◇花の隋に
第二景 待つ桜



一、

「今年もきれいに咲いたわね…。」
 ポツンと、かすみお姉ちゃんが、桜を眺めながらポツンと言った。
 あたしは、お姉ちゃんから洗濯かごを受け取ると、パシパシッと、叩いて伸ばす。
「もう、かれこれ、一年になるのね…。乱馬君が旅立って…。」
 物干し竿を雑巾で拭きながら、姉は満開の桜を見上げて呟いた。
「もう一年かあ…。」
「乱馬君…今頃、どこでどうしているのかしらねぇ…。」

 今年も桜は春を待ち焦がれて、一気に芽吹いた。
 わさわさと、風に花枝を揺らせながら、薄水色の空へと伸び上がる。
 ソメイヨシノ。
 一本の苗木から、全国各地へと広がった、同じ遺伝子を持つ桜。
 縦長い日本列島のどこかで、あなたはこの桜枝を見上げているのだろうか。
 ううん…、この八十島(やそしま)の国の中に居るとは限らないよね。
 確か、最初は呪泉郷へ行くと言っていたもの…。
 去年の春、あたしの想いを連れて、ここを旅立ち一年。
 再び巡り来た、桜の季節。
 今頃、どこでどうしているのやら。
 便りなどない。勿論、携帯やスマフォなどの文明の利器など利用していまい…。完全に置き去りにされたままのあたし。
 でも…それはそれで仕方のないこと。腹を据えて、帰郷を待つ覚悟はできている。
 だから、泣きごとや恨みごとは言わない。そう決めていた。


「あかねちゃんの今日のご予定は?」
 物干しざおへ一つ一つ。丁寧に、シワを伸ばした衣類を干していく。慣れた手つきを見ながら、あたしも、自分の足元からシーツを持ち出し、物干しざおにかけていく。

「高校の時の同級生たちと同窓会兼ねて夕方からお花見よ。お姉ちゃん。」
「そう…。あかねちゃんも、お花見なの。」
「うん…。そーよ。」
「お父さんも早乙女のおじさまたちと、公園で花見をするって言ってたわね。」
「みたいね…。朝から、場所取りとか言って、おじさま誘いに来てたものね。一日中、花の下でどんちゃんやるつもりなんでしょーね。」
 よいしょよいしょと、広げたシールをパンパンと手で叩く。シーツのシワを伸ばしながら、会話を進めていく。
「なびきちゃんも、九能君たちとお花見するって言ってたわ。」
「へえー、そーなんだ…。」
「朝から九能君を引き連れて、出かけていったわ。」
「そー。じゃあ、かすみお姉ちゃん一人きり?」
「うふふ…私も夕方から、お花見なのよ。あかねちゃん。」
 そう言ってポッと紅く染まる、姉の頬。
「そっか…。東風先生と夜桜を見に行く約束してたんだっけ?お姉ちゃん。」

 コクンと揺れる、幸せそうな姉の顔を見て、ふっと溜息を吐き出す。

 色々、すったもんだがあった末、かすみお姉ちゃんは、東風先生に嫁ぐことが決まっている。
 つまり、東風先生が、もうすぐあたしのお義兄(にい)さんになる。
 あたしの初恋の人が、東風先生。
 この場に、乱馬が居たら、どんな言葉をかけてくるのだろう…。乱馬はあたしが、東風先生に想いを寄せていたこと、知っているから。
 苦しい胸の内を、乱馬に直接吐きだしたこともあったし、そんなあたしを見て、励まそうとしてくれたことを、覚えている。
 あの頃、良牙君との闘いに巻きこまれて、切られてしまった自慢の長い髪。古い記憶が、頭を過よぎっていく。


…ねえ、乱馬。
 あなたが居なくなって、色々なことが、少ずつ、変わっているのよ。

 あたしは、花枝の向こうの、空を見上げた。

 と、ずるっと、あたしが干したシーツが不安定で、竿から滑り落ちそうになっていた。
「あっ…っとっと!」
 必死で手を伸ばして、シーツを抑えにかかる。地面にふれる、すんでのところで、何とか落下は免まぬがれた。
「ほらほら、手がお留守になったらいけませんよ、あかねちゃん。シーツに土をつけないでね。今から洗いなおすのは大変でしょ?」
「…ごめんなさい。」
 手にしていた真っ白なシーツを、慌てて、持ち上げる。うっかりと土でも付けたら、お姉ちゃんが言うように、洗い直さなきゃならない。洗い直すのは洗濯機だけれど、その分だけ洗濯物が乾く時間が遅くなる。それに、水道代、洗剤、無駄にするのは主婦見習いとしては失格。

