◆心(MIND)
第七話 闇の台頭



一、


 あかねを誘うように差し込めてくる光。まるでこちらへ来いと誘っているような光。

 あかねは導かれるまま、何も考えずにそちらへむいて歩き始めていた。他に何もない。臭いも音も。ただ無限に広がる「闇」の中に閉ざされた世界。
 足元も見えない上、誘ってくる光以外は何もない。暗闇を歩くのがこんなに大変だとは思えないほど、おぼつかない足の動き。目を閉じればそのまま闇に飲まれてしまいそうな、そんな不安も生まれてくる。

 ただ、頼りになるのは、己を導くかのように照らし続ける一筋の光。
 いつ、消えるともわからぬ不安げな小さな光。
 この光が消え去ると、辺りは漆黒の闇に包まれるだろう。
 光りなき世界への恐怖感…。それは、人間の本能かもしれなかった。

 あかねは、無我夢中で、光の方向へと、進み始めた。一歩ずつ、ゆっくりと。
 そこへ辿り着ければ何かがあるのではないかという期待と、何もなかったらどうしようかという不安と。いや、それ以前に、光源まで辿りつけるかどうかさえ、わからなかった。
 不安と期待、恐怖と安堵が、交互にあかねの心の中で交錯する。
 

『光を信じろっ。』

 足元をすくわれて、転ぶたびに、おさげの青年の声が脳裏あかねを叱咤激励する力強い声。 
転んで激しく地面に体が衝突すると、強い痛みが身体中を走った。その度に、怯みそうになるが、それでも、あかねは必死で進む。

 深遠な闇の中では、すぐ側に見える光が、とてつもなく遠い場所に位置するように思えた。

『頑張れっ!おめーはそんな柔じゃなかった筈だ。根性だけは俺以上にあったろう?』
 リタイアしたいという気持ちに、揺さぶられる度に、青年の声がすぐ傍で響き渡る。

 何度すっ転び、這いずりあがったろうか。そこへ辿り着く頃には、汗で全身が濡れそぼっていた。

「これは…。」

 光はそこで途切れていた。いや、良く目を凝らすと、空間の破れから光が差し込めていると言った方が適切だったかもしれない。障子紙が破れているように、空間に僅かな隙間があった。
 あかねはそこへと手を伸ばしてみた。引きちぎろうと引っ張ったが、空間はびくとも動かない。
 何度か試してみたが、何の変化も現れない。
「素手じゃだめなのね。じゃあ。」
 あかねは腰元へと手をやった。己の胸元すら見えない闇。だが、確かにそれは腰にあった。怜悧婆さんから預かったあの「光の剣」だ。この世界へ吸い込まれたとはいえ、幸い腰元から抜け落ちることなく、持ち込めた。
 あかねは数歩後へ下がると、慎重に身構えた。間合いを取ったのである。
 剣を振り下ろすには、ある程度の間合いが必要だ。それは、長年の己の経験から、無意識に取った行為である。目がしっかりと見えていれば、間合いを取るのは容易いが、周りは何もない闇。己の呼吸以外には音すら吸収してしまうような真っ暗闇。

『心眼で捕らえろ。目に見える世界が全てじゃないぜっ!』

 脳裏でまた声がした。あのおさげの青年の声だ。

 心眼…。心の目。
 あかねは頭の中で今一度、青年の声を反芻(はんすう)する。

『そうだ…心を目にして、光差す方を全身で感じろ。』
 そう語りかけて来た声に反応するように、あかねは剣を中段に構えなおすと、すっと瞼を閉じた。
 心の瞳を開くために、目を閉じたのだった。既成の視界に惑わされてはダメだ。武道家の直感が、彼女を支配し始めていた。

(そうね、まずは、光を感じてみよう…。)
 その時のあかねにはそれが一番重要なことのような気がしたのだ。
 目を閉じると、全神経が構えた剣の切っ先へ向く。その先に焦点をあわせる。
 不思議と気負いはなかった。
 
