◇ミラージュ  〜ふたりのあかねの物語〜


第八話 蜃気楼、果つる時(最終話)


一、

 三人娘に追われて、切立った崖から足を滑らせた、あかね。
 無我夢中であかねに食らいつき、何とか引き上げようと頑張った乱馬。だが、非情にも、彼らを支えていた松の木が、根元からばっくりと抜け落ちた。

 弾き出された、空の上。万有引力に引き寄せられて、真下に向かって落下する。その時、確かに空間案内人モリスの声が響き渡った。

『残念ながら、タイムリミットです!』
 と。

 その声と前後する刹那だった。
 真っ白な光が自分たちを包んだ。
 光沢のある光。微かに熱を持つ眩いばかりの光。

「うわああっ!」
 思わず、その眩さに目を閉じる。

 ガサガサガサッ!バキバキバキッ!

 乾いた音が身体を包む。どうやら、落下地点は低木の茂みの上だったようだ。そいつがクッションになって、受身が取れた。
 乱馬はあかねを抱えたまま、何とか自分が下になり、彼女を守るように、着地したのだ。
 茂みがあったことが幸いし、殆ど、痛みを感じなかった。
 無事を確認し、乱馬はぐっとあかねを抱きとめたまま暫く動かなかった。
 腕の中には、あかねが居た。

 不思議な静寂があたりに流れた。
 今までの喧騒が嘘のように静かだ。
 その静けさを破るように、彼は言った。
「馬鹿野郎…。」
 と。一言、呟くようにあかねに言い放った。

「…悪かったわね…。」
 ややあって、あかねの声が返って来る。
 歯切れの悪い声だった。

「散々、心配かけやがって…。」
 間髪入れず、乱馬はそう言い放っていた。
 さっきまで抱えていたエプロン姿の彼女ではなく、道着を着た彼女だった。そう、あかねが交代したのだ。
 道着を確認するまでもなく、乱馬にはあかねが戻って来たことに、すぐさま気付いた。
 「気の流れ」が確かに変わったのだ。懐かしい気、勝気だがどこか細いあかねの気が、すぐ目の前にあった。さっきまであった、物腰の柔らかいあかねの気とは違う。己の許婚のあかねがそこに居た。

「やっと、戻って来やがったか!この馬鹿。」
 再び悪言を浴びせかける。
「何よ、戻って来ちゃ、いけなかったとでも言うの?」
 勝気な声が目の前で響く。
「んなわけ、ねーだろっ!馬鹿ッ!」
 がっと、抱える腕に力が篭った。いや、そればかりではない。乱馬の身体がわなわなと小さく震えている。
「乱馬?」
 なかなか離れようとしない彼に、ハッとしてあかねは見上げた。

 泣きそうな顔で笑っている。そんな乱馬がそこに居た。

「もう、俺のところには、戻って来ねえかと思ってた。」
 彼の口から、気弱な言葉が吐き出されたことに、あかねはドキッとした。
「どうして?」
 思わず、きびすを返していた。
「おまえ…。この世界を逃げたかったんじゃねえのか?だから、あの娘と入れ替わって…。」
 それに関して、あかねは少し考え込んだ。そして、言葉を選びながら言った。
「やっぱり、乱馬もあの娘があたしじゃないって、早い時期からわかってたんだ。」
「ああ。女の変身した俺を知らなかったからな。おめえなら、そんな事はあり得ねえだろ?それに…。気が違っていたからな。」
「気…か。」
 あかねはくすっと笑いながら言った。
「何だよ、笑うことか?」
 あかねが鼻先で笑った事をとがめて、ぶすっと言い放つ。
「そんなんじゃないわ…。同じことをあっちの乱馬も言っていたから。」
 と答えた。




