◇花の隋に
第四景 また巡り来る春に
一、
「たーく…何すねてんだよー。」
あたしの傍で、乱馬が苦笑いを浮かべながら、問いかけて来た。
「別にすねてないわよっ!」
強い口調で言い放つと、そっぽを向く。それから、ガタンと乱暴に椅子から立ち上がる。
「こら、どこ行くんだ?」
「洗濯干すのっ!主婦は暇じゃ無いのっ!」
そう言って、洗濯機が置いてある、お風呂場の脱衣所へと向かった。まだ、完全に止まった訳ではないけれど、そろそろ洗濯が終わる頃だと思ったから。
違う。乱馬の傍で、彼の御託をこれ以上聞くのが、耐えられなかったから。
ピーピーと音がして、脱水が止まった。
ガチャッとフタを開けて、洗濯槽に右手を突っ込む。
そして、乱暴に、カゴへと投げ入れる。手にしたのは、乱馬の洗濯物だ。
「こらこら、そんなに乱暴に扱うなよ!俺の道着…。」
後ろからくっついて来た乱馬が、脱衣所の外から声をかけて来た。
「うるさいっ!うるさいっ!うるさいっ!」
あたしは、言葉を三回投げつけると、洗濯物を入れたカゴへと手を伸ばそうとする。と、横からそれを制してきた太い腕。
「ほら、貸せ!物干し場まで、持ってってやる!」
半ば強引に、カゴをあたしから奪い去った。
「何よ!いつもほったらかしのクセに、今日に限って、気持ち悪い!」
悪態を突き返すと、
「仕方ねーだろ?普段、家に居ないことが多いんだし…。」
口をとがらせながら、どっこいしょとカゴを持ち上げる。
「結構重いな…これ。毎日、こんなの持ってるのか?」
とあたしを見返してきた。
「あんたの道着が重いだけよ!いつもはもっと軽いわっ!」
不機嫌に言い放った。
「ちぇっ!相変わらず、剣があるなー。そーゆー言い方しかできねーのかぁ?おめーは!」
苦笑いを突き返された。
「洗濯物くらい、親父に持たせよーか?」
「やめてよねっ!あたしが気を遣うわっ!」
「だって、一日、何もせず、おじさんとのらりくらりやってるしよー。そのくらい、労働させてもバチはあたんねーぞ!」
「いいわよっ!これくらい平気で持ってるんだから!」
長い廊下を渡って、勝手口から外へ出る。
外に出ると、どこからともなく漂って来る、桜の花の香。
と、さわさわと、桜の枝が揺れる。風に乗って、舞い降りて来る白い花びら。
花を見事に咲かせながら、たわわな花枝を薄水色の空へと広げていた。
「今年も、きれいに咲いたなー。」
ふっと乱馬の口から漏れる声。
「貸してっ!のたのたしてたら、今日中に乾かないわっ!」
あたしは、乱馬が持っていたカゴを、下に置く前に、さっと、手を突っ込んで、持ち上げようと身をよじった。
「きゃっ!」
と、途端、バランスを崩す。
ぐらっと来た。
アッと思って、受け身を取ろうと身を丸めた途端だった。
「あぶねえーっ!」
脇から乱馬の腕が伸びて来て、身体ごと、あたしを胸へと抱え込む。彼の機転で、何とか、転倒を免れた。
「たく…いい加減にしろよー!おめー、一人の身体じゃねーんだぞっ!」
ワシッと頭をつかまれた。
「わかってるわよ…。」
反省気味に、少し落ちる声のトーン。
「本当にわかってんだろーな?」
ずいっと、顔が伸びて来て、目の前で睨みつけられた。勿論、口元はいたずらっぽく笑っている。その様子に、つい、ムッとする。
「わかったから、離してよっ!」
「ダメだ!その様子じゃ、わかってねーっ!」
胸の中に、がっしりと抑えつけられて、あたしは、身動きできない。もごもごと腕から逃れようと身をよじるが、彼はガンとして受け付けない。
「ちゃんと、謝れよな…。」
声が上から聞こえた。
「何で、あたしが謝んなきゃいけないのよ?」
「訳分かんねーことで、プンすかしやがって!」
鼻をくいっと押された。
「何よ、それっ!」
「だから、変なヤキモチ妬くのは、やめれって言ってんだ!」
ニヤニヤ笑いながら、説教して来る乱馬。
「不真面目に、いちゃもんつけるのは辞めてよね!」
プンと顔を横に反らそうとすると、くいっと顎を掴まれて、正面へと向けられる。
「俺はいつも真面目だぜ…。それに、これは、いちゃもんじゃねーぞ!」
と言う割には、目元は笑っている。
そう、あたしの本音は、とっくに彼に見透かされている。
「じゃあ、何なのよ、あれは…。」
ぷくっと膨れるほっぺ。
「だからあ、俺たちの仲よしぶりに嫉妬している連中の「やっかみ」だよ。」
「やっかみ…って言う割には、具体的に書いてあるじゃない!」
収まるどころか、ヒートアップしていくあたしの言葉。
「具体的に書かれてようが、美辞麗句で書かれていようが、嘘は嘘…。嘘も方便だっ。」
「嘘なの?全部!」
「あったりめーだっ!」
コツンとおでこを軽く拳骨げんこつで叩かれた。
「おめー、そんなに俺が信用できねー訳?」
ええそうよ…と、コクンと、大きく頷いてやったわ。
「たく…。こいつは…。」
苦笑いが零れる乱馬。
もちろん、わかってるわよ。あんたが「浮気」なんかする訳ないって。…でも、先週発売された女性誌に、ゴシップ記事が載ったのも事実。
「人気格闘家、某アイドルと不倫か?」などという、センセーショナルな見出しで扱われていたんだもの、疑うなって言われても…ねえ。
「まったくぅー!俺とゴシップ記事とどっちを信用するんだよ、おめーは…。ゴシップ記事なんて、言ったらただじゃおかねーぞ!」
真顔で睨まれた。
「わかったわよ…信用してあげるわよ。」
「じゃ、謝って貰おうかな…。」
「何でそーなる訳?」
「いーから…謝れっ!」
このプライド高きナルシスト男は、あたしを制圧したいのかしら…。謝って欲しいのは、あたしの方なんだけど…。ゴシップ記事出ちまてごめんな…とか言えない訳?