『光を斬れっ!』 
 また声がした。

「光を斬る?」

『ああ、光だ。思い切り、剣を振り下ろせよ。じゃねーとおめーの馬鹿力でも切れねーぞ!』

「馬鹿力は余計よっ!」
 声の主に、少し怒ったような台詞を投げ返していた。

『ばーか、そのくらい、思い切れってことだよ。』
 青年の声は、ナビゲーターのように、様々な示唆を与えてくれた。

 あかねは息を一度全部吐き出した。丹田に力を込める前の前段階だ。それからまたゆっくりと息を吸う。吐き出しては吸う。それを何度か繰り返して、だんだんと己の気を一点へと集中させていく。

 確かにある。光の芯が。己の切っ先が向ける方向に。

「斬れるっ!」

 そう思ったとき、くわっと目を見開いて、一気に剣を振り下ろした。
 一刀両断。

 手当たりはあった。
 柔らかくもなく、硬くもない「何か」を斬った。確かに切り裂いた。

 そう思った途端だった。目の前に光が弾けた。眩いまでの満ち溢れたる光が。その眩しさに耐えかねて、あかねは剣を振り上げたまま、目を閉じた。


『あかね…。あなたはあかねさんね。』

 空間の向こう側から女性の声が響いてきた。
「はい…。」
 あかねは自信なさげにそれに応じた。ここへ来る前に確かに、己の名前は「あかね」だと確信したものの、それ以上の詳しいことはまだ思い出せずに居た。
『正直なのね、あなたって。』
 女性はそんなあかねに微笑むように温和な声を掛けた。
『ふふ、彼があなたのことを恋慕していたのが、わかるような気がするわ。』

「彼?」

『あなたの許婚よ。』

「あたしに許婚?」

『まだ思い出せないのね。まあ、それだけ、魔道王がかけた呪いが強固だということだけれど。』

「魔道王。」

 あかねにはわからないことだらけだった。己の素性はともかく、この世界が何処で、何なのか。まるで把握できていない。ただ、分かっているは、己がこの世界の狭間で彷徨っているということだけだ。

『ここは魔道王の世界と表裏一体(ひょうりいったい)の世界なの。』
 女性が柔らかく言い放った。
「表裏一体…。」
『そうよ。あなたは今まで「無限の闇」に身を沈めていたの。だから何も見えず、何も感じなかったでしょう?ただ暗闇だけの世界。』
 女性が言うように、確かに、空間を光の剣で切り開くまでは、真っ暗な闇の世界に居た。

『闇は光がなければ、できないの。光が輝いて初めて、闇も深くなる…。わかるかしら。』
 哲学めいたことを女声が言った。
「光があって、初めて闇がある…。」
『そうよ。目が眩むほどの眩しい光の側には、必ず深い闇がある。また、闇なくしては光も輝き渡れない。』
「つまり、ここは「光の世界」っていうこと?」
 あかねは女性へ尋ねた。
『そうよ…。ここは、あなたたちが導かれた本の中に眠る「光の聖域」。魔道王が力を蓄える時に生じる光の集まる場所なの。闇が生まれるとき、光も生まれる…。そして、私は、この光の聖域を守る光明妃(こうみょうひ)。』
「光明妃…。」
『闇を統(す)べる者が魔道王なら、光を統べるのはこの私。』
「どうして、あなたはこんなところに。」
 あかねは率直に尋ねていた。
『力をつけた魔道王によってここへ封じ込まてしまったの。彼の闇のせいでね。』
「何故、魔道王はあなたをここへ幽閉してしまったの?」
『簡単なことよ。彼は「生きとし生けるものの世界」を「闇の世界」に吸収しようとしているわ。』

「生きとし生けるものの世界?」

『あなたが本来居るべき世界、人間界よ。』
 光明妃があかねに説明してくれた。
 魔道王は闇の勢力を伸ばすために、人間界を欲しているのだと言う。人間の心に巣食う「闇」の部分を喰らいながら、遂には神界にまで登りつめ、闇の広がる世界を作ろうと虎視眈々と狙っているのだと。

