◇らせつ


第一話 接続(アクセス)



一、


「もう!乱馬の馬鹿ぁっ!」
 ドゴンと一発、少女の拳が乱馬の頭上をすり抜ける。
「いってえっ!何すんだよ、この凶暴女っ!」
 後頭部を押さえ込みながら涙目で見返す少年。
「だいたいなあ、あいつらが迫ってくるのはいつものことじゃねえかっ!今更何なんだよっ!おめえはっ!」
 じんじん痺れる頭を撫でながら、少年は目の前の鼻息が荒い少女に向かって声を荒げた。
「それはあんたがはっきりしないからでしょうがっ!」
「はっきりしたところで、はいそうですかって引き下がるような奴らなら、俺だって苦労はしねえんだよっ!苦労はあっ!!」

 ここは東京。練馬の天道道場の一角。
 激しく罵り合っているのは、そこの道場の末娘、天道あかねと居候であり彼女の許婚の早乙女乱馬だ。
 売り言葉に買い言葉。その応酬はだんだんとテンションを上げて行く。

 その側をジャイアントパンダと髪の長い親父が通り抜ける。
「またやってるね、早乙女君。」
 人間の親父の方がパンダに喋りかける。
『好きだねえ!』
 パンダはどこから持ち出してきたのか、大きな看板をさっと返事代わりに掲げた。
「今日の原因は何だろうね。」
『どっちにしたって乱馬が悪いと思う。』
 ささっとパンダが看板を書き換える。
「やれやれ、本当に喧嘩するほど仲が良いのだか、単に仲が悪いんだか。…。まあ、いつものことだから、ほっとくか。」
『さわらぬ神に祟りなし!ってか。』
 そう言って二人はすっと通り抜けた。

 痴話喧嘩は犬も食わない。いい加減、気がつけばいいものを、このカップルはやめることなく互いの本音をぶつけ合う。これはこの二人にとって、不変の日常生活の中の一こまであった。

「何よっ!約束、反古(ほご)にしておいて、その言い草はないでしょうっ!」
「仕方ねえだろうっ!俺だって約束はちゃんと覚えてたけどよう、あいつらにとっ捕まって町中追いかけ回されてたんだからようっ!」
「その割には嬉しそうに駆けてたじゃないの。びろーんっと鼻の下なんか伸ばしちゃってさあっ!」
「伸びるかっ、んなもんっ!第一なあ、あいつらときたら飛び道具持って追っかけてくるんだぜっ!こっちは命がけなんだからなっ!」
「どうだかっ!」
「俺は必死で逃げてたんだ。笑ってる顔なんか絶対にできるもんか。」
「あんたがきちんとけじめをつけないではぐらかしてばかりるから、いつまでたっても、追いかけられるのよ。シャンプーや右京、小太刀たちにね。」
「だからあっ!ちゃんと言って聞かせてわかる奴らだったら苦労なんかしねえんだよっ!それに、おまえだって、九能や他の男連中に今でも色目使われてるじゃねえかっ!俺はちゃんと知ってんだぞ!おまえの写真が携帯通じて流れてることっ!」
「あれは、なびきお姉ちゃんの所業よっ!あたしの知ったことじゃないわっ!」
「はん!俺とそう変わらねえじゃねえか。その写真見て鼻の下伸ばしてる連中、一杯居ることに変わりはねえんだから。」
「変わるわよっ!」
「変わらねえっ!」
「何よっ!あたしに矛先を向けて、問題の本質をすり替えないでよっ!」
「だったら、おまえもいい加減、もうちょっと広い心を持ったらどうなんだよっ!その…少しくれえ俺を労わってくれたっていいじゃねえかっ!こっちは散々苦労してるんだからよっ!」
「あんたのどこを取ったら「苦労」なんて言葉出てくるのよっ!」
「たくうっ!可愛くねえっなっ!おめえは、本当に可愛くねえっ!!」

「悪かったわねっ!可愛くなくって!!」

 どばしゃんと側に置いてあった防火用のバケツの水が飛び出した。

「ち、ちめてえーっ!!くぉらっ!あかねーっ!」
 ずぶ濡れになった乱馬はみるみる変身を遂げる。呪泉の呪いによって水で女に変身する体質を持ってしまった彼。十七歳になった今でも、その体質に変わりはなかった。
「ふん!あんたなんか、大嫌いっ!」
 あかねは思い切りあかんべえをすると、ぷいっとどこかへ行ってしまった。

