◆心(MIND)
第四話 黒い指輪




一、

「君は僕の「玩具(おもちゃ)」になるんだからね。」

 青年は乱馬を見据えて笑った。不気味な笑いだった。

「玩具…。」

 その言葉を耳にした途端、リナの顔色が変わった。

「あかね、あんた、一体…。」

 リナが何を言おうとしていたのか乱馬にはわからなかった。
 いきなり闇が彼に伸びてきたからだ。

「え?」

 と思った時は、身体が浮き上がっていた。

「あかねーっ!!」

 下でリナが叫んでいた。

「ふふふ…。僕の名前は風靡。今日は新月だからね。闇の力が増す日でもあるんだ。この日をずっと待っていたんだ。あかね君。」
 不気味な青年の微笑み。どこかで見たことがあるような顔つきだった。
(何だ…。この違和感は…。)
 真正面から男を見据えた。
「なかなか気の強そうな女だな。気に入った。どうだ?僕と契らないか?」
 奴は空を浮かびながら乱馬に声を掛けた。
「嫌だと言ったら…。」
 乱馬はその気合に飲まれそうになりながらも果敢に答えた。
「嫌だとは言わせない…。」

 奴はそう言うと、パチンと指を鳴らした。

「なっ?」

 浮かんでいた空間が一瞬にして歪んだ。
 締め付けられるような圧迫感。それを耐えて、必死で周りの状況を確かめようとした。

「ここは、魔人界と女里との境目の亜空間だ。満月と新月の夜だけ開く特別な場所。ここで夜明けまで遊ぼうではないか。」

 奴がすぐ先で笑っていた。

「遊ぶって?こんなところで何をしてだよっ!まさか、俺を手篭めにしようって腹つもりじゃねーだろうな。」
「やあ、君は本心では僕に抱かれたいとでも思ってるのかい?」
「バカヤロー!んなこたあねえっ!」
 すぐさま否定しに走った。
「まあ、何にするにも、手順ってのがある。」
「何の手順だっ!この助平野郎っ!」
「折角の新月の夜だ。この日にしか開かない、この亜空間で、どうだい?僕と鬼ごっこって。君が逃げて僕が追いかける。単純なルールさ。」
「あん?」
 乱馬は青年を見上げた。何を言ってやがる、このボンクラとでも言いたげな表情を返した。
「不服そうな顔だね。でも…、言ったろ?君は僕の玩具だって…。だから最後まで付き合ってもらうさっ!」

 風靡はそういい終わると当時に、乱馬に対して攻撃を仕掛けてきた。それも半端ではない気の技を。

「うわっ!」

 最初の一撃で乱馬は後方へと吹き飛ばされていた。勿論、身体は自然に受身を取り、大事には至らなかった。

「何しやがんでーっ!!」

「さすがに避けたね。ふふ、容赦はしない。君が撃たれて倒れれば、それまで。僕が君を食ってあげよう。その可愛い、血肉、余すところ無く。」
 そう言いながら、楽しそうに気を投げつけてくる。
 側の空間が歪むほど、その威力は強い。

「な、何なんだ、あの野郎っ!」

 有無も言わさぬ間に仕掛けられてくる技に、乱馬は思わず、逃げ惑っていた。
 はっきり言って危ない奴だった。
 文字通り、乱馬をいたぶるように、様々な角度から責めあがってくる。それも、わざと至近距離に撃ち貫いて、外しているのではないかという、ふざけた責め方だった。

「ほら、真剣に逃げないと、気の餌食になってしまうよ。」

 奴はさも楽しそうに笑っていた。逃げ惑う仔羊を追いかける狼。
 そんな形容がしっくりくるかもしれない。

(こ、これが魔人の強さか?)
 乱馬は逃げ惑いながら、昼間、少女を襲っていた大男のことを思い出していた。奴は一撃で倒せた。だが、この風靡という男は一筋縄ではいくまい。
 閉ざされた空間の中を、行き当たりばったりに逃げ惑っていると、いつしか壁際へと追い込まれていた。

「さあ、どうする?あかね君。逃げ場は無いよ。」

 男は前に立ちはだかった。

「くそっ!」
 
 乱馬は握りこぶしを突き出すと、気を籠めた。

 どおっ、とどこからか噴出す彼の気。
 風靡の肩の上をかすっていった。

「そんな技。当たらなければ無意味さ。」
 そう言うと身を翻して乱馬へと襲い来る強肩。
「くっ!」
 苦し紛れに乱馬は、身をふっと沈めると、指先を立っていた地面へと突きたてた。
 ぼわっと音がして、ぐにゃぐにゃのゴムのような地面が揺れ動いた。その一瞬の隙を突いて、彼は風靡の足元をすり抜けた。

