◆心(MIND)
第六話 迫る闇



一、

 あかねは歩き続けた。
 怜悧婆さんに教えてもらったとおり、今在る空間を、黙々と。

『夜の闇と昼の闇が交わる時、その隙間に、亜空間が開ける。その時を逃さぬように、その光の剣で切り裂けば、次の空間へと抜けられる。それを何度も繰り返すと、いずれ、大きな魔の空間へと導かれる筈じゃ。』

 その言葉を信じるしかなかったのだ。
 地図など勿論ない。見たところで、知っている場所があるわけでもなく、ただ、太陽が沈む方向へ突き進むだけだった。

 やがて、時は静かに過ぎ去り、美しい夕焼けが稜線へと走り始める。もうすぐ闇に覆われる。
 あかねは辺りの気配を伺った。一分の好きも見逃さぬように、空間の裂け目を探さねばならない。勿論、その方法もわからない。怜悧婆さんはそこまで教えてはくれなかったからだ。いや、教えたくとも、知らなかったに違いない。
(自分のこの目で探すしかないわね。)
 あかねは歩みを止めて、夕陽の方向へと向き直った。

 真っ赤な太陽が、山端に掛かり始める。

「綺麗…。」
 思わず、その燃えざまを見て、あかねは溜息を吐き出した。真っ赤な夕陽を美しいと思うのは、日本人の特性だとも言われているが、暫し、己の置かれた境遇を忘れた。 
 この壮大な風景。
「あいつが居たら…。」
 ふっと言葉がこぼれた。
「あいつ…?」
 自分で言ってはっとした。一体誰のことを口にしようとしたのか。

 と、その時だった。
 目の前に陽炎が揺らめき始めた。
「え…?」
 慌ててよく目を凝らして見る。と、陽炎が噴き出した辺り、空間が僅かだがずれているのが見て取れた。
「もしかして…あれは。」
 あかねは背中に結わえていた宝剣に手をかけた。

『僅かな隙間でも、これだと思ったところを、その宝剣で切り裂けば、次の空間への扉が開く。』

 怜悧婆さんの声が心の中から響いた。

「よっし。」

 あかねは剣を構えると、陽炎の湧き立つところを一気に横へ切り開いた。
 目の前がぐらっと揺れる。切り裂かれた箇所から、物凄い勢いで溢れてくる違う臭いの風。それはやがて、竜巻のように、こちらの空間に揺さぶりをかける。
 あっという間だった。あかねはその空間へと飲み込まれてしまったのだ。ゴオオっという音と共に。
「くっ!」
 あかねは受身の体勢で、ぎゅっと剣を握り締めた。これをなくしてしまうわけにはいかない。必死で食い下がる。風で息もできない。目も開けない。それでも、あかねは耐え続けた。
 それがどのくらいの滞空時間だったのか、わからない。永遠にも思える長い時間だったようにも思うし、あっという間だったかもしれない。
 気がつくと、暗い夜の世界へと導かれていた。

「ここは…。」

 砂地にあかねは腰を落としていた。手には宝剣。それを背中に収めると、あかねは周りを見渡した。
 天井からは、いびつな形の月があかねを柔らかに照らしつけている。もう何日かで満月を迎える。

「ふん、人間の臭いがすると思えば、女じゃねえか。」

 背後で不気味な声がした。

「誰っ?」
 あかねはがっと身構えた。

「へえ、おまいさん、この俺に楯突こうってーのか?」

 ぼんやりと影が見える。

「女里の方からきやがったのか…。嗅ぎ覚えのある、嫌な匂いだぜ。」
 のっそりと現れた塊。顔は獣の口、身体には毛がもうもうと生え茂る。どう見ても人間には見えなかった。

「あなた、魔人ね。」
 
 あかねはきっと見据えた。

「へっへ、だったらどうだってんだ?前の新月には女を連れて来そびれたからな。クソッ!思い出しても胸糞が悪い。あの「あかね」って女め。……おまえのその身体からも、同じような臭いが漂ってきやがる。」

「あかね…?あんた、あかねを知ってるの?」

 思わぬ名前が魔人からこぼれた。

「ほほう…。やっぱり女里の人間かよ。あのいけすかねえ女のこと知ってるんだな…。へへ。面白い。」
 魔人はあかねの前に立ちはだかった。
「ほお、月明かりで見れば、なかなかのベッピンじゃねえか。…よっし、おまえ、この剛鬼さまの嫁にしてやる。」
 いきなり男はあかねに飛び掛ってきた。
「くっ!」
 それを僅かにかわしたあかねは、きっとそいつを睨み付けた。
「へへ、逃げるなよ…。可愛がってやろうってーんだぜ。」
 にんまりと剛鬼が笑う。そして続けた。
「この前はおまえたち人間の住む胸糞悪い空間だったからな。俺様も油断しちまったが、今日は違うぜ。」
 剛鬼はにんまりと笑いながら言った。
「ここは、俺の亜空間だからな。」
 と。

「いいわ、相手してあげる。」

 あかねはそう言い放った。
 何故か負ける気がしなかったのだ。

(あいつが勝ったんなら、あたしだって…。)

