◇ミラージュ  〜ふたりのあかねの物語〜


第一話 水先案内人現る (SIDE A)

一、

 風渡る木々の枝も輝きを増す、五月。まだ、半袖には早い季節だが、陽光には真夏の激しさを予感させるものがある。
 若い季節とは裏腹にとぼとぼと肩を落とし歩く人影が二つ。
 そのうちの一つから、はああっと溜息が思い切り零れ落ちた。
「あたしったら、何やってんだろう…。」
 薄いピンクーのブラウスに白いスカートの少女が、ふつっと言葉を落とした。何やら困ったことでもあるのか、足取りは重い。
「あかね。本当、あんたったら、勝気なんだから。もう…。」
 傍らから、もう一人の、Gパンばきの少女が、話しかける。
「だって、なびきお姉ちゃん。あんまり、勝手なことばかり言われたから、頭にきて、つい受けちゃったのよ。」
 少しムッとした表情を見上げて、勝気と言われた少女が見返した。
「勝手なことばかり言うのは、あの娘たちの常なんだから、もう少し「辛抱」してもよかったんじゃないの?
 まあ、あんたの性格から、我慢とか辛抱とかいう言葉を取っ払うことはできないんでしょうけど…。
 それに、もう勝負は受けちゃったんだから…。ここで引き下がるわけにもいかないしねえ…。」
 と、なびきがやれやれという表情を浮かべて、あかねを見た。

 勝負を受ける。そんな言葉が二人の上を駆け抜ける。

「格闘勝負でも大変なのに…。ましてやそれが、「女らしさ勝負」に言及するとはねえ…。」
 呆れたと言わんばかりの表情をなびきはあかねに返した。

 そうなのだ。
 さっき、些細な事から、三人娘たちと言い合いになった。
 要因は、いつもの如く「乱馬を巡る争い」に一端を発する。今度の日曜に行われる「近隣の鎮守様の夏祭り」に、誰が乱馬と一緒に御神事を受けるかだ。
 毎年、田植え時期になると、行われる「鎮守様の夏祭り」。その御神事の中に、若衆(わかしゅ)の中から代表の男女一組で、お松明を担ぐという御神事が執り行われるのである。
 男若衆の代表は、早々に早乙女乱馬に決まっていた。男若衆には峰松明(みねたいまつ)と呼ばれる大きなお松明を、坂の上の宮代まで担いでいかなければならないという荒行があるため、それ相応の力の持ち主でなくてはならないという理由から、今年年回りとなる格闘少年の彼が選ばれたようだ。
 乱馬ほどの壮士はそうそう居るものではないから、誰も異を唱える者はいなかった。
 御神事にはもう一人、男若衆の傍に寄り添う、先導の巫女と呼ばれる少女が選ばれる。
 それまでのこの地域の常識からは、男衆も女衆も、代表は「古い代からの氏子」の中から選出されていたので、ここは、地元に長く住んでいる天道家の娘「あかね」が選ばれることに、何の支障も無い筈であった。実際、最初は乱馬とあかねにこの話は持ち込まれたのである。
 だが、それを良しと思わない少女が、三名も名乗り出たのである。
 中国娘のシャンプー、お好み焼き少女の久遠寺右京、それからやはり古くからのこの土地の有力者、九能家の小太刀だ。彼女たちはいずれも、「早乙女乱馬の許婚」ということで、対立関係にあり、あかねとも利害が生じている。
 あかねが女衆代表の若巫女に選ばれたとなって、黙って見過ごすような彼女たちではない。
 当然、烈火の如く、若巫女は自分だと、各人、猛抗議を始める。いずれも大人しく、あかねを若巫女と認めるような娘たちではない。あらゆる手段を講じて、それぞれの正当性を主張に出た。
 たまらないのは、神社の神主さんだ。
 夜毎、破壊工作もどきの猛攻を受けるものだから、渋々、前言を覆し、改めて若巫女を選ぼうということになった。
 それで、あかねは呼び出されて神社に赴いていたというわけだ。