「たく、本当に可愛くねえんだからようっ!ちょっと、約束の時間に遅れたからってえっ!」
 乱馬は遠ざかるあかねの後姿に、そう言葉を投げつけていた。





「見つけた…。」

 その様子をくまなく見ていた影が二つ。一人は銀色の髪、もう一人は金色の髪。それ以外は見紛うほどに良く似た顔形。だが、良く見ると、銀髪は男、金髪は女であった。
 着ている服もどこにでもある洋服ではなく、チャイナ服と和服を組み合わせたような薄い青色のラメの民族衣装のようなものをそれぞれ羽織っていた。腰には刀がつら下がっている。一目見ただけで異界の者とわかる井手達だった。
 じっと天道家の庭先に立つ、古びた道場の屋根の上から、乱馬とあかねのやりとりを見詰めていた。

「奴が雌雄同体の生体を持つ人間か。」
 銀髪の青年が言った。
「ええ、そうみたいよ、さっき水を浴びて女に変化したわ。」
 金髪の女が言った。
「ふふ、この水晶玉もちゃんと働いてくれたってわけか。」
「そうね、こうやって候補となる人間を見つけ出してくれたんですもの。」
「これで羅刹を蘇らせることが出来る。」
 青年はにやっと笑った。
「気が早いわよ。第一段階が終わったってところじゃないの。まだあの子に受け入れる能力がどのくらいあるか。海のものとも山のものともわからないんだから…。」
 女は笑わずに青年を見上げた。
「アルテミスは相変わらず悲観主義だな。」
「ルナほど楽天的になれないだけよ。」
「それはさておき…。」
「そうね…。見つけたのなら早速…。」

「アクセス開始だ。」
 二人は同時に言い棄てるとふっとその場から空気に溶け込むように屋根の上から消えた。



二、


「そりゃあ、乱馬君の方が悪いんじゃないかしら。早いこと謝っちゃった方がいいかもよ。」
 なびきがおせんべいを頬張りつつ、乱馬へと視線を投げつけた。
「俺だって悪いと思ってるよ。だけどよう。この仕打ちはないんじゃねえかっ!」
 ずぶ濡れになった赤いチャイナ服を絞りながら乱馬が言った。
「はい、お湯が沸いたわよ。」
 かすみがにこっと笑いながらやかんを持って現われる。
「まあ、あの子も手が早いって性分は悪いかもしれないけれど…。寒空の中二時間近く立たされてたんでしょう?堪忍袋の尾が切れても仕方がないかもしれないわ、乱馬君。」
 温和な口調の中にどこか非難めいた言葉も見え隠れする。
「そりゃあねえ…。二時間って言ったらねえ…。身体だけじゃなくて、心も冷え切ってしまうってものよ。こんだけ気温が低いんだもの…。あたしだったらそんなに待たないわよ。ねえ、お姉ちゃん。」
 なびきがかすみを見上げると
「私も切れてしまうかもしれないわよ。ふふふ。」
 合いの手を打つようにかすみがふっと不気味な笑みで答えた。その微笑に思わず空寒い何かを感じた乱馬は、ブルッと背中が震えた。
「二時間も寒空の下で待てるなんてそう簡単に、誰に対してもできることじゃないわよ。」
 なびきはホットミルクをすすりながら言った。
「裏返せばそれだけあの子に大切に想われてるってことになるんじゃないのかしら、乱馬君は。」
 かすみはお湯をかけ終えると、そう言って茶の間から立ち去った。
「ま、山の神の怒りを納めるには、優しく抱擁でもしてキスの一つでもしてあげればよかったのよ。」

「んなこと、出来るわけねえだろうっ!!」

「そお?もうそろそろキスくらい交わせる仲だと思ってたけど。」
「キスが簡単に出来るくれえ俺が長けてたら喧嘩なんかしねえよっ!キスひとつ切り出すのに、どんだけ毎回苦労するって思ってんだっ!」
「ふうん…ってことは、一応、キスまでは行ってる仲な訳。」
「あ…。」
 しまったという顔を向けた乱馬。聞いちゃったわよと言わんばかりにクククと笑うなびき。
「はいはい、ご馳走様でした。…。ま、乙女心の複雑さも少しは計算に入れてみたら?先に進むってことも必要な場合もあるでしょうよ。優しくされ慣れていないあの子なら、愛してるって言葉一つだけでも満足すると思うけれどね。ま、もうちょっとあんたも大人になりなさいな。感情を顕(あらわ)にするあの子の売り言葉を、真正直に買うのもいいけど、さり気にキスのひとつくらいしてあげるとか、たまにはアダルトチックな感じで迫ってあげることも必要なのよ。わかる?」
 なびきは飲み干したミルクカップを持って、茶の間から出て行った。



