◆心(MIND)
第五話 記憶の欠片



一、


 あの日から、紅玉の様子が変わった。

 それは誰の目にも明らかであった。
 それまでは、何疑うことなく、ばあやの言うことを素直にきいていたのに、どこか素振りに迷いが見え隠れするようになっていた。
 あからさまに、白金に対して拒絶はしないものの、何となく、距離を置きたがる彼女が居た。それだけではなく、何か考え込むことが多くなった。

「不味いな…。」
 ばあやは溜息交じりで彼女を見た。
「記憶は幾重にも封印してあるから、いきなり解けてしまうことはないだろうが…。」
 複雑な表情であかねを見るのは、ばあやだけではなかった。

 いや、紅玉の「許婚」の白金の方がより深刻に事態を考えていたかもしれない。
「結婚式は目前だというのに…。」
 そう言いながら溜息を吐く。

 次の満月、その日に魔天の魔宮殿に赴き魔道王の前で永遠の愛を誓う。そして、人間である「紅玉」と結ばれて、魔人としての子孫を後世に残す。それが、白金の究極の願いだと言ってもよかろう。そのために、堕ちて来た少女の記憶を操作したのだ。
 魔人同士では交われぬ。それをこの男は承知していた。マイナスの因子が強すぎて、生まれてくるのは文字通りの「化け物」となる。人間の感情も持たぬただの醜い塊。何故そうなるのかは誰も知りえなかった。
 優れた魔人の血を送るためには、どうしても、「人間」という生き物の介在が必要だったのである。
 何故か魔人の女には生殖能力が殆どない。となると、自然、人間の娘にその役割を与えるのだ。それも、いつでも交われるというものではなかった。月の力が最大限、または最小限になる、満月もしくは新月の夜でないと、その交わりは不可能となるのである。
 だから、彼は「満月」が待ち遠しくて仕方がなかった。この前の新月の夜までに紅玉の記憶を全て操作したかったのだ。

「紅玉、満月の日には何が何でもおまえと…。」
 白金は醜い姿を日の元に晒しながら、不気味に笑った。
 赤茶けた肌。そして、鋭い爪と瞼のない瞳。獣の口のように耳元まで引き裂かれた大きな口。
 それが彼の正体であった。「紅玉」の前ではその醜い姿は晒さずに、人間へと変化をさせている。それも、妖気のベールをかぶってだ。だが、太陽の光の下では、その妖力を引き出すのはきつすぎた。彼が夜にだけ行動をするのも、その辺りに理由があったのだ。
 人間の「紅玉」はおそらく、己の正体を知れば、交わる気持ちはあるまい。何よりも、「記憶」を取り戻されるのが一番怖かったのだ。

 怜悧婆さんが乱馬に語ったように、前世界の記憶を取り戻し己を思い出すということは、この世界に於いての存在理由を失うということと等しいらしかった。
「どんな小さな破片でも、あの娘の記憶を取り戻させてはならない。何とかしなければ…。」
 彼はいろいろと姦計をめぐらせ始めた。


 一方、あかねは。

 この屋敷内で平穏に暮らしてはいたものの、あの晩以来、明らかに気持ちに変化が出始めていた。いや、自分だけではない。この屋敷の周りの人々も、白金の様子も変だ。そう感じ始めていた。
 何より、この「違和感」が何によるものなのか、漠然とした不安が彼女を包み始めていた。
 彼女はふと白金がはめてくれた黒い宝石の指輪に目を落とした。見たことがないような見事な輝き。黒ダイヤ。そう言う表現がしっくりする真っ黒な宝石。それをなぞりながら、指から外そうとした。が、いくら力を入れても抜けそうにない。自分の指に決められたようにぴったりとはまっているリング。普通なら、すっぽりと抜けるはずなのに、まるで肉にぴたりとくっ付いているかのようにピクリともしないのだ。
 力をこめても同じだった。指をねじってみてもだ。
 おかしいと思って、指輪を眺めた。

 思わす息を飲んでそのまま立ち尽くした。

 何か暗黒の霧のような物が指輪から発しているのが見えたのだ。
「何…。これ。」
 目を凝らしてもう一度見る。今度は何も見えない。

「今の…。気のせい?」

 恐る恐る指輪にさわってみる。黒く光るその指輪に。
 窓辺から差し込む夕陽の残照が指輪に反射した。

「え?」

 と、指輪から金色の光が射して、何かが浮き上がった。
 そのままあかねは息を呑んだ。そこには見知らぬおさげの青年がじっとこちらを見据えて立っていたからだ。

「あなた…。誰?」

 思わず声が出た。
 だが、青年は何も言わずに、黙ってあかねを見詰めていた。白く光る身体。恐る恐る手を差し伸べたが、すっと飲まれるように実態は掴めない。
 青年は何も言うことが出来ないのか、じっとあかねの前に手を差し伸べた。そして、あかねの左胸辺りを指差した。心臓のある辺りだ。
「心臓?…。」
 そう言い返したとき、太陽の光が翳った。それと同時に、青年の姿は跡形も無く消えていた。

『俺を 思い出して。』

 そんな切ない声が、彼の消え際に響いたような気がした。
 太陽の光が消えたとき、何事も無かったように静まり返る部屋。

「今のは…。」

 あかねははっとして辺りを見回したが、もう彼の姿はどこにも認めることは出来なかった。

「俺を思い出して…。って…。あなたは誰なの…。」
 
 問いかけられた方へときびすを返した。だが、その声は一度きり、響いてきただけだった。
 確かに今しがた聞こえた声は、この前、白金と唇を交わそうとして、飛び込んできた声と同じものだった。聞き覚えのある声。
 あかねは悟った。
 今の青年を思い出せば、或いは自分を締め付けるようにのしかかってくる「違和感」を解き明かすことができるのではないかと。そして彼を思い出せば、再び会えるような気がした。何故かしら、彼に会いたい。そう思った。