 神社では、三人娘とあかね、それからあかねに付き添って来たなびき、それから神主さんや世話役の人々と、相談した。
 その場も、勿論、三人娘の猛攻は続き、あっさりと決まる目処もたたない。
 乱馬も寄り合いには同席する予定であったが、余計ややこしくなって紛糾するかもしれないと恐れた神主に止められてカヤの外。まだあかねとの許婚の仲を、彼自身が公然と認めたわけでもないので、彼が居たところで、大っぴらにあかねを推薦することも有り得なかったろうから、加わっていようがいまいが、あまり大した問題ではなかろう。

「私がやる!」
 と一度物を言い出したら、テコでも引き下がらない勝気な少女たち。あかねも、ここまで言われると降りるとも言い出せなかった。場に流されるまま、押し黙って少女たちの言い分に耳を貸す。だが、だんだんに腹が立ってきた。

「これでは、いくら話しても埒が明かんなあ…。」
 神主さんも、いい加減痺れを切らしてきたようで、深い溜息を吐き出す。祭まであと数日。いい加減、若巫女を決めなければ、神事そのものの準備もできない。
「だったら、勝負するね。」
 シャンプーが口火を切った。
「勝負?」
「そうね。誰が乱馬と共に神事に出るのが相応しいか、勝負して決めるね。」
 一件合理的かつ平等に聴こえる提案だった。
「腕っ節やったら負けへんで!」
 右京が腕をまくった。
「おほほほ、わたくしも負けませんわよ!」
 場違いのレオタード姿の小太刀も相槌を打つ。
「別に、女はお松明を担ぐわけではないから、腕っ節はいりませんぞ。」
 それぞれ、変な闘争心に燃え始める少女たちを前に、流血騒動になっては大変と、神主が横槍を入れる。
「なら、女らしさを競うね。」
 シャンプーがそれを受けた。
「女らしさやて?」
「そうある。女の力量を比べて、競うある。そして、尤も相応しい者、一人、選ぶ。どうか?」
 たどたどしい日本語を並べながら、シャンプーは提案した。
「なかなか面白いアイデアですこと。でも…。」
 小太刀はちらっとあかねと右京を見比べる。
「女らしさとは程遠い方もおられるようですが…おほほほほ。」
 とこ憎たらしく笑う。
 その言葉に、カチンときたのは、あかねばかりではなかった。
「何やて?そこまで言うんやったら、受けたろうやないか!で?女らしさを競う種目はなんや?」
 と身をずいっと乗り出したのは、右京。
「女らしさの真骨頂、料理で競うね。」
 とシャンプーが言い切った。
「料理やて?」
 右京の目がキラリと光る。
「そうある。料理は女としての嗜みだから、女としての身のこなしを見るには最上ね。いかがか?」
 そんなシャンプーの言葉に、小太刀と右京がすぐさま反応した。
「よろしいですわ!私の華麗な料理の贅をお見せいたしますわ。」
「うちかて、お好み焼きのコテさばきは誰にも負けへんで!」
 それぞれ、勝算がると判断したのだろう。即座に了解する。
「あかねはどうするある?…料理の腕も、センスもなさそうあるが…。尻尾巻いて辞めとくか?」
 シャンプーは不敵な微笑みを浮かべながら声をかけた。あかねの不器用さを良く知った上での問い掛けだ。
「良いわ。受けてたつわ!」
 勝気な少女は、勢いからそんな返答を返していた。