『彼がこの本の世界を出るためには、光は邪魔なの。だから、私をここへ押し込めて、幽閉した。』

「じゃあ、ここを出ればいいじゃないの。」

『私はここを離れるわけにはいかないわ。』

「どうして?」

『私には私の役目があるから…。だから、あなたたちをここへ呼んだの。』

「あなたたち?」

『そう、今この世界で唯一、魔道王に対峙できるあなたたちをね…。』

 ここへ導かれたのは偶然ではなかったのかと、あかねは何となく思った。
 「あなたたち」ということは「複数」だ。己の他に、魔道王を倒す力を持つものが居るのか。そう問おうとしてとき、先に光明妃は言った。
『もう一人はあなたがここへ来るまで、ここに居た青年よ。』

「どうして、あたしとあの人が、魔道王に対峙できる人間なんです?」

『それは、あなたたちが二人で一つの大きな存在だからよ。』

「二人で一つ?」

『光と闇が存在するように、あなたたち人間には「女」と「男」その二種類が居るわ。』
「ええ、まあ…。」
『次へ子孫を残していくために、生きとし生ける者は深く交わる。それもわかるわよね。』
「ええ…。その、詳しいことはまだ知らないけど…。」
 真っ赤に顔を熟れさせてあかねが答えた。
『唯一感情があると言われている二足歩行のあなたたち人間は、特に生き物としての交わりだけでなく、精神的な交わりも相手に求める…。そうでしょう?いくら子孫を残すためと言っても、意にそぐわない相手とは結ばれたくはないものね…。他の生物は、遺伝子的にその相手が優秀かどうかを第一条件に相手を見極めようとするけれど…。まあ、大方の人間は、見極めの中に「己の愛情をかけられるかどうか」それを交わるための第一条件に考えているわ。男と女は互いにない部分を掛け合わせることで交わり、そして子孫を残すもの。あなたの半身。それはすなわち…。』
「あたしの愛情を全てかけられる、男性(ひと)…ってこと…。」
『そうよ。』
 光は柔らかくあかねを包んだ。
『そして、それはあなただけではなく…彼もその愛情全てをあなたにかけられるわ…。』

「私の愛情を全てかけられる男性…。」

 あかねは反芻しながら目を閉じた。浮かび上がってくる、あの、おさげの青年。
 いつも共にあると言って見詰めた真摯な瞳が脳裏に浮き上がってくる。

 そうか、そういうことだったのかと、やっとここへ来て彼の存在が何なのかがわかりかけてきたように思った。

『ここは回帰の場所でもあるの。記憶を失ったあなたのような人たちのね…。』
 女声はあかねに語りかける。
「回帰の場所。」
『そう、失くした自分を取り戻す場所。でも、私は全てをあなたに与えることはできない。自分で探さなければならないの…。あなたに穿たれた心の闇は思ったよりも深いのね。…彼はここへ来た時には全て思い出していた。自分のこともあなたのことも、全てね。』
 あかねは少し複雑な表情を見せた。彼は思い出せたという言葉に、反応したのだ。
 半身の彼が思い出せたのに、何故に自分は思い出せないのか。正直、少し焦った。

『そんな顔はしないでいいわ。仕方がないことだから。』
 あかねの姿が彼女には見えるのだろう。
『あなたが思い出せないのは、彼よりも穿たれた闇が大きすぎるせい。全てを忘れ、暗がりの中に起き去るために、あの娘はあなたに最大級の呪いをかけた。…だから、あなたがなかなか思い出せないのも当然のことなの。決してあなたの愛情が彼のそれに劣っていると言うわけじゃない。』

「あの娘…あたしに呪いをかけた人…。」
 
 あかねははっとして空を見上げた。さっき、この世界に来る前に、敵愾心を燃やすように己を見ていたあの娘の瞳を思い出したのだ。

「あ…。あの人。あたしをこの世界へ飛ばしたのは、あの髪の長い娘…。」
 あかねはシャンプーの顔を思い出していた。
 ここへ飛ばされる前、勝ち誇ったようにあかねに対峙した若い娘。一瞬彼女が己に手向けた憎悪に満ちた顔。