 主婦見習い…。

…そう、あたし、主婦見習いを、始めたのよ…乱馬。

 かすみお姉ちゃんが、天道家を出て行くことが決まってから、あたしも、家事を本気で手伝い始めた。
 なびきお姉ちゃんは蚊帳の外の傍観者。たまには手伝ってくれる程度だ。本当に、たまに…。
『かすみお姉ちゃんが出て行ったら、うちの家事は、あかね、あんたが主体でやんなさいよー。あたしはあくまでも…補佐だからねー。じゃないと、天道道場の跡取りとしては失格よー。』
 と突き放してくれる。
 なびきお姉ちゃんに、家事を頼んだら、駄賃を寄こせって言われそうな勢いだ。当番制など、範疇外。
 あたしの家事修行。正規講師は優秀な、かすみお姉ちゃん、それから、時々、臨時講師に、早乙女のおばさまが加わる。
 あたしは、人の数倍、不器用な性質ときているから、この優秀な講師たちに、手取り足取り、こつこつと、家事のいろはを粘り強く教えて貰っている。
 だから、アルバイトはしていない。短大なので、それなり授業は詰まっているし、かすみお姉ちゃんに色々教わらねばならないから、他の友人たちのように、アルバイトに精を出す余裕ができない。
 主婦業の習得に、頑張る日々。乱馬と将来持つ家庭を守るために…。
 けれど、やっぱり、炊事は苦手。煮物を焦がしたり、味付けを間違えたり…かすみお姉ちゃんに落第点を貰う毎日。早乙女のおばさまも、思わず苦笑い。

 早乙女のおじさまとおばさまは、乱馬が旅立って、しばらくすると、元の家に戻って行った。おばさまが一人、暮らしていた町はずれの古い民家だ。
 と言っても、歩いて半時間以内の距離だから、何のかんのと理由をつけて、お父さんたちは、互いの家を行き来している。
 天道家からそう遠くは無いので、毎日のように、おじさまはウチに来る。そして、父とヘボ将棋を指したり、道場で組手したりして、過ごしている。
 時々、変身して、どっかりと縁側に座りこんで居るから、びっくりしてしまう。もちろん、父が誘われて、早乙女家へ尋ねて行くこともあるわ。
 相変わらず、二人、仲良こよしで、ペアで行動していることが多い。
 でも…寝所は天道家ではなくなってしまったから、夜になると、この家の中は、ひっそりと静まり返ってしまう。お父さんとかすみお姉ちゃん、そして、なびきお姉ちゃんの四人きりの、静かな夜。乱馬がここへ来る前に戻っただけ…。

 変わってしまったのは、天道家だけではない。

 乱馬が居なくなってしばらくすると、猫飯店も店をたたんだ。
『乱馬、男に戻りに呪泉郷へきっと来るあるから、待ち構えて、きっと私の婿にするある。』
 …そんな言葉を残して、コロン婆さんと帰って行った。
 勿論、シャンプーたちにくっつくように、ムースも帰郷していった。
『安心するがええ…。天道あかね。乱馬が呪泉郷に現れたら、オラが追い返してやるだ。シャンプーに乱馬は近づけないだ!』
 そんなことをあたしに言い置いて、去って行った。
 呪泉郷でシャンプーやムースにも会ったのかしら…。便りが無いから、あたしにはわからない。
 
 他のみんなはどうしているのか。

 八宝斎のおじいちゃんは、らんまちゃんが居ないとつまらないとか言って、戻って来ない日が多くなった。たまに戻ってくることもあるが、その回数も減っている。まあ、迷惑なおじいちゃんだから、居なければ居ない方が、あたしたちにはありがたい。
 良牙君は相変わらず、あかりちゃんと仲睦ましくお付き合いを続けている。
 方向音痴も治ってない。最近は、あかりちゃんにまで、良牙君の方向音痴がうつってしまったようで、互いに頓珍漢な方向を彷徨(さまよ)っているのを、よく見かけるようになった。時々、二、別々に迷っているのに出くわすのだ。
 で、カツ錦が、そんな二人を引き合わせるのに一役買っているようだった。動物的カンとでも言うのだろうか。カツ錦が良牙様のところへ導いてくれて、助かります…と、あかりちゃんがしみじみこぼしていたことがある。
 それから、豚で思い出したが、Pちゃんは、天道家ではなく、あかりちゃんの家に居ついてしまったようだ。
 豚の扱いにも良く慣れているあかりちゃんの方が、Pちゃんにとっても、居心地が良いのだろう。ときどき、あかりちゃんがカツ錦と一緒に連れ立っているのを良く見かける。
 ちょっとさびしいけれど、Pちゃんと反りが合わなかった乱馬なら、『P介は、あかりちゃんに任せておけっ。』って、きっと言うと思うから…。

