◇ミラージュ  〜ふたりのあかねの物語〜


第六話 乙女の危機(SIDE B)


一、

 夜風がひんやりと、あかねの頬を掠めて行く。
 さっきまで降りしきっていた雨は止んだ。
 
 間合いを詰めながら、あかねは良牙と対峙する。
 対する良牙は余裕があるのだろう。
 ふっと含み笑いを浮かべながら、あかねを見ている。

 額からじっとりと湿った汗が流れ落ちる。
 かなり湿度が上がっているようだ。

 ぬぐう手元、ふっと首から提げた、リモコン装置が肌に当たる。
 モリスが与えてくれた、リセットリモコンだ。
 このボタンを押せば、たちどころに世界は反転する。少なくとも、この危機を回避することはできるだろう。
 あかねは思わず、装置を手に握り締めた。

(このボタンを押してしまえば…。元の世界へ戻れる…。)
 親指にそのボタンをかけようとする。

 だが、すぐにその動作を止めた。

(ダメ…。今、入れ替わったら、あの子がこの危機に直面することになるわ…。)
 そう思ったのだ。
 己はまだ、武道の心得がある。だが、あの子は全く無い。
 ここで勝負を投げて、リモコン装置を押せば、彼女と入れ替わる。そうしたら、今度は彼女が目の前の良牙の餌食となってしまうだろう。
 そんな、見殺すようなことはできない。

(この世界のあの子は、武道はやっていない。なら、あたしの方がまだ、勝機はある。)
 すいっと再び、リモコンを胸元へと収めた。

(こうなったら、最初の一撃、絶対に決める!)

 あかねは必死だった。
 掌に再び、全身の気を高め始めた。

「これは面妖な。あかねさん。君はからっきし、武道がダメだったんじゃないのかな?」
 良牙が畳み掛けてきた。
「何が言いたいの?」
 あかねは気焔を吐き出した。自ずと、地の勝気さが出始めている。
「その気焔に満ちた瞳の輝きは、武道家のものだ。違うかい?」
 じりっ、じりっと近づいてくる良牙を牽制しながらあかねは言った。
「試してみたらどう?」
 あかねは吐きつけた。
 どうやら、見透かされているようだ。
 こうなっては、奇襲は成功しないだろう。
「無論、そのつもりさ。」
 良牙は身構えた。そして、一気にあかねに飛びかかって行く。

「くっ!」
 あかねは一気に、握っていた拳を、パーに開いた。
 気があかねの掌から放出されていく。
 ここ暫くの修行で、小さいながらも、あかねは気弾を扱えるほどになっていた。
 ボンッと飛んで、良牙の胸元で弾ける。

「でやああっ!」
 あかねは怯むことなく、そのまま突進する。
「なっ!」
 あかねの激しい先制攻撃に驚いたのか、良牙が横にのけぞった。それを見逃す手はない。あかねは、そのまま、良牙の傍を駆け抜けた。

(今度こそ逃げるわっ!)

 と、その時だ。
 すぐ傍で声がした。

『そろそろ、刻限ですよ。あかねさん。あと小一時間ばかり。お忘れではないかと思って…。』
 亜空間管理人のモリスの声だった。
「今、話しかけないで!集中できないわっ!」
 あかねは思わず吐き出していた。
『お取り込み中ですか?』
「ええ、思いっきりね!」
 皮肉っぽくあかねは答えた。

『そうがすか。それは、お邪魔しました。遺された時間が少ないってことだけは、お忘れずに。では!』
 プツンと言って通信は切れた。

「何がお邪魔しましたよ!たく、思い切り邪魔してえっ!」
 文句の一つも吐き出したくなった。
 彼のせいで、逃げ遂せたと思った良牙が、また、すぐ後ろに迫っていたからだ。

「今度は逃しませんよ!あかねさん。」
 彼は勝ち誇ったように、あかねへと言葉を投げかけた。

「しまった!また行き止まり!」
 あかねは、逃げるべき方向を誤ったことに、気付いた。
 そう。再び、袋小路へと追い立てられたのだ。
 壁面がすぐ目前に迫る。
「くっ!」
 そいつを背に、再び、良牙と真正面から対峙した。