『きっかけを思い出せたようね…。そう、あの娘が今回の禍の核心(コア)に居る。魔道王はその邪な想いを利用して「生きとし生けるものの世界」へ降臨しようとしているわ。だから…。』

「あたしは、思い出さなければならないのね。全てのことを。」

『そう、生きとし生けるものの人間界の浮沈は全てあなたの記憶にかかっているわ。このままでは、人間界が危ない…。』

 光明妃の声にはっとして、あかねは周りを見た。
 と、白んでいた周りがだんだんと薄暗くなり始めていることに気がついた。見据えた方向は、心なしか赤い。夕焼け色をしている。

『沈む太陽を再び、東雲(しののめ)から昇らせるためには、あなたの力が要るの。己を信じて立ち向かいなさい。あなたを縛る闇に…。』

 光明妃の声は消え入るように小さくなり、どこかへ吸い込まれて聞こえなくなった。
 あかねはまた一人、漠然とした空間へと取り残される。





二、

「思い出せって言われても…。」

 あかねは困惑していた。世界の浮沈がかかっていると光明妃は言った。それに、思い出すと言っても、具体的にどうすればいいのかすらわからない。
 すっかりと途方に暮れてしまった。

「せめて、彼の名前だけでも思い出せたら…。」
 目に浮かぶのはおさげ髪の青年。
『答えは自分で出せ。あかね…。おまえならきっと見つけられる。自分を信じていれば。』
 記憶の中の彼は厳しい瞳であかねを見返してくる。
「自分で答えを出せって言われても…。学校の勉強じゃないんだから…。」
 ふと口にした。
「学校…?」
 はっとした。
「学校…。何だっけそれって…。」
 風林館高校のことすら記憶にない。だが、あかねの心の底に、再び何か記憶の火が灯った。
「あたし…。いつも学校へ通ってた。あいつと一緒に…。」
 ふとあかねは空を見あげた。

『俺の心は、いつだっておまえの側に在る。これまでも、これから先もずっと…。』
 また脳裏で反芻するおさげ髪の青年の声。

「そう、あいつはいつも私の側に居たわ。そして、あたしのことを見ていた。学校へ通う道すがらも、少し高いところからあたしを見下ろして…笑ってた。」
 背よりも高い目線。振り返ると彼はいつもそこを歩きながら己を見ていた。川沿いのフェンスの上を。からかい口調で悪態を垂れる彼。それに向かってアカンベエをする自分。
 脳裏に少しずつ風景が甦る。暮れかかる夕暮れの道が…。
 見慣れた風景のありぶれた日常。そこに鳴る自転車の呼び鈴。

『私とデートする、よろしっ!』

 表れた少女は、そう言って彼に容赦なく飛び掛る。彼はあたふたと言い訳しながら、助け舟を出せと言わんばかりに自分を見つめる。
 それをむっとして見送る自分。
「勝手にすればっ!」
 と声を吐き出す。
『かわくねーっ!!』
 彼が叫ぶ。もちろん、あかねに対してだ。
 どこから群がって来たのか、三人の個性的な格好をした娘たちがこれ見よがしに、彼へと近づき、争いを始める。彼女たちから逃げるように、彼はいずこかへと掛けて行く。
 遠ざかる彼の姿に、見送る自分はいつも複雑な視線を投げかける。大きな溜め息を吐き出しながら。

