サイレントムーン
プロローグ
プロローグ
幻の湖を見たのは、いつのころの話だったか。
母親の死を幼心に悼(いた)んでいた頃だったので、五歳になるかならないかの幼い晩夏。
父に連れられて来た、山間のリゾート地。
あの頃の父は、亡くした妻への悲しみが深かったのだと思う。
かすみ、なびき、そして、あかねの、まだ幼い三姉妹を連れての夏バカンス。いや、多分、傷心の旅。いつ、どこへ行ったのか、幼心に残ったのは、勇壮な富士山の姿と、美しい湖面の景色だ。
後で聞いた話によると、忍野八海(おしのはっかい)や富士五湖とか言われる、辺りだったという。
この地には、泉や池がたくさんあって、中には富士五湖の幻の六つ目の池と呼ばれる赤池のように、雨が多い年に忽然と姿を現す湖もあるという。
おそらく、あれは、そんな類の小さな湖だったのだと思う。
景勝地など、幼い子供にとっては、たいくつな場所にしか過ぎない。土産屋の一つでもあれば、そちらに目が行ってしまって、景色など二の次。観光に飽きてきた幼い子供は、三時ごろになると、お腹の一つも減って来る。
「ねえ、何か食べようよ。もうすぐオヤツの時間だよ。」
と、親の手を引っ張って、だだをこねるのも、仕方がない事だ。
「あかねは食いしん坊ね。」
すぐ上の姉、なびきがそう評したのを受けて、
「じゃあ、なびきお姉ちゃんはオヤツいらないの?」
「いらないなんて、一言も言ってないじゃん!」
「じゃあ、文句言わないでよ。」
「文句言ってるのはあんたでしょー?あかね!」
互いに、あかんべーを投げ合う。
何かにつけ、年子のこの姉とは、良く小競り合いを続けてきたように思う。
「ほらほら、喧嘩しないで、二人とも。」
それを割って入って、なだめるのが、長姉のかすみの役目。穏やかではあるが、かすみの笑顔の中には、秘めた迫力があって、「言いつけは聞かねばいけない…」という気持ちになる。いったい何故なのだろう。母が亡くなって以降、この大きい姉は、「母親代わりにならねば!」という、長姉の強い念が、そう言う空気を醸し出していたのかもしれない。
父も、子供らの空気が濁ったのと、空腹を感じ取って、
「あそこの茶屋で、おだんごでも食べて行こうか。」
と、目に留まった、茶屋へと入った。
茶屋の辺りは少し高台になっていて、見晴らしも良かった。渓谷を見下ろすような感じで、外にいくつか席も設えてある。
その一つに腰かけて、お団子を貪る。のんびりとした時間が流れる、秋の昼下がり。
お腹が満たされると、少し眠くなる。眠気も降りて来て、姉妹たちは浅い眠りに落ちて行く。
御茶屋の主に許しを請うと、座椅子に深々と腰かけて、幼い姉妹は、午後のまどろみを楽しむ。
真っ先に眠ったあかねは、ものの数分で目覚めてしまった。
姉たちや早雲が傍らで気持ちよさげに眠っている。起こすのも気が引けて、そのまま、眠い瞳をこすっていると、目の前をゆらゆらと、胡蝶が飛んでいるのが見えた。
幼い子供というものは、こうした、単純な誘惑に弱い。つい、誘われるままに、その胡蝶の後を追って、その店を飛び出してしまったのだった。
「待って!」
そう、声をかけながら、胡蝶を追う。相手は小さな昆虫だが、それでもそれなりの行動力とスピードはある。みんながまどろんでいる茶屋からどんどん離れて行く。もちろん、追いかけるあかねは、皆から離れてしまったことなど、お構いなしだ。目の前の胡蝶がどこへ行くのか、それに意識が集中してしまった。
「あ…。」
あかねを散々引きつけておいて、胡蝶はサアッと上昇してしまった。天高く飛ばれては、ただ茫然と見送るしかない。はああっ、とため息を吐き出して、引き返そう。そう思った時だった。
さわさわと風が吹き抜けていき、目の前に茂みが居れた。と、その茂みの上から、忽然と湖の風景が広がった。
その美しさに、思わず息を飲んだあかねだった。
空から差し込める太陽が、キラキラと湖面を輝かせていた。いや、そればかりではない。
ふと目を転じると、若い女性が一人、湖面を前に、佇んでいるのが見えた。
その女性は、ぼんやりと木の上から、その湖を眺めていた。張り出した枝に腰かけ、じっと光る湖面を眺めていた。
髪には薄い胡蝶の飾り物をつけ、赤いきれいな衣を肩から羽織っていた。見慣れない服だった。着物のようで、そうでもない。
ついこの前、眠れない夏の夜に、たどたどしい言葉使いで、父が読んでくれた「天の羽衣」の天女様が、絵本から飛びだしたのではないかと、目を疑った。
キラキラと輝く湖面を前に佇む女に、しばし、見惚れていると、その気配を察したのだろう。
「あなた、私が見えるの?」
女があかねへと声をかけてきた。
鈴の鳴るような、綺麗な澄んだ声で。