「やれやれ、手がかかるお人だ…。」
 良牙は再びにっと笑った。

「さっきは油断しましたが、今度はそうは行きませんよ。全身全霊を傾けて、あなたを捕縛します。」
 と意気込んでくる。
「魔呪縛っ!」

 良牙は何か印を結び、あかねへと気を放出させた。

「えっ?」
 ガクンと、何かがあかねの全身を覆った。
 彼から流れた気が、己の身体を捕らえた。そんな感覚だった。いや、そればかりではない。全身から力がこそげ落ちる。
 ばさっと音がして、そのまま、地面へとへたりこむ。
「なっ!」
 足を踏ん張ろうとしても、身体に力が入らない。
「僕の必殺技の一つですよ。気で相手を翻弄し呪縛する。」
 そう言いながら前に差し出す手。そこには、糸状の細い気の流れが感じられた。その糸は真っ直ぐにあかねに差し向けられている。どうやら、そいつに身体を絡め取られているようだ。
 蜘蛛の糸のようなものなのだろう。
 無論、現世の良牙には、こんな技は無い。それだけに、得体が知れず、不気味だった。

「あなたをこのまま乱馬にやるのは勿体無い。…やっぱり、あなたは僕がいただく。」
 そう言いながら、良牙はあかねを舐めるように見詰める。

「いただくとか、やるとか…。あたしは物じゃないわっ!」
 あかねは気概を吐き出した。
 だが、思いとは裏腹に、身体はピクリとも動かない。そればかりか、良牙はあかねの言動など、気にしている素振りもなかった。
 世界の価値観が相当違うのだろう。

(ダメ!どうやっても、動かない!)
 足掻けば足掻くほどに、身体はきつく絞まっていくような気がする。このままでは何をされるか、わかったものではない。

「じゃ、あかねさん、遠慮なく。」
 目前では、不謹慎な瞳を投げかけながら、そんな言葉を口走る良牙。

「いやああっ!」
 あかねが思い切り叫んだ時だ。

 横から、気の塊がドンと飛んできて、弾けた。
 糸がプッツンと切れたように、あかねの身体に自由が戻った。

「たあく…。嫌がるあかねに何やってんだ?良牙よっ!」
 聞き覚えのある声が飛んでくる。乱馬だ。

「乱馬っ!」
 思わず叫んでいた。
 自分の知る乱馬とは違うが、それでも、助けには違いない。そう思ったからだ。
 乱馬はさっと飛び出してきて、あかねと良牙の間にすっくと立ちはだかった。

「乱馬っ!何でこの場所が分かった?」
 突然の邪魔者の出現に、良牙がきつく吐きつける。

「分かるさ!ったく。ビンビンに闘気を上げやがって。それに…。」
 乱馬は傍の建物を流し見た。
「おめえさあ、良牙。ここがどういう場所かわかってるのか?」
 とにっと笑った。
「ああん?」
 良牙は乱馬が言った意味がわからなかったのか、素っ頓狂な声を上げた。
 嘲り笑いながら、乱馬が言った。
「ここは、武尊神社の奥の院だぜ。つまり、俺たちの目指していた聖地さ。」
 と、明け透けに言った。
 どうやら良牙は、乱馬とあかねが目指していたゴール地点に立っているらしかった。

「たく…。おめえの方向音痴も、ここまで行けば、相当なもんだぜ。でも、おかげでこっちには、あかねを保護した後、ゴールが間近にあるから、とっても好都合なんだがな。」

「なっ!何だとおっ?ここは、貴様たちが目指していた奥の院だってのか?うわああっ!何てことだあっ!」
 良牙は思わず、頭を両手で抱え込んだ。明らかに狼狽していた。
「やーっぱり何も考えてなかったな。この方向音痴野郎。」
 その様子を見ながら、乱馬はくすくすと悪魔的に笑った。

「畜生!こうなったら、実力で、乱馬、おまえを倒してあかねさんを!」

「何、寝言、言ってるんだっ!」
 乱馬はそう吐きつけると、ダッと飛び出していた。
「良牙、君が僕に勝てる訳ないだろうっ!そらっ!ヤッタッタッタッタ!」
 拳の連打を良牙に食らわせた。
「うぐっ!」
 良牙が唸った。

(す、凄い…。この世界の乱馬って、物凄い拳筋を持ってるんだわ。)
 傍で見ていたあかねが感嘆したくらいだ。
 己の知る乱馬の数倍、破壊力がある。それが証拠に、てんで良牙が反撃できない。

