◇ミラージュ  〜ふたりのあかねの物語〜


第三話 違和感(SIDE A)


一、

 五月晴れの美しい空が広がる。その下を新緑が萌え上がるように、緑葉が光り輝く。
 こちらは、元の世界。
 こちらの天道家でも、異変が起ころうとしていた。

 あかねと入れ替わった同じ名前の少女。彼女もまた、新しい朝を天道家のあかねの部屋で迎えていた。
 彼女にとっても、ここは異世界。
 でも、望んで自分の次元から逃れてきたあかねは、その違和感を楽しんでいた。
 
「本当に別の世界って存在していたのね…。」
 モリスに出会って、そこでいろいろと説明を受けたように、確かに似て非なる世界がそこに広がっていた。
 この世界のあかねの部屋はこざっぱりしていて、一切ごちゃごちゃした装飾品はない。でも、綺麗に清掃されていて、気持ちよく目覚められた。パジャマで寝たのは生まれて初めて。いつもはネグリジェを愛用しているからだ。
 起き上がるとすぐ、洋服ダンスの服を物色しながら、自分の気に入りそうな服を探す。
「あら…。これは…。」
 手にしたのは、道着。
「ここのあかねさんは、武道を嗜んでいらっしゃるのね。」
と感心したように声を上げる。
 このあかねは武道など、全く素養が無い。古くからの武家、天道家に生まれながら、結局、武道に興味は持たなかった。早雲は寂しげではあったけれど、自分の親友の息子を跡取りとして据えるべく、乱馬と引き合わせ、結婚を勧めてくれたのである。
 父親の指図のままに見合いして、お互いを見初めた。乱馬の誠実なところに掛け値なしで惹かれた。ただ、男のフェロモンが物凄いのか、好青年の乱馬は、自分が思う以上に女性にモテたことが、彼女に、影を落とす事になってしまった。
 そう。修行の途中で行きあった中国娘のシャンプーやら、地元の有力者、九能家の娘、小太刀やら、関西から追いかけるように上京してきた右京やら。
 乱馬は己以外と祝言を挙げる意志はない、と言ってくれているが、二人の結婚を快く思わない外野に、様々な嫌がらせを受けた。
『武道も嗜まぬ、強くもない娘が乱馬と結婚してどうする?』
 三人娘たちは執拗に、あかねへ暴言を浴びせかけた。
 このあかね、この世界のあかねと違って、気が弱かった。芯がない少女ではなかったのだが、争いを好むようなタイプではなかったのだ。
 だから、三人娘が「異議申し立て」を叩きつけて来た事を気に病んでしまった。一種の「マリッジブルー」とでも言うのだろうか。
 散々悩んだ末に、「噂で訊いたことがある、異次元亜空間へ入り案内人と遭遇する事」を望んだのだ。
 彼女の世界には、亜空間へ繋がる道が開け易いことが幸いしたのである。普通、亜空間への道は偶然でしか開かない。だが、空間同士のひずみの中には、開きやすいポイントがあるらしく、まことしやかに、そのポイントが近いと噂話として訊いていたのである。
 精神的に追い詰められていた少女は、半信半疑で時空への扉を、オカルトに興味がある友人によって教唆してもらい、思い切って実行したのであった。

 亜空間の中は、不可思議な世界だった。
 すぐさま、そこへ現れたのが、亜空間管理局員と名乗る、モリスだった。猫顔の愛嬌がある顔をしていた彼は、あかねの悩みを親身になって聞いてくれた。

