◇らせつ

第五話 赤子争奪戦



一、

 深遠と続く常緑樹の森。昼でも暗く、木立が多い茂れる道。
 あかねは、赤子の乱馬を背負いながら、先を急いだ。

「おっかしいわねえ…。そろそろ、森を抜けても良い頃だと思うんだけれど…。」

 一向に抜け切る気配がないことを怪訝に思いながらも、足を進める。小一時間歩いているだろうか。すぐ、傍にそびえ建っていた城も今は見えない。それどころか、本当にこの道を進めば森を抜けきることが出来るのか、だんだんと心細くなってくる。
「とにかく、急がないと、日が暮れてしまうわ。」
 冷静ななびきですら、焦り始めたようだ。
 そうだ。こんなところで日暮れになられては堪らない。
「そうね…。早くこの森を抜けて、城下町に入りましょう。」
 あかねもコクンと頷いた。
 だが、思いとは裏腹に、だんだんと辺りが薄暗くなっていく。
 山道の日暮れは早い。天上に空が殆ど見えない分、陽が傾いてしまうと、容赦なく暗闇が襲い掛かってくる。

「なびきお姉ちゃん?ルシ?」
 先を歩いていた彼らが、いつの間にか見えなくなっていた。
 どうやらはぐれてしまったようだ。

「お姉ちゃんっ!ルシーッ!!どこ?」
 叫んでみたが、返事はない。
「困ったわ…。はぐれちゃったのかしら?」
 あかねは急ぎ足で、道を急いで見たが、だんだん、先を行くごとに道は細くなってしまった。最初は自動車も通れるのではないかと思うくらいに広がっていた山道が、いつの間にか、獣道くらいの幅に、それも、鬱蒼と茂る草むらの道へと変わり、小川の袂でふっつりと途切れた。
 小さなせせらぎが、目の前に横たわっているが、どう目を凝らしても、そこから先の道が見えない。じめじめした水場が目の前に広がるだけで、人の通れそうな小道もなくなっていた。
 
「もしかして、迷っちゃった?」

 大声を枯らして、なびきとルシを呼んではみたものの、虚しくこだまするだけで、何も返答はなかった。
 そうこうしているうちに、陽はとっぷりと暮れ、夜の闇が辺りを覆い始める。
 たった今、辿って来た、道も見えないほどに、真っ暗になるまで、そう時間もかからないだろう。

「どうしよう…。こんなところで、陽が暮れて…。」

 陽だけではなく、途方にも暮れてしまった。
 背中の乱馬は、眠ってしまったのか、規則正しい息だけが、漏れ聞こえてくる。
 ざわざわと、夕風が頬を掠めて吹き過ぎていく。
 ホーホーとフクロウのような夜の鳥の歌が、どこからともなく流れてくる。
 野宿するしかないかと、大きく溜息を吐き出したとき、その灯りを見つけた。
 心細い中での灯り。目を凝らしてみると、ちろちろと橙色の灯が誘いかけるように見えた。

「こんなところに人家(じんか)?」

 とにかく、行ってみようと思った。
 地面は落ち葉が積もっているのか、滑りそうな感触だった。乱馬を背負っているので、つまずかぬように注意を払いながら、ゆっくりと足を進めた。
 覆い被さるように、山道の両側から迫り出す、草や木の枝。
 それを掻き分けるように、あかねは乱馬を笈(おい)に背負ったまま、歩いた。
 ようやく、辿り着いてみると、粗末な小屋がポツンと、夜陰に紛れて建っていた。

「もうし…。ごめんください。どなたかいらっしゃいますか?」

 あかねは、みすぼらしい、木の戸板を叩きながら、尋ねた。
 灯りはこの小屋の中から漏れてくる。
 誰かが居るのは確かなようだった。

「はい、ただいま…。」
 中から声がして、出てきたのは、一人の黒い着物を着た婆さんだった。すっぽりと、頭から頭巾をかぶっていて、表情はうかがい知れない。だが、頭巾から長い白髪が覗いている。背丈はひょろっと細長い。大きな杖でも持っていれば、そのまま「魔女」としても通用するような、そんな井出達(いでたち)であった。

「こんな時間に、どなた?」
 婆さんはあかねを見て、問いかけた。不信な来訪者とでも思ったのだろう。みてくれよりも若い声だった。
「あの…。クノウ国の城下町に入ろうとして、この森の中で迷ってしまったんです…。雨露が凌げればよいんです。朝まで泊めていただけませんか?この子が居て、野宿するわけにも行かず、途方に暮れていたんです。」
 あかねは、かいつまんで、事情を話した。
「それは、また、飛んで火にいる夏の虫…。」
 婆さんの目が妖しく光った。
「はあ?」
「あ、いえ…。コホン。それはお気の毒に。何もありませんが、一晩くらいなら、泊めてさしあげましょう。ささ、どうぞ、中へお入りなさい。」
 お婆さんは快く、あかねを中へと招き入れた。
 中は木肌がむき出しの、文字通り「小さな小屋」であった。大きな囲炉裏が真ん中にあるほかは、殆ど何も道具もない、みすぼらしい山小屋であった。
「ささ、こちらへ。」
 お婆さんは、あかねを中へと導いた。
 通されたところは、囲炉裏端。
 大きな鉄鍋が、火にくべられて、何やら汁が、ぐつぐつと煮えたぎっていた。
 囲炉裏の傍には、もう一人、お爺さんが座っていた。この小屋にはお爺さんとお婆さんが、ひっそりと暮らしているようだ。少なくともあかねにはそう見えた。
「お腹もすいてござろう?何もないところでござるが、腹の足しにはなるでござる。ささ、遠慮なく、召し上がるでござるよ。」
 中に居た爺さんはにっと笑った。
「あ、ありがとうございます。」
 その時、あかねは、何か違和感を覚えていた。
 この喋り方、声色、どこかで聞いたことがある。そう思ったのだ。
「どうかしたでござるか?」
 そんなあかねを怪訝な目で爺さんが見返した。
「いえ…。ちょっと、知り合いに似ているって思ったものですから。」
 あかねは愛想笑いをして答えた。
 そうだ。佐助さんの声色と喋りに似ている。そう思ったのだ。
 だが、目の前の老人の顔には見覚えはない。
(他人の空似にもならないわね。)
 あかねは、言葉を沈めると、老人のすすめに従って、夕飯をご馳走になることにした。

