◇ミラージュ 〜ふたりのあかねの物語〜
第七話 覚悟(SIDE A)
一、
ざわざわと山が鳴った。
ここは深遠な緑の森の片隅。
料理勝負が、いつしか乱闘になり、会場を逃げ出した二人。武道の心得がないあかねを、三人娘の激闘の中に投じるわけにはいかないからだ。ただでさえ、いつもよりも料理が上手くいき、彼女たちは猜疑心が募っている。そんな中、あかねがからっきし力が無いとわかると、やばい。
あかねを危険から回避させるには、一目散に逃げるに限る。そう、咄嗟に判断し、乱馬はあかねを抱え込むと、夢中で鎮守の森の中を駆け巡った。
山での修行で、道なき道を辿るのは慣れている。が、腕にはあかねを抱えている。
いささか不利であったが、それは根性で堪えた。
道なき道を駆け抜け、茂みを越え、昇ったり下ったり。
大都会の喧騒の真ん中に、よくぞ、これだけの鎮守の森が残っているものだと、改めて感心したくらいだ。人の手もあまり加わっていないようで、倒木や茂みがそこここにある。
何よりも、神域の森。逃げる途中、岩坐(いわくら)の脇にひっそりとした祠があった。こういう巨大な岩石は、その荘厳な形などから、古(いにしえ)より信仰を集めてきた。土師器(かわらけ)などが散らばり、信仰を集めていた痕跡がある。そして祀られ、忘れ去られた祠が、それらしくひっそりと佇んでいた。まるで、ここに入って来いと言わんばかりの絶好な隠れ場所だった。
「暫く、ここでやり過ごそうぜ。下手に動き回ると、あいつらに狙ってくれと言わんばかりだ。逃げ回って体力を使うより、息を潜めてじっとしていた方が得策だ。そのうち、この森を出たとあいつらも諦めるだろうし…。」
闘えないあかねを守らねばならぬ以上、いつもよりも遥かに条件は厳しい。
乱馬はあかねを下ろすと、先に立って岩坐へと歩き出した。
岩坐の裂け目は結構深かった。入口は茂みに覆われ、良く目を凝らさないとわからない。
乱馬にとって、有利だったことは、乱闘が始まってそう時が経たぬ間に、日が傾き初めてくれたことだ。真っ暗とまではいかなかったが、日が傾くと、鬱蒼とした森の中。すぐに薄暗くなる。
息を潜めて、じっと祠の洞穴の中、二人で隠れた。
時折、シャンプーや右京、小太刀たちの怒声が、すぐ近くでこだましたが、その度に、乱馬はあかねをぐっと抱え込み、気配を消した。
結局、彼女たちは、乱馬たちを見つける事はできなかったようだ。辺りはすっかりと日暮れてしまった。
フンと黴臭い、洞穴の中。湿った空気が鼻につく。
今、何時なのかも、わからない闇の中。
安堵したのか、それとも、緊張感がふっつりと途切れたのか。乱馬とあかねはそのまま、そこで居眠ってしまったようだ。
時間の通り過ぎるのを待つというのは、案外、退屈なことだ。互いの緊張感が途切れた時、つい、うとうとと眠りの淵へと落ちていったようだ。
あれから、どのくらいの時間が経過したのだろうか。
『乱馬!』
ふっと、誰かが己を呼んだような気がした。
「あかね?」
ふと我に返り、目を覚ました。彼の気配に、一緒に眠り込んでいたあかねも、目覚める。
「どうしました?乱馬さん。」
あかねが不安そうに見上げた。
「今しがた、あかねが俺を呼んだような気がしたから。」
「あたしは別に…呼んでませんけど。」
「あ、いや…おめえじゃなくって、その…。」
乱馬は苦笑いしながら、言葉を飲み込む。
「空耳、か…。」
辺りの気配を探りながら、ふううっと深い溜息を吐き出す。
「それより、あれから、どのくらい経ったんだ?あいつらが諦めてくれるのを待つ間に、つい、居眠っちまった。」
とばつが悪そうに言った。
確かに、耳元でそんな声を聞いたような気がしたのだ。目の前に居る、異世界の少女ではなく、己の良く知るあかねのだ。
