◇心(MIND)
第八話 光と闇と、二人の明日


一、

「今更、思い出しても無駄ある。…乱馬は既に、私の虜。」
 シャンプーが勝ち誇った瞳をあかねへと手向ける。そのリアルな姿が、闇のに向こう側に浮かび上がった。
 シャンプーを抱く乱馬の瞳に生気は無かった。まるで抜け殻のように、そこへ立っていた。
 彼らの背後には、不気味な黒い霧。そいつは、一メートルほどの円となり、空へ浮かんでいた。その中にチロチロと赤い炎のようなものが蠢いているのが見え隠れする。

「ふふふ、もう手遅れある。」

「シャンプーあんたっ!」
 あかねはキビッとした、怒りの表情をそちらへ手向けた。身体は、黒い霧に捕えられたまま、動かせない。
 構えた剣だけは手放さないように、必死で握りしめる。その上から、霧はあかねを束縛しているため、上下左右、どこへも動かせない。
 
 

「好い眺めあるね…。」
 シャンプーは嘲りながら、あかねを見やった。

「あかね、おまえ、そこで、私と乱馬、結ばれるところ見届ける、よろし。一応、乱馬の許婚だった敬意を評して、誓いの儀式、見せてやるね。儀式終わるまで、生かしておいてやるある…。」
 
「何を…ふざけたことを…。」
 あかねは、シャンプーを睨みあげた。

「ふざけてなど、居ないある。乱馬の全て、私が貰うある。みずみずしい肉体も、弾けるような生気も…そして、子種も…。」
 そう言いながら、シャンプーは背後の黒い闇へと手を伸ばした。
 蠢く闇の中から、おどろおどろしげな髑髏を取り出してきた。首の辺りを掴んで天に翳す。
 と、髑髏の上あごと下あごの間、口の辺りが鈍く光っていた。
 それを確認すると、シャンプーは長い指を、その口中へとあてがう。ゆっくりと、口中をまさぐり、取り出だして来たもの。
 それは、掌に収まる、丸い黒い石であった。そいつをつかむと、シャンプーはニッと笑った。

「魔道王様…乱馬の肉体へ入れてあげるね…。」
 シャンプーはその石を、半開きの目のまま立ちつくしていた乱馬の額へとあてがい、張りつけるように押しやった。
 すると、乱馬の瞳に生気が戻り、ゆっくりと開かれていく。ギラギラとどす黒く冷たい輝きを持つ瞳。開き切ったところで、口元が、厭らしく笑った。
 と、乱馬の肉体が、一瞬、わなないたように見えた。
「おおお、これは素晴らしき、肉体。」
 乱馬の口が、そう象った。声は乱馬だが、明らかに別の人格が発した言葉だった。
「みずみずしき力が湧き出るような、若い青年の肉体だ。」
 くすっと乱馬が笑った。


「あんたたち、乱馬の身体に何をしたの?」
 あかねは激しく吐きつけた。


「乱馬の肉体に、魔道王様、憑依させたある。」

「な…何ですって?」
 あかねが声を荒らげた。
「魔道王を乱馬に憑依させて、どうする気よ!」

「我、この身体を用いて、シャンプーと交わりを持つ…。そして、この闇を通じて、あかね、おまえの生気を余すところなく、食らってやる…。」
 シャンプーの代わりに、乱馬に憑依した魔物が言った。

「あたしの生気を食らうですって?冗談じゃないわっ!」
 その言葉に反応した。

「ふふふ、冗談などではないぞ。ほうれっ!」
 乱馬はニッと笑うと、後ろに広がる闇へと、手を差し入れた。

「え?」
 その手は、あかねの胸元へと姿を現した。
 一瞬のことだった。
 手はあかねのおっぱいを鷲づかみにしたかと思うと、その指先から、一気にあかねの生気を吸い上げたのだ。
「やめてっ!」
 溜まらず、あかねが声を挙げた。そこから、身体中の気が一気に抜け出て行く感覚を覚えた。痛みはないが、ふうっと意識が遠のく。
 ほんの数秒の間に、かなりの生気を持っていかれたようだ。
「ち…力が…抜ける…わ…。」
 そう象ったあかねから、手はすっと引き離れ、見えなくなった。
 ガクリとあかねの頭が前に倒れた。もし、黒い霧に身体を支えられていなければ、そのままもんどりうって床に倒れ伏していたかもしれない。
 情けないが、黒い霧に支えられて、ようよう、立っていられるような状態だった。
 ハアハアと息が、荒くなる。顔も苦しげになった。



