腕へと、ササッと塗っていく。
 フンと鼻をつく消毒液の臭い。
「つっ!」
 液が、深い傷に触れた時、軽い痛みが走った。
「握った時に摩擦で傷ついたのなら、掌が一番、爛(ただ)れていそうなものなのに、実際は一の腕…しかも肘に近い辺りが一番ひどい。やっぱり、気食わないなあ…。本当につる草だけでついた傷なのかなあ、これ…。」
 東風はそんな言葉を吐きだした。やはり、この名医は、あかねと乱馬の状況説明だけでは、納得がいかないらしい。
「あたしも無我夢中だったから、詳細は覚えていないんですよ、東風先生。」
 と笑いながら誤魔化したあかね。
「何に無我夢中だったの?」
 少し好奇心を持った瞳が、疑問を投げ返して来た。
「ちょっと…鬼ごっこ。」
「鬼ごっこ?山の中でかい?誰とやってたの?…それ、もしかして、乱馬君?」
「ええ、乱馬とです。」
 軽く言い放った。と、東風の目が丸くなった。
「乱馬君…君(きみ)、あかねちゃんと二人で、そんなこと、この連休に、山の中でやっていたのかい?まさか…この傷って…あかね君をつる草でからめとって…。」
 何となく、何かを誤解している雰囲気が、東風に漂い始めた。
「でええっ!先生、何か誤解してるだろ?言っとくけど、そんな怪しげな趣味、俺は持ち合わせてねーぞ!」
「先生!あくまでも修行の一貫ですから!鬼ごっこも!」
 あかねも、真っ赤になりながら、言い返す。
「修行もいろいろあるからねえ。」
 ニヤッとメガネの下の瞳が笑った。

「だから、違う―っ!」「だから、違いますーっ!」

 二人の声が仲良く診察室に響き渡った。




「たく…。何てこと、妄想するんだよ、東風先生!」
 ぶつくさ言いながら、フェンスの上を歩く乱馬。
 その下をあかねも、同意しながら歩く。その腕には真新しい包帯が巻き付けられている。
「ホント…。修行中のアクシデントだって言ってるのに!」
「まだ、いくら何でもそこまで関係が進んだ訳でもねーのによ。」
「あら、関係が進んだら、そう言う遊びをやりたい…だなんて思ってるの?乱馬は。」
「バッ!バカッ!からかうなっ!」
 真っ赤になりながら、否定に走って来る乱馬。
 そう、乱馬は純情なのだ。あかねという許婚がいながら、全く手を出そうともしない。両想いだと知れていても、未だ、スキンシップすら求めてこない。
「もしかして、おめー、そういうの…望んでたりするのかよ?」
 少し間をあけて、そんな言葉を落として来る。
「バカ言わないで!望んでいる訳ないでしょー!まだ高校生よ、あたしたち!」
「そうなんだよな…まだ、高校生なんだ。今は…。でも…。」
 ふっと溜息を吐き出して、フェンスの上で立ち止まった。ズボンの両手に両手を突っ込んだまま、夕焼け空を眺める。少し尖った月が、西の空へと浮かび上がっている。太陽の残照を受けて、月まで真っ赤に染まりそうたと思った。
「乱馬?」
 急に黄昏(たそがれ)て、押し黙ってしまった乱馬を、不思議そうに見上げる。その視線の先に、三日月がうつりこむ。
「まだ、親の庇護の元に居る俺たちだ…。でも、半年後は違う。新しいステージへと確実に上っていなければいけねえ…。それも、親の庇護から完全に抜け出せなくても、最低限抜け出すための準備はしておかなきゃならねえ…。でも…。まだまだ、俺たちは…いや、俺は…非力だ。」
 乱馬がどうにかなったのかと、思った。
 彼の真面目な呟きを、初めて聞いたからだ。
「なあ、おめーは、この先、どうありたい?例えば、これから半年後。」
 真摯な瞳が、フェンスの上からあかねを眺めてきた。
「半年後って…三月…だから、卒業前後よね。…進学先を決めていたいわ。」
「そっか…おめーは進学希望だっけ。」
「じゃあ聴くけど、乱馬は?」
 逆に同じ質問を投げてみた。
「…俺は…。まだ、決めてねーよ。決めかねて迷っている…それが正直なところさ。でも…。」
 乱馬はフェンスの上で、あかねへと向き直った。それから、あかねの視線に近づくために、わざと腰を落とした。
 そして、ゆっくりと、語りかけた。真摯な瞳をあかねに手向けて。
「どんな未来に向かって歩もうとも、俺は…おまえと…。」

 だが、その先は言葉にできなかった。
 
 いきなり、佇んでいたフェンスに向かって、猛スピードで駆け抜けてくる黒い塊が目に入ったからだ。

 ゴッツーン!

