寝相に関する考察
第三話 乱馬のつぶやき


 
 ああ、好い気持ち…。こうやって、頭をくっつけているだけで、安心する。
 これは、親父かな。母親と幼い頃から離されたせいで、俺が甘えられた存在は、親父しかいなかった訳で。ガキの頃、よくこうやって、頭を何かにくっつけて眠ったっけ。
 親父。背中だけは広かったからなあ。こうやって、くっつけているだけで、安心できた。
 今も…。
 そんなことをつらつら考えていた。
 その柔らかな枕は、とてもいい匂いで、気持ちいい。このままずっと、ここに居たい…そう思ったとき、ハッと意識が浮かび上がった。
 天井が見える。ぼんやり、蛍光灯も見える。

 え…?あれえ…?

 そう思って見まわすと、こちらを向いて微笑むあいつの笑顔と視線が合った。
「あ…あかね?」
 そのまま、大慌てで、上体を起こす。
「やっと、目が覚めたのね。」
 その言葉に、脳みそ、フル回転で記憶を引っ張り出す。
 俺は買い物に出かけて、帰って来て、それで…。
「あんた、また、猫化していたのよねぇ。」
 あかねが吐きだした。

 猫…。猫化!

「あー、思い出した。俺、親父たちに猫と一緒に、道場に放り込まれて…。」
 ふと、瞳を横へずらすと、親父がピースサインをして、あかんべーしてやがるのと、視線が合った。

「あんの野郎…。余計なこと、しやがってえ!」
 
 体中、ひっかいたような傷がある。これは、猫たちにやられた傷。いや、それだけじゃねー。
 また、猫化して、大暴れしていたらしい。庭先の木々の幹が、石灯籠の明かりに照らされて、めくれ上がって、痛々しく浮かび上がっている。

「目が覚めたんなら、背中出して座って。ちゃんと、消毒してあげるわ。」
 そう言って、救急箱を茶の間から取り出して来たあかね。
 躊躇する間もなく、上着を引っぺがされ、黒ランをめくりあげられた。
 あのなあ…、日が暮れると寒いんだぞ。
 そんな、文句が言える筈もなく。というか、気にも留めないで、あかねは、俺の傷に消毒液を塗っていく。

「痛ってー!」
 思わず、声が出た。
「ほら、じっとして。じゃないと、傷口が反れちゃう。」
 すぐ後ろ側で、あかねの声がした。
「もう少し、優しく手当できねーのか?不器用め!」
 そう声をかけると、
「あのね…言っておくけど、傷口の消毒は、器用不器用関係ないわよ!」
「そっかあ?おめー、必要以上に、消毒綿、傷口になすりつけてねーか?その馬鹿力で。」
「失礼ねえ!そんなこというなら、消毒してあげないわよ!」
 と、ピンセットの先っちょが、傷口に当たった。
「こら!言ってる矢先に、ピンセットの先端、傷口に当てるなっつーのっ!痛いじゃねーかぁ!」
「子供じゃないんだから、少しは、我慢しなさいよ!」
「だから、傷口…。」
 今度は、つつーっと消毒液が滴り落ちて来る。
 たく…この、不器用女は…。傷の手当をさせても、やぱり、不器用丸出しだ。
「絆創膏も丁寧に貼れよ!」
 そう、予防線を張る。
「って、傷口に粘着部、当てるなよ!はがす時、地獄だぜ!」
「もー、いちいち、うるさいなー。そんなんじゃ、出世しないわよ!」
 と突っかかってくる。
 できれば、かすみさんか、おふくろに手当を頼みたかったなあ…。でも、二人とも、傷の手当は、あかねの役目だって、知らん顔しているし…。まあ、一応、新婚…ってことになるから、遠慮しているのか、それとも、触らぬ神に祟りなし…なんて、思っているのか。
「はい、終わり!」
 そう言って、パシッと背中を叩かれた。
「こらー!一応、怪我人だぞ!思いっきり叩くなっつーの!」
 と言葉が漏れた。
「何よ、あたしにさんざん、世話になっておいて…。」
「って、仕方ねーだろ?猫化したら、意識なんて、吹っ飛んじまうんだからよー!」
 そう言いながら、赤いチャイナ服へと袖を通す。
「で?今夜も、俺、一人で放り出されて眠らなきゃなんねーのかな?」
 と、あかねの顔を覗きこんだ。夕べ、一緒に寝て貰えなかった、情けのない亭主だからだ。
「あんたは、どーしたいのかしらね?」
 そんな可愛くねえ返答を突っ返して来やがった。
「一緒に眠りたい!」
 プイッとそっぽを向いて、勢い良く吐きだした俺。一応、視線は外した。恥ずかしくて、じっと見られねえ!そんな俺に、ぷっ、と吹き出したあかね。
「じゃ、お蒲団運ぶのを手伝ってくれるかしら?」
「いーぜ、俺の蒲団をおめーの部屋に持っていったらいーんだろ?」
 ちょっと、ウキッとしながら、返答を返す。
「ううん、あたしのお蒲団を運んでほしいの。」
 意外な言葉を返してきやがった。
「おめーの蒲団?俺んじゃなくてか?」
「うん。今夜から一階の奥の間を、寝室代わりに使わせてもらうことになったの。」
 と、返答が返って来た。おっ!いいねぇ!グッドタイミングだぞ、それ。
 広い間取りに、部屋換えを模索していたところだから、渡りに船だ。
 俺は、はやる気持ちを抑えながら、「いいぜ。」と答えた。