あたしが、一度、ヘソを曲げたら、なかなか元に戻さないことを知った上での、悪あがきにしか見えないんだけど…。
このとうへんぼくも、一度言い出したら、梃子(てこ)でも折れない強情な奴なので、仕方がない…今回だけは、あたしが折れてあげるわ。
「わかったわよ!謝ってあげるわ。一度しか言わないからねっ!」
そこで大きく息を吸い込んで、一気に早口で言葉を放つ。
「疑って悪かったわねっ!」
「こらっ!謝るなら、ふんぞり返るな!」
…あんたに言われたくないわ…その言葉だけは…。
「まーいや…。俺は絵に描いたような、愛妻家だっつーことは、覚えとけよ!」
…一体全体、乱馬ったら、どこまで好き放題言うつもりだろう。
「愛妻家?どこがっ!」
大きな声で言い退けてやったわ。
すると、目の前で乱馬がニヤッと笑った。
「じゃ…証拠を見せてやるよ…。」
そう言って、見詰めてくる漆黒の瞳。
「ほれ…キス貰う時は目を閉じろ…。それが礼儀だろ?」
耳元に囁かれる、甘い誘いの言葉。
目を閉じたらおしまい。きっと、怒気も嫉妬も猜疑心も、全部、持って行かれてしまう。
いつから、そんなにずる賢くなったのよ!あんたは!
一向に瞳を閉じようとしないあたしに、業を煮やしたのか、クッと上半身を抱えて身を乗り出してくる。
どう足掻いても、キスするまでは、離そうとはしないだろう。
前より、数倍…わがままさに拍車がかかっている。それだけじゃない、色々なことに、あたしよりも長けてしまった。
そして、そんな乱馬を、全力で拒否するのもためらわれる、あたしが居た。
いや、本当は…遠征続きで寂しかっただけ…。ゴシップ記事を信じた訳じゃない。あんな記事を書かせるほど、普段から留守が多い彼に、要らぬ、天邪鬼が首をもたげただけ。
遠征も、彼の本業の格闘のためだし、食いぶちを稼ぐため…頭が理解できても心がすんなり受け入れない。一人残される不安が、最近のあたしには、耐えがたきことだったのだ。多分、ウエディングブルーが無かった分、マタニティーブルーが強く出ているのだろう。
こんな、情けないあたしが、立派な母親になれるのか…。乱馬の居ない間は、一人で悶々と考え込むことが多かった。
だから、久しぶりに帰って来た、夫に、甘えたかっただけ…。
嫉妬はあたしの愛情の裏返し。
大きな掌が頬を包む。
狙い撃ちされた唇は、あたしの天邪鬼な想いと一緒に、心を持って行く。
逃げられない…観念したあたしは、ゆっくりと瞳を閉じた。
一瞬、風が吹き抜けて、ざわざわと、桜の花枝が一斉に揺れた。
ひらひらと申し合わせたように舞い落ちる桜の花。
桜吹雪の帰還から、一年。
あれから、間もなく、あたしたちは、結ばれた。
乱馬が帰って来て、すぐに二人は婚約した。マスコミへの凱旋記者会見で、同時発表された。乱馬の口から語られたとはいえ、最初にポロっと口にしたのは、のどか義母さんだった。
てんやわんやの大騒ぎになったことは、言うまでも無く。
婚約から入籍、それから華燭の宴まで、数か月で一気に駆け抜けた。戻ってきた乱馬は、そのまま、天道家に住み着いたから、契りを交わすまで、そう時間はかからなかった。むしろ、十六歳で許婚にされてから、五年の月日が流れていた訳だから、晩熟(おくて)過ぎたと思う。
そして、当然のように、天道家(ここ)で所帯を持って暮らしている。
変わったのは、あたしの姓名。天道あかねから早乙女あかねになった。乱馬が婿入りして、天道家の跡取になるのではなかったかと、皆は首を傾げていたが、二人の間に生まれた子の誰かに、いずれ天道姓を名乗って貰うことで、落ちついたのだった。
門に「無差別格闘早乙女流 天道道場」と大きく墨字で書かれた看板を掲げ、熱心に通ってくる弟子もちらほらと現れ始めた。道場主は、乱馬。そして、格闘家として不在がちな彼を補佐するのは、お父さんと早乙女のお義父さん、そして、今は休んでいるけれど、この、あたし…。
乱馬の父と母も、ここに戻ってきた。その代わり、なびきお姉ちゃんがここを離れて行った。
『新婚のアツアツムードに、気を遣うなんて、真っ平ごめんよ。』
と、近くのワンルームマンションで暮らしている。この春、大学を卒業した。九能先輩にたかって始めた事業を軌道に乗せることに頑張っている。そう、就職はせず、学生時代に起業した事業にのめりこんでいる。
もちろん、ワンルームの家賃は、お父さん持ち。
『まだ、あたしは学生だから、袖をかじって当然でしょ?』
と、去年はそう言っていたが、この調子だと、何だかんだと難癖つけて、卒業したこれから先も、家賃をお父さんに請求しそうだ。いや、下手をすると、あたしたちが払う羽目に陥ってしまうかも…。天道家の家の部分は財産放棄してあげるから、遺留分だけでも先払いしてよね…とか、何とか言いそうだもの…あの姉は。