 あの時。
 乱馬と共に、邪魔者を蹴散らし、二人で神殿に入ったあの時。
 
 事前にモリスに渡されていた「リセットリモコン」を弾き飛ばしてしまい、手元で押す事もできず、乱馬が己に迫って来たのも払いのけられず、絶体絶命に際した刹那。
 このまま、帰れずにここへ居残るのかと、諦めかけていた己の鼻先で、乱馬はくすっと笑った。
『なーんちゃって!』
 と、軽く言ったのだ。
『え?』
 彼の動きはそのまま止まった。いや、そればかりではなく、あかねを見て微笑みかけた。
『君、あかねじゃないだろう?』
 その一言に、心臓は凍りかけた。どう答えてよいやら、迷ったからだ。
『ほら…。やっぱりね。』
 彼はあかねにのばした襟元の手をぱっと放す。少しだけあかねの道着が肌蹴た。
『どうして?』
 どうして、己が「この世界の天道あかね」でないことがわかったのか。それを尋ねるつもりで、じっと乱馬の瞳を見上げた。彼の瞳は漆黒に輝き、揺れている。
『たく…。見くびられたもんですね。』
 そう彼は吐き出すように言った。
『僕がわからないとでも思ってましたか?たく、あかねの気とのあなたの気は、全然違いますよ…。姿形は同じでも、気が全く異質なんですよ。』
 一度、手放した手を再びすっと伸ばし、ずいっと迫って来た。
『さてと…。正体を暴いてあげましょうかね…。』
『あ…。』
 どさっと後ろに投げ出され、再びピンチ襲来か。あかねは仰向けに転がりながら乱馬を見上げた。と、乱馬はあかねの身体の上に乗り上げ、ずずずっと体重をかけてきた。相変わらず、身体は密着している。
『ねえ、あかねをどこへやったんです?君は誰です?もう逃げられませんよ。ここは二人だけの密室、ですからね…。』
 当然のことながら、厳しい尋問が口火を切った。
 あかねを決して逃してはくれないだろう。
『待って、ちゃんと話すから。』
 あかねは馬乗りにされた下から、声をかけた。
『ああ。ちゃんと聞いてあげますよ。何で君があかねと同じ顔形しているか、で、僕のあかねはどこへ行ったのか。きれいさっぱりと話してもらいましょう。お嬢さん。』
 ゴクンと唾を飲み込んだ。こんな厳しい乱馬の表情は始めてだろう。返事の如何によっては容赦しない、そういった固い決意じみたものが彼から伺える。
『あの…これから話すこと、信じてもらえるかどうかはわからないけれど…。…あたしも「天道あかね」です。』
『はあ?』
『だから…。この世界の天道あかねさんじゃなくって、別世界に生きている「天道あかね」なんです。』
 あかねはどこから話そうか、懸命に考えながら、己の立場を説明し始めた。

『あたしにもよくわからないんだけれど、宇宙にはいくつもの世界のプレートがあって、その中には、同じ魂を持つ者が数多、生きているんだそうです…。あたしも、その中の一つの世界に住む、天道あかねです。そして、あなたの良く知るあかねさんと偶然に遭遇し、それぞれ住む世界を一時的に交換してみようって話になったんです。』
 あかねは噛み砕きながら、丁寧に、そして、必死に、乱馬に説明を続けた。