「ここから、城下町まではどのくらいなんです?」
「小一時間も戻られれば、簡単に抜けられるでござるよ。」
 爺さんも一緒に箸をすすめながら、答えた。
「良かった…。そんなに遠いわけではないんですね。」
 あかねはほっと息を吐き出した。
「ま、今夜は遅い。朝日が登ってから、出かけると良いでしょうねえ。」
 お婆さんは言った。
「そうしなされ。この辺り、夜になると「魔物」がうようよするでござるからな。」
「魔物?」
 あかねは箸を持ったまま、老人を見詰めた。
「ああ。昼間、太陽のあるときには出ないでござるが、夜は魔物がうろうろするのでござるよ。魔物は若い娘さんの肉が大好物でござるからな…。あのまま野宿などされていたら、危険でござったよ。」
「そ、そうですか…。」
 いくらか腕に自信はあると言えども、乱馬を連れていたのでは、思うようには闘えない。ここで、宿を借りられて正解だったと、思った。
「ま、今夜はゆっくり休みなされ。遠慮は要らないでござる。あっちに、使っていない、物置部屋があるでござるから、そこで寝られれば良かろう。いやあ、子連れの旅は大変でござろう?父君でも探しに、城下町へ入られるのでござるか?」
「あ、いえ…。この子、別にあたしの子ってわけでもないんですけど…。」
 あかねは戸惑いながら答えた。どうやら母親と勘違いされたらしい。いや、子連れで居る以上は、乱馬の母親と思われても仕方のないことなのかもしれないが。それでも、本当は違うという想いが、変な言い訳へと駆り立てる。
「そちらさんのお子ではないのですかな?それは面妖な…。でも、すっかり懐(なつ)いておられるではござらぬか?」
 老人はにっと微笑んで見せた。
 と、横から婆さんが、割って入った。
「どうれ…。こんな子供を見るのは久しぶりだから…。抱かせてはくれませぬか?」
「え、ええ…。別にかまいませんけど。」
 何の疑いもなく、あかねは赤ん坊を老婆に渡そうとした。

 その時だった。

「おぎゃああああっ!!」
 赤ん坊は、火が付いたように、真っ赤に顔をいがめると、大声で泣き始めた。

「あら…。どうしたの?今の今まで大人しかったのに。」
 慌ててあかねは乱馬を揺らす。
「おやおや、どうしたことかねえ…。」
 お婆さんもすっかりうろたえる。
 と、赤ん坊の顔が、一瞬、「恍惚」な表情へと変化した。身体がわらっと震えたようにも見える。
「乱馬?」
 目を見開く婆さんの腕から、何かが滴り落ちる。

「きゃあっ!この子ったら、オシッコが漏れてるっ!!」

 慣れない子育てだ。紙おむつとて、大量に水分を排出すれば、漏れることもあって然りなのだが、ぼたっと濡れてしまったのを見て、思わず大声を出してしまった。

「ごめんなさいっ!濡れてませんか?」
 あかねは、手を差し出した老婆を気遣った。
「おほほほほ、大丈夫ですわ。こ、これしきのこと。」
 老婆の声が一際高くなる。

(え?…若い女性?)
 一瞬、鈍いあかねですらそう思ったくらいの甲高さだった。

「わたたたた…。男の子は元気があってよろしいでござる!!ささ、早くオムツを取り換えてあげなされ。風邪を引かせてしまいまするよ。」
 爺さんが咄嗟に割り込んできた。
「そ、そうね…。このままじゃ不味いわ。」
 あかねも素直に爺さんの言葉に従った。

「たく、クソ生意気なガキですこと。しっかりその辺りから教育し直さなければ…。」
 ぼそっと老婆は吐き出した。

「え?何か?」
 あかねはきょとんと振り返る。

「あ、いえ。こちらのことでございますわ。タオルを持ってきてあげますから、それで濡れたお尻を拭いて差し上げなさい。」
 そそくさと老婆が他の部屋へと下がった。





「たく、小太刀様。今は老婆に扮しておられるのでございますから。あんな高い声色を使っては駄目でござる!」
「そんなこと、おまえに言われなくとも、わかってます!」

 奥まった部屋で、老夫婦がごそごそと会話をしていた。
 そう。彼らは、老夫婦に化けた、佐助と小太刀であったのだ。

「にしても、乱馬様ったら!わたくしに思いっきり、お小水を引っ掛けましてよ!こ憎たらしいったらありゃしない!」
 小太刀は手をゴシゴシと洗いながら、忌々しげに言った。
「仕方がないでござるよ。今の乱馬殿は赤子になられてしまったでござるから…。それにしても、赤子になっても、好き嫌いははっきりしておられるようでござるな。嫌いとなったら、オシッコをひっかけるところなど…。」
「何ですって?」
 ジロッと小太刀が目を剥いた。
「あ、いや、つい本音が…。」
「佐助っ!!」
「しーっ!声がでかいでござる!!」
 小太刀は佐助に促されて、口へ手を当てた。
「それより…。いつ、襲うのでござるか?」
 ちらっと隣の部屋のあかねと乱馬の様子を伺いながら、佐助が問い質した。
「焦ることはありませんわ。夜は長いんですもの。今しばらく泳がせて…。赤い月が昇る頃で良いでしょう。その頃には魔物もウロウロし始めるし、ふふふ。乱馬様を手に入れてしまえば、あの小娘は用無し。」
「ということは…。」
「赤い月に誘われて出てくる、魔物のエサにでもしてやれば、宜しいことよ。わざわざ、わたくしの手を血に染めることはありませぬ。ほほほほほ。」
 佐助は小太刀の笑い顔を見て、思わずこぼした。
「こ、怖いお方でござるなあ…。思いっきり根性も曲がっておられる。そりゃあ、乱馬殿もお小水の一つもかけたいと思われるのも納得いくでござる。」

「何か言いまして?」

「あ、いや、こちらのことでござる。では、今しばらくは…。このまま、様子見ということで…。」
「そう、小娘が寝入ってしまうのを待てばよろしいのよ。」
 小太刀はにっこりとほくそえんだ。