 少しずつだったが、己と彼との関係が見えてきた。
 
「あたし…。ヤキモチばっかり焼いていた。それも、可愛くない…ヤキモチ。」

 もう少しだ。もう少しで、全てを思い出せる。
 

 そう思った時だった。
 赤く暮れなずんでいた空に、激しい鐘の音色が響き渡った。




「おばばっ!今の音。」
 祈っていたムースが思わずコロンの顔を見詰めた。
 コロンは難しい顔をして言った。
「この本の中から響き渡っておる!」

 手にしていた「魔道黙示録」。震えながらその本を見開く。
 珊璞と乱馬とあかねの名前が書き連ねられている箇所。そこをめくると、字は鮮やかに朱色に染まっていた。滲み出すというより、浮かび上がると表現した方がいいだろう。
 それだけではない。魔道書の白んだ頁に、文字がすうっと浮かび上がってきたのだ。漢字でもない、平仮名でもカタカナでもない。ましてや英語でもない、不可解な記号の羅列。

「こ、この字は…。」
 わなわなとコロンの手が震えた。
「読めるだか?」
 ムースが真剣にコロンを見返した。
 首を横に振りながらコロンは答える。
「いや…。残念ながら、ワシには読めぬ。…じゃが、これは「魔文字」じゃ。魔の世界の人間が術をかけるときに書き記すという呪われた文字…。」
「何でそれが、この本に自然に現れたんじゃ?おばばっ!」

「何かが始まろうとしておるのじゃ。ワシらの力ではどうにもならぬな…。それが証拠に見よ。」
 コロンがムースを促すと、窓の外に、真っ赤な血の色の月が東の空に浮かんでいるのがくっきりと見えた。
 潰えた太陽は、あれから現れず、星すら輝かないというのに、月だけはまん丸にこちらを見据えてぽっかりと浮かんでいる。
 街行く人々は、パニックになるどころか、不気味なほど静かだった。
 諦めてしまったのか、それとも暗黒に意識ごと飲み込まれてしまったのか。
 何事もないように、道を行きかいそして、変わらぬ日常生活を営んでいる。

「おばば…。変なのはオラたちだけなのじゃろうか…。」
 ムースは不安げにコロンに言った。
「わからぬ。或いは、他の者たちには太陽が消えたことも、赤い月が昇っていることも見えておらぬのかもしれぬ。」
 コロンは考え込んだ。確かにムースと己には、この「怪奇現象」が見えているというのに、道行く人々は何事もないように立ち居振舞っている。誰も騒ごうとしないし、いつもと変わりなく平然とし続けている。
「何故、オラたちだけがわかるんじゃ?」
 ムースはおばばを見返した。
「ううむ…。それもわからぬ…。じゃが、ムースよ、他の人々には見えぬで良いのかも知れぬぞ。考えても見ろ。もし、誰彼にもこの現象が見えておったら、今頃、世界はパニックに陥っておる。」
 コロン婆さんの言うとおりだった。もし、突然太陽の光が消え、闇が広がっていったら、果たしてどのくらいの人々が平常心を保っていられるだろうか。
「じゃが、いつまで、他の人々に見えずに居られるかはわからぬぞ…。いや、案外、誰もが知らぬうちに、闇に支配され、世界が移り変わっていくのやもしれん!」
 コロンは厳しい顔をムースへと手向けた。

「おばばっ!」
 ムースが叫んだ。
「どうした?大声を張り上げて。」
「あれを…。」
 ムースは震えながら窓の外を指していた。と、人が、一人、そしてまた一人、闇に飲み込まれるように消えて行くではないか。

「消えた…。人が順番に闇に消えておるぞ!おばばっ!」

「ムースよ、どうやら、この世界と魔道書の世界の融合が始まってしまったのかもしれぬ。」
 コロン婆さんは難しい顔をしてムースを見上げた。
「恐れていたことが始まったようじゃ。我らの世界は、このまま「滅びの時」を迎えるのかもしれん。」
 ムースは何も言い出せずにそのままへたりと固まってしまった。
「この鐘の音は世界の崩壊を助長する、魔の音色なのかもしれぬっ!」

「大丈夫じゃ!世界は崩壊などしないだ。祈るだ。オラはシャンプーを信じて祈り続けるだ!」
 ムースは、再び、祈りへと身を捧げる。




 
 ムースやコロンが居る世界だけではない。
 その鐘の音は、あかねの居る空間でも、空を切り裂かんばかりに響き渡り始めた。

 
 一体どこから鳴り響くのか、探せどもあかねにはわからなかった。
 ただ、その音色の中に、異様な妖気が漂っている。鐘が音色を叩く度に、心がズキンと痛むのを感じた。

(やめさせないとっ!)

