◇ミラージュ  〜ふたりのあかねの物語〜


第二話 理想の乱馬(SIDE B)

一、

 朝の柔らかい光が、レースのカーテン越しに差し込んでくる。その向こう側では、小鳥たちがささやかな愛を歌い合っている。

「う…ん…。」
 ふと目覚めた。
 見覚えのある天井と壁。でも、家具や雰囲気が違う部屋に違和感を覚えた。そればかりか、いつも愛用しているパジャマではなく、ネグリジェ姿だ。
「そうだ…。あたし、「あの子」と入れ替わって、こっちへ来たんだっけ…。」
 あかねはゆっくりと起き上がりながら、辺りを見回した。
 改めて見る「あの子」の部屋は、整然と整理され、己の部屋よりも随分と乙女ちっくに見えた。ピンクや赤系の小物で軽く統一され、スタンドや時計などの小物も可愛らしい感じである。

 夕べ、己の部屋に乱入してきた不思議な猫。モリスという亜空間管理人だと名乗った。その時、一緒に連れて来たのがこの部屋の本来の主の「あの子」だった。
 突然、現れた己と同じ顔をした「あの子」。彼女は、己に「天道あかね」と名乗った。
 同じ顔、同じ背丈。いやそればかりか、ホクロの位置まで寸分違わない。まるで鏡を見ているような錯角さえ覚えた。
 が、性格は全く違っていたようだ。
 その辺りのことについては、次元を繋ぐ亜空間を移動する間、モリスが、いろいろと説明してくれた。
 モリスによれば、折り重なるように存在する次元のプレートには、それぞれ宇宙があり、あかねたちが住む地球と同じような星が存在するらしい。つまり、良く似たパラレル世界が数多(あまた)存在するのだという。
 各次元の世界は、住環境屋人間関係が若干変わっている分、同じ人間の素養を持っていても、さすがに性格まではピッタリ同じにはならないらしい。
 現に己の前に現れた「あの子」は、少し奥手で、控えめだった。己のような荒々しさは、微塵も感じられなかった。

『タイムリミットは四十八時間弱。この世界にどうしても馴染めなかったら、明後日の朝日が昇り切る前に、このリモートコントロールのリセットボタンを押してくださいね。そうすれば、あなたをお迎えに上がります。』
 モリスはそう言いながら、一つの小さな機械を出してきた。スイッチボタンを一つ、備えただけの小さな携帯器具。
『これは、契約解除装置のコントローラーです。もし、あなたがリタイアされれば、たちどころに元居た世界へ戻ることができるのです。これは、特殊な金属でできていて、あなた以外の人が押す事はできません。いえ、見ることも触る事もかなわないでしょう。」
「もし、ボタンを押さなかったらどうなるの?」
 当然の疑問をモリスにぶつけると、
『刻限が過ぎると、元の世界の記憶はすべてあなたの脳裏から消え去ります。そして、あなたはこの世界の天道あかねさんとなり、ここで人生を全うすることになります。』
 と答えが返ってきた。
「記憶がなくなる?」
『ええ。あなたの元の世界の記憶はきれいさっぱり、頭から消え去るんです。あなたの育んだ別世界の記憶はデリートされ、代わりに、この世界のあかねさんの記憶が脳へとコピーされます。』
 背中がひやっとなるような話を、さらっと言ってのける案内人モリス。
「じゃあ、もしボタンを押したら?」
『あなたは、時空に弾き飛ばされ、元居た世界へ。そして、もう一人のあかねさんがここへ戻って来られることになります。
 あくまでもご自分でお決めくださいね。ここへ残るか、それとも、元の世界で今までと同じように暮らすか。』
「なるほどねえ…。で、逆に、もう一人のあかねさんが私の世界を受け入れられなかったら?彼女もコントローラーのリセットを押すの?」
 しげしげとコントローラーを斜めにしたり横にしたりして、眺めながら、あかねが疑問点をぶつけていく。
『いいえ。彼女に選択権はありません。』
「どうして?あたしがこの世界を気に入ったら、彼女は嫌でも向こうの世界で暮らすことになるっていうの?」
 あかねは目を真ん丸くして尋ねた。
『ええ。彼女が望んで世界を交換なさろうとしたんですから。それくらいのリスクは負っていただく決まり事になっているんです。亜空間移動申請者の規則です。』
「結構、シビアなんだ…それって。」
『でも、まあ、そんなに難しく考えないで、気軽に違う世界の自分を楽しまれればよろしいですよ。やっぱり元の世界が良いと思ったら、リセットして戻れば良いだけの話です。簡単でしょ?何も複雑に考えなくても…。
 こんな機会には早々恵まれませんからねえ。せいぜい、楽しんでくださいよ。』
とモリスは穏やかに笑った。
 確かに彼の言うとおりだ。
 別世界の自分がどんな暮らしをしているのか、自分の知る家族たちはどんな感じになっているのか。好奇心がフツフツと湧き上がる。