 大人になりきれない未発達な想いを引きずりながら、乱馬はあかねを探しに町へ出た。
 冬の夕暮れは早い。もう夜の闇がそこまで迫ってきている。
 乱馬に水を思いっきり浴びせかけると、あかねは天道家を出て行ったという。かすみがこっそりと教えてくれた。
 多分、約束して出かけるはずだった場所に一人向かっているのだろう。新学期のための買い物。
 喧嘩状態にあるとはいえ、気にならぬ筈はない。乱馬なりに心配もする。素直ではないが、行動の端々に、あかねを大切に想う気持ちだけは出ているのである。

「さりげにキスの一つくらい…か。」
 そう呟きながら乱馬は町を歩いていた。
 それが出来るなら苦労はしない。許婚とは名ばかりで、殆ど進展しない関係を続けている。このままで良いとは思わない。だが、その想いとは裏腹に、代わり映えのしない日常。
 互いに好きあっていることはわかっている。
 だからこそ、素直に表現できないこともあるのだと思う。
 勿論キスだって一度や二度くらいならしたことはある。でもそのようなシチュエーションへ持っていくことは並大抵ではなかった。
 乱馬の側を仲睦ましげに手を繋いだカップルが通り抜ける。自然に繋がれた手と手。向こう側には肩をさりげに抱くカップルが居た。笑顔が眩く通り過ぎていく。
 いつもはなんとも思わない光景が急に目に飛び込んでくる。
「あかねもあんな関係になることを、どっかで望んでいるんだろうか。」
 夕暮れの商店街をとぼとぼと歩く。
 いつもあかねが歩いてくる道すがら。この辺りに居れば、帰ってくるあかねに出くわすうだろう。そう踏んでいた。
 冬の商店街は殺風景だ。あれだけ賑やかだったクリスマスイルミネーションももう過去の遺物だ。あれだけ着飾って賑やかだったショウウインドウも商店街も、今は普通の様相を構える。コートの襟元を立てて歩いていくサラリーマン。買い物袋を引っさげたおばさん。塾通いの子供たち。
 彼らに紛れて、ふとその一角で足を止めた。

「あれ?」

 いつも通る商店街。その中ほどであかねが誰か男と話しているのが見えた。

「あいつ、あんなところで何やってんだ?」
 
 勿論、気になるあかねのこと。元々彼女のことが心配になってここまで迎えがてら歩いてきた自分。乱馬は当然のようにあかねたちの方へと駆け寄って行った。





「あんたさあ、さっきからしつこいって言ってるでしょう?」
 あかねは声をかけてきた少年に向かって言葉を吐きつけていた。
「んなこと言わないでさ。…ちょっとだけ時間潰しに付き合ってくれるだけで良いんだから。」
 髪の長い少年がにやにや笑いながらあかねに話しかける。
 
(ははーん…。ナンパ野郎か。)
 乱馬は物陰からあかねたちの様子を伺っていた。天道家の茶の間であかねとしこたまやりあった後なので、真正面からあかねの方へすっと出て行くのもシャクに触った。
 何より、あかねが心配でここまで迎えに来たなどとは思われたくない。そんな変な「男の沽券」が乱馬の心を交差する。
 だから、ちょっと離れたところから観察することにしたのだ。必要なら助けに出ればよい。そう思った。

「つれないなあ…。君くらい僕のゲームのシナリオを演じるにぴったりなヒロインは居ないのに。」
 相手の少年はあかねを見てくすっと笑った。乱馬はその態度にちょっとムカッと来た。
「あんたのチンケなゲームに付き合うほど、あたしは暇じゃないのっ!とにかく、これ以上つきまとわないでくださいな!」
 あかねはそれだけを吐き出すと、くるりと背を向けた。
「君が嫌でも付き合ってもらうことになるんだよな…。それが。」
 少年はしつこく食い下がってくる。
「いい加減にしてよっ!」
 あかねがさっと彼目掛けて得意の蹴りを入れようと足を引いた。
「え?」
 少年はその動きなど最初から見切っていたかのように、すっと後ろに身体を引いた。そして、あかねの足を左手一本で交わした。

(は、早えっ!)
 影で見ていた乱馬が思わず目を見張った。いやそれだけではない。少年の背後から殺気のような激しい気が立ち込めている。
(や、やべえっ!)