「きっと思い出すわ。私、あなたのことを。」

 あかねはどこへと無く、そんなことばを口にしていた。

 そんな彼女を見詰める二つの冷たい瞳。

「あかね…。思い出そうとしても無駄ね。乱馬のことは絶対思い出せない。そう、思い出せずに苦しむがいいね。おまえの苦しみは私の悦び。……そして、満月の夜、魔道王様の闇の力で指輪の中の乱馬と入れ替わるが良いね…。永遠にその指輪の中に閉じ込められて、私と乱馬の幸せな姿を見つめるが良い。ふふふ、ははははは。」

 心で呟くと、あかねの部屋の窓辺から、一気にジャンプして地面へと降り立つ。美しい猫。シャンプーだった。



二、


「今夜こそ、記憶を一掃してやるわいっ。」

 ばあやはそう呟くと、ゆっくりとあかねの寝顔を見返した。
 丑三つ時、彼女は毎夜、あかねの部屋へ忍び込む。そして、手を翳し、魔術を使ってあかねの記憶を操作していた。
 この前までは何の拒否反応も無く、すっと魔術は効いていた。
 だが、このところ何日間かは、彼女の記憶操作の魔術の効きが悪い。白金が本性を現しかけたあの夜以来、それは顕著に感じだれた。どんなに魔力を駆使しても、紅玉としての偽の記憶が上手く彼女の脳へと入っていかないのだ。今まではそんなことはなかった。
 今夜も、そっと彼女の寝屋へと忍び込み、手を翳して偽の記憶を彼女の脳内へと送り込もうとしていた。

「ちっ!今夜も何かが邪魔している。」
 そう吐き出しながらも、ばあやは満身の力を振り絞って、あかねへと術を送り続けていた。術は夢という形で、彼女の脳内へと浸透させてゆく。それが、一番効果的であり、あかねにも気付かれずに事を進められるからだ。
 クンと力を込めて、ばあやはあかねの額へと手を伸ばした。


 その掌の下。あかねの夢の中。

 辺り一面、真っ赤な薔薇が開き、甘い香が漂っていた。
 その中から浮き上がる、一人の青年。彼は、薔薇を愛でながらふとあかねの方へと微笑みかけた。

『紅玉。』
 そう呼ばれて、あかねは微笑み返した。
『あかね…。愛している。』
 青年の瞳が妖しく揺れた。
『私もですわ、白金様。』
 そう言いながら自然に手が青年へと伸びていく。その手を白金はすっとつかんだ。柔らかい手。優しい手だ。
『ほら、もうすぐ僕たちは夫婦になれる。子供の頃からずっと、この日を待ち続けてきたんだ。君の無くなった両親との約束、君をこの世の誰よりも幸せにするという約束。必ず果たすから…。紅玉。』
 ゆらゆらと浮かび上がる彼の姿。優しくて温かいその息遣い。恋に恋する熱い瞳を、青年へと手向ける。
『全てを僕におくれ。君の記憶も全て……。』
 青年はそう言いながら静かに笑った。
 こくんと揺れる頭。
『そうだ…。君の頭の中、僕のことで一杯にしてあげる。目を閉じて、頭を空にして…。』
 まるで催眠術をかけているように、ゆっくりと継がれる言の葉。


『紅玉…。』

 すっと伸びてきた腕に抱かれようとした時だった。


『駄目だ。自分の記憶を手渡してはっ!』
 いずこからか、凛とした声が響き渡ってきた。

『紅玉…。そんなまやかしの声に耳を傾けるな。』
 それに反応して、厳しい白金の声が側で飛ぶ。

『まやかしはそっちだっ!おまえの本当の心を吸い上げて、偽の記憶を埋め込もうとしているんだっ!奴の言いなりになるなっ!』
 また響く声。
 
『紅玉、幼き頃から、私はそなたを見詰め続けてきた。そっちこそまやかしの声だ。』
 激しく白金が言い含めば
『違うっ!おまえの側にずっと居たのは、そいつじゃねえっ!それはこの俺だっ!』
 と応酬してくる。
『紅玉。目を閉じろ。耳を塞げ。そんなまやかしの声に惑わされるなっ!!』
 白金の厳しい声に逆らえず、あかねはぎゅっと目を閉じた。
『いい子だ。紅玉。じっと俺様にその身を預けろ。そうすれば、何も不安はない。』
 勝ち誇ったような白金の声。

『そいつに身を預けるなっ!おまえを本当に心から愛し、見詰めてきたのは、俺だ。思い出せっ!全てをっ。おまえの許婚は、そいつなんかじゃねえ。それは…この俺だっ!!目を開けっ!そして周りを見るんだっ!』
 記憶のかなたの声がいきなり大きく叫んだ。

 あかね、はっとして目を見開いた。強い光が声の方からかがやき始めたのだ。その眩しさに、思わず、閉ていた目を大きく見開いた。
 その視線の先に、浮かび上がる、おさげ髪の青年。凛々しく逞しい腕は、白金のそれよりも精悍だった。
 思わず釘付けられる視線。