 一階の奥の間。丸(まある)い、雪見窓がある。それから、一間の押入れ、それから、床の間がある。一応、客間らしい。ふだん、人気(ひとけ)がない北側の部屋なので、少しひんやりしている。
 ま、この際、日当たりのことはいいや。寝るだけの部屋ならばよー。
 仲良くシングル蒲団を並べて敷く。これも、早く、ダブルの蒲団からダブルベッドにしたいな…。という言葉を、胸の奥に飲み込み、蒲団を敷き終わる。
 今夜から、ここが、俺たちの愛の巣か。そう思うと、ほっこりしてくる。


 まあ、そう思ったのは、その時だけで、実際は、やっぱり戦場だった。
 寝場所が広がったとはいえ、あかねの寝相が良くなる訳ではない。布団が大きくなった分、ゴロゴロと大胆に転がってくる。おたおたしていると、畳に放り出されてしまう。もう冬が近いから、畳の上は冷える。
 だああ、ほんっとに、こいつは!その寝相、何とかなんねーのか?
 仕方なく、俺は、あかねへと飛びつく。つまり、そのまま、抱きしめた。
「うん…。」
 小さな、溜息を俺の胸板へと漏らしやがる。…目が合えば、襲いたい…いや、可愛がってやるのに。
 奴さんは、目覚めることなく、気持ちよさげに、俺にくっついてくる。
 そして一言「お母さん…」と投げやがった。
 ふうっと漏れる溜息。俺の腕に、おふくろを感じているのか?こいつは…。空気読め!と言っても眠ってるんじゃ仕方ねーか。
 考えてみると、こいつは、幼い頃におふくろと死に別れているんだよな。
 おふくろのいない寂しさは、俺も理解できる。俺だって、十六になるまで、己の母親のことは、知らずに育ってきたからだ。
 母が居ない代わりに、俺の傍には、いつも親父の姿があった。スチャラカでいい加減でも、オヤジはオヤジ。その、でっかい身体に触れて眠ると安心したっけ…。親父の背中、もしくは腹。ゴツゴツしていたけれど、それはそれで、暖かくて、気持ちよくって…。
 パンダに変化するようになってからは、冬はぬくぬくだったもんなあ。
 きっと、あかね(こいつ)の寝相が悪いのは、寂しがり屋のせいなんだ。
 今夜、唐突に、理解した。
 かすみさんやなびきの話によると、一番甘えたい幼児期に、おふくろさんは病気がちになって、長い間入院し、結局のところ家に戻って来ることはできなかったらしい。つまり、亡くなってから戻って来たそうで。
 三姉妹の中で、こいつが一番、母親と接した時間は短い。年子の姉、なびきも、そんなに覚えていないらしいが、なら、あかねはもっと、何も覚えていないだろう。
 俺は最初から、母親のぬくもりは知らなかった。でも、ちゃんと名乗りを上げられた。でも、こいつは…。もう二度と、かあちゃんには会えないんだよな。
 そう考えると、なんとなくしんみりしてきた。
 今夜は無くなった母さんの腕に抱かれている夢でもみているのかな。
 そう思って、覗き込んだ途端…。

 ゴン!

 いきなりあごに入った頭突き。
 こんにゃろーめ!
 と思った途端、今度は、膝が股間目がけて、突き上げられる。

 ちーん!