(リセットボタンを押せば、元に戻れるんだから、まあ、いいか…。)

 軽い気持ちで、次元を越えることを承諾してしまったのだ。
 借りたコントローラーは首から提げて、胸に仕舞い込んだ。薄っぺらで小さな機械だったので、ペンダントをしている気分で特に気にもならない。




 そして、彼女と交代した。




 気が付くと、別世界の己の部屋で、眠っていたのである。
 きょろきょろと辺りを見回して、まずは観察。
 と、トントンと部屋のドアのノックの音。
「あかね。具合はどう?」
 姉のなびきであった。
 ひょいっと顔を出した姉もまた、同じ顔、同じ声をしていた。
「具合?」
 あかねが不思議そうにきびすを返すと、
「あんたさあ…。具合が悪いって夕べは早くに休んだじゃない…。まあ、その顔色なら元気満々みたいだけど。起き上がれるんなら、着替えて早くいらっしゃいよ。朝ご飯、お父さんたちも待ってるわよ。」
「あ、はい。」
 あかねは姉の言葉に従う事にした。郷に入りては郷に従え。
 あの子のタンスを開いてみると、あまり己が持って居ないタイプの可愛らしい洋服が詰まっていた。
「へえ…。あんまりボーイッシュな服は持ってないんだ…。可愛らしいスカートやブラウスばっかりだわ。」
 白いフラウスと花柄ピンクのフレアスカート。それを取り出すと、身に付けてみた。サイズはピッタリだ。体型は寸分違わず同じだということだ。
 それに着替えて、茶の間に下りると、なびきとかすみ、それから早雲が食卓を囲んでいる。この世界にも、残念ながら母親は存在していないようだ。
 食卓に並んでいるのは、かすみのお手製だろう。味噌汁にご飯、それから漬物と納豆といった和食。
「気分はどうかね?」
 父はあかねを見ると、問いかけてきた。
「ええ、大丈夫です。」
 あかねは適当に調子を合わせることにした。
「ホント、儀式に緊張してるのかしらねえ。急に具合が悪くなるだなんてさ。」
 なびきが笑った。
「儀式?」
 なびきの言葉に思わず、問い返していた。
「何行ってるの。祝言の前に必要な儀式よ、熱でも出て、ボケちゃったのかしらん?」
「祝言?」
 あかねはきょとんと見渡した。
「あんた、あたしをからかってるの?あんたの許婚の乱馬君との祝言よ。」
「乱馬とあたしの、祝言ですってっ?」
 思わず、大袈裟に反応してしまった。
 どうやら、こっちの世界でも、乱馬はちゃんと存在しているらしい。しかも、やはり「許婚」という間柄のようだ。
「そうだよ。待ちに待った祝言だよ。」
 早雲はにこにこ笑った。
「まあ、その前に「試練」を突破する必要があるけどね…。」
「試練…。」
 気になる言葉だった。
「あんた、明後日行われる儀式を前にして、緊張して、具合が悪くなったんじゃないの?熱なんか出しちゃってさ…。ホント、相変わらず、神経、か細いんだから。」
 
 神経がか細い。…生まれてこの方、そのようなことを人に言われた事はない。ましてや、なびきが己をそう評することなど有り得ない。
 同じ顔をしていても、この世界の天道あかねは、己とは正反対の性格をしているようだ。

「何、二人で手を取り合えば、どんな試練も乗り越えられるよ。その辺は、きっと、乱馬君がリードしてくれるから、心配は無い。ドンと構えていなさい。」
 早雲が言った。
「は、はい…。」
 あかねはそう返事するしかなかった。あまり、変な事をこれ以上訊いても、家族に訝しがられるだけで、得策では無いと思ったからだ。
(まあ、何とかなるわね…。)
 そう腹を括るしかなかった。
「そういえば、乱馬君が帰って来たんじゃなかったっけ?」
 ツンツンと突付くように、なびきが言った。