「逃げれば逃げるほど、楽しくなってくるよ。あかね君。」
 彼はわざと自分を逃がしたのかもしれない。そして、最大限にこの鬼ごっこを楽しんでいるのだ。そう思うと背中に虫唾が走った。

『何をちんたらやっているんだ?情けねえ!』

 逃げ惑う彼の上に、そんな声が響く。男子の低い声だ。微かに聞き覚えのある声。

「えっ…。」

 一瞬辺りを見回したが、誰も居ない。

『こういうときこそ、あの技を使えっ!敵前代逃亡を!』

 また響いた。

「敵前大逃亡…。」
 読んで字の如くただひたすらに相手の攻撃から逃げ周り、反撃の機会を伺うという、無差別格闘流の情けない奥義の一つだった。
 勿論、今の乱馬は、そんな技の名前も、忘却の彼方にある。
 だが、無意識に彼は、走り始めていた。それも物凄いスピードでだ。
 女の身体をしている今は、力こそあまりないが、スピードだけはピカイチだ。

「なかなかやるねえ…。そうこなくてはな。」
 楽しそうに風靡が笑った。
 逃げ惑う獲物を追いかける猛獣。そんな言葉がぴったりとくる。獲物が逃げれば逃げるほど、追いかけっこはヒートアップしていくのだ。

『そら、攻撃こそ最大の防御…。おまえの力はそんな物ではない筈。』
 また声が響いた。
『おまえは「気」を自在に使いこなせる筈ではないのか。そのために、修業してきたろうがっ!』

 それは師匠の声なのか、それとも自身の心の声なのか、わからなかった。
 が、この状況の打破の、幾許かのヒントにはなった。

「気…。」
 掌を握ってみた。
(そうだ、昼間もあの野郎を倒した時、この掌から巨大なエネルギーが発せられた。現にさっき、こいつに追い詰められたときだって…。)
 逃げる乱馬の背中に向かって、青白い光が雪崩れ込んできた。

「あかね君。そろそろ決着をつけようじゃないか。」

 そう言いながら風靡が気を撃ってきたのだ。
 ゴウゴウと音を上げながら、乱馬のすぐ横を、彼の放った気が通り過ぎてゆく。それと同時に起こる激しい振動。彼のすぐ側で何かが弾けるのが見えた。

 岩壁のような塊がバラバラと落ちてくる。風靡は乱馬の側の空間を壊したようだ。そこにぽっかりと穴が開いた。

「うわあああーっ!!」

 闇がぐんと伸びてきて乱馬の身体を捕らえた。

「ふふ、捕まえた。」
 側で風靡がにんまりと微笑むのが見える。奴の腕は乱馬の身体をがっちりとつかんでいた。そして、そのまま、開いた別の闇の穴へと引き入れられる。




二、

 物凄い勢いで「奈落」の底に落ちている。
 そんな感覚が乱馬の身体を駆け抜けて行く。
 
「な、何だっ!この凄まじい力は…。」

 引き入れられながら、乱馬は辺りを伺う。暗い闇の中をぐんぐんと背中から引っ張られていく。
 そのうち、落ち方が緩慢になった。それから、いつしかぴたっと止まる。
 己の息と奴の息が重なるように響く。

「こ、ここは…。」

 目を見開くと、闇の中に己が浮かんでいた。手を差し伸べても、光はない。なのに、己の姿が浮かび上がる。自分だけではない。奴の姿もそこにあった。

「ここは君の心の世界だよ。」

 奴はにんまりと笑った。

「俺の心の世界?」

「ああ、それが証拠に、真っ暗だろう?何も見えまい…。」
 くくくと奴は楽しそうに笑った。
「心の世界…。」
「おまえの記憶は全て抹殺されたからね…。だから、光一つないだろう?塗りつぶされた闇の世界。」
 そう言いながら風靡は乱馬のに馬乗りになって身体を押し付けてくる。
「ここで…。君は終焉を迎える。」