「今頃、あいつは、異世界(あっち)で何やってるんだろうな…。まさか、俺たちがこんな山の中に居るとは、思ってねえだろうが…。」
乱馬は自嘲気味に笑った。
日没からは随分と経つようで、心なしかひんやりとする。
さめざめと二人を照らしつける月の上がり具合から、どうやら、かなり夜は更けてしまっているようだ。真夜中に近いかもしれない。
「太陽周期の加減から、ここの世界とあちらとでは、時間が少しずれているかもしれませんけど…。あたしが辿った時間経過から思うに、今頃、あかねさんは「祝言」に至る最終儀式を目前にしていると思います。」
あかねはそんな事を口走った。
「祝言だあ?」
乱馬の顔色が俄かに変わった。
「た、確かに、おめえは向こうの世界の俺との祝言を挙げる踏ん切りがつかずに、逃げ出したって言ってたけど…。その祝言ってのは、今夜だったのか?」
思わず、乱馬はあかねを見返した。いつの間にか月が空に昇り、二人を照らし始めていた。まん丸に近い月明かりは案外明るい。
「ええ…。今夜、あちらの世界で、昨日言ってた、婚姻成立のための儀式が行われている筈です。」
「その、異議申し立てっつうのに絡んだ儀式のことか?」
その言葉を受けて、あかねはコクンと一つ頷いた。
「あたし、昨日も言いましたが、祝言を挙げる前に、いろいろ自分自身がぐらついてしまって…。それで、決められていた儀式を逃げ出した弱虫なんです。」
小さな声であかねが言った。
「ってことは、その儀式とやらに、あかねが代わりに出てるって事になるんだな?」
また、コクンと揺れる小さな頭。
「その儀式ってのは何だ?難しいことなのか?」
乱馬は畳み掛けた。
「具体的にはどんなことをやるんだ?」
「結婚に「異議申し立て」をした者に証を立てるため、二人で、祝言の行われる場所まで、途中、結婚に反対する邪魔者を蹴散らしてゴールする。簡単に言うと、そんな儀式なんです…。」
「邪魔者を蹴散らす、ねえ…。んな、物騒な慣習が、おめえたちの世界には存在するのか…。」
乱馬は弱いあかねを見返しながら言った。
「あたしたちの世界は「しきたり」を重んじるんです。結婚を決めたカップルに対して、横槍を入れてもかまわないという制度が、大昔からあるんです。
多分、この世界以上に。形にすごくこだわるというか、そうやって、婚姻するカップルの結束を固めるとでも言いましょうか。
普通なら、異議申し立てがあっても、形上の通過儀礼で「形式的」なものなんですが…。」
「おめえたちの場合は違うってか…。」
「はい。異議を申し付けてきた人たちは「本気」です。本気であたしたちの結婚を邪魔したい、そう考えている人たちばかりなんです…。
何しろ、乱馬さんはとってもおもてになりますので。あたしとの婚儀を認めたくないとおっしゃる、婦女子の方々がたくさん居られまして…。」
とあかねは言った。
「その、異議申し立てをした奴らって…。」
「さっき、逃げてきた、シャンプーさんや右京さん、小太刀さんたちが中心になっています。あなたも同様に、彼女たちには苦労していらっしゃるようですが…。」
「やっぱり…。あっちの世界でもあいつらは、俺たちの邪魔ばっかしてやがんのか。」
思わず、乱馬から苦言がこぼれ落ちた。
「勿論、あの人たちだけではなく、小太刀さんのお兄さんや、良牙さん、五寸釘さんたちも異議を申し立てたって聞いてますが…。」
「たく、あいつらも性懲りも無く…。」
吐き捨てるように言った。
「異議者は婚姻を結ぼうとするカップルに、最大限の妨害を仕掛け、そして、時間内にゴール地点まで足を運ばせないようにするんです。」
「もし、時間内にゴールできなかったら、そのカップルはどうなるんだ?」
「一応、その場で一端、破談です。婚約は解消され、再び、同じ手順を踏んで、再度、チャレンジしなければなりません。時には何度も何度も失敗して、適齢期を越えてからしか結婚できなかったってカップルも居るって聞きます。」