『ふうん…。なるほど。君とあかねは、それぞれの利害に絡んで、それぞれの世界から逃げ出したって訳ですか…。』
 あかねの話を黙って聞き終えると、乱馬はちらっとあかねを見やった。さっきみたいに乱暴に扱うことは辞めてくれたが、それでも「不機嫌」なのが良くわかる。
『どこまで信じてもらえるか、わからないけれど…。とにかく、あたしは「別の世界の天道あかね」なんです。』
『なるほどねえ…。同じ魂を持っているんなら、似ていても当たり前ですね。それに…。嘘偽りを言っているようには見えませんし…。
 確かに、思い当たる節は、いくつかありました。
 君が、別世界のあかねさんだと言うのなら、料理の腕が物凄く下手だったのも、良牙と対等にやりあってたっていたのも、全て合点がいく。』
『良牙君とやりあってたって?』
『ああ。ついさっき、この先でやりあってたでしょう?悪いが、脇から見せて貰っていました。』
 乱馬は、じっとあかねを見詰めた。
『君…。相当鍛えこんでるでしょう?』
 と逆に問い質された。
『え、ええ…。子供の頃からある程度、父に鍛え込まれたわ。無差別格闘天道流の跡取り娘としてね。』
『でしょうね…。僕の知ってるあかねさんとは、てんで動き方が違ってました。身構えも、無差別格闘流の型をきっちり踏襲(とうしゅう)していましたし、何より気合が入ってる。』
『それはどうも…。』
 褒められると、少し照れが入る。
『あかねが、あなたと入れ替わりたがったのもわかるような気がしますよ…。』
 少し寂しげな顔をした乱馬。思わず、ハッとした。
『でも…。悪いのは、あかねさんだけじゃないわ。私も自分の世界で作った厄介事から逃げたかったから…。安易に入れ替わってしまったの。だから、あかねさんを責めないで。お願い。』
 懇願した。
『君…。やっぱり、あかねと同じ魂を持ってるんだね…。』
 真っ直ぐな瞳が降りてくる。思わず、心臓が、トクンと一つ唸った。
『でも…。あたしは、やっぱり、この世界のあかねにはなれないわ。』
 あかねは、心から吐き出した。
『帰りたい?自分の世界へ。』
 真摯な瞳があかねを捕らえた。コクンと頷く、あかね。
『もう、逃げたいとは思わないわ。あたしは、自分の世界で精一杯、生きて行きたいもの…。』
『許婚の乱馬、と共に、ですか?』
 今度はゆっくりと頷いた。
『ええ…。彼があたしを受け入れてくれるなら…。って、条件がつくけれど…。
 だって…。あたしは、この世界のあかねさんほど、あなたに、…向こうの乱馬に愛されてはいないもの。』
 小さく呟くように付け足した一言。