 
「いけないなあ…。いきなり襲い掛かって来るなんて。」
 あかねの足を止めた少年は、そう吐き出すと、パシッとあかねの足を横へと薙ぎ倒した。
 その勢いで踏ん張っていたあかねの左足がぐらついた。

「きゃっ!」

 あかねが小さく声を上げた時、すかさず飛び出し、後ろから抱きかかえて支えた。



「たく…。帰りが遅いから来てみてやったら…。何やってんだ?こんなところで。」
「乱馬…。」
 ホッとしたような表情を手向けたが、この勝気な少女はすぐにそれを隠しに走る。
「何しに出てきたのよ。」

「馬鹿、んなこと、いちいち言わなくてもわかるだろうが、おめえなら。」
 そう言った乱馬。
「招きたい客が現われたか…。予定どおり…。」
 と、少年は意味深な言葉を投げかけると、すっとあかねに向けていた殺気をおさえ、構えを解除した。

「どこの誰か知らねえが…。こいつにちょっかいを出すのはやめておきな…。ただの乱暴女だぜ、こいつは。」
 乱馬はそう吐き出した。
「あんたねっ!その言い草は何よっ!」
 乱馬の暴言にあかねはきっと見返した。
「へえ…。もしかして君の彼氏?僕と張り合おうっていうの?面白い…。」
 少年はにっと笑った。
「彼氏なんかじゃないわよっ!こんな奴っ!」
「ははは、ムキになるところがあやしいな…。ま、いいや。さて、ご希望とあらば…。」
「やるか?」
 乱馬もその言葉にざっと身構えた。

「せっかちだなあ、君は…。こんな公道の真ん中で喧嘩なんかしたら、回りに迷惑じゃないか。ほら、お巡りさんだってこっちを見てる。」
 少年は対面方向を指差して笑った。確かに制服の警官が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「ねえ、せっかくだから、誰にも邪魔されないところで勝負しようじゃないか、逞しいおさげの彼氏さん。」
「お、おうっ!上等じゃねえかっ!!勝負してやらあっ!」
 乱馬はそう吐き出していた。

「ちょっと、勝手にそんなこと決めちゃって。」
 あかねは慌てて止めに入ろうとした。
「ちっちっ、駄目だよ彼女。彼は勝負するって言ったんだ。もう後戻りはできないよ。」

 そう少年が言ったときだ。風がどおおっと、あかねの側を通り抜けた。
「え?」
 周りの雰囲気がすっと変化したようにあかねには見えた。


「ほら、こっちだよ。」
 少年が先に立って、その路地へと向かって歩き出した。
「こんなところに路地なんかあったっけ…。」
 見慣れぬ路地に一瞬疑問を持った。この辺りは子供の頃からあかねのテリトリーであったが、こんなところに路地などあったか、疑問に思ったのだ。
「お、おう…。」
 だが、乱馬はその少年の後をくっついて歩き出した。

「ちょっと、待ちなさいよっ!あんたたち、何処へ行くつもりなのよっ!」
 そうあかねが乱馬の腕をつかんで引き戻そうとしたときだった。
 すいっと彼女の手を引く者が現われた。
「駄目よ…。邪魔してもらっちゃ困るわ。それにもう、アクセス回路は開いてしまったから…。」
 ぞっとするほど冷たい手だった。
「乱馬っ!」
 あかねは叫んだ。
 だが、あかねの身体は黒い影に押さえ込まれて、進むことも引くこともできなかった。
「乱馬っ!」
 何度も叫んだつもりだが声にはならなかった。
 そのうち、乱馬は路地に吸い込まれるように見えなくなる。
「!!」
 乱馬が進んだ路地の入り口は、次の瞬間すっと消えてしまった。
「あなたは私と一緒に来てもらうわ。」
 あかねをつかんだ影がふっと浮き上がってにっと微笑んだ。
「あんたは誰っ?何のためにこんなことをっ!」
 思わずあかねは全身に気をみなぎらせた。そして、己を捕まえている影を振り切ろうと力を入れた。
 彼女も格闘家の卵だ。瞬発力は持っている。だが、ぎゅっと身体を押さえ込まれていて、微動だにできない。
「そんなに怖い顔をして力を入れて身構えなくても、取って喰ったりはしないわよ、お嬢さん。」
 目に飛び込んできたのは金髪の女だった。透き通るくらいの白い肌。そして赤い目。着ている着物も普段目にする物ではない。一見して怪しいということがわかる。
「あなたは誰?さっき乱馬を連れて行った男の子に関係があるの?」
 あかねは身構えたまま女性を睨み付けた。
「ええ、関係があるわ、お嬢さん。」
 女性はにっと含み笑いをあかねに返していた。
「乱馬をどこにやったの?ねえ、彼は何処へ消えたのよっ!」
 あかねはつかまれた腕をよじらせながら吐きつけるように問いかけた。
「せっかちなお嬢さんねえ…。物事には順序ってものがあるの。」
 その問い掛けに女性は悠々と答えた。
「大丈夫…。ちょっと彼には一足早く行ってもらっただけよ。準備が整ったらあなたも、ちゃんと連れて行ってあげるから…。」
 にいっと女は笑った。
「準備?」
 思わずごくんと唾を飲み込む。
「準備が整うまで、そうね…彼らの闘いの見物なんかどう?うふふ。勿論、特等席にご招待してあげるわ。」
 女はそう言うと、すっと左手を前に差し出した。