 九能先輩は、なびきお姉ちゃんとツーショットで居ることが多くなった。
 なびきお姉ちゃんは、九能先輩を金づるにして、何やら怪しげな商売をおっぱじめた様子だった。元々、経済観念に長けたお姉ちゃんだから、大学生の間に、本気で起業でもしようと考えているのかもしれない。
 先輩は、ときどきあたしに、「おさげの女はまだ戻っていないのか?」と的外れな問いを投げかけてくる。乱馬がおさげの女と同一人物だと、気付いていないのもそのままだ。あたしも、いちいち説明するのが面倒だから「まだ戻っていません。」と答えるのが常。
 九能先輩の妹、小太刀は、セントヘベレケ女子大学格闘新体操部に所属して頑張っているそうだ。
 乱馬が居なくなった当初は、「乱馬様はいずこ?」と毎日押しかけてきては、「出て行ったわよ。」と突き返しても、「だまされませんですことよ。」と鼻息く、黒バラを撒き散らしてくれたものだ。が、さすがに、早乙女のおじさまとおばさまが天道家から出て行ってしまうと、すっかり来なくなってしまった。
 右京だけは、相変わらず、お好み焼きうっちゃんで、熱心にお好み焼き職人を続けている。変わらないのは、彼女の店くらいなのかもしれない。


 天道家の周辺は、それぞれ皆、元気にやっているわ。
 乱馬が居なくなって一年…。それぞれの居場所で、皆、頑張ってる。
 乱馬…あなたは、この空の下のどこで、どうしているのかしら…。


 空をゆっくりと、飛行機が飛んで行く。

「ほらほら、手早く干さないと、お洗濯もの、昼過ぎまでには乾かないわよ、あかねちゃん。」
 かすみお姉ちゃんの声が、すぐ後ろで聞こえてきた。

 …っといけない、そうよね。さくさくと家事をしなきゃ、夕方に出かけることはできないわよね。

「でも、ほんと、暖かくていい季節になったわねー。」
 パンパンと広げたシーツを、物干しざおに丁寧に広げる。太陽の光を浴びて、昼過ぎには乾くに違いない。


 かすみお姉ちゃんの後ろをついてまわって、お洗濯やらお掃除やら…。あたしの春休みの日常は、ゆったりと過ぎて行く。
 新学期に入って、登録が終わったら、また、学生の日々が始まる。そして、夏前には、かすみお姉ちゃんが、天道家から嫁いで、出て行く。
 そうしたら、家事をしながら、勉学を頑張らなきゃならないから…。不器用なあたしには、大変になるのは目に見えている。

 あと、一年…。乱馬が帰って来るまでには、きっと…一通り、家事をこなせるようになっている筈よ。お料理の腕だって、上がっている筈。
 期待していてね…。

 そんな言葉を胸の中で、乱馬に吐き出しながら、洗濯物を一つ一つ干して行った。


二、

 日が西へ傾きかけた頃、あたしは、ちょっとだけおめかしして、天道家を出た。白いブラウスに水色のフレアスカート、それから、夜は肌寒くなるだろうから、薄桃色のカーデガンを手に持って行った。
 春の陽気がまだ残っている夕刻。
 曇ってきているのか、気温もさほど、すく下がりはしなかった。

 これから、高校の同級生たちと、公園でお花見。
 ゆかやさゆり、大助君やひろし君。さちえにしおりに泰造君に…二十人ほどの元クラスメイトたちと久しぶりに顔を合わせる。
 風林館高校を出て、皆もそれぞれの道を目指している。
 皆の近況を知るためにも…お花見を兼ねて、集まろう…。そう言って誘われた。
 