 そいつは、乱馬のすぐ下のフェンスに、突っ込んで弾けた。余りに勢いが強かったのだろう。反動でフェンスが大きく揺らいだ。
 全身全霊を、あかねへ紡ぎ出す、告白めいた言葉へ傾けていた乱馬だ。普段なら難なく身をかわせたろうが、今回は易々と…という訳にはいかなかった。

「え…?あ…。わ…わわわわ…わあああっ!」
 珍しく、乱馬はそのまま、フェンスの上から落下してしまった。無様にも態勢を立て直すこともできず、尻もちをつく。

 ズン!
 ドッスーン!

 落下音は二つ。フェンスに激突した黒い塊と、それに弾き飛ばされた乱馬。

 その二つが、あかねの足元に同時に転がった。
 幸い、あかねとの衝突だけは、免れたが、大事な言葉は、そのまま、喉の奥に飲み込まれてしまった。
 この状態で続きの言葉を紡ぐのは、無理というもの。
「てて…いてててて…。」
 照れ隠しも何もあったものではない。ロマンチックな場念が一転、情けないギャグマンガ的な状況に変化してしまった。
 すぐ上で、あかねが笑いを堪えている様子がありありとわかった。だから尚更、性質(たち)が悪い。
「大丈夫?」
 と言いながら、くすくすと笑っている。
「一体、何だ?何が飛び込んできやがったんだ?」
 上体を起こしながら、乱馬が脇を見ると、すぐ側に、黒い物体が転がっているのが目に入った。べちっと地面にめり込んでいる。
「これが勢いよくぶつかったのよ。」
 あかねは、その黒い物体へと、恐る恐る、手を差し伸べる。毛むくじゃらのそれ。明らかに獣の形を成している。
「おい…。待て…そいつ…まさか、猫…じゃあるめーな?」
 猫が苦手な乱馬が、及び腰で覗き込む。
「猫…かもしれないわね…。」
 あかねはその塊を、ひょいっと両手で掴むと、抱き上げた。
「にゃーん!」
「ぎええええっ!」
 ザザザっと地面に尻をくっつけたまま、後ずさる乱馬。涙目になっている。
「なーんてね…。猫じゃないみたいよ。この子。」
 あかねが笑いながらそれに対する。が、乱馬は呆然自失で、固まっている。
「もう…。良い漢(おとこ)が、何てザマしてるのよ。猫じゃなくて、うさぎよ…この子。」
 あかねは目を回している小動物を乱馬へと見せながら、笑った。
「う…うさぎ?」
「ええ…。ほら、耳も長いじゃない。」
 それは、毛並みが真っ黒なうさぎだった。
「うさぎが何で、こんなところに…。」
 猫では無いことが判明すると、たちどころに平常心に戻った乱馬。すっと、うさぎへと手を出すと、カプッ!手の甲に噛みつかれた。
「でえええっ!何しやがる!痛いじゃねーか、この野郎!」
「あ…こら、不用意に手を差し出すからよ。それから、やめなさいって。うさぎに絡むのは!」
「良い根性してんじゃねーか!この野郎!」
「だから、やめなさいって、みっともない!」

 秋の夕暮れの道端に、乱馬とあかねの怒号が、しばし、響き渡っていた。




二、

「で、連れて帰って来ちゃったの?この子を。」

 縁側でファッション雑誌を広げながら、なびきがあかねへと問いかける。
 そのそばには新聞紙が広げられ、Pちゃん専用のお椀の中に入れられた、エサをせっせと口を動かしながら、がっついている黒いうさぎの姿があった。