『おまえの傍らにはいつも俺は居る。忘れるな。……。』

 青年はそう告げると、眩い光の向こうへと消えていった。



 光が静まった時、はっとして目が覚める。
 がばっとベッドから身を起こした。
「どうなされましたか?」
 ばあやの声が側で聞こえた。
「ばあや…。」
 あかねは深く息を吐き出すと、傍らの老婆に声をかけた。
「こんな夜中に…。何をしているのです?」
 荒い息を吐きながら、あかねはばあやに問いかけた。ばあやはにっこりと微笑むとゆっくりと言ってのけた。
「いえ、さきほどから夢でうなされておられる声が聞こえましたものですから、様子を伺いにまいっただけでございますれば。」
 
「夢…。うなされる。」

 もしかしたらありえる話だとあかねは思った。

「私はそんなにうなされていまして?」
 小さく訊くと
「うわ言で白金様をお呼びでございましたので…。」
 目を細めながらばあやは言った。
「白金様の名前を…。」
「紅玉様にとって白金様は、うわ言で呼ばれるほど。大切な方でございましょう?」
 強く訊かれた。
「え、ええ…。まあ。」
 あかねは戸惑いがちに答えた。今まで仕込まれてきた偽の記憶がばあやの言葉によって刺激されたのだ。
「ごゆっくりお休みなさいませ。まだ夜明けには時間がありますから。」
 ばあやはそれだけを言い置くと、部屋から立ち去った。


(やはり、このままでは不味い…。今のうちになんとかしなければ…。)

 そう思った彼女は、蜀を持ったまま、白金の部屋へと向かった。
 漏れる明かり。白金はまどろむことなく、起きていた。闇の世界を持て余すように。そう、元々彼ら魔人は夜に活動をする民だ。太陽の下よりも闇の中の方が心地良いのである。
 ばあやの話を聞いた彼は、ふっと言葉を吐き出した。
「そやつの正体を暴き出し、二度と紅玉に近づけぬようにせねばな…。このままでは、彼女の記憶が白くはならぬ。あとあと面倒なことになりそうだからな、ばあや。」
 コクンと頷くばあやの瞳。妖しく光り輝いていた。
 


三、


 次の日の晩。
 寝る間際に、ばあやがあかねに、温かい飲み物を持って現れた。

「紅玉様、今宵も悪夢にうなされては、気が休まることもありますまい。これをお飲みなされ。」
 そう言ってマグカップを差し出した。
 つんと匂う薬草の香り。
「ぐっすり眠れる、ローズマリー茶でございますよ。。」
 ばあやは皺くちゃの顔をあかねに手向けて笑った。あかねは何の疑いも無く、そのマグへと手を伸ばす。ばあやの入れた飲み物だ。そのまま素直に口をつけた。
 ふっと香るハーブ。確かにローズマリーの風味が漂う。甘くもなく、苦くも無い。あっさりとした味わいだった。

「悪夢は浅い夢の中に浮かぶと言いまする。これを飲んで、深い眠りへ入られませば、朝まで目覚めることなく、深い眠りにてお休みになられまする。…では、私はこれにて…。」
 そう言うと、ふとこぼれる笑顔。
 マグを傍らに置くや否や、眠りがあかねの意識を引っ張りこみに来た。漏れる欠伸に身を任せると、あかねはそのまままどろみ始める。

「朝まで…ごゆっくり…。」

 枕元でばあはやふっと笑った。それから、そこに立っていた、白金へと目配せする。

「今宵は月も星もなく、厚い雲が夜空を覆っておりますれば…。何事も穏やかにことが運びましょう。せめて夢の中で、紅玉様をお抱きなされ…白金様。」
 そう告げると、ばあやは、招き入れた白金に囁いた。白金はわかっていると言わんばかりに、一つ頷き返すと、あかねの枕元に立った。それから、何やら呪文を唱え始める。
 と、白金の身体が青白く光り始めた。そして、その光は傍らで眠るあかねにも飛び移った。
 二人の身体が発光し始める。
「このままあかねを異空間へ連れて行く…。邪魔者が入らぬように。」
 そう言ってにっと笑うと、白金の姿も、あかねの姿も、部屋からすっと浮き上がって消えた。闇に飲み込まれるように。



「紅玉。紅玉…。」
 傍らで名前を呼ばれた。
 ふと目を転じると、己の身体を嬉しそうに白金が抱き上げていた。
「白金様?」
 あかねは上目遣いで彼を見上げた。見ると彼は花婿衣装に身を包んでいた。そう、偽の記憶の中に埋め込まれた、この世界の結婚の装束だ。白い絹の衣は、着物のそれに似ている。首からは色とりどりの宝石が光っている。
「今日でやっとそなたと結ぶことができる。」
 にっこりと白金が笑っている。それだけではない、己の装束も、白い花嫁衣裳だ。白金のそれと対になるようにあしらわれた美しい絹衣。柔らかくあかねの肌を包んでいた。衣装のあちこちに色とりどりの生花。その甘ったるい匂いが漂っている。
「さあ、神殿に二人で行こう…。」
 白金はそう言うと、あかねを抱いたまま歩き始める。

 まだ本当の式の日までには時間があった。だが、彼は、「紅玉」の周りに漂い始めた「あやしの気」に気がついていた。あの日、自分の妖気をはがした、得体の知れぬ「光」が、あかねを守ろうと取り巻き始めたことを、魔人の感で察知していたのである。えおれは、ばあやの術があかねに効かなくなりはじめたことと、密接な関係があるということにも気付いていた。

 ここはあかねの夢の中に似せた、異次元空間であった。この「魔道黙示録」の中に幾重にも張り巡らされた特殊な空間の一つ。そこへあかねと共に入り込んだのだ。あかねを狙っている「得体の知れぬもの」への危惧を強めていたのである。その正体を是が非でも確かめたかった。
 己からあかねを引き剥がそうとする、「敵」それを暴くために、この空間へそいつを誘い込もうというのだ。
 この空間は白金の作り出した空間であった。だから、他の誰が侵入しようとも、力の源は白金にある。言い換えれば、どんな力もこの中では無力になるのだ。魔族一人一人が持つ、魔空間。そう言いかえれば良いだろうか。

