◇花の隋に
第三景 花吹雪の中で



 ふうっと満開の枝を見上げて、特大の溜息がもれた。
 ぬぐう右手に、額の汗が少しついた。

「やっぱ、ダメかあ…。」

 今し方、砕いた、瓦の破片を見詰めて、また、ふうっと、溜息が漏れる。
 砕いた破片を、一つ一つ、丁寧に拾い上げて、道場脇へと避ける。

「何がいけないのかなあ…。」

 瓦五枚分、粉々に砕け散っていた。
 ボロボロに、砂塵と変わらぬくらいに。
 瞳を巡らせた道場脇に、真っ二つに割れた瓦が、積んである。見事なまでの切り口。
 二年前、「餞別」に、乱馬が割って見せてくれたものだ。
 その瓦を一つ、手に取ると、しげしげと眺める。
 嫌みなくらい、すっぱりとした割れ口。

「やっぱり…あたしには気技は無理なのかしら…。」
 
 力で割るだけなら、あたしもきれいな割れ口にしてみせる自信はある。が、二年前乱馬が見せてくれたような、気を使って一気に割る方法を試みると、木端微塵に割れ砕かれてしまう。
 気が上手にコントロールできていない証拠だ。
 あいつが、ここにいれば、気のセーブができていないとか、雑念が多すぎるとか、力に頼るなとか……好き勝手、くさされるに決まっている。
 そう。あたしの頭の中に巣食う雑念が、振り下ろす手にまで、伝わっているのだと思う。
 乱馬がこの地を去って以来、あたしは、真面目に修行してきた。
 天道道場の跡取として、一念発起したのだ。
 乱馬が瓦を割って見せたのは、きっと、俺を追って来い…。そう言いたかったに違いあるまい。
 俺が居ない間、瓦を真っ二つにきれいに割れるほど、気のコントロールができるように、修行してみろ…。多分、暗にそう示したかったのだと思う。
 あれから二年…。あたしの修行は道半(なか)ば。

「たく…相変わらず、瓦割りなんて、何が面白いのかしらねえ…。」
 背後で、なびきお姉ちゃんの声がした。
「うるさいわねー!子供のころからやってることだから、今さらでしょ?」
 少し不機嫌に声を返す。
「ほら…あんたの携帯…さっきからずっと鳴ってるわよ。」
 そう言いながら、なびきお姉ちゃんはあたしへ携帯を手渡す。
 文字盤に触ると、確かに「着信あり」というメッセージが浮かび上がる。
「誰からかな?」
 指で撫でると、ゆか、それからさゆりからの着信だった。
 二人から、ほぼ同時に着信を受けたようだ。
「何の用かしら。」
 あたしは、なびきお姉ちゃんから携帯を受け取ると、早速、ゆかに、かけなおした。


『あ、あかね。遅い!もっと早く、反応してよね!』
 と、開口一番、怒られた。
「ごめんごめん、ちょっと手元に携帯を置いてなかったから…。で?何?」
『あんた、今日の夕方、暇でしょ?』
 唐突に聞かれた。
「ええ…まあ、暇と言えば暇だけど…。」
 いきなり何かと言わんばかりに問い質す。少し苦笑いが漏れた。
『お花見するから、出て来なさいっ!』
「お花見?」
『さゆりも一緒よ。みほちゃんも来るわ。ね?折角桜がきれいだからさー、お花見するの。当然、あんたも数に入れたからね!』
 強引に勧誘する。
「うーん…。ちょっと待って、家のみんなに行っていいか聞いてみてから、返事するわ。」
『何?それ。』
「だって、夕食作ってかなきゃダメだから…行くにしても…。」
『そっか、今はあんたが天道家を切り盛りしてるんだっけ…。まあ、いいわ。遅くなってもいいから、ちゃんと、来てねー。場所は追って、メールするから!』
 と言って切られた。

 傍で聞いていた、なびきお姉ちゃんが、
「せっかく、誘ってくれたんだから…気分転換に、行って来たら?」
 と笑いながら言ってくれた。
「お姉ちゃんが、夕食作ってくれるの?」
 怪訝に顔を傾けると、
「まさか!あたしは作らないわよ。」
 と、ポツンと言って退のける。
「じゃあ、作って行けばいいのかな?」
「夕食のことなら、心配無いわよ。」
「え?」
「さっき、かすみお姉ちゃんから電話があってさー、あたしたちも花見に行くことになったから。」
「かすみお姉ちゃんから?」
「ええ…。かすみお姉ちゃんが、みんなでお花見しようって…。ほら、東風先生んち、木曜の夕方は休診日だしさ。かすみお姉ちゃんが腕によりをかけて、色々作ってくれてるんだって!」
「そうなの?」
「うん。だから、夕食の心配はしなくていいわよ。それに…。乱馬君のことを、うじうじ悩んでるだけで、花見もしないで、桜のシーズンが過ぎちゃうのは、勿体ないわよ。」
 最後に投げつけられたお姉ちゃんの言葉に、ハッとする。