 直感でそう思った。何か不吉な音色だと思ったのだ。
 あかねは無我夢中で、鐘の音が聞こえる方向に向かって走り出していた。
 鐘が己を呼んでいる。何かしらそう思えてならなかったのだ。



「時を告げる鐘の音が鳴り出したね…。乱馬。」
 すうっとシャンプーが乱馬へと手を伸ばした。虚ろな瞳の彼は、無関心でずっと明後日の方向を視点定まらぬ目で見据えていた。おそらくシャンプーの声など耳には入っていないのだろう。
 シャンプーは長い髪に黒いレースを靡かせて乱馬の傍らに立つ。黒いドレスを身に纏い、さながら黒い花嫁のようだ。彼女の白い肌に黒の衣装は良く栄えて見える。髪には黒い薔薇、そして、口紅も黒い。
 無関心を装う乱馬の衣装も黒。彼はタキシード姿だ。胸のポケットには黒い薔薇が妖しげにのぞいていた。
 全てが黒ずくめの不思議な井出達。
 すっと彼らの行く末に黒い絨毯の道が開ける。それは、目の前の城の中へと続いている。
 その城も真っ黒の壁。空も暗い。

「さあ、乱馬…。魔道王の前で、永遠の愛を私と誓うね…。そうすれば、乱馬の心、永遠に私のもの。誰にも触れられない。」
 すっと伸ばした手にシャンプーは乱馬の腕を絡めた。

「あかねにも触れることはできないね…。そう。乱馬は私の物になる。」
 にんまりと笑った。
「ふふふ。この誓いの儀式、あかねにも見せてやるね。乱馬が私と結ばれる瞬間をね…。絶望の淵に落として、永遠に闇の中に光と共に閉じ込める。」
 一歩一歩踏みしめながら、城の門戸へと足を掛けた。

「さあ、乱馬、私と共に、門へ入るね…。」
 さらさらと揺れる長い髪。そして、ふわっとなびく黒い闇色のレース。妖しい美しさに、天上の月が一際美しく赤く輝いた。
 城の天辺近くから鳴り響く鐘の音。まるで葬送行進曲を奏でるような重苦しい響きだ。その響きに誘われたのか、魔人たちがそこらじゅうから湧き出ていた。まるで百鬼夜行のように、シャンプーと乱馬を囲んでくる。
 口々に魔人の言葉で二人を祝福しているようにも見えた。
 その歓声に応えるように、シャンプーは妖しげな笑みと手を振り返す。傍らの乱馬は、ただ、無言で遠くを見詰めていた。



三、

 あかねを取り巻いていた光はいつの間にか潰えた。
 太陽が沈んでしまったのか、再び回りは闇の中に閉ざされていく。
 静かな闇。黙ったままここに身を置いていると、このまま暗黒へと自分も染まってしまうような錯覚に陥る。光なき世界。
 どのくらいそこへ身を置いていたろうか。

 ずっと考えていた。
 自分の失われた記憶について。だが、答えは得られていない。
 あかねという名前で呼ばれていて、そして、おさげの少年を愛していた。それだけのことしか思い出せないのだ。いつも傍らに居た彼。側で悪態を吐きながらも、見守ってくれていたその瞳の深い灰色しか思い出せないのだ。
 彼の名前も、全ては闇の中だ。

 と、急に暗黒の空間がまた開け始める。
 まるで幕が上がるように前方に景色が広がる。

「あれは…。」

 おさげの青年と長い髪の娘が並んで歩いているのが見えた。黒い衣装に身を纏ってはいるが、肩を寄せ合っている。思わず、その風景の前にあかねは駆け出していた。
 ガラス張りの窓のように、空間はふっと画面の前で途切れている。こちらの音も声も聞こえないのか、叩いても叩いても彼らは反応すらしない。そればかりではない。相手側の声も聞こえない。
 ただ、二人の表情が見えるだけだった。