 ぱあっと光が射し込めて、別の路地がすいっと開けた。
「な…。」
 あかねは思わず彼女を見返した。
「さあ、行きましょうか…。お嬢さん。それとも怖い?」
 女はあかねを促すと、そのまま彼女の手を引いて、開いた路地へと歩き出した。
「わ、わかったわ、行ってやるわ。」
 あかねはそう吐き出すように言った。先に乱馬が行っている。ここで自分が引き下がるわけにはいかないと思ったのだ。
「行ってあげるからその手、離してよっ!さっきから冷たくて気持ち悪いのよっ!」
「ふふふ、怖いもの知らずな子ね。あなたは…。ま、いいでしょう。もうこちらへとアクセスした以上は逃げ出すことはできないんだから。」
 女はそう言うとさっとつかんでいた右手を離した。あかねは思わず彼女が握っていた皮膚を見てはっとした。色がうっすらと変色していたからだ。彼女の手の後がすうっと赤みがかった色に見える。
「こっちよ。ちゃんと付いて来ないと迷子になって永遠にここを彷徨うことになりかねないわよ…。」
 女はふふっと笑いながら先を歩き始めた。
「わ、わかったわよっ!」
 あかねは肝を据えていた。自分たちに何が起こっているのか、知る術はなかったが、後に引き返せないということだけは何となくわかったからだ。何かわからないが、不測の事態が乱馬と自分を支配している。
「さて、今度はこっち。」
 ブンと女が手を翳すと、すっと扉が出来た。
「さあ、この中よ。あなたなら通り抜けられる筈。この向こう側に彼が居るわ。」
 そう言った。
「この向こう側に乱馬が…。」
 あかねはぎゅっと拳を一度握り締めると、すうっと息を一度吸い込んで吐き出した。
「いいわ、中に入ればいいのねっ!」
「そう、ただひたすらに次の空間が開けることを念じて通り抜けるのよ。さもないと、別の世界へ飛ばされてしまうからね…。じゃあ私が先に行くわよ。」
 そう言うと女は何事もないかのようにするっとその閉じた扉を通り抜けた。
「あたしも行くわっ!」
 あかねは目をぎゅうっと閉じて、その扉へ向かって突進するように歩みを進めた。