 場所は、天道家(うち)からそう遠く無い、桜がたくさん植わっている、池の公園だ。

「あ、あかねっ!久しぶり!」
 最初にあたしを見つけて手招きしてくれたのは、ゆか。
「ほんと、久しぶりね。」
 懐かしい顔を見つけると、嬉しくなって心は弾む。

「また、髪の毛のばしてるの?」
 さゆりがひょこっと顔を出した。

 あたしは、ゆっくりと頷いて見せる。

 そう。変わったのはあたしも同じ。
 
 あれから…乱馬が天道家を旅立って以来、髪の毛をのばしている。
 ときどき、穂先を切りそろえて貰うくらいで、基本、切らない。
 一年で十五センチほどはのびたかと思う。
 肩はとくに越して、セミロング。そろそろ、ポニーテイルできるくらいにまでなっている。
 

「見違えちゃったわー。」
「そお?」
「心境の変化でもありましたか?」
「まさか!」
 他愛のない会話が流れ始める。
 髪の毛ひとつ、女子には、重要な話題となるのだ。

 一応まだ、未成年ばかりだから、お酒でどんちゃんというわけにはいかない。昨今、未成年の飲酒には回りもうるさくなってきたから、とりあえずは、ソフトドリンクで乾杯。アルコールは一切ご法度。
 目の前には、女子たちが持ち寄った御馳走のお重。中にはお弁当男子が作ってきたものもあるそうな。
 みんな…器用だ。あたしも見習わなくっちゃ…。
 あたしは、一応、お重の持ち込みはパスした。主婦見習いを始めたとはいえ、まだ、人前に出せるほど、上達した訳ではない。それに、かすみお姉ちゃんも出かけるのに忙しそうだったから、教えてもらうのも気が引けたのだ。
 だから、お重ではなく、ペットボトル飲料を持てるだけ持参したわ。飲み物もたくさん必要になるわけだから。

 お酒が入っていなくっても、日が暮れて、ぼんぼりに灯がともって、周りが赤らめば、場は賑わいそれなりの活気を持つ。一通り、みんながあれから、どうなって、今、何をしているのか…身の上を話がてら、この場に居ない同級生たちの様々な情報まで飛び交う。

「そういやさー。乱馬の奴…。もうすぐ始まる、格闘オリンピックとやらに、出場するんだってな?」
 ひろし君があたしへと話しかけて来た。
「多分ね。」
 その問いかけには曖昧な返答しかできない。乱馬と連絡を取り合って居る訳ではないので、詳しいことは知らない。
「って、もしかして、乱馬の奴…自分の動向を、天道に知らせてねーのか?」
 ひろし君が横から覗きこんだ。
「え…ええ。」
「でも、エントリーはしてたみたいだぜ。エントリー表がこの前、雑誌に載ってたのを、ちらっと見たけど、早乙女乱馬って名前、はっきり見たもん、俺。」
 横から別の男子が、茶々を入れて来た。
「そ…そーなの?」
 少し、驚きの声が漏れた。
「ああ…。まだ、乱馬は無名だし、注目選手の中に記事は無かったけど…。確かにエントリーはしてたぜ。」
 初めて知る、乱馬の動向に、耳を済ませて、少し溜息を吐き出す。…エントリー表に名前があったということは、真面目に修行をこなしてきたということになるからだ。
 格闘オリンピック。四年に一度開かれる、異種格闘技の世界大会で、約一年かけて、総合チャンピオンを決める格闘界随一の大会である。男子部しかないが、いずれ、女子部もできるとか、昨今言われ始めている。
 柔道、空手、相撲、テコンドー、ボクシング、キックボクシング、レスリング…とにかく、様々な格闘界から人材が集まって、優劣を競いあう、凄絶な大会だ。その、予選がもうすぐ始まる。今回はインドでの開催のはずだ。
 まだ、歴史も浅い大会なので、知名度は低い。予選、一回戦、二回戦…順繰りに続けば、八強辺りからは、おそらく、日本人が活躍すれば、一般的ではない無名な大会でも、それなりの盛り上がりを見せてくるだろう。が、今のところ、地上波での放映は望めまい。
 そのチャンピオンを狙って、乱馬は天道家を旅立って行ったといっていい。

 時間が進めば進むほどに、アルコールが入っていなくても、それなり、場は盛り上がってくる。だんだんと、久しぶりのみんなとも打ち解けて、友人たちとの会話にも熱がこもる。
 みんなの消息を聞き手にまわっていると、いきなり中央へと引きずり出されることもある。