「大変だな…。そいつは。」
人事だとは言え、身につまされそうだ。
「ええ。結婚は優秀な子孫を次の世代に遺す。それが、私たちの世界ではとっても重要な要素となるんです。」
「で?おめえは、その儀式をすっ飛ばして、あかねと交代したんだな?」
ちらっと横を見やったら、あかねは、コクンと一つ、うな垂れた。
「あたし、武道の家に生まれながらも、ちっとも修練してきませんでした…。もっと、あたしに力があれば…。」
あかねはポツンと吐き出すように言った。
「おい、おめえ、もしかして、乱馬を、おめえの許婚の腕を信頼出来ないのか?」
少し厳しい口調で、乱馬は問い詰める。
「信頼できなかた訳ではありません…。ただ、あたしが、乱馬さんの求愛を受け入れるだけの器があるかどうか…。それに対する自信がなくて…。」
「情けねえな…。」
乱馬は、はあっと一つ深い溜息を吐き出した。
「たく…。本当におめえは、あかねと同じ魂を持ってるみてえだな。そうやって、すぐ気に病むところなんか、そっくりだぜ。」
ポツンと吐き出した。
「そうでしょうか?あなたの良く知るあかねさんは、強い女性です。あたしみたいに迷うようなことは無いと思いますが…。」
「そうでもねえと思うぜ。じゃねえと、おめえと易々と交代すると思うか?」
乱馬はじっとあかねを見詰めた。月のさめざめとした明るさが、二人を頭上から照らし出す。
「あいつ、気が強いように見えて、その実、弱くて脆(もろ)いところがあるんだ。
何でも己の中にぐっと取り込んでしまう。そんなところがある。」
乱馬は続けた。
「あいつもおめえと同じように、己の現実世界に突きつけられた「料理勝負」を逃げたかったんだと思うぜ…。」
「料理勝負を逃げたかった…んですか?」
「ああ。あいつはおめえと違って、最低最悪の不器用味音痴女だからな…。腕力は強いかもしれねえが、料理の腕は最悪だ。
シャンプーたちに勝利勝負を挑まれて、それで、孤軍奮闘していたからな…。そんなところへおめえがやって来た。だから、軽々しく、入れ替わっても良いなんて言ったんだろうぜ。
あいつなりに、気に病んでたに違えねえんだ。あいつには渡りに船だったんだと思うぜ。」
「そうだったんですか。」
あかねは納得したように言った。
「勿論、おめえが現れなかったら、それでも、己で創意工夫して、何とか乗り越えようとはしただろうけどな…。」
乱馬は付け加えるように言った。
「逃げ出したいと、そこまで悩む前に、俺にだけでも、弱音を吐き出して欲しいと思うことはある。
尤も、あいつは、俺に弱音を吐いた時点で「負け」だとも思ってるみてえだから、絶対にそんなことはしねえだろうが…。
それに…。あいつを追い詰めた原因の一端は、俺にもあるからな…。」
ぼそぼそっと最後は歯切れ悪そうに言った。
「乱馬さんは、あかねさんが好きなんですね。羨ましいな…。あたしの乱馬さんもそういうふうにあたしを見ていてくれるなら、あたしも、がんばれるかのしれないのに…。」
「おまえ、前に言ってたよな。この広い宇宙空間には、いくつもこの地球と同じ環境のパラレル世界があって、中には似たような世界が数多存在するって…。俺たち以外にも、早乙女乱馬や天道あかねは存在するんだろ?」
「はい、空間管理人のモリスさんはそんな事を言っていました。
この宇宙を彩る世界は、紐状にたくさんの世界のプレートがひしめき合っていると…。
その中には、同じ魂を持つ、乱馬さんやあたしが存在しています。だから、こうやって入れ替わる事も可能だって…。」
「同じ魂を持っているのなら、尚更だ。
そりゃあ、生まれた環境やら、置かれた状況で、多少、性格やら暮らし向きやらは変わってくるんだろうが…。
本質的なものは不変だよ。