 帰って来た、ということは彼はこの家に住んでいるのだろうか。
 ハッとしてなびきを見返す。

「おお、そうだな。昨日、帰って来たと早乙女君から連絡があったよ。」
 ポンと早雲が手を打つ。
「じゃあ、今日はきっと、あかねちゃんに会いに来るわね。」
 にっこりとなびきが微笑む。
「そうよねえ…。儀式は明日だし…。万難を排して、あかねのところへ来るわね。」
 くすくすっとなびきが含み笑いを手向けてくる。

 会いに来るということは、天道家の居候身分ではないのかもしれない。
 乱馬やその父親の分の食事が用意されて居ないことは、それを物語る。いや、それ以上に気になるのは、この世界の乱馬は、どんな性格なのだろうか。

「ごめんくださーい。」

 そんな事を思っている間に、玄関先で元気な声が響いた。
 聞き覚えがある張りのある声。

「ほら、言ってる先に、来ちゃったわよ。乱馬君が。」
 となびきがポンとあかねの背中を叩いた。
「え…。あ…。」
 咄嗟に声が出なかった。
 心なしか、ドキドキしてくる。
「ほら、早く迎えに出てあげなさい。あかね。」
 早雲がニコニコ笑いながら促してくる。
「は、はい。」
 あかねは、急かされるように、席を立ちあがった。



二、

 あかねは茶の間から、廊下を通って玄関へと出た。
 玄関先の位置も、他の部屋の位置も、己の知る天道家と変わりはない。古めかしい昭和家屋そのままに、異世界の天道家は建っていた。
 それだけに、客人として乱馬を出迎えるのは、違和感がある。現世界での彼は、天道家の居候身分で、同じ屋根の下に暮らしていたが、どうやら、この世界ではそうではないらしい。
 だが、違和感よりも、この世界の乱馬に対する好奇心も強かったのもまた事実だ。
 己の良く知る乱馬は、粗忽で、威張りん坊で、その上、優柔不断ときている。
 この世界の乱馬は、その辺り、どうなのだろう。大いなる興味があった。
 だが、薄暗い廊下を抜け、玄関先に立つ彼を見つけたとき、好奇心は驚きに変わった。
 チャイナ服ではなく、薄いグレーのボタンシャツにネクタイ姿の彼がそこに佇んでいたからだ。いや、そればかりか、彼の髪には「おさげ」がなかったのである。髪の毛は長髪であったが、連髪に結われることはなく、ただ、長い後ろ髪は、一括りに束ねられて、背中に垂れていた。
 あかねの知る乱馬は、おさげ髪を結い、動きやすいチャイナスタイルで居た。チャイナ風の光沢のあるズボンが多く、靴下も履かない。チャイナ服でないときは、黒ランニングとズボンというラフなか道着だった。
 それが、ちょっと洒落た感じで決めている。しかも、はいているのは革靴。そして、グレーの靴下。
 見慣れない乱馬がそこに立っていたのである。

「やあ…。あかね。」
 彼はあかねを認めると、そう言いながらにっこりと微笑みかけてきた。
「あ…。い、いらっしゃい…。」
 思わず返答に詰まった。
 こうやって、玄関先で彼を出迎えることなど、今までなかったことなので戸惑いを隠せないでいた。

「もう…。あかねったら、久しぶりに乱馬君に会うものだから、緊張してるの?」
 後ろから、くすくすとなびきが覗き込んだ。
「そ、そんなんじゃないわよ…。」
 と、それに対する返答も心許ない。初めて対するかのように、緊張してしまっている。
 そんなあかねより、先に早雲が声をかけた。
「修行はどうだったね?」
「ええ、おかげさまで、それなりの成果はあったと思います。」
 そう言いながら笑う乱馬は、いつもより数倍、好青年に見えた。
「そりゃあ、良かった。明日の試練では、その成果を存分に見せてもらうよ。まあ、玄関先では何だ。ほら、あかね。見惚れてないで、お通ししなさい。」
「あ、は、はい…。」
 らしくなく、おたおたとしてしまった。どう彼に対して言葉を切り出したらよいかもわからないし、どう案内するべきかもわからない。
「ほら、スリッパ、お出しして。」
 かすみが見かねて、後ろから指図してきた。
「あ…。スリッパ…。どうぞ。」
 何においてもぎこちない。あたふたとスリッパを出したものだから、手元からポロリと玄関先へ落とす始末。
「ご、ごめんなさい。」
 思わず謝っていた。
「たく…。そういうところが可愛いな…。あかねは。」
 乱馬はこれまた「らしくない言葉」を、すいっと言った。
 今度は、カアアッと顔が熱くなる。乱馬の口から「可愛いな」という言葉を、直に聞くのは、初めてかもしれない。それだけで、ますます気が動転してしまう。悪循環だった。