やがて、あたしのお腹には、新しい命が宿った。
そう、あたしと乱馬の一粒種。
大きくせり出したあたしのお腹は、それを如実に物語っていた。
だから、洗濯カゴを無理やりにでも持とうとしてくれたし、必死で、転ぶのを阻止してくれたのだ。
予定日は五月の半ば。もうじき、臨月に入る。
世間が思っている以上に、あたしたち夫婦は仲が良い。
相変わらず、痴話喧嘩もするし、つむじを曲げることもある。
ただ、今の乱馬の中に、天邪鬼はもう居ない。天邪鬼は、女乱馬と一緒に、消滅してしまった。そう、彼はもう、水を浴びても変身しない。男溺泉へ入り、めでたく、元の身体に戻していた。
世界的に著名な格闘家に成長した彼は、ストレートにたっぷりの愛情を、あたしの上に注ぎ込む、心の余裕が、できたようだ。
でも…天邪鬼はまだ、あたしの中に棲んでいる。
素直に慣れないで、つい、強い天邪鬼な言葉が、口を吐く。
彼は、笑って、そして、時に諫いさめて、あたしを見守る。また、言ってるのかと、柔らかな苦笑いを、顔に浮かべるのだ。
結果、喧嘩腰で迫っても、ある一定以上の溝は出来ない。乱馬の方が、あたしより数倍、長けてしまった。
乱馬が口づけると同時に、それまで静かだったお腹が、急に動いた。父と母のキスに、この子もきっと中(あ)てられたのだろう。いや、仲直りしたのが嬉しかったのかもしれない。僕も居るよと言わんばかりに、キュンとお腹を蹴られたように思う。
長いくちづけから解放されると、当然の如く、あたしの怒気もきれいさっぱり消えていた。
二、
キスが終わって、見詰め合ったまま、暫く、佇たたずんでいると、ボコッと土が盛り上がった。
「ここは、どこだー?」
聞き覚えのある、青年の声が響き渡る。
あたしと乱馬は、ふっと笑いをもらした。
桜の木も呆れたのか、ひらひら、ひらひらと、花びらを舞い散らせてくる。
「おい…良牙。てめー、人ん家の庭を勝手に掘るなよな…。」
腕組みしながら、乱馬が言い放った。
「おっ!乱馬か…。ってことは、しめしめ…やっと、大会会場へ辿り着けたのか!」
キラキラと良牙君の瞳が光り輝いた。どうやら、試合会場を求めて、彷徨っていたらしい。どこをどう掘り進めてくると、ここへこうやって、到達するのだろう。
「おい…ここは、大会会場じゃねーぞ!おれんちだぜ!」
「おれんち?」
キョトンとした表情を巡らせた良牙君と、瞳があった。
「あ…あかねさんが居る…。ってことは、試合はどうなった?会場へ連れて行ってくれ!乱馬っ!」
わっしわしと、良牙君は乱馬の腕をつかんだ。
「あのなー…試合なんか、とっくに終わったぜっ…たくぅ…。おめー、来ねえから、不戦敗食らったぞ。」
「ああ…何たること…。またやっちまったのかああ…。」
頭を抱えて、地面にひれ伏する、良牙君。
その上に、桜の花びらがいくつか、ふわふわと乗った。まるで、慰めているかのように。
「たくー、去年の世界大会も彷徨ってたもんなーおめーは。」
「え?そーなの?」
ヘッとあたしは乱馬を見返した。
「ああ…。そもそも、俺の帰国が大幅に遅れたのは、こいつのせいなんだぜ。」
ふうっとため息を漏らした。
「え?」
「大会に出場できたのは、褒(ほ)めてやるよ…。で、俺に負かされた後が、いけなかったんだ。」
「あんた、良牙君と対戦したの?」
「ああ…確か…八強を決めた後、準々決勝でな…。俺とこいつだけが日本人の中で残ってたんだ。で、珍しくこいつ、まともに試合会場へ現れやがったもんなあ。」
勿論、初耳だった。準決勝を突破した辺りで、マスコミが俄かに、乱馬に注目し始めた。だから、良牙君と乱馬が、準決勝でやりあったのは、知らなかった。
「で、こいつに、俺の全試合が終わるまで、待っとけって口を酸っぱくして言ってたのに…。全試合終わってみたら、ホテルから姿を消してやがったんだ。
たく…俺に、呪泉郷に案内してくれって、言いだしたのは、おめーだろ?」
「え?呪泉郷?」
「ああ。俺が男に戻ってたのを見て、連れてけって、しつけーったら…。」
乱馬の口が、そこで、一旦止まった。
真横に良牙君が立ったからだ。その時、何故、良牙君が呪泉郷に行きたがったのか、理解に苦しんだあたしは、そのまま問いかけていた。
「何で、良牙君が呪泉郷に行きがってたの?」
あたしがそう吐き出すのと一緒に、桜の花びらが落ちて来る。
と、良牙君が乱馬の頭をポカリとやった。
「よけーなことは、言うなっ!ボケっ!」
「ねえ…まさか、良牙君も呪泉郷に溺れて、変身体質だったりなんかしたのかな?」
あたしが、からかい気味にそう吐き出すと、一瞬、二人の動きが止まった。
「いいえ、いいえ、俺が呪泉郷で溺れたなんてこと…そんなことは、ぜーんぜん、ありませんから。あっはっは。」
大きく手を振りながら、良牙君が言った。何か、変な汗かいてない?ちょっと気になったあたしは、続けざまに尋ねた。