 そう。乱馬はまだ、帰って来ない。

 ハガキが来て丸一年。あれから、一度も音沙汰が無いのだ。
 予選大会からほぼ、丸一年かかって、世界チャンピオンが決まったのは、三月中ごろのこと。つまり、大会から半月経ったのに、音沙汰も無しのつぶて。
「たく…優勝したっていうのに…。戻ってくる気配もないしね…。」
 なびきお姉ちゃんは、歯に衣を着せず、ズバズバッと、あたしの懐に刺さる言葉を投げかけて来る。

 そう、彼は予選から勝ち上がり、頂点に立った。僅か二十歳の新チャンピオン。格闘界そのものが大きくわなないた。もちろん、この総合格闘技の大会に興味が薄かったこの日本でも、無差別格闘流というマイナーな流派が、格闘オリンピックのてっぺんを取ったというので、にわかに騒がれ始めていた。
 決勝で対戦した、本命の前チャンピオンをあっさりと負かしてしまったこともあり、瞬く間に、格闘界の頂点に上り詰めたこの、「早乙女乱馬」という無名の青年を、こぞって、マスメディアが追いかけ始めていたのだ。

「ま、乱馬君なりに、天道家(うち)に気を遣ってるから、帰って来ないのかもしれないけれどね。」
 そうだ。乱馬の実家、早乙女家の周辺は、取材が殺到していた。
 詰めかけるマスメディアに、日夜、乱馬の母、のどかおばさまが矢面に立って、独特の不思議な間合いで、応じている。
「で?あんたはこれからのこと、ちゃんと考えてる?」
 トンとお姉ちゃんに肩を叩かれた。
「特に何も、考えていないわ。」
 あたしは、瓦の欠片を拾い上げながら、ぶっきらぼうに突き返す。
「相変わらず、呑気(のんき)ねえ…あんた。」
 姉はそう言って、ニッと笑った。
 おそらく、この長けた姉が、お父さんたちに言われて、あたしをマスコミの餌食にすまいと、裏から手をまわしてくれていることは、うっすらとあたしにもわかっていた。おばさまがマスコミの前に立っているのも、あたしを守るための行動なのだろう。勿論、お金に目の無い守銭奴の姉だから、何がしかの報酬を貰っているのかもしれないけれど…。
 出身校の風林館高校の責任者はあのぶっ飛んだ九能校長だし、担任も、二の宮ひな子先生だから、姉には牛耳(ぎゅうじ)りやすいはず。
『サオトメランマ…バッドなスチューデントでしたねー。』とか『どちらかと言うと、早乙女君は、悪い子ちゃんでした!』とか…。この二人、マスコミには、素っ頓狂なコメントしか出していない。
 クラスメイトたちからの、リークもなく、今のところ、あたしはノーマークで過ごせている。
 乱馬とは許婚同志…ということが、マスコミに漏れようものなら、おそらく、安泰というわけにはいかないだろう。いくら、あたしが否定したとて、それで納得する世間の好奇心ではあるまい。

「乱馬君も、マスコミの熱狂ぶりを恐れて、わざと帰国を遅らせているのじゃないだろうかね。」
 お父さんがなびきお姉ちゃんの後ろから、そんなことをポツンと言った。
「まさか!あいつが、そんな気を遣う奴だなんて思えないけど。」
 つい、返す口で反論していた。
「こらこら、早乙女君の目の前で、あいつ呼ばわりはいかんよ、あかね。」
 お父さんが苦笑いをしながら、あたしをいさめた。後ろに、パンダの姿があったからだ。早乙女のおじさまだ。
 おじさまは、乱馬が優勝したその晩から、ずっと、天道家に居る。早乙女家にマスコミが殺到する前に、ここへ避難してきたのだった。しかも、おばさまが留守番で早乙女家に残っているのが、何とも不可解ではある。
『主人は今、修行に出ていますの。どこをどうほっつき歩いているかは、私も知りませんわ。息子と同行しているかもしれませんし…。あの子が幼いころから、長らく一緒に暮らしてもいませんでしたし。』
 おばさまは巧みにマスコミをかく乱していた。
 