 彼を伴って、客間へと通す。どうやら、客人として乱馬を出迎えている天道家だった。居候である彼女の世界とは、根本的に違うようだ。
「ほら、あかねちゃん、お茶のご用意。」
 かすみに促されて、台所へと赴く。
 勿論、そんな世話など焼いたことはない。すっかり舞い上がってしまったあかねは、それ以降も失敗の連続だった。
 お茶葉の容量がわからずに、急須へドサドサと入ってしまったり、湯を注ぐ時に、つい、こぼしてしまったり。
「あらあら、落ち着きなさいね。あかねちゃん。」
 と、かすみに笑われるほどだった。
 それでも何とか準備できて、お盆で客間の乱馬の前に持って行ったが、差し出すときに緊張しすぎて、これまた、ごろんと湯飲みをひっくり返す。
「あ…。」
 思わずこぼれたお茶湯に、また狼狽する。
 不器用なあかねが、ますます、不器用さを露呈させてしまうことになり、天道家の人々も思わず苦笑いした。
「ほら、ぼんやりしてないで、早く、ふきんを。」
「え、あ…。はい。」
 完全に己を失って、シドロモドロ。
 そんなあかねを、乱馬は微笑ながらじっと見ていた。
 おたおたしている間中も、すぐ傍で柔らかな視線を感じた程だ。
 己の世界の乱馬以上に、この乱馬は、「あかね」のことを大切に思ってくれている、そんな視線がひしひしと伝わってきた。

 やっと、落ち着いたとき、乱馬は、早雲に問われるままに、修行の成果などを話し出す。
 すっかり、重ねる失敗に気後れしたあかねは、客間のテーブルの隅で、じっと、早雲と乱馬の会話に耳を傾けていた。

「また一回り、格闘家として大きくなったようだね。」
「いえ、まだまだこれからですよ。」
「この天道道場も君のような跡取りができて、安泰だよ。して…。儀式の試練への準備も着々と進んでいるかね?」
「ええ。明日は、あかねと二人、頑張ります。」
「本来は形式ばかりの儀式だが、今回は、そうも言っていられないからねえ…。」
「わかってます。一筋縄じゃあいかないことは。でも、絶対にやり遂せます。あかね以外に僕の伴侶は考えられませんから。」

 そんな会話が続いていく。
 乱馬が、早雲に「僕」という言葉を使うのが印象的だった。居候同居している己の知る彼は、「僕」などという言葉は一切使わない。いつも「俺」で通している。
 そんな言葉の端々にも、違う乱馬を感じ取っていた。

 それはともかく、二人が折に触れて口にする「儀式の試練」とは具体的に何をするものなのか、あかねには皆目、つかめなかった。

「さてと…。私ばかりが乱馬君をずっと独占しておくわけにもいかないね…。せっかく来てくれたんだ。久しぶりに、あかねともゆっくり話したいだろうし。」
 ちらっと早雲はあかねを見やりながら言った。
「ここは若い許婚同士…。明日の打ち合わせもあるだろうからね。ゆっくりしていき給え。」
 そう言うと、天道家の人々はあかねと乱馬を残し、すっと客間から引いていった。あかねの世界の天道家と違って、お邪魔虫をする気もないらしい。なびきですら、留まらないで奥へと引き下がる。
 皆が居なくなると、乱馬と二人きり、部屋へ残された。

「あかね…。」
 柔らかな笑顔があかねを見た。その視線は、見覚えのある彼の数倍、熱っぽい。
 その視線の熱さに、ドキン、と心音が一つ唸った。
「いよいよ明日だな…。」
 と彼は言葉を区切った。
 明日。恐らく、先ほどから話題になっている「儀式」が執り行われるのだろう。だが、別世界から来たあかねには、その儀式の正体がわからない。
「ええ…。そうね。」
 と、曖昧な返事しか返せなかった。
「ねえ…。乱馬。その…。」
「あん?」
「儀式って、何?」
 語尾は消え入りそうになりながらも、勇気を振り絞って尋ねる。