 熱い湯で絞ったタオルを、小太刀が化けた婆さんから受け取って、あかねはそれで乱馬の身体を拭いた。こんな旅の元では、なかなか湯に浸る機会もあるまい。かといって、ほったらかしてしまうと、赤ん坊の肌はすぐにも荒れてしまう。常にお尻は清潔にしておいてやらねばならない。
 乱馬は裸にされて、身体を拭いてもらう間、じっとあかねを見上げながら、にこにこととしていた。あかねのことを、よほど、信頼しているのか、なすがままである。
 あかねも慣れない手つきではあったが、一所懸命、乱馬の世話をした。
「ホント…。あんたは良いわよね。何も憂うこともないでしょう?」
 だあだあと声をあげる乱馬に、ふっとそんな言葉を話しかける。あかねの顔を見上げてゴキゲンな乱馬。
 本当に目の前の赤ん坊が乱馬なのか、まだ半信半疑ではあったが、元々あかねに備わる「母性本能」が、尽く刺激されているのは確かであった。
 身体を拭いて、オムツを替えて、そして、ミルクを飲ませる。
 たったそれだけのことではあったが、赤ん坊にとっては大切な「生命維持の営み」なのである。

「今夜は、ゆっくりとなさりませ。ワシらはあっちで休ませてもらうでござる…。何かあったら、遠慮なく、言うと良いでござる。」
 そう言うと佐助が化けた爺さんは、寝具の用意をしてくれた。
「ありがとうございます。何から何まで。助かります。」
 疑うことを知らないあかねは、頭を下げた。
「あいや…。そんなに深く頭を下げられると、心苦しいでござるよ。襲いにくくなるでござる。」
「え?」
「あ、いや、もう遅いでござるから。」
 佐助は苦々しく笑うと、そそくさとその場を去った。

 なびきから借り受けた道具で作ったミルクを、一気にごくごくと飲み干すと、乱馬は満足したのだろう。そのまま、ゲップを言うと、あかねの腕の中で眠ってしまった。
 赤ん坊の柔らかな肌と温もりを抱きながら、寝入ってしまった屈託無い顔を覗き込んだ。あかねの胸に、ひしっとしがみついたまま、寝息をたて始める。粉ミルクの匂いが芳しい赤ん坊の身体。
 己が良く知っている乱馬は、絶対にこんな無防備な表情は見せないだろう。
 今、己の命を繋いでいるのはあかねだということがわかっているのだろうか。全身全霊をあかねに預けて眠っている。
 くすぐったい「母性本能」が、あかねの心を揺り動かしていた。
 そのまま、作ってもらったわらのベッドに倒れこむ。
 旅の疲れもあいまってか、柔らかな乱馬を抱いたまま、極上の睡眠へと誘われていった。
 



二、


 小太刀たちが動いたのは、あかねが寝入ってかなり経った頃だった。
 現代社会で言うならば、とっくに日付は変わっているだろう。
 「草木も眠る丑三つ時」。そんな真夜中であった。

「良く眠っておるでござるな。」
 佐助が忍び装束になって、こそっと部屋へ侵入した。
「そりゃあ、食事に「ぐっすり薬」を仕込んでおきましたもの。」
 にっと小太刀が笑う。
「さすがに抜かりがござらぬな。小太刀殿は。」
「おほほ、乱馬様を手に入れるとなると、力の入り方も違いましてよ。」
「乱馬殿が赤子になってしまわれた、このチャンスを生かさねば、そのまま、独身で過ごしてしまわれそうですからな、小太刀様は。」
「おだまりっ!」
 ついこぼれた佐助の本音に、小太刀はムッとして一発食らわせた。

 
「そろそろ赤い月に変わる頃。早いところ、乱馬様をさらって、ずらかりましょう。」

 小太刀と佐助は、抜き足忍び足で、あかねへと近寄る。

 まずは、大事そうに抱え込んでいる赤子を、ぐいっと引っ張って引き離そうとした。

「おぎゃあああああっ!ぎゃああああっ!!」

 その気配を察知したのか、いきなり乱馬が大声を上げて泣き出した。

「しっ!駄目でござるっ!乱馬殿。泣き止んでくだされっ!!」
 佐助がひょいっと顔を出して、あやそうとした。

「ぎゃああああっ!おぎゃああっ!!」
 だが、乱馬は泣き止むどころか、かえって、泣き声を増していく。
 その、余りにも激しい泣き方に、あかねの目がぱっちりと開いた。

「だ、誰っ!あんたたちっ!!」
 寝ぼけ眼を擦りながらも、尋常ではない気配に、あかねは、ざっと身構えた。

「泣き声にぐっすり薬の効果が切れたのねっ!小癪なっ!!」
 傍で聞きなれた甲高い声。

「あんたは、九能小太刀っ!!」
 あかねははっしと睨み付けた。

「あらら。私のことを御存知ですの?それならば、話は早いですわ。佐助っ!!」
 己の名前を呼ばれた小太刀は、さっと、佐助に合図を送った。

「御免っ!!」
 佐助はそう言うと、懐から手榴弾のような玉を投げつけた。

 ボンッ!

 音と共に、煙があがる。

「な、何をっ!!」
 咄嗟のことに、あかねは防ぎようも無く、まともに煙を浴びてしまった。

「しまった!痺れ薬…。」
 炸裂したのは小太刀の常套手段でもある、痺れ薬を仕込んだ煙玉だったようだ。身体の動きがそこで止った。

「佐助っ!今のうちに、乱馬様をっ!」
「はっ!」
 痺れて怯んだあかねの胸元から、二人は、嫌がってむずがる乱馬を奪い取った。
「ついでに、その笈も貰っておくでござるっ!」
 佐助はあかねの傍にあった、笈をぐいっと引っ張った。
 そして、それを担ぎ上げると、あかねを突き飛ばして一目散に逃げにかかる。

「くっ…乱馬…。」
 不覚にも痺れ薬をまともに浴びたあかねは、板張りの床へと崩れ落ちた。
 耳元から遠ざかって行く赤ん坊の泣き声。
 それでも、這い上がって追いかけようと足掻いたが、身体が思うように動かない。
「乱馬…。」