「なら、決まりね。勝負は三日後。この神社の境内で。審査員は乱馬を含めた祭の実行役員の皆さん。異存はないあるな?」
 コクンと揺れる、少女たちの頭。

 こうして、「料理勝負」が催されることに決まってしまったのである。




 神社からの帰り道。あかねは、姉のなびきと肩を並べながら、どうしたものかと、思案に暮れていたのだ。
 というのも、彼女は名うての「不器用少女」。料理の腕は最悪。自他とも認める「味音痴」なのである。まともな料理が作れるはずがない。
 右京は女の細腕で、地元でも評判のお好み焼き店経営者。料理の腕にはプロとしての自信があるだろう。シャンプーも中華料理店の看板娘だから、然り。また、小太刀も料理も毒々しくも、それなりの腕は持ち合わせている。
 だが、それに比べて己は。味音痴に超不器用女ときている。豪華料理はともかく、基本の料理すら、簡単に作れるとは思えない。
 なびきが分析するように、明らかに、シャンプーに陥れられたようである。提案者の彼女は、第一候補であった、あかねを蹴落とす意図が見え見えの方法を、わざとぶつけてきたのだろう。乱馬はいざとなれば、あかねの肩を持つ。それは、シャンプーとて良くわかっていたからだ。
 他の審査員があかねの料理に感銘を受けるとは到底思えない。ここで水をあければ、乱馬がいくらあかねに肩入れしたとしても、結論はあかね排斥になる。そういう確実性を狙ったのだ。

「たく…。あんたを陥れる手としては常套手段じゃないのさ。こんな、見え透いた手に引っかかるんだから…。まだまだ青いわねえ…。」
 なびきはあかねを見ながら、言葉を吐き出した。
「ま、承諾しちゃったんだから、八方手を尽くして、頑張るしかないわねえ…。急に器用になるわけでもないんだろうけど…。」
 と気のない激励の言葉をかける。
「そうね…。一度、受けてしまっからには今更変えられないわ。」
 なびきにというよりは、己に言い聞かせるように、あかねは口に出す。
「あたし、家に帰って、練習するわ。精一杯にね」
 と。



二、

 その夜から、あかねの特訓は始まった。

「でええええっ!ヤタタタタタタッ!」
 ガラガラ、ガッシャン。
「とうっ!やあっ!たあっ!」
 ドシャン、ぴとぴと。

 尋常ではない音が、天道家の台所から響き渡ってくる。

「な、な、何だね?」
 その異音に、早雲が通りすがりに、のれんを明けてちらっと見る。と、エプロン姿の末娘が、一心不乱に流し台で格闘しているのが見えた。

「それ、違うわよ。おしょう油じゃなくて、ポン酢ですよ、あかねちゃん。あ、それは砂糖じゃなくて塩ですよ…。」
 横からかすみが、苦笑いしながら指南している。

「あかね…の料理か…。あはは…。また急に何で。」
「あの子ねえ…。ほら、夏祭りの巫女の座をかけて、三人娘たちと、料理で競うことになったのよ。」
 早雲は顔を引きつらせながら、一緒に覗き込むなびきに、事の仔細を聞いた。
「そりゃあ…。大変だ…。」
「本当、全く、何も考えないで、勝負を受けるんだから、あの子は…。」
「いや、あかねじゃなくて、我々の胃袋の話だよ…。」
 たじっとなりながら、父親の早雲は、あかねを見る。
「この期に及んで、娘のことよりも己の胃袋の心配してるのね、お父さんは。」
 なびきは呆れたと言わんばかりに父親を見返す。
「だって、ほら、作るってことは、誰かが食わなきゃならんのだろう?…その、あかねの創作料理をだ…。」
 ともっともな事を言う。
「それなら、ウチには居候がたくさん居るんだから…。あかねの料理はそっちに食べてもらえば…。」
 と、なびきは一緒に覗き込んだジャイアントパンダ玄馬を流し見た。
 ブルブルっと玄馬はパンダの頭のまま、首を横に振る。
「あはは…。誰だって、あかねの料理は、できれば関わらず、避けて通りたいものの一つだからねえ…。」
 早雲は、玄馬を庇うようにそれに答える。
『乱馬が食う!』
 玄馬は看板をすいっとなびきに差し出した。
「乱馬君には料理勝負の時に存分に食べてもらわないと、あの子が圧倒的に不利だから…。」
 と、なびきは取り合わない。その様子に、玄馬がその場から逃げようとしたのを、早雲はがっしと背中をつかんで呼び止めた。
「早乙女くうん。逃げようたってそうは行かないよ。」
 と力を込める。
『見逃してくれ、わしはまだ死にたくない!』
 玄馬は返す手で、看板をすいっと差し出した。
「それは私だって同じだよ…。」
「あら、おじ様。一応、タダでこの家に住まわせてあげてるんだから、こういうときくらい、協力してくれても良いんじゃなくって?」
 なびきは更に追い討ちをかける。
「そうだよ…。早乙女君。絶対に逃がさないからね。あかねの料理は君に全て平らげてもらうから…。」
「ぱふぉおおっ!」
 玄馬パンダの悲鳴ともとれる雄叫びが、台所の脇で響き渡った。