『おまえなあ…。何言ってるんだよ!』
 と、普通の乱馬なら、思いっきり突っ込んできそうなものだが、この乱馬は違った。

「結婚前の通過儀礼だよ。忘れたか?」
 とあくまでも柔らかく言い返してくる。

 通過儀礼。その言葉にハッとした。
 そういえば、ここへ来る前に、「あの子」はその通過儀礼のことを示唆していたことを思い出したのだ。
『あたし、乱馬と祝言を控えて自分に、自信がなくなったの。』
 と彼女は、去り際、胸の内を告げていた。
『あたしたちの世界では、婚姻前に、通過儀礼があるの。
 古くから伝わる民族的慣習のようなもので、その婚儀に異議申し立てがなされたら、祝言を挙げる前にそのカップルは全霊を持って対処しなければならないの。それが通過儀礼。
 何も異議が無ければその通過儀礼は全くの形式だけで終わるんだけど、異議が出ると、そうも言っていられないの。
 今回、あたしと乱馬の祝言に、異議申し立てした人が居て、それに対して通過儀礼を受けなければならなくなったの。
 その儀礼を難なくやり遂せる自信が、無いの。こんなあたしが乱馬と結婚するなんて…。おこがましくて…。』
 何故、自信がないのか、詳細は話さなかったが、「通過儀礼」が、彼女の心に大きな影を落としていることは確かだった。

「それって、そんなに大切な儀礼なの?」
 とわざと弱々しく尋ねてみた。

「たく…。この前から、おまえは…。ずっとそんな調子で弱気なんだから。そんなことじゃあ、異議を申し立てたあいつらの妨害に気後れしてしまうぜ。」
 と乱馬は柔らかく笑った。
「妨害…。あいつら…。」
 ふとその言葉が気になった。
 乱馬との祝言を快く思って居ない者たちがこの世界にも居る。
「ああ。普通は単なる形骸的な儀式なんだが…。僕らの結婚を認めようとしない連中が寄って集って妨害を試みようと企ててるらしいからな。」
「妨害を企てている連中…。」
 あかねは乱馬に聞こえないほどの小さい声で反芻する。
「シャンプーや右京、小太刀たちさ。本当にしつこい連中だぜ。」
 と乱馬は素っ気無く言った。

(この世界にも、当然、シャンプーや右京、小太刀が居るって訳ね…。)
 あかねはその名前の羅列に、思わず頷いていた。
 乱馬と己の関係が、次元を越えても変わらないのなら、彼女たちが異議を申し立てたとしても、何ら不思議はない。

「あいつら、僕とおまえが祝言挙げるのを、何が何でも妨害したいらしい。」

 尤もだと思った。己の世界の三人娘もそうだ。乱馬が絡むと、何かとしつこく突っ込んでくる。現に、己の世界でも「祭の巫女」を巡って、騒々しい事になっているではないか。

「でも…。妨害なんてさせやしないさ。」
 返す瞳がぐいっと近づく。いや、それだけではない。乱馬の大きな手があかねの手を取り、握り締めた。
 思わずハッとして目を見張る。
 彼はそんなあかねの、小さな狼狽を楽しむかのように、ぐっとそのまま引き付けた。
「あっ…。」
 と思う間もなく、乱馬の頑強な腕に抱きとめられる。
「ちょ、ちょっと…。乱馬。」
 焦ったのはあかねだ。
 どう見ても、この態勢からだと、次に来るのは、キス。
「どうしたの?僕とじゃ嫌かい?」
 と、とんでもない答えが返って来る。だが、祝言を控えているというのだから、公認の仲。キスの一つや二つ、交わしても、不思議ではない。
 しかし、乱馬の腕の中に居るのは、この世界のあかねではない。戸惑いと、彼女への遠慮があかねには働いた。
 だが、乱馬はそんなことは知る由もない。このままで済ませてくれそうにはなかった。
「あかね…。」
 艶かしい瞳がすぐ近くで揺れる。彼の右手が、思わせぶりに頬にすっと添えられる。軽く耳たぶを触られた。
「あ…。」
 思わず、ぞくっと背中が唸った。
「ほら…。感じてる…。あかねはここが一番感じるんだろう?」
 くすっと悪魔の微笑み。
 思わずあかねは、思い切り乱馬を後ろ側へ突き飛ばしていた。