『そうかな…。』
 あかねの言葉を受けて、乱馬が目を瞬かせながら、言った。
『僕はそうは思わなですよ…。君の世界の乱馬も、やっぱり、君のことを気にして、相当心配してるでしょう。』
『そうかしら…。』
『そうですよ。僕と同じ魂を持った乱馬なら、ね…。恐らく、どこの世界の早乙女乱馬も、表現の仕方は千差万別でも、君を、天道あかねを愛してるんだと思う。
 幾重にも連なる世界の、どこを切り取っても、早乙女乱馬と天道あかねは惹かれあい、互いを必要としているんじゃないのかな…。』
 それは、力に溢れた強い言葉だった。
『本当に、そうなのかしら…。』
 愛されていると言う自覚に乏しいあかねは、小首を傾げた。あの優柔不断な乱馬は、どこまで己のことを思っていてくれるというのだろう。時を重ねるにつれ、彼の内面がますます見えにくくなっている現状を思った。
『絶対、君の世界の早乙女乱馬も、己の天道あかねに起こった「異変」に気が付いてるさ。僕と同じように、ね…。それで、心配してると思う。物凄くね。』
『あの鈍ちんが?』
『ああ…。あかねの異変に気が付かない訳ないよ。
 何故、自分の前から消えてしまったのか、世界をまたいでしまったのか…。それなり、心の中で悶々と悩んでるに違いない。この僕のように…。』
 乱馬はすっと手をあかねの顔に伸ばした。柔らかな瞳があかねのすぐ傍で輝いている。
 また、ドキンと心臓が一つ唸り音を上げた。
『だから…。君は、己の世界へ帰りなさい。君の世界の早乙女乱馬もそれを、君の帰還を待っていると思う…。僕があかねを待っているのと同じように、ね…。』
 伝わってくる、乱馬の本当の想い。
 あかねの目から涙が一筋溢れ出した。何故だろう、溢れてくる涙を止める術を知らない。それをそっと、右手で拭いながら、乱馬は続けた。
『あたし…。帰るわ…。』
 ふっと傍らに目を移すと、さっき、懐から転げ落ちたリセットリモコンが目に入った。すぐ手を伸ばせば届く位置に、それは落ちていた。あかねはすいっと手を伸ばし、それを我が手に取り戻した。
 乱馬は黙って、あかねを見ていた。優しい瞳がじっと、あかねを見詰めている。
『ねえ…。乱馬。』
『何だい?』
『この世界のあかねさんが戻っても、決して彼女を責めないでね…。彼女は彼女なりに悩んで、逃げ出したんだし…。それに、あたしと同じ魂を持っているなら、彼女も今頃、あなたを置いて、世界を超えたことを後悔してるんだと思う。』
 あかねはリモコンを握り締めながら言った。
『ああ…。もとい、君たちが交代したのも、僕たち早乙女乱馬、個々にも、それぞれに問題があったと思うから…。それに、僕は、あかねを諦める気持ちは毛頭ない。結ばれるなら、彼女以外には有り得ない。君に会って、確信した。』
 相変わらず、少し柔らかい物言いで、乱馬が答えた。
『それを聞いて安心したわ…。』
 あかねは安堵の表情を浮かべた。このまま、この世界の二人が壊れれば、それなりに責任を感じるからだ。
『あいつが帰って来たら、もう一度、プロポーズからやり直して、二人で新しい道を新たに進みます…。また、ややこしい連中と追いかけっこしないといけなくなっても、ね…。
 だから、あなたも…。』
『ええ。料理勝負をやり直しても、もう一度、自分の力で頑張るわ。負けたとしても、ね。あかねさんにあやかって、もう少し器用になれるように、努力するわ。』
『頑張って…。あなたなら、きっと、あっちの乱馬と良い許婚に、いや、夫婦になれるさ。僕たちは、どの世界でも、最高のペアに違いないんだから。』
 親指を上に挙げて、あかねを励ました。
 小気味よいくらい、ストレートに気持ちを言葉に乗せる乱馬。彼に背中を押されたような気がする。

『さようなら、乱馬。あなたに会えて良かったわ。あたし…、本当の自分に気付けたから。』

 真っ直ぐに顔を上げると、あかねは乱馬に暇乞いをした。
 乱馬はすっと手を伸ばし、あかねのおでこに軽く唇を当てた。
『そっちの乱馬によろしく。』
『あなたも、あかねさんと幸せな家庭をね…。』
 それに対する答えは無かった。いや、聴こえなかっただけかもしれない。
 すぐに、手元のスイッチをひねったからだ。
 
 ふっと、身体が浮き上がった気がした。
 再び、虹色の異次元空間を飛び越えて、世界が移動する。

『いやあ…。ヒヤヒヤしましたよ。もう、秒単位でしか残り時間が無かった、と思うんですが…。』
 彼女のすぐ脇を、モリスが一緒に並走していた。
「そうね…。もうちょっとで帰れないところだったかもしれないわね。」
『ほら、あっちから流れて来ますよ。』
 モリスが軽く指差した方向から、人影が流れてくる。確かに、もう一人のあかねだった。
 言葉を交わす暇も無く、互いにすれ違い、そして、元の世界へと流れて行く。目と目が合った時に、彼女の心も流れ込んでくるような気がした。元の世界へ戻れる事が、どんなに幸せな事か。互いに、承知している事も。

『如何でしたか?別世界は。』
 そんなあかねの気持ちを察したのか、モリスが軽く尋ねてきた。
「それなりに有意義だったわ。自分を見つめなおすのに、丁度良い機会だったと思うから。」
『そうでがすか…。そりゃあ、良かった。もう一人のあかねさんも、同じように思っておられるでしょうね。』
「多分、同じ思いだと思うわ。だって…。あたしたち、境遇はそれぞれ違うけれど、同じ魂を持った者同士ですもの。それに…。乱馬が居る。」
『何か悟られたご様子で…。』
「さあ…。悟りを開けたところまでは度し難いけれど…。でも。」
 あかねは己の行く方向をきりりと眺めた。
「あたし…。もう逃げないで、自分の世界で頑張るわ。」