「ち、畜生!もうちょっとだったのにっ!くそおおっ!」
 そう叫んで良牙がドサッと倒れこんだ。

「ふん!僕と君とじゃあ、力の差が歴然としてるのさ!」
 そう言いながら、乱馬は拳を振り上げた。
 そして、勝利宣言したのであった。

「ほら、良牙は倒した。それに、ゴールは目前だ。あかね。」
 乱馬は、視線を傍の建物へと流した。
 夜陰に浮かぶ建物。
 ひなびていたが、それらしい荘厳さが漂ってくる。この神社の奥の聖域。
 ゆらゆらと、聖域に連なる森の木々が揺らめいた。
 この森の中に潜んでいた「敵」の粗方は、乱馬によって倒されたに違いない。さっき、己と乱馬を引き離したシャンプーも、乱馬の敵ではなかったようだ。その気配すら汲み取る事はできない。
 乱馬はあかねの手を取ると、先導に立って歩き出した。

 すぐ傍の木造の建物。宮作りの典型的な神社の社だ。
 どのくらいの古さがあるのかはわからなかったが、それなり、年月を重ねてきている様子だった。白木は既に、黒ずんでいる。そればかりか、壇上に続く木造の階段も手すりもすっかり、黒光りしていた。
 どんなご神体が祭られているのか、あかねには皆目検討がつかなかったが、それでも、厳かな神域であることは察知できた。

 上り口には足を清めるための水桶だろうか、たらいがひとつ置いてあった。そして、その脇には手拭も添えてある。
 履いていた草履を脱ぐと、それで、泥を拭った。
 雨に打たれて、身体も泥だらけだ。無我夢中で闘う中、ついた擦り傷もいくつか肌にある。
 乱馬は真新しい手拭を一つ手に取ると、あかねの身体を丁寧にぬぐってくれる。そんな優しさが、あかねの心を惹きつける。

「さてと…。簡単に汚れも落としたし…。僕らがここへ辿り着いた合図を、下で待っている家族たちに送るか。」
 乱馬はにっこりと微笑むと、入口の袂にあった「鈴」を鳴らす。
 
 カランカラン、コロンコロン。

 軽やかな鈴の音が夜空に鳴り渡る。
 ここへ二人で立ったという証となるのであろう。
 その音色を受けて、ザワッと風が鳴ったような気もした。

「あとは、作法にのっとって、祝言の前の儀式だ。あかね。」
 と彼は言った。
「祝言の前の儀式?」
「ああ、晴れて二人が夫婦になるための儀式さ。」
 彼はそう言うと、間髪入れず、あかねの手を取った。
 あれよあれよと言う間に、あかねは乱馬に急きたてられる。
「さ、拝殿の中へ…。」



二、

 乱馬は誘導するように、拝殿への階段を上がリ始めた。繋がれた手は放されること無く、あかねをぎゅっとつかんでいる。
 一つ、一つ、踏みしめるように、階段を上がっていく。
 まだ、五月の末の夜はいささか冷える。何も履かない素足の足元は、すうすうと風が、そのまま渡ってくるような感じがした。足の裏もひんやりと冷たい。
 天井から吊り下げられた、燈籠が、二人の影をゆらゆらと照らし出す。電球などという、文明の利器などは一切ない。ここまで原始にこだわった社殿というのも、珍しいのではないかとあかねは思った。
 この世界に、電気というエネルギー源が無いというわけではないのに。ここが聖なる空間だということを誇示するかのように、一切、電気的機械は排除されていた。
 唯、一つの事を除いては。

 乱馬は心得ているかのように、拝殿へと辿り着くと、引き戸を開けた。
 ぷんと中から漂ってくる、香の薫り。
 仏閣のそれとは根本的に違う、香が立った。己の世界の神社には、香をたき込めるといった話はあまり聴かない。香は寺のもの。そんな固定観念がある。それだけに、神社にお香など、何か不思議な気がした。
 漂ってくるのは、気を落ち着かせる、ラベンダーの香りに似ていた。
 社殿の中は全く灯りがなく、真っ暗だ。
 乱馬は、入口付近の天井から釣り下がっていた、燈籠を一つ、おもむろに手に取った。それを光源にしようとでも言うのだろう。右手に燈籠を、空いた左手は、軽くあかねの左肩に触れた。
 引き戸をガラガラと開くと、あかねを促して、中へ入れというように誘(いざな)う。乱馬に左肩をつかまれているので、先にあかねが中へ入るような形になった。