「ふふふ、好い気味ね。」
 あかねの様子を見て、シャンプーが小気味よく笑った。
「今ので、かなりの気を持っていかれたね。違うか?」

 あかねは黙ったまま、うつむいていた。
 確かに、相当な気が己の身体から、こそげ落ちたように思う。問いかけに答えるのも億劫だった。


「ふふふ、清純な乙女の気ほど、旨いものはないわい。」
 乱馬の顔がニッと笑った。あかねの気を吸い上げて、乱馬は満悦な表情を浮かべる。舌先をチロッと出して、舌舐めずりをする。
「このくらい吸い上げれば、充分だな…。儀式を行える力は手に入った…。」
 と、意味深な言葉を投げつける。
「ふふふ…魔王様、儀式を始めるある。」
「もとい、そのつもりだ、シャンプー。」





 …ダメ…意識が混濁し始めたわ…。悔しいけど、ここまで…なのかな…あたし…。ごめんね、乱馬…。折角あなたのことを思い出したのに…。
 
 シャンプーと乱馬の話声を、上の空で聞きながら、あかねはそんなことを思った。


 打ち砕かれた希望。そして下りて来る絶望。

 悔し涙なのか、ほろっとあかねの瞳から、数滴の涙がこぼれおちた。
 頬を伝い、涙は床へと滴り落ちた。


 ピチャン!

 涙一粒では、弾けるはずのない音が、耳元で聞こえた。

 ピチャン…。

 また一つ。

 ピチャン…(あかね…。)
 その水音と同時に、乱馬の声が脳裏に響いて来た。

「乱馬?」
 面をあげようとしたあかねを、乱馬は制した。
(しっ!心を泡だてるな!奴らに気付かれちまう。うつむいたまま、聞け!返事も声じゃなくて、心でしろ。)
 乱馬の声はあかねに語りかけた。
(わかった…。)
 あかねは目を閉じたまま、心で頷いた。

(まずは、礼を言わなきゃな…。おまえが俺を思い出してくれたおかげで、俺の心は肉体からすり抜けて、ここへ辿りつけた…。ありがとな…。)
(辿りつけたって?)
 当然の疑問を、あかねは乱馬へと問いかける。
(奴め…空間を越えて、おまえの生気を食らいに来たろう?その刹那に乗じて、俺は……俺の心は、身体から抜け出られたんだ…。)
(どういうこと?)
(つまり…今のおれは肉体と心が完全に分離しているんだ。シャンプーの傍に居るのは、心なき、ただの抜け殻だよ。)
 乱馬は独り言のように、あかねへとたたみかけた。
(抜け殻って…?)
(奴の後ろに、邪悪な気の塊(かたまり)があるだろう?)
(邪悪な気の塊?)
(顔は上げるなよ。奴らに悟られたらまずいからな。…ほら、うつむいて目をつぶったままでも、邪悪な渦の気配を感じねーか?。)

 乱馬の言葉に、あかねは頷いた。

(ええ…感じるわ。禍々しい嫌な気の塊が…ある。)
(あれが、魔道王の本体だ。)
(魔道王の本体?)
(ああ、そうだ。)
(魔道王って、乱馬の身体に憑依(ひょうい)したんじゃないの?)
(いや、俺の肉体はあいつの本体とすり替わった訳じゃねえ…。俺の心を意識の下へ押し込んで、身体を操ってやがる。)
(意識の下へ…って?)
(奴は、シャンプーが俺の額に埋めた魔石を通じて、俺の心を意識の下に沈めたんだ。そして、心が作用していねえ俺の身体を操ってやがるんだ。それに、…奴は俺の心が、おめーの記憶が戻ったことで、俺自身もまた、己を完全に取り戻したことに気付いちゃいねえ…。)
(どういうこと?)
(つまり、こちら側へ抜け出たことに気付いちゃいねー…。俺の心をあの抜け殻の中に沈めたと思ってやがる…。へっ、だから、こちらにも勝機がある…。)
 そう言いながら、乱馬はふっとほくそ笑んだように、あかねには感じられた。
(…奴め、俺の意識を沈め、シャンプーを手中に収めたって油断してやがる…。この期を逃す術はねえ…。そこでだ…おまえに頼みがある。)
(頼み?)
(ああ…。頼みだ。)
 乱馬は何かの決心をしたように、あかねへと声を巡らせた。
(良く聞け…。あかね。魔道王がシャンプーへ魔の手を伸ばした瞬間、おまえへの束縛がゆるくなる筈だ。束縛が緩むこと…即ち、こちらとあちらを分けている結界も緩む。…そして、その刹那、迷うことなく、俺の身体に気弾を浴びせかけろ。)
(気弾って…あたし、そんな激しい気はまだ、飛ばせないわ。)
(その点は大丈夫だ。俺が誘導してやる。)
 乱馬が笑った。
(誘導?どうやって?)
 あかねは問い質した。
(今、俺は肉体を離れて、あかね…おまえの中に居るんだ。)
(あたしの中に?)
(ああ…だから、俺が気を介添えしてやる。おめーは一人じゃねえ…。)
(あたしの中にあんたが…居る…。)
(そうだ…。俺はおめーの心の中に居る…。)
(心?)
(ああ…心だ。気を浴びせかけて奴が怯んだところを、おまえが握りしめている、その剣で、思いっきり、俺の身体ごと、後ろの奴の本体を貫け。)

