◇花の隋に
第一景 花の旅立ち


一、

 天上から注ぐ太陽の光は、お彼岸以来、威力を少し増したような気がする。
 まだ、射すほどの強さはないものの、身体を激しく動かすと、容赦なく額から滴り落ちて来る。
 動き回って、足が止まった。
 ふうっと、空を仰ぐと、ゆらゆらと風に揺れる、桜の枝が瞳に入った。
「ずいぶん、大きくなったわね……。」
 太陽光を避けながら、そんな言葉が口を吐いて離れた。
 
 道場の脇に植えられた、ソメイヨシノ。
 花だけを先に芽吹く、この美しい桜の木は、父と母が結婚した頃に、二人揃って植えたものだそうだ。言わば、父と母の記念樹。
 あたしが物心ついた頃は、三メートルあるかないかの若い低木だった。
 それが、十数年のうちに、ぐんぐん枝を広げ、今や、道場の屋根の高さと、そう変わらないくらいになった。毎年、春になると、たわわな花を、薄水色の空へと誇らしげに掲げる。
 日ごとに蕾の膨らみが、くっきりとわかるようになった。蕾は鮮やかなピンク色に染まっている。
 開花まで後もう一息。桜が咲けば、春本番。

 ソメイヨシノを見上げているうちに、ふと、子供の頃の思い出が、頭を過った。
 まだ、母が生きていた頃の、他愛のない思い出。


『ねえ…お母さん。』
『なあに?あかねちゃん。』
『桜のお花…咲いたね。』
 そう話しかけると、母はにっこりと微笑み返してくれた。
『今年も、ちゃんと咲いてくれてよかったわ。』

 あの頃は、毎日毎日、いつ咲くか、今日か、明日か。じっと待ちわびていた。
 蕾は紅色なのに、開くと真っ白な花になる。その白い花が密集すると、ほのかなピンク色になる。不思議なソメイヨシノに、幼い心を惹きつけられていたものだ。
 開いた花を見つけた時は、飛び上がらんばかりに喜んだ。
 でも…。花の命は短い。一週間もすると、枝から花びらを散らして短い花の春が終わる。
 待ちわびて待ちわびて、やっと咲いた花が、散っていくのを目の当たりにするのだから、幼いながらも、その短い春を惜しむ気持ちが芽生えていく。

『ねえ、お母さん。桜の花が散っちゃうよ。』
 数日後、桜の枝から花びらが、ひらひらと舞い落ちるのを見て、大慌てで母親を呼んだ。
『仕方がないわ。あかねちゃん。花びらを散らすのは桜の運命だから。』
 そう言って、母はさびしげに笑った。
『桜の運命?』
『そう…。花はね…咲いたら、やがて、こうやって、いつかは散ってしまうものなのよ。』
『どーして?』
『昔から決まっているの。』
『ふーん…。』
 あたしはわかったようなわからないような顔を母に手向けたろう。細かい記憶は欠落しているが、きっと、散らない方法は無いのか…とダダの一つもこねたと思う。
『桜は毎年春になるのを、じっと待ちわびて、そして、一斉に咲いて…風に吹かれて散りゆくものなのよ。花が咲いている時間は短いけれど、だからこそ、きれいなの。咲いた花も散る花もね…。』
『花を咲かせたままにはできないの?』
『それは…無理ね。』
『どーして?』
『神様が決めたことだから。散らない花は無いわ。桜だってチューリップだって、スミレだって…皆、散っちゃうでしょ?』
『あかね、花がなくなっちゃうのは…イヤ…。』
 ちょっと泣きっ面になりかけたあたしに、母は柔らかく言った。
『あかねちゃん…。あなたに、桜の花びらの占いを教えてあげましょうか?』
 言葉のついでに、母がそんなことを言いだした。
『花びらの占い?』
「ええ。散っていく花びらじゃないとできない占いがあるの。それはね、願い事がかなうかどうかの、簡単な占いよ。』
 母はいたずらっぽく笑った。占いの話で、散らないでとダダをこねかけた、あたしの気を反らせたかったのだろう。
 興味を持ったあたしは、返す口ですぐ、
『うん、教えてっ!』
 と瞳を輝かせた。願い事がかなうというのが、幼心にグンと迫ってきたからだ。
『こうやって、手を伸ばして…落ちて来る花びらをつかむの。ほら…真似してごらんなさい。』
 母は徐に、桜の花びらへと手を伸ばす。
『えいっ!』
『いくつ掌の中におさまったかしら?』
『えっとねえ…。一つ、二つ…三つ…四つ…五つ…かな?』
 順番に数え上げた。
『あらあら、残念でした。』
 コロコロと母が笑った。
『どーして?』
『掌の中の花びらの数が三つだったら、願い事がかなうのよ。三つじゃなかったら、あかねちゃんの願い事は、今年は叶わないわね。』
『じゃあ、あかね、もう一度やるっ!』
 勝気なあたしは、間髪いれず、そう言って、ひらひらと落ちて来る花びらを、右手一杯に掴みにかかる。
『あー、今度は二枚だった!残念!』
 幾度も幾度も、母と繰り返し差し出す手。結局、その日は、何度挑戦しても、三枚の花びらを手に納めることは出来なかった。
『あかねちゃんは何を願いたいのかしら?』
『強くなりたいの、お父さんみたいにっ!…そして、立派な、ムサベツカクトウ天道リューのアトトリになるのっ!』
 多分、父の受け売りだったのだろうが、あたしははっきりと、答えた。
 当時のあたしは、無差別格闘流も天道流も跡取も…てんで意味を理解していなかった。けれど、強くなりたいとあの頃から思っていた。それだけは確かだ。
『じゃあ、また明日、やってみましょうね。そろそろ晩御飯にしないといけないから…。』
 そう言い含められて、母屋へと入ったあたしと母。