思えば不思議な問いかけだったのだが、幼いあかねには、言葉尻までつかまえることはできなかった。
「見えるよ。きれいなお姉さん。」
無邪気に答え返していた。
きれいなお姉さんと言われたことが、嬉しかったのか、女性はにっこりとあかねに微笑み返してきた。
「あなた、お名前は?」
「あかね。天道あかね。」
元気よく、己の名前を名乗った。
「あかね…。そう…あなたも、あかねって言うお名前なの。」
女性は穏やかに微笑んだ。
「うん!お母さんがつけてくれたんだ。」
「お母さん。そう、いいお母さんなのね。」
「いいお母さんだったよ。優しくて、きれいで…。」
少しうつむき加減になったあかね。
「大好きだったよ…。でも、もう会えないの…。」
ほろりとこぼれた涙。それを見て、女性はそっと、あかねの頬に手を触れた。
「そうか…。遠い世界へ旅立ってしまわれたのね。」
あえて死という言葉を使わずに、女は頷いた。
コクンと揺れる小さな頭。
「だから、会いたくても、もう会えないのね。」
母が亡くなった時、人の死というものが、どういうものなのか。幼いあかねには、理解はできなかった。
母を小さな棺に入れるとき、どうして目覚めないのか、目覚めてあかねたちを呼んでくれないのか。父に問い質して、困らせたのは、そう遠くない過去のことだ。
たかが半年、過ぎたか過ぎないかの間に、少しずつであったけれど、死は母の姿が見えなくなったことなのだと、理解した。ついこの前まで、茶の間に設えてあった祭壇。そこにあった、四角い箱。あれに、母の遺骨とやらが入っているのだ…と言われても、ピンと来なかった。
四十九日の法要の時に、母の遺骨が入っていると言われた箱も、お墓へと埋めてしまった。読経の流れる中、冷たい墓石の下に入っていったのだった。
一人で寂しくないのかなと、父に尋ねると、祖父や祖母も一緒に居るから平気だと、教えてくれた。それに、母の魂は、天へと上り、いつも天上からあかねたちのことを見守っているのだとも、言っていた。
茶の間にあった祭壇が取り払われ、代わりに仏壇の中に入った新しい位牌。そして、祭壇にあった写真がそこに置かれた時、母は、やっぱり、もうあかねのところには帰らないのだと、薄らぼんやりと理解した。
深い悲しみに心を痛めているのは、あかねだけではない。少しでも明るく振るまおうとする父や、決して妹たちに涙を見せないかすみ。それから、最近やたらと姉風を吹かせて来るなびき。それぞれに、悲しみをこらえていることが、幼心にもわかり始めていた。
「ねえ、お母さんに会いたい?」
女性は唐突に、問い質して来た。
「うん…。できるなら、会いたいよ。」
震える声で答えていた。
「会いに行く?」
女性は、そんな一言をあかねに投げた。
風がざわざわと、小枝を揺らせて吹き抜けていく。
死者に会いに行くことなどできない。幼いなりにも、母の死後、何となく理解していた。会えても、せいぜい、夢の中で、微笑みかけてくれるだけだ。その、夢の中にでさえ、母は出てこない。実際は夢で母に会っているのかもしれないが、起きて見れば覚えていない。
「私なら、あなたの母が居る世界へ連れて行ってあげることができるわよ。」
にっこりと微笑みながら、あかねへと手を伸ばして来た。
(冗談ではなく本気で言っているんだ、このお姉さん…。)
そんなことを思った。
あかねは戸惑った。この手に触れれば、母に会いに行けるのかもしれないと。一目でも会いたかった。会って、名前を呼びながら、頭を撫でて欲しいと思った。
「本当に、お母さんに会えるの?」
真摯な瞳で女性を見あげる。
「この手にある石に触れれば、お母さんと会わせてあげられるわよ。」
女も真顔でそれに応えた。
己の左手を差し出して来た。その手もとには、真っ青なきれいな石が乗っていた。
と、ひらひらと胡蝶が、天から舞い降りてきた。
その蝶が、さし出しかけた、あかねの手首に、羽を休めてとまった。
『それに触れちゃダメ…。』
胡蝶が小さく、叫んだような気がした。
その声にハッと我に返ったあかね。スッと伸ばした手を引いた。
「やっぱり、あかね、行くのはやめとく。あたしだけがお母さんに会いに行くのはダメなんだ。」
と小さな声を震わせた。
「何故かしら?」
女性はあかねを見下ろしながら、問い質して来る。
「そんなズルしちゃだめなの。かすみお姉ちゃんやなびきお姉ちゃんだって、お母さんに会いたいのに…お姉ちゃんたちを置いて、あたしだけ会いには行けないの…。」
「あなた一人じゃ、行けないってことかしら?」
そう問いかけられて、うんと答えた。
「そう…なら、止した方がいいわね。」
そう言って、女も差し出した手を引っ込めた。