 その言葉を聞いて、あかねの顔が険しくなった。

(そんなことしたら…あんたの身体は…。)
 あかねの危惧は当然だった。魔道王が操っている乱馬の肉体へ気弾を浴びせかける…それだけでも、かなりのダメージを与えかねない。その上、剣で身体を貫いてしまったら…。乱馬の肉体は無事ではいられまい。

(躊躇なんかしている余裕はねえ!この勝機を逃したら、人間界も崩壊しちまう。)
 あかねの危惧を押しのけるように、乱馬は強く吐き出した。

(人間界が崩壊ですって?)
 あかねは驚いて、問い返していた。
(おめー、何も感じてねーとか言わねーよな?)
(まさか…さっきから感じる、この嫌な感じって…。)
 あかねは乱馬に対した。
 この空間が闇に閉ざされた頃から、何となく感じていた気配。それが、だんだんに膨らんで来るのを、微かに感じていた。

(今、おめーが感じているのは…人間界から雪崩れ込んでくる生ある者の気だぜ…。)

 確かに、乱馬の言うとおり、少し前から、この闇の中に、無数の得体の知れない者たちの気を感じ始めていた。

(あの、魔道王、人間界と魔界の境界にドカ穴を開けやがったらしい…。そこから、人間たちがこの空間へ落ち始めているんだ。さっきから蠢いているのは、その気配だよ。)

(な…何ですって?)
 あかねの心が粟立った。
(こら、落ち着け!今、奴らに気取られたら、勝機を失う。)
 乱馬は慌てて、あかねを制しにかかる。

(それに…俺の身体なら…大丈夫だ。)
 と乱馬は妙に落ち着き払った声で言った。
(大丈夫なもんですか…。下手したら、あんたの肉体は、この剣の切っ先で滅ぶわ…。 
 それに……あんたを失ったら、あたし…生きていけない。また、あんたと離れ離れになるなんて…耐えられない。)
 か細い声で反論する。
(馬鹿っ!人間界が崩壊したら、戻る場所も無くなっちまうだろうが!しっかりしろっ!あかねっ!それでも、無差別格闘天道流の正統後継者か?)
 激しい叱咤の声が飛んだ。
(乱馬?)
 その激しさに、思わずあかねは、言葉を止めた。

(俺を信じろ!あかね!俺は、消えねー!この先もずっと、おめーの傍に居る!だから…一度しかねえ、この勝機を逃すなっ!)
 強い声があかねの脳裏へとこだまする。

(わかったわ…。あたし…。気弾を浴びせかけて、あんたの身体ごと、あの闇を貫くわ…。この光の剣で…。)

(そう、それで良いんだ…。信じて、渾身の力で、俺の身体ごと、あいつを打ち砕け!魔道王を!)
 それだけを言うと、乱馬はすっと、あかねの脳裏から気配を消した。と、同時に、さっき、根こそぎ、魔道王に持って行かれた気が、凄いスピードで回復していくのがわかった。

 あかねの身体の中を駆け巡る、懐かしい気…。それは、乱馬のもの。

(あたしと一緒に闘ってくれるのね…乱馬。)

 全ての迷いは、既にあかねから消えていた。




二、

 意を決すると、あかねは、ふううっと息を一つ、深く吐き出した。それから、ぎゅっと剣を握り直した。

 その切っ先の刺す方向には、シャンプーと乱馬が居る。

 心眼で感じながら、静かに、あかねは、闘気を煮えたぎらせ始めた。己の気と、己が中に居る乱馬の気。その二つの気は、あかねの心の中で、融合し始める。
 確かに、乱馬は、己の中に居る。
 温かく、それでいて、厳しい、青年の気。
 力を与えてくれる、強い気。それを肌身で感じていた。
 