 次の日は雨。花散らしの雨になり、やんだ後は、花びらも枝から、すっかり落ちてしまっていた。
『花びら占いは、また、来年…ね。残念だけれど…。』
 花を散らして葉が伸び始めた桜を仰ぎ見て、落胆したことを、今でもはっきりと覚えている。

 結局…それっきりになってしまった…。あたしと母の花びら占い。
 何故なら、次の年の春に、母はもう…この世には居なかったから…。
 あたしたちを置いて、逝ってしまったから。
 
 遥か子供のころにの、数少ない母との思い出。

 あれから、十数年の年月が流れた。
 そう、この春は、あたしにとって…特別な春。
 この前、めでたく、風林館高校を卒業したばかりだ。 
 芳紀、まさに十八歳。人生の春を謳歌するかのような、眩い年齢に差し掛かっていた。

 あの時、花びらを三つ、掌の中に納めることができなかったから…結局、あたしは中途半端なままだ。
 精神も力も…強いとはとても、思えない。
 そんな自嘲気味な溜息が漏れる。

「悔しいけど…仕方がないか…。」
 ポツンと「らしくない弱音」が零れ落ちた。
 物事には始まりと終わりがある。桜の花が蕾から開き、そして、風に乗って散って行くかの如く。その終焉を、きちんと見送らなければならない。
 そんな複雑な想いが、あたしの脳裏をチラチラとかすめていく。

 と、途端、サアアッと、風が頬をかすめて渡って行った。
 それ以上「後ろ向き」になるなと、言いたげに。

「さてと…。小休止終わりっ!修行の続き…続きっと。強くならなきゃっ!あかねっ!しっかりしなさいっ!」
 フウッと息を吐きだす。それから、パチパチと顔を叩く。

 思い出に浸るのは、もうやめにしないと…。

 そして、徐に、瓦を重ね置いて行く。
 どのくらい、すっぱりと瓦を割り落とせるか。もうすぐ迎える一つの終焉の区切りを前に、己の力を試してみたくなったのだった。
 所以あって、暫く、無差別格闘からは遠ざかっていた。そう、十八歳の春に、通る道、受験だ。スポーツ推薦で進学するわけではなかったし、散々思いあぐねて決めた短期大学への進路。短大とはいえ誰彼、志願者全員が行けるものではない。受験。それを言い訳に、すっかり無差別格闘から遠ざかっていたのだった。
『そろそろ、修行に戻ったらどうだね?』
 すっかりサボり癖がついた、あたしに、父は苦笑いしながら言い含めてきた。
 受験が終わって、卒業式も終わったのに、一向に腰を据えて修行しないあたしに、業を煮やしたのだろう。
『明日からね…。』
 その言葉を何度繰り返してきたことか。
 明日から…は、半否定の言葉。前向きな言葉ではない。
 そう、あたしは、迷っていた。
 このまま、無差別格闘技を続けるべきか否か。高校生になってから、少しずつ迷い出していたことだ。
 乱馬と出会ってしまったから…。彼と出会って、己の限界を思い知るにいたったから…。迷いの根源はそこにあった。
 己の限界を知ってしまったのなら、いっそのこと、すっぱりと辞めてしまうのも、良いのではないかと、父が聞いたら卒倒しそうなことまで、考え初めていた。

(こういう気持ちになるのも…全部、あいつのせいよ。)
 瓦を丁寧に平置きしながら、少し恨みがましい言葉を心根に吐き出していた。

『父親同志が勝手に決めた許婚』
 あたしとあいつの仲は、この範疇から抜け出しては居ない。ずっと、このままだった。
 互いの想いは、とっくに、知れているというのに…。己で言うのも何だが、もどかしいくらい進展せぬカップル、それがあたしと乱馬であった。
 それはそれで良い…。
 その関係を、保ったまま、あいつが、もうすぐ、この家を出て行こうとしている…。あたしの杞憂 (きゆう)はそこに起因があった。