「じゃあ、何で呪泉郷に行きたかったの?」
「あ…いや、一回、呪泉郷を拝んでおきたいなーとか思って…。」
それも、ちょっと返答としては不思議だった。
「ねえ…良牙君って、確か、あたしが呪泉郷に連れて行かれた時、一緒に居たわよねえ…。ムースやシャンプーたちに混じって…。じゃあ、わざわざ、もう一回行かなくても、良かったんじゃないの?」
素朴な疑問をぶつけると、
「ほら、あの時は、すったもんだあって、観光が全然、出来なかったですから、あは…あはは。」
「そもそも…あの時、良牙君が居たのが、不思議だったんだけど…あたし。だって、良牙君は呪泉郷関係者じゃないでしょ?なのにくっついて行ったんだもの。」
「いや、こいつが、俺との勝負をつけないまま、シャンプーやムースたちと呪泉郷に渡るって言ってたから、無理やり、一緒に行っただけですよ。な―乱馬。」
「ああ。俺も連れてけってうるさくって、しょうがなく連れてっただけだ!」
乱馬も良牙君と一緒になって、力説する。
…何か、二人とも、言い訳が滑ってない?
そう思ったが、それ以上の詮索は辞めておいた。もしかすると、本当に、良牙君は、あたしが知らない変身体質を持っていたのかもしれない…まあ、ほとんどその可能性は無いとは思うけれど、そうだったら深追いしない方が無難だから、危険回避のためにも、その話はそこで打ち切った。
「えっと、話に戻るが…で、普通にはぐれただけだったら、俺も、捨て置いて、さっさと帰国の途につきたかったんだが…。あかりちゃんを置き去りにしてたんだよ…こいつ…。」
「え?」
「良牙様が居なくなりました、乱馬様、どうしましょー…って、真っ青な顔をして。カツ錦と共に、おろおろしてたから…。放っておくこともできなくてよー…それから、中国大陸へ向けて、強行軍が始まっちまったんだよ…。一応、カツ錦が一緒だったから、奴の動物的カンを使って、見つけ出した時、ゆうに、二週間過ぎてた訳だ…。で、上海から船に乗って、大阪港経由で戻ってきたんだよ。まあ、それはそれで、空港を張ってたマスメディアの連中に見つからなかったから、正解は正解だったんだけどな。」
確かに、それなら、ノーマークで日本へ戻れたことは、容易に想像できた。
「たくう…。桜が咲く前に帰りたかったのに…。もう、散りかけてたんだからな、この野郎は。」
「男がぐちぐち、女々しいことを言うなっ!」
良牙君が怒鳴った。
世界格闘チャンピオンになったのに、帰国が大幅に遅れた理由…聞く機会を逸して、今日まで来たのが、これで、全ての謎が解けた。
何故、あの時、すんなり帰国して来なかったのか…そして、あれだけの日数を要してしまったのか…。マスコミも全然、乱馬の行動をつかめていなかったし、それが、全て、良牙君たちに起因していたなんて…。その中、帰って来ない乱馬に、あたしの心は千路に乱れて、大変だったけれど、理由がわかって、すっきりした。
「で?呪泉郷には、寄れたの?」
「寄れる訳ねーだろ?俺だって、早く、戻りたかったし。寄ってたら、桜は散っちまってたぜ!下手こくとゴールデンウイークも回ってたかもしれねーんだから…。」
「呪泉郷に寄れてないってことは…、水をかけたら、良牙君、何かに変身するのかしら?」
あたしの冗談に、一瞬、二人ともヘッとなった。
「そ…そんなことありませんよ。へ…変身なんてしませんよ…あは…あーっはっは!な?乱馬っ!」
「おいおい、水かけんなよ…まだ、肌寒いし、風邪ひいちまうからな!絶対、やめとけよっ!」
乱馬が、強い声で言った。
「冗談、冗談よ!何、真顔になってるのよ、あんたたち…。」
そう言いながら、にっこりとする。心なしか二人の顔がひきつっていたのは…気のせいかな…。
「で?今日は…あかりちゃんは、どーしたんだ?」
乱馬は、良牙君へと、尋ね返していた。
「さあ…。途中まで一緒だったんだが…。」
「ったく、この野郎は…。また、はぐれたのか?」
「あ…ああ。」
「いつはぐれた?」
「さあ…。一週間くらい前かな…。」
乱馬と良牙君の交わす、悠長な会話を聞きながら、クスッと笑いが零れた。
「それなら、大丈夫よ、良牙君。」
あたしは、良牙君に向かって笑いかけた。
「はい?」
「あかりちゃんなら、昨日、商店街の外れで会ったわよ。もし、良牙様にお目にかかったら、もう、家に戻っていますから、安心してくださいって…伝言頼まれてたの、思い出したわ、あたし。」
「ほ…ほんとですか?良かった!」
曇っていた良牙君の瞳がきらきらと輝き始めた。
「こら…。だからって、また、勝手にここを飛び出したら…迷子になるだろーが。良牙っ!」
そう言って乱馬は、ぐいっと、今にも走り出そうとしている、良牙君の首根っこを引っ掴んだ。
「こら、何をする!乱馬っ!」