 そのまま沈み込む意識。





 小太刀と佐助は、まんまと赤子を奪い取り、夜陰の中を懸命に駆け抜けていた。
「小太刀様…。みどもはもう、走れないでござるよ!」
 佐助がひいひいと言いながら、先に行く、小太刀へと声をかけた。
「何、鈍(なまく)ら言っているのです?一刻も早く、この森を抜けなければ、命が幾つあっても足りませんことよ。」
 佐助とは違って、小太刀の足取りは軽い。
 それもそのはず、彼女は何も持ってはいなかったからだ。赤ん坊も、笈も、全て、佐助が抱えて走っていた。
「小太刀様…。ご自分だけ先に行かれても、肝心な乱馬殿が一緒でなければ、何もならないでござるよ。」
 ひいひいと息を切らせながら、佐助がもつれる足を必死で動かす。
「だらしないわね!それでも、九能一族のお庭番ですかっ!!」
「そんなことを言われましても…。」
「早くしなければ、赤い月が昇りますわよ。」
「だから、小太刀様も協力してくだされっ!!」
「甘えるでないっ!」
「そんなことだと、乱馬殿が懐きませぬよ。」

 彼らの頭上を、白い月がさめざめと照らしつける。昼間ほどではないが、月明かりだけで、充分に山道を走れた。
 手伝ってはくれない小太刀の後を追いながら、佐助も必死で駆け抜ける。
 彼らが急ぐのには訳があったのだ。
 それには天上の月が関係していた。
 頭上の白い月が急に光を失い、照らしていた山道が暗くなり始める。

「佐助っ!さあ、早く、結界の中へ!乱馬様諸共っ!!」
 先に駆けていた小太刀が、注連縄が張り巡らされた場所へと突っ込んだ。
「ひいい…。何とか間に合ったでござるな。」
 注連縄を潜り抜けると、佐助はぺたんと地面へへたり込んだ。
 と、いよいよ、天上の月が空に溶け込むように見えなくなった。辺りは真っ暗な闇に覆われたかと思うと、今度は赤い薄明かりが差し込め始めた。
 月の色が変わったのだ。
 さっきまで、蒼白とした美しき光を投げかけていた月が、一転、今度は赤い色を照らし出して、輝き始めたではないか。
 それは不気味な真っ赤な月だった。
 満月までにはまだ間があるのだろう。半月以上のいびつな形の月であった。

「魔の刻になったでござるか…。」
 佐助がふううっと息を吐き出した。
 心の臓は、バクンバクンと波打っている。何十年分も駆け抜けたように、息も荒い。彼の腕の中、まだ、赤ん坊は泣き叫んでいた。
「まだ、泣き止まぬでござるよ。この赤子は…。」
 佐助は思わず苦笑いした。
「ふん、大丈夫よ。そのうち、疲れて眠ってしまいますわ。それから、明日の朝日が昇ったら、城へ連れ帰り、洗脳の術を施して、すくすく養育薬を使って、あっという間に大人の青年にしてさしあげますわ。勿論、わたくし好みのね。」
 赤い月明かりを浴びて、小太刀の顔が怪しげに照り輝く。
「すくすく養育薬を使うのでござるか?それは、クノウ国の秘薬。それを、盗み出されたのでございますか?」
 佐助が驚き声を張り上げた。
「あら、まだ、手には入れておりませんわ。そんなもの、お兄様の目を盗んで、薬草倉へ入り込めば簡単ですわ。」
「簡単って言われましても…。あの倉には、トラップが…。」
「あら、佐助なら簡単に破れるではありませんか。」
「はああ?み、みどもが盗み出すので?」
「当たり前です!おまえは元々「忍び」なのですから、忍び込むことは得意な筈。何でわたくしが、リスクを犯してまで薬草倉へなど…。」
「はあ…。小太刀様はきっと、思いっきり長生きされるでござるよ…。みどもは短命でござろうな…。」
 やれやれと佐助は大きな溜息を吐き出した。
「さて、赤い月が去るまで、わたくしは一寝入りしますわ。魔の刻の間は、ここでじっとしていなければ、危ないですからね…。佐助。そなたは乱馬殿をあやしておきなさい。負ぶってあやせば、じきに泣き止みますわ。」
 そう言うと、小太刀はすっと傍の太い木の上に上がってしまった。木の上で仮眠を取るのだろう。
「結局、ご自分では、何もなさるおつもりはないのでござるか…。赤ん坊はみどもに預けて、お休みに…。はあ…。」
 恨めしそうに佐助は木を見上げた。
 仕方なく、笈を置くと、佐助は持っていた縄をおんぶ紐に見立て、さっと乱馬を背中へと背負った。
「良い子だから、ねんねこでござるよ…。ほれ、眠るまでみどもが背負ってやるでござるから。ほれ、ねんねんよ。おころりよ…。」
 乱馬はあやされても、まだ泣き止まず、佐助の背中でむずがゆっていた。あかねを必死で探しているような、そんな素振りであった。
「はあ。これで完全に魔の刻になったでござる。」
 佐助は、まだ泣き止まない乱馬を背負いながら、赤い月を見上げて溜息を吐いた。
 不気味な赤い月が、照らしつける夕べ。星の輝きすら見えない。
「おまえの、育ての親は、今頃…。森の魔物に襲われている頃でござろうよ…。明日からは小太刀様がおまえさんの大切な人になるでござる。だから、みどもの言うこともきくでござるよ。乱馬殿。」

 泣き疲れて、そのまま眠りに落ちたのだろうか。
 やがて、乱馬の泣き声は沈むように静かになった。



三、

 赤い月が不気味に照らしつける、空。

 その月明かりに、ふっと意識が浮き上がった少女が居た。

 小太刀たちにしてやられたあかねである。

 どのくらい気を失っていたのか。
 身体はまだ痺れていた。
 まだ、思うように手足が動かない。

「乱馬…。」

 はっとして、がばっと起き上がった。
 こんなところで倒れて居る場合ではない。
 そう思ったのだ。
 
 乱馬をさらった小太刀たちを追わなければならない。

 そう思ったときだった。

 がさっと表で何かが蠢く音がした。

 あかねははっとして、顔を見上げた。
 小屋には粗末なあかり取りの窓があった。
 そこに映りこんでいるものを見て、ぞっとした。
 人間ではない、何か別の大きな生き物。そいつが、こちらを伺っている。そいつの目と目が合ったのだ。真っ赤な瞳。毛むくじゃらの身体。象ほどもあろうかという、見たことも無い大きな獣。
 赤い月明かりに映し出されて、赤色に光っている。

「何?あいつ…。モンスター?」

 思わず身体がドキンと唸った。
 それほど不気味な生き物だった。

 身体をまさぐりながら、武器を探す。
 手に当たったのは、一本のナイフきり。そう、早乙女国の国王陛下にいただいた小さなナイフだ。刀身も細い。護身具と言うよりは装飾品と言った方がしっくり来よう。
 どうせなら「刀剣」と言えるべきものを貰いたかったと、さすがに愚痴を吐きつけたくなった程だ。