 今、この時点で、あたしは、いつ、乱馬が天道家を出て行くかは聞かされては居ない。
 卒業して半月余り。まだ、彼はアルバイトに精を出していたし、卒業前から変わらぬリズムで、天道家での生活が、延々と続いていたからだ。
 進学を決めたあたしと違い、乱馬は、修行の道を行くことを決意していた。しかも、格闘家として本格的に世界へ飛び出すため、天道家を出ることになっていた。
 あいつが己の進路を決めたのは去年の暮。二学期が終わりを告げる頃だった。その頃からあいつは、天道家を出て自立の旅に出るための資金作りに、アルバイトを始めた。
 学校が終わると、バイト先へ駈け出して行く。あたしは、受験勉強に勤しんでいた。ずっとすれ違う生活が続いた訳だ。
 受験が終わっても、すれ違い生活は変わらなかった。
 三月に入って、彼がこの町を去って修行に出るという事実が、どこからともなく伝わって、彼の背後は何かと、ざわついてきたからだ。
 良牙君や九能先輩、ムースといったライバルたちが、入れ替わり立ち替わり、乱馬へと勝負を挑んで来たし、もちろん、シャンプーや右京、小太刀といった女子たちも、執拗に乱馬へと言い寄っていた。町を出るという乱馬の決意が、恋する乙女たちの猛攻に拍車をかけてしまったのであった。
 あたしは見て見ぬふりをしていた。受験勉強でそれどころではなかったこともあるのだが、元来の勝気な性格が、勝手にやってればいいのよ…と、三人娘たちの輪の中に、自ら入って行くことを躊躇させた。
 三月に入って、高校を卒業すると、ますます、乱馬と共有する時間は持てなくなってしまっていた。
 誰かが天道家を訪ねて来ては、彼に絡む。まるで、あたしを寄せ付けんばかりに、三人娘たちは互いに必死に乱馬を奪い合ったし、良牙君たちも格闘勝負を挑むのに懸命だった。その合間を縫って、アルバイトに出かけて行く乱馬。これでは、すれ違うばかりであった。
 同じ屋根の下に居ても、落ちついて話が出来る環境でも無かったのである。おまけに、互いに、複雑怪奇なほど天邪鬼ときている。家族が居る前では、決して二人きりになるアクションを起こさなかったし、下手をすれば、会話すらしないで終わる日もあった。
 いや、会話しても、おはよう、おやすみ…の日常会話以下の文言だけだ。
 結果…あたしの溜息は、確実に日を追うごとに増えている。格闘へのモチベーションも劣化したまま、上がらない。集中できないのだ。
 こんな気持ちのままでは、乱馬との別れは、とても、素直になれたものではないだろうし、無差別格闘天道流跡目としての自覚も、萎えたままであった。

 このままじゃダメ…。

 それも、良く分かっていた。
 出払って誰も居ない春休みの昼下がり。久しぶりに、瓦を割ってやろうと、思い至って、ここに居る。この桜の木の下に。幼いころ、強くなりたいと、母の前で言って見せたこの場所に…。

 準備運動はさっき入念にやった。
 ロードワークだけは受験後、再開して下半身だけは鍛えている。
 身体の柔軟性も、大丈夫だと思う。
 あたしとて、格闘家の端くれ。ど素人ではない。急に身体を動かすことのダメージを、ちゃんと理解しているつもりだ。

 目の前に重ね置いた、十枚の瓦。それを前に、ほおおっ、と大きく息を吸い上げて腹に空気を溜める。これを何度か繰り返しながら、気合いを入れていく。
 だんだんと高める、闘志。
 と、柔らかな女体に、凡そ似つかわしくない力が、みなぎり始める。
 脈動する血潮と筋肉。その隅々まで、強い力が伝播していく。
 ぐだぐだ言っていても、幼き頃より培った、格闘魂。完全に冷え切って閉まった訳ではない。
 一度灯った闘気は、熱を帯びて燃え盛る。
 半年余りのブランクも、吹き飛ばさんばかりの力のみなぎりであった。
 この勢いに乗って、瓦を割ってやる…そう思って、グッと下半身を踏ん張った。

 よしっ!
 