「私の誘惑には乗らなかった。あかね…あなたって、意志が強い子ね。」
今度はそんな言葉を投げてきた。悪戯っぽい瞳があかねを射抜いて見つめてくる。
「人の一生など、短いものよ。でも、あかね…あなたのような敏(さと)い娘を遺せた、あなたのお母さんは、短くても素敵な人生だったのでしょうね。」
女はそんな言葉を投げかけてきた。が、幼すぎて、女性が言っている意味がよくわからない、あかね。
「それよりも…。あなたが、ここに留まると決めたのなら、あなたに渡しておきたいものが、あるのよ。」
女性は、再び、奇怪なことを言い始めた。
「わたす…ってなあに?」
「これよ。」
そう言って、女性は、ふうっと右の掌を上に、さしあげた。と、掌が俄かに光って、中から石の欠片が一つ。それも、虹色に光る美しい石だった。さっき、左手に乗っていた石と同じくらいの大きさだ。
「これをあなたに預けるわ、あかね。」
女はそう言いながらにっこりと微笑んだ。
「あずける?」
また、あかねには理解しがたい言葉だった。
「ええ。これを、預かっておいて欲しいの…あかね。」
女はふうっと、掌に会った小石を息で飛ばした。と、どうだろう。その石は、あかねの胸元辺りへと飛び、そのまま、身体の中へと吸い込まれるように、消えた。一瞬の出来事だったので、あかねには、何が起こったか、わからなかった。何の衝撃も無かったので、痛みなども感じなかった。自然に身体へと吸い込まれていった石。
きょとんとして、女を見つめていると、
「次に会うまで、その胸の中で預かっておいてちょうだい。あかね。あなたが成長して、恋をする年齢になったら、また、私とあなたの時間軸が触れあうわ。あなたとここでであったのも、これはきっと、偶然ではないわ。結界が緩んで居る証。ということは、あいつがもうじき目覚めるという兆し。」
「あいつ?」
「私と出会った以上、あなたも、最早、無関係ではいられないわね。あいつは、きっと、あなたを襲う筈…。」
「おそう?」
「今はまだ時期尚早だから、心配は無いわ。でも、必ず、その預けた石が必要になる時がくる…。だから…。それまで、預かっておいてちょうだいな。」
そう言って、女はふわっと空へと舞い上がった。ヒラヒラと大きな胡蝶の羽が、彼女の背中に開いたように見えた。
「きっとよ…あかね。」
それだけ吐きだすと、女は湖の中へと吸い込まれるように消えていった。
「お姉さん?」
狐につままれたような瞳で、消えた幻影を追う。が、湖には波の輪一つ無く、何事もなかったかのように、静まり返っていた。
と、がさがさと草の音が傍でした。
「あかね!勝手に居なくなったから、びっくりしたじゃないか!」
今度は怒った声があかねを呼んだ。
あかねを探しに、父親と姉たちがここまで来たようだ。
「何してたの?こんなところで。」
ひょいっと、かすみが後ろからあかねを覗き込んだ。
「天女さんが…。」
そう指さした湖面。
「何も居ないじゃない。」
となびきが言った。
「あのね、天女さんてね、蝶々の翅(はね)を持って居るんだよ。」
と、あかねは、見たままのことを、無邪気に告げる。
「はあ?そんな訳ないでしょ?天女さまが蝶の翅(はね)持って居るなんて、聴いたことないわ。」
「だって、あたし、さっき見たんだもん。」
「だから、天女さまは羽じゃなくて、羽衣で飛ぶのよ!」
「そうよ、あかね!天女は天使と違うわよ。天使だって、鳥の羽でしょ?蝶々の羽を持った天使なんていないもの。」
「だって、いたんだもん!」
「寝ぼけてたんでしょー。バカね。」
と口を尖らせる妹に、かすみもなびきも、笑って否定した。
「いーよ、信じてくれなくても!」
あかねは、プクッと頬を膨らませた。
「さて、天女さんの話はここまでにしておこうね。次のところへ行くよ。今度は富士山が綺麗に見えるところへ行くからね。」
そう言って早雲は、あかねたち三人を促した。
「はーい!」
あかねは元気に声をあげると、一度だけ、女性が座っていた枝へと、視線を投げた。
枝に誰の姿もなく。その脇を、胡蝶がひらひらと、湖面の方へ飛んで行くのが見えた。
『またね、…あかね…。』
小さな声が、あかねの背後で囁いたが、もう、あかねの耳には聞こえなかったようだ。
遠ざかる天道家の人々の影。それを見送ると、湖面はすうっと跡形なく消えてしまった。
そう、湖自体が消えてなくなってしまったのだった。
ある、秋の晴れた日の出来事だった。
久しぶりの長編です。
かなり気合入れて書きました。けれど、やっぱり、高密度のかなり滑った物語に…なっちゃったよー!
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