「どうやら、小太刀たちに、背負っていた笈は持っていかれたようだし…。この場を切り抜けて、早くあいつらに追いつかないと…。」

 あかねはぎゅうっとナイフを握り締める。
 だが、痺れ薬の効果が、まだ身体のどこかに残っていて、丹田に力は入らない。それどころか、くらっと立ち眩みがしたほどだ。
 モンスターは赤くて長い物体を、軒先の小さなくぼみから差し出してきた。流れ出る液体のように、不気味な赤い触手。

「こいつ、伸縮自在の器官を持ってるってわけ?」
 あかねはがばっと飛びのいた。その際に、思わず、傍に立てかけてあった箒を振り回した。
 シュッと音がして、部屋の中に液体が飛び散る。
 飛び散った液体は、シュウシュウと音を上げて、煙が出てきた。

「何?これっ!溶解液?」

 そうなのだ。液体がべっとりと付いた木の床や壁は、抉り取られるように溶けた痕。

「じ、冗談じゃないわよっ!これであたしを捕まえて溶かして食らおうとでも言うわけ?」
 思わず箒をぎゅっと握り締める。

 モンスターの目はにっと笑ったように見えた。
 どうやら、あかねを獲物と認識したらしい。
 それが証拠に、今度は大きく揺さぶりながら、小屋へと体当たりを食らわせ始めた。小屋を取り壊して、獲物を食らおうとでも言うのだろう。
 みすぼらしい小屋など、そう長くは持つまい。

 絶体絶命。

 そんな四文字熟語が脳裏をかすめる。

「こんなところで、やられるわけにはいかないわっ!!」

 あかねは周りを見回し、武器になりそうなものを物色した。手に取ったのは、柄の付いたモリのようなもの。長柄の道具だった。農具か何かなのだろうが、この際は何でも良い。木の箒よりは使いでが良いだろう。
 モリを手に取ると、はっしと構えた。
 とにかく、血路を見出すしかない。あかねは腹を括った。
 元々流れる格闘家の血が、敵を前にして騒ぎ出す。
 目の前の壁が崩れ落ちて、モンスターがその不気味な姿をあらわにしたとき、あかねは必死でその武器を奴に突き立てた。

「やああああっ!!」
 必死の先手であった。

「もおおおっ!!」
 化物は大きな呻き声をあげて、のけぞった。
 あかねの手にしていたモリが、毛むくじゃらの化物の図体に突き刺さる。
 その痛みに反応しているのだろう。化物は足掻いた。

 その隙に、あかねは、獣の前から逃げ始める。一目散逃げに徹する。
 だが、痺れ薬の毒素が、身体のどこかに残っているのか、動きに精悍さが欠けている。。いつもよりも、身体が数倍にも重く感じられた。
 そんなあかねが、身体を傷つけられて怒っている化物の追従に、追いつかれてしまうのに、時間はかからなかった。
 背後に迫り来る、恐怖の影。
 背中に突き立ったモリをそのまま、奴はあかねを追って来た。
 大きな唸り声を上げ、身体をぐねらせながら、木を薙ぎ倒して近づいてくる。

「きゃっ!!」

 痺れ薬のせいと暗闇のせいで、足元を取られたあかねが、そのまま地面を転がる。
 丁度その時、化物もあかねに追いつき、その大きな身体を巡らせて牙を剥き、襲い掛かって来た。

 やられる!

 そう思ったとき、目の前を人影が過ぎった。

 そいつは果敢にも化物目掛けて突進していくではないか。
 やがて、化物目掛けて、大きな気弾を打ち込んだ。

 ドオン!

 爆発音が炸裂し、化物が闇の空へと吹っ飛んだ。
 バラバラと肉片が上から舞い落ちてくる。

「たく…。こんな雑魚獣(ざこじゅう)にやられるなんて、てめえらしくねえな。」
 人影はあかねを振り返って笑った。
 聞き覚えのある声。はりがあり元気の良い声。おさげがゆらゆらと目の前で揺れる。

「ら、乱馬…?」
 あかねの目はみるみる見開かれていく。

 目の前に確かに立ってこちらを見詰めている人影。紛れも無く、女変化した乱馬、女乱馬であったのだ。

「乱馬っ!!」
 緊張が一気に途切れたあかねは、そのまま、乱馬へと抱きすがった。

「お、おいっ!!こらっ!あかねっ!!」
 乱馬は押し留めようとしたが、あかねはそのまま地面へと倒れこんだ。

「え…?」
 ツンと香る地面の匂い。確かに乱馬に抱きついた筈なのに、彼女の下に彼の身体はなかった。

「たく。そんなに勢い込んだら怪我するぜ。」
 すぐ傍で声がした。
 はっとして振り返ると、見覚えのある笑顔があかねを見据えていた。だが、違和感がある。

「乱馬?あんた…。」
 あかねは乱馬を見上げて驚いた。
 そこに居たのは、たしかに「女乱馬」だが、身体が透けて見えた。赤い月明かりに揺らめくように見えたのだ。

「ははは…。そうなんだ。今の俺は「実体」がねえ。身体が透けちまってるんだ。」
 そう言って笑った。

「あんた…。本当に乱馬なの?あたしが知ってる…。」
 あかねは恐る恐る乱馬を見上げた。

「ああ、俺は正真正銘、早乙女乱馬だ。多分、おまえの良く知ってる…。」
 彼はじっとあかねを見据えた。
「でも、今の俺は肉体を持たない、浮遊体だ。残念ながらな。」
 少し寂しげな表情を見せた。

 訊きたい事はたくさんあった。どうしてこの世界へ飛ばされたのか。今の今まで何処で何をしていたのか。そして、実体はどこにあるのか。
 だが、どれから訊きだせば良いのか。
 口から言葉が出なかった。

「おめえの訊きてえことはたくさんあるだろうが…。今は説明している暇も惜しいんだ…。」
 乱馬はあかねを見下ろしながら言った。
 どうしてと彼に訊く前に、その理由はわかった。
 ざわざわと辺りの気配が、泡立っているのが彼女にもわかったからだ。幾つかある不気味な気配。じっとこちらの様子を伺っている。
「あかね。闘えるか?」
 乱馬はいきなりそう訊いてきた。
「うん!あたしなら平気。」
 あかねは土埃を払いながらすっくと立ち上がる。もう、身体の痺れは吹っ飛んでいた。
「上出来だっ!いくぜっ!遅れるなよっ!!」