 早乙女のおじさまがパンダのまま、トトトとあたしの前に歩み寄ってきた。そして、トントンとあたしの背中を叩いた。
『わしらにも、連絡がないから、安心すべし!』
 おじさまは、そう言いながら、看板を掲げて、おどけて見せる。
 押しかけたマスコミに対して、おばさまも、『息子からは何の一報も入っていませんし、あの子に任せていますから。』と、そんな受け答えをしていたから、本当に、実家にも何も知らせていないのだろう。

「ま、乱馬君も何か考えがあって、帰国を遅らせているのだろうから、心配はあるまい……。で?あかねは、ちゃんと結論を出しているのだろうね。」
「結論?」
 つい、イラついた声で、父に対した。
「ああ。乱馬君が帰ってくるということは、あかねにとっても、人生の岐路なのではないかね?しっかりと自分の意志を決めておかないといけないよ。」
 それだけ言うと、父もおじさまもすぐ上の姉も、くるりと背を向け、母屋へと入ってしまった。

 父の言わんとすることは、私も、とっくにわかっていた。

 心の余裕がまるでないあたし。優勝から半月、無しのつぶて。
 まだ帰って来ない乱馬。連絡ひとつ寄越してくれない。その事実が、あたしを苦しめていた。
 大会の結果も、我が家では映していない有料チャンネルで放映があったらしく、それを見ていた元クラスメイトからのメールで知ったのだった。
 後回しにされるのは、慣れっこだが、乱馬の口から一言、「やったぜっ!」と、連絡が欲しかった。今からでもいい…。
 声を聞きたい。姿を見たい!

 何故、連絡一つ、寄こしてくれないのか。
 
 彼の考えが、あたしには全く見えて来ない。

…もう、戻ってくる気が無くなったの?
…他に好きな女性ができたとか…。
…それとも、また、あたしだけが蚊帳の外?

 おとうさん、なびきお姉ちゃん、早乙女のおじさまとおばさま…そして、かすみお姉ちゃんと東風先生。みんながあたしに気を遣っている。ひしひしと伝わってくる。だから、余計にマイナス方向へと、あたしの思考は陥り始める。
 懐疑的な考えが頭を横切る。

 乱馬はすでに帰らないことを決めているのを知っていて、あたしに隠しているのかもしれない…。あたしがショックを受けないように…。乱馬が旅立った日のように、最後まで隠そうとしているのかもしれない…。

 不安は、桜が咲いて、ますます、あたしの胸を乱れ焦がした。 

 道着を脱いで、出かける支度を始める。さすがに、道着で行く訳にはいかない。
 この前買ったばかりのミモザ色のワンピースへと着替えると、枕元に置いてあるハガキを手に取る。
 桜の美しい山の風景。吉野山と小さい印字が隅っこにある。
 裏返せば、懐かしい、乱馬の文字。

「元気か?桜はもう咲いたか?
 次の春には、きっと花を咲かせて帰るから、楽しみに待ってろよ。」

 そう書かれた文字を手でなぞってみた。

 大会に勝利して、立派な花を咲かせたくせに…。
 もう、とっくに桜は咲いているよ…
 早く帰って来なければ、散ってしまうよ…。
 ねえ、早く帰って来てよ…乱馬…。

 そのまま、ハガキを胸に、目を閉じる。
 じんわりと涙が頬を伝っていく。
 慌てて、こぼれそうになった涙を拭う。
 もう泣かないと決めたはずなのに…。今日も涙が、頬を伝って行く。
 こんな弱気じゃいけないのに…。このまま、乱馬を迎えたら、泣き顔になってしまう。
 あたしは、ハガキを置くと、立ちあがり、窓を開いた。

 春風が頬を撫でて、カーテン越しに吹き抜けていった。


二、

「行ってきまーす。」

 昼ごはんの片付を終えると、あたしは、天道家の門戸を出た。
 こうやって、買い物とロードワーク以外に、外出するのは何日ぶりだろう。恐らく、短大の卒業式以来だ。
 この春買った、ミモザ色のワンピースに身を包み、履き慣れないパンプス。
 少しだけ、大人になった気分で、外に繰り出す。
 穏やかなポカポカ陽気。
 絵に描いたような春の風景が、郊外の住宅地に広がっている。桜は枝をたたえ、家によっては、モクレンも美しく大きな花を空に掲げている。
 黄色いミモザの花も満開だし、遅咲きの梅や桃も、紅白、桜に交じって、咲き乱れている。
 花壇に目を落とすと、チューリップが艶やかな原色で咲き誇っている。
 桜が咲く少し前まで、冬のような寒さが続いたから、余計に、瑞々しさにあふれているように思えた。
 なかでも、やはり、ソメイヨシノの美しさは群を抜いていた。
 桜の開花を、この八十島の人たちは、心から待ちわびる。長く厳しい冬の寒さから、柔らかな日差しの春へ移りゆくまさにこの季節。乱れんばかりに咲き誇る桜を、心底、愛しているのだ。
 江戸時代、今の駒込辺りの植木職人の手によって、世に広められたと言われる、ソメイヨシノは、その美しさを、ひと際、光り輝かせている。
 突然変異で生まれたとも言われるソメイヨシノは、全て同じ遺伝子を持つという。それゆえか、示し合わせたように、近隣の花が一斉に咲き、そして散っていく。
 暖かい地方から寒い地方へのびる、桜前線。順番に咲き上がっていくのだ。