 また、心が零(こぼ)れた。だが、あかねはその言葉に気がつかなかった。そう、目の前の敵、剛鬼に集中し始めていたからだ。

「生意気なお嬢さんだな。ふふ、強がりを言っていられるのも今のうちだ。俺がこの手で組み伏してやるぜ。」
 
 剛鬼は余裕で笑った。この、自分の作り出した亜空間なら、簡単に目の前の少女を組み伏せられると考えていたのだ。
「こっちから行くぜっ!お嬢さんよっ!」

 剛鬼はいきなりあかねに向かって体当たりを食らわせてきた。だが、あかねはそれを難なくかわした。それを見通していたのか、剛鬼は再び身体をひねると、あかねに向かって足技をかけてきた。そのまま蹴倒すつもりだったのだろう。

「やっ!」
 
 あかねは脚のばねを使って、空へと逃れた。
 そのまま剛鬼の身体を目掛けて蹴り下ろす。
「そんなものっ!」
 剛鬼は両手をクロスするとそれを払いのけた。あかねはバランスを崩してそのまま地面へと落下する。そこをすかさず剛鬼が襲ってくる。

「くっ!」
 間一髪でその体当たりをかわし、あかねは剛鬼の身体の下へともぐりこんだ。

「ちょこまかとっ!小ざかしいっ!!」
 
 くるりと方向を変える剛鬼。だが、そこにはあかねは居ない。
「どこだっ?」
 叫んだ時、声がした。
「ここよっ!」
「な、何っ!」
 
「流星開脚蹴りっ!!」

 あかねの蹴りが剛鬼の頭にまともに入る。剛鬼は一瞬出遅れたのだ。
 すかさずあかねは、連続蹴りを剛鬼へと手向けた。その破壊力は、剛鬼の想像を遥かに超えていたのである。

「な…。」

 剛鬼はそのまま、地面へと倒れた。
 柔能く剛を制す。あかねは剛鬼を真正面から倒した。

「ぐ…。こんな小娘に…。」
 彼は砂をつかむと、無念そうに吐き出す。
「このままやられてたまるかっ!」
 彼は魔人だ。勝負は勝てばいいと思うような輩である。体中の気を握った手に集める。
 一息吐いたあかねに向かってその気を浴びせかけようとした。

 と、その時だった。
 月の光を受け、あかねの指輪が一瞬、輝いた。

「え?」
 
 指輪から発した光は、剛鬼へと真っ直ぐに飛んだ。

「わあああああっ!」
 あかねに向かって照準を合わせていた剛鬼の腕を、その光は貫き通した。
 手首をかばいながら、もんどりうって倒れこむ巨体。
 光が収まった時、ふっと浮き上がった青年。

「あなたは…。」

 だが、青年は、あかねを見て一度だけ微笑むと、すっと闇に飲み込まれるように消え去ってしまった。消え際に言葉が耳元へとこぼれて来た。

『油断するな。これは試合じゃねえ、死闘だ。己の命を賭したな…。』

 辺りは再び闇に包み込まれる。

「今の…。」

 あかねはじっと指輪を見詰めた。確かに、今の青年は、この指輪から現われ、そして、ここへと消えていった。闇と同じ色の石の中に。

「あなたは、この石の中に捕らわれているの?」

 懸命に指輪に語りかけたが、何もなかったかのように、ただの固い黒い石の塊がそこに在るだけだった。
「やっぱり、あたし…あなたを知ってる。ねえ、あなたもあたしのこと知ってるんでしょ?」

 あかねの問い掛けは、虚しく闇の中にこだまするだけであった。



二、

『これは死闘だ!』
 そういい残した青年の言葉。
 あかねの耳元に、鮮明にこだまする。
 そうだ。これは、武道の試合ではない。食うか食われるかの勝負だ。一瞬の油断が、致命的となる。
 あかねがそう思いかけたとき、再び空間の歪みが見えた。この亜空間を操っていた魔人、剛鬼が滅んで、ところどころ、ほころびが出てき始めたのだろう。

「次の世界へ…。」

 あかねは空間の僅かな歪みを探し始めた。
 暗闇の中に微かに浮かび上がる光。
「あれねっ!」
 あかねは無我夢中で剣を横へと薙ぎ払った。空間の裂け目。そこから漏れてくる暖かな光。やがてそれらは、大きくあかねを飲み込むように包んでいった。

「柔らかな太陽…。」
 あかねはふと上を見上げた。
「朝が来る…。」
 夜明け前の澄み渡る空気。それを肌で感じながら、あかねは大の字になって砂地へ寝転がった。上には木立が生い茂り、枝葉の向こう側から木漏れ日がちらちらと光を通してくる。風も心地良い。
 この何日間は忘れていたような安らぎが広がり始めた。
 と、同時に、眠気があかねを襲った。
 女人の里を出て以来、休むことも惜しむべく、歩き続けていた。その疲労感が一気に高まってゆく。