 先に駆け出した乱馬の後から、あかねも動いた。
 それを合図にしたかのように、襲い掛かってくる、数体の化物。どうやら、この森に巣食う夜行性のモンスターたちのようだった。
 実体ではないにせよ、乱馬が傍に居るという事実は、あかねを勇気付けていた。一人ではないという安心感。
 乱馬と共に、また、闘えるという、格闘家の心に火が灯った。
 それからは無我夢中で闘った。襲い来る化け物たちを蹴散らかしにかかるのだ。
 実体ではないにも拘らず、乱馬はモンスターたちを薙ぎ倒していった。さすがに強い。拳も気技も冴え渡っている。
 つい、気を取られた時、乱馬が仕留められなかったモンスターが、牙を剥いてあかねに襲い掛かって来た。

「あかねーっ!!」
 乱馬の怒声と共に、弾け飛ぶ気砲。
 あかねの傍をドサリと化物の躯が斃れ伏した。

「たく、戦いの最中に余所見すんなっ!!」
「う、うん。」
 背中合わせになりながら、あかねは汗を拭った。

「キリがねえな…。」
 乱馬も息が荒い。
 確かに、化物の数は減るどころか、ますます増えているように思えた。
 幾重にも邪気が重なり合いながら、己たちを取り巻いている。
「仕方ねえ…。昇天破をぶっ放す。そのための気を俺が溜めこむ間、おめえ、化物どもを惹きつけろ。」
 乱馬があかねに吐き出した。
「う、うん。」
「いいか、できるだけ逃げ回って、奴らをかく乱するんだ。そして、ゆっくり六十数えろ。そしたら、あの大木にしがみ付け。できるな?」
「わかった、やってみる。」
 あかねはすうっと深呼吸をすると、だっと乱馬の傍を離れた。
 六十数える、つまりは一分ほど、時を稼げと言いたいのだろう。
「一、二、三…。」
 ゆっくりと心の中で数を数えながら、あかねは逃げ惑う。
 化物たちは、動き出したあかねへと視線を反らせる。
 すごい数の魔物だった。
 あかねは逃げ惑いながら、思わず背筋を凍らせたほどだ。
 ざざざざと草が薙ぎ、あかね目掛けて押し寄せてくる魔物。我先にと押し退ける際、魔物同士でいがみ合いも起こっている。その合間を縫って、木々の間を走り抜ける。魔物はいずれも象ほどもあろうかという大きさ。ちょこまか逃げ惑うあかねを追いかけるのに必死になり、互いにぶつかる物も出てくる。
 猛獣に追われる脱兎のように、あかねも必死だった。

 乱馬は身を屈め、螺旋のステップを踏み始める。はっしと睨みつける視線の先にも魔物たちが、間合いを取りながら、襲い掛かるタイミングを計っているように見えた。

「五十八、五十九…。」
 あかねは滑り込むように言われたとおり、六十丁度で、乱馬の示唆した大木の根元へと滑り込んだ。

「あかねっ!伏せろーっ!!」
 その声と共に、大木へとタックルする。

「飛流昇天破ーっ!!」
 あかねが木の根元に駆け込むのを待っていたかのように、乱馬は仁王立ちになり、天上へと氷の拳を差し上げていた。
 ざざざっと辺りの地面が唸りをあげ、風が一気に上昇して行った。
 飛ばされそうになるのを必死で堪えながら、あかねは木の幹へとしがみついた。乱馬にしがみ付こうにも、彼の実体は透けていて、触ることだにできない。だから、木を選んだのだろう。

 ゴゴゴゴゴ…。

 あかねを追い回していた化物たちが、乱馬の放った気流へと飲み込まれて行く。あまりの風力に目を開くこともできず、あかねはただ、必死で木へと食らいついていた。
 ミシミシっと悲鳴をあげながらも、大木はその根でしっかりと地面を掴み、折れないように大地に踏ん張った。ザザザッと小枝が揺られて、ざわつく。
 小さな木は根元からばっくりと気流へ飲み込まれて行く。
 上空をくるくると舞いながら、竜巻が辺りを一掃して、止った。

 辺りが静まった時、乱馬がにっこりとあかねに微笑みかけた。
「大丈夫か?あかね…。」
「うん、何とかね…。」
 あかねも、ほっと和んだ笑顔を乱馬に手向けた。

「さて…。後は、赤ん坊だな。」
 乱馬はまるで、今までの経緯を知っているかのように、赤ん坊のことを口にした。
「乱馬?あんた…あの赤ん坊を知ってるの?」
 あかねは不思議そうに乱馬を見上げた。
「ああ、まあな・・・。それより、急ごう。もうすぐ月が消える。」
 乱馬はまだ天上にある赤い月をちらっと見上げて、あかねを急かした。
「月はまだ、あんなに高いわよ。」
「いいから、まだ俺に力が残ってるうちに…。赤ん坊のところへ辿り着くんだ。」
 乱馬はだっとその場を駆け出していた。
「ちょっと、乱馬っ!待って。待ってったらぁっ!」
 あかねも後を追った。
 月明かりの道を真っ直ぐに突き進む乱馬。
「もうっ!何が何だかわかんないわよっ!!」
 思わず、苦言を吐きつけながら、あかねは乱馬を追いかけ始めた。



四、

「ふう、みどもも、少し休むでござるか。」
 佐助は静かになった乱馬を背負ったまま、まどろみ始める。
 忍術修行の長かった彼は、立ったまま不動で眠ることができる。だが、乱馬を背負ったままだったので、小太刀が上がった木の根元を休息所に選んだ。右肩を木の幹にくっつけると、傾けるように身体の重心を移し、不動の体制を取った。そして、そのまま、目を閉じる。
 風がさわさわと吹き渡っていくのを、感じながら、闇夜に身を任せて眠る。
 背中の赤子も泣き疲れてしまったのか、ピクリともしない。

 佐助と赤子を天上から赤い月が不気味に照らし出していた。

 と、その傍ら、佐助が背負ってきた、笈が不気味に青白く光り始めた。佐助があかねから奪い取ってきた笈だ。中にはもう一つの卵や赤子の必要道具が一まとめに入れてある。
 その笈が、まるで赤い月の光に呼応するかのように、ドクンドクンと波打つように光始める。
 勿論、誰一人、笈の異変に気が付く者は居なかった。