早乙女乱馬はどの世界でも天道あかねを愛してるんじゃねえのかな…。心の表し方はそれぞれ違っていても…。
だから、早乙女乱馬を、おめえの世界の俺を信頼しろよ…。夫婦になるんだろ?」
乱馬は凛とあかねに向かって言った。
異世界のあかね。だからこそ、はっきりと物を言えたのかもしれない。
「おめえの世界の乱馬が、俺と同じ魂を持っているなら、思うことは一つ…。おめえに心底惚れてる。それは不変だと思うぜ。
おまえと祝言を挙げたいと願ってる事も、おまえの代わりは居ねえと思ってる事も、俺には何となくわかる。
もっとあからさまに心を開いて見せてやれよ…。迷いがあるなら、それを含めてもだ。何も完璧なあかねを求めているんじゃねえ。
弱いおまえを突き放すような馬鹿じゃねえと思うぜ…。むしろ、弱いままのおめえを望んでるんだと思う。」
「そうでしょうか…。」
「おめえの世界の俺も、おまえのことを、真剣に愛してるんじゃねえか?でねえと、祝言を挙げようとは思わないぜ…。」
さわさわと風が鳴った。
「どんな横槍が入ろうとも、そんな事、微塵も気にしちゃいねえさ…。己の愛する者は全力で守り抜く。そう思ってるだろうぜ。」
あかねは真っ直ぐに暗がりから、乱馬を見返す。
月明かりがぼんやりと、乱馬の顔を照らし出す。
「もし…。もし、あたしが、向こうへ帰れたら、もっと、自分自身を乱馬さんに見せていきたいと思います…。」
静かだが、とても凛とした語気だった。
「ああ…。そうしてやんなよ。」
「で…。あかねとおめえは、どうやったら元に戻れるんだ?」
「元に戻る鍵は、この世界のあかねさんが握っています…。」
あかねはそう言った。
「あん?」
乱馬は怪訝にあかねを覗き返した。
「案内人のモリスさんは言っていました。このままの状態で四十八時間が過ぎると、共に元の世界へ帰る術はなくなるそうです。」
「な、何だって?四十八時間っつうたら、もうすぐそこなんじゃねえのか?」
乱馬は思わず叫んでいた。異世界のあかねが現れたのは昨日の朝。ということは、その前の晩辺りから入れ替わっていたことになる。時間の経過から顧みたら、そう、残された時間はないだろう。
「元の世界へ戻るか否かは、あなたの許婚のあかねさんが鍵を握って居ますから、あたしには…何とも。」
異世界のあかねは、ここへ来る前に、亜空間管理人のモリスに言われた事を乱馬に説明した。
四十八時間以内に、あかねが、ここへ戻りたいと願えば、何事もなかったかのように、それぞれ、元の世界に戻るのだと。
しかし、もし、彼女がそれを望まなければ、二人はそれぞれ、その世界のあかねとして、これからの人生を歩んでいくのだと。
「お、おいっ!マジかよう。そいつは…。」
乱馬は動揺を隠せずに、吐き出すように言った。
「ええ…。あかねさんが、こちらへ戻る事を懇願しなければ、あたしが、あなたの許婚としてこの世界に残る事になります…。お嫌でしょうか?」
真摯な瞳が乱馬を捕らえる。
二人の上を、不思議な沈黙が通り過ぎていった。
あかねが戻ることを願わなければ、このまま、あかねの記憶が途切れ、自分の前には別世界のこの少女が残されるのだ。
乱馬は、ふっと息を吐き出して言った。
「いや…。あいつは、戻ってくるさ。」
とだ。
「同じ魂を持つ物同士でも、やっぱり、異世界のあたしは、受け入れてもらえないんでしょうか…。」
心細げにあかねが言った。
「俺の許婚はあいつだけだ…。それは、おまえの許婚も同じだろうさ…。
あいつは、必ず、戻ってくる。この世界に…。俺の元に。だから、おまえも必ず、自分の世界の乱馬(俺)の元へ戻れるさ…。」
そう言い放った時だった。
そいつの気配がしたのは。
『そう、楽観視もしていられない様子なんですがねえ…。』
「だ、誰だ?」
思わず乱馬は振り返った。
二、