バタバタと手足を動かしながら、前に進まない良牙君。
「だから、待てって言っとるんじゃ、このおっちょこちょい豚!」
「何だと?」
「ほらほら、喧嘩しないで。」
あたしは、興奮しはじめた二人をなだめるために、間に入った。
「…良牙君も乱馬の言うことに、一理あるから…。そうよ…迎えに来て貰ったら、いいんじゃない?あたしが電話であかりちゃんを呼んであげるわ。」
「そいつは、グッドアイデアだぜ。」
ポンっと乱馬が手を打った。
「おめーを送るより、あかねちゃんに来て貰った方が、迷子率も下がるしよー。」
「ね?良牙君…それがいいわ。あたし、電話かけてくるから。」
「おー、慌てて素っ転ぶなよ!」
「わかってるわ!」
玄関に回って母屋に入って、あかりちゃんに良牙君のお迎えの電話をかけた。
もちろん、二つ返事で、あかりちゃんは迎えに来ることに承諾してくれた。
そして、チンと電話を切ると、にょっと、お父さんと乱馬のお父さんが、雁首並べて、ひょいっとあたしの後ろに立っていた。何か、あたしに物言いたげだ。
「どーしたの?お父さんたち。二人揃って。」
キョトンと質問を投げると、
「いやね…。」
「あのだね…。」
二人はコクンと頷いて、一斉に言った。
「お花見しよう!あかね!」「あかね君!」
「いきなり、何を言いだすかと思ったら…。」
脱力気味に答えると、
「そろそろ、桜も散り始めておろう?明日は雨が降るらしいから、今日がお花見のラストチャンスなんだ!」
「場所取りや料理はワシらが揃えるから。」
二人とも、行く気満々で、にこにこ顔であたしを誘って来る。一応、妊婦であるあたしを気遣って、できるだけ負担にならないように、花見を決行するつもりで、許可を取りに来たようだ。後ろにブルーシートを抱えているところを見ると、これからすぐに、場所取りに向かう気満々だ。
「あの…それなら、別に、遠出しなくても…。」
とあたしが言いかけると、
「いや、池の公園で良いのではないかね?」
去年、おととし、あたしが高校時代の友人たちと花見した、桜がきれいな公園だ。人出もたくさんあるから、お花見シーズンは、結構、混雑する。しかも、明日が雨だというのなら、余計、今日は人出があるだろう。
ちょっと、今のお腹の張り具合では、人ごみの中には、あんまり行きたくない…。きっと、そんな気配をあたしから感じたのだろう。
「やっぱり…妊婦さんが身体を冷やしちゃ、まずいかね?」
恐る恐る、お父さんが尋ねてくる。
フウッと一つ、溜息を吐きだすと、
「そうね…今、無理はしたくないわ…あたし。」
と答えた。
「やっぱり…そう来るか。」
ふたりとも、シュンとうな垂れる。
「もー!お父さんったら。うちにも立派な桜があるじゃない。別に外に行かなくても、うちでやればいいんじゃないの?せっかくだから、お姉ちゃんたちや良牙君たちも交えてさ。」
「それでは、あかねに負担がかからないかね?」
「そう思うなら、お父さんたちが惣菜を買いだして来てくださいな。お酒だって準備しなきゃならないし…。あたしなら大丈夫。乱馬が手伝ってくれるだろうし。我が家なら、冷えて具合が悪くなりかけたら、すぐ、ベッドにもぐりこめるもの。」
そう答えると、二人の顔が、再び輝きだした。
「それも、そーだな。我が家にも立派な桜があるか。」
「自宅で花見…なかなか、優雅でいいね、天道君。」
「この屋の主は、私だけどね、早乙女君。」
がっはっは…と、お父さんたちは、腰に手を当てて、笑い出す。
「じゃあ、皆を誘いがてら、色々買い出しに、行ってくるよ。」
「そっちはドンと任せてくれたまえ。あかね君。」
「途中、のどかさんの着付教室にも覗いて、一緒に買う物を、見立てて貰うから、大船に乗った気でワシらに任せなさい。」
そう言って、父親たち二人は、颯爽と、出て行った。勿論、ブルーシートは残したまま。
「ホント…お父さんたちの仲よしぶりは、さすがだわ…。」
思わず、苦笑いが零れた。
と、トントンと同意するように、お腹の子が、また、動き出した。
この二人の父親たちが、親友同士でなければ、この子の存在は無かった…。そう思うと、急にジンとなった。
「…っと、乱馬にも言っとかなくっちゃ…。で、洗濯物を、表に回して貰わなくっちゃ。桜の下は宴会場になるんだから…。」
あたしも、玄関を出て、裏へ回った。
三、
戻ってみると、乱馬が、良牙君を両脇に抱えていた。
男が男を抱き上げている、不思議な光景。
「何やってんの?」
不思議そうに、声をかけると、
「シッ、静かにしろ…。」
と小声でささやかれた。
覗きこんで見ると、どうやら、良牙君…寝込んでしまったようだ。乱馬に身体を預けたまま、スヤスヤと寝息をたてている。
きっと、寝ずに、あちこち彷徨って居たに違いない。そして、あかりちゃんが迎えに来てくれることになって、ホッとして、色々、抜け落ちちゃったんだろうな。