『できるだけ、昼間は休眠を摂っておきなされよ。』
 怜悧婆さんの忠告の声が脳裏でこだまする。

「それも一理あるわね。夜の世界は魔人たちの巣窟なら、昼間のこの辺りはまだ、平和そのものね。」
 あかねは渡ってくる風を微かに感じながら。じっと目を閉じた。


 夢に誘われていく。
 夢の中であいつに会った。


『なあ、おまえ。…おめえが俺のことを忘れたのは二度目なんだぜ。』
 あいつがにっと笑って見せた。
「二度目?」
 不思議そうに見返すと、また笑う。
『そうだ。まだ出合って間もない頃、魔拳を喰らって、俺のことを忘れっちまいやがった…。きれいさっぱり、俺のことだけ忘れたんだぜ。他のことは忘れなかったのによう。』
「へえ、その時はあたしは、どうやって記憶を取り戻したの?」
 少し考えてあいつは言った。
『俺が取り戻してやったようなもんだ…。』
「どうやって?」
『魂を揺さぶるような言葉をおめえにかけてやったんだ。』
 と、またにっと笑う。
「魂を揺さぶるような言葉?ねえ…どんな言葉よ。」
『やだね…。おめえ、怒るもん。』
「何よそれっ!」
 思わず食って掛かる。
「怒らないから言ってみてよ…。もしかしたら、あんたのこと思い出すかもしれないじゃない。」
 とけしかけてみた。その「魂を揺さぶる言葉」とやらに興味が湧いたからだ。
『でも、俺のこと思いっきり引っ叩きたくなるぜ、きっと…。おまえよう、口より先に手が出るからなあ。』
 と笑う。
「人を暴漢呼ばわりしないでよね…。いいから教えてよ。もったいぶらないで。」
『怒んねえか?』
「ええ、多分…。」
『多分じゃ言えねーな。』
「約束するわ。怒らないから言ってみてよ。」

 彼はじっと考え込んで、ま、いいかというような表情を手向けた。

『わかったよ…。言ってやるよ。その代わり、ぜーってえ、怒んなよっ!』

 すいっと息を吸い込んで、一気にまくしたてる。

『寸胴っ!』
「なっ!」
『ぺちゃパイ!』
「え゛っ?」
『凶暴女!怪力!』
「なっ、何よそれっ!」
『きわめつけは…かわいくねーっ!』

「調子に乗るんじゃないわよっ!バカーッ!」

 思わず叫びながら、バシンと打ち付ける右手。

『ほうら…怒った。…たく…。あんときゃ、素直に自分の気持ちなんて言い出せなかったからな。…当然だったかもしれねえけど。』

 赤く腫れた左頬を撫でながらあいつは答えた。

『やっぱり、こんなことくらいじゃ、この闇の封印はとけねーか。それだけ、記憶への扉はガードが固くシャットダウンされてんだな…。あの時はこれで、おめえの記憶は目覚めたが…。』

 彼の姿が、再び薄くなっていく。

『おまえが自分自身を取り戻せたとき、俺のことも思い出せるだろう。』

「ちょっと、あんた、またどっか行っちゃうの?」

『おまえが思い出してくれれば、俺はいつだって甦られる。…そしたら、前に記憶をなくした時は素直に言えなかったこと、言ってやらあっ!だから、思い出せ。』

 それだけを言うと、影が薄くなり、再び闇の中へと消えていく懐かしい姿。

「待ってっ!あたしを一人にしないでっ!ねえっ!ねえってばあっ!」


 そこで目が開く。

「ゆ、夢…。」
 がばっと起き上がると、あかねはゆっくりとその場から立ち上がる。そして、怜悧婆さんから貰った、ホシイイを腰の巾着から取り出すと、水を飲みながら一気に喉へと流し込んだ。
 何も食べないわけにはいかない。いくら本の世界だからといって、食事を疎かにしていたら身はもたないのだ。それもよくわかっていた。せめてもの食料源にと持たせてくれた軽いサプリメントとホシイイなどの食料。それで飢えと乾きを凌いだ。

 気がつくとあたり一面は闇に覆われかけていた。
既に日は西へと傾いていた。
「また、夜が来る。」
 再び空間が開ける時間が近づいている。少しでも、目的地と近い空間へと出たい。そう思った。

 夕陽がさっと雲間から差し込んでくる。
 と、ほぼ同時にふわっと目の前が一瞬歪んだ。
 光の世界から闇の世界へ。交互に世界は繋がっているようだ。

(次の次元空間…。)

 あかねは静かに呼吸を整えた。

 ここを切り裂けば、再び違う世界への扉が開ける。
 そう思った。

 次は魔道王の居る場所かどうか。その保証は全くない。
 だが、そんなことはどうでも良かった。自分に課せられた使命は一つ。記憶を取り戻すこと。そして、あの青年と再びめぐり合うこと。
 そのためにはちょっとでも先に進まねばならない。後退はできないのだ。

「でやああああっ!!」

 気を込めると、あかねは一気に宝剣を真一文字に切り開いた。
 切っ先が雷のように光り輝く。その、向こう側に、黒い歪んだ世界が見える。
 恐怖を覚える余裕もなく、再び、黒い霧があかねを覆い始める。切り口から広がってきた闇に飲み込まれる。そう形容すれば良いだろうか。
 あかねは再び襲い来る闇を見据えながら、ぎゅっと宝剣を握り締めていた。正面から吹き付ける、強い風ももろ共にせず、ぐっと大地に踏ん張って耐える。

 気がつくと風が止み、天上にいびつな丸い月が、輝きながら照らしつけてくる。
 荒涼とした空間だった。月以外に輝きが無い。全ての光が吸収されてしまう。そんな、不気味な闇の空間が拓けていた。




三、

 一陣の風があかねの側を吹き抜ける。後に長い髪が棚引いた。
 この世界へ引き込まれて以来、彼女の髪は長く伸び、腰辺りまで垂れていた。そう、それは紛れも無く、乱馬と出逢った頃の髪型。
 勿論、記憶を無くしていた彼女はそれが普通だと思っていたので、違和感はなかった。
 邪魔にならぬように、あかねはその髪を後で束ねていた。髪の毛を止めた赤いリボンが、風と一緒にゆらゆらと揺れる。