 何故自分がその閉じた扉を通り抜けられたのか。
 そして、先に行く女は何の目的で自分を連れて入ったのか。
 その時のあかねは、何も考えが巡らなかった。ただ、乱馬がふっと路地の向こう側に消えたという信じられない事実だけがあかねを、見ず知らずの女と共に怪しげな場所へと立ち向かう、このような無謀な行動へと駆り立てたのかもしれない。
「さてと…。あとは一本道よ。」
 女は立ち止まるとそう言った。
「道なんかどこにも見えないじゃないの。」
 あかねは叫んだ。扉を通り抜けると、そこはただの行き止まりだったからだ。
「ふふ、大丈夫。そら。道は自分でつけるものよ。」
 前を行く女が手を翳すと途端、閉じた空間が進行方向へ向かって開け始めたのだ。まるで遺物が彼女の手翳しに寄って溶け出しているかのように見える。
「ついて来るのよ。じゃないと空間に閉じ込められて出てこられなくなるわよ。」
 女はそう言うと、再び前を歩き始めた。
 ただ、開いた空間は彼女たち二人が通り抜けてしまうと、再び閉じられていくようだ。その勢いが早い。本当に彼女にしっかりとくっ付いていなければ、壁の中に取り込まれそうな勢いだった。
 足音もしない。何も聞こえない無味無臭の空間。ただ、己の息遣いと衣擦れの音だけが耳に入る。体感温度も高いのか低いのか、気にならないところをみると、普通なのであろう。
 どんどん歩みを進めるうちに、だんだんと周りを観察、分析する余裕が出てきた。一メートル四方くらいの空間が開けては閉じていくのだが、周りの空間が真っ暗ではなかった。周囲は赤黒い色をしている。強いて言えば血の色。血管の管のような筒が、無数に張り巡らされていて、良く見ると、何かの細胞のような丸いラグビーボールくらいの玉が、ある一方向へ向かって目に留まらぬ速さで流れているのが見え始めた。
「気持ち悪い場所ね…ここ。」
 あかねはきょろきょろと辺りを眺めつつも、前に行く女に遅れないように必死でついて行った。

 と、どのくらいか進んだところで、女がふっと歩みを止めた。
 急に止られたので、その背中にぶつかりそうになった。
「ふふ…。どうやら運命の勝負が始まったみたいだわよ。」
 女はそう呟くように言った。
「運命の勝負?」
 あかねは思わず何を言いだすのかと青年を見上げた。
「ほら…。今、彼らを邪魔しちゃあ悪い。暫くここで見物というきましょうか。お嬢さん。」
 すっと女が手を差し伸べると、全面の壁がふわっと大きなスクリーンのように光り始める。と、その中に、先に入った乱馬が大きく映し出される。お立ち台のような四方を縄で囲まれたリング上の台の上に彼が身構えているのが見えた。
「音も聴いてみる?なかなか臨場感があるわよ。」
 女がパチンと指を鳴らすと、どこからか乱馬の声や機械の音が響き始めた。





三、

 乱馬はどんどんと先に進む少年の後をついていった。
 あかねのことなど、考えの外に行ってしまったかのように、少年の後を追う。
 この時既に、彼は敵の術中にはまり込んでいたのだ。
 強い者とやりあう格闘家の血潮がぞくぞくと彼をたき付けていたのも事実だ。目の前を行く少年は強い。その背中をみて感じ取っていた彼も、また無類の格闘好き。

 と、路地の先に広場が見えた。
「ここなら誰も来ないよ。」
 ふっと少年は乱馬に向き直った。

「改めて君に勝負を挑むよ。僕の名前はルナ。君の名は?」
「早乙女乱馬だ。」
 そう強く吐き棄てた。
「早乙女乱馬…。」
 少年の目が一瞬赤く光ったように見えた。
 
「さてと…。始めようか…。君が勝ったら彼女は君に返してあげる。でも、僕が勝ったら…。」
「あかねはてめえなんかには渡さないっ!俺は絶対に負けないからな。」
 乱馬はその先を言わせないできっと少年を睨み付けた。
「ふうん…。自信がありありなんだ。」
 少年はにっと笑った。
 と、暗がりだった空間が急に開けて、リングが目に飛び込んできた。
「さて…。ぼちぼち始めようか。」
 少年はリングに上がるとふっと身構えた。
「ああ…。さっさと勝負をつけてやらあっ!言っとくが、俺は手加減なんてできねえと思うぜ。」
「ふふふ、随分自信満々だな。本当に勝負するんだね?」
「俺は格闘という名の付くものには負けたことがねからな。てめえも後で吼えずらかくなよ。」
「威勢がいいね…。そうこなくっちゃ。まあ、尤もやめたいと言ったところで、動き出したゲームは止められないからね。」
「御託(ごたく)は良いから、とっとと始めようぜ。」




 その遥か上方。何か嫌な予感を覚えたあかねは思わず叫んでいた。
「乱馬っ!何か変よっ!そいつっ!そんな勝負やめなさいよっ!乱馬っ!」
 と、女はあかねを見返して言った。
「ここから何を言っても彼には聞こえないわよ。それに…。この勝負を受けてもらわないと困るの…。」
「困るって?」

 女は何か持っていたリモートコントローラーのスイッチのような物を押した。
 その行動と共に、ぶううんと機械の唸る音が聞こえ始める。
「何?何したの?あんたっ!」
「まあ、いいから…。始まるわ。もう後には引けない勝負がね。くくく。」