「な…。」

「僕が君の心と共に、身体も記憶も全て喰らってあげるんだ。交わるのはやめた。君の潜在能力は素晴らしい。だから、喰らってあげる。そして、僕の魔力の源とおなり…。」

 ぐっと風靡は乱馬の身体に手をかけると、顔を鼻先に持ってきた。

「ここで、君と僕は一つに交わる。その嬌声を聞きながら、君を余すところ無く喰らってあげる。」

 シュウシュウと発せられる風靡の臭気に、乱馬の身体の感覚は痺れ始める。
 風靡の魔手が、乱馬の肢体へと延びる。
「まずは、その豊満な胸から揉みしだいてあげようか…。」
 そう言いながら、上着へと手をかけ、一気に縦に引き裂いた。と、乱馬の胸が、プルンと露わになる。
 

「ぐ…。嫌だっ!俺が誰かわからない、こんな状態のまま、こんなわけのわからねえ世界で終わりを迎えたくはねえっ!これでも喰らいやがれーっ!」

 乱馬は最後の力を振り絞って、それまでずっと溜め込んできた「気」を掌から撃ち放った。

「この期に及んで、悪足掻きかい?」
 乱馬の放った気を、紙一重で避けた風靡は冷たく言った。
 風靡の頬のすぐ傍を、乱馬の青い気砲が飛んでいく。
「気砲は当たらないと意味ないんだよ。」
 勝ち誇った瞳で、組み敷いた乱馬を上から覗きこむ。

 だが、異変はその直後に現れた。
 乱馬が闇雲に撃った気は、真っ直ぐに飛びぬける。その飛びぬけた先に、小さな光の裂け目が存在していたのだ。
 乱馬の打った気砲は、その裂け目へと飛びん込んで言った。
 

 ゴオオッ!という音と共に、裂け目に閃光が走った。まばゆいばかりの光。
 その光は一筋の輝きを纏いながら、闇の中に降り注ぐ。

「な…?」

 その光を受けて、乱馬の身体が光り始める。

「お、おまえ…。」

 呆気に取られたまま、風靡は目を見開いた。

 そうだ。光に反応するかのように、乱馬の身体が変化し始めたのだ。
 小さかった身体は、一回り頑強な骨格に、そして、ふくよかな肉体は筋肉の固まりに。愛らしい顔は凛々しい顔へ。
 少女の身体は、みるみるうちに少年へと変化する。

「俺に触るなっ!お、俺は、女なんかじゃねえ。俺は、俺は…男だあーっ!!」

 ボッと音がして、身体ごと風靡を弾き飛ばしていた。

「な、何故だ…。何故、おまえは男に変化した。女ではなかったのかっ!ど、どういうことだっ!」
 わなわなと風靡が震え始める。

「少しだけ思い出したぜ。俺は女なんかじゃねえ。俺は男だ。だから、てめえと交わるなんて気持ち悪いことはしねえっ!」
 
 乱馬の気が暴走し始めた。

「ち、畜生っ!は、話が違う…。うわああああーっ!」
 風靡の身体が青い炎に包まれ始めた。
 自滅。そんな言葉が似合う様(ざま)だ。
 


『風靡…。哀れな奴。それから、あかね、やっぱり、あんた、男だったのね…。嬉しいわ。』
 背後で声がした。

「誰だっ?」

 視線の先に、一人の女が腕組みしながら立っていた。そいつは、すっと音も無く近づいて来た。それから、炎に包まれながら悶える風靡を見て笑った。

「不用意に、獲物の心の世界へ飛び込むなんて。風靡らしくなかったわね。」
 
 やがて、風靡に燃え移った青炎は、じゅっと音を発てると、闇へと消えてしまった。

「風靡…。かわいそうに…消滅しちゃったわね…。」
 女は眉一つ動かさずに吐き出した。

「てめえ…。そいつと仲間じゃねえのか?」
 あまりに冷徹な言い方に乱馬は女を見返した。
「仲間?そんなんじゃないわ。」
 女はにっと笑った。
「奴はどうしたんでいっ!死んだのか?」

「ふふ、あなたたちの世界じゃそう言うのかもしれないわね。風靡は消滅した。この世界からね。…あなたの心の世界に不用意に入り込んだから、消えたのよ。あんたが、女から男に変化してしまったからね。
 でも、おかげであたしは入り込めた。あんたが男だってわかったからね。」
 
(こいつ、さっきの奴以上にできるっ!)