「うん…。どこから来たかもわからないし。放っておくのも、かわいそうだったから。」
 あかねは、テーブルの上で、何やら作業をしながら、姉の質問に答える。手にはマジックを持っていた。
「で?乱馬君はしかめっ面をしているけれど…。」
「ああ、あれね。バカだから、不用意に手を出して、噛まれちゃったのよ。」

 ムスッと横一文字に口を結んで、胡坐をかきながら、うさぎを睨みつけていた。
 左手には真新しい包帯が巻かれてある。

「ちゃんと消毒はしたの?」
「ええ。すぐ、東風先生のところに取って返して、きちんと消毒してもらったから。」
「へえ…。」
「で、ついでに、うさぎの飼い方の基本も、教わってきたわ。」
「うさぎの飼い方の基本?東風先生が知っていたの?」
「まあね。うさぎを飼っている患者さんが居て、処置するときに教えてくれたんだって。」
「なるほどねえ。…ってことは、飼うつもりなの?」
 なびきが物好きねと言わんばかりの瞳を、あかねへと手向けた。
「毛並みもそんなに汚れていないし、飼われていたのが、どっかから逃げ出して来たと思うから。飼い主が見つかるまで、世話するわ。」
「で、お尋ねのポスターを書いている訳なのね。」
「そーよ!書けたわ!どう?ラビちゃんに似てるでしょう?」
 出来上がったポスターを、披露がてら、持ちあげて見せる。
「一枚はウチの門に、それからもう一枚は東風先生のところに貼って貰うの。素敵でしょ?」
 何が素敵だかよくわらからないが、あかねは一人、上機嫌だ。
「なかなか、よく書けているとは思うがね…。」
「文字はね…。」
 早雲と玄馬が、苦笑いを浮かべながら、それに応えた。
「…たくぅ…。遠慮せずに、はっきり言ってやれよ!そのぶっ細工な絵は、うさぎに見えないってよー!」
 脇から乱馬が乱暴に言い放った。噛まれた恨みつらみも若干入っている様子だ。
「ぶっ細工とは何よ!失礼な!」
 ポカンと乱馬の頭を殴りつけた。
「どう見たって、黒豚だぜ、その絵。P助にそっくりじゃん。」
「Pちゃんとは違うわよ!耳、長いでしょう?」
「それ…耳だったのか、ヒゲかと思った。」
「バカ!耳よ、これは!」
「どーみても、頬っぺたからヒゲ生えてるようにしか見えねーんだが…。」
「ヒゲじゃなくて耳!耳なのわかる?」
「耳って線か?」
「もーいいわ!」
 あかねはプンプン怒りながらマジックと色鉛筆を片づけ始めた。
「それから…その、ラビちゃんって、何、勝手に名前つけてやがる。飼い主が見つかったら怒られるぜ!」
「ウチに居る間だけの呼び名よ。ウチにいる間だけ、ラビットのラビちゃんって呼ぶの!可愛いでしょ?」
「だあああ!どこが可愛いんだよ!センス無さすぎるぜ!」
「つべこべ言うな!」

 後から気が付いたが、黒子豚に「ピッグのPちゃん」と名付けたのと、同じ流れを汲んだ「ラビットのラビちゃん」であった。

「あーあ…。また喧嘩が、おっ始まってしまったね…早乙女君…。」
「秋山修行の時、怪我したあかね君を負ぶさって帰って来て、暫くは、いい雰囲気が続いていたと思ったのにね、天道君。」
 二人の痴話喧嘩を傍目に、父親たちの口から、大きな溜息が漏れた。

 あかねはともかくも、乱馬が不機嫌なのには、理由があった。
 もちろん、出会い頭に手に噛みつかれたこともあるが、何より、フェンスの上から、あかねに、一大決心しないと、かけられない言葉を紡ごうとした刹那を、こいつの乱入で見事にふいにされてしまったことに、憤りを感じていたからだ。
 どんな未来へ進もうとも、あかねと一緒に居たい。あかねと共に、未来へ一歩を踏み出したい。
 その強い想いを言葉へ乗せようと、決意していたからだ。
 この決意は、あの秋山修行のアクシデントに端を発している。あかねを守ること、それが己に課せられた一番の命題だと、気付かされた乱馬だった。あの時、差し出した手が少しでも遅れていたならば、あかねは落下して、あの大岩にぶつかり、大怪我をしていたかもしれない。そう思っただけで、心が震えた。
 呪泉洞でのサフランとの闘いで、一度あかねを失いかけた。あの時の慟哭の記憶が、一瞬、脳裏を過ぎったのだった。
 あかねを失うこと…それは、一番の苦しみとなることを、思い知らされた、呪泉洞の闘いだった。
 あかねが居ない世界で、生きることなど、考えたくもなかった。いや、あかねが居ない未来はあり得ないとまで、思って居たのだ。
 十八歳の秋。人生の分岐点は容赦なく近づいている。進学するにしても、すぐさま格闘界へ足を踏み入れるにしても、隣にあかねが居なければ、無意味だ。ならば、共に生たいという意志表示だけでもしておこうと、決意したのである。