 相手に感付かれないように、うなだれた振りをしながら、少しずつ剣の方へと、闘気をみなぎらせて行った。




「さあ、魔道王様。契約を果たすある。」
 シャンプーは、乱馬の肉体へ向かって、声をかけた。
「良いだろう…。」
 乱馬の肉体を借りた、魔道王がニヤリと、微笑んだ。
 と、その刹那だった。
 後ろ側の黒い霧が、待ってましたと言わんばかりに、脈動したかと思うと、シャンプーの身体へと巻きついた。

「魔道王様、何するあるかっ!」
 驚いたシャンプーが、声を巡らせた。が、霧に身体を束縛されて、動くことが叶わなかった。

「ふん…。この私が、おまえのような人間と、交わりを持つとでも思ったか?」
 乱馬の顔がシャンプーの前で揺れた。
「何言うか!乱馬と私の未来のため、契約結んだ!違うか?」
 シャンプーは、食い下がる。
「生憎だが…シャンプー、おまえは、私の一万人目の契約者。」
「一万人目…それがどうしたある?」
「一万人目の満願。その契約者は、私には特別な存在。」
 そう言うと、魔道王乱馬は後ろの霧の中から、丸い石を一つ、取り出してきた。
「これが何か、わかるだろう?シャンプー。」

 見覚えのある丸い玉。

「それは…石玉(いしだま)…。」
 シャンプーは即座に答えた。
 石玉…そこへ取り込まれた人間を、魔石へと変化させるアイテム。明倫という魔人が乱馬へ使い、彼を黒魔石へと変化させた玉だ。
 何故、今頃、そんな物騒な玉を、シャンプーへと提示して見せたのか。

「嫌ある!」
 シャンプーは必死で足掻いた。

「ふふ、何も言わないのに、わかったのかい?シャンプー…。」
 魔道王乱馬のおさげ髪が風もないのに、背中に浮き上がり、揺れ始めた。

「この中へ、私を閉じ込めるつもり…違うあるか?」
 シャンプーは睨みかえした。
「ご名答…。」
「何故、私を魔石に変えようとするあるか?」
 シャンプーは黒い霧を振り切ろうと、身をよじらせながら、魔道王乱馬を睨みあげた。
「それは…。あちらに居る、光の女王へ差し上げるためだよ…。我が婚約指輪としてね。」
 魔道王乱馬は、何時の間に建っていたのか、黒い煙のすぐ後ろ側にある美しい白い女性像へと目を転じた。

「光の女王…?」
 ギョッとして、シャンプーは、その像を見据えた。

「その女王と永遠の愛を誓うのだ…。この青年の身体を借りて。さすれば、光の国は我が闇に飲まれる。その女王の指の上で、おまえは、ずっと輝き続ければよい…。」
 ふふっとあざ笑う、魔道王乱馬。
 そして、石玉をシャンプーの目と鼻の先へと、巡らせて行く。

「おまえは、どんな色の魔石になるのだろうねえ…。薄ピンク…それとも、紫?」

「話が違うある!やめるあるっ!」
 シャンプーの顔が恐怖で歪んだ。
「そんな石ころになるために、契約を結んだ訳じゃないある!乱馬っ!」

「そんな、顔をしてもダメだよ。元々、この青年は、おまえなどに、寸分も心を寄せていなかった…。だから、一緒にはなれぬ…。諦めるんだな…。」
 そう言いながら、魔道王乱馬は、ゆっくりと、シャンプーの額へ、その玉を近づけて行った。



 その時だった。

 一瞬、あかねを縛りつけていた霧の力が、ふっと浮き上がるように弱くなった。

(今だっ!あかねっ!)

 その刹那を待っていたかのように、あかねの脳裏に、乱馬の声が響き渡った。

 同時に、あかねの持っていた剣の切っ先から、真っ直ぐ、魔道王乱馬へ向けて、気弾が強襲する。それは、一瞬の黄金の閃光だった。

「なっ!」
 急に飛んできた気弾を、避けること叶わず。真横から魔道王乱馬を後ろ側へと、吹き飛ばして行く。

「くっ!今更、悪足掻きを!」
 態勢を整えようと、立ち上がろうとした魔道王乱馬。

 その瞳に、無我夢中で、剣先を魔道王乱馬へ向け、突っ込んでくる影が写った。

「でやああああああっ!」

 切っ先を突き刺した途端、あかねは更に、ぐいっと力を込めた。

「ぐわああああっ!」
 魔道王乱馬の身体を貫き、そのまま切っ先は、後ろ側の黒い闇へと突き刺さる。

「貴様…。愛しき者の身体ごと、我を打ち砕くとは…。何故…そんな、ことが…できる…。
 そんなことをすれば…こやつの身体は…。」
 倒れザマ、魔道王乱馬は、己の腹下に飛び込んで来た、少女へと声をかけた。