 佐助の眠る木の上。
 そこでは小太刀がまどろんでいた。
 実はこの木の上に、小さなやぐらが立っていたのだ。見張りのためのやぐら。人が一人ゆうに身体を横たえることができるくらいの広さがあった。
 気の股の部分にしっかりと立てられた木製の小屋である。
 さすがに蒲団までは用意されてはいなかったが、仮眠を取るにはうってつけの場所だった。小太刀はちゃっかりと、このやぐらを利用したのだ。
 赤ん坊を連れて上がってもよさそうではあったが、その辺りは、思慮に欠ける。そんな自分本位の女であった。

「ふふふ、明日からは乱馬様と寝屋を共に…。わくわくいたしますわ。」

 赤ん坊のことはほったらかしに出来るのに、己の欲望には、希望を燃やしていた。

「赤い月の魔力が消えたら、城へ帰って、それから、私好みに育てて差し上げますわ。乱馬様…。もう離しません事よ。」
 小太刀はそんな言葉を心へ吐き出しながら、眠りに入る。
 赤い月の光が、やぐらの窓から差し込めてくる。
 雲ひとつない澄み渡った夜空であるにも拘らず、星影がない。天上には、いびつな形の赤い月だけが光り輝いていた。

 誰かに頬を軽く撫で上げられるような、そんな気がした。

「小太刀…。」

 己が呼ばれたような気がして、ふっと小太刀の意識が浮き上がった。

「誰?わたくしを呼ぶのは…。」
 はっとして、身体を起した。
 赤い月明かりを背後に、一人の青年がすっくっと目の前に立っていた。
 寝ぼけ眼を擦りながら、その青年を見て、小太刀は思わず飛び上がりそうになった。

「ら、乱馬様?」

 青年は小太刀ににっと笑いかけると、すっと視線を差し向けた。

「ら、乱馬様は…あの、赤子になってしまわれたのでは…。」
 小太刀は己の心音が跳ね上がるのを、抑えながら、じっと青年を見上げた。
「私を見忘れたのか?小太刀よ。」
 見紛う筈はない。そこには、正真正銘、夢にまで描いた美青年、乱馬が立っている。黒い騎士装束に身を包み、傍らには鎧兜を持っている。マントが赤い月明かりに映えあがって美しく照り輝いている。
 深い闇色の瞳が小太刀を捕らえた。

「たしかに、そこにいらっしゃるのは、乱馬様…。」
 小太刀はうっとりと、青年騎士を見上げた。
「わたくしを迎えに来てくださったのですか?乱馬様…。」

 乱馬はすっとその手を小太刀に差し出し、彼女の手を取った。
 しなやかな女の手が乱馬に繋がれる。
 小太刀はすっかり心を奪われていた。

「小太刀…。今はまだ、そなたを迎えることはできぬ。」
 乱馬はしっかりと手を握り返しながら、囁くように答えた。
「実は私は、今、呪いをかけられているのだ。今、月の魔力を借りて、赤子から魂だけ抜けだして来た。」
 乱馬は凛とした声で小太刀にささやきかけた。
「呪い?まあ、だから赤子になられたのですね。でも、どなたがそんな恐ろしいことを…。」
 驚きと共に見開かれる小太刀の目。
「小太刀よ…。頼みがある。その呪いを、そなたのその手で解いてはくれぬか?」
 媚びるような瞳が小太刀を捉えた。
「わたくしができることであれば、喜んで、乱馬様のお役に立ちとうございますわ。」
 目を反らすことなく、乱馬が続けた。
「良かった…。私はそなたしか頼れる者が居ない…。そなたに断られたらどうしようかと思ったよ。」
「そんな、乱馬様の頼みをお断りするなど…。で、何処の誰ですの?乱馬様に呪いなどかけたのは…。」
「「羅刹鬼(らせつき)」だよ。」
「羅刹鬼?」
「ああ、この世を絶望の淵に落そうと企む鬼の名前だ。」
「んまあ、ふたぶてしい鬼ですことっ!!」
「その鬼は、異世界の少女に身をやつしているのだ。」
「異世界の少女ですって?」
「ああ、羅刹鬼にとりつかれた異世界の少女の赤い血を、おまえが連れて来た赤子に注げば、たちどころに呪いは解ける。私は元の身体に戻れるのだ。」
 横から差し込めてきた月明かりに乱馬の瞳が輝いた。
「異世界の少女を倒せばよろしいのですね…。」
「ああそうだ。小太刀ならばわけのないことであろう?」
「ええ…。わたくしが必ず乱馬様の呪いを解いてさしあげます。でも、その代わり…。」
「わかっている…。その時は、小太刀、そなたを、我が妻に…。」
 ゆっくりと囁かれる言の葉に、小太刀の目は見開かれた。
 すいっと伸ばされた乱馬の逞しい右手。チャリッと鎧の音がして、引き寄せられる腕の中。
「ああ、乱馬様…。」
「小太刀…。」

 そこで乱馬の動きが止った。

「乱馬様?」
 急に止った乱馬の動きに、小太刀ははっとして目を見開いた。

「すまぬ、小太刀。この続きは呪いが解けてからだ…。時間だ。私はまた赤子の身体に戻らねばならない…。」
 すいっと乱馬の身体が透け始めた。
「乱馬様っ!!」
 小太刀は叫んだ。
「小太刀…。必ず、私の呪いを解いてくれ…。元の身体に…。」
 そう言いながら、乱馬は静かに消えていった。

「ええ、勿論、わたくしが、異世界の少女を滅ぼして、呪いを解いて差し上げますとも…。」
 小太刀は見えなくなった空へと叫んでいた。



 一方あかねは…。
 女乱馬と夜道を懸命に駆けていた。
 どのくらい、疾走したろうか。
 乱馬はとある場所で止った。
 小高い丘に、一本、にょきっと立派な木が立っているのが、暗闇にもかかわらず、見えた。いや、木の根元が、淡く光っているのが見えた。

「あそこに奴が居る…。」
 乱馬はあかねを促した。

「あそこ?本当にあそこに赤ん坊が居るの?」
 あかねは、不思議そうに乱馬を見上げた。
「ああ、居る。行くぞっ!」
 乱馬はあかねの前をまた、走り始めた。
 ざざざっと草木を掻き分けて、道無きところを上に向かってひた走る。まるで、何かにとり付かれたように、乱馬は走り出す。
 
 と、背中から照らして受けていた、月明かりが一瞬、激しい光を解き放ったように思えた。

「え?」
 あかねは思わず、目を見張った。
 前を駆けていた乱馬の身体が、さあっと空気に溶け込むように、消えていくではないか。
「乱馬っ?」
 目を凝らして立ち止まった途端だった。
 確かに目の前に走っていた乱馬の姿が、いつの間にか見えなくなってしまった。
「乱馬?乱馬ぁ?」
 キョロキョロと辺りを見回したが、何も見えない。

 一体全体、彼に何が起こってしまったと言うのだろうか?