 溜めこんだ気が、臨界点に達すると、ギュッと一度、両脇を思い切り締めて、両手で拳を握った。 
 瞳を閉じ、高ぶる気を制御する。打ち砕く右手の先に、溜めた闘気を解き放つ。
 そして、ハッと強く息を肺へと吸い込み、一気に両眼を開く。

「でやあああっ!」

 甲高い掛け声と共に勢いよ手刀 (てがたな)を振り落とした。
 と、その刹那、額から汗が一筋、滴り落ちた。不味いことに、そのまま目の中に入りこんだ。
「っつっ!」
 塩っ気を含んだ汗水に、すぐさま痛みが走った。猛々しい闘志を身にまとい、たぎらせていたとて、万全ではない。目に染みる汗に、迷いが生じた。
 その時突き抜けた、一瞬の戸惑いが、振り下ろした手にも伝わっていく。

 ぐわっしゃーん…。

 心地の良い破壊音にはならなかった。耳で捕えた音だけで、結果は容易に知れた。
 割れ落ちた瓦は、一枚きり。それも、中途半端に割れ目が走っている。割れ口もボロボロだ。不細工に砕け飛んだ破片を目の当たりに、滲み出す額の汗を、左手で拭う。
 ふうっと、大きな溜息が零れ落ちた。
 失敗した…。
 落胆が全身を貫いて通り抜けた。
 十枚はかたいと思っていたのに、一枚きり。この体たらくは何…?一割も破壊出来なかった…。

 大きく肩が落ちた時、そいつの声が脇から響いて来た。


二、

「たく…何やってんだよ…。おめーらしくねえな。そんなだと、怪我しちまうぞ。」
 母屋の影から響き渡ってきた。

 あたしはあたしで、グッと鋭い不機嫌な視線を声のした方へと投げつけた。
 そこに立っていたのは、赤いチャイナ上着に身を包んだ、おさげの青年。
 このとうへんぼくは、きっと、影から全部、見詰めていたのだろう。それも、巧みに、気配を消して。そして、あたしの失敗を認めると、姿を現した。
 あたしは乱馬の瞳を、射抜かんばかりに、グッと見据える。彼も負けじと、鋭い瞳をあたしへと手向け返してくる。
 出会った頃あった少年の面影は[[rb:形 > なり]]を潜め、精悍な成人の体つきになった乱馬。筋肉も胸板も、全てがあたしよりも、一回り以上大きい。己が女であることを、否が応にも思い知らされる。
 怒気が籠った顔を、彼に手向けるのは、昨日今日に始まったことではない。出会ったその日から、ずっと、睨みつけることの方が多かったように思う。
 特に、子供のころから執着してきた「格闘」のことが絡むと、彼への反発は強くなる。
 男に劣る腕力しか持ち合わせないことを、実感させられてしまう。しかも、強がれは強がるほど、心は固いガードで武装されていく。「素直」という言葉は、微塵の欠片も残さず、吹き飛ぶ。
 そんなあたしに対して、彼もまた、[[rb:頑 > かたく]]なな態度を投げつけてくる。容赦は一切無い。

 互いに惹きつけられ、惹かれあっていることを知りながら、素直になれない者同士。

「ちょっと、目に汗が入っちゃっただけよ!」
 と、案の定、取ってつけたように、口をついて流れ出す言い訳。

「でも、ダメはダメ…失敗は失敗だ。違うか?」
 容赦なく叩きつけて来る、厳しい言葉。

 彼が言わんとしていることはわかっている。格闘家たるもの、どんな時も、油断すれば終わりだ。一旦繰り出した拳を、中途半端に下ろすのは致命的だ。これが実践だったなら、試合や果たし合いだったら…負けを喫してしまう。試合ならまだしも、果たし合いなら死だ。
 彼はそう正したいに違いあるまい。
「瓦の割れ目を見れば、一目瞭然だぜ…。ほら、こんなにバラバラに砕け散ってる。しかも、すっきり割れて無え。力が均等に行き渡らなかった証拠だ。」
 割れたところを、指でなぞりながら声をかけてくる。
「あんたに言われなくてもわかってるわよ。」
 ムスッとした表情でたたみかけると、
「たく…かわいくねーなあ。」
 と、素っ気なく突き返された。聞き飽きた返答。
(かわいくなくて悪かったわね…。)
 心根でそう吐き出して、無言で睨みつけてやる。

「まあ、いい…俺がじかにお手本を見せてやらあ。」
 
 と、少し低い声で、徐 (おもむろ)に人差し指を差し出して、後ろへ行くようにあたしを促した。
 ヘッと思って彼を見詰めた。
 「自らお手本を見せてやる。」…そんな言葉は、あまり彼の口から聞かされたことは無い。
 「一体何?どうしたの?今日に限って…。」…そう思って見上げた彼の表情が、いつもに比べて穏やかなのに気付いた。
 その「らしくない表情」に、戸惑いを覚えた表情を手向けると、少しだけ白い歯を見せて笑いかけられた。