「そんなの、構わないわっ!それが彼の…乱馬の…意志だから…。」
 あかねは、そう振り切るように言い放つと、更に、切っ先へと全体重を乗せて、押し込んだ。

「畜生…あと、少しだったのに…。」

 そう吐きつけると、魔道王乱馬の身体が、ズンと音をたてて、崩れ落ちるように地へと倒れ伏した。
 と、同時に、黒い闇は、光の剣で貫かれた。
 剣先が突き刺さる、黒い闇。

 グワアアアアアアア……

 捩じり出すような、怪音を挙げると、闇は剣に吸収されるように、消えて行く。
 そして、乱馬を突き刺した身体から、剣ははらりと抜けて、地面へと落ちた。

 カラン。

 無機質な音を発てて、剣は地面へと転がった。



「やった…あたし…やったわ…。乱馬…。」
 肩で息をしながら、あかねは心へと吐き出していた。
 だが、さっきまで、感じていた、乱馬の気配は、微塵も感じられなかった。
「乱馬…。」
 問いかけても、反応はない。それどころか、あかねの身体の中から、すっかり、気配も消えていた。
 

「あかねっ!乱馬、刺したあるか?」

 沈んだままのあかねへ、魔道王の束縛が解けたシャンプーが激しくにじり寄った。彼女たちの間に、乱馬の肢体が無言のまま転がっていた。胸を剣に貫かれ、致命傷を負っている。


「あかね、黙ってないで、答えるよろしっ!何故、乱馬刺したかっ!」
 完全に己を見失っているシャンプー。
 その瞳から、涙が溢れ出ていた。

「あたしだって…。好きでこんなこと、した訳じゃない…。乱馬…あんた、大丈夫だって、言ったじゃないのっ!大丈夫なら、どうして、黙ってるのよっ!」
 そう叫びながら、あかねは、乱馬の身体を抱きしめる。

「返事しなさいよっ!乱馬のバカーッ!」
 
 あかねの頬を、つううっと、一筋の涙が伝い落ちる。

 乱馬の居なくなった世界で、生きて行く…そんなことは、考えたくもなかった。


「あかね…覚悟するよろし。乱馬、手にかけたその剣で葬ってあげるね。」

「あたしは、逃げも隠れもしない…。あんたが、そうしたいなら、すれば良いわ。」
 あかねは、乱馬を抱きしめたまま、そう吐き出した。
 シャンプーは闇を貫いた、光の剣へと手を伸ばし、あかねの背中へと、切っ先を手向けた。ゆっくりと息を吐き、あかねの背中へと狙いを定める。
 目を閉じたまま、身体を貫かれる刹那を待ちわびたが、終ぞ、その時は訪れなかった。

(シャンプーも…泣いてる…。)
 背中越しに、あかねはシャンプーのすすり泣く声を聞いた。


「わかってたある…。乱馬、あかねを愛してること…。どんなに勝負を挑んでも、あかねに勝てないことも…。
 でも…。私、乱馬、欲しかった…。乱馬の身体、心、全て…。
 こうなってしまったのは、私のせいある…。『魔道黙示録』を手に取らなければ、こんな結末を迎える事は無かったあるっ!
 だから、この本の終幕は、私が引くねっ!」

 シャンプーは、光の剣を、地面へと突き刺した。自戒の念からか、それとも後悔の念からか…。恐らく、その両方の念からだろう。
 思い切り、剣の切っ先を地面へと突き立てた。そして、その切っ先を、思い切り、真一文字に、切り開く。

 トクン…。
 微かに、剣を突き刺したところから、脈動がこだましたように思えた。
 
 と、斬りこまれた地面から、眩いばかりの光が、射し込めて来た。その光は、あかねと乱馬を、瞬く間に包み込んだ。
 ふわりと浮きあがる、あかねと乱馬。


「あかね…。乱馬、目覚めさせる…。おまえなら、きっと…できるね…。」
 下から、シャンプーが微笑んでいた。

「ちょっと!シャンプー!あんた、どういうつもりよっ!」
 あかねは、思わず叫んでいた。

「私は、この世界に引導を渡すある…。女傑族の誇りに懸けて!」


 ゴオオッ!