 案の定、その日の夕食は悲惨だった。
 事情が事情だからと、かすみはあかねに付っきりで、料理を教えていたため、殆どあかねが作ったものが食卓に並んでいたのだ。
 修行第一日目を終え、あかねも一緒に食卓に就く。

「な、何だ?この荒んだ食卓は…。」
 修行の汗を流して戻ってきた乱馬が、ずらりと並べられた皿を覗き込みながら、思わず、唸っていた。
 彼が指摘したように、いずれの食材も、元の形や色が分からなくなるほどに、茶色や黒褐色に変色していた。
「これ、何だ?」
 箸で遺物をつかみながら、目を見張る。
「それは里芋の煮っ転がしよ。」
 かすみが脇から解説する。
「里芋って…もっと白っぽいだろ。これはどう見たって、泥石だぜ…。」
 そう言ってる矢先、ポロッと箸からに崩れ落ちる里芋。
「評定はそのくらいにして、冷めないうちにいただこうか。」
 早雲が顔を引きつらせながら、言った。
「いただきまーす。」
 それぞれに、変色した皿を避け、添えられた、ご飯と味噌汁、それから箸休めの漬物にだけ、手を伸ばしていく。そのさまはまことに見事なものだった。
 楽しいはずの食卓の会話も、全く弾まない。皆、一様に、シンとしたまま、黙々と食べられるものだけを口へと放り込む。
 あかねはその様子を見ながら、顔を曇らせる。
「ほうら、早乙女君。こっちの皿の料理。うまそうじゃないか、どうだね?一つ。」
「わっはっは、天道君。生憎、ワシはあまり腹が減ってなくてのう…。うまそうだと思うなら、君が先に食べたまえ。」
 人間に戻った玄馬が、愛想笑いをしながら、きびすを返す。
「たく…。今日の食卓が歪んでるぜ…。あかね…。おめえは料理なんて作んなよ。」
 事の仔細が飲み込めない乱馬が、単刀直入に隣りに話しかける。
「おめえ、己の腕、確信してんだろ?…たく、皆に気を遣わせてさあ…。はた迷惑だからやめろよな。」
 
 バコン!

 言葉を言い終えないうちに、あかねの鉄槌が、乱馬に炸裂した。
「悪かったわね!はた迷惑な料理で!」
 ぶすぶすと食卓に顔を沈めながら、乱馬はそのまま、固まった。
「おめえなあっ!何なんだよ!いきなり、肘鉄食らわしやがってえっ!」
 ご飯粒を飛ばしながら、起き上がった乱馬が怒鳴り散らす。
「うるさいわねえっ!食べたくなかったら食べなくたって良いわよっ!誰もあんたに食べて貰おうなんて作ってないんだからっ!馬鹿あっ!もう良いわようっ!」
 ドンっと食卓へ手を叩きつけると、あかねはそのまま立ち上がった。そして、くるりと後ろを向くと、茶の間を離れて行ってしまった。