「さあ来いっ!」
 乱馬はだっと駆け出して、少年に向かって先制のパンチを浴びせかけた。
「ふん!」
 少年は目にも留まらぬ速さですいっとかわした。
「ふふ、乱馬よ、少しはできるようだな。やあっ!」
 と飛び込んできた乱馬の下に潜り込み、バンとパンチを浴びせかけてきた。
「つっ!」
 乱馬が後ろに吹っ飛ばされた。



「早いっ!何なの?今の動き…。」
 あかねの声に青年は笑った。
「まだまだこれからだよ、お嬢さん。」



「けっ!結構へなちょこパンチだって効くじゃねえか!」
 乱馬は対戦相手に向かって言った。負けん気の強い彼はそう言って牽制をかける。
「今度はおまえが僕に掛かっておいでよ。」
「ああ、言われなくても行ってやらあっ!」
 乱馬はボンッと拳を握ると、気を込め、前に拳を突き出した。
「でやああっ!」
 拳がそのまま少年のみぞおちへと入った。ズブッと鈍い音がして今度は少年が後ろの壁際に吹っ飛んだ。
「火中天津甘栗拳ッ!だだだだだ…!」
 得意の拳が炸裂し拳の火花が飛び散った。
 少年の身体は乱馬の拳に翻弄されながら打たれていく。
「どうだ?ちっとは効いたろう!降参するなら今のうちだぜ。」
 乱馬はふふんと鼻息であしらう。

「思ったより強いな。今の姿のままでは勝てないか…。」
 少年はすっと立ち止まった。
 
 ドクン!

 少年の周りの空気が戦慄(わなな)くように躍動し始めた。

 ドクン、ドクン、ドクン…。

「何…。」

 と、その戦慄きと共に少年と思っていたルナが、少し大人びて見え始めた。
 長い黒髪はいつの間にか銀色のそれへと転じる。漆黒の瞳は青く不気味に輝きを増した。




「何よ、あれ…。」
 あかねははっとしてその人影を見た。前に立っている女がにやりと笑ったのと、スクリーンの人影を見比べてぞっとした。

 同じ顔をしている…。

 そこに立っていたのは、金髪の女性と同じ顔をした銀髪の青年だった。さっきまで少年だと思っていた彼が、リングへあがるとすっと容姿を変えてしまったのだ。しかも、目の前に立っている女と同じ顔。

「え…。双子?」
 蒼白になりながらも変化した若者と女を見比べる。
「ふふふ、私と彼が同じ顔だから驚いたのかしら…。」
 女は不気味な笑いを浮かべてあかねに言った。
「私と彼は双子なんかじゃないわよ…。一心同体とでも言うのかしら、ふふふ。」
「一心同体?」
「そんなことより…。見なさい。ほら、本当の戦いが始まるわ。わくわくするじゃない?」
 女はにんまりと笑った。




「ふふふ…。この姿の方が力がみなぎる。全身にな。」
 そう言って青年になったルナは乱馬を見下ろした。
「それがてめえの本当の姿だって言うのか?」
 乱馬は吐き出すように言った。
「ああ…。いかにも、これが僕の本当の姿さ。この姿になったからには今までとは格が違うぜ。くくく…。」

「へっ!どんな姿になろうとも、俺は負けねえんだよっ!」
 乱馬は吐き出すと、再び天津甘栗拳を解き放った。

「ふん、こんなものっ!」
 ルナは尽くその拳を避けた。
「痛くも痒くもないわっ!」
 ルナはにっと笑うと今度は同じように駿足の拳を乱馬目掛けて解き放つ。
 乱馬もただ手をこまねいているわけではなく、その攻撃を必死でかわした。
「くっ!」
 激しい攻防戦がそのまま続いた。だが、明らかにルナはまだ余裕を持っている。
 ルナのほうは時間と共にますます動きが鋭敏になっていく。それが証拠に、乱馬の息が上がり始めた。さっきから息が荒々しくなっている。自分でもそれは充分すぎるほどわかっていた。
 乱馬はじりじりと追い込まれていくの自分を制御しながら思った。
「くっ!こうなったら大技をぶっ放すしかねえか。」
 そう心で吐き出すと、乱馬は俄かに螺旋のステップを踏み始めた。