ばくっと、目の前の空間が割れたかと思うと、でっかい猫がにょこっと顔を出した。
「ひっ…。ね、猫。」
猫嫌いの乱馬は思わず、あかねの真後ろに隠れた。
「乱馬さん?」
あかねはきょとんと乱馬を見返す。彼が猫嫌いだということは、当然、知らないらしい。
「あは…。俺は、どうも猫が苦手なんでいっ!」
乱馬は顔を引きつらせながら、それに答えた。
「強い乱馬さんにも、苦手はあるんですか?」
くすっとあかねが笑った。
「笑うな!おめえの許婚も俺と同じ魂を持ってるんだ!猫が苦手なんじゃねえのかよう!」
思わず、声を荒げた。
「そんなことはありませんわ。猫が怖いだなんて聞いたこともないですし…。」
「己の弱みを見せてねえだけじゃあ!」
あかねは、その言葉にじっと考え込む。
『同じ魂を持った人間と言えども、生きている環境が全て同じとは限りませんからねえ…。苦手も得意も、各々の世界でちょっとずづ変わってくるもんですよ。』
にたりと、モリスが笑った。
猫が笑うというものほど、薄気味悪いものは無い。乱馬は、ますます、首をすくめ、後ろへと下がる。
「あはは…。こいつが料理が得意だったように、あっちの世界の俺も、ちょっとずつ違うところがあるってえのか…。」
乱馬は笑いながらも、顔を引きつらせていた。
『そうです。そういうことです。』
猫はコクンと頷いて見せる。
「モリスさん。そう楽観していられないって、おっしゃってましたけど…。何かあったんですか?」
あかねは乱馬を庇いながら、モリスへと問いかけた。
『ああ。そのことです。残り時間が数分となりました。』
と、唐突に問題を、現実に引き戻す。
「なっ!数分だってえ?」
乱馬はおどおどしながらも、吐きつける。
「ということは、あかねさんは、戻る気はないんでしょうか…。」
あかねが心配げにモリスを見上げた。
『さあ…。あちらの世界はお取り込み中みたいでしたからねえ…。』
モリスは意味深な言葉を投げつけた。
「おめえ、あっちの世界を覗いて来たのか?」
乱馬は思わず問い質す。まだ、おっかなびっくりで、あかねの陰には隠れていたが、それでも、ちょっとずつ前に出てきていた。
『あちらは、一種の修羅場を迎えていましたねえ…。』
「修羅場だと?」
その言葉にひっかかりを感じた乱馬は、思わずきびすを返していた。
『ええ。何か、あかねさんは、乱馬さんとお取り込み中でしたし…。』
モリスのその言葉に、乱馬とあかねの顔が、双方、引きつった。
「なっ、何だ?そのお取り込み中ってえのはっ!」
『聞くだけ野暮ってもんですよ。』
にたりと、猫は笑う。
「もしかして…。儀式は既に終えてしまったとか…。」
あかねがポツンと尋ねた。
『儀式たらいうものが、どんなものか、私にはわかりませんが…。仲睦まじく、同じ床へ就かれようかというような修羅場でしたね。
とても、声がかけ辛くてねえ…それで、こっちへ飛翔してきたんですが…。』
「なっ!何だとおっ!」
「仲睦まじく、同じ床へ就く」。そんな言葉を受けて、乱馬は思わず、前に飛び出していた。猫が怖いということは、忘れてしまったかのように、食い入るように、モリスを見詰めた。
『あの様子だと、こちらへは、もう、お戻りにはならないかも…。
ということで、そのお覚悟を促しに、こうして参りましたわけで…。』
モリスはそんなことを言い出した。
「覚悟」という言葉を受けて、乱馬もあかねも、ゴクンと唾を飲み込んだ。
「そんな事…。」
俺が許すわけはねえ!…そう、言いかけた乱馬を、モリスは押し戻しながら言った。
『決定権は全て、「あちらに居るあかねさん」にありますからね…。』
「納得できねえぞ!何で、俺たちに、決定権がねえんだ!」
思わず、食って掛かっていた。
『当然でしょう?誰でもかんでも要望を聞いていたんじゃあ、世界の秩序はどうなります?