「たく…。もうちょっと、違う物の言い方があっても良いと思うんだけど…。乱馬君。」
 なびきが彼の脇から声をかけた。
「あかねちゃんは、御神事の巫女の座を巡って、料理勝負を挑まれたらしいのよ。その練習をしてたのよ。乱馬君。」
 穏やかな口調で、かすみが同調する。
「何だあ?その料理勝負ってえのは。巫女の役はあかねって決まってたんじゃねえのかよ。」
 仔細を知らない乱馬は思わず、声を荒げた。
「あんたさあ…。己の置かれた立場ってのを、未だに理解してないんだ。」
 なびきがちらっと横目を流した。
「あん?」
「だから、あかねが男若衆のあんたをサポートする巫女をやるって決まって、面白くないと思う面々が町内には多すぎるってね。第一、あの子達が黙って手をこまねいている筈ないじゃないの。」
「はあ?」
「だから…。感度悪いわねえ。最後まで言わないとわかんないの?
 あかねを巫女の座から引き摺り下ろすべく、シャンプーたちがあかねに料理勝負を挑んだのよ。見たとおり、あの子、料理の腕はからっきしで、その上、味音痴でしょう?だから、かすみお姉ちゃんに頼んで修行始めたってわけ。」
「そ、そんな話、訊いてねえぞ!」
 なびきの言葉に声を荒げた。
「あたりまえよ。今、はじめて話すんだから。」
「我が家はそんなに裕福じゃないし、家計に余裕はないのよ…。だから、作った料理が美味しかろうが不味かろうが、食べてもらわないと…ってことで、あかねちゃんが作ったものも並べてみたんだけど…。」
 かすみが、困ったという表情を浮かべながら、乱馬を見返した。
「やっぱ、あんたでも食べられないか…。」
「あ、当たり前だ…。あかねが作ったもんだぞ!犬ころの餌じゃねえっつーのっ!」
「あんたさあ、たいがいな物言いよねえ…それ。元はと言えば、あんたが、あかねとの仲をはっきりすっきりさせないから、こういう事態が起こってんでしょうがっ!自覚なさいっ!自覚を!」
 ビシッとなびきの人差し指が乱馬をさした。
「なっ!」
 その勢いに、思わず、たじっと後ろに下がる。
「あんたが、あかねをしっかりと許婚として認めようとしないから、あかねがこんな気苦労を背負うことになるんじゃないのよっ!」
 なびきの糾弾は続く。
「んな事、急に言われても…。」
 案の定、乱馬は、おたおたし始める。
「いい加減、許婚として腹くくったらどうなのよ。」
「ば、馬鹿…。お、俺は…。そんなこと、今更決意表明しなくても…。」
 何か物を言いかけて、ハッとした。家族たちの熱い視線が己に注がれているのを、発見したのだ。玄馬も早雲も、じっと食い入るように乱馬を眺めている。こんなところで暴言を吐くわけにはいかない。
「うるせーよっ!第一、あかねはてめえらが勝手に俺に押し付けた許婚じゃねえかっ!変な干渉、これ以上しねえでくれっ!」
 矢も盾もたまらず、そう吐きつけると、乱馬はその場から逃れるように、部屋を出て行った。

「あ、逃げた…。自分に分が悪いとなると、すぐにトンズラしよってからに…。誰に似たんだか…。」
「君じゃないのかね?早乙女君。」
 父親たちがそんな軽い会話を交わす。
「たく…。往生際が悪いったらありゃしない。」
 やれやれと、その後姿を見送りながら、なびきはふうっと溜息を一つ吐き出した。



三、

 三人娘の乱入で、すっかり、二人のテンションは狂い始めていた。
 特にあかね。

 今更、不器用だということは、身にしみてわかっているだけに、考え始めると、ずんずんと深みに落ちていく。

「もう!何でこんな思いしなきゃならないのようっ!」
 ドサッとベッドの上に身を投げた。
 今日の晩御飯のおかずは尽く失敗に終わった。乱馬や他の家族たちに指摘されるまでもなく、それは己が一番良くわかっていた。
 長姉のかすみは、『最初はそんなものよ。努力すれば何とかなるわよ。』と微笑んでくれたが、とてもそんなもので慰めになるとは思わなかった。それほどに己の腕は悲惨すぎた。
「はあ…。あたしがもっと器用ならなあ…。」
 こうやって居る間にも、勝負の刻限は近づいている。勝ち誇ったように蔑む、三人娘の顔が順繰りに頭に浮かんでは消えて行く。
「あーあ…。嫌だなあ…。逃げ出したいな…。こんな環境から。」
 どうにもならない現実から逃避したい。あかねらしくない、後ろ向きな考えが脳裏を過ぎった。