『ようがしょ!そこまで深く考えているなら、他の世界のあかねさんと入れ替わって見ればよろしいのでは?』
 そう言いながら、何やら小さな携帯マシンをいじくり、操作する。
『どら、このマシンで、貴女と同じように、己の世界に嫌気が差している「あかねさん」を探してみましょうかね。』
 そう言って、慣れた手つきで操作し始める。
 暫くして、ターゲットを見つけたのか、モリスはにっこりと笑って、あかねを見た。
『居ましたよ。お一人、該当するあかねさんが。どうします?ダメ元でコンタクトをとってみられますか?』
 正直、最初は迷った。なかなか決定の意志を表せず、もじもじした。気の弱いあかねである。踏ん切りがつかなかったのだ。
『何、また、元の鞘に戻る事も可能です。異世界を経験すれば、己の世界の素晴らしさを再認識できることだってありますよ。そんなにシャチホコばって難しく考えないで、気軽に、他の世界を覗いてみるのも、良いんじゃないですかね?
 行動を起さなければ、何も始まらないし、何も変わりませんよ。』
 モリスは、優柔不断なあかねを見ながら、そう示唆してくれた。
 その言葉に背中を押された。
「このままではいけないわね。」
 思い切って他の世界へ行って見れば、これからの自分について考えることもできるかもしれない。あかねは決意すると、異次元へと旅立った。



 そんなことを思い出しながら、異次元世界で迎える新しい朝の空気を思い切り吸った。
「この世界でも同じように太陽が昇り、一日が始まるのね…。」
 変な感慨にふける。
 何にしても、同じ天道家というのが不思議でならなかった。
 だが、そんな感慨も、すぐさま吹き飛ぶ事になる。

 バタバタと朝の静寂を破るような、足音がドアの向こう側で響き渡った。

 いきなり、何なのだろうかと、あかねはハッと、その音へと耳をそばだてる。
 と、バタンといきなり部屋のドアが荒々しく開いた。

「ぱふぉおおっ!ぱふぉふぉっ!」

 唐突に飛び込んできた「物体」に、思わずぎょっとして目を見張る。
 そこに現れたもの、それは、でかいジャイアントパンダ。
 着ぐるみでは無い、正真正銘の生き物。
 そいつは、じろっとあかねを見やった。
「いっ!」
 思わず、あかねの体が固くなる。
「くおらっ!クソ親父っ!待ちやがれーっ!」
 続いて飛び込んできたのは、見覚えのある青年。黒ランニングと短パンというラフないでたちで、パンダを追いかけて飛び込んできた。
 彼の背中には見慣れないおさげが揺れている。

「き、きやあああっ!」
 あかねは矢も盾たまらず、大きな悲鳴を上げてしまった。

 乱馬も、彼女が着替えをしようとしている最中だったことに、気がついたのだ。
 下着はつけていたものの、乙女の柔肌が乱馬やパンダの前に露呈している。

「あ、あわわ。御免っ!」
 乱馬は思わず立ち止まる。純情な青年だ。

 パンダはアカンベエをすると、隙を見て、身軽にもひょいっとあかねの部屋の窓から瓦屋根へと飛び移る。そして、飛び跳ねるように、「ぱふぉぱふぉぱふぉ!」と庭に下りて行ってしまった。
「あ、親父っ!逃げるのかっ!この野郎!」
 玄馬が飛び出したのを見て、はっと我に返った乱馬は、再び彼を追って、同じように窓から飛び出した。
「こらっ!待て、親父ーっ。」
 荒々しく、彼は外へと飛び出して行った。

「な、何…。何だったの?」
 可愛そうなのは、良く事情が飲み込めていない、異世界のあかね。彼女の世界では、乱馬父子は同居人ではない。それどころか、パンダなど天道家に存在しない物であった。
「ど、どうして、乱馬さんが、こんな朝早くからこの家に居るの?それに、…今の巨大な生き物は?…この家のペットか何かしら。」
 まだバクバク言ったまま止まらない心臓を持て余しつつ、あかねはたじろいでいた。



二、

 どうやら、乱馬が天道家に同居しているようだ、ということに気がついたのは、朝食の時。
 今日は土曜日だったので学校の授業は無い。比較的遅めの時間に天道家の全員が、茶の間に揃った。