 中へ入ると、乱馬は、あかねの肩から左手を放し、後ろ手で引き戸を閉める。
 引き戸が閉まると、カチッと音がした。まるで施錠されたような音だ。
 えっと思って背後を振り返る。と、引き戸の脇に、何やら機械的な光が動いている。センサーか何かのような機械だ。
「最近はハイテク化されてね、祝言を挙げるカップルが入ると、自動で閉まる仕掛けになってるんだよ。昔は仰々しい錠前を使ったんだがね…。」
 と、何気なく乱馬が説明してくれた。
「どうして、鍵をかける必要があるの?」
 あかねは思わず問い返していた。閉じ込められたような、嫌な気持ちになったからだ。
「当然だろ?また、妨害する奴が現れたら、大変だからな。」
 と乱馬は笑った。
「心配するな。ここが閉じて施錠されたら、セキュリティースイッチが入る。」
「セキュリティースイッチですって?」
 目を丸くするあかねに、乱馬は楽しげに言った。
「対妨害者用のセンサーが働く仕組みになってるんだ。何人(なんびと)たりとも、儀式が終わるまでは入って来られないようにね。儀式を邪魔されたら、白けるってものだからな。」
 乱馬は笑いながら続ける。
「朝日が昇って、セキュリティー装置が自動解除されるまでは、センサーが働いて、僕ら以外の人間の立ち入りを一切断ち切り、浸入できなくするようになっている。…まあ、さすがに、あいつらも、セキュリティー装置の餌食にはなりたくはないだろう…。命に別状はないらしいけれど、結構、激しいらしいよ。ここのハイテクレーザー砲弾は…。」
「レーザー砲弾ねえ…。」
 こんな物騒なセキュリティー装置を働かせてまで、人を排斥する必要があるのか、いったいどんな儀式をするというのか。いささか、不審に思った。
 だが、その「疑問」はすぐに明るみに出る事になる。

 乱馬の持つ燈籠は、ふっと部屋の中の暗がりを映す。
 真正面は御祭神を祀った祭壇が設えてあった。
 古びた刀剣が一つ、仰々しく真横にされ、真ん中に据えられている。恐らくこれが御祭神の本体なのだろう。そして、それを囲うように、まわりにお神酒や玉串が掲げられている。

 乱馬は祭壇に向かって正座した。
 持っていた燈籠を前に置くと、あかねにも隣りに座れと目で促した。
 二人、チョコンと祭壇を前に正座して背筋を伸ばした。
「早乙女乱馬、及び、天道あかね、ご神前に入ります。御剣の神々の導きによって、言祝ぎ奉ります。」
 そう言って、拍手を打ち、深く頭を垂れる。あかねも、慌てて頭を垂れた。
 お辞儀を済ませると、乱馬は再び燈籠を手に立ち上がった。
「さあ、篭るぞ。」
 乱馬はそう言って、あかねの肩に手を置いて、立たせた。

「篭る?」
 その意味が分からずに、あかねはきょとんと乱馬を見上げた。
 だが、祭壇を見上げて、ハッとした。
 どうやら、祭壇の向こう側には、まだ奥に部屋があるようだ。
 御祭神を祀ってある正面から少し右手に回ると、祭壇の後ろ側にある部屋へと、あかねを誘った。

「えっ…。」
 あかねは部屋の手前で思わず、立ちすくんだ。

 そうだ。目の前の部屋のど真ん中には、蒲団が敷き詰められている。ダブルの大きさの物だった。その上、枕が二つ、仲良く並べられている。

「こ、これ、何…。」
 あかねの足が、ふるふると震え始めた。
「何って…。今日のために設えられた臥所(ふしど)だよ。」
「臥所って…。」
 あかねの驚愕を楽しむように、乱馬が言った。
「ああ、ここで初夜を迎えるんだ。」
 乱馬がにっこりと笑った。
「し、初夜ですってえっ?」
 ガンと頭を一発、殴られたような気がした。