 乱馬の本能は大きく戦慄いた。
 強い者に対する警戒心が、強く波打ち始めた。

「あら…。あんた、やっぱり気を扱えるのね。」
 女は薄ら笑いを浮かべて乱馬を見返した。
「ふふ、生憎様。今この時から、あんたはあたしの玩具よ。」

「また玩具かよ…。今度は男の俺を抱きたい…とか言うんじゃあるめえな?」

「あら、そんな野暮なことは言わないわ。あたしはそんな風に玩具を扱わないもの。あたしは…玩具を美しいコレクションに加えるだけよっ!」
 女はだっと動いた。目も留まらぬ速さで。
 ピシッと乱馬の頬から血が滴り落ちる。いつの間に出したのか、鞭を持って、女は笑っていた。
「血もいい色をしているじゃないの。あんた、なかなかの男っぷりだから、極上の石になるわ。」
 そう言うと女は高く飛び上がった。

「なっ?」

 彼女は華麗に鞭をしならせた。
 しゅるっと音がして乱馬の腕に絡みつく。

「ほうら、捕まえた…。」

 にっと笑うと女は己の掌から、砲丸のような鉛色の玉を乱馬目掛けて打ち下ろしてきた。

「わああああっ!」

 それは一瞬だった。乱馬の身体に当たった玉から、もくもくと煙が立ち上る。瞬く間にその煙は乱馬を包む。煙に捕われた乱馬は、身動きできなかった。

「なっ!何だ?この煙は…。」
 と、ビシビチと音をたてながら、煙は乱馬へと纏わりついた。
「畜生、身体が言うことをきかねー!」
 煙は乱馬を捕えると、そのまま、玉へと身体を引っ張り始めた。乱馬の身体が、みるみる煙の収縮に合わせて縮んでいく。
「ど畜生!」
 張り上げた怒声と共に、乱馬の身体は玉の中へと飲み込まれていった。

 乱馬を飲み込むと、玉はそのまま、コトリと床へと落ちた。コロコロと転がると、女の足元で止まった。

 シュウウと煙をあげると、鉛色だった丸い玉は、漆黒の石へと変化していた。まるで磨かれた宝石のように、楕円形の美しい黒い石。


「ふふ、一丁上がり。」
 女は乱馬を飲み込んだ黒い玉をすっと拾い上げた。
 彼女は掌に玉を乗せると、そっと囁いた。

「記憶の欠片を少しだけ取り戻したところで気の毒だったけど…。それ以上思い出して貰っても困るからね。ふふ、その玉の中であんたは永遠に封印されるわ。美しい宝石となって、この私を飾るのよ。いい子ね。」

 女は黒い玉をツンと指で弾いた。と、乱馬を飲み込んだ玉は、指輪へと変化した。

「ふふ、きれいな大きな黒魔石になったわね。こんなに大粒のものは久しぶりよ。一点物の極上の黒魔石は指輪にするのが一番よね。」
 そう言って、女は己の右中指へと指輪をはめこんだ。
 







「おばばっ!大変じゃっ!」

 ムースが大声を出しながらがなりこんできた。

「どうした?」

 夕食の仕込をしていたコロン婆さんが、ムースを振り返った。
「こ、これを見るだっ!」
 ムースは抱え込んできた「魔道書」をおばばへと差し出した。
「おお、これはっ!」

 見開いた本。そこには「珊璞」という名前のすぐ下に、乱馬の名前が薄っすらと浮き上がっていた。それも赤い字でだ。

「おばば、シャンプーがこの本に名前を書き入れた時は、黒いペン字だっただな?」
 ムースは確認するように言った。
「ああ…。シャンプーも婿殿もあかねも、全て同じ黒色のペンで一様に書いておったぞ。確かにこの目で見た。それが…何故、赤色、それもこんなに薄く…。」
 名前が浮き上がってきたことを素直に喜んでいいのかどうか、彼らは迷っていた。
「何か、血の色にも見えないだか?」
 ムースは恐る恐る言葉を吐いた。
「血の色…。」
 はっとして本を見詰めたときだった。今度は珊璞と書かれた部分に変化の兆しが見えた。珊璞の字も赤く染まったのだ。乱馬ほど薄くは無かったが、かえって濃いのが不気味に浮かび上がっていた。
「こ、これは…。何で珊璞の名前まで変化しただ?」
 ムースは慌てた。
「一体何が…。何が起ころうとしておるのじゃ?」

 コロンはふうっと憂いた顔を差し向けた。
 何も出来ない己が、尽く「無力」に感じられた。
「シャンプー。オラの元へ無事に戻ってくれだ。じゃないと、オラは…。」
 ムースは祈るように手を前に組んで目を閉じた。
 脳裏に浮かんでは消える、シャンプーの笑顔。
 失いかけている愛する者の笑顔を取り戻したいと希(こいねが)うのは、誰しも思うこと。