 当然のように、乱馬も彼の父親も、食卓に就いている。

(まさか…。もう、祝言を挙げた後なのかしら…。)
 少し気が動転しかけていたが、それならば、寝屋を分けることは無い。
 不思議だったのは、彼の母親まで、一緒に食卓についていたことだ。のどかは、かいがいしく、かすみと一緒に朝ご飯の世話をやいている。
 ドキドキ観察しながら、あかねは、いろんな可能性に考えを巡らせる。何より、こんな大勢での食卓は、楽しい。
 彼女の世界の天道家も決して静かではなかったが、それでも家長の早雲と三姉妹だけの食卓。ここはそれに早乙女家三人が加わっているので、もっと賑やかだ。

(さっきの巨大生物は…。居ないのかしら?)
 あかねは、朝一番に乱入してきた「パンダ」の姿を求めたが、どこにもない。庭先で飼っているのかと思ったが、その気配もなかった。
(夢でも見ていたのかしら…。)
 朝、起き抜けだったので、錯覚でもしたのかと思ったが、それにしては生々しい。
 あかねの目の前で箸を動かす玄馬が元凶だと、思いもよらなかったのである。
 そう、彼女の世界の早乙女父子は、変身生命体ではなかった。

 彼女の横では、乱馬が一心不乱に箸を動かしている。
 その勢いたるや、己が知っている乱馬と少し様子が違っていることに気がついた。彼女の知る乱馬は「好青年、紳士」だ。それなりに身づくろいに気を遣い、黒ランニングと短パン一丁というような、ラフな格好を、あかねやその家族たちの前で見せることはなかった。
(同じ顔をしているのに、性格は違うのね…。)
 そう思いながらあかねも箸を動かす。
「あかねさあ…。今朝はやけに、乱馬くんの方ばかり見てるわねえ…。」
 そんな様子を、なびきが好奇の目で見ていたようで、からかい口調でそんな言葉をかけた。その言葉を受けて、つい、カアッと顔が赤く染まる。彼女は純情乙女だったのだ。
 いつものあかねなら、「お姉ちゃん、何寝ぼけたこと言ってるのよ!」などと、突っかかっていくだろうに、性格がおとなしい分、じっと黙って俯いてしまう。動揺してしまったのか、思わず、ポロッと漬物を箸から落としてしまった。
「ちょっと、あんた、何動揺してるの?らしくないわねえ…。」
 まだからかい足りないという口調でなびきが突っかかってくる。
「ど、動揺なんか、していません。」
 と小さく答えた。
 それを受けても、乱馬は動ぜず、もくもくと箸を動かし続ける。
「余計なことかもしれないけど、あかね、あんたさあ…。明日の勝負どうするの?」
 なびきはにやにやと畳み掛けてきた。
「勝負?」
 小さくあかねは問い返す。当然、彼女は「巫女騒動」など知らない。
 勝負と訊くと、己の世界の「通過儀礼」を思い浮かべてしまう。もしかして、武道経験のない己が、この世界のあかねの道着を着て、奮闘しなければならないのかと、ひやりとしたのだ。
「何寝とぼけてるのよ。料理勝負よ。明日のね。」
「料理勝負…ですか?」
 なびきの言葉に、少し安堵した。
 力勝負でないことにホッとしたのだ。
「料理って…。あんたさあ、自分で自覚してるわよね?」
「何が…です?」
 姉とはいえ、別世界の人間。どうしても語尾が丁寧になる。そんなあかねを乱馬は訝しげにちらりと流し見た。
「あんたの料理の腕よ。勝算はあるの?」
「勝算…ですか。」
 あかねは箸を止めて考える素振りをする。
「シャンプーは稼業の中華料理、右京はお好み焼き、そして、小太刀は多分、和食で勝負をかけてくるわね…。あんたはどうするの?まともに作れる一品もないんじゃないの?」
 と卑下するように言った。
「家庭料理じゃダメかしら…。」
 とポツンと答えた。
「はあ?」
 天道家の人々は、あかねの答えに目をクリンと見張った。
「別にダメってことはないと思うけど…。」
 なびきがまた問いかける。
「じゃあ、家庭料理でいきますわ。」
 あかねはウンウンと頷く。
「家庭料理って…おめえなあ、己の力量わかってて言ってるのか?」
 乱馬が横槍を入れてきた。
「わかるもわかららないも、家庭料理なら…。何とか…。」
 ここのあかねと違って、台所に入る機会が多いこのあかねは、それなりの腕は持っている。それに、何より、力仕事よりは台所仕事が好きであった。
「おめえなあ、そんな、一日、二日で上達するもんじゃねえぞ?それに、おめえの味音痴を治すのは不可能に近いぜ!。」
 そう言い掛けて乱馬は身構える。普段なら、ここら辺りであかねの怒りが炸裂する筈だからだ。が、一向にあかねは何も仕掛けて来ない。それどころか、
「大丈夫です!家庭料理なら何とかなるでしょう。」
などと、頼もしいみ言葉。
「はああ?」
 真横の乱馬がまず、気概を吐いた。何を言い出すんだと、言わんばかりだ。
「おめえなあ…。一度でも食えるような代物作ったことあんのかよ!夕べだって、散々苦労してあの体たらくだぜ?」
 昨日の悲惨な結果を思い起こしたのは、乱馬だけではあるまい。
「じゃあ、お昼ご飯と晩ご飯はあたしが作るわ。」
 明るくあかねが言い放つ。その言葉に、天道家の人々、それぞれが、固く白んだ。あまり感情を表に表さないかすみですら、ちらっと冷や汗を流していたのだから、相当なものだ。
「こら、乱馬、何てことをあかねくんに言わせるんだ!」
 横から玄馬が突っついた。
「そうよ、要らない事進言しちゃって。あかねったら、やる気満々じゃないの。」
 なびきもこそっと耳元で吐き出す。
「そうだよ、乱馬君。寝た子を起すこたあないだろうに…。」
 早雲までもが否定的だ。
「今月はただでさえ、家計のやりくりが大変なのに…。また余計な食費の出費が…。どうしましょう。」
 ちっとも困った感じでは無いが、かすみがポツンと言う。
「まあ、ここはあかねちゃんに好きにやらせてあげましょう。チャレンジ精神が大切よ。」
 一番尤もらしいことを述べたのは、のどか。