「ああ、当然さ。これから俺たちは夫婦の契りを交わすんだ。即ち、それは恙無く、初夜を迎える事。だろ?」

 真っ白になったまま、あかねは放心したように、蒲団を見詰める。

(臥所…。初夜…。祝言…。)
 ぐるぐると、そんな言葉が脳内を巡り出す。
 と、乱馬の手がぐっとあかねの肩をつかんだ。
 思わず身体に力が入る。いや、逃げようと本能的に身構えたのだ。
 だが、その一瞬先に、乱馬はあかねの腰元をぐっとつかんだ。
 そして、そのままあかねの足元をすくった。

「え…。」

 逃げる間もなく、あかねは乱馬にひょいっと抱え上げられてしまったのである。「お姫様抱っこ」。丁度そんな感じにだ。

「そんなに緊張するなって…。夫婦になる者なら誰でも最初に通る道なんだから。」
 乱馬は、正直、嬉しそうに笑った。
「ちょっ、ちょっと、乱馬っ!」
 焦って手足をばたつかせるが、所詮彼の力には敵わない。
「大丈夫だよ。壊さないように、優しくしてあげるから。」

 あかねは焦った。
 優しくするとか壊さないとか、そう言う問題では無い。己はこの世界のあかねとは違う。このままでは、この世界の乱馬と結ばれてしまうではないか。
 冗談ではない。

(そうだ!リモコン装置!)
 あかねは己の道着の胸元に揺れる、リモコン装置の事を思い出した。
 これを押せば、リセットされて、たちまち元の世界へ飛ばされるだろう。そして、向こうへ行っているこの世界のあかねと、入れ替わる事が出来る。
 彼女なら、恐らく、この状況に置かれても、素直に従うだろう。彼女がこの世界の乱馬を愛している事は火を見るより明らかであった。たとえ、結婚することに迷っていたとしても、この乱馬の優しさがあれば、大丈夫だ。
(それに、あんまり残り時間が無い筈…。)
 ここらが潮時だと思った。
 だが、乱馬に抱きかかえられ、体の動きを抑えられる如く、腕をつかまれているので、リモコン装置をすぐには手に取れなかった。

 焦るあかねとは裏腹に、乱馬は嬉しそうだ。あかねを抱え込むと、すっと、蒲団へと歩み寄った。
 ふわふわの羽毛布団。決してせんべい布団ではない。
 ふわりとそこへ降ろされる。勿論、仰向けにだ。
 そして、そのまま、己はあかねの上に覆い被さる。あかねが逃げないように、しっかりと固定するようにだ。
 乱馬の髪の毛が頬に当たった。
 あかねは手をリモコン装置がある懐へと滑らせようと身をよじった。だが、すぐにその手は乱馬に捕まってしまった。
「往生際が悪いなあ…。まだ、僕から逃げようとでも言うのかい?」
 くすくすっと乱馬が目の前で笑っている。悪戯っぽい笑顔だ。
「あの、その…。」
 おどおどするあかねの狼狽振りを、楽しむように上から見下ろしてくる優しい瞳。思わず、ポッとなった。

「あの…。乱馬、とにかく、このままじゃあ…。ほら、さっきから儀式を受けるのに、雨にまみれて、泥だらけになってて、…、その、汗臭いし…。
 ねえ、せめて、シャワーでも浴びて、身体を清めてから…。」
 と言い訳するように、言葉を吐き出した。

「あのねえ…。ここにはシャワーなんて気の利いたものはないよ。ホテルとは違うんだから。」
 それを聞いて、乱馬が笑う。
「シャワーがないのなら、せめて、身体を拭いてから…。」
「だから、その必要はないよ。試練の儀式をかいくぐって、契りの時を迎える。それそのものに意義ってのがあるんだ。あかねだって、良く知ってるだろう?
 共に汗を流し、試練を乗り越え、そして、そのまま、武道神の剣の目前で契りを交わす。それが決まりなんだから…。」

 乱馬はどうあっても、あかねを放す気はないらしい。
「それに…。汗臭くったってかまわないさ。どうせ、これからたっぷりと汗をかくんだからさ。
 それより、あかね。いい加減、腹括れ。僕たちは、晴れて、ここで夫婦になるんだから。」