 モリスに対してよりも、自分自身に言った言葉だ。

 その言葉が途切れると同時に、ふわっと空気の匂いが変わった。
 懐かしい気の流れ。それが、傍にある。
 気が付くと、乱馬の腕の中に居た。



二、

「あっちの世界の俺は、どうだった?」
 乱馬は根掘り葉掘り尋ねてくる。
「そうね…。あんたよりは、ずっとずっとずーっと、優しかったわ。」
「何だそれ…。」
 不服そうに乱馬が言った。
「額面どおりよ。だって、祝言を挙げる決意までしているんですもの。優しくて当たり前でしょう?」
「で?おめえは?…そんなんだったら、戻らなくっても良かったんじゃねえのか?」
 想いとは裏腹の言葉が乱馬の口から流れる落ちる。
「ううん…。そうは思わなかったわ。彼が愛しているのはあたしじゃない。一緒に居て、彼の世界の天道あかねだってこと、思い知らされたもの。
 同じ魂を持っていても、あたしとあの子じゃあ違いすぎるわ。あたしはあの子ほど手先が器用じゃないし、料理も上手くない。」
「ほお…。わかってんじゃねえか。」
「それに…、優しい乱馬も素敵だけれど、あたしの好みじゃないわ。」
「はん?」
 あかねはすくっと立ち上がると、後ろに手を組み、悪戯っぽい表情を浮かべてらん間を振り返った。
「たとえ、優柔不断でも、三人娘たちにあやふやな態度しか取れなくても、時々女に変身しても…。私の世界の乱馬の方があたしには合ってるってね。悟ったの。」
「何だよ、それは…。」
「それに…。乱馬も思ったんでしょ?あの子より、あたしの方が良いって。あっちの乱馬と同じように…。」
「お、おいっ!俺はそんな事…。」
「ふふふ、思ってる。」
「何でそんな事…おめえに分かるってんだ?」
「あたしがあの子と同じ魂を持っていたように、あんたも、あっちの乱馬と同じ魂を持ってるから…。あっちの乱馬も言ってたもの…。
 どこの世界の早乙女乱馬も、表現の仕方は千差万別でも、天道あかねを愛してるんだって…。幾重にも連なる世界の、どこを切り取っても、早乙女乱馬と天道あかねは惹かれあい、互いを必要としている…ってね。」
「けっ!キザな野郎だな。」
「それに…。あんただって、心配してくれてた。でしょ?」
「はっ!どうだか!」
 天邪鬼は、あかねとなかなか目を合わさない。
 あかねはそんな乱馬を見て、くすくすっと笑った。
 戻ってきた実感を、乱馬の態度の中に見て取ったのである。

 いや、戻ってきた実感はそれだけではなかった。

「乱馬っ!」
「乱ちゃん!」
「乱馬さまっ!」

 すぐ傍で、甲高い三人娘たちの声が響いてきたからだ。

「いっけねー!あいつら。来い!あかねっ!逃げるぞ!」
 乱馬はガバッと起き上がった。そして、あかねの手を引く。
「ちょっと、逃げるって?」
「ああ、うるさいっ!俺は、これ以上、あいつらに関わる気はねーんだ!とりあえず、現状維持ってな!」
「現状維持ねえ…。」
「ほら!おたおたしてると、また、ややこしいことになるから。来いっ!黙って付いて来い!」
「うん!」

 運動神経が鈍いあかねではない。元のあかねに戻ったのだ。足腰も鍛え抜いている。
 元のあかねに戻れば、コンビネーションも抜群だ。三人娘がいくらしつこくても、それ相応、対処できると言うもの。
 ひょいひょいっと、暗き森の障害物を退けながら、走り抜ける。