「ふふ…。待ってたわ。紅玉。」

 つっと上から女の声が降ってきた。

「誰?」

 思わず持っていた剣に力が入る。

 側にいつの間にか古木がそびえ、その太い枝先に人影が見えた。と、思う間もなく、月が背後からその姿を浮かび上がらせる。蒼白い光を浴びせかけて。薄い絹ごろもが長く枝垂れかかる。長い髪を後に靡かせて女は笑っていた。赤い唇が妙に艶かしい。

「高みの見物なんてしてないで、下りてきなさいよっ!」

 あかねはきっと睨み上げて牽制しにかかった。

「ふふ、ここはあたし、明倫の亜空間よ。あなたにいちいち指示される筋合いはないわ。それに…。あたしがそっちへ行くのは、あなたがその地面へ這った時よ。」
 女は満面に笑みを浮かべながら言った。大した自信だ。
 彼女の肩の上には、一匹の薄ピンク色の猫がちょこんとこちらを見据えながら乗っている。月明かりに映えて、猫も浮かび上がって見えた。



(あの猫…。)
あかねははっとそちらを向き直って、思った。 
(どこかで見かけたことがあるわ。…あの猫。)
微かに思った。
 そう、明倫の肩の上に鎮座していたのは、シャンプーだった。だから、知っていてもおかしくはなかったが、記憶の無いあかねには、ただ薄らぼんやりとしか、思い浮かんでこなかったのだ。



『私が言ったように、やるね。』
 猫は明倫に向かって囁きかけた。
「わかってるわよ。心配しなくても…。でも、少しくらいは遊んでやってもいいでしょう?あの娘、結構可愛いじゃない。私は可愛い女の子は切り刻んでみたいのよ。」
 ぺろっと赤い唇の上に舌を出してなめずる。
『切り刻むか、ま、いいね。どっちにしても、目障りな彼女をここで始末できれば…。じゃ、後は任せたね。』
 猫はすっと明倫の肩から降りた。
「最後まで見物していかないのかえ?」
 明倫は猫のほうを振り返る。
『足手まといになってはいけないから、私は別の枝から闘いを見物するね。』
 シャンプーはするするっと枝を器用に伝いながら、明倫からは反対側へと渡っていった。

「ふん!下賎な雌猫めっ。足手まといっていう自分の立場は理解しているようね。ま、いいわ。高みの見物をしていなさいな。」
 吐き出すように明倫は言った。
 あかねは離れてゆく猫を見上げながら、じっと考え込んだ。

(何で、あたしはあの猫を知ってるの…。あの攻撃的な目…やっぱりどこかで。)
だが、脳が拒絶しているのがわかる。思い出すなと。

 そんなあかねの隙を見計らうように、いきなり目の前を何かがかすった。明倫が先制攻撃を仕掛けてきたのだ。
 
「余所見していたら、命はないよっ!」
 明倫は枝の上からあかねに声を放った。彼女の身体は側にはない。だがあかねの着ていた服の袖が、ぴっと弾けた。鋭い痛みが腕に走る。
 あかねの身体には触れるどころか、その場にはいないのに切れたのだ。
「どう?あなたにあたしの攻撃を避けられるかしらねえ。」
 ふふふと明倫が笑った。
「そうらっ!避けてごらんっ!」
 明倫は両手を一文字に左右に払いのけた。
「え?」
 微かに何かが渡ってくる気配がある。見えない刃。
 あかねは懸命に後に飛んだ。ビチビチと立っていた地面が音をたてる。まるで機関銃にでも打ち込まれたような音だ。
 激しい気が一瞬にして明倫から打ち下ろされてくるのだろう。地面には、明倫が座っている大木から巻かれた発破が、バラバラと音をたてながら舞散っている。

「そら、もう一つっ!」
 明倫は同じように両手を薙ぎ払った。

 今度は前よりも威力を増したのか。あかねの服が無数に切り刻まれた。
 だらりと垂れる、赤い血。
 
 だが、窮地に追い込まれながらも、あかねは密かに心がわくわくし始めていた。 長らく忘れていたこの気の高ぶり。強い者と対峙する時の至上の悦び。
 これは「武道家」としてのあかねの本能が成せる業だったのだが、彼女はまだ、己の正体に気がついていない。だから、どこからそんな感情が沸き立つのか、知る由も無かった。

「あたし、絶対にあんたに勝ってみせるわっ!」

 あかねは滴り落ちる汗を拭いながら、きっと明倫を見据えた。
 そう、それは、あかねの中に眠っていた「格闘家の本能」が目覚めた瞬間であった。


四、

「気に食わないわねっ!その顔。」
 明倫はあかねに向かって吐きかけた。

 圧倒的に己が優位に立ってはいるが、何かしら空寒い何かをあかねの瞳の輝きの中に見出していた。その苛立ちが、己の心に迫ってくる。

「自分の無力を、思い知って、あたしの前に斃れるといいわっ!」

 間髪入れずに、明倫はあかねを襲った。
 木の上から降ってくる大量の気のナイフ。あかねを襲うと、尽く彼女の身体をなぶった。そのたびに、あかねの衣や柔肌は赤く裂ける。
 そのたびにバラバラと音をたてながら地面へ落下する葉っぱ。それを足で踏んだ。まるで氷のように乾いた音がして、あかねの足の下で砕ける葉。

「そっか…。あの気の渦…。」
 はっとしてあかねはその葉を見やった。
 あかねはやられっぱなしでずっと突っ立っていたわけではなかった。体中の気を研ぎ澄まし、的の攻撃の正体を見極めようとしていたのである。