「皆。どうしたの?」
 急に、部屋の片隅でこそこそやりだした天道家の人々を眺めて、あかねがきょとんと見返した。よもや、己の腕が酷評をさらけだしているとは思っていない。

「あ、いや…ちょっとディスカッションをだね…。あっはっは。」
 早雲が誤魔化しに入る。
「いや、何をリクエストしようかなあ…なんちゃって、わっはっは。」
 玄馬も笑う。

「そうねえ…。お昼ごはんだから、親子丼でも作りましょうか。」
 と屈託ないあかね。

『は?』
 総勢はあかねの言葉に、ぎょっとして固まってしまった。



三、

 トントントントン。
 軽快な音が天道家の台所を響き渡る。
 あかねが、昼ご飯を準備し始めたのだ。

 その様子をおっかなびっくりしながら、我先に覗き込む天道家の面々。

「お、おい…。いつもと様子が違うぞ。天道君。」
「ああ…。まな板の欠片が飛ばないね…。」
「まあ、昨日までのあかねちゃんとは別人みたいだわ。」

 いつもなら、力任せで始まるあかねの包丁が、一糸乱れず規則的に音をたてながら、実にリズミカルに響き渡る。

「まあ、習うより慣れろって言うからな…。昨日、あれだけ台所にこもってたんだ。その成果が出始めたのかもしれないよ。」
「んな、訳ねえだろ!あかねだぜ。相手は…。」
 早雲の言葉に乱馬は否定的だ。
 これまで、何度、あかねの手料理に泣かされてきたことだろう。食べられる代物が出来上がること事態、奇跡に近い。
「でも、ほら、見る限りでは、普通の包丁さばきだよ。」
「問題は見てくれよりも味だよ。天道君…。」
 玄馬がこそっと耳打ちする。