 あわよくば、ここであかねと婚前に交渉を持っても構わぬという下心も微かに働いていた。
 白金は、一日も早くあかねを己の物にしたかったのである。それほどあかねは魅力的だった。
 あかねを物にするためには、情緒をたっぷりと出し、それとなく、ステージへと誘い出さねばならぬだろう。
 眠りに落ちていた今のあかねは、夢の中なのかそれとも現実の世界なのか、つかみかねている筈だ。ここで強引にでも、あかねと契りを結べば、もうあかねは逃げられない。紅玉として記憶が固定され、少なくとも魔道書から外へは出られなくなる。
 純情すぎるほどガードが固い彼女ならば、自分の作り出した亜空間で結婚式を演出してみせるのが一番だろうと、ばあやに計略を持ちかけられたのだ。
『紅玉様を白金様以外の者へ、視線を向けられなくしてやれば、事は簡単に終わります。このような純情な女子は一度、啼かされた男に全てを捧げまするでしょう。その上で、満月の婚儀を迎えられればよろしいのです。』
 ばあやは笑った。
『万が一、紅玉の記憶を邪魔している者が居ますれば、この空間にて討ち取ればよろしいのです。白金様の空間では、他の者は術を使えませぬ。そこで滅ぼしてしまえば、何事も憂いはなくなりましょうや。』
 

(来るならば来い。私の邪魔はさせぬっ!)

 大いなる下心を秘めながら、白金は辺りの気配を探った。
 どこにも気配はなかった。不逞の輩が入り込む隙はないのだろうか。
 白金ははにかむあかねをそのまま、自分の空間にそれらしく作り出した「幻の神殿」へと誘った。
「ここで誓いを交わせば、紅玉は僕のお嫁さんだよ…。もう離しはしない…。」
 そう言いながらそっと耳元で愛を囁きかける。
 神殿の扉が独りでに開いた。このままここで誓いを上げる。白金の目が妖しく光った。

『そうはさせねーっ!』

 すぐそばで男の声がした。

「来たなっ!曲者っ!!」

 白金は待っていましたと言わんばかりに、目を見開いた。

「白金っ!」
 あかねは思わず、白金の身体をぎゅっとつかんでいた。
「大丈夫、紅玉。僕たちの愛は誰にも邪魔立てさせない!」
 頼もしそうに白金は答えた。

『それはどうかな…。』

「来いっ!紅玉を惑わす邪悪な魂よっ!」
 この世界では己が全ての不文律だ。それを知っている白金は余裕で敵を出迎えた。いや、少なくともそのつもりであったのだ。
 すっとあかねを側に下ろすと、ゆっくりと身構えた。
「姿を現せっ!邪悪な者よっ!」

『どっちが邪悪な者か、思い知らせてやらあっ!』

「な、何っ?」

 傍らに居たあかねの薬指から、光が輝き始めた。そう、自分があかねに授けた指輪から光が満ちてくるではないか。
「黒魔石か?」
 あかねの指輪を打つわけには行かず、思わず白金は対応が一歩遅れた。
 そうこうしている間に、指輪が一等激しく光り輝いた。

「あなたは…。」

 あかねは指輪から現れた一人の青年に目を見張った。
 目の前でおさげ髪がゆらゆら揺れた。あかねの前に立ちはだかるように出現した金色の青年。

「貴様…。何者だっ!何故紅玉と私の恋を邪魔立てするなーっ!」
 そう叫ぶと、白金は己の気を爆発させた。白金を迸った気はそのまま金色の青年に向けて飛んだ。
「終わりだっ!」
 そうにんまり笑って、白金は気を撃ちつけた。
 ドンと気が弾け飛ぶ音がして、あかねの目の前で炸裂した。もうもうと上がる気炎の煙。

「そ、そんな…。」
 白金は蒼白になって目の前の事態を見詰めた。
 ここは己が作った世界。ならば、己が解き放った攻撃は、全てを飲み込む威力があるはずだ。言いかえれば、目の前にその男が無傷で立って居る可能性は皆無に等しいのだ。だが、金色の男は何衝撃を喰らうことなく目の前に立っていた。
「き、貴様っ!そうか、実体ではないのかっ!」
 白金は思わず叫んでいた。
 目の前の男はにんまりと笑った。
『こいつは誰にも渡さねえっ!どんな奴にもな…。』
 そう言うと男はあかねの腕をつかんだ。

「え…。」

 あかねの身体はすっとその男へと引っ張られていく。

「実体でないおまえが、何故、紅玉をつかめるっ!」
 白金の言葉に彼は笑いながら答えた。
『黒魔石の指輪は、彼女にしっかりと固定されているからな…。だから、妖の異空間だけでは、俺は、彼女に触れることができるんだっ!来いっ!こんな世界、俺が蹴散らしてやるっ!!』
 男はそう叫ぶと、あかねから離れている左手を、白金に向かって翳した。

 ドオオーッ!