乱馬はそのまま、良牙君を、道場まで抱えていくと、引き戸の前で止まった。
「悪いけど、ここに寝かせっから、引き戸、開けてくれ。」
と懇願された。
「いいわよ。」
ガラガラっと引き戸を、開いた。
どうやら、道場の中に良牙君を寝かせておくようだ。
良牙君を板の間に連れてあがると、どっこらしょと、背中から下ろして、床板の上に横たえる。
「どーせなら、母屋に寝かせてあげればよいのに…。」
と、声をかけると、
「泥だらけな奴を、母屋に上げるのも、気が引けるだろ…?道場なら、多少汚れてても、後で雑巾かけときゃいいし…あ。勿論、俺とこいつでかけるからよー。おめーはノータッチでいいぜ。」
と言った。
「でも…せめて、何か上にかけてあげないと、冷えるんじゃない?」
「別に、大丈夫じゃねーの?何もかけなくても…。今日、暖かいし。」
そう言いながら、そっと引き戸を締める乱馬。
「あんた、冷たいわねー。道場の中って、結構冷えるでしょーが…。」
「だから、締めてやってるんだよ…。それに、疲れきってるみてーだからな…。良牙。だから、わざわざ、起こさずに寝かせてやってんだぜ?優しいよ…俺は…。」
だから、自分で「優しい」言わないわよ、ホントに優しいなら…。
「で?親父たちは、どこへ行ったんだ?」
「そうそう…。昼から皆を呼んで、家でお花見をやることになったのよ。」
「また、あの親父たちは…あかねの体調を顧みず…そんなことを思いつきやがって…。」
「っていうか、あたしから頼んだの。」
「あん?」
不思議そうにあたしを見返して来る。
池の公園に行こうと誘われて、ここでやろうと言い出したのはあたしだ…と、説明し始める。
「何で、家でやる気になったんだ?」
「だって…。せっかく、毎年、きれいに咲いているのに…。勿体ないなって思ったのよ。」
あたしは、洗濯物を移動するのを手伝って貰いながら、ゆっくりと言葉をついだ。
最後の洗濯物を、表へ移動させると、ふうっと、勝手口に立って、桜を見上げた。
日あたりが表よりも少し悪い場所にこの桜はある。北側ではないにしろ、東側だ。当然、日照条件で、桜の成長の仕方や、咲く時期が、若干ずれる。もっとも、ずれても、一日ないし二日だが…。
メジャーな花ではあるが、天道家ではメジャーな表側に植わっていない。故に、ここでこの桜を見上げて、お花見をしたことは、これまで無かった。母が生きていた頃は、まだ、幼い低木だったし、家でお花見をする発想も家族たちにはなかなか持てなかったからだ。
「お母さんがここに居たら、きっと、この桜の木の下で、お花見をしましょうって…そう言うだろーなって思ったのよ。」
「ふーん…。」
「この桜の木、お父さんとお母さんの手で、ここに植えられた結婚記念樹なのよ。」
「そっか…なるほどね…。この桜は、おまえにとっても、特別の木だった訳か…。」
ポンと乱馬があたしの肩を叩いた。
「桜って、きれいだよな…。どんな種類も…。」
ポツンと乱馬が言葉を放った。
「修行始めた頃…。俺、とりあえず、大陸目指すのに、まず、日本の野山駆けてたんだ。で、一応、野宿しながら、西へ向かって、険しい山を選んで走ってたんだ。
で、吉野山を駆けてたころ…有名な吉野山の桜の乱れ咲きを見たんだよな…。吉野桜は山桜だから、葉と花が一緒に開くから…ソメイヨシノとはまた違った美しさに惹かれちまった訳。で、吉野山を出る時、ハガキを買ったんだ。来年、修行に一区切りがついて、大会が始まる前に、一筆だけ、おめーに近況を書いて投函しようってな…。」
「そーだったんだ…。だから、あのハガキ…吉野山だったのね。」
「ああ…。あの山の群生は素晴らしいぜ。今度、連れてってやるよ。」
「でも、桜の時期の吉野山って混むんでしょ?」
「俺が修行で駆けてた山から見せてやるよ…観光地じゃなくってよ。じゃねーと、桜を見てんだか、人の頭を見てんだか、わかんねーからな…。」
「ま、この子次第ね…。」
あたしの声に反応して、また、お腹がピクンと動いた。
「ふふふ、この子も見たいんですって…。」
「この子の声が、おまえには聞えるのか?」
不思議そうな瞳を返された。
「まさか…動いたのよ…あんたの声に反応して…。」
「ふーん…。」
そっと、あたしのお腹に手を置いて、その動きを確かめる、乱馬。
「ホントだ…動いてる…。元気がいいな…この坊主。」
「一応、男の子だとは言われているけど、たまに外れることがあるから、まだ、未定よ、男か女かはわかんないわよ。」
「この蹴り方は男だと思うぜ…。いや、待てよ…おめーみたいな、おてんば娘かな?」
「あたしみたいなおてんば娘って、どういう意味よ!」
思わず、語気が荒くなる。
「褒(ほ)め言葉だよ。」