「あかね?」
 後ろ側に尻餅をついた乱馬は、不思議そうにあかねを見返した。反撃に出られるとは思っていなかったのかもしれない。

「ごめんなさい…。ちょっと、今はその…。明日のことで頭が一杯で…、余裕がなくって…。ごめんなさい。」
 あかねは狼狽しながら、懸命に言い訳をする。

「あはは…。たく。あかねは相変わらずウブなんだから。」
 途端、乱馬は大きく笑い始めた。からかわれたかのかと思うほどに、だ。
「乱馬?」
「いつも、キスしようとすると、こうやって直前で拒否するんだから。」
 と乱馬は笑った。
「今日こそは初唇をもらえると思ったんだがなあ…。今一歩がおめえには踏み出せないんだな…。がっかりだぜ…。」
 と呟いた。
 彼が気分を害しなかったことに、正直あかねはホッとした。彼に嫌われると、戻ったときに「あの子」に悪いと思ったからだ。
「ま、良いや。ファーストキッスはお預けでも…。でも…。」
 そう言いながら乱馬は、またあかねの頬へ、すっと手を伸ばした。そして、あかねの小さな顔を包み込むように手でなぞると、言った。
「儀式が終われば、晴れて祝言も挙げられる。
 明日、無事に終わったら、今までの分、相殺するくらい、いやそれ以上、おまえからたくさんキスを貰うから、覚悟しとけよ。」
 そう言いながら、もう片方の手で、あかねの鼻っ柱を人差し指で突っついた。

 どうやら、あかねの唇の貞操危機は回避されたようだ。
 いくら相手が乱馬でも、ここは別世界だ。この乱馬とキスすることは、本当の許婚である「あの子」にも、悪いと思ったのだ。
 ホッと、心の中で溜息を吐き出した。


三、

 それから乱馬は、夕食まで天道家であかねと過ごした。

 あれ以来、彼が迫ってくることは無かった。
 他愛のないお喋りに興じる。話の内容は、彼の修行の話が中心になった。彼に勘ぐられるのも不味かったので、あかねは極力自分の話はしないように、聞き手に徹していた。
 この世界のあかねは、元々大人しい性格なようで、特に不信感を抱かれる事なく、時は過ぎる。
 
 だが、夕食の手伝いを任された時点で、悲劇が生じた。

 この世界のあかねは、どうやら「料理」は得意だったらしく、かすみと共に、食事のまかないをするのを常としていたらしいのだ。

「あかねちゃん。そろそろお夕飯の支度ね…。今夜は乱馬君も食べていってもらいましょうね。」
 と愛想良くかすみが促す。
「あ…はい。」

「おっ!あかねの手料理、久しぶりに食えるのか…。ここのところ修行でろくな物、食べてなかったからな…。楽しみだよ。」
 と対する乱馬も屈託ない。

 この世界の家族たちの手前、料理ができないとは、言い出しにくい。どうしようかと迷う間もなく、あかねは台所へと立った。

「今夜はあかねの得意な肉じゃがが良いんじゃないかしら。」
 とかすみが笑った。この良く気がつく姉は、あかねに代わって、材料を既に調達していたようだ。馬鈴薯や肉、たまねぎや人参、糸こんにゃくといった肉じゃがご用達の材料がすでに流し台に並んで、調理されるのを待っていた。

(ええい、ままよ!)
 あかねは一大決意すると、夕飯の準備に取り掛かった。

 だが、所詮は付け焼刃。
 傍のかすみが放心するような包丁さばき。
 繊細さや丁寧さの微塵もなく、力ずくでまな板を叩くように材料を切り裂いていく。
「あかねちゃん…。どうしたの?」
 さすがのかすみも、目を丸くした。
 それでも、ぐっと我慢して、かすみはあかねの手つきを見守る。肉じゃがの野菜たちはぶつ切りが基本なので、そんなに丁寧に切らなくて良い。だから、あかねの力量でも何とかはなった。これも、昨夜、自分の世界でそれ相応、包丁を握っていた成果かもしれない。
「じゃあ、味をつけてもらおうかしら…。って、あかねちゃん、それは砂糖じゃなくてお塩よ!あらあら、それはおしょう油じゃなくってオイスターソースですよ!」
 場当たり的に、とんでもない調味料に手をかけていくあかねに、思わず、かすみが驚きの声を上げる。
「良いの!隠し味!」
 いつもの調子で、あかねは我が料理道を突き進む。