『お取り込み中失礼します。』
 脇からモリスの声がした。
「モリスさん…。」
「ひえっ!化け猫!」
 乱馬も察したのか、ぎょっとして振り返る。
 薄っすらとしたモリスの影が、二人の真横を一緒に駆けているのが見えた。それゆえか、乱馬のスピードが増したように思う。
『こっちも、元の鞘に収まりそうだすな。あっちの世界も、丸く収まりましたし…。』
「丸くって?」
 きらっとあかねの瞳が光った。
『無事、祝言も終わって、今頃は晴れて夫婦に…。ってとこですかね。』
「きゃはっ!」
「おめえ、何、喜んでるんだ?」
 乱馬が目を血走らせながら問いかける。
「そっか…。あっちの二人、丸く収まったんだ。」
 あかねは、明るく言った。
「こっちは丸く収まってねえぞっ!気を抜くな!あかねっ!」
 乱馬は必死で逃げながら叫ぶ。相変わらず、すぐ後ろを、三人娘たちが、怒号を撒き散らしながら追いすがっている。

『ってことで、私はそろそろお暇いたします。あ…勿論、決まりで、一切の記憶、消させていただきますからね。あっちの世界に居たことも、あっちのあかねさんがこちらに居たことも、全て、真っ白に…。』

「好きにしやがれっ!こちとら、そんなことにかまってる暇はねえっ!」
『つれないですなあ…。今生の別れだすに…』
 のべっと、乱馬の真横にでかい猫顔を出す。
「ひええっ!寄るな!」
 猫嫌いの乱馬は、再び、涙目になる。と、途端、歩みが遅くなり、すぐ後ろの三人娘たちが投げつけてくる、飛び道具がすぐ傍を通った。
「乱馬っ!気を抜いたら、餌食なるわよ!」
 あかねがくすくす笑いながら、発破をかける。
「ちくしょうっ!たく、何だってんだよーっ!」

『んじゃあ…ということで。おさらばでございます。お二人さん。』
 モリスは、それだけを言うと、ふっと闇へと消えて行った。
「さよなら…。空間案内人さん!」
 乱馬と二人、闇の中、懸命に逃げ惑いながら、あかねは心でモリスに別れを告げた。






 夜が白んで、次の日の夕刻。
 厳かな雰囲気の中、御神事が始まった。
 老若男女、それぞれ、祭装束に身を包んだ氏子たちが、賑わう境内に集る。
 暮れなずむ空の下、田植えの神事が始まったのだ。
 梅雨間近とはいえ、好天に恵まれた。雨の気配がないということは、乱馬が変身しないですむということだ。
 都会の住宅。耕す田畑は少なくなったものの、それでもたくさんの氏子たちが、豊穣を願いに訪れる。
 その喧騒の中央に、乱馬とあかねの艶やかな晴れ姿があった。
 乱馬は祭ハッピを着込んで、荘厳な薪用の原木を肩から担ぐ。それ相応の力がなければ、持ち上げる事も難しい薪だ。彼の先導をするのは、巫女装束のあかね。朱色の袴と真っ白な上衣が、闇に浮かび上がって美しい。髪の毛にフタバアオイのカンザシを付けている。赤紫の小さな花とハート型の緑葉が印象的だ。京都の葵祭では、祭人の頭に、カツラに付けたフタバアオイを付けると言うが、それを模した物なのか、それとも、徳川の家紋にフタバアオイが使われたところから採用されたのか、謂れはわからないが、それでも、祭装束に身を固めると、厳かな気持ちになるから不思議だった。
 普段は信仰心の欠片もないくせに、こうやって神事を迎えると、気持ちまで引き締まる。
 あかねは、魔除け、先導の鈴を手に、ゆっくりと乱馬を先導して、神社の本殿へ続く階段を上がっていく。
 その脇を、物見遊山(ものみゆさん)の見物人たちが、じっと息を凝らして見送る。結局、あかねを追い落とせずに、地団駄を踏む、三人娘たちも、傍らから面白なさげに見守る。さすがに、御神事をぶち壊すことは、彼女たちにも気が引けるらしい。「神罰」など怖がる娘たちではなかろうに、世間体を気にしてか、それぞれ、無言で二人を見比べた。
 早雲と玄馬は、脇で涙目になりつつ、二人の晴れ姿を見詰めていた。
「きれいよ、あかねちゃん。」
 かすみがのほほんと声をかける。その脇で、なびきが熱心にカメラのシャッターを切る。