 なのに…見事に横槍を入れられた。この小さな生き物に。
 もちろん、このうさぎが故意に邪魔した訳ではないことは、乱馬も理解している。こいつに怒りをぶちまけること自体、無駄なことも、重々承知だ。だが、邪魔をされたという事実が、どっかりと肩に圧し掛かって来る。
 こうなってしまえば、暫くは、あかねに「告白」するのは、無理だろう。
 この先、あかねに己の気持ちをきちんと告げられるのはいつになるか…。情けないということなかれ。これが、この、優柔不断、かつ、照れ屋の乱馬の限界なのであった。
 気持ちが萎えてしまった分、ラビちゃんと呼びながら、無邪気に笑うあかねが、恨めしくさえ思う。

「おめーさー…。今、ここにP助が居ねーからいいものを…。あいつがフラッと帰って来たら、どーすんでー?絶対、傷つくぜ。」
 そんなイジワルな言葉を投げる。
「そー言えば、長い間、Pちゃん、見ないわよね。この前居たのいつだっけ?お姉ちゃん、覚えてる?」
「覚えてる訳ないでしょ…。まあ、夏休み期間、半月ほといたような気はするけれど…。」
 あかねとなびき、二人して小首を傾げる。
「えっと、八月の末、一週間くらいかしらね。Pちゃんが居たのは。」
 かすみがニコニコと笑いながら、茶の間へと入って来た。
「さすが、覚えてるんだ、お姉ちゃん。」
 なびきが、チラッとかすみを見上げた。
「そーいや、八月の末、また、良牙が難癖つけてきたっけ…。」
 ぽそっと乱馬が吐きだした。
「良牙君とPちゃんは関係ないでしょ?」
 この、ニブチンあかねは、良牙とPちゃんが同一人物だとは、全く思って居ない。
「いや、案外、良牙とP助が姿を現した時を、カレンダーにでもつけておくと、おもしれー統計が取れると思うぜ、俺は…。」
「そんな意味のないこと、やんないわよ!バカみたい!」
 そう言うと、あかねはうさぎを、そっと持ち上げた。
「おい…どこへ行くんだ?」
「お風呂よ。連れて帰って来た時、タオルで軽く拭いただけですもの。ちゃんと石鹸で洗ってあげなきゃ。」
「って…うさぎって入浴しても大丈夫なのかよ。」
「平気じゃない?」
「平気って…。もし、こいつが、呪泉郷に溺れた奴だったら、どーすんだよ?」
「は?兎溺泉でもあるっていうの?」
「現にP助だって…。」
と言いかけて慌てて口を押えた。
(っといけねー!)
 良牙とPちゃんが同じだという秘密は、あかねにはばれていないので、これ以上触れるのは禁物だ。慌てて、言葉を別方向へ持っていった。
「だってよー、そいつ、オスなんだろ?いいのか?オスと一緒に風呂に入って。」
「馬鹿も休み休み言いなさいよ。オスだからって、あたしがお風呂に入れちゃまずい理由が聞きたいわよ。もー!」
「わかったよ、好きにしろ!」
「するわよ!…っと、ラビちゃん、ちゃんと洗ってあげるから。今夜は一緒に寝ましょうね。」
「P助が帰って来て、真っ黒同志の決闘になっても、俺は知らねーからな!」
「大丈夫!黒っ子同志、仲良くできるわよ。ねー、ラビちゃん。」
 と、あかねはうさぎを抱きかかえた。
「返事しねーじゃん。こいつ(黒兎)も確約できねーって思ってんじゃねーのか?」
「あのね、うさぎって声帯が無いから啼かないのよ。バーカ!」
 あまりにしつこい乱馬を振り切るために、アカンベーをして、あかねは茶の間から出て行った。