 彼の掌から発せられた気は、白金目掛けて炸裂した。

「チクショーッ!!」

 白金の絶唱と、その世界が弾け飛んだのは、ほぼ同時であった。
 その衝撃を交わすためか、あかねは青年の身体にぎゅっと抱きしめられた。逞しい胸板。懐かしい感覚。
(私はこの男(ひと)を知っている…。そう、白金様よりも、もっと大切な…。)
 思わず縋る手に力が入った。

『そうだ…。思い出せ。俺のことを。そして、おまえ自身を…。そうすれば、再び巡りあえる。虚構の身体ではなく、この腕でおまえを抱きしめることができるんだ…。思い出せ…。全てを!俺は待ってる。おまえが思い出してくれるその時を…。』

 激しく戦慄く空間のきしむ音と共に、あかねの身体は、その青年と共に落ち続けた。

「私…思い出す。絶対、あなたを思い出すから…。」

 遠のく意識の中で、あかねはそう叫んでいた。

『…俺は、俺はいつも、おまえの側に居る。たとえ離れ離れになっていても、心は一つ。おまえは俺の許婚だから。…あ…ねっ!あ…ねーっ!!』

 遠くなる声の中で、自分の名前を言われたような気がした。
 だが、彼女はそのまま気を失ってしまった。




四、

『…俺は、俺はいつも、おまえの側に居る。』
 耳元から声が遠ざかる。
 いつも聞いていた声。懐かしい誰かの声。
 その後、自分の名前を呼ばれたような気がした。多分、それは本当の名前。
 だが、迫り来る闇が、そんな自分の意識を沈めた。

(あなたは…誰。そして、私は…。お願い、もう一度、顔を見せて。あたしを見詰めて…。)

 消え行く意識の中で、ずっと感じていた温かい気。手放したくない。そう思って掴んだ手。その後に訪れた「暗転」。


 ふっと意識が浮き上がった。

「あら、目が覚めたのね。」
 見開いた目の先に、見慣れぬ女性の顔があった。年の頃は己と同じくらいだろう。長い髪を後に束ね、こちらを心配そうに見下ろしていた。

「怜悧様っ!この子が目覚めたよっ!」
 そう言って奥のほうへ声を荒げた。

「どらどら…。おお、本当じゃ。ずっと行き倒れたまま眠っていたから、どうにかなってしまったかと心配しておったが…。」
 怜悧と呼ばれた婆さんがあかねを上から見下ろしていた。

「わたし…。ここは…。」

「ここは、女里じゃ。」
 老婆はそう言うとじっとあかねを見詰めた。
 こことは違う上等な薄絹衣を纏ったあかね。
「おまえさん…もしかして、「玩具」として扱われておった女人かのう。」
 そう言って目を細めた。
「玩具?…」
 聞きなれぬ言葉を受けて、あかねがきびすを返した。
「その衣、魔人の世界の装束じゃでな。」
 物知りの婆さんなのだろう。あかねをじっと分析する婆さん。
「まあ、良い。おまえさん、名前をなんと言う?」
 この世界の最初の問い掛けをしにかかった。
「わたしは…。紅玉です。」
 そう言ったまま言葉が詰まった。いや、本当にこの名前が己の物なのか、すっと疑問が浮かんだからである。

「ほお、紅玉さんと申されるか。既に通り名が付けられておるのじゃな。」
 婆さんは目を細めてあかねを見返した。
「で、おまえさん、どこから堕ちてきなすった?」
 その問い掛けには、最初から言葉が詰まった。
 確か自分は、住んでいた館のベッドで、普通に就寝しただけであった。そして、夢の中で、白金と逢引していたところを、光る男性に邪魔された。そして、彼と共に、猛スピードで落下してきたのだ。それも、夢の世界の出来事だった筈である。だが、実体は、ここの見知らぬ場所に居る。
 どう説明してよいやら分からずに、あかねは戸惑いながら、言葉を返した。
「ごめんなさい…。良くわからないんです…。ただ、ベッドで眠っていただけなのに、夢を見て、そして、気がつくとここで目覚めたとでも言うのかしら…。」
 あかねは深い溜息を吐いた。
「どうやら、それは本当のことらしいね。ワシが見立てたところ、…大方、現世(うつしよ)から堕ちて来なすったときから、魔人に目をつけられて、そこで囲われていたのじゃろうて…。で、何か、事情があって、ここへ堕とされたか、自分で堕ちてきたかの、どちらかなんじゃろうて。」
 婆さんが言おうとしていることは、まったくもってあかねには理解が不能だった。「堕ちる」という言葉が理解できなかったのだ。
「良くわからないんですけど…。その「堕ちる」っていう言葉の意味が。」

「ここは、現世からこの魔人の世界へと堕とされた者が身を寄せ合っている村里なんじゃよ。おまえさんも、記憶が全くこそげ堕ちているのなら、現世から堕ちてきた人間なんじゃ。」
 婆さんは、前に乱馬にしたような話を、あかねにもかいつまんで説明し始めた。

 ここは、呪いを穿たれて堕ちてきた女人のたむろする村であること。そして、この世界を牛耳っている「魔人」たちのことを一つ一つ丁寧に話して聞かせたのだ。

「おそらくおまえさんは、人間界から堕ちて来る途中で、魔人の世界へと引き込まれたのじゃろうよ…。もっとも、それだけ清廉な気を備えておるのじゃ。拾い上げた魔人あたりが、そのまま、偽の記憶を植えつけて、契ろうとでも思ったのじゃろう。」
「契る…。」
 そう言われてあかねは絶句した。白金とのやり取りを思い出したからだ。
「どら、おまえさん、覚えていることを洗いざらい話してみりゃれ。さすれば、少しはすっきりするじゃろうて…。」
 婆さんは今度はあかねの身の上を聞き出していた。
 これも、この村を治める長老の務めの一つである。ここへ迷い込んできた娘のこれからを定めるために、欠かせない作業であった。