「あかねさー、まだ、乱馬君を待ちわびてるの?」
 ゆかが問いかけて来た。
「待つだけの青春なんて、もったいない…。俺なら、いつでも空いてるけど。」
 にっと笑った一人の男子に、横からさゆりが突っ込んだ。
「こらこら、あかねは乱馬くん一筋なんだから、脇目はふらないって。」
「でも、乱馬の消息も知らないんだろ?冷たいよなー乱馬の奴。」
 ひろしの言葉を大介が受ける。
「んーだんーだ!キスひとつで、あかねを縛りつけておくなんて…。」

「ちょっと…何よ…それ。」
 顔が少し真っ赤に熟れた。

「いや、乱馬のことだから、旅立ち際に、待ってろとか言って、キスしたんじゃねーのかなー…って思ったんだけど。」
「もしかして…。ビンゴ?」
 ちらっと見据えて来る、いくつもの好奇心あふれる瞳。
 これじゃあ、よってたかっての誘導尋問じゃないの。
 あたしは、無視をすることに決めた。
「さーね。」
 すっとボケると、さらに追い打ちをかけてくる。
「こら…。さらっとかわそうだなんて、甘いっ!」
 お酒が入って居る訳でもないのに、さゆりが、ぐぐぐっと身を乗り出してくる。
「だから、あたしと乱馬は…。」

「関係ないなんて、言わせへんで!」

 頭上で声がした。
 振り向くと、右京が、こっちを睨んでいた。

「ほいっ!差し入れやっ!」
 そう言って、お好み焼きが入った箱を、トンと敷物の上において見せた。

「店があるから、すっかり遅くなってしもーたけどな!一応、うちもクラスメイトやさかいな!」
 店からかけつけたのだろう。いつもの割烹着(ユニフォーム)で、颯爽と現れた右京。
「おっ!待ってました!」
「うっちゃんのお好み焼きは天下一品だもんなっ!」
 食欲旺盛な男子たちの瞳が、一斉に輝く。
 箱を開くと、ソースのいい匂いが、漂ってくる。
「あったりまえや!うちとこのお好み焼きは、どこにも負けへん!」
 そう言うと、右京は、ゆかとあたしの間に、割り込んで座った。
「うちかて、桜を見たいもんな…。せやから、客足が落ち着いてきたのを見計らって、小夏とつばさに任せて、抜けて来てん。あんまり、ゆっくりはできひんけどな!」
 わざわざ、何で、あたしのとなりに座るのよ…。
 戸惑いを見せながらも、お尻をくって、右京が座れるように横へ詰める。


 右京の登場で、、あたしへの好奇心あふれる問いかけは静まった。
 とかく、人とは、目の前が映り替われば、すっと、話題は外へそれて行く。そう。みんなにとって、乱馬とあたしの関係なんて、それほど、深く追求するに値しない、ゴシップに過ぎないのだ。

 右京はあたしの隣に陣取ると、明るい声で、輪に加わっていく。久しぶりのみんなとの時間を、彼女なりに楽しんでいる様子だった。
 右京の巧みな関西弁は、場を盛り上げるのには、恰好な材料だった。
 高校生だったころは、あまり、気にもしていなかったが、右京は話術も巧みで、話題も関西人独特でユニークで楽しいものばかり。舌を巻いて、感心してしまったほどだ。
「さすが、関西人だなっ!うっちゃんて!」
 みんなが手を打ちながら、笑い転げている。
「せやろー?おもろいやろ?最近、お客さんには、お好み小町やとか言われてんねんでー。」
 とか言いながら、右京もはしゃいで笑っている。
 心からこの場を楽しんで、そして、美味しいお好み焼きをあたしたちに振舞って…。ひときわ、桜の木の下で、彼女が輝いて見えたのは、あたしの「嫉妬」のなせる技だったのかもしれない。
 きゃぴきゃぴと誰よりもはしゃいで楽しんでいる、ライバルへの憧憬。