 ふっとシャンプーが後ろ側をふり返った。

『あかね…また、見えるね。私と乱馬の姿…。くくく。陽が落ちて、月が昇ったね。丸い満月が。』

 彼女はこれ見よがしに、ふっと月が反射する、その方向へと目を向ける。あかねと視線がかち合った。

『そうやってながめているがいいね。私と乱馬が愛を誓うところだけを見ているがいいね。乱馬と私結ばれた時、おまえは闇へと吸収される。魔道王様の血肉の一部に変化するある…。』
 そう心で呟くと、これ見よがしに乱馬の腕に自分の腕を入れて引っ張る。彼のおさげが揺れながら、シャンプーの身体と密着する。
 あかねはそれを見せ付けられる自分の心が、引き裂かれんばかりに痛くなるのがわかった。

「ここよ、あたしはっ!ねえ、気がついてっ!!」
 そう叫びながら、空間の窓を叩いたが、音は全て闇へと吸収され、漏れ聞こえることもない。それでもあかねは叫び続けた。
「やっぱり、あなたのことを思い出さないと駄目…なのねっ!」
 

『さあ、境界線を越えるよ。ここを越えれば、乱馬は二度と、正気に戻らない…。私の虜になり果てる。』
 シャンプーはいったん、城の門壁の手前で立ち止まった。乱馬の歩みも一緒に止まる。
 音もなく大きな門が内側から外へとゆっくり開いた。中から黒い霧が二人を取り巻くように漏れてくる。どす黒い霧だ。
 そいつはまるで生きているように二人の身体にまとわりついた。

「あれは…。」
 あかねははっとした。

 黒い霧。それがあの青年を狙っている。その霧に掴まれたら終わりだ。

 あかねはそう直感した。
 
「駄目ーっ!そっちへ行っちゃあっ!戻ってこられなくなるわっ!」
 
 籠の中からあかねは必死で叫んだ。
 だが、虚しく声は自分の周りに響くのみで、彼の耳には入らないらしい。

『無駄ね。叫んでも。おまえの声彼には届かない。』

 黒い空間がそう声を出した。シャンプーの口調だ。

『彼は私の虜になる。おまえのこと、見えない、聞こえない、感じない。諦めるよろしっ!』
 声はそう投げつけてくる。

「いやっ!あたし、諦めないっわっ!」

『違う。彼は私の愛人(アイレン)。おまえとは縁が切れるね。さあ、そこで黙って私と彼、永遠の誓いを立てるところ見るよろしっ!』
 
 霧のあふれ出す門の前に立つと、シャンプーは乱馬の瞳を見た。

『さあ、私の目。見るよろし。そして、その熱い唇を私に交わすよろし…。それ、誓いの儀式。あなた、魔界へ入る。』

 シャンプーはあかねを一度だけ、見返った。勝ち誇った目で。

「だめーっ!絶対にだめーっ!あたしがあんたの許婚だったように、あんたはあたしの許婚よっ!誰にも渡さないわ。乱馬ーっ!!」

 それは偶然に発した名前だったのかもしれない。いや、無意識にあかねは、その名前を叫んでいた。

「乱馬ぁーっ!!」

 その叫び声と共に、あかねの周りから光が弾け飛ぶ。シャンプーとその唇を交わそうと目を閉じた彼に向けて。
 ぱああっと一瞬のうちに光が乱馬を包み込んだ。
 と同時だった。門戸の中から伸び上がってきた闇が、シャンプーの身体を引きずるように捕えた。
「な、何あるか?この闇は!」