「ふん、所詮、あんたなんか、あたしの敵じゃないっ!」
 明倫は更に大きく腕を横に薙ぎ払った。

「でやーっ!」

 あかねは一瞬のうちに体中の気をたぎらせると、そのまま明倫へ向けて弾き飛ばした。

「なにっ!」

 明倫が投げやった気を一蹴する。と、バラバラと音がして、何かが一斉に地面へと突き刺さった。

「ふふっ!やっぱりこれが武器だったのね。」
 あかねは得意げに明倫を見上げた。
 地面に大量に突き刺さったのは、明倫が座っている大樹の葉っぱだった。
「この樹の葉っぱに特殊な気を放出させて、ナイフのように固く鋭敏にし、それをあたし目掛けて飛ばしてた。で、あたしの身体に当たった瞬間、木の葉は粉々に砕けて空へと消える。違うかしら?」 じっと大きな瞳が、明倫へと投げつける光。
 その視線の先には、己の放った鋭敏な葉によって、傷ついた明倫が居た。

「おのれ…。」

 ぐっとやられた腕を押さえる彼女。振り乱れた髪。そして、抑えたところから滲み出る「黒い血」。



『たく、見てられないね。……。それにしても、あかね。気を扱えるようになってたか。乱馬、いつの間に、そこまであかねを鍛えたか。
 あかね。恐ろしい敵ね。やっぱり今のうちに倒しておくね。全ての記憶が目覚める前に。』

 シャンプー猫はすっと気配を絶った。にんまりと笑みを投げかけると、チャシャ猫のように、空へと溶け込んだのである。
 そして、今度は明倫の肩の上に、その姿を現した。

『これを使うね…。さっさとあの小憎らしい娘、玉に変えてしまうね。』
 シャンプーはそう言うと、明倫の掌の中に何かを転送させた。
「これは…。」
 目を見開いた明倫。掌には、野球ボール大の血の色のような赤黒い玉が出現する。
 それを見ながらシャンプーは妖しく笑った。
『魔道王様の宝珠ね。さあ…これで、珠渡(たまわた)しの術をかけるねよろしっ。』
 受け取った明倫は暫くそれを見ていた。この世界の覇王、魔道王の息が掛かりし、宝珠。
「こんなものをお父様が…。」
 自分のような末端の子に託すのだろうか。と、一瞬、迷いが頭を過ぎった。
 いくら魔道王の血を引いた子供とはいえ、母親は所詮、人間。正統派の闇の覇者、魔道王と魔人の御子には叶う筈はない。 
 この狭い本の狭間の世界では、母親が魔人という純粋な魔人は数えるほどしかいない。魔道王の血を受けた子の中で、一体全体、何人が純粋な魔人と言えるのか、明倫にも詳しいことはわからないのだ。少なくとも、自分の周りには居ない。
 半魔人…それが、明倫だった。
 そんな己に、あの狡猾な父が宝珠など預けるのだろうか。一点湧いた疑問。
 だが、宝珠はそんな明倫の疑問すら打ち消すように、妖しくに光り輝いていた。
「まるで、あたしを誘っているような…。」
 玉に目がない明倫は、すっとそれを握り締めた。

「いいわ、わかった。あの娘を「珠渡し」すればいいのね。」

『さあ…。早く、やるね。』
 シャンプー猫は「にゃうーん」と嬉しそうに一声吼えた。月に向かって。


「何をごちゃごちゃとやってるのっ!戦う気があるのなら、さっさとやっちゃいましょうよっ!あたしだって、そんなに時間があるわけじゃないんだからあっ!」
 あかねは下から二人を呼んだ。

「ふんっ!そんなに早く、あたしにやられたいのかい?紅玉さん。」
 明倫はあかねに向かってそう吐き出すと、タンッと高木の枝先から降り立った。数メートルはあろうかという高さだったが、いとも簡単に降り立った。
 あかねは思わず右足を引いて低く構えた。
 いつでもかかってこいと言わんばかりに、明倫を牽制する。だんだんと、武道家の本能が呼び起こされ始めているようだった。
「ふふ…。そんなに身構えなくても、結果は見えてるよ。紅玉さん。」
 すうっと明倫はあかねの前に立ちはだかった。
「そんなのやってみないとわからないわよっ!」
「だったら、かかってきたらどうだい?」
 明倫はあかねを挑発した。
「勿論、そのつもりよっ!」
 あかねが動いた。素晴らしい瞬発力で。伸びやかに上がる腕と足。彼女の破壊力は乱馬を唸らせるほど強力だ。その華奢な体から繰り出される拳と蹴りは、女性と思えないほどの強さがある。
 バキッと乾いた音がして、明倫が立っていた側の木が折れる。勿論、明倫はあかねの動きを予想して、余裕でかわしていた。
「へえ…。人間の癖に結構、馬鹿力ね。」
 明倫はあかねを振り返って言った。
「でも…。その程度じゃ、あたしは倒せないわよっ!」
 ふわっと浮き上がって明倫は防御から攻撃へと転じた。あかねもそれをひょいっとかわす。
 だんだんと、己の気が高ぶっていくのを感じならが、あかねは明倫と対戦した。

(あたし…。何でこんな奴とこうやって平気で戦えるの?)
 凡そ、「白金」と暮らしていた頃はこんな風に動けるとは夢にも思わなかったのに。
 力がふつふつと身体の底から湧き上がって来る。いや、それだけではない。気の高揚。強い明倫と対戦する喜びを身体が感じ始めている。その不思議さ。