それに、世界をまたぐということは、そのくらいのリスクがあるものなんです。それを承知で、そちらのあかねさんは異世界への渡航をされたんですから。ねえ…。』
あかねは黙って俯いた。
「じゃあ、このまま、あいつが戻らなければ…。」
『交換は成立。そこのお嬢さんがこの世界のあかねさんとして、以後、暮らしていかれることになります。』
「あかねが入れ替わる…。」
『そうです。でも、何、心配はいりませんよ。その橋渡しのために私たち、空間管理人が居るのですから。
前のあかねさんの記憶は、全てきれいさっぱりと消滅します。」
「記憶が消滅するだあ?おいっ!ってことは…。」
『ええ。このあかねさんがこの世界のあかねさんとなり、他の誰も、入れ替わった事に何の疑問も抱かないように、前のあかねさんの記憶は全て、このあかねさんとの物に入れ替わります。』
「あかねを忘れるってのか?あいつと積み上げて来た、今までの全てが…。」
『ええ。恙無く。きれいさっぱり、あなた方から消えてしまいます。勿論、私が介在したことも含めて…。』
ざざざざっと、一気に風が、鎮守の森を吹き抜けて行った。
上から覆い被さる木々が、その風に大きく揺すられて、ざわざわと音を発てる。
異様な緊張感が、乱馬とあかねの上に降り注ぐ。
「ごめんなさい。あたしが、余計な事を考えたばっかりに…。」
小さくあかねが吐き出すように言った。
「おめえが悪いんじゃねえ…。あかねがこちらの世界の戻って来ないのは、何もおめえだけのせいじゃねえ…。いや、むしろ、原因は俺の方にあるんだ…。」
乱馬は珍しく神妙な顔をしていた。
「乱馬さん?」
その、真剣な面持ちに、あかねがゆっくりと目を上げる。
「俺が…。はっきりとしねえから、あいつ…。あの料理勝負だって、元はと言えば、俺の優柔不断が招いた厄介事だからな…。
素直じゃねえのは、何もあいつだけじゃねえんだ。俺だって…。」
讒言ともとれる言葉が乱馬から零れ落ちてくる。
「あいつが、おめえの世界の乱馬を選んだのも、きっと、俺なんかより数段、魅力的に映ってるんだろうぜ。邪魔が入っても、おめえと祝言の決意は揺るぎなきものなんだろ?そのくらい、俺も強く、あいつを庇ってやる気持ちがあれば…。
あいつが、この世界を捨てようと思うこともなかったろう…。」
ぐっと拳を握り締める。
『あと、数分ですからね…。お二人さん。』
モリスが、再び念を押した。
と、その時だ。
ザザザッと近くの茂みが、音を発てた。
「見つけたね!乱馬あっ!」
「乱ちゃん!やっぱり、まだ山の中、身を潜めてたんやな!」
「酷いですわ!私たちをほったらかして…。こんな暗い山の中、天道あかねと二人きり!何をなさっていたのです?」
三人娘が現れたのだ。
「てめえら!まだ、諦めてなかったのか?」
乱馬は身構えた。
「諦められるわけ、あらへんやろ?」
「そうある!乱馬があかねを庇う。これ面白くない!」
「今日こそ神妙に、勝負ですわ!天道あかねっ!」
容赦なく襲い掛かる、三人娘の牙。
それぞれの飛び道具が、一斉に攻撃を開始する。
「たく!このややこしい時に!来い!逃げるぜ!」
乱馬は再びあかねの手を引くと、その場を一目散に駆け始めた。