 こうなったら是が非でも、リモコン装置を押すしかない。

 あかねは、ぐっと手に力を入れ、上に乗っかった乱馬を薙ぎ払おうとした。

「あっ…。」
 その弾みだった。首から吊るしていたひもにあかねの右手の小指が引っかかった。そして、跳ね除けた勢いで、ひもが切れた。
 結び目が良く締まっていなかったのか、それとも、あかねの手に、勢いがありすぎたのか。
 首から離れたひもは、リモコン装置をつけたまま、ゆっくりと放物線を描いて、空を飛んだ。
 勿論、乱馬には見えていないらしい。

 コンコンコン…。

 蒲団の外に大きく放り出されて、リモコン装置は床の上に落ちた。
「くっ!」
 手を伸ばそうとしたが、僅かに届かない場所に落ちた。

 困った。このままでは、リモコンのリセットボタンが押せない。

「ほら、あかね。気をそらさないで…。僕だけを見詰めて…。」
 大きく右方向へ顔傾けて、リモコン装置を見ているあかねに、乱馬は上から声をかける。
 そして、あかねの顔を己の方向へと是正させるように、手を添えた。
「身体をあわせるときは、僕のことだけを考えて…。」
 そう言いながら、乱馬は己の腰紐を解いた。
 はらりと、乱馬の道着が肌蹴る。それを肩でくいっと脱ぎ捨てると、顕になる美しい肉体。この世界の乱馬も相当鍛え上げているようで、無駄な贅肉が無い。引き締まった筋肉が、ゆらゆらと薄明かりに見える。
 ゴクンと生唾を飲み込んだ。
「あかね…。」
 そう言いながら、悩ましい瞳が一気に差し迫ってくる。
「この時を待っていた…。ずっと、君と引き合わされた日から…。」
「でも…。あたしは…。」

 この世界のあかねではない。
 そう言葉を飲み込んだ。
 上からぎゅっと抱きしめられたのだ。あかねは反撃どころか、心も体も動きを止めてしまった。
 と、あかねが観念したと思ったのか、乱馬の手があかねの身体をなぞり始めた。最初は首筋を、すっと指先が流れた。
「あ…。」
 その感覚に、思わず、くぐもった吐息が漏れる。ぞわっと背中の肌が全て逆巻いたような気がした。ビクンと身体がしなる。
 思わず、乱馬の手に、身体が反応してしまったのだ。
 始めて知る感覚だった。
 また、乱馬の手が別の場所をふわっとなぞった。今度はあかねの頬だ。
「はう…。」
 また悩ましい声が漏れた。
 乱馬はツボを心得ているのか、あかねが感じる場所ばかり、手でなぞっているような気がする。
 まるで見知らぬ世界に引き込もうとするように、乱馬は容赦なくあかねを責めたてる。あかねの気をほぐそうと、前戯に力を注いでいるのだろう。あかねの反応を楽しむように、動き回っている。
 感じる場所を刺激される、その度に、声にならない吐息が、自然に漏れる。止めようとすればするほど、我慢できずに零れ落ちる。
 あかねの声と衣擦れの音と。
 深遠な空間の中に、妖艶に浮かび上がる。

 これが、自分の世界の乱馬なら、何迷う事もないだろう。だが、彼は、あかねの許婚ではない。いや、己が本当の許婚ではないのだ。
 どうすれば良いのか、乱馬の愛撫に頭がかすみ始める。
 ただ、この状況を奪回してくれる唯一の道具、リモコン装置には手が届かない。
 このままだと、乱馬と契り、リセットボタンも押せぬままに、時間が切れる。そうなると、この世界へ留まる事になる。
 今までの己の記憶などが全て失われる。向こうの乱馬と積み上げてきた日々が全て、泡沫へと消えてしまうのだ。
 そして、この世界の早乙女乱馬と契りを結び、この世界の天道あかねとして、生きていかなければならない。

 そんなの…。自分が望んだ事じゃない。
 だめ…。あたしは、自分の世界に戻りたい!

 あかねはぐっと、目を閉じ、一気に気を高めていった。
「乱馬あっ!助けて、乱馬あっ!」

 あかねの声がしじまにこだました。
 精一杯の声で、ここに居ない乱馬に助けを請いかけていた。



つづく




一之瀬的戯言
 あかねちゃん、大々ピンチ!
 乱馬に乗っかられて迫られる。
 うーん、このままだとR展開か?(「呪泉洞」なので、んなわけは無いとは思いますが…。)


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。