「たく…。何考えてんだよ、あいつは…。」
 ムスッと頬杖を突いた。目の前には、あかねが書いた、不細工ポスターが二枚、奔放に広げられている。
「その言葉、まんま、あんたに返すわ、乱馬君。」
 なびきが、読んでいた雑誌を閉じながら、乱馬を顧みた。
「あん?」
「端から聞いてたら、あんたも、何、考えてるかわかんないわよ。」
「はあ?」
「うさぎにヤキモチ妬いてどうするのよ。うさぎのオスすら、あかねに近づけたくないって思うほど、独占したいわけ?」
「そ…そんなんじゃねーやい!」
「どーだか…。ほんと、あかねもあかねよねえ。あんたのそのヤキモチ、自分に向けられた最大の愛情だって気づきもしてないし。ま、暫く楽しませてもらうわ。」
「おい!どーゆー意味だ?」
「せいぜい、ラビ君と競ったら?」
「何を競うんだよ?」
「男っぷり!」
 そう言葉を投げると、なびきは、襖の向こう側へと消えていった。

 ここまでくると、体よくなびきにかわかわれていることがわかった。

「たく…。コケにしやがって、なびきの野郎…。」
 秋の虫たちが庭先で大合唱を繰り広げている。
「あかねちゃんがお風呂からあがったら、ご飯にしましょうね。」
 かすみがにこにこと、ポスターを茶箪笥にあげると、大きな座卓を、拭き始めた。



三、

 翌朝、なかなかあかねは、部屋から出てこなかった。
 いつもなら、七時を回って、まだ、乱馬が蒲団の中でうだうだしていると、有無を言わさず、蒲団を引っ剥がしに来るのに…だ。たとえ、喧嘩していようがいまいが、目覚ましの手伝いはしてくれるのに。

 おかげで、起きそびれてしまった。
 時計の針は七時を大きく回っていた。

「だあああっ!もう、こんな時間かよー!」
 障子越しに入って来た太陽光に目覚めた乱馬は、枕元の時計を見て、慌てて起き上がった。
 大慌てで、枕元に畳み置いてある、チャイナ服へと袖を通す。風林館高校へ転入して以来、ほぼ、このチャイナスタイルは変わっていない。校則ではちゃんと制服の詰襟着用が義務付けられているが、女に変化することができる乱馬は、不問にされていた。もっとも、詰襟を買う金銭余裕が、早乙女家にはないのが、然したる理由なのであるが。
「何で、あかねの奴、起こしに来なかったんだよ!」
 ひとりでに溢れ出る、文言。
 バタバタと階段を駆け下りる。それから、茶の間を覗き込む。きょろきょろと見渡して、あかねが居ないことに気が付いた。茶碗も下に手向けてあるところを見ると、まだ、階下に降りて来ていないらしい。
「あかねの奴…まだ、寝てんのか?」
 もくもくと朝ごはんを食す、なびきへと、声をかける。
「あかねなら、具合が悪いんですってよ。」
 何の抑揚もなく、なびきは言い切った。
「はあ?具合が悪いだあ?」
「ええ…。熱っぽいんだって。」
「あかねが…熱っぽい…。何で?そんなこと、あり得るのか?」
 悪い冗談かと思った。普段から、元気印のあかねだ。多少、熱っぽくても、登校したがるあかねなのに。
「許婚なんだから、様子を見て来ればよかろうが。」
 玄馬が真正面から茶々といれた。
「あ…。おじさま、それ、余計なお世話よ。とっくに二階へ舞い戻ったみたいだし。」
 なびきが、頭上を指さしながら、玄馬へと声をかけた。
 疾風怒濤、あかねの様子を見に、二階へ駆け戻って行ったのだった。


 あかねの具合が悪いと聞いただけで、取って返して、階段を駆け上がった。
 ちゃんと、この目で見なければ、信用したくない。そんな感じであった。
 部屋の前に来て、一呼吸置く。このまま、雪崩れ込んだら、さすがに、アホだと思われかねない。
 ゴクンと一つ、唾を飲み込んで、平常心を呼び起こす。
 トントン…。
 軽くノックしてから、ドアノブを回した。