「餞別に見せてやるよ…。俺の瓦の割り方を。」

 グイッと吐きだす押しの言葉。
 その言葉に唾を飲み込むと、ゴクンと耳元で喉が鳴った。

 餞別…。

 ざわざわと全身に衝撃が登りつめて行く。

 戸惑いを見せるあたしのことなど、まるで目に入らぬが如く、スッと身構えた。
 
 どこにでもいる中肉中背の青年なのに、身構えると少し大きく見えるのは何故?
 丹田に気合いを入れた途端、精悍な顔つきになる。彼の瞳には、一切の乱れや迷いはない。ここで彼の気を反らせて何かを仕掛けても、恐らくは、さっきのあたしのように、中途半端な結果には終わらないだろう。
 じっと見つめる視線の先、あたしが割りそびれた瓦が九枚、重ねられてブロックの上に置かれている。

「はあ…。」
 一つ大きく息を吐きだすと、彼はグッと下半身に力を込めた。それから、軽く、手を瓦へと落とす。
「いいか、目をかっぽじって見てろ。」
 そうあたしに向かって声をかけると、クワっと大きく動いた。
 電光石火、降り下ろす右手。勢いよく、ぶつけるのかと思ったら…瓦の手前でクッと手刀が止まった。

 ピシッ!

 意識的に止められた手刀のすぐ下で、瓦が大きく鳴動する。と、カラカラと音を発てて、積み上がった瓦がブロックごと地面へと崩れ落ちる。それも見事に真っ二つ。中心に向かってV字を描く。

「ふうぅぅ……。」

 丹田から力を抜くと、どうだと言わんばかりに、彼はあたしへと視線を投げつけてきた。
 もちろん、あたしの視線は固まったまま、微動だにしない。今の乱馬の凄技に、格闘家としての複雑な思いが、心の底から湧きあがってきた。
 乱馬は瓦を手で割ったのではない。明らかに、瓦の一歩手前で止まっていた。でも、瓦はブロックごと真っ二つに割れた。そう、彼は手刀に、闘気を込めたのだ。つまり、気だけで、見事に九枚の瓦と、その下の土台ブロックを、割って退けたのだった。
 思わず、ぶるぶるっと身体がわなないた。 
 物凄い技を、ここぞとばかりに見せつけられたのだ。あたしの身体に幼い頃から流れて来た武道魂に、火が灯るのを、自覚する。
 恐怖…憧憬…闘志。程よく混ざり合っている。
 返す言葉も見つからなかった。
(また…水を開けられた。)
 俄かに純粋なほどの悔しさが、心から湧き上がってくるのを感じてしまった。

「ま、俺にかかれば、ざっとこんなもんだ。」
 少し得意げに、乱馬は笑った。相変わらずのナルシストっぷり。
 だが、あたしの顔に笑みはこぼれない。わなわなと身体が震えて止まらない。恐らく、一方的に力の差を見せつけられただけではない。さっき乱馬がポツンと言った言葉が、心に引っかかったからだ。

『餞別に見せてやる…。』
 彼の言葉が、鮮明なまで脳裏でこだまして鳴り響く。

「今の…何よ…。その…餞別って。」
 今見せつけられた技への感嘆が少し身体から抜け去ると、ぼそぼそっと乱馬へと声をかけた。

「文字通りだけど…。」
 淡々と突き返された。

「おめーだって知ってるだろ?俺が出て行くこと…。今更、説明するまでもねーよな?」
 あっさりと、吐き出される言葉。
「まーね…。お父さんやおばさまが、教えてくれたわ。」
 決して動揺を見せないように、必死で淡白に見せかけて、言葉を継ぐ。
「で?いつ立つって決めた訳?」
 肝心要な疑問を、すぐさまぶつけた。
 旅立つことはわかっていても、日までは推し量れないまま居る。父や乱馬の父母も、そこまでは知らないと言っていた。

 乱馬はすうっと、息を吸い込むと、吐き出し際に、一言で答えた。

「今日だ…。」

「え…?」
 唐突の言葉に、思わず、息を飲み込んでしまった。
「今…何て?」
 次の瞬間、問い質していた。

「聞えなかったか?今日…今すぐ…ここを立つ。」
 そう言いながら、クスッと笑った。その笑いが、複雑に絡みついたあたしの琴線に、プチンと触れる。
「あんた…あたしをからかってるの?」
 ムッとして言い返す。
「別にからかってるつもりは、ねーよ…。」
 何事も無いかのように平然と答える。
「あ…そう…。だったら…さっさと行けばいいじゃない。」
 精一杯そう吐き出すと、くるりと後ろを向いた。
「たく…。相変わらず…可愛げのねー奴だなあ…。旅立つ許婚に…[[rb:餞 > はなむけ]]の言葉一つ、かける気はねーのか?」
 軽々しく言い放って来る乱馬。でも、あたしはその言葉に反応しなかった…いや、出来なかった。