 あかねは、ゆっくりと、思い出せるだけのことを話した。
 白金という婚約者が居たこと。そして、結婚が目前だったこと、それから、ばあやに気付け薬を飲まされて昨夜は寝床へ入ったこと。また、白金との夢の逢引を邪魔した、一人の光る青年のことも忘れずに付け加えた。
 婆さんは、傍らの長髪の娘と、黙って頷きながら、あかねの身の上話を一通り聴いていた。

「…で、私は、気がついたらここに居たんです…。これが覚えていることの全てです。」
 聴き終わると、婆さんはあかねに言った。
「その、白金たらいう男、おそらく魔人じゃな…。」
「え?」
 あかねはぎょっとして顔を上げた。
「ち、違います、白金様は人間です。私の両親が決めた許婚で…。」
「いや、百中九十九は偽の記憶じゃよ。それも巧妙に操作されたな。」
 と怜悧婆さんは言い切った。
「そうよ、紅玉さん…。怜悧婆さんが言うとおりよ。」
 横で娘も相槌を打った。
「まさか…。」
 戸惑うあかねに、怜悧婆さんは追い討ちをかける。
「その前の記憶が完全でないところが、動かぬ証拠じゃよ。第一、愛するものを「様」付けで呼ぶなど、あまりに不自然ではないのかえ?おまえさんの両親のことだって、一族の事だって、聞いた感じでは全て作り話じゃろう。魔人の目論みそうなことじゃ。」
 あかねは黙ってしまった。婆さんや娘が指摘するように、確かに不自然なことが多すぎた。当事者には気がつきにくいことでも、冷静な目を通した多謝からは、不自然に映ることが多いのだろう。

「白金という魔人はともかく、おまえさんをここへ導いた、光の青年…。彼のことの方が気になるのう…。」
 婆さんはあかねをじっと見詰めかえした。
「え?」
 あかねははっとして婆さんを見上げた。
「ワシが思うに、その男こそ、おまえさんの本当の相手なのやもしれぬぞ…。そして、多分、おまえさんと共に、この世界へ引っぱられてきた、な。」
「怜悧婆さんが言うとおりだって、あたしも思うな。」
「多分、そやつは、何らかの方法で、己を取り戻したんじゃ。ところが、何らかの理由で実体としては姿を現せぬのじゃろうて…。」

「そういえば、夢の中で彼が言ってた。俺のことを思い出せって。そうすれば、この腕でおまえを抱きしめることができるって。」

「きゃあっ!なかなか言うじゃないの、その男(ひと)。…きっとあなたのこと、心から愛してるのね。はあ…。ロマンだわ。」
 若い方の女性が色めき立った。
「これこれ、リナ!はしたない声ではしゃぐでないよ。」
 婆さんは嗜めるように言った。
「だって、そうじゃない?ここへはいろんな人が呪いを穿たれて落とされてきたけれど、初めてだもの。そんなことを話した娘ってさあ。」

「とにかく、ここで身体を休めながら、その御仁が言ったように、過去を思い出す努力をしてみなされ。……。これはワシの予感に過ぎぬが、或いはおまえさん、この世界の運命を握る鍵を持っているのかも知れぬ。」


 怜悧婆さんのとりなしで、あかねはこの村里に厄介になることになった。この村里の女人たちは、それぞれ、皆、一様に親切で、ここでの暮らしに慣れるのに、そう時間はかからなかった。

 あかねはリナとすぐ打ち解けて仲良くなった。
 元々温和な性格をしていたリナは、いろいろとあかねに話しかけてくれたし、また、この世界のことも懇切丁寧にあかねに話してくれた。
 昼間は闇の支配が薄れるので、あかねも比較的、自由に太陽の下へ出ることができた。

「久しぶりだな…。こんな木漏れ日。」
 あかねは照り付けてくる日の光を、眩しそうに見上げた。
 この世界へ来てからというもの、特に、白金の館では、殆ど外への散歩も許されなかった。ずっと深窓の中に大切に据え置かれていたのだ。それだけに、日光浴は、最大の贅沢のように思えたのだ。
「ねえ、この世界から抜けられた人はいないの?」
 あかねはふと湧いた疑問をリナに投げかけた。
「残念だけど、訊いたことはないわ。もしかしたら一人や二人、帰れた者が居るのかもしれないけれど、少なくとも、この村里から帰った者はいないわね…。でも、別の空間へ飛ばされる者は多いわ。大概、魔人の奴等が生殖のためにかっさらって行くんだけれどね。」
「ふうん…。」
「この前の満月の日にもね、一人さらわれていったわ。空間がぱっかりと開けてね。魔人に引きこまれていった。」
「へえ…。そんなことがあるの。」
「そうよ。だから満月と新月の日は気をつけないといけないの。誰が狙ってくるかわからないから。…それに、あんたさあ、次の新月に「白金」って男と結婚する筈だったんでしょ?」
「あ…。そうよね。そう聴かされていたわ。」
 白金のことをふと思い浮かべた。まだ、白金との生活が嘘なのか誠なのか、あかねには度しかねている部分があった。全てがまやかしだったと言い切れるのか、微妙な感情がまとわりついていたのだ。
「この前の満月に異空間へ飲み込まれたあの子、どうしてるのかな…。もしかして魔人に食われちゃったのかな。」
 リナは憂いた瞳を空へと投げた。
「その子、ここへ来て長かったの?」
 あかねは恐る恐る聞いてみた。
「ううん…。まだ数日ってところだった。初めて迎える満月だった筈よ。それを、いきなり魔人が「玩具」にするって現れて、さっさとさらって行ってしまったの。」
「へえ…。」
「怜悧婆さんは、あの子なら腕が立っていたから上手くやっていると言ってたけどね。でも、いくら強くても、相手が強い魔人なら…。抗っても無駄なのかもしれないけどね。」
「強かったの?その女の子。」
「強かったわよっ!その魔人が現れる前に、もう一匹魔人が来て、仲間を襲ってたんだけど、そいつなんかは一発でのしちゃったわよ!」
 と目を輝かせて言った。
「でも、もう一人の魔人にはかなわなかったんでしょ?」
 リナは暫し沈黙した後で言った。
「そうとも限らないと、あたしは思うけどね。あの子、今までここへ堕ちてきた娘とは少し違っていたもの。……怜悧婆さんもそう言ってた。それに婆さんの占いでここへ堕ちてきたのは仮初の姿だって卦が出たの。本当の自分を取り戻せたら、或いは、彼女は魔人たちを叩ける力を持っているのじゃないかってね。ほんとに凄く強かったんだから。おさげ髪を靡かせてね…。」