 引き裂かれんばかりに風が、あかねの周りに吹きすさぶ。息も出来ぬくらいの猛風だった。
 乱馬の放つ、飛竜昇天破の如し、烈風。
 その中へと吸い込まれて行く。

 あかねの意識も、そのまま飛びかける。


 
三、


『あかねさん。』

 どこかで女性の声がした。

(誰…あたしを呼ぶのは…。)
 あかねは回らない頭の中で、その声の主へと声をかけていた。

『私です…。光明妃。』

「光明妃。」
 その名を聞いて思い出した。光の聖域を統べる女王だ。

『あなたのおかげで、魔道王は再び眠りへと就きます…。そして、私も…。もう、二度と目覚めることはないでしょう…。』
 光明妃は寂しげに笑った。

「二度と目覚めないって?どういうことです?」

『遥か昔、私と魔道王は愛し合っていた。…でも、様々な事情が二人を引き裂いて、彼は闇をまとい、私は光をまとい、この本の中へと封印されたの。魔道王は人間だった己を嫌悪し、魔物へと変化してしまったの。』

「魔道王って…人間だったんですか?」
 意外な言葉だった。

『魔物は人間の心の中に巣食っているものよ…。現にあなたをここへ誘い込んだシャンプーの心にも、巣食ってしまったわ。でも…彼女が人の心を取り戻した今は、もう、私たちの世界は存在を失うの。』

「じゃあ、本の中に居た人たちはどうなるんです?怜悧婆さんやリナさんたちは?」

『一旦、無へと帰します…。』

「無…?」

『つまり、本当の意味での死です…。でも、また、新しい始まりを迎えることができる…。新しい、命として、どこかの星で生まれ変わる…。
 彼女たちは、長い年月をこの世界で過ごし過ぎたせいで、その生命は既に尽きてしまっているの…だから、生き返れない…
 でも、あかね、あなたの生命は尽きていないわ。だから…元の世界へと戻れる。』
 にっこりと、光明妃はあかねへ微笑みかけた。

「でも…。あたしは生き返れても…乱馬は…。」

 そうだ。己の腕の中には、息絶えたままの乱馬が居た。冷たい身体には血が通っていない。息もしていない。氷のように冷たい身体だ。

『それなら、大丈夫よ…。あなたなら、彼を目覚めさせられるわ。』

「彼を目覚めさせられる?」

『彼はあなたの心の中で、眠っているだけ。』

「私の心の中?」

『ええ…。あの刹那、彼は己の全ての力を賭して、魔道王を滅したわ。寸分の力も惜しまずに、あなたを助けるために…。そして、気力を尽し、今は、あなたの心の中で、静かに眠っているの…。』

「でも、乱馬の気配は…。」

『本当に感じない?良く、心を研ぎ澄ませてごらんなさい…。』

 そう言われて、あかねは、じっと、眼を閉じた。深い深い心の中へと、巡らせるように、気を探る。

 己の心臓(ハート)の奥底で、小さな柔らかい気を感じた。

『彼は死んでいないわ…。さあ…、あなたの心から、その身体の中へ戻してあげなさい。』

「戻すって…どうやって?」

『ふふふ…。古来から、眠り姫の目を覚ますために用いる、咒法を使ってね…。そんなに悠長にしている時間はないわ。もう、既に、この世界の崩壊は始まっています。』

「あの…もしかして、眠り姫を深い眠りから覚ます咒法って…。」

『これ以上は私の口から言わせないで…。もっとも、彼の場合は眠り王子だけれどもね…。
 では…私は行きます…。もう一つ、迷っている魂を現世へ戻さなければならないから…。』
 そう言うと、光明妃の気配がすうっと消えた。

 後に残されたのは、白んだ空間とそこに二人きり残された、あかねと乱馬。

 ゆっくりとしている時間はない…。そう光明妃は言っていた。からと言って、すぐに、行為へ及べるほど、あかねも達観していなかった。

(どうしよう…。)
 正直迷った。ぐっと、乱馬を抱きしめる手に力が入った。
 血色のない乱馬の顔。血の気が全て失せている。
 本当に、己の力で乱馬を戻せるのか…。
 
 揺れていると、心臓の辺りがパクンと唸ったように思った。
 早くしろ…そんな声が、聞こえてくるような気がした。

 意を決すると、あかねは乱馬の身体を抱き起した。
 そして、そっと目を閉じる。
 冷たい唇へと触れる。

(乱馬…お願い!戻って来て!)
 そこからは、無我夢中だった。
 息を吹き込むように、唇から気を送り込んだ。意識を戻して欲しい…一心だった。
 だが、乱馬は動かない。息も吹き返さない。心臓の鼓動もしない。

 不安があかねの心の中に広がり始める。

(あたしの力不足なの?乱馬…。息を吹き返してよ…。)
 唇に触れたまま、必死で、息を吹きつける。
 いつの間にか、あかねの頬を涙が伝う。
(ねえ、返事しなさいよっ!乱馬のバカーッ!バカバカバカーッ!)