 天道家の人々が、自分に好奇の目を手向けていることなど、一向にお構い無しに、あかねは我が道をまい進していた。
 涙目になることなく、たまねぎを素早く細切りにする。そして、鶏肉も器用に皮を下に、切り分ける。
 それから、手際よく、炊き上がったご飯を、お椀に乗せる。そこへ、行平鍋で一人分ずつ、野菜や肉を入れ、しょう油やみりんで素早く味付けし、溶き玉子をかけて仕上げる。
 凡そ、普段のあかねからは考えられない「手際良さ」で、親子丼は仕上げられていく。香立つ匂いも、いつものように不可思議ではなく、おいしそうだ。
 みるみる、天道家の人数分の親子丼が、出来上がった。

「冷めないうちにどうぞ。」
 にっこりと天使の微笑を返し、あかねが箸をすすめた。

「お…おい。これは、普通だよ。」
 玄馬が始めに声を上げた。
「本当、どう見ても、普通の親子丼だわ。」
 辛口のなびきも同調する。
「それも、一つだけじゃなくて、家族分、ちゃんと出来上がっとるぞ…。」
 ぼそぼそと、天道家の人々は、口々、思い思いにあかねの親子丼を評する。
「お、おいしい…。あかねの不器用がやっと、治ったのかね…。」
 早雲などは、始めて味わったかの如く、涙目になりながら、懸命に愛娘の作った親子丼を食べている。
「これなら、明日の勝負、何とかなるわ。あかねちゃん。」
 あかねの腕には半ば諦め模様だったかすみも、にっこりと微笑んだ。

「気に入らねえな…。」
 ただ、一人、乱馬だけが、むっつりと吐き出した。
「あら…。どうして?あかねが料理の腕をあげたのが、気に食わないの?」
 食事が終わって、あかねが食器を下げてしまった後、なびきがこそっと彼に声をかけた。
「だってよ…。あの不器用女が、一日やそこらで、改善されると思うのかよ!」
 と乱馬は吐き出す。
「確かに…。ちょっと、今日のあかねは変なところがあるわねえ…。」
 なびきも違和感に同調したのか、そんな感想を述べた。
「っていうか…。明らかに別人だぜ。あのあかねは。」
 乱馬は小難しく考え込む。
「第一、今朝、あいつ、道場には全然来なかったぜ。」
 と思い当たる節を一つ述べた。
「道場に来なかったって?」
 なびきが不思議そうに尋ね返す。
「ああ…。そうだ。いつもなら、休みの日でも、朝ご飯の前に、身体を動かしに来るのによう…。」
 そう言ったまま、深く考え込む。
「夕べ、遅くまで眠られなかったとか…そんなんじゃないの?」
「いや…。たとえそうだったとしても、朝ご飯の後にも、道場へは来なかったし、ロードワークに出る節も見られねえ…。天道流の跡取りとしての自覚が強いあいつが、稽古をサボるなんてこたあ、ねえぞ。」
「そうねえ…。あの子から武道を取ったら、何も残んないわよねえ…。」
「だから変なんだよ…。第一、朝、俺が相当言っても、突っかかってこなかったしよう。いつもなら、あれくらい好き放題言ってやったら、半殺しにしてやるって勢いで食らいついてくるのによ…。空振りだったぜ。」
「あら…。何のかんのと言っても、あかねのこと良く見てるわね。乱馬君。」
 なびきはニヤニヤしながら乱馬を見返した。
「そ、そんなんじゃねえけど…。」
 乱馬は、ハッとして口ごもる。あまりこの義姉に弱みは見せられない。そう思ったのだ。
「でもさあ…。確かに、ちょっといつもと違うわねえ…。」
「だろ?いくらあいつが頑張ったところで、一晩で料理の腕が上がると思うか?」
 乱馬はなびきに同調を促した。
「ええ…。」
「気に食わねえのは、いつものあかねと気の流れが違うんだよな…。」
 乱馬はポツンと吐き出した。
「はあ?」
 言わんとする意味が良く飲み込めず、なびきがきびすを返した。
「その…。上手い具合に表現できねえんだけど…。格闘家として、俺くらいのレベルになってくると、「気」で相手がわかるんだ。その…。例えば、なびきならなびきの気配が体から流れてくるから、姿が見えなくても近くに寄ってきたらわかるって言うか…。
 それが、今日のあかねは、いつものあかねと気が違うんだ。こう、いつもよりも柔らかいというか、鋭さがないというか、平坦というか…。」
 乱馬は胸の内に引っかかっている言葉を口にした。
「とにかく、あいつは、あかねじゃねえかもしれねえ。」
 そんな信じられないような言葉をなびきへ吐き出していた。
「あかねじゃない?まさか…。だって、いくら特殊メイクを使っても、あんなの上手にあかねに化けることは不可能よ。現実的じゃないわ。」
「でも、誰かが、呪泉郷の茜溺泉で溺れてすりかわることは可能だぜ?」
「誰があかねとすりかわるって言うのよ。第一、わざわざ、中国の奥地まで茜溺泉で溺れてあかねに成りすますだなんて、考える閑人が居ると思う?」
 なびきの言は理論的だった。
「料理が出来ないことに思い悩んだあいつが、誰かに代打を頼んだとか…。」
「あり得ないわね。第一、いくらあかねでも、茜溺泉を手に入れることは現実的に不可能に近いし、同じように、呪泉郷まで誰かを行かせるなんてことも費用がかかりすぎるわ。我が家にはそんな余裕はないし…。それに、あんたなら、良くわかってると思うけど、他の誰かに成り代わってもらうようなことを頼む、姑息な性格をしてないわよ。あの子はあの子なりに、いつも精一杯、頑張る性格だもの。
 あんただって、そういうあかねの一途なところにほの字なんでしょうが。」
 なびきの理路整然とした言葉に、乱馬は己の違和感を納めるしかなかった。
 確かにあかねは、そんな姑息な手段をとる性質はしていない。