 あかねの顔色が少し変わった。

「おさげ髪…。」

 微かだが、心の奥深くで何かがその言葉に反応したのだ。

(あたしを包んでくれたあの男性(ひと)は、おさげ髪が揺れていた…。)

「どうしたの?紅玉。」
 急に押し黙ったあかねを、リナは不思議そうに見返した。
「あ、いえ…なんでもないわ。で、その仮初の姿って何だったの?どうしてそんなことが、怜悧婆さんにはわかったの?」
 話題を変えてみた。
「怜悧婆さんには、占いを読み解く力が少しだけあるのよ。その人のことを占いで少しだけ見ることができるの。」
「占い?」
「ええ…月の力を借りてね。でも、ただの占いって馬鹿にはできないのよ。かなり的中させちゃうんだから。ま、滅多に占いはしないんだけど。あかねだけは、興味が惹かれたみたいで、丁寧に占ってたわ。そしたら、出たの、今のその姿は仮初だってね。どういう意味だったのか、あたしには良くわからないんだけど…。」

 あかねの心には「仮初の姿」という部分が大いに引っかかった。

「名前はなんて言うの?」
 思わず食い下がって訊いていた。
「あかねよ。」
 リナはすらっと答えた。
「あかね?」
「この世界で仮初に名付けた名前だから、本当の名前じゃないと思うけれど…。」

 あかねという少女に興味を持ったあかねは、根掘り葉掘り、リナに彼女の風体やら年齢やらを訊きはじめていた。後に一つのおさげ髪。そして、気の技を難なく使う。何より瞳は深いダークグレイ。歯切れの良い男言葉。

「そうだ、怜悧婆さんも言ってたわね。この世界へ来て名乗った「あかね」っていう名前は、多分、その子にとって「縁が深い人の名前だろう。」ってね。」
 リナは何気に口にした。

(あかね…。縁の深い名前…。)

 心の奥が、トクンっと一つ鳴った。

(あたしも、その名前…知っている。誰の名前か思い出せないけれど、とっても身近でそして…。)

 そう思ったときだ。頭が割れんばかりにうずき始めた。キリキリと痛み始めたのである。
「紅玉?どうしたの…。」
 あかねのただならぬ気配に、リナの声ががなった。
「紅玉っ!紅玉ったらあっ!!誰かっ!怜悧婆さんを呼んできて、紅玉の様子が変なのよ!」
 


五、

「怜悧婆さん、どう?彼女の容態は。」
 心配げにリナが婆さんを振り返った。
「心配は無い…。ただの、拒絶反応じゃろうて。」
「拒絶反応?」

 ふっと意識が浮き上がったあかねを前に、怜悧婆さんは、神妙な面持ちで切り出した。
「紅玉よ…。あるいは、おぬし、本当の名前は「あかね」なのではあるまいか?」
 あかねは力なく怜悧婆さんを見上げた。まだ頭の割れんばかりの痛みは取れては居なかったのだ。ズキン、ズキンと響くような痛み。こんなことは初めてであった。

「おそらく、白金という魔人の差し金で、本当の名前を思い出そうとしたときに、そういう一種の拒絶反応を引き起こすように、術をかけたのやもしれぬ。いや、そう思った方が自然じゃろう。」
 それから、婆さんは持って来た杖をあかねの額へとあてがった。
「これで少しは痛みが柔らぐぞな。それっ!」
 ぶんぬっと力を丹田に込め、あかねの額へ宛がった杖に自分の念を入れた。軽く杖の先が光って、あかねの脳内から何やら妖しい黒い光を吸収した。

「やはりな…。ワシの力はここまでしか及ばぬが…。少しは痛みがとれたのではないかな?」

 言われてみて、なるほど、射すような痛みは取れていた。勿論、まだ鈍い痛みは残っていたが、我慢できないというほどではなかった。軽い頭痛。そんな感じだ。

「のう、紅玉よ。おぬし、「真実の泉」へ行ってみぬか?」
 
 怜悧婆さんが話しかけてきた。

「真実の泉?」
 きびすを返したあかねに婆さんは続けた。
「本当の姿を取り戻せる泉じゃ。光の国の者が作ったと言われる奇跡の泉じゃよ。」
「奇跡の泉…。そこへ行けば何かわかるの?」
「さあ…。それは何とも言えぬ。が、前にあかねというおさげ髪の少女を占った時、「真実の泉へ導け」という卦が出ておったのじゃよ。」
「あかね…。おさげ髪の少女。」
「おまえさんがここへ堕ちて来たのは偶然ではあるまい。何かの意志によるものかもしれぬ…。もうすぐ満月。その日は、この世界でも光が一番満ちる日じゃ。その月明かりと一緒に、泉へ身を浸してみればいい。」