都会の小さな自然の森でも、夜の帳が降り切って、辺りは真っ暗だ。月明かりがあっても、心許ない。
いくら、山道が慣れている乱馬でも、武道の心得が無い少女を連れての逃避行だ。自ずと限界がある。
追いすがる少女たちも、今度は絶対に逃すまじと、鼻息が荒い。是が非でも決着をつけるつもりなのだろう。
「くっ!」
暗がりを手探りで必死で逃げ惑う。
手や足には、茂みでついた擦り傷。だが、その痛みを感じる暇も無い。
いくら小さくても、そこは神域。人間の手は殆ど入らない雑木林。それに、元はそこそこの山だったようだ。
切立った崖が存在していたから、タチが悪い。
昼間なら、その崖の軌跡が良く見えたのだろうが、生憎、頼りない月明かりのみの暗がり。追われる身の上の焦りから、つい、崖の存在を見落としてしまっていた。
「うわっ!」
思わず、足を踏ん張ってみたが、後の祭り。
勢いは止まらず、そのまま、前のめりにつんのめった。
小さい崖とは言え、数メートルはあろうかというもの。と、手を握っていたあかねが先にそこから足を滑らせたのである。
「きゃああっ!」
悲鳴と共にあかねの身体が宙に浮き上がった。
「あかねっ!くっ!」
全身を伸ばして、乱馬は万有引力に引かれて落下するあかねの右手をつかんだ。片方の手は、咄嗟に、崖から生えていた松の木の枝をぐっと握る。小さな衝撃と共に、あかねの身体が空へと浮いた。
「くっ!」
全身全霊の力を込めて、乱馬は宙に浮いたあかねを引き寄せようと踏ん張る。
さすがに、三人娘たちも、崖から落ちる気はないらしく、ずっと上の暗がりで、それぞれ騒ぎ立てる。そんな怒声など、耳にする余裕はなかった。
「乱馬さん…。もう無理です。あなたまで落ちてしまいます。その手をお放しください。」
あかねはか細い声で乱馬に話し掛けた。
「ばっ!馬鹿野郎!そんなことができるか!」
思わず怒鳴っていた。
「だって…。あたしは、この世界のあかねさんじゃない。だから…。その手を…。」
「放せるわけねーだろっ!おめえは、天道あかねだ。この世界のあかねじゃねえかもしれねえが、早乙女乱馬の想い人には違いねえ!
俺にっとっても、おめえの許婚の乱馬にとっても、あかねはあかねだ!大怪我させるわけにはいかねーんだっ!うおおおっ!」
火事場の馬鹿力よろしく、ひっしであかねを引き上げようと頑張った。無我夢中に。
だが、運命の悪戯か、悪運が尽きたのか、乱馬が握り締めていた松の木が、根元からバキッと折れた。二人分の体重を支えきるには、若木過ぎたのだろう。
「うわああ!」
「きゃああ!」
二人、再び、宙に投げ出される。
「畜生!おめえだけは、絶対に助けるんだ!」
乱馬は我武者羅に、あかねの手を己の方へぐっと引いた。そして、そのまま、あかねの身体を両手に抱え込むように、抱きしめた。そして、そのまま、折り重なるように、下へと落下していった。
『残念ながら、タイムリミットです。天道あかねさん!』
落ちて行く中で、空間案内人モリスの声が、そう非情に響き渡ったような気がした。
つづく
一之瀬的戯言
七話で終わる予定だったのに…。終われなかった!
もう一話、お付き合いください。今度こそ、最終話です。
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