「あかね…。入るぜ!」
 小さめの声で言葉をかける。
「誰?乱馬?」
 カーテンが引かれたまま薄暗い中で、返事が返された。
「おめー…具合が悪いって本当か?」
 ベッドの上から、そっと覗き込む。
「うん…。何だか熱っぽくて、身体がだるいの。今日はお休みするわ。欠席するって届けてよね。」
 弱音を吐きだす様子は、いつものあかねではなかった。
「どら…。」
 そっと、額に手を置いてみた。
 確かに熱い。微熱ではなく、高熱だ。
「氷枕、作ってきてやろうか?」
「そんなことしていたら、学校、遅刻するわよ。」
「別に、いーよ、遅刻したって…。」
 そう言いかけると、あかねの瞳が曇る。
「ダメよ!それは…。」
 きびっと返された。真面目なあかねらしい、諫めの言葉だ。
「やっぱ、ダメか…。」
「ええ。遅刻はダメ、それから、あたしの分、ノート取って来て後で貸してね。」
 と、にっこり微笑んだ。
「それは確約できねーぜ。」
 そう言いながら、引き寄せようとして、掴んだあかねの手。それを見てハッとする。
 血が巻かれた包帯に滲み出していたからだ。
「おめー、その手…。」
 乱馬の顔が曇ったのを見て、あかねが、力なく笑った。
「身体の調子が悪いからかな。夕べからジンジンと痛いの。」
「まさか、その熱…傷からきてるんじゃねーだろーな。」
 思い切りしかめっ面になった乱馬。
「それはないと思うわ。」
「必要なら、東風先生に往診に来て貰えよ。」
「大丈夫。そんなに心配しなくても。具合の悪いのは、多分、風邪よ。喉が痛いから。」
「強がるなよ。おかしいと思ったら、親父たちやかすみさんたちに、きちんと言えよ。」
「心配症ね…乱馬ったら。」
「おめーが、心配ばっかかけるからだ。バカ!ま、いいや、これ以上、痛くならねーように…。おまじない。」
 そう言って、包帯が巻かれていない方の左手を取り、徐に、手の甲へと軽く唇を当てた。軽いキスだ。
 あかねの顔が、ポッと赤らむ。
「じゃあ、俺、行くから。」
 そう言って、ベッドから離れようとすると、そいつは、ニュッと顔を出した。
 うさぎのラビだった。
 乱馬とあかねの顔を、見比べながら、にやりと笑ったようにも見えた。

「やだ!ラビちゃん…今の見てたのね!」
 あかねが、真っ赤な顔をラビへと手向けた。
 云々と言わんばかりに、首をシュッと持ち上げて、後ろ脚だけで立って見せて来る。
 と、いきなりだった。このうさぎ、何を思ったか、びょーんと跳躍すると、乱馬のわき腹を思い切り蹴り上げた。うさぎの跳躍にはある程度の力がある。しかも、油断していた乱馬は、避けられず、うさぎの強襲に、思わずよろめいた。否、この黒兎の蹴りは、なかなかの威力があったのだ。

「こら!何しやがる!」
 乱馬が怒鳴ると、今度は、返す脚で、乱馬の背中を思い切り蹴った。そして、そのまま、半ドアになった扉から、ぴょーんと勢いよく廊下へと飛び出して行った。
「この野郎!一度ならずも二度までも、俺を足蹴にしたな!」
 瞬間湯沸かし器の如く、頭に血が上った乱馬。あかねが、目を丸くして見ていることなど、眼中に入らず、そのまま、うさぎを追って廊下へ出た。
 と、うさぎは、廊下で態勢低く、身構えていた。
「けっ!俺さまとやりあおーってか?」
 鼻息荒く、乱馬が睨み据える。奴は、そうだと言わんばかりに、伺うように、乱馬の瞳を覗き込んでくるではないか。

(え?)