『それは、おまえが格闘家だからだぜ。おまえの身体の中に流れる血が、そうやって高ぶりを押し上げてくるんだ。』
 再び頭の中で「彼」の声がした。


(格闘家…。あたしの身体の中に流れる血…。)
 ふっと浮き上がったイメージ。誰かが自分の傍らで、一緒に汗を流している。白い道着を着込んで、黒帯を巻き、そして、幾重にも組み合いながら真摯な目を投げてくる。そんな若者。彼の後ろに、おさげがある。

『おまえも俺も格闘家だ。おまへと俺は、互い自分の家の流派を継ぎ、そして次世代へ伝えるという大切な役割がある。そして、別々の二つの流派を、俺と共に一つの流れに変えるって約束したんじゃねーのかよ…。』

 その人影は言った。自分に向かって。

『だから、そんな奴、倒しちまえっ!おまえならできる。自分の力を信じて戦いぬけっ!』

「はあっ!」
 あかねはその声に応えるように足を振り上げた。
 見事に明倫の避け損ねた背中に一発、蹴りが命中していた。
「おのれえっ!」
 人間如きにやられたのが、癪にさわったのだろう。明倫の美しい顔が一瞬にして歪んだ。憎しみの入り混じるそんな鬼の形相に。
「小娘めっ!あたしを足蹴にしたことを後悔させてやるっ!」
 明倫はさっと、さっきシャンプーから受け取った玉を目の前に翳した。

 ドクンッ!

 空間が一瞬、戦慄いたように思えた。
 見上げると明倫がその玉を額の前に持ち、何やら呪文めいた言葉を唱え始めていた。

「なっ!」

 その呪文に反応するように、赤黒い玉から黒いモヤのような物が立ち上るのが見える。いや、それだけではない。そのモヤはあかねの方へ向かって伸び上がってきた。
 逃げる間もなく、その煙のようなモヤがあかねの肢体に向かって絡みついた。振り払おうとしてぎょっとした。
「う、動けないっ!」
 金縛りにあったように、あかねはその場に固定されてしまった。玉から触手のように伸び上がってくる黒いモヤ。そいつは、あかねの身体をぎゅっと包み始めた。
 呪文を唱えていた明倫がその言葉を止める。

「どう?動けないでしょう?紅玉さん。」
 くくくと彼女の口元が怪しげに揺れた。
「卑怯よ。妖術を使うなんてっ!」
 あかねはきっと彼女を見据えた。
「あら、妖術のどこがいけないの?」
 すいっとあかねの顔の横に己の顔を並べて見下すように見詰める妖しげな二つの瞳。
「さあ、どうやってあなたを料理してあげようかしら…。その可愛い顔を切り刻みましょうか。それとも…。その手足をもぎ取りましょうか。」

 ぐっとあかねの顔を掴んで勝ち誇ったような顔をした。

「くっ!」

 あかねは動こうと足掻いたが、全くピクリともしない身体。目の前に妖しく揺らめく赤い玉。

「そうね…。その綺麗な目。まずはそれをいただこうかしらね…。」
 すっと明倫はあかねの目の前に手刀を平らに構えて見せた。それからあかねの胸倉を左手で掴んだ。

 その時だった。明倫の手があかねの身体に触れた途端、身体に溜め込んだ気を一気に上昇させ爆発させた。

 ドオーンッ!

 物凄い爆音だった。耳が暫く使い物にならないくらいの爆裂。

「くっ!この小娘っ!悪あがきを…。」

 ボタボタと流れ落ちる真っ黒な血。明倫はあかねを睨み付けた。だが、あかねの気に貫かれた胸は、ばっくりと傷が開いていた。



「たく、だらしないね…。半魔人には、このくらいが限界あるか…。」
 すぐ後で聞き慣れた声がした。
 明倫の目に映ったのは、猫ではなく、一人の若い娘だった。
「おまえ…。その姿…。さっきの、猫。」

 娘はにんまりと微笑んで見せた。

「これが私の本当の姿ね。今までのは「妖」。わかるか?明倫。」
 それは紛れもない、人間の姿に立ち戻ったシャンプーだった。
 彼女は明倫が握っていた赤い玉を奪い取る。
「これは、元々、魔道王様の物。半魔人のおまえなんかに扱える代物じゃないね。」
「貴様、とて、魔物ではるまい!そんな奴に、その玉が扱えるとでも思っているのか?」

「大丈夫ある…。こうやれば、使えるようになるある。」
 やおらシャンプーは、明倫へと近づき、彼女の傷ついた胸から露出している小さな黄色い玉を、引き抜きにかかる。

「うわあっ!貴様、何をするっ!」

 明倫の胸から露出していた、丸い黄色いが、彼女の黒い血と共に出て来る。まるで、植物の根のように、玉に数本の神経の糸のようなものが絡みつき、それが明倫の身体と玉を繋いでいるように見えた。
 そう、臓器のように明倫の身体と繋がる黄色い玉。周りに纏わりついている黒いものは、明倫の血かもしれなかった。
 あかねは、思わず、動かぬ身体から、目を反らせた。


「貴様…。一体、何を…。」
 玉を引き抜かれて苦しいのか、苦渋の表情を浮かべながら、言葉を吐き出した。
 
「ふふふ、知れたこと。おまえの身体、私の身体の「繋ぎ」に使わせてもらうね。」
 シャンプーはゆっくり笑いながら、黄色い玉を明倫の前に晒した。
 と、天上から月明かりがその玉に差し込め、引き抜かれた黄色い玉が、黄金色に妖しく光り始めた。