「飛竜昇天破を打つつもりだわ。」
 あかねは思わず吐き出した。
「何か技を仕掛けてくるつもりなの。面白い。」
 一緒に見ていた女がにっと笑った。




「これで最後にしてやらあっ!行くぜっ!俺の必殺技!」
 乱馬の右手がビリビリと青い光を放ち始めた。
「いいねえ、凄いエネルギーが拳の中に満ちているじゃないか!」
「ぬかせっ!てめえをこのまま沈めてやらあっ!行くぜっ!飛竜昇天破っ!」
 渦巻く熱気を取り込んで、乱馬は飛竜昇天破を解き放った。
 激しいエネルギーの飛散、ごおおっと音を立てて湧き上がる気の青い渦。



「ふっ、愚かなことを!」
 ルナはにやりと笑った。そしてすいっと掌を前面に乱馬へ向かって差し出した。
「な?」
 乱馬の放った昇天破の気がルナの掌へと飲み込まれていくではないか。
「気は僕の貴重なエネルギー源になるんだよ。」
 突き出された手に乱馬の放った冷気の砲弾は彼には通用しないようだった。
「これで終わりにしようぜっ!早乙女乱馬っ!」
 銀髪のルナは乱馬から出た昇天破のエネルギーを吸い取ると、今度は自分の掌から返しを浴びせかけるように別の気砲を乱馬目掛けて打ち返していった。

「うわあああああっ!」
 ルナの手から延び上がる気柱は乱馬を叩き付けた。
「今だっ!吸引機のパワーを全開にしろっ!アルテミス!」
 
 その言葉を合図に、あかねの側に居た女が持っていたリモートコントローラーのボタンをつまんで捻った。

 ゴゴゴゴゴゴゴ。
 その動作に反応して、地鳴りのような機械音が響いてきた。

「な、何っ!」


 と乱馬に対していたルナ背後に大きな機械が突然現われたではないか。不気味に光るそのボディー。
 と、その中央から電気コードのようなものがさっと伸び上がってきた。
 複数の枝葉に分かれると触手のように乱馬に巻きついていく。まるで生きて意志を持ったコードだ。
「ふふふ…こいつに捕まったら最後、君の生体エネルギーを喰らい尽くすまで離れないぜ。」
「く、くそう!何だ?この変なコードは…。」
 乱馬は叫んだ。
「悪いが君の生体エネルギーや情報を、そのまま吸収し転送させてもらうよ。」
「くっ!てめえ、始めからそれが目的で…。」
 乱馬は足掻いた。だが男の背後の機械から伸びた触手のコードはますます深く肌に食い込む。そして、遂に乱馬の身体を貫いた。

「う、うわあああーっ!ち、畜生っ!ち、力が…。俺の身体があ…。」
 乱馬の身体が歪み始めた。



「乱馬っ!!」
 あかねの絶唱が響き渡る。

『わああああーっ!』
 彼の絶唱と共にボンっと音をたてて、乱馬の身体から何か光る物体がいくつかの玉となって辺りへ弾け飛んだ。


「乱馬あーっ!!」
 

 あかねの目の前で乱馬の身体から発した光の玉はふわふわと空を彷徨うと、リングの上空に据えつけてあった機械の吸い込み口のようなパイプへと吸い上げられて行った。
 身体からそれらが抜けてなくなってしまうと、乱馬は放心したように空を見上げていた。

「乱馬っ、乱馬ーっ!!」

 あかねの絶唱虚しく、乱馬の身体がだんだんと薄れていく。やがて、彼の身体が大きく湾曲すると、ふっと赤い光に包まれて虚空へと消えてしまった。
 と同時に、背後の巨大な機械が、赤く光り始めた。


「データー転送完了!」
 ルナはにっと笑いながらそう叫んでいた。




つづく






戯言その1
 前々から一度、RPGをテーマに乱馬×あかねで一本書いてみたかった私。つーちゃんちのWEB雑誌企画で連載させていただくことに勝手に決めて書き出しました。が、未完で終わったままでした。その書きかけの山を最近、発掘してきました。パソコンが何台も入れ替わっているので、たんびに保存したデーターがどっかに埋没しておりまして…。それを見つけたので、USBへ移して書き直しております。
掲載当時と弱冠変わった部分もあるのですが…。まあ、それなりに最連載ということで、ぼーちぼち書いていきます。
 御存知な方も多々あるかと思いますが、一之瀬の作品は長い、濃厚、くどいというのがお決まりになってます。どうぞ最後まで、よろしくお付き合いくださいませ。



(c)Copyright 2000-2014 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。