「そうじゃ…祈る…。」
 ムースはふっと、面(おもて)を上げた。

「ムース?」
 彼の言葉に、コロンが声をかけた。

「一つだけ、シャンプーのために、オラができることがあるだ。」
 暗く沈んでいたムースの瞳に、一つ、光が灯った。

「おまえさんに出来ること?何じゃ?それは…。」

「祈ることじゃ。」
 ムースは言い切った。

「何を今更…。」
 と一笑にふそうとしたコロン婆さんを、ムースは真顔で観返した。

「これ以上、シャンプーが魔に染まらぬように…オラは心をこめて、祈り続けるだ…。」
 
 手には数珠と十字架、怪しげな祭壇や榊。ありとあらゆる祈りのためのグッズを並べて、ムースはかしずいて祈り始めた。



 猫飯店の夜は更けていく。




三、

『ほら、全ての記憶を書き換えてあげるよ…。もう戻れぬ世界の記憶など不必要じゃろう?それなら、いっそ、ここで新しい記憶を得て、そして、静かに暮らすがいい。』

 ぼんやりと頭の中で誰かが囁いた。
 いい香りが漂ってきて、真っ白な頭を包み込む。
 大切な人の面影がだんだんと遠くなる。その人はおさげを編んでいる。

『忘れなさい…。おまえが愛した過去の男のことなど…。きれいさっぱりと。いい娘(こ)だ。』
 漂う香の中に意識を鎮めると、記憶から全てのものが抜けていく。

 


「紅玉(こうぎょく)さま。もう夕刻にてございまするよ。」

 婆さまの声で目覚めた。
 いつもと変わりが無い平和そのものの穏やかな一日、それが日暮れようとして
いる。
 紅玉はベッドの中でくんと一つ伸び上がると、「もう起きなければね」と笑って見せた。穏やかな笑顔だ。何の汚れもない清廉な娘がそこに居た。
 長い髪が後にさわさわと揺れる。
 窓の外に目を転じると、斜陽の赤いがレースのカーテン越しに流れ込んでくる。庭にはその赤色に照らし出された花がたくさん咲き乱れている。ここは常春の温暖な里。
 紅玉は眠っていた床を下りた。絹衣がさらさらと音をたてる。
「紅玉さま、乱れた髪をおすきいたしましょうか?」
 起こしに来た婆さまがにっこりと微笑んだ。
「そうね、お願いしようかな。」
 婆さんは丁寧に櫛を持って、娘の髪をすき始めた。長くて柔らかい黒髪。はりのある瑞々しさに満ち溢れている。

「そうそう、今夜は白金(しろがね)さまがいらっしゃるということでございますよ。先ほど御使いがお見えになりました。」
 ばあ様はにっこりと微笑んだ。
「まあ…。」
 紅玉の頬に仄かに紅色が差し込めた。
「もうすぐでございますからねえ…。華燭の宴は。白金さまもさぞかし待ち遠しくていらっしゃいますでしょうに。白金さまが来られるまでに、入念に支度なさいませ。」

 そう言ってばあやは下がっていった。

 白金。
 彼は紅玉の「許婚」であった。
 この世界では親が全権限を持って、子供たちの相手を決める。いや、この世界でも、限られた上流階級の者だけがそうなのかもしれないが。
 幼い頃からそう教え込まれてきた自分には、何の違和感もなかった。そうあるのが当たり前であり、自由な恋愛に憧れたこともなかった。
 いや、同じ年頃の異性自体にめぐり合うことなど稀有に近い。それほどまでに深窓の中に育てられた花。それが「上流階級の娘」であったのだ。

「いつのまにか、良く伸びたわ。」
 紅玉は自慢の髪を鏡に映し出した。そして、クローゼットにかけられたドレスを一つ一つ自分の身体に宛がいながら、お洒落を楽しもうとしていた。最愛の男性を迎えるための。