 いってーっ!どこを蹴ってやがるんでぇ!
 羽交い絞めに、ぎゅうっと腕に力を入れると、ますます、闘魂激しく、動き始めた。
 ヒジや腕、膝や足が、俺の身体からすり抜けて、すっ飛んできやがる。

 どこのどいつだ!蒲団が大きくなれば、少しは逃げる場所ができるだろーなんて、軽いこと言い放った奴は!あれは、良牙だっけか?
 いやはや、動ける範囲が広がった分、凶暴性がダダもれじゃねーかああああっ!てやんでぇーっ!」

 とどのつまり、今夜も、ね・む・れ・ねえええええええーっ!



 翌朝、スッキリ目覚めたあかねと、とろんとした目を開く俺と…。完全に、床を共にした二人、明暗が、別れていた。
 あかねは当然のこと、良く寝ましたとばかりに、キラキラ輝く目をしてやがる。その真逆に俺は…。駄目だ。眠い!起きたくねえーっ!
「乱馬、朝だよー!起きてー!」
 枕にしがみついていると、と明るい声で、起こしにかかる。
「もうちょっと寝たい…。」
 そう言いながら、蒲団を抑え込んだが、奴さん、実力行使で突撃してくる。
「だーめっ!遅刻しちゃうよっ!」
「いーよ!俺、一講目、ねーもん!」
「こらこら、武道家たる者、ちゃんと朝は起きて、規則正しい生活をしなきゃ!」
 なら、頼むから夜中、暴れるのを何とかしてくれねーかな…。ありゃー修行よりきついぜ!
「もうちょっとだけ…頼む!」
 そのまま、沈む俺。
「いいわよ、もう少し寝かせてあげるわ。」
 と言って、タッと起き上がる、元気なあかね。たく…あれだけ夜中動いていても、シャキッと起きられるのは、すげーよな…。そう思って、再び目を閉じる。
「朝ごはん、腕によりをかけて作ってあげるからね。出来上がったら起こしにくるわ。」
 と言って、立ち上がって行きやがった。
 寝不足の上に、おまえの手料理なんか食わされた日にゃ…。
 ああ、恐らく、今日は自主休校だな。
 薄れ行く意識の下で、ぼんやりそう思った。


 で、案の定、寝不足にあかねの手料理で、撃沈した情けねー俺。

「おかしいなあ…。ちゃんと、レシピのとおりに作ったのに…。」
 と、ウンウンうなされている俺の横で、小首をかしげてやがる。
 レシピ通りに作ってねーから、この状況になってるんだろーが!
 また、砂糖と塩、間違えやがったな!隠し味にお酢をたっぷり入れたろう?
 胃の中が、逆流してくる。
「うっぷ!」
 俺は口を押えて、必死で廊下を駆けていく。と、トイレのドアの向こう側にパンダの影が。
「親父―っ!早く出ろー!」
 ドンドンと必死の形相で、ドアを叩く。が、なかなか、親父は出て来る気配がねえ。
「早く出やがれー!」
 大家族故に起こる、このトイレ待ち地獄。
 賞金がもっと稼げるようになったら、もう一個、トイレを作ろう…と、思いながら、必死で耐え抜く数分の長いこと。
『待たせたな!』そう看板を上げたパンダ。いーから、とっとと退きやがれーっ!