 右京はちょっとしか居られないようなことを言っていたくせに、気がつくと、夜が更けて、お開きになるまで、そこに佇んで、一緒になって騒いでいた。

 時間にすると、おそらく、十一時前後。
 あたしたちの宴会は、はけた。
 お酒が入って居る訳ではないので、撤収となると、案外、みんな、行動が早かった。
「また、連絡するからー。」
「お休みー。」
 それぞれの家の方向へ、ばらばらに散って行く。
 宴(うたげ)が終わった後のわびしさの中、あたしも家の方向へと歩き出す。途中、同行していた友人たちが、一人減り、二人減り…。
 最後は、右京と二人、肩を並べて歩いていた。
 彼女の店とうちの方向が一緒だったから。単にそれだけの理由。
 乱馬の幼馴染であり、もう一人の許婚でもある彼女。
 道すがら、沿道の家の塀から覗く、桜が美しく咲き乱れる。

 コツコツと肩を並べて歩いていると、右京がポツンと声をかけてきた。

「あかね…。ありがとうな…。」

 ほんとに、ポツンと声を投げられた。
 えっと思って振り向くと、少しさみしげに笑っていた。

「あんたに誘ってもらえへんかったら、今日の宴会には行かれへんかったしな…。」

 そうだ。クラスメイトたちでお花見をしようという話が持ち上がってすぐのころ、たまたま、彼女が店の前を掃除していたのをロードワークしていて遭遇して、声をかけたのだった。
 高校生のころから、夕方は店に立ち、お好み焼きを焼き続けていた彼女は、決して、クラスメイトたちにとって、重要な位置に居た訳ではない。乱馬を追ってこの町に来て、店を持って働きながら通っていた風林館高校。転校生だった彼女は、少し浮いた存在でもあったから、あたしのように親しい親友が居るわけでもなかった。ましてや、乱馬はあたしたちの前から姿を消していたから…お花見があることを、彼女に告げたクラスメイトは私だけだったようだ。

「やっぱ…ええな…。同級生っていうのは…。高校のころ、もうちょっと、クラスにからんどっても良かったなー…なーんてな。」

 右京らしくない、少し後ろ向きの言葉が吐き出されてくる。
 どうしたの…?と言わんばかりに、彼女を見つめると、
「うち…うちも、この町を出ることにしてん。」
 その言葉に、足が止まる。
「どうして?」
 問い質す声が少し震えていた。
「日本一の…いや、世界一のお好み焼き職人になるんやったら…このままやったら、あかんって気付いたからや。」
 そう言って、右京は笑った。
「世界一のお好み焼き職人?」
「せや!うちの夢は世界中の人に、美味しいお好み焼きを食べさせて、喜んでもらうこと。せやったら、もっと修行せんとあかんなーってな。ここで焼いてるだけの生活やったら、進歩が無いわ。若いねんし、いろんな土地行って研究もしていかんと…。」
「店…辞めちゃうの?」
「一旦、閉めるわ。店残したところで、家賃とか発生するだけ大損こくやん。」
「で、具体的にどこに行くのか決めてるの?」
「一応…世界や。まずは、中国辺りから攻めたろーかーなんて思ってるねん。」
「まさか、呪泉郷に行くとか…。」
 その言葉を聞いて、右京は笑い出した。パンパンと両手を叩いて、おなかを抱える。そんな変なこと言ったからしら、あたし。
「あっはっは…その考えは無かったなあ。上海辺りから始めたろー思っててんけどな…。せやな…。一度は呪泉郷をこの目で見とかなあかんな…。」
 笑って居た右京の瞳が、真面目になった。
「乱ちゃんがこの町に来るきっかけになって…そいで、世界を目指して頑張る気にさせた、元凶の場所やさかいにな…。呪泉郷は。一度はこの目で、しかと見とかんとな…。乱ちゃんの許婚やった一人としては。」
 その言葉に、返事は返せなかった。そう、右京も、乱馬と絡んで、人生が変わった一人だからだ。
 あたしよりもずっと前に…幼いころから乱馬と絡んでいた。
「ウチはな…あかね。乱ちゃんがあんたしか目に入ってないことなんか、ずっと前からわかっててんで。」
「え?」
「再会したころから、そーやった。天邪鬼なことばっかり、言ってたけど…。乱ちゃんの瞳には、あんたしか映ってへんってことは…最初っからわかってたわ。」
「……。」
 右京の言葉に、どう返せばよいのか、すっと言葉は流れて行かなかった。
「乱ちゃんってなあ…。幼いころから、一途(いちず)なところがあったからなあ…。せやから、うちのことを男の子やと勘違いしたり…うちよりお好み焼きの屋台選んでしもうたんやと思うけどな…。」
「そ…そうかしら…。」
「っつーか、あんたも、相当なあ…あかねちゃん。」
「え?」
「その髪の毛…。乱ちゃんを待つために伸ばしてるんやろ?」
 