「でも、確かに、あいつはあかねとは気が違うんだ…。何故だ?」
 乱馬はぐっと手を握り締めた。



四、

 乱馬の疑惑を他所に、あかねは、別世界を楽しんでいた。
 耳にする音楽も違う。映し出されるテレビ番組も違う。タレントの中には、別世界でも活躍している同じ顔が幾人か紛れ込んでいることが、また、新鮮で面白い。

「おい、あかね。」
 そんなあかねに、いきなり乱馬は声をかけた。
「な、なあに?」
 あかねはハッとして振り返る。
「おまえ…。今日は稽古しねえのか?」
 厳しい声を張り上げる。
「稽古って?」
 あかねはきょとんと乱馬を見返した。
「だから…。おまえ、いつも鍛えてんだろうが。鈍ってんなら、俺が相手してやるぜ。」
 乱馬はいつになく。厳しい視線であかねを見た。
 
 不味い! ここで彼と手合わせなどしたら…。

 あかねは内心焦った。
 この世界のあかねは、どうやら、武道修行を積んでいるらしい。しかし、己は、武道の嗜みは全くと言って良いほど無かった。
 天道家という武道家に生まれながら、道着に袖を通す事もなく、十八年を過ごしてきたのだ。

「あ、あたしは今日は良いわ。一人でやるわ。」
 と誤魔化しにかかる。
「そんな事じゃあ、天道流の跡取りとしての名が廃(すた)るぜ。」
 乱馬は、鋭い瞳であかねを見返してくる。
 彼の目は鷹だ。獲物を逃しはしないという、真剣味が溢れている。彼女の良く知る、乱馬とは又違った野性の輝きを秘めている。
「良いから来いっ!嫌だとは言わせねーぞ!道着に着替えて来い!すぐにだ!」

 乱馬はいつになく真剣だった。
 何が何でも、あかねの化けの皮を剥がそうとしているのが丸分かりの行動だった。
 武道家は武道によって、全てを判する。あかねに対して猜疑心があるなら、手合わせする事によってそれを確かめようという魂胆だったのだ。