 俺がお腹の反乱で、苦しみぬいている間に、あかねは悠々と登校していった。
 うー、っんとに、この野郎はぁ…。
 
「だらしないわねえ…。おひさま高いのに、良い男が、何やってるんだか。」
 なびきが、ひょこっと顔を出した。こいつは今、四回生だから、殆ど登校しねえ。というか、名うての能力者だから、卒論も順調に進んでいる様子だ。だから、殆ど家にいやがる。
「仕方ねーだろ?寝不足んところに、あいつの作った奇妙な朝ごはんだぜ!ほんとに、勘弁して欲しいー。」
 茶の間でゴロンと転がりながら、そんなことを吐きだした。トイレにちょっとでも近いところに寝ていたいし、ここにはコタツがあるし、寝るのは絶好の場所。
「ほら、あんたに頼まれてたもの、来たわよ。」
 後ろを見ると、パンダ親父がでっかい箱を抱えて、こちらを見ている。
「え?もー来たのか?」
 俺は、だっと跳ね起きる。
「ええ…。はい、これ請求書。」
 とか言って、俺に突き出す、伝票。
 それを受け取りながら、ううむ…となる。
「ちょっと高くねーか?」
「何言ってるの!これで安堵に眠れるなら、高い買い物じゃないと思うわよ。それに、一点ものだもの。」
「ほんとに、一点ものなんだろーな?」
 と穿った顔をなびきへと手向ける。いつも、こいつには、良いカモにされ続けているからな、俺は。
 プロの格闘家としてデビューして以来、俺の許可も取らずに、勝手にグッズを作って、売りさばいてやがるしな!しかも、勝手に「公式」を名乗っているから、性質が悪い。版権寄越せと言っても、うーだらぐーだら。
 まあ、その実績があるから、なびきに、頼み込んで、作って貰った、一品だ。
「一点ものにしたから、高いのよ。」
 とうそぶく、なびき。
「何なら、ロハにしてあげるから、公式グッズにしない?」
「するか!んなもん!」
 と真っ赤になって、応えた。
「そーよね…。あかね以外に持って欲しくないか、あんたでも。」
「あったりめーだ!」
 そう言って、財布から大枚を二枚、なびきへと渡す。
「手数料とか乗せてねーだろーな?」
「乗せてないわよ。でも…。」
 チラッと俺を見て、プッと笑う。
「笑うな!」
 そう言って、大枚をなびきへと手渡した。
「あ、それから、あんたの分も作ってあげたから。」
「俺の分?」
 つい問い返しちまった。当たり前だ。同じ物を作って貰っても、どう使えと言うんだ?
「で、その値段も入ってるのかよ?」
「まーね。」
 と突き返しやがった。
「あのなあ…。俺にも使えってか?」
「だから、あんたの分は、あかねよ。」

「!!」
 思わず、ウッとなっちまったぜ。
 おいおい!あかねって?

「まあ、姉からのおせっかいということで、いいじゃない。」
 ほほほと笑ってやがる。
 俺は真っ赤な顔をして、俯(うつむ)く。

『ほれ、さっさと受け取れ!』
 親父の看板が飛んできた。
『何なら、ワシが開いてやろうか?』
 俺に、三白眼で顔を傾けながら、また、看板を掲げた。
『何が入っているのかなあ?』
 くすっと笑いながら、開けようとした。

「勝手に開くな!」
 俺は、慌てて、箱にダイビングする。
 こんなもの、親父に見せられる訳がない。何を言われるか、わかったもんじゃない。
 はっしと、箱に食らいつく。
『怪しいな…?何だそれは?』
「安眠グッズだ!」
 そう言って、足で親父(パンダ)の図体を押しのける。
「とにかく、俺んだからな!」
 そう言い放つと、俺は箱を後生大事に、寝室にしてもらった、一階の奥の部屋へと運び去った。

 そう、これは、安眠グッズなのだ。良牙に教えてもらった。
 なびきに頼んで、作って貰ったオーダー品だ。
 それから、自ら箱を開く。あかねにやらせたら、中身を破壊されかねないから、あいつが帰ってくる前に整えておかなければ…。
 箱の上部の粘着テープを丁寧に剥がし、箱を開くと、梱包材のプチプチに包まれた、それが、姿を現す。

 おーおー、なかなか、いーじゃん!今夜から、少しは安眠できるようになるかな…?




 その晩、二人、寝床をスタンバイすると、俺は、あかねにそれを渡した。

「そうそう、今夜から、これを使え。」
 そう言って、押入れの奥に突っ込んでいたのを、あかねの前に転がしたのだ。

 え?…という表情を見せたあかね。それを見て、顔を真っ赤にした。
「ちょっと!乱馬!何よこれ!」
 おっと、ちょっと、動揺してやがるな。
「何って、見た通りの物だぜ。まさか、それが何かわからねーとか言わねーよな?」
 ニッと笑って、あかねを見やる。
「だ…抱き枕でしょ?これ。」
「正解。」
 そう言いながら、トントンと、抱き枕の表面を叩いてやった。
「だから…ど―ゆー趣味してるのよっ!」
 あかねの顔は、瞬時に真っ赤に熟れた。
「だって、おまえが抱いて寝るんだったら、これが一番だろ?」
 そう言いながら、クスクス笑う。
「笑い事じゃないでしょ?これ…。」
「俺が、遠征に行っちまったら寂しいだろうと思ったんでい!」
「なっ!」
 そう言ったまま、固まりやがった。

 抱き枕には、俺…俺の写真がプリントされている。
 へそまではむき出しだが、下半身はちゃんとズボンをはいている。なびきに頼んで、ベストなショットを選んで貰った。うん、なかなか、良い写真だ…というか、いつの間に、こんな写真撮りやがったんでいっ!身に覚えが無いので、最初見た時は、俺もうろたえたが、ま、それはそれ。抱き枕には過ぎた、ベストな構図。その証拠に、あかねの動揺、小さからず。