 ソメイヨシノの花言葉は「純潔」なのだそうだ。そして、桜全体では「私を忘れないで」ということになるらしい。

 ふうっと、道端に咲く、満開の枝を見上げて、溜息がもれた。

 「私を忘れないで…。」そう内なる声を上げながら、精いっぱいに花枝を広げる、美しい桜の、孤高なまでの美しさに、目を見張る。
 たわわにつけた花は、まだ、花びらを散らしていない。八分咲き…いや、もう、満開に近いのだろう。
 明日は低気圧が近づいているという。どことなく、ぼんやりとした雲が、空に広がり始めている。
 案外、花散らしの雨になるのかもしれない。

 ゆかが送って来た地図を片手に、携帯を繰(く)り、花見場所へと急ぐ。

 多分、あたしが、一番最後だろう。
 早く来てね…というおねだりメールが、何本か入っていた。
 
 場所は、桜がたくさん植わっている、馴染みの池の公園だった。そう、去年、クラスメイトたちと花見した一角。
『料理はこちらが準備するから、あんたは何も持って来なくていいわよ。』
 とメールも入っていたから、それに従った。

「おーおー、やっと来たかっ!」
「遅かったじゃない。」
 公園の中ほどに、その集団は居た。
 辺りを見回して、えっとなった。
 ゆか、さゆり、それからみほ。その三人はわかる。でも、彼女たちを取り巻くように、四人の見知らぬ青年たちが、一緒のブルシートに座っていた。
 集合時間から遅れること半時間。先にやっていてと、携帯で連絡していたから、それは良いとして…。どうして、この男の人たちが居るの?
 怪訝な顔を手向けると、そっと、さゆりが、手を合わせた。ごめんね…と言わんばかりに揉みこんだ。

…これは…もしかして…。

 苦笑いを浮かべると、
「いえーい!可愛い子じゃん!」
 軽そうな男子があたしを見つけて、声をかけてきた。今風の大学生的ファッションに身を包んだ、四人だった。
「良かった、良かった…。これで、女の子も四人揃ったぜ。」
 また、別の男子が、続けざまに声をかけてきた。

「ねえ、誰よ…あの男たちは…。」
 ぼそぼそっとさゆりに声をかける。
「みほの大学の男子学生たちよ。」
「で?ただの花見じゃないわよね?」
 ぐぬぬっと顔をせり出して、さゆりに迫る。
「うん…一応…合コン。」
 とんでもない言葉が、さゆりの口から漏れた。
「合コンですって?…帰るわ、あたし。」
 くるりと背をむけようとすると、がっしと髪の毛を掴まれた。
 あれから、背中の真ん中あたりまで伸びてしまった、髪の毛をひっぱられたのだ。
「お願い!どーしても一人、足りなかったのよ!」
「合コンに人数が揃わなかったら、誘ってくれたみほに悪いでしょ?」
 ゆかも、顔を突き出した。
「別に、カップル成立しなくて、良いからさー。」
「あんたは、座ってるだけでいーから、ここに居てっ!」
 両脇に立たれて、迫られた。
「あんたには、乱馬君が居るからいいけど…。」
「あたしたちも、出会いが欲しいのよ!」
 勧誘の言葉が、無茶苦茶だ。
「もー、ほんとに、あたしは、誰とも付き合う気はないからね!」
 ここまで、執拗に迫られては、否を言い出せなかった。相変わらずの優柔不断。
 それに、乱馬のことが、心に引っかかっていたから、本心とは別の行動を取ったのかもしれない。