「どこが褒めてるのか、わかんないけど?」
キッと見詰め返すと。
「いいだろー?俺とおまえの血を受けた子なんだぜ…。息子、娘、どっちにしたって、大人しい訳ねーだろが。」
と、また、ニヤッと笑われた。
失礼しちゃうんだから、もう…。
「ところで…、俺も一つ、聞きたかったことがあるんだけど。」
「なあに?」
「おまえ、去年、俺がここへ戻って来た日…。ここで桜見上げて、何やってたんだ?それに…あの時のおまえ…泣いてたからな…。あの前に何があったんだろーけど…聞かされてなかったよな…。」
さああっと、風が吹いて、花びらが舞い降りる。太陽の光を受けて、キラキラと美しい。
暫し、黙っていると、
「両手を広げて、目いっぱい伸ばしてたろ?こう、桜の花びらをつかまえるみてーに…。一年経ったんだ…、教えてくれねーかな…。」
と、両手を上にさし上げて見せた。
確かに、あの日、あたしは、無我夢中、ここで、この桜の木の下で、花びらを手に納めようと、必死で掌をさし挙げ続けていた。泣きながら…。
合コンで格闘勝負を繰り出して、相手を拳で投げ飛ばし、一気に虚しくなって、そのまま、靴もはかずに、裸足で逃げ帰って来たのだ。
乱馬の目にあたしは、さぞかし奇怪に映っていたことだろう。
彼は、何も言わずに、ただ、泣きじゃくるあたしを、優しさで包んでくれていた。
「あれね…。あたし、あの前に、暴走して来たんだ。」
あたしは少し、自嘲気味に笑った。
「暴走?」
「うん…。大会に優勝したのに、あんたからは連絡は来ないし、ちょっと、ナーバスになってたからね…。」
そして、あたしは、ゆかたちに呼び出されて行った花見が、合コンだったこと、それから、相手の男子たちが優勝した乱馬のことを揶揄(やゆ)したこと、それに腹を立てて、要らぬ私闘を繰り広げて、ヒロセとかいう空手男子を拳で吹っ飛ばしたことを、淡々と話した。
「そっか…。そんなことがあったのか…。おめーらしーな…。先のことを考えずに、力で突っこんで行くところとか…。」
「あんたね…。他人事だと思わないでよね…。元はと言うと、連絡一つ寄こして来なかった、あんたに全ての原因があるってことを、忘れないで欲しいわ。」
じろっと睨み返すと、フッと笑い飛ばされた。
「わかってるよ…。ま、俺だって連絡したいのはやまやまだったんだけど、その術がなかったしな。良牙もあかりちゃんも携帯なんて持って無かったし。」
「いいわよ…。さっき、ちゃんと理由も聞けたし。」
「まさか、女作って帰るのが嫌になったとか、思ってなかったよな?」
「あんたね…怒るわよ!そんな余裕なんてなかったんだから。」
ムッとした顔で見返す。
「で…桜に向かって、恨み辛身を吐きつけてたのか…。」
あたしは、ブンブンと顔を横に振りながら答えた。
「違うわよ…。あたし、自分の願いを叶えて欲しいって思って…。桜の花びら占いをしていたの…。」
「桜の花びら占い?」
「ええ…お母さんが小さいころに教えてくれた占いでね…。こうやって、舞い落ちて来る花びらを、さっと手でつかんで、三枚、花びらが掌の中に入っていたら、願いが叶うって…。」
「こうんな風にか?」
乱馬は風に舞って、落ちて来る花びらを、掌でサッとすくった。勿論、彼のことだ。掌を繰り出すスピードは、あたしの比では無い。
広げて見せた掌には、三枚…花びらが収まっていた。
「ほら…。三つ…つかんだぜ。」
そう言って、にっこり微笑む。
「え…。嘘…。一回きりで…。」
目を見張ると、
「じゃ、今度は左手。」
と、今度は左手が空を切る。
そして、開くと、また、三枚の花びらが、ちょこんと掌に収まっていた。
「どうして…。」
狐にでも化かされたような顔を、あたしは乱馬へと手向けていた。
「あのなあ…。おまえも、武道家の端くれだろーが…。おまえだって、何回かに一回は、平然とやってのける実力持ってんだぜ?気技、コントロールできるようになったんだったら、尚更。」
そう言いながら、笑っている。
「何か、コツがある訳?」
「あるある…大有りだぜ。ほらっ!」
そう言うと、今度は両手を繰り出して、その両方に三枚の花びらを収めていた。
「俺の場合は、ほぼ、百パーセントやってこなせきゃ、失格だろーがな…。火中天津甘栗拳…があるから。」
「あ…。」
『火中天津甘栗拳』。その言葉を聞いて、やっと、理解した。乱馬は動体視力と拳技を合わせ持って、瞬時に空を舞う花びらを、目に見えぬ速さで掴み取っていたのだ。まさに、火中天津甘栗拳の応用。
「多分…冷静沈着さを欠いてたおまえには、ここまで、やれなかったんだろーけど…。ちったあ、格闘家としての、頭脳も鍛えろよな…。何も、闇雲に拳を振り上げるだけが、無差別格闘流じゃねーぞ…。」
少し、ムカつく言い方で、あたしをチラッを見据えてくる。馬鹿にされた…そう思ったからだ。