「う、うわああああああっ!」

 その光に激しく反応して、のた打ち回る明倫。

「くそ…。貴様、最初から…。私の身体を繋ぎにするために…。」

「そうね。おまえの玉移しの妖力。丸ごと頂くね。おまえの身体、私の繋ぎにするある。」
 
 黄色い玉と繋がった明倫の身体が、みるみる縮み始めた。まるで、黄色い玉に、明倫が吸い込まれていくように見えた。

「く、くそうっ!私はただの繋ぎだったのかっ!ちくしょーっ!!」

 一声高く響き渡すと、明倫は黄色い玉に吸収され、跡形も無く消えてしまった。



五、


「ふふふ。さよなら、明倫…。」
 シャンプーは不敵に微笑みながら、黄色い玉へと囁きかける。 
 そして、その黄色い玉をやおら己の胸元へ当てると、ぐっと右手で押し当てた。

 シュウシュウと音をたてながら、赤い玉から、神経の糸がシャンプーの身体へと延びる。と、その糸はシャンプーの身体へ伸びあがり、そのまま、彼女の胸の中へと飲みこまれるように消えていく。

「素敵ある…。明倫が持っていた魔人の力、私の中に目覚めていくある。ふふふ。」
 シャンプーは嬉しそうに、言った。
「身体の隅々に、魔道王様の力、湧きあがって来るね。」
 そう、言いながら、今度はあかねの方へと向き直った。
 目の前から明倫が居なくなったとうのに、彼女の呪縛は解けていない。明倫の妖術がまだ効いているかのようだ。

「今度は、おまえの番ね。あかね。」
 彼女は笑いながらあかねを見た。

「あかね…?」

 はっとしてあかねはシャンプーを見詰めた。

「ふふ。おまえの本当の名前は「あかね」。」
 シャンプーは余裕で彼女を見た。
「でも、おまえ、記憶なくした。愛するものの名前も何もかも…。」
 そう言いながら、あかねへ近づき、左の薬指から指輪を外した。黒い玉がはまった指輪だ。今まで取り外すことが不可能だった指輪がするりと抜け落ちる。
 

「さあ、準備は整ったね。……。これで彼は私の物。」
 シャンプーはあかねから抜き取ったその指輪を、嬉しそうに己の手へと握り締めた。

「その指輪をどうする気?」
 あかねは、キッとシャンプーを仰ぎ見た。

「ふふふ、指輪から彼を抜きだすある。そして、今度はこの指輪へ、おまえを閉じ込めるある…。」

「彼?」
 あかねはハッとしてシャンプーを見つめた。

「そう彼ある…。おまえ、愛した彼…、そして、これから私愛する彼…。この指輪の中に居る彼。彼を取り出して、今度は、この指輪へおまえを閉じ込めるある。」

「あたしを閉じ込めるですって?」

「おまえ、この魔石へ入ってもらう。そして、その魔石はめこんだ指輪へ、意識ごと閉じ込めてやるね。」
「いったい、何のために、そんなこと…。」
 あかねは激しく吐きつけた。
「何のため?そんなことわかってる。おまえ私の愛人(アイレン)の心ずっと独占してきた。私が彼を求めても、いつも応えて貰えなかった。彼はいつもおまえを見ていた。だから、これ、「復讐」ね。」
「あんた、正気なの?そんな無益なこと。」
 あかねは蔑んだような目でにらみ返した。
「無益じゃない。私、今度こそ、おまえから彼を奪う。彼の心、全て私の物にするね。」
 シャンプーは笑った。
「あんたが思うほど人の心は簡単には動かせないわ。」
 あかねは凛とした声を放った。

「ふふ、だからこの世界へ来た。全て虚へ返し、一から始めるために。彼と共に…。」


 そう言うや否や、シャンプーは、今度は明倫から奪い取った赤い玉を再び月明かりへと晒した。

 月光が赤い玉に反射すると、妖しく赤黒い血の色に輝き始める。その光をシャンプーは、あかねの指輪へと転じた。
「え…?」
 光が導かれるように、あかねの指にはめられた黒い玉へと照りつけていく。と、玉から蒸気が上がり、何かが上空へと飛び出した。
 浮き上がる人影。
 一人の青年が、すうっと目の前に現れた。それも、浮き上がったまま。眠っているのか、じっと目を閉じて、糸が切れた人形のように、がくんと頭を垂れたまま、そこへ直る。
 すると、今度は入れ違いざまに、あかねの身体がふわりと空へ浮き上がった。独りでにだ。
「な、何っ?」
 小さく声を発したが、自分の意思では指先一つ動かせなかった。

 シャンプーは勝ち誇ったように言った。

「この勝負は私の勝ちね。おまえ、彼と入れ替わって、魔石の指輪の中の捕らわれ人になるがいい。そして、その魔石の指輪の中から、己の運命を呪いながら、私と彼が結ばれる様を、指を咥えて見守るがいいね。」

 シャンプーはそう叫ぶと、赤い玉を月に向かって差し上げた。



 ごおおおっと一陣の風が吹き抜ける。その風があかねの身の回りを取り巻き始める。
「あたしは負けないっ!絶対に負けないんだからーっ!!」
 目の前の空間が歪んだ。真っ赤になってメラメラと炎が渦巻く。
 赤い炎は業火のようにあかねを包んでいく。その炎の中、息が出来ない。身体全体が熱く、溶け出してしまいそうな激しさだった。それを耐えながら、あかねはもがき続ける。