 ドクン…と右京の言葉に、心音が反応した。

 そう…。この髪を伸ばし始めた理由を、右京に見抜かれている。

「隠しててもわかるで…。うちかて、乱ちゃんのことった好きやったさかいにな…。あんたが一途な想いで、髪の毛のばしてるってことは、お見通しや。」

 これは、一種の、あたしの意気込み…いや、願掛けに等しいこと。
 あの日…乱馬を見送ってから、あたしは…髪を切らないことに決めたのだ。人知れず。
 乱馬が無事に帰って来られるように。あたしが預けた想いを連れて帰って来てくれるように。
 伸びた髪の毛は、あたしの思いの丈…。乱馬の成長を願う、許婚としての自負。
 決して、髪の毛をのばしていた、十六歳の淡い春のころを、思い出してのことではない。
 一度、切られた、淡い恋心ではあったが、あれはもう、終わった初恋。それに対して、今の…乱馬への想いはずっと維持して行きたい…。
 寂しさですぐに折れそうになる、自分への戒めのために伸ばしている。

「せやから…。乱ちゃんはあんたに託すわ。」
 ポロっと彼女からこぼれた言葉。
 耳を疑うような言葉だった。
「ま、情けない話やけど…。吹っ切るのに一年もかかってしもーたわ!シャンプーはすぐに吹っ切って、この町を去ったっていうのにな…。」
 右京はそう告げると、くるりとあたしに背を向けた。
 もしかすると…。
 そう、もしかすると、涙をあたしに見せたくなかったのかもしれない。

「今度、うちがこの町に帰って来たら、乱ちゃんと店においでな…。とびっきり美味しいお好み焼き、あんたらに食わしたるさかいに…。せやから…それまで、元気でな。」

 遠ざかる背中越しに、そんなことばが聞こえて来た。

「右京…。」

 すううっとあたしの横を風が吹き抜けて行った。柔らかな春の風。その風に乗って、どこからともなく、白い花びらが、一片、舞い降りて来る。
 あたしのはおったカーデガンに触れて、止まった。
 一片の花びら。右京の切ない想いが、花びらに乗り移っているかのように思えた。
 桜の木はどこに植わっていたのかは、わからない。きっと、道端の家の何処かの庭で、咲き誇っているのだろう。
 
 そっと、花びらをぬぐうと、掌に落としてみた。
『花が咲いている時間は短いけれど、だからこそ、きれいなの。咲いた花も散る花もね…』
 母の声が耳の奥で響いたような気がする。
 その花びらを握りしめたまま、あたしは、家路を急いだ。


三、

 家の門扉の電灯が、わびしげに揺れている中、そっと扉を開いて中へ入った。
 玄関先にも明りは灯っていたが、あたしは、玄関をう回して、お勝手口の方へと足を進めた。道場を回ると、桜がここぞと言わんばかりに、誇らしげにたわわな花を空へと手向けていた。
 そのはるか上には、朧月。薄雲に覆われて、星影は見えない。
 桜の木のたもとにくると、ふっとほのかな、花の香りが漂って来た。上品な香り。
 ぞっとするほどに美しい花枝。灯火がなくても、白い色が鮮やかによる闇に浮かんでいる。神がそこに宿っているようなまでの、神々しい輝きに満ちている。
 去年、この木の下で、交わした口づけの淡い想い出が、瞼の裏を過った。

 あれから一年。
 便りも無い乱馬。
 また一人、乱馬とかかわったライバルがこの町を去る。シャンプーもムースも去ってしまって久しい。そして、右京もこの地を去る決意を固めた。
 あたしはというと…ただ、待つことしかできない。
 想いは乱馬に全て預けた…そのはずなのに…。
 夜空をグッと睨みあげて、必死で、涙をこらえた。
 涙は流さない。そう決めていたからだ。瞳に涙があふれても、流さなければ良い。

 クラスメイトが教えてくれたように、まだこれから、予選が始まり、そして、決勝までの長い闘いが続いて行く。乱馬が勝ち上がる保障もないし、この地へ本当に戻ってくるのかも、懐疑的だ。本当に約束は守られるのか。
 急に不安に駆られたあたしの瞳に、花の枝がゆらゆらと揺れた。
 風で花が散れば、…花占いができるのではないか…。花占いをして願いがかなえられるのではないか…。回らない頭でそんなことを考えている己が居た。