「格闘家の能力を使ってやったら、意味ないじゃない!」
つい、強く言ってしまう。
「ま、確かに、占いとしては、成立しねえだろーけどな…。」
そう言って、乱馬は、最後に掴んだ、三枚の花びらを、あたしに向けて、差し出した。
「願い事がかなうか否か…それは、己の意志一つで、決まるんじゃねーのかな…。俺はそう思うぜ…。」
「じゃあ、あたしが、あんたの帰りを願ったのは、ダメだったとでも言うの?」
じっと睨みあげる瞼に、みるみる、涙があふれて来る。
乱馬は花びらを再びグッと、拳の中に握りしめると、反対側の腕で、あたしの身体を、引き寄せる。そして、己の胸の中に、あたしをからめた。
「ダメだなんて…言わねえーよ…。おまえが、そうやって、俺を想いながら、留守を守ってくれているおかげで、俺は、自由に外へ出て行ける…。ギリギリのところまで踏ん張って、頑張れるんだ…。ありがとな…あかね。」
ほんとに、いつから、そんなにあたしに対して、優しくなったのよ…。
これじゃ、反論もできないじゃない。
恋の駆け引きも…あんたの方が上手じゃない…。
いや、案外彼は…これから母になる、あたしの不安を全て見透かして居たに違いない。
「この三つの花びらは…天道三姉妹…をかたどってるんじゃねーのかな…。この桜の木を植えた、おまえの母はきっと…三人の娘の行く末を案じていた筈だから…。」
乱馬が差し出した掌から、ふわりと、花びらが風に煽られ、舞いあがった。そして、みるみる、他の花びらと混じって行ってしまう。
その花びらを見送りながら、あたしたは、空を見上げた。薄墨色の柔らかな空に、薄桃の花びらが、舞い踊る。
乱馬の肩越しに見詰める視線の先。ひらひらと舞う白い花びら。
(惹かれあう二つの魂の間には、花びら占いは無意味なのよ…あかね…。)
母の声が、風に流れて聞えて来たような気がした。
ハッとして、目を見開くと、柔らかな瞳が目の前で揺れていた。
あたしの手を、一回り大きな手が、握りしめてきた。
「来年も…また、その次も…ずっと、一緒にこの桜を、見上げようぜ。」
そう差し出された言葉に、コクンと大きく頷いて答えた。
この桜の下で、愛を誓い、再会を果たし…そして、未来を誓い合う。
そっと閉じた瞳の裏で、母が柔らかく微笑んでくれた気がした。
乱馬と合わせた唇の下、また、新しい命が、嬉しそうに、お腹を蹴って来る。
父と母からあたし、あたしと乱馬からこの子へ…確かに伝わって行く、命の輝き。この子はどんな恋をするのだろう…。きっと、不器用な恋に違いあるまい。切に願うは、最低な出会いでも、最高な恋をして欲しい…。あなたの父と母…乱馬とあたしのように。
「さてと…。早く洗濯物を干しきって、お花見の準備をしねーとな。」
離れ際に、ポンと肩を叩かれた。
「そうね…。乱馬も手伝ってくれるわよね?」
「当然だ!」
二人一緒に、ころころと笑った。
また巡りくる春。次の春も、その次の春も…。春が来るたびに…あたしは乱馬と二人、ずっとこの桜を見上げ続けているだろう。
桜は行く春を惜しみながら、花びらを薄水色の空へと舞いあがらせていた。
完
(2015年4月18日)
2015年4月25日…推敲手直し版掲載
あとがき
ある春の夜、酔いざましにお散歩に出て、道端にちらほらと咲き始めていたソメイヨシノを見上げ、その美しさに見とれて、ぽっと浮かんだプロットが元になっています。
天道家に桜の木があるかどうかは不明です。が、アニメでは花びらがちらちらしていたので、多分、あるのではないかと勝手に思いました。どうせなら、あかねちゃんの母親のこともからめたかったので、記念樹の設定もお得意のねつ造であります。
第一景は二人の愛の誓い
第二景は乱馬を待つあかね
第三景は桜花の下の再会
第四景は母になるあかね
一本の桜の木の下で繰り広げられるその四つの情景が、頭に浮かびました。
物語ではなく、情景作品になったのも、桜を軸に時の流れを書こうと思ったからです。
途中、名古屋に行って、旦那にうつされた熱風邪。生駒に戻って、高熱が続いて、予想外に、書きあげるのに時間がかかってしまいました。書きあげた時は、桜が散ってしまっていたと言う(涙
桜を書くのは好きです。桜をベースにした作品は「桜狩」「名残の桜」「花魂」「花の坂道」などなど・・・季節がくると書きたくなります。多分、また、来年も、桜モチーフの物語を、書いていることでありましょう。
「サクヤコノハナヒメ」という記紀神話の女神様を軸に、ソメイヨシノのクローンにも引っかけて、いつか、桜で一本…乱あでSFちっくな桜がらみの長編物語を書いてみたいとずーっと思っています。
その前に…まほろば仕上げないとね(汗
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