『あかね…。』
 苦しい息の中であかねは誰かの声を聴いた。
 さっきの少女が口にした名前だ。

「誰?あたしを呼ぶのは。」
 心の声で、その声の主に叫び返す。

『あかね…。あかね…。』
 聞き覚えのある声。張りのある青年の声。懐かしい声。その声が呼ぶ『あかね』という名前に、心が揺れた。

(そう…あたしの名前はあかね…。)

『おまえ、自分の名前を思い出したんだな。』
 声の主は囁いた。

(ええ…。さっきの女性のおかげで…。違和感がない、この名前。確かにあたしの名前。あかね…。そう、あたしはあかねと呼ばれていたわ。)

『良かった…。』

 目の前をさっきの青年の身体が白く浮き上がって輝くのが見えた。

『あかね…。これから何が起ころうと、自分と、そして、俺を信じろっ!』
 青年の身体はゆっくりと自分の前を通り過ぎていく。
『いいなっ!俺の心は、いつだっておまえの側に在る。これまでも、これから先もずっと…。おまえは俺の、大切な「許婚」なのだから…。』

「許婚…。」
 その言葉にはっとしたあかね。
「許婚って、あなた、いったい…。誰なのよっ!」

『その答えは自分で出せ。あかね…。おまえならきっと見つけられる。自分を信じていれば。』

「待ってっ!ねえ、待ってっ!」

 そう叫んだ時、何か強い力が己を包んだ。彼との会話もそこで途切れた。暗い闇が下りてくる。声も何も通らない世界。

『おまえは、玉に身体を移すね。そして、永遠に赤い玉として、輝くがいい。ふふふ、さよなら、あかね。』

 シャンプーの声が遠くから聞こえた。
 いつの間にか風は止んでいた。上から降りてくる闇。

『塗りこめられて、この赤い玉の指輪の中からこちらを見ているがいい。』
 
 少し先に別の世界があった。

「あれは…。」
 そこへ駆け寄り、手を伸ばそうとした。だが、見えない壁で区切られているようで、その世界へは触れることも声を通すこともできない。
 向こう側にはさっきの娘と青年が対峙している。青年の目は虚ろげに娘を見詰めている。

『さあ、行くね…。魔道王さまが待っている。』
 向こう側で娘が青年に声を掛けた。
『あとはまた、明日の夜ね…。そう、おまえ、そこから私と彼の結婚式、見ていればいい。』
 そこで途切れる声。と同時に、映像のような世界が閉ざされていく。先にあった世界が暗闇に全てが飲み込まれていくのだ。
 閉じるように光が消えると、真っ暗の闇の中に取り残された。

「あたし…この先どうすれば。」
 不安が過ぎる。
 信じろと彼は言った。己の力を信じていれば、答えは見つけられると。
 だが、それは余りにも漠然とし過ぎていた。答えを導き出すには。


 あかねは空に漂いながら、天を仰いだ。暗い空間の中に、一筋の光が差し込めるのを確かに見た。
「あれは…。」
 一瞬見間違いかと思った。もしかして、さっきの世界がまた、壁の向こう側に開けたのだろうか。
 いや、どうやら光の漏れ方がさっきと少し違う。どう表現したらよいか分からないが、清々とした輝きが一筋、そこから闇へと差し込めている。
 その光に導かれるように、あかねはそちらへと歩き始めた。





「おばばっ!」
 またムースが慌てて駆け込んで来た。
「どうした?ムース。」
 コロンは手を止めて彼を振り返った。
「また何ぞ、動きでもあったか?その本に。」
 ムースは頷きながら怒鳴った。
「ああ、そうじゃ。あかねの名前が浮き上がったんじゃ。また…。ほれここに。」
 確かに消えていた彼の名前が薄っすらと浮かび上がっていた。薄墨のように白に近い灰色でだ。
「どら…。おお。ほんに、これはあかねの名前。」
 コロン婆さんはじっと視線を移した。
「おや、婿殿の名前の字、濃くなったとは思わぬか?」
 婆さんは目を丸くして穴が空くほど「魔道書」を見詰めた。
「そう言う風に見えなくはないじゃな…。」
 眼鏡を近づけながらムースも覗き込む。

 とその時だった。見詰めていた字が薄暗くなる。
「おばば、電気を切っただか?」
 ムースが怪訝に婆さんを見返した。
「いや、電気ではない。外だ。外を見ろ、ムース。」
 コロン婆さんは窓辺へと駆けた。そして窓をがらっと開いた。

「曇ってきただか?…いや、それにしては暗すぎるかのう。」
 近眼のムースは眼鏡を外した。
「違うっ!太陽だ。太陽が…。」
 コロン婆さんは叫んだ。
「消えたっ!」
 さっきまで天上から照っていた、柔らかな秋の日差しは、忽然と消え去っているではないか。いや、そればかりではない。空には冬の星座が輝いている。
 道行く人々が騒ぎ始めた。
 日食などではない。日輪さえも見えない。街灯がポツポツと照り始めた。センサーが働き始めたのだろう。

「太陽が…消えた。消えてしまった…。一体何が起ころうとしておるのじゃ。いや、もう既に、始まってしまったのじゃ。一番恐れていた、世界の暗転が。」
 コロンは持っていた「魔道黙示録」をパタンと閉じた。

 ムースは再び、床へとひざまずき、一心不乱に祈り始めた。





つづく






(c)Copyright 2000-2012 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。