 暫し、沈黙が二人の間を流れて行く。

 その沈黙の意味を、彼はとっくに悟っている筈だ。

「可愛げが無え奴…そう言いたいところだが…。」
 そう言って、ポンと肩に彼の手が食い込んだ。
 彼の呪縛から逃れようと、反射的に身体を前に引いた。が、乱馬は置いた手にグッと力をこめ、逃すまいと、あたしを引きとめにかかった。
「言わねえよ…そんな野暮なことはな…。」
 その言葉に、また、激しく動揺して、肩が揺れた。
 乱馬は、ちゃんと、気付いている。あたしが、泣いていることに…。
 今日立つ…そう放たれた言葉に、感情を抑え切れなかったことに…。

 じっと肩に手を置いて、あたしが落ちつくのを待っているようだった。


…そんなに優しくしないでよ…。でないと…あたしは…。


 薄々変だとは思っていた。
 朝から順番に、この家の住民はすっと、この屋から居なくなっていた。父は乱馬の父と連れだって、外へ出て行ったし、かすみも乱馬の母もなびきも、出かけて行ってしまった。
 一番変なのは、この時間にここに居る乱馬だろう。いつもなら、アルバイトに行って留守の時間帯だ。[[rb:故 > ゆえ]]に、男女のライバルたちも寄りついて来ない…。まるで、見計らったかのように、天道家の面々が、この家から姿を消してしまっていた。

 それが、何を意味しているのか…ようやく、あたしにも理解できた。

 二人でちゃんと区切りをつけられるように。わずかだとしても、特別な時間を持てるように。
 あたしの口で、ちゃんとお別れが言えるように…。気をまわしてくれたのだ。
 ということは…父も姉たちも、知っていたのだ。乱馬が…彼が、今日、ここを去って行く決意をしていたことを。


…あたしだけが…蚊帳( かや)の外…。皆、乱馬の旅立つ日を知っていた。それなのに…あたしは…、あたしは知らなかった…。


 疎外感とまではいかないが、複雑な想いが、涙と一緒に、どっと、流れ出す。
 一度堰を切ると、なかなか落ちつかなかった。見せまいと思えば思う程、涙は溢れ出して行く。かといって、乱馬に正面切って、この涙を見られるのは、恥ずかしい。
 
「たく…泣き虫なんだから…おまえは…。」

 なかなか涙が止まらないあたしの後ろ姿を、見詰めてくる視線。それは、憎いくらいに、優しさに満ちている。
 だから、余計に振り向けなかった。

「桜が咲いて…花見がてらに送別会をしてから…出て行くって…おじさまが言ってた…。」
 ぼそぼそっと涙にくれた声で、背中越し、口早に吐き付けた。それが精一杯。
 確かに、父たちは口を揃えて『桜が咲いたら、別れの花見をしてから、盛大に送り出そうじゃないか。』…と、事あるごとに言っていた。
「おばさまだって、そう言ってた…。」
 乱馬へと背を向けたまま、言の葉を投げつける。
『あかねちゃんも、乱馬を送り出すお花見の準備を、手伝ってちょうだいね。』
 早乙女のおばさまも、にこやかに、笑いながら、あたしに言い含めていた。その言葉に、無言のまま、コクンと頷き返した、己が居た。
 それなのに…。実際は…。

「そうか。親父たちやオフクロは、おめにも、そんなことを言ってたのか。」
 淡々と乱馬は吐きだした。

「そうよ、お父さんたちがそう言ってたから、あたし…。そう信じてた。桜が咲いてから、あんたが出て行くって…。」
 
「それはあれだな…。良牙や九能、小太刀やウっちゃん、ムースやシャンプー…みんなが寄ってたかって、朝駆け夜駆けで、俺にまとわりつくから、声高にそう言って、出立の日を煙にまいて、誤魔化してくれてたんだな…。」
 
「何よ…それ…。やっぱり、今日旅立つって、おじさまやおばさま、お父さんやお姉ちゃんたちはちゃんと知ってたってこと?この家で、知らなかったのは…あたしだけだったってことなの?」
 声が荒んでいた。非難めいた言葉が口をついて、次々と流れ出した。言葉だけでは無い、涙一緒に流れ落ちた。留める術は持ち合わせていなかった。

「ああ…。今日立つことを、天道家のみんなにはちゃんと俺から伝えていたからな…。」

 それが引導になった。

「あたしにだけは、何も教えてくれなかったのねっ!」
 次の瞬間、声高に叫んでいた。
 最早、感情を抑え切れなくなっていた。制御と言う言葉は、あたしの胸の内からは、弾け飛んで粉々に砕けた。
 そして、振り向きざまに降りあげた手を、乱馬目がけて、思い切り突き出していた。

 ビシュッ!