「今夜から、これを抱いて寝ろよな。」
 そう、言い放った。
「えええ?あたしがこれを抱いて寝るの?」
「ああ、そのつもりで、特注しだんだけど。」
「だから、何であたしがこれを抱いて寝ないといけないのよ!」
「寝相が悪いからだよ。」
 そう言いながら、鼻をツンと右の人差し指で突っついた。
「寝相が悪いと、どうして抱き枕なのよ。」
「始終おめーを抱いてやりてーのは、山々なんだが…。こう、抱いていると、同じ姿勢になるから、辛くなってくるんだよ。でも、離したら、おめーの暴れ方、尋常じゃねーし。抱き枕、抱いて寝たら少しは寝相が良くなるんじゃねーかと思ってよー。」
「だからって、自分の写真をプリントしたのを、作る訳?」
 少し、すねた瞳が俺を見据えて来た。
「ああ。抱き枕だからこそ、俺の写真を使ったんだよ。」
 と、言いながら、あかねの手を引いた。そして、抱き枕を手繰り寄せ、彼女へ抱かせた。
「うん、俺をプリントしてあるから、俺を抱いているみてーで、いーだろ?」
「何で、そーなるのよ!」
「おっと、離すなよ。せっかく、俺が作ってやったのに。」
 そう言いながら、くいっと抱き枕越しに、あかねの身体を抱きしめる。
「こうやって、抱き枕を抱いて寝たら、少しは寝相が良くなるんだってよ。」
「どこ情報なのよ、それって。」

『良牙だ…。』と口ごもりそうになって、慌てて声を押し殺す。

「寝相が悪い奴は、寂しがり屋が多いって、昔から決まってんだよ。」
「あたし、別に寂しがり屋じゃないけど…。」
「何の…。おめーは相当な寂しがり屋じゃねーか。それに、俺が遠征で居なくても、これを抱いていたら、寂しさも緩和されるだろー?」
「乱馬が居ない時に、これを抱けって?」
「居てもいなくても抱いてほしいな。俺も安眠してーし…。あ、もちろん、全然抱いてやらねー訳じゃねーから安心しな。」
「もー!訳わかんないよ!でも、柔らかくて、気持ちいい素材ね、これ。」
 とか、何とか言いつつも、抱き枕をギュッと抱きしめて、ご満悦の模様。
 確かに、肌触りいいよな。値が張るのも納得がいく。
 俺も、抱き枕越しにあかねを抱きしめていると、すごく、居心地がいい。
 すうっと眠りの淵が降りて来た。
 こいつの寝相が、そう簡単に治るとは思わねーけれど…。


 あれから、数日。あの晩から、少し、あかねの寝相がマシになったと思う。
 相変わらず、時折、物凄い蹴りや拳が飛んでくるけれど、抱き枕を押しあてると、それにギュッと抱きついて、暫く、大人しくなる。
 だから、少しは俺も、これで寝不足が解消された訳で…。
 今日から、一週間、試合で関西に遠征する。
 スーツケースの中に、持って行く荷物が、一つ増えた。風呂敷包みの中に、下着や替えの衣服に紛れて、枕カバーが一つ。
 そう、なびきが、俺用にってわわざわざ作ってくれたモノだ。何かって?枕カバーだよ。
 何で枕じゃなくて、枕カバーだって?枕の本体はかさばるだろう?それ一個で、スーツケースいっぱいにする訳にもいかねえし。遠征先の、枕にかけて使うんだ。中々優れものなんだぜ。少し、右寄せにあかねの顔がプリントされていて、俺の枕元で微笑みかけてくれるって仕組みだ。恋しくなったら、話しかける。
 新進気鋭の格闘家の早乙女乱馬が、なんて破廉恥な…なんて思うなよ。ま、定期入れなんかに、家族写真を忍び込ませている親父…と同じだよ。あかねは愛妻だからな…。だなんて。へへ…。

 いつか、俺たちは、親になる日が来るだろう。その頃には、あかねの寝相が治って居たらいいと思う。
 川の字になって、健やかに眠れたら…。だから、頑張って、この厳しい格闘界で、どんどん勝ち進んでいかなければ。

 あ、もちろん、料理の腕も上がっていたら、もっといいけれど、ぜいたくは言わねえ…。
 まだ、俺たちの夫婦としての人生は、始まったばかりだから。












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