 始終無言で、乱馬とあかねは、自分に役割あてられた「神事」をこなして行く。
 
「あ…。」
 あかねは、はっとして、階段の脇で足を止めた。

(どうした?)
 急に立ち止まったあかねに、乱馬は心配げに覗き込む。
 彼の背中では、轟々と薪が真っ赤な焔を上げて、揺らめいている。

 まだ上に続く階段。
 脇に並ぶ石燈籠の蝋燭。道標のように、続く石段。
 あおの石段を照らして、蜀の火が、ちろちろと橙色が揺れている。
 デジャウのような見覚えのある感覚が、あかねの脳裏へとずいっと差し迫ってきた。

(この光景…見たことがある…わ。それも、つい最近…。)
 暫し、立ち止まったあかね。思い出そうとするが、記憶が巡らない。
 ざわざわと風が吹きぬけて行く。

 彼女には既に、異世界での記憶は無かった。勿論、乱馬にも、異世界のあかねの記憶もこそげ落ちている。二人の脳裏には「異世界」の痕跡は残されていない。
 だが、微かに残った記憶の切片が、あかねの脳裏を刺激したのだろう。それが、デジャウとなって現れたようだ。だが、当然、あかねにはその正体がわからない。
 
『あかね…。止まることなく、二人で無心に上を目指そう。この上に、俺たちの真新しい世界がある。』
 乱馬の声と似た声が、脳裏を掠めて聞こえたような気がした。
 いや、そう思った瞬時、今度は乱馬の声がすぐ傍でした。
「何、躊躇ってるんだ?あかね。立ち止まるなよ。上を、真っ直ぐに上を目指せ。俺たちはそこへ行かなきゃいけねーだろ?」

 それは、正真正銘、乱馬の声だった。

(そうね…。あかね、止まっちゃいけない。真っ直ぐに上に進むのよ。この上に、あたしたちの真新しい世界が、拓けているんだわ…。)
 あかねは手にした鈴をぎゅっと握り締める。一人で歩み出そうと、踏みしめた瞬間だった。

「行くぜ!まだ、先は長い。こんなところでへばってたら、祭が終わっちまう。」
 乱馬があかねに発破をかけてきた。
 えっと思って、振り返る。と、薪で照らされた彼の顔が、微笑みを含んでいるのが見えた。
 御神事に、気負っていた心が、すうっと解けていく。そんな和らいだ気持ちがあかねに充満した。

「そうね…。まだ、先は長いわ。」
 あかねはコクンと頷くと、再び、上を目指し、歩き始めた。孤独の歩みでは無い、理解者と共に目指す上への道。
 手こそ握られなかったが、乱馬がすぐ後ろで、気遣ってくれているのが、伝わってきた。

 あかねは乱馬に伴われて、ひたすらに上を目指した。
 二人で目指す場所は、まだ遥かに上だ。だが、いつかは辿り着く。

 上にあるのは、不確かな蜃気楼ではなく、確かな明日。
 あかねはそう信じて、一歩前へ、その歩みを踏み出した。



 完




一之瀬的戯言
 久々に、物語性を追求するよりも、観念的なストーリーを書いてしまいました…。(少なくとも、自分ではそう思っている…。)
 ううむ。最近、忙しくて、集中できないのがそのまま露呈しとるよなあ…。
 「うる星やつら」を丁寧に読み返したところに書いた作品なので…。その影響が節々に出ているかも。
 お粗末さまでありました。
(2005年6月3日 筆)


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