 乱馬のすぐ脇で、あたしの拳が空を切った。
 勿論、乱馬は、ひょいっと、器用に避けて見せた。
「何よっ!皆して、あたしを、仲間はずれにして…。」
 恨み辛身と共に、次々とくり出す拳。本気の力が籠った拳。
 ひょいひょいと、息一つ乱さず、憎たらしいほど、いとも簡単に避けていく乱馬。
 空を切る音は、鋭い。捕まえれば、確実、タンコブの一つはお見舞いしてやれる。骨だって砕けるかもしれない。拳も、力を込めれば、立派な凶器になる。
 あたしは無我夢中だった。

…一発でもいい。乱馬に報いたい。この拳を食らわせてやりたい…。かするだけでもいい!

 闘気が身体を駆けあがってきた。
 あたしに強い力を見せびらかし、女が非力である事実を突きつけ、そして、あたしの心を奪った憎い奴。

 戻してよっ!時間をっ!出会う前に!あんたを知らなかった、平穏な時代にっ!
 もう一度、桜の花びらを三つ無我夢中追いすがって、掌を差し出していた、あの幼き日に!そうすれば…あたしは…。こんなに悩まなかったわっ!格闘家へ連なる夢を打ち砕かれることもなかった!
 返してよっ!全ての想いを!あたしから奪ったまま、旅立たないでよっ!


「いい加減にしろっ!」

 駄々っ子の如く、拳を打ち続けるあたしに業を煮やしたのだろう。身一つで、彼が真正面から飛び込んで来るのが見えた。

 バシン!

 激しくぶつかる音がして、二つの塊が一つに合わさって止まった。
 気付くと、がっしと一回り大きな掌で、手首をつかまれていた。
 それでもなお、抵抗を試みようと、今度は足を降りあげ、蹴りを食らわせようと動いた。
 もちろん、足蹴りを簡単に許してくれる、乱馬では無い。力も技も身体の大きさも、乱馬の方が一段上を行く。降りあげようとした股下に、彼の右足が割って入って止まった。

「仲間はずれにしたんじゃねーよ。俺が皆に頼んだんだ…。」
 あたしの感情の高ぶりを、更にさかなでる言葉を吐き付けてくる。

「何よ…どういうつもりだったのよっ!」

「だって…おめー、動揺がすぐ顔に出るじゃねーか。今みたいに…。」

「動揺なんて、してないっ!うぬぼれないでっ!」

「嘘つけ!だったら、何で泣いてる?」

「泣いてなんかいないっ!いないわよっ!」
 ぐっと睨みつけてくる、勝気な瞳。ボロボロと大粒の涙が溢れ出している。止める術はない。
 
 乱馬は、泣きっ面のあたしの身体を、乱暴に引き寄せた。あたしの身体に、逞しい腕が絡みつく。
 チャイナ服の上からでもわかる分厚い胸板。そして、がっちりとした二の腕。

「これでも泣いて無えって言い張る気かよ…。意固地になるのもいい加減にしろよ…。バカ…。」
 頭の上から吐き出された言葉に、全ての動作が止まった。そして、引き寄せられた胸にじっと、顔をくっつけたまま、微動だにできなくなった。
 これでは、どんな言い訳や強がりを口にしても、全てが虚構になってしまう。観念して、今度はダンマリを決め込んだ、姑息なあたし…。

「たく…勝気さは、出会った頃からちっとも、変わってねーな…。おまえは…。」

 動かなくなった駄々っ子を、さらに、がっしと絡め取って来る、逞しい腕。でもかけてくる声は、柔らかな響きを持っていた。
 
「おまえは…。すぐ動揺が顔や態度に出ちまうからな…。だから…あかねに旅立つ日のことは言わないでおいてくれって…皆に頼んだんだよ。悪かったな…。」
 そう言いながら、ポンと背中を軽く叩かれた。
「どーしてよ…。」
 ムスッと突き返す言葉。
「今度はすねたのか?」
 クスッと笑いが上からこぼれて来た。
 それには答えず、あたしは顔を乱馬の胸板にくっつけたまま、じっと微動だにしなかった。半分、あたっていたからだ。
「おまえの表情から旅立つ日が皆に知れて、邪魔されるのが嫌だったのもあるけど…。…あかねには、…おまえだけには…ちゃんと自分の意志を伝えてから、ここを立ちたいと思っていたんだ……俺は。」