 それは、一瞬感じた違和感。
 うさぎと視線がかち合った途端、その視線からうさぎの思念のようなものが、脳内へと直接流れ込んできたからだ。
『おまえはあかねさんを愛しているのかい?』
 はっきりとした、声が、脳内へと流れ込んで来た。声変わり前の少年のような甲高い声。
 うさぎが人間の言葉を話すとは思えない。空耳かと思ったその時、階下からかすみの声が聞こえてきた。

「乱馬君、あかねちゃんが心配なのはわかるけれど、このままじゃ遅刻しちゃいますよ。そろそろ、登校準備しなさいねー。」
 穏やかだが、透き通る声だ。
 その声に、我に返った乱馬。
「あ…はい。すぐ支度して行きます!」
 そう返答を返した途端、隙が生じたのだ。それに乗じて、頭の上を、ぴょーんと跳躍した黒兎。と、返す脚で、乱馬の脳天に、強い蹴りを入れた。 それは、見事な足蹴りだった。

 ズーン!

 うさぎの軽い身体で足蹴にされたとは思えぬくらいの「衝撃」が、乱馬の脳天を突き抜けて行った。

「いってぇー!」

 思わず、怒声が飛んでしまったほどだ。それほどの強い衝撃をまともに食らった。

「てめー何しやがるーっ!」
 うさぎに馬鹿にされたと思った乱馬は、一気に闘気が上がっていった。
 うさぎはしてやったり…というように、乱馬を一度だけチラ見した。
『バカな奴!』
 今度はそんな声が漏れ聞こえたようにも思った。

 タタタと勢いよく階下へと駆け抜けて、逃げて行く黒兎。

「あっ!待ちやがれー!この馬鹿うさぎ―!」
 みるみる、テンションが上がった乱馬は、うさぎへと追いすがる。
「朝から何をやっておる!バカ息子!とっとと、学校へ行けーっ!」
 階下で待ち構えて居た玄馬に一喝され、首根っこを掴まれた。
「放せっ!あいつを一発殴るんだ!」
 首根っこを押さえ付けられ、手足をばたつかせながら、怒鳴り声をあげる乱馬。
「そんなのは、帰宅してから存分にやれ!早乙女流は文武両道ぞ!学校を遅刻することままならーん!」
 玄馬は、そう怒鳴りつけると、ガラガラッと玄関の引き戸を開き、鞄と一緒に、ドラ息子を外へと放り出した。
「あっ!こら!俺、まだ朝ごはん食ってねーんだぞ!」
 玄関先で尻もちをついて、思わずそんな言葉を吐きつけた乱馬。
「ほうれ、食いたきゃ、走りながら食え!」
 再び引き戸がガラガラっと開いて、食パンが一枚、飛んできた。そいつを、がぶっと器用に口でくわえると、渋々、砂埃をパンパンと手で払って、走り始めた乱馬。だが、うさぎの姿は、もう、目の前から消え去っていた。

「たく…おぼえてろよ!うさ公!学校から帰って来たら、のしあげてやるぜ!」
 心根でそう吐きだして、門戸から飛び出していく。ここで、口を開けば、パンが落ちて食べられなくなるからだ。さすがに、そこまで、バカではない。

 うさぎは門戸の屋根の上から、乱馬をそっと見送る。そこに駆けあがって、乱馬から身を隠したのだ。それから、瞳が怪しく揺らめいた。と、ブブブと身体が揺れ、何やら空へ向かって音声データーを飛ばし始めた。

『個体名=早乙女乱馬 地球年齢=18 個体=心身ともに最上級 ターゲットとの関係=恋仲 結果=今のところという限定付きで、オールグリーン 以上…』

 どこへ向けて放ったのか。思念波が彼の身体から飛び出して、何処かへと伝わって行く。

『コタイメイ・サオトメランマ チキュウエイジ・18 シンシントモニサイジョウキュウ ターゲットトノカンケイ・コイナカ ケッカ・オールグリーン』
 どこかで、そのデーターを受理して反芻する音が聞こえた。

『任務完了・一時撤退』

『イチジ・テッタイ・リョウカイ…』

 その音が伝わって来たのを確認するや、黒兎は再びぴょんと見事な跳躍を見せて、そのまま、何処かへと走り去って行った。

 その天上には、秋の空が、真っ青に晴れ渡っていた。


つづく




この作品…SFとして書き始めたはずなのですが…。どこへ向かおうとしている?あれええ?
で、このうさぎ…何者?

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