「じゃ、まず乾杯!」
 一番、上背のある男子が、缶ビールを持ち上げた。
「あ…あたし、お酒は遠慮しておきます。」
 まず、先に宣言した。お酒など飲みつけないし、酔っ払うのも不味い…そう判断したあたしは、真っ先に断った。
「えー?花見に酒は必需品じゃん。」
 軽そうなサル顔の男子がチラッとあたしを見たが、
「お酒を飲まなきゃいけないなら、帰ります。」
 そう言いかかる。
「ひょっとして、君は真面目ちゃん?」
 また、別のTシャツ男子が言葉を叩きつけて来る。
「まーまー。いいんじゃねえ?飲みたくない奴に強制的に飲ませるのは、俺もどーかと思うぜ。それに、俺もノンアルコールでいいや。」
 少しガタイの大きい、青年がそう言った。
「まー。ヒロセは大会控えてるからなあ…。」
「おまえが、そう言うなら…彼女はアルコール抜きでもいいか。」
 そう言いながら、渡されたノンアルコールビール。
「楽しいひとときに、かんぱーいっ!」
 ビールそのもののおいしさが、残念ながら、今のあたしにはわからない。ぐいぐいっと飲みほして、ぷはーっとやっている他の男子や女子たちを垣間見ながら、ほおっと長い溜息を吐きだす。
 ノンアルコールとて、ビールの味に近い。ポップの苦さが、喉に染みわたる。

 何故か、異邦人になった気分だった。
 合コンなど、勿論、初体験。短大で知り合った友達に、誘われたこともあったが、やんわりと断り続けてきた。
 他の子たちは、お酒が入って行く分。だんだんに饒舌になるのに、あたしは、もくもくと食べるだけ。

「あんたさー、もうちょっと、楽しみなよー。」
 トイレに立った時、ゆかとさゆりが絡んで来た。
「だって…。」
「そりゃーあんたが、乱馬君一筋だってことは、あたしたちも承知してるけどさー…。まだ、帰って来てないんでしょ?乱馬君。」
 ギクッと肩が揺れた。
「え…ええ、まーね。」
 途端に、曖昧になる受け答え。
「浮気しろとは言わないけれど、折角の青春なんだぞ!」
「そうそう…。他の男子も知っとかないと、乱馬君の良さもわかんないわよー。」
 二人とも、アルコールが程良く回り始めている。故に、しつこく、ストレートに突っ込んで来る。
 このまま、ここで、ぐだぐだと、説教でもされそうな雰囲気だった。
「許婚をほっとく、冷たい男より…。」
「たまには、目の前のイケメンに心ときめかせなさい!」

 別に、あの男(ひと)たちが、イケメンとは思えないんだけど…あたし…。

 そんな突っ込みを、グッと喉の奥に噛み殺した。

 二人の忠告など、耳に入らないあたしは、ぼんやりと、花を見上げながら、夜空を仰ぐ。いつの間にか、とっぷりと日は暮れてしまった。
 昼間居た、子供連れ主婦や若い子たちは姿を消し、サラリーマンたちが目立ち始めた。
 ここで、どんちゃんと、桜を肴に、夜通し宴が行われるのだろう。桜雪洞(ぼんぼり)の白電球が灯った。公園の外の歩道には、縁日まで立っていて、様々な食べ物の良い匂いがこちらまで、流れて来る。

「君…寡黙だね…。あんまり楽しんでないみたいだけど…。」
 あたしのことが気になるのか、ノンアルコールを飲み続けていたヒロセという男が、あたしに話しかけてきた。無視するのも悪いと思って、愛想笑いを浮かべる。
「ええ…あんまり、お酒を飲んだことないんです。」
 と受け答える。
「結構、足腰に鍛え上げられた筋肉がついているから…君、何か、スポーツでもやってるんだろ?だから、意識的に飲酒もしてないんじゃないの?」
 と問い質された。
 ピクンと揺れる、肩。
「あかねは、道場の跡取娘だからねー。」
「そーそー。」
 すっかりできあがったゆかとみほが絡んで来る。
「道場?……実は、僕も空手をやってるんだ。」
 ヒロセという男が、あたしに興味を抱いたようだった。
「おっ!この子に興味持ったのか?ヒロセ―。」
「格闘系カップル誕生か?」
 周りの男子たちが一斉にはやし立てた。
「いえ…あの、あたしは…。」
 そう、あたしには、「許婚」が居る。
「柔道の道場?それとも、空手?徒手系だろ?その筋肉の具合なら。」
 ヒロセの瞳が輝いた。恐らく彼も格闘バカの類だろう。筋肉の付き具合で何となく、わかるらしい。
「無差別格闘天道流です。」
 あたしは凛と答えた。別に隠しても仕方がないからだ。
「無差別格闘…っていえばさー。ほら、半月ほど前に、格闘オリンピックに優勝した、早乙女何とかって、男もそーだったよな。」
 上背のある青年がポツンと投げかけた。
「ヒロセがエントリーしたら、そいつに勝てたんじゃねー?」
「あっはは、そーだな!おまえ、空手の日本チャンピオンだしなー。」
 お酒が入って盛り上がっている男たちが、一斉に囃し始めた。
「そーだな…。俺もエントリーしたら良かったな。」
 ヒロセが放ったその言葉に、あたしの脳天は、プッツンと切れた。