「ねえ…風さん…お願い。あたしに花びらを三枚…つかませて…。」
 そんな弱い言葉が心から溢れだす。
 もし、三枚、掌に握れたとしても、気休めにしかならないことは、百も承知。だが、そう、希(こいねが)わずにはいられなかった。

 なのに…花は散って来なかった。まだ、「その刹那」ではなかったのだろう。見上げながら広げる掌に、一枚たりとも落ちてこない。
 夜通し待ち続けて、花をつかもう…。そんな、無謀な考えまで、巡り始める。
 こうなっては、ただの駄々っ子だ。昔、花を散らせないでほしいと、母に迫ったあの幼い日のあたしと同じ。
 どのくらいそうやって、桜に向かって両手を広げていたのだろう。

 パッと母屋の勝手口に蛍光灯が灯った。その白い光に、桜の花が一斉にざわめいて、空の闇に照り輝く。

「あらあら、誰が庭に居るかと思ったら、あんただったの。」
 なびきお姉ちゃんが、ひょこっと勝手口に立って、苦笑いしていた。まだ、夜は冷えるから、パジャマに半てんという姿だ。夜の早い我が家で、一番宵っ張りのなびきお姉ちゃんだから、まだ眠ってはいなかったようだ。
「いくら桜がきれいだからって言ってもさー。泥棒でも入ったかと思っちゃったわよーたくぅ…。」
 ちょっと、不機嫌な声を出す。
「かすみお姉ちゃんは?」
「とっくに寝てるわ。お父さんもべろんべろんで帰ってきて、みんなすやすや夢の中。」
「なびきお姉ちゃんは寝ないの?」
「あんたの帰りを待っててあげたのよー。」
 怪訝な瞳で見上げると、ちょっとだけニッと笑った。
 なびきお姉ちゃんが、あたしの帰りを待つだなんて…。不思議な話だからだ。今まで、そんな待遇を受けたことは無い。もっとも、あたしよりなびきお姉ちゃんの方が帰宅が遅いから仕方がないが。
 きっと、キツネにつままれた顔を手向けていただろう、あたし。
 すると、懐から何かを取り出して、あたしへと手渡した。

「ほらっ!待ち人よ…。」
 そう言って差し出された、一枚のハガキ。
 手に取ると、桜の枝葉が美しい、山の風景の絵葉書だった。
「夕方ポストに入ってたのよ…。これをあんたに渡してあげたくてね…起きて待っててあげたんだから…。さて、あたしもとっとと寝るわ。あんたもいい加減で家に入りなさいよ。」
 それだけ告げると、なびきお姉ちゃんは、勝手口の向こうへと消えて行った。

 手に残った絵葉書。どうやら、吉野山の風景らしかったが、切手と消印は日本のものではなかった。見たことも無い、異国の切手に消印が乱雑に押されている。
 でも、たどたどしく書かれている文字は…乱馬のものだった。


「元気か?桜はもう咲いたか?
 次の春には、きっと花を咲かせて帰るから、楽しみに待ってろよ。」
 ただ、それだけが、殴り書きされている文面。


 次の瞬間、そのハガキを胸に沈めていた。
 懐かしさと嬉しさと…そして、少し切なさと。
 様々な喜怒哀楽が、涙と共に瞳に溢れだす。

…今日くらいは泣いてもいいよね…。

 こらえていた涙が、頬を伝って流れ出す。
 ハガキを濡らさないように、両手で大事に抱えながら。声を殺して、一人、泣いた…。

 さわさわと枝が鳴る。泣いているあたしを慈しむように、花の香りに包まれて。あたしは、夜空を仰ぎ見た。
 
『彼はきっと、あなたの想いを抱いて、頑張っているのよ…。だから、信じて待ってあげなさい…。』

 揺れる花枝が、あたしにそう語りかけてくる。

 あたしの想いを連れて、乱馬が頑張ってくれているのなら…あたしも…。もう少し強くならなくちゃ…。

 ぐしぐしと涙を手で拭うと、丹田に向けて、息を吐きだした。

…もう大丈夫…。ありがとう乱馬…。

 それから、桜をもう一度仰ぎ見ると、玄関へ向かって歩き出した。その手に、しっかりと、ハガキを握りしめながら。



 第二景 完
(2015年4月10日)



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