 シャンプーを捕えた闇は、みるみる彼女の身体を覆い始めた。手、足、胴体、頭、首、顔…。みるみる、黒い煙に包まれていく。

 鐘が一斉に鳴り響き始める。
 荒れ狂うように連打される激しい音の洪水。
 それは闇の世界だけではなく、現世の世界にも鳴り渡った。


「おばばっ!」
「むうっ!!」
 一瞬、空が戦慄いたかと思うと、猫飯店に居た、ムースとオババの身の上にも異変が振りそそいだ。
「空間が裂けてゆくだっ!」
 ムースががなった。
「ムースっ!」
「おばばっ!!」

 身体が激しく振動する。立っていられないほどの衝撃が周りで起こりだした。地震などというような柔な揺れ方ではなかった。一瞬のうちに空間が歪む。まるで別の異次元へと飲み込まれるように世界ごと飲み込まれていく。

「うわあああああっ!」
 ムースとオババの悲鳴が重なるように響き渡った。暗転していく世界。


『我、復活の時来たり。我が生贄、ここに得たり!』

 それは人の声ではなかった。化け物の声だ。
 城全体が戦慄くようにねじれて揺れた。
 闇の魔手はシャンプーだけではなく、闇の空間に捕らわれていたあかねの下へも触手を伸ばしてきた。
「こ、これはっ!」
 生きているような闇があかねの側を蠢く。あかねは必死で持っていた光の剣を振り回した。無我夢中で。
「えいっ!気持ち悪いの、あっちへいけーっ!」
 しゅっ、しゅっと音がして、空間を漂う黒い霧を切り裂く。だが、相手は物体ではない気体だ。手ごたえがあるどころか、空を虚しく切るだけである。闇は容赦なく、あかねの周りに触手を伸ばすと、そのままあかねを呪縛していく。
「う…。」
 剣を持ったまま、そいつに絡め取られる。最早動けない。

 だが、その時だった。何か温かい光があかねを包み始める。闇に引き入れられては居るが、何かが自分を守ろうとしている、そんな感覚を覚えた。

『あかねっ!やっと彼を思い出したのね。』

 その声は光明妃だった。柔らかい光。それが闇に飲まれていくあかねの上を降り注いだ。

「あ、あたし…。」

 パリンと何かが頭の中で弾けた。
 と、同時に、溢れだす湯水のごとく、無くした記憶が流れ込んで来る。
 衝撃の出会いのこと…初恋が破れた日のこと…飛竜昇天破を会得した時のこと…呪泉洞の戦いのこと…

「彼の名は…早乙女乱馬。あたしの…許婚。そして…あたしは…天道あかね!」

『そう、あなたは思い出したのよ。あなたを守ることに、全身全霊をかけられる、逞しい青年の名前…早乙女乱馬を…。そして、本当のあなた自身を!』


「乱馬ぁーっ!!」

 あかねは空へ向かって、声の限り、その名前を叫んだ。


 弾ける光。その光の渦の中に、一瞬飲みこまれた。
 まばゆい光。その中に、感じる、温かな懐かしい気。
 あかねは下りて来る一陣の光を掴もうと、必死で右手を上に延ばした。

 それに届いた…と思った瞬間だった。
 バラバラと音をたてるように、あかねの自慢の黒髪が、一斉に、剥がれ落ちた。数十センチもあろうかという、自慢の黒髪が、キラキラと輝きながら空間へと消えて行く。
 一皮むけたように、ショートヘアーのあかねが、そこに立っていた。肩も軽くなり、頭もすっきりしたように思えた。

 そう、それは、あかねが本当の自分を取り戻した瞬間だった。

 
 



『ふん、今更、記憶を取り戻しても、もう、遅いある!』

 どこからともなく、ふてぶてしい声が響き渡って来る。
 その声の方向へ瞳を凝らすと、影が、シャンプーの肢体を抱え上げていた。
 そのシャンプーを大事そうに抱えている影は…乱馬そのものだった。

『乱馬、永遠に私の物。』
 
 勝ち誇ったように、シャンプーが笑っていた。
 
 
 

つづく





一之瀬的戯言

 


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