「ヒロセさんはチャンピオンになれないわ!無差別格闘流は最強の徒手流派だもの!」

 あたしにも、無差別格闘天道流の跡目という矜持がある。それが、むくむくと頭をもたげて来たのだ。
 はっしとヒロセを睨みつけながら吐きつけていた。

 場の雲行きが、一気に怪しくなる。

「だったら…試してみよーじゃん。」
 ヒロセが立ちあがった。
 やっぱり、こいつも、「格闘バカ」だ。己に相当な自信があると見た。
「試すって?」
「僕と君、どっちが強いかだよ。決まってるだろ?」
 と挑戦的な言葉を叩きつけて来た。
「いーわよ!受けて立ってあげるわ!」
 次の瞬間、そう、返事してしまっていた。

「ちょっと…あかね!」
 ゆかが慌てて間に入ろうとした。
「ゆかは黙ってて!これは、格闘技をやる者の意地と意地の真剣勝負よ!」
 最早、止(や)める気は無かった。闘わずには居られない。
 あたしの、この、熱しやすい性格は、幼少時からちっとも変っていない。
 そう、あたしも立派な、格闘バカだ。

「真剣勝負って…あんた。」
「ここで、対決する気?」
「やめなって!悪いこと言わないから!」
 ゆかも、みほも、さゆりも、慌てて止めようと口を挟んで来た。

「いいのかな?あかねちゃん…。ヒロセ、結構強いぜ。」
「すぐに、組みしかれちゃうかもよ。」
 慌てる女子に対して、明らかに男性たちは、悪乗りをし始める。入っているお酒のせいもあるのかもしれない。

「やります!勝負はやってみないとわかりませんよ…。」
 あたしの心は、不思議と、澄み渡って行った。

 乱馬が来るまでは、毎朝、校内中の男子連中相手に、格闘勝負を挑まれて来た。それを、悉(ことごと)く、粉砕し、誰もあたしに勝てなかった。勿論、あれから、数年。体格は男性と雲泥の差ができてしまった。でも、格闘技は力だけでは無い。それは、旅立つ前、乱馬が指し示した「餞別」からもわかる。
 彼の居ない二年の間に、あたしがどれだけ強くなったのか…。彼の言わんとしていた気のコントロールが、どれほどに成長したのか。知りたくなった。
 そう…あたしの中に、流れる血もまた、格闘バカの血だった。
 こうなった、あたしを、誰が止められるというのだろう。恐らく、乱馬でも無理だろう。

「ただ、闘うだけなら面白くないなあ…。」
 ヒロセがニヤッと笑った。
「どーゆー意味?」
「僕が勝ったら、お付き合いしてくれる?」

 さあっと強い風が、吹き渡っていった。
 と、桜の花びらが、チラチラと舞い落ちて来た。

「いいわ!その条件でもっ!」
 次の瞬間、あたしはそう叫んでいた。

「ちょっと!あかねっ!」
「あんた、何てこと言いだすのよ!」
「男と女じゃ、かないっこないでしょーが!」
 ゆかとさゆり、それからみほの声が、俄かに悲鳴を帯び始める。

「だから、勝負はやってみないとわからないのよ…あたしだって、無差別格闘天道流の跡目としてのプライドはあるわ!」
 あたしは、すっくと、シートから立ち上がった。
 桜の木が途絶えて、木が無い空間。そこを目指して、歩き出す。
 もう、止められなかった。
「なかなか、強気なお嬢さんだね、君は。ますます、気に入ったよ。」
 ヒロセがそんな言葉を投げつけて来た。

 動揺をあたしに与える気なのかもしれないけれど、口車には乗らない。

 はっしと向き合って、身構える。

 確かに、このヒロセという青年の力は、侮れまい。
 半端無い闘気が、彼の身体を渡って行くのを感じる。
 しかし…乱馬よりは、レベルが低い。
 あたしの許婚は、彼の力を、遥かに凌駕している。
 じゃあ、あたしと比べたらどうか…。正直、少し、悔恨の念が横切った。
 二十歳前後と言うと、男女の差はかなり開いている。十五、六歳の頃の比ではあるまい。女の細腕で、彼に挑んで、勝てるのか…。

 ぶんぶんと頭から、戸惑いを追いだした。

『格闘家たるもの、どんな時も、相手の気合いに負けちまったら、終わりだ…!強い意志を持て、あかね!どんな態勢でも、勝利を呼び込む…己の力を信じろ!』

 そう吐き出す、乱馬の声が、脳裏に流れた。

 あたしは、場所をそこと定めると、履いていた靴を脱いだ。そして、ストッキングも脱いで、裸足になった。
 

「へえ…やる気満々じゃん。」
 ヒロセが軽く微笑んだ。

「御託はいいわっ!さっさと、勝負を始めましょうっ!」
 あたしは、腰を引いて、身構えた。幾度となく構えて来た、無差別格闘天道流の構え方。そして、丹田に息を吐きだし、気を整える。
 あたしの身体を一気に駆けあがって来る、闘気。