(たく…いい加減、口を離せよ…。じゃねーと、息もできねーだろが…。)
 いたずらな声が、脳裏へと響いて来た。

「乱馬?」
 慌てて、口を離すと、すっと、手が伸びて来た。

「バカバカ連呼すんなよ!…たく…。くちづけに込める言葉かあ?」
 そう言いながら、起き上って来る。
「だって、バカじゃない!あたし…あんたが、てっきり死んじゃったかって…思ってたんだから…。バカぁっ!」
 そう言いながら、うつむいた。気恥ずかしさと嬉しさが混じり合った顔を、乱馬に見られたくない…。咄嗟に、そう思ったからかもしれない。
「たく…おめーを一人残してくたばれるかっ!」
 差し出された逞しい腕に、思わず縋りつき泣き崩れる。勝ち気さの中に潜むか弱さ。
「乱馬のバカッ!」
 その言葉を飲みこむように、あかねを、ぐっと抱き寄せた。
「…相変わらず可愛くねえ言葉ばかり投げつけやがって…。」
 ふっと緩む口。浸み渡るように広がる愛(いと)しさ。
「バカはお互い様だ…。バカを好きになったおまえだって、バカだぜ…。俺よりバカかもな。いや…そんなおまえを愛してる俺は、もっとバカなのかも…。」

 彼女の口にする「乱馬のバカ!」という言葉の中に、どれほどの愛情が詰まっているか…それを一番知っているのは自分だ。
 バカという言葉と共に、あかねを腕に抱きしめる。


 この世で一番大切な己の半身。やっと、この胸に抱ける嬉しさ。
 言葉にし尽くせない「安堵」が、胸一杯に広がって行く。

「もう大丈夫だ…。」
 あかねに対してだけではなく、己にも言って聞かせた。
「本当に大丈夫なの…?シャンプーはどうなるの?」
 その胸の中で、あかねが問い質す。

「…シャンプーなら…。ほら…。あそこだよ…。」
 そう言いながら、乱馬は、視線を右の方向へと流した。
 あかねたちの方向から、遥か向こう側…。シャンプーの姿が光に包まれているのが見えた。身体を丸くして、猫のように眠っている。

「あいつ…この世界を崩壊させやがったみてーだぜ。光の剣で、ズタズタに空間を切り刻んで…。」
 乱馬の言葉に、あかねの顔が少し曇る。
「あんた…シャンプーのこと、見てたの?」
「たく…このヤキモチめっ!」
 ツンとデコを弾かれた。
「見るまでもねえよ…。感じただけだ。おめーの心の底で眠っていても、様々な感情や気の起伏は感じたさ。
 俺たちの身体を切り開いた空間へ投げた後、あいつは、空間を切り刻んだのさ。」
「どういうこと?」
「この世界はシャンプーが作ったようなもんだ。魔道書に名前を書き入れて、咒法を発動させたのは、他ならねえ、シャンプーだからな。
 この世界をぶっ壊せるのは、咒法をかけた彼女だけなんだよ…。だから、彼女だけが壊せるんだ。」
「じゃあ、シャンプーは…。」
「壊して回ったみたいだぜ…。魔王が復活しても、修復は不可能だろうぜ…。」
「これから、あたしたちは、どうなるの?」
「元の世界へ戻るんだよ…。」
「シャンプーは?」
「もちろん、彼女も一緒にな…。ほら、見な…。」
 乱馬に促されて視線を流すと、シャンプーの身体に、一筋の光が下りて来るのが見えた。

「あの光が、あいつの心を導いてくれるだろうよ…。」
「あの光は…光明妃が?」
「いや…。光明妃じゃねーよ。光明妃は巻き込まれた人間…つまり、俺たちしか導けねえ…。」
「じゃあ、あの光は一体…。」
「誰かが、シャンプーのために下ろした光さ…。」
「何で、そんなことがわかるの?」
「光明妃が言ってた…。シャンプーの帰りを必死で待ってる奴の祈りの力が、彼女を導いてくれるだろうってな…。」
「祈りの力?」
「ああ…。この世界の果てから、絶えず流れて来る真っ直ぐな光だよ…。俺もずっと感じてた…。俺にはシャンプーは癒せねえ…。でも、あの光を照らす奴なら…きっと、シャンプーを癒してくれるだろうさ…。喩え、何年かかろうともな…。」
「じゃあ、あの光を照らしているのは…。」
「ああ…多分…ムースだろうな…。詮索するまでもねーさ。」
 そこまで言うと、乱馬はふっと言葉を切った。