「あらあら…。ダメよ、こんなんじゃ、料理とは…。」

 出来上がったものは、凡そ、肉じゃがとは度し難い一物だった。薄茶色の肉じゃがが、どす黒さを増し、人参が毒々しい赤色に染まる。
 奇妙奇天烈。とても人が食べる代物とは言い難い。

 それを前に出された、早雲もなびきも乱馬も、ただただ目を見張るばかり。
 恐る恐る箸をつけると、「うっ!」と言ったまま固まってしまった。
 みょうちくりんな沈黙が天道家の茶の間を支配する。
 乱馬も早雲もなびきも、そのまま、ふうっと後ろに倒れそうになっていた。
 と、次の瞬間、それぞれ、猛烈な勢いで、かすみが気を利かせて用意していた水を、ぐびっと胃袋へと流し込む。皆、それぞれ涙目になっていた。

「ご、ごめんなさい…。美味しくなかったかしら?やっぱり…。」
 その様子を見ながら、隅っこで小さくなりながら、あかねが声をかける。

「あは、あはは…。あかねは昨日から体調を崩して寝ていたからねえ…。大方、熱で舌が変になっていたか何かなんだろう…。」
 水で遺物を胃袋に流し入れると、早雲が言った。あかねに代わって、乱馬に言い訳をしてくれているようだ。
 そうだ。一応、床に伏せっていたことになっている。
「そ、そうなの…。まだ、完全に体調が回復していなくって…。その、舌が変なのよ。ごめんなさいね。」
 あかねはそう言いながら、笑って誤魔化すしかなかった。

「あかね…。」
 乱馬は箸を置くと、顔を思い切りあかねに近づけた。
 すぐ目の前で乱馬の長いまつげが揺れる。あかねの時がしばし止まった。サワサワと柔らかな風が、茶の間のカーテン越しに流れ込んでくる。
 額と額をごっつんこさせて、熱を測ろうとでもいうのだろう。それにしても、随分ストレートな行動だった。早雲やなびきやかすみが居る前で、堂々とスキンシップ。

「大丈夫そうだな…。熱はないな…。」
 乱馬は離れ際、そんなことをポツンと言った。
「そう?今ので熱が出てんじゃないの?…ホント、お熱いんだから。」
 くすくすとなびきが笑った。
 目の前のあかねの顔は、カアアッと真っ赤に染め上がっている。乱馬の予想だにしなかったスキンシップ行動に、すっかりと舞い上がってしまったのだ。
 キスこそされなかったが、すぐ傍で乱馬の顔が揺れていた。動揺しないはずがない。
「明日は勝負の大切な夜だからな…。今夜はゆっくり休めよ。」
 と乱馬は笑った。
「う…。うん。」
 すっかり肝を抜かれたあかねは、言葉にならない声で、そう答えるしかなかった。

 この世界の乱馬は、己の理想としている彼に近い。
 常にあかねの傍に居て、優しく見守ってくれる存在。
 そんな、乱馬の居る世界から、何故「あの子」は逃げ出そうとしたのか。

 かすみが大急ぎで作った、ちゃんとした夕食を平らげると、乱馬は天道家を後に帰って行った。

 その後でも、心臓のドキドキは止まらないでいる。
 乱馬はキスこそしなかったが、柔らかなスキンシップを残して行った。決して嫌味にはならない程度の、それでいて極上のさじ加減。
 この世界の乱馬は、あかねをとても愛しく思っている。それはひしひしと伝わってくるのだ。
 それだけに、あの子ではない己に、何とも言い難い罪悪感が、心へと波紋を広げていくのがわかる。

(やっぱり、安易に入れ替わるべきではなかったのかもしれないわ…。)
 そう思いながら、あかねの異世界第一日目は暮れていった。



つづく




一之瀬的戯言
 現実界の乱馬は、繊細さの微塵もなく。
 それに比べ、あかねに対して、愛情をストレートに表現してくる乱馬に戸惑いを覚えるのも仕方がないことかも。
 でも、世界を超えても、あかねちゃんの料理の腕はそのままだったご様子で…。

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