「じゃあ、遠慮なく、僕から行くよっ!」
 先に動いたのは、ヒロセ。確かに、空手のチャンピオンと自負するだけあって、動きに一切の迷いは無かった。 その蹴りや拳に捕まれば、確実に吹き飛ぶ。
 ただ、彼に、一抹の油断があったとすれば…あたしを並みの女子だと思って、無意識に手加減していたことだろう。

 面白いくらいに、彼の、一挙手、一投足が読める。そして、避けられる。

「結構、巧みに避けるじゃん!」
 ニッと笑って、わざとじらせるような攻撃を繰り出して来る。
「あ…。」
 行けると思った時、あたしにも油断が生じた。
 石ころにつまずいて、足元がよろめいたのだ。
 もちろん、彼が、その刹那を見逃す訳がない。

(来る…。)
 無我夢中で、そう思ったあたしは、ぐっと足を後ろへ突き出し、体制を整え直した。
 ここで、怯めば、負ける…。そう思ったあたしは、思い切って、敵の懐へと飛び込んで行った。
 そして…突き上げる、左手の拳。
 あたしが左側の手で攻撃を加えてくるとは思わなかったのだろう。彼は、一瞬、戸惑いを見せた。
(今よっ!)
 あたしは、反対の右手をグッと握ると、体内に巡らせた気と共に、ヒロセへ向けて、打ち出していた。

「うわああああっ!」

 面白いくらいに、ヒロセの身体が後ろへと吹き飛んで行く。美しい放物線を描いて、仰向けに転がった。

 ザザザザザ…

 あたしが突きあげた右拳と共に、少し先の桜の木が大きく花枝を揺らせた。
 その風が、桜に襲いかかる。
 花びらが風に乗って、ヒラヒラと舞い降りながら、惨めに尻もちをついた、ヒロセの上に降り注ぐ。

 ざわざわと、人だかりがし始めた。一体、何事が起ったのかと言わんばかりに…。
 風が風を呼んで、再び、ゴオッと吹き抜けて行く。
 あたしをいさめるかの如く、桜吹雪が一斉に舞い落ち始めた。

 花びらの乱舞に、ハッと我に返ったあたし。そのまま、くるりと背を向けた。
 耐えられなくなったあたしは、その場から、逃げるように駈け出していた。
 挑まれたとはいえ、浅はかだったのではないか…一気に理性があたしの上に、花びらと共に降り注いで来たのだ。
 恥ずかしいというより、情けなかった。
 直情的に、受けてしまった格闘勝負。いくら、無差別格闘流の誉れを守るためと言えども、私闘をしてしまった。その悔恨が、心を掻き乱す。


 靴を置き去りにしたまま、裸足で公園を飛び出して行った。


三、

 そこから、どうやって、家に辿りついたのか。
 懸命に駆け抜けて、気がつくと、道場の傍の桜の木を仰ぎ見ていた。
 ハアハアと肩を上下させて、荒い息を吐きだしていた。

 夜になって、風が出てきたのだろう。
 父と母の記念樹も、枝を大きく広げて、音も無く、花枝を散らし始めていた。
 風が通り抜けるごとに、ひらひら、ひらひらと、舞い落ちて行く、真っ白な花びら。
 暗がりの中に立っていても、はっきりと見えた。
 誰も居ない、天道家の裏庭。皆、お花見に行ってまだ、戻って居ない。
 泥棒よけのために、勝手口と、玄関と庭の外灯は灯されていた。その照り返しを受けて、光り輝く、美しい花吹雪。

 あたしは、両手を高く、突き上げていた。
 そして、無我夢中、花びらを掌の中に、掴んで行った。
 幼き日、母と一緒に占った、花占い。三つ花びらを掴むことができれば、願いはかなう。母がそう言って、微笑んでいたことを、思い出したからだ。

 あたしの願いはただ一つ。
 
『乱馬に会いたい!』

 それが、唯一の願いだった。


 手を上にさし上げて、舞い落ちて来る花びらへと掴みかかる。そして、掌を開いて、花びら掴もうとする。
 理性を欠いたあたしの掌には、三枚どころか、一枚の花びらも入っては来なかった。
 乱れ髪を揺らせて、掌を上にさし上げるが、花びらは意地悪でもするかのように、あたしの掌を通り抜けて落ちて行く。まるで、あたしには捕まらないよと言いたげに、また、一つ、そして、一つ…。