「さあ、俺たちも、帰ろう…。俺たちが在るべき世界へ…。二人一緒に、新しい明日を始めるために…。」

 天上から射し込めてくる、強い光に。二人は抱き合ったまま、その中へと飲みこまれた。
 互いに身をゆだね、肌の温もりと柔らかい息遣いを感じ合いながら…ゆっくりと、眼を閉じた。






エピローグ


「やあーっ!!」
「まだまだっ!」
「でやああっ!」
「もっと、丹田に力を込めろっ!」

 天道道場に、声が響き渡る。
 甲高い女の声と、それに応える青年の声。



「乱馬君もあかねちゃんも精が出るわねえ…。」
「ホント、揃って、格闘馬鹿なんだから…。」
 その声を聞きながら、庭の物干しざおに、洗濯ものをかけていく姉たち二人。
「仮祝言が、小太刀さんの乱入で延期になったのが残念ね…。」
 パンパンとシーツを叩きながら、かすみが言った。
「別に…仮祝言なんて、形だけのことだから、挙げようが挙げまいが…あの二人には関係ないんじゃないの?こだわってるのは、お父さんたちだけでしょう?」
 なびきが洗濯バサミをつまみあげながらそれに対する。

 どうやら、シャンプーと祝言を挙げそうになったことは、誰の記憶にも残っていないようだ。もちろん、二人が別世界へ弾き飛ばされていたことも、誰も知ることはなかった。乱馬とあかね以外には…。

「そうそう…さっき、小耳にはさんだんだけど…。」
「何かしら?なびきちゃん。」
「シャンプーが中国へ帰ったらしいわよ。」
「シャンプーちゃんが?」
 かすみが目を丸くして、なびきを見返した。
「ええ…。それから…コロン婆さんも、つい先週、店をたたんだらしいわよ。」
「あら…まあ…。大変。出前を頼む店が一つ、減っちゃったわ。」
 主婦らしい受け答えをしながらも、手は休めないで洗濯物を干し続けるかすみ。
「でも、散々、迷惑かけておいて、天道家(うち)に挨拶無しっていうのもねえ…。」
 なびきが、ぽそっと吐き出した。
「いろいろ、事情があるんじゃないかしら…。」
「やっぱ、乱馬君の態度の変化が、帰国する気にさせたちゃったのかもね…。ホント、ここのところ、あの子たち、変わったもの…。」
「そうね…喧嘩の仕方も変わってきたわね。」
 かすみが頷く。
「もしかして…なさぬ仲になった…とか。」
 意味深に笑うなびきに、かすみは否定的だった。
「それは無いと思うわよ…。奥手な二人ですもの。でも、それも時間の問題かもしれないわね…。」
「案外、来年のお正月には、家族がもう一人増えていたりして…。」
「ここから先は…神のみぞ知る世界よ…なびきちゃん。」

 かすみとなびきは、互いに顔を見合わせると、ふっと共に笑みをこぼした。

 道場からは相変わらず、若い二人の、気合いに満ち溢れた声が響いてくる。
 その古い大瓦屋根の上には、薄青の冬の空。どこまでも、すがすがしく晴れ渡っていた。








2003年作品から…改作改変
2012年1月5日完結


一之瀬的戯言
 書き出しは多分、2003年6月ごろ。
 途中で手が止まって十年近く放り出していた作品。
 乱馬とあかねの心の世界を書きたかったのですが…見事、玉砕し、中途半端なファンタジーになってしまいました。プロットを作らずに書きだしていたため、仕方がないですね…。さすがに十年近く放り投げていたので、どういう結末で書こうと思っていたのか、記憶が曖昧で…。
 ムースを前面に出して来たかったことは多分、確かで…。
 書きながら、記憶を取り戻せず、半ば、無理やり終わらせた感が…。

 実写ドラマ放映以後、テレビシリーズを第一話から丁寧に見返していますが、やっぱり、「シャンプーの赤い糸」は見ることができません。うーん…乱馬がシャンプーになびく話は、どうしても苦手です。同じ理由により、「反転宝珠」もダメで、原作も読めません。右京は比較的大丈夫なんだけれどなあ…。
 乱馬って、案外「いい加減な奴」なんだなあ…と…DVD反すうしながら、感じました。女にちゃらいとか、そういうのではないのですが、優柔不断なのは確かなようで…。
 長い間、乱あ世界から離れていたので、久々に、妄想が逆流している私。今度は、どの古い作品プロットを焼き直して書きだそうかなあ…。
 


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