 と、その時だった。

『そいつは好都合です。天道あかねさん。』
 ふっと、ベッドとは反対側の壁側から、人の声がした。聞き覚えのない、高い張りのある男声だった。

「だ、誰っ?」
 武道家の反射反応。あかねは、さっと上半身を起し、いつでも飛びかかれるように、身を翻した。

『そんなに、身構えなくても良いですよ。僕は、人畜無害です。』
 壁がゆらゆらと蜃気楼を発するように揺れて、そいつはぬっと姿を現した。
「きゃ…。な、な、何なの?あんたは。」
 その姿を見て、思わずあかねは問いかけていた。
 幼児大もあろうかという、愛嬌のある生き物が、こっちをじっと見据えていた。
「ば、化け猫?」
 思わずそう声を発していた。
 真っ白の毛並みをしたそいつは、前に天道家に乱入した化け猫「魔猫鈴」と良く似た感じがしたのだ。大きさこそ、あの化け猫ほどはなかったが、良く似ていた。
『し、失敬な!僕はこの世界で言うような、化け猫みたいな下賎な生き物じゃありませんよ。それにモリスという名前だってあるんですから、あかねさん。』
 そいつは、そう言ってにっと笑った。
 確かに良く見ると、化け猫魔猫鈴よりは、愛嬌がある顔をしている。目も大きな黒目だし、良く見ると、右目にブチ模様があった。
「でも、猫は人間の言葉を喋らないわよ…。」
 あかねはまだ身構えたまま、じっとそいつを見返した。
『わからない人だなあ…。私はこの次元の生き物じゃありませんって。たまたまこの世界じゃあ「猫」とか言う種類の動物に酷似してしまっているようでありますが。』
 そう言ってにっと笑った。まるで、アリスのチシャ猫を思い起こしそうな笑いだった。

「あたし、夢でも見てるのかしら…。」
 思わず、頬ををパシンと平手打ちしてみたが、そいつは消えない。

『いやはや…。私はあなたが「この世界に見切りを付けたい。」と願われたから出て来たようなものなんですが…。』
「はあ?」
 モリスが言ってる意味がよくわからなくて、あかねは思わず素っ頓狂な声を上げた。
『だって、そら、さっき、心でお思いなされたでしょう?「嫌だなあ…。逃げたいなあ…。」とね。』
「え、あ、ま、まあね…。思ったことは確かだけど…。」
 あかねは目をくりくりさせて、猫を見入った。
『だから、こうやって異次元壁を乗り越えて、私がその願いをかなえにやって来た訳ですよ。』
「異次元壁?乗り越えた?」
『ええ、そういうこってす。』
「そういうこってすって言われてもねえ…。あたしには何が何だかさっぱりと…。」
 困惑は増すばかりだ。