 いつの間にか、あたしは、泣いていた。
 涙が頬を伝って、花びらと共に、落ちて行く。

『どうして…どうして、つかめないの…。あたしの願いはかなわないの…?』

 やがて、あたしは、手を差し上げるのも辞めてしまって、桜を仰いで、泣いていた。
 桜の花びらは、容赦なく、あたしの身体に降り注ぐ。さっきから強くなり始めた風に、飛ばされて、小雪のように舞い落ちる。その桜吹雪の中、あたしは、ずっと一人、涙にくれる。
 戻って来ない、許婚。


 あたしの願いは、叶わぬ夢なの?乱馬…。どうして、戻って来ないのよ…。
 来年は戻るって言ってたくせに…。桜を咲かせて戻って来るってハガキをくれたのに…。それを胸にあたしは、頑張って来たのよ。
 これじゃあ、桜…散っちゃうよ…。葉桜になっちゃうよ…。
 ねえ…。戻って来てよ!乱馬っ!
 この桜を一緒に見上げてよ!


 涙にくれながら、花吹雪を見上げるあたしの後ろから、ふっと誰かが笑ったような気がした。
 お父さんたちが、花見から帰って来たのか…そう思って、振り返ると、真摯な瞳が二つ、無言のまま、あたしを柔らかに見詰めていた。
 リュックを背負った、白い道着の青年が、闇の向こう側に立っていた。
 そして…背中には、少し長くなったお下げ髪が、揺れていた。顔には無精ヒゲが生えている。

「何、やってんだよ…。そんなところで…。」
 懐かしい声が…少し低くなった声が、響く。
「桜…きれいに咲いたな…。今年も…。」
 いとおしげに桜を見上げた。

 夢…それとも、幻…。
 懐疑的な瞳を手向けるあたしに、桜舞い散る、その下で、そいつは、満面に笑みを浮かべて、じっとあたしを見詰め返してきた。

「乱馬っ!」

 一声だけ発すると、無我夢中、飛び出していった。
 全ての感情を、待ち人の名前の響きに塗り込めて。
 差し出した両手で、首へと抱きついていた。
 少し、伸びた身長。背伸びをして、野太い首にしだれかかる。

 この瞬間を…どれほど、待ち焦がれて来たか。乱馬にはわかるまい。
 じっと待つことしか、できなかった、あたしの…苦しさなど。

 厚い胸板に、顔をつけたまま、瞼を閉じる。微かに香る、乱馬の汗の匂い。懐かしい、匂い。
 幻では無い…。確かに乱馬の香。
 安堵のため息と共に、流れ出す、涙。
 最早、止める術は無かった。
 
 逞しい二の腕が、戸惑うこと無く、背中に回されてきた。
 この恥ずかしがり屋のとうへんぼく。離れている間に、少しは女心を理解できるようになったのだろうか。
 あたしの身体を、すっぽりと、その腕の中に、柔らかく抱き締めた。
 
 人肌のぬくもりが、あたしの身体を包み込んでいく。
 天邪鬼ではない乱馬…。初めて遭遇したように思う。
 あたしは、泣いた。泣いて、泣いて、泣きじゃくった。柔らかな彼の腕にすがって。
 次から次へと流れて来る涙を、止める術は持てなかった。
 待ち焦がれていた人。憎いほど愛しい人。あたしの許婚。
 言いたいことは山ほどある。でも、何も言い出せなかった。

 ただ、彼を出迎える唯一の言葉だけが、口をついて流れていった。

「おかえりなさい…。」

 途切れ途切れに、告げると、また、どっと、涙があふれて来る。
 耳に流れてくる、自分の嗚咽。しゃくりあげる声。
 と、乱馬の大きな手が、髪を撫でてきた。
 また、髪、のばし始めたのか…触れる手先が暗にそう問いかけいるようだ。
 そう、後ろに靡いた髪の毛は、乱馬を待った時の長さ、そしてあたしの想いの強さを物語る。

 ひとしきり髪の毛を撫でた後、声に出した一言。

「ただいま…。」

 そう囁いた唇は、そっとあたしの涙で濡れた唇をゆっくりと絡め取る。
 憎らしいくらい優しく、そして、柔らかな、くちづけだった。

 さわさわと風が吹き抜けて行く。
 桜は一斉に花びらを散らして、あたしたちの上に降り注ぐ。

(もう離れない…ずっと、傍に居るから…。)

 舞い降りてくる桜吹雪の中、乱馬の心の声が、あたしの耳元に響いたような気がした。




(2015年4月14日)



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