 ざざざっと風が吹き荒び、天上が、稲光のように瞬いた。
「なっ?」
 はっとして振り返ると、真っ赤だったはずの月の輝きが、蒼白色に変化していた。
 形は同じだったが、光が違う。今まで赤っぽかった周りが、普通の月明かりと同じ色になっていた。見えなかった筈の星も瞬き始める。
 狐につままれたように立ち尽くす。

「あかねっ!」
 その時、背後から名前を呼ばれた。
「やっぱり、あかねよっ!」
 聞き覚えのある、はりのある声。
「な、なびきお姉ちゃん?」
 あかねははっとして振り返った。そこには、なびきが苦笑いしながら立っていた。

「もう、あんた、いきなり迷子になっちゃうから!」
 ほおっと溜息が思い切り漏れた。知った顔を見て、ほっとしたのだ。
 思わずその場へとへたり込んでしまった。

「あら、案外だらしないのね。」
 なびきはあかねを見て笑った。
「何とでも言ってちょうだい!あたしは大変だったんだから。」
 だが、すぐさま、大切なことを忘れているのを思い出した。赤ん坊のことだ。
「あ…。でも、あたし、赤ん坊を変な奴らにさらわれて…。」
 そう言おうとしたとき、なびきがにんまりと笑った。
「あ、それなら心配ないわよ…。ほら、あそこに居るわ。」
 そう言いながら、遠眼鏡をあかねに手渡した。覗いてみると確かに居る。佐助が赤ん坊を背負って眠りこけているのが見えたのだ。
「すぐに取り返さなくちゃ…。」
 意気込んだあかねを、なびきは押さえ込んだ。
「大丈夫。もう手は打ってあるんだから…。それより、あんた、疲れたでしょう?少しは眠っておかないと、明日は大変よ。」
 と。
 何悠長な事を言ってるの?と言い返そうとしたが、なびきは変に自信がありげだ。
「大丈夫よ。下手人はこのクノウ国の国王陛下の妹君ですもの。国王陛下へ行動を起してあるから、心配ないわ。」
「国王陛下って、九能帯刀先輩のこと?」
「先輩?それがどういう意味かは知らないけど、正解。帯刀陛下にちくってあるから、大船に乗った気で、今夜はここで眠っておきなさい。」
 そう言いながら、なびきは傍らへとあかねを誘った。そこには、簡易テントが設えてあった。中を覗くと、寝袋が並んでいる。ルシがぽよよんとあかねの傍に侍ってきて、早く入れと言わんばかりに飛び跳ねた。

「とにかく、明日は明日の風が吹くから…。今日の疲れは今のうちにちゃんと取っておきなさい。ほら、朝までまだ数時間はあるから。ね?」
 なびきの言を信じることにして、あかねは、寝袋へと身体を滑り込ませた。

「この際、仕方ないか…。」
 そう思って目を閉じる。
 赤ん坊のこと、女乱馬のこと、光を変える月のこと。考えれば考えるほど謎だらけであったが、思考はそこで止ってしまった。
「面倒なことはいいや。明日、目が覚めてから考えよう…。」
 疲れ切っていたのだろう。すぐさま、深い眠りの淵へと吸い込まれていった。

 天上からは、光を再び青白く戻した月が、優しくあかねたちのテントを照らしつけていた。



つづく




戯言 その5
 様々な伏線が、これでもか!と複雑に絡みつく第五話です。
 小太刀に対した乱馬は本物なのか?あかねに対した女乱馬との関係は?赤ん坊は…。作者の私もドキドキしながら書かせていただいております。
 
 この作品、大雑把なプロット組みだけで、殆ど即興で書き進めています。
 そのため、予定していた展開が忘却の彼方に入ってしまったので、あらためてプロットを変更し書き直しています。細部、連載当時のものと違う部分があると思います。
 プロットとは漫画で言うと「ネーム」ということにでもなるのでしょうか?文字通り、「骨子」です。物語の骨格。
 私自身はあまり綿密なプロットは組み上げない性質です。始めのとっかかりと終わり部分だけを決めているだけという、かなりいい加減な設定のみで、書いてる場合が殆どです。そのため、敷いた伏線を置き忘れたり、辻褄合わせが大変な事も…。
 この作品も、登場人物の関わりだけをざっと粗く決めていたノートだけは見つけたので、それを元に。「行き当たりばったり状態」で書いています。
 話を思いつくと、雑記ノートに殴り書きする程度のことは毎度、やっています。そのノートも煩雑すぎて、何が書いてあるかはわからんような状態です。寝床に持ち込んで、夜中ごそごそやって、旦那に怪しまれることも多々。
 現在、いくつかの作品のメモが、一冊の大学ノートの中に並行して殴り書き込んであるので、当人すら「何?これ?」「どの話の伏線やねん!」状態。妄想は並行して書いている長編や短編の各作品群を行ったり来たりしております。
 話を作るのが楽しくて仕方が無い、でも、書き上げる時間がなかなか取れない。というジレンマに苛まれる日々。この春先から「何やってるんだ、私。」状態を引き摺りっぱなしです。日々の生活に追い立てられる最中、妄想だけが上滑りしている状態です(汗
 時間が許せば、一日中でもパソコンの前にドンと座り込んで書いて居たいのですが…なかなかそういうわけにも行かず。夢中になると寝食忘れて叩くこともあるような馬鹿者です。

 なお、一之瀬は女乱馬を平仮名のらんま表記はせずに作品を書いています。原作どおり、女乱馬も男乱馬と区別せず、作品上では「乱馬」と表記しますのでご了承くださいませ。



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