 それに対して、あかねは困り果てていた。

 道着に袖を通した事がない彼女は、勿論、帯の締め方一つ知らない。蝶結びにするのかそれとも固結びなのか、それすらおぼつかない。
 あかねの部屋の道着を前に、どうしたものか、思案に暮れる。

(このままじゃ、この世界の乱馬さんに、あたしの正体がばれちゃうかも…。)
 いっそのこと、ここからも逃げ出そうかとも考えた。が、その時だった。

『今一歩が、おまえには踏み出せないんだな…。何においても…。』
 
 脳裏に、「元世界の乱馬」の声が響き渡った。彼が常々、あかねに対して吐き出す言葉だ。何度も聞いた言葉。
 それを言う時の乱馬は、決まって「憂い」を帯びた表情になる。

 今一歩が踏み出せない自分。
 確かにそうだ。
 乱馬の純粋な求愛にも、今一歩を踏み出せない己が居た。彼が己を愛してくれていることは、痛いほどにわかっている。だが、彼との関係を、一歩進めるだけの勇気も、己には無い。
 信じていないわけではないのに…。
 その「優柔不断さ」「曖昧さ」が、三人娘たちの禍を呼んだこともわかっている。
 今一歩が踏み出せない理由は、己の性格に起因していることも、わかっていた。
 それが嫌で、自分の世界から逃げ出したのではなかったのか。

『そうやって、この世界でも、逃げ出すつもりなのか?おまえは…。』
 彼の鋭い心の声が、耳元で響いて来るような気がした。いつものように、柔らかく笑ってはいるが、瞳は真っ直ぐ、射るように見据えてくる。
『そんなことなら、どの世界へ行っても、本当の強さは身につかないぞ!強さは何も力だけじゃない!まだ、わからないのか?おまえは…。』
 彼の声は、心の声と重なる。
『そのまま逃げたって、何も変わらない…。』

 あかねはぎゅうっと、拳を握り締めた。
 それから、道着を手にとった。
 別に、ヤケクソになった訳ではない。
 ただ、逃げ回るのはもう嫌だ。そう思っただけだ。

 道着へ袖を通すと、意を決して道場へと向かう。
 己の世界の天道家にも道場はある。
 父や乱馬が手合わせしているのも知っている。
 記憶を頼りに、ぎゅっと黒帯を締めると、道場へと足を踏み入れた。



 だが、しかし、予想に反して、そこには乱馬は居なかった。
 代わりに、一人の少女が中央に、組み坐していた。おさげ髪の少女。彼女もまた、同じように白い道着を羽織っている。
 乱馬の姿がないのに、少しだけホッとした。
 ここの弟子の誰かなのだろう。そう思った。

 あかねはどうするべきか迷ったが、そのまま道場の中央へと進み出る。
 そして、少女に声をかけた。

「あの…。乱馬さんは何処に?」

 その言葉を聞いた少女は、キッときつい瞳をあかねに向けた。
「おめえ…。誰だ?」
 透き通るような、きつい声だった。
「誰って…。あかねです。」
 戸惑いながら、あかねは彼女に対した。
「おめえ、あかねじゃねえ!」
 彼女はずいっとあかねの道着の胸倉をつかんだ。そして、更にきつい言葉を浴びせかける。
「あかねなら、俺が乱馬だってことを、知っている筈だからな。おめえ、誰だ!」
「あなたが…。乱馬?」
「ああ、そうだ。俺は乱馬だ。」
 あかねは、彼女が何を言い出した意味わからずに、大きな瞳を見開いていった。



つづく




一之瀬的戯言

 混乱させてしまうかもしれませんが、別世界の乱馬とあかねも「乱馬」と「あかね」として表記させていただきます。「別乱馬」、「別あかね」とか、「異次元乱馬」とか「異次元あかね」とか、いろいろ考えたのですが…。
 良い考えが浮かばず、そのまんま(苦笑
 なんちゅう、ややこしい作品書いてるんじゃ、己…。と自分で自分を突っ込みながら。
 まだまだ続きます。



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