『まあね…。普通は私のような亜空間管理人の姿を見ることはできませんからねえ…。お嬢さん、あなたは運が良い。』
「亜空間管理人ですって?」
 あかねは、再び目をぱちくりと見開いた。
『ええ。正確に言うと、次元と次元の狭間を行きかって、異次元世界からの出入を管理する橋渡し役とでもいいますか…。ま、異空間同士を繋ぐ裏空間の水先案内人ですな、簡単に言うと。』
「水先案内人?」
 ますます、あかねの頭はますます混沌とし始める。
『水先案内人といっても、いろいろありましてね…。実は、己の次元から訳あって抜け出てしまった「依頼人」とトレードできる人を探し回っていたのです。それが私の仕事でもありますからね。』
「はあ…?」
 チンプンカンプンに揺れるあかねに、猫は懇切丁寧に説明し始めた。
『あなた、超ひも理論ってのを御存知ですかね?』
「超ひも理論?」
『ええ、超ひも理論です。素粒子は十次元以上の次元が影響しあってできているっていう、理論を総称したものですが…。』
「知らないわよ。そんな難しい話。」
『だったら、あんまり専門的なことを話せませんな…。ようがしょ。簡単に噛み砕きましょう。』
 モリスはウウンと一つ、咳払いすると、あかねに話し始めた。
『この宇宙空間はねえ、幾重にも次元のプレートが重なり合ってできているんですよ。宇宙空間は一つじゃないんですな。いくつも同じような世界が重なり合って形勢されているんです。
 つまり、幾つもある宇宙空間の中には、今、あなたが生きているこの世界と同じような形態をした世界が、幾つも折り重なるように存在しているんですよ。この世界と同じ人が生きる別世界とでも申しましょうか。
 勿論それらは一つや二つじゃない。何十個、何百個の別パターンの世界が存在しているんですよ。
 で、そこでは、あなたと同じ顔をした人間がそれぞれ、同じような人間を包括しながら、それぞれの次元世界で暮らしているんですよ。』
「つまり、この世界に酷似したパラレル世界がいくつも存在するってこと?」
 わかったような、わからないような問い掛けを投げかける。
『ええそうです。ここと同じようでちょっとずつ違う世界がたくさんあって、各々、今、この時も、別世界のあなたがたくさんそれぞれの世界で生命活動をなさっているんです。
 その世界は決して重なる事はなく、見える術もないのですが…。
 それでも、中には我々、亜空間管理人が行き交う、異次元空間を繋ぐ亜空間通路に迷いこまれる方が居ましてねえ…。そのお方を無事にもとの世界へ案内して差上げるのが私の仕事でもあるんですが…。』
 モリスはそこで言葉を区切った。
 それから、息を一つ、大きく吐き出すと、言った。
『でね、他の次元世界の天道あかねさんが、私の管理する亜空間管轄区に迷い込んでしまわれましてね…。その扱いで少々困っておったところなんですわ。』
「困る?何で?」
『そのあかねさんは、己の世界へは戻りたくないと…。どうやら、自らその世界と決別なさるおつもりらしくて…。で、亜空間管理局の決まりに沿って、ならば、彼女となりかわって、彼女が元居た世界と、己の世界を交換しても良さそうな、天道あかねさんを求めて、次元を渡り歩いて物色しておったのです。
 いずれの天道あかねさんも、現況には満足してお暮らしになられており、なかなか、条件を満たすお方が見つからずに、苦労していましたところ、あなたさんの心の声が流れこんできたのでございますな。』
「は、はあ…。」
『端的に伺います。今現在、どこか遠くへ現実逃避したいというお気持ち、持っておられますな?』
 じろっと、モリスは猫顔をあかねに手向けた。
「え、ええ…。確かにそう思ったから、否定はしないけれど…。」
 困惑気味にあかねが答えた。
『おお!良かった。これは願ったりかなったりです!なあ、あんさんも、直に出てきて交渉しなされ。ほらっ。』
 そう言いながら、モリスは己が出て来た壁穴に向かって声をかけた。

「え?…」
 あかねはそのまま、壁を見詰めて、固まった。
 壁にあいた穴から、ひょっこりと一人の少女が覗いたからだ。
「あなたは…。」
 あかねは、ハッと驚いた。
 今、目の前の壁の穴から、己と同じ顔がこちらを恥ずかしそうに見詰めているではないか。鏡を見ているような気がした。
 大慌てでゴシゴシと目をこすってみたが、その少女は同じ動作をしなかった。明らかに動きが違う。目を凝らすと、服装だって違っていた。だから、鏡に映った幻影ではなさそうだ。

「こ、こんばんは…。」
 その少女は恥ずかしそうに、声をかけてきた。



つづく




一之瀬的戯言

 その昔、クリスマス小説で書こうと思っていた作品です。プロットを手直しして、新たに書き出してみました。
 ふたりのあかね。
 少し実験的な作品になるかと思いますが、お付き合いください。なお、全話八話で先頃書き上げました。


 「ひも理論」…超ひも理論とも呼ばれている物理学の学説です。私もまだ良くは飲み込めていないのですが、この理論を引っ張り出すと、かの「アインシュタイン」の相対性理論が持つ矛盾もすらすらと解き明かす事ができるそうで…。
 例えば、ビックバーンは次元プレート同士がぶつかった衝突だったという説など、新しい側面の学説が多々生まれているそうです。
 いや、どうでも良いんです、そのひも理論は(笑



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