「怜悧婆さん、でも、あの泉は…。」
 リナがはっとして声を荒げた。
 婆さんはリナを制して手をだっと横に出す。
「行きます…。あたし。その泉へ。その泉はどこにあるの?」
 あかねはがっと起き上がると怜悧婆さんを見返した。

「真実の泉は、魔天の魔王宮、そう魔道王の城の中にある…と言われておる。」
「魔王宮…。」
「ああ、この世界の覇者である奴の棲家の中にな。」

「危険すぎるわっ!怜悧婆さん、そんな場所へ彼女を。それに、泉の場所は誰も知らない…本当に辿りつけるかどうかもわからない場所ですよ。」
 リナは横から声をかけた。
「確かに、魔王宮は敵の懐。危険な場所じゃ。どうじゃ?それでも行くかな?」
 婆さんはじっとあかねを見据えた。
 こくんと縦に一度頭が振られた。
「行きます。私、自分を取り戻したい。……そして、そのあかねっていう娘に会いたい。」
「命を落とすかもしれぬぞ。」
「勿論、命だって賭けます。」
「ほほほ、いい目じゃ…。ワシにもう少し勇気があれば、おまえさんと共に真実の泉へ行ったかもしれぬがな…。」

 あかねは真実の泉目掛けて旅立つことにした。
 この世界はいくつかの空間のひずみで様々な次元へと繋がっているという。

「幾重にも重なったその空間のひずみを越えて行けば、必ずや、真実の泉へ辿り着けるじゃろう…。これをおまえさんに授けておこう。」
 婆さんはそう言うと、一振りの刀剣をあかねに差し出した。
「これは…。」
 古びた剣であったが、何か神々しい威厳のようなものが感じられる一振りだった。
「これは、光の国からこの世界へ伝えられた宝剣。あ、伝説ではあるがな。この剣を持って行くがよい。魔人を斬ることができる唯一の剣と言われておる。これで己を信じて進むが良い。おまえさんなら、きっと、その泉へ辿り着ける。」

 ありがたくその剣を押し頂くと、あかねは、女人の里を旅立った。道連れは居ない。ただ、腰へ、怜悧婆さんから受け継いだ宝剣だけを差して、歩き出す。


「怜悧婆さん…。あの子、一人で行かせていいの?真実の泉は恐ろしい場所なんでしょ。」
 あかねの後姿を見送りながら、リナが言った。
「ああ…。じゃが、誰かが行かなければ、この世界は…人間界へも仇をなすじゃろう。」
「人間界…。」
「そう。我らが故郷。それに…。元々、あの子を旅立たせるのがワシの役目じゃったんじゃよ。」
 婆さんは笑った。
「でも、その泉に辿り着けることは不可能に近いんでしょ?今まで誰も辿り着けなかった禁制の泉。そんな泉にあの子を…。無謀だわ。思慮に長けた怜悧婆さまらしくない。」
 婆さんはふっとなずむように微笑んだ。
「いや、あの子には力がある。多分、その力を求めて魔道王も動いておるじゃろう。あの子が望まずとも、魔道王は己の袂へ彼女を招き寄せたい。そんな暗黒の意志をひしひしと感じるんじゃ。」
「暗黒の意志…。」
「ああ、この世界が人間界にまで広がるか、それとも、滅びるか…。後には引けぬ運命の日が近いということなんじゃよ…。」
「そんな…。だったら、あたしたちは?ここに住む多くの民たちはどうなるの?」
「さあな…。後は命運をあの娘に託し天に決裁を仰ぐだけなのかもしれぬ…。それに。」
 婆さんはふっと天を仰いだ。
「ワシが導かなくとも、魔道王は彼女を引き寄せるじゃろう。ならば、自分の意志で向かえば良い。己の意志を強く持つことと、他者に引き寄せられることでは、意味合いが違ってくるからな。…それに、あの娘ならば、あの宝剣は使えるかも知れぬ。いや、あの娘を守る目に見えぬ強大な力ならば、きっと、光魔法を使えるじゃろう…。」
「あの娘を守る強大な力?」
 リナははっとして婆さんを眺めた。
「おまえも気がついたじゃろう?あの娘の左指の指輪から漏れる気を。微弱じゃが、慈しむように守るあの気脈を。」

 リナの片親は魔人。それゆえにか、少しだけ気を読む力を備えていた。

「あの指輪…。魔石に見えたけれど…。」

「ああ、魔石じゃ。正真正銘なな。」
「ならば手かせにはなれ、守ることはできないんじゃ…。魔石は魔人が作り出す妖の石でしょう?」
「…あの魔石の中には何かが居る。」
「何かって…。」
「恐らく、あの娘を守る強大な力の元がな。或いは、魔人に魔石に変えられた魂なのかもしれん。」
「じゃあ…。」
 こくんと頷く怜悧。それからまた言葉を続けた。
「あの娘は気がついておらぬようじゃが…。あの魔石には、彼女と強い絆で結ばれた者が宿っておるんじゃろう。…多分、それは、紅玉にとって、かけがえの無い存在じゃ。」

 手繰り寄せられる、運命の糸。

「いずれにしても、我々にできるのは、じっと見守るだけじゃよ。所詮ワシらは無力な存在じゃ。」

 己の無力を自嘲するように、怜悧婆さんは静かに笑った。

「紅玉…。あたしも、全てをあなたに任せる。自分の大切な存在を思い出して…。そして、この世界から皆を解放して…。魔人から。」
 リナも一緒にあかねの背中をじっと見えなくなるまで見送り続けた。




つづく





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