「自分の意志?」
 きびすを返すと、こそっと腕の中から、見上げた。
 
「ああ…俺の正直な気持ちを伝えてから、ここを立ちたかったからな…。そのためには、誰にも邪魔されない空間が欲しかったんだよ…。わかるか?」

「わかんない…どういうこと?」

「たく…。相変わらず、鈍いなあ…おまえは…。俺はお前の何だ?そして、おまえは俺の何だ?…許婚…だろ?」
 鼻先をクンと人差し指で押される。

「誰も、俺が今日立つだなんて、思ってねえーさ。皆、俺がいつものようにアルバイトに行ってるって思ってる筈だ。そして、奴らを煙に巻いておいて、親父たちやオフクロ、それからかすみさんやなびきに、二人きりになれる時間を作ってくれって、頭下げて頼んだんだ。」
「乱馬がうちの皆に?」
「ああ…。無差別格闘早乙女流二代目として、いや、おめーの許婚として…ちゃんと、己の口で、おまえに伝えておきたいことがあったからな…。」
「あたしに伝えておきたいこと?」
 コクンと揺れるお下げ。一旦、乱馬は腕の力を抜いた。もう、暴れないと思ったのだろう。
 穏やか、かつ、真摯な瞳が、あたしを見下ろしてくる。
 
「おまえも、薄らとは承知してると思うけど…。来年から開かれる、無差別格闘の世界大会にエントリーするために、俺は、天道家を出て行く…。まずは一年間、八宝斉(じじい)の示唆通りに一人で呪泉郷を拠点に真剣に修行するつもりだ。あそこら辺りには格好の修行場や修行相手がゴロゴロしているらしいしな…。ついでに、男に戻って来るつもりだ…。
 そして、そのまま、無差別格闘世界大会にエントリーして、暴れて来る。」

 強い、意志を込めた言葉で、一言一言、畳みかけて来る乱馬。あたしも、一文一句逃さぬべく、耳を傾けた。

「これは、俺の越えなきゃならねー、大きな山だ…。このまま、ここに居て、安穏としていたら、大きく成長できねぇ…。井の中の蛙じゃいけねーんだ…。俺は天辺を目指してえ…。無差別格闘の大いなる峰に登りつめてぇ。」

 そうだ…。乱馬の意志は乱馬のものだ。彼が強く望むのなら、笑って送りださなければならない…。彼の許婚として…。

 あたしは、静かに耳を傾けながら、一つ一つの言葉に頷き返した。

 本当は…一緒に行きたい。一緒に、無差別格闘の高みに登りつめたい…。痛いほど、責めあげて来る、本音。
『あたしも…連れて行って…。』
 でも、言い出せない…。そのまま、言葉を喉の奥へ噛み殺す。

「ホントは、連れて行きてぇ…でも、それじゃダメなんだ…。俺は強くなんなきゃならねー。おまえの人生を背負う分…もっと…強く…。だから…待ってろ…あかね。」

 ポツンと吐き出された言葉に、ハッとして瞳を見詰め返した。揺れているダークグレイの瞳。
 その上に見えた、一片の桜花。ピンクの蕾の中に、開いた白い花。

「だったら…あたしの…想いだけ連れて行って…。」

 花の力に押し出されるように、吐いて口を流れ出た、あたしの言葉。

「あかねの…想い?」
 戸惑う瞳が降りて来る。
「好いも悪いも…。あんたの許婚よ、あたしは…。だから…連れて行って…。想いだけで良いから…。」

 多分、それは、愛の引導の言葉。初めて許婚として、向き合ったあたしたちの。

「じゃ…遠慮なく…連れて行くぜ。おまえの想い…を。」

 次の瞬間、柔らかな唇が降りて来る。
 あたしの想いを、吸い上げるために…。

 ゆっくりと閉じた瞼の上で、桜が笑ったような気がした。

(やっと、素直になれたのね…。良かったね…あかねちゃん…。)
 桜の上から、母の声が響いてきたように思う。


「ちゃんと、連れて帰って来てよ…。あたしの想いも一緒に…。」
「ああ…。もっと強くなって帰って来てやるから…。おまえも、ここで待ってろ。いいな?」
「うん…。」
 もう涙は流れて来なかった。代わりに笑顔が広がって行く。
 
「じゃあ…行って来る…。」

 あたしに笑顔が戻ったことを確かめると、乱馬はにっこりと微笑んで、傍らに置いてあったリュックを手に取った。

 そう、旅立ちは別れでは無い。
 だから、さよならは言わない。
 そして、涙も流すまい。
 極上の笑顔で送り出してあげるわ。
 
「行ってらっしゃい!」
 リュックを背負った背中に、そう声をかけて、再び、あたしは、桜の枝を見上げた。
 そこには、小さな白い花が、蕾から花開いて揺れていた。


 大丈夫…。あたしだって、強くなるわ。
 だから、ちゃんと帰って来てよ…。きっと…きっとね…。

 乱馬が旅立った次の日、桜の花が一斉に芽吹いて咲き始めた。
 

 

 第一景 完
(2015年4月7日)



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