「で、彼女は、紅玉は何一つ、自分の境遇に疑問は抱いておらぬのだな…。」
 鏡の向こう側で妖しい男の声がした。
 のっそりと現れた巨漢。ゴツゴツとした醜い肉片のような身体。ぎょろっとした目を瞬かせる。
「それは勿論でございます。旦那様。」
 さっきのばあやが答えた。
「殆どの記憶は、私が与えた新しい記憶へとすりかわりましてございます。」
 鏡に映し出していると思い込んでいる娘の艶やかな姿。それを満足そうに見詰めながら男は言った。
「次の新月の夜…。それまでに彼女の記憶を全て書き換えるのだ…。」
「心得てございます。」
「それにしても、あんな上玉がこの世界へ、しかも俺の元へ飛び込んでくるとはな。」
 にんまりと男は笑った。
「それだけ幸運が白金さまにも下りて来たということ。魔道王様の満願ももうじきと聞き及んでございますれば…。或いは人間界とここが入れ替わるのも、時間の問題かと…。」
「そうだな。忌々しき人間どもを薙ぎ倒し、混沌が再び地上へと現れる。面白いではないか。…その時、紅玉のような美妃が側に居れば。」
 男は満足そうに微笑んだ。視線の先には、美しい少女「あかね」。
 そう、紅玉はこの世界へ引き込まれた「あかね」だったのだ。

「さて、もうすぐ闇が下りてくる…。」
「そろそろお支度をなさいませ。旦那様。凛々しい彼女の許婚へと転身なさいませ。太陽の光がなくなった今なら、容易いことでござりましょうや。…。」
 太陽が西の窓に沈む。真っ赤に燃えて、燃え燻る光がすいっと山の稜線へと吸い込まれていく。やがて、辺りには闇が下りてくる。
 魔道書の世界とはいえ、ここには陽も月も確かに存在していた。この二つの天体は、この世界へも影響を及ぼしているのだろう。そして、闇の者たちはやはり「太陽」が苦手なのかもしれなかった。
 太陽が沈みきってしまうのを確認すると、男は鏡越しになにやら呪文めいたものを唱え始めた。
 と、それまで醜かった男が、すらっとした美男子へと変化を遂げた。


「白銀さまっ!」
 屋敷の門に馬車が止まると、紅玉は息も切らせず駆け出していた。

「紅玉、久しぶりだな。」

 さっきの男とは似ても似つかぬ紅顔の青年がそこへと立っていた。あかねに負けず劣らずの長い髪。少し銀色がかって美しく見えた。
 紅玉が選んだのは薄いピンク色のチャイナドレスだった。太股のあたりからスリットに切れているドレス。そこから覗く白い脚が何とも妖艶に見えた。
 紅玉はすっと彼の腕の中へと駆け込んでいく。長い間分かれていた許婚との再会。それが今の彼女の全てだった。
 にっこりと微笑むと、屋敷へと招き入れる。何の疑いも無く、彼女は目の前の青年が自分の許婚だと思い込んでいた。
 勿論、それが作られた記憶であることも知る由がない。

 紅玉は白金を食事の席へと誘う。これも、彼女の行動にくみ上げられた偽の記憶の成せる業だ。ワイン色の飲み物を注ぎ入れたグラスが運ばれてくる。ロウソクの明かりが何ともレトロな雰囲気をかもし出している。
 ゆっくりとナイフとフォークを手に、食事をすすめる。語らいもごく自然で和やかなものばかりだった。そうだ。あかねはまさに、この「白金」という男の好みのままに記憶を操作され「仕立てあげられ」ていたのである。

 実は、白金はあかねとは殆ど初対面であった。
 彼女が人間界からこの世界へ引き込まれたとき、たまたま、行き倒れていた彼女を拾ったのである。白金は「魔人」の一人であった。
 初めて腕に抱いた娘、あかね。その神々しいまでの美しさに、身も心も一瞬で奪われた。
 魔人は魔道王の許しを得ないまま、婚姻を結ぶことはできない。
 その足で白金は魔道王の元へ赴き、あかねの降嫁をねだった。
『この魔道界きってのおまえの懇願か。そんなにその娘が気に入ったのなら、連れて行け。そして、次の満月までに、記憶を全ておまえの思うように操作しろ。現世の、人間界の記憶は全て消し去るのだ。それができるのならば、境遇を考えてやらぬでもない。』
 魔道王の寛大な計らいであった。 
 白金は飛び上がらんばかりに喜び勇むと、あかねを己の敷いた亜空間へと連れ込んだのだ。そして、「忘れ草」を調合し、彼女から全記憶を奪った。
 真っ白になった彼女は、ずっと夢の中に居るように、虚ろな目をしていた。そこへ、ばあやの夢術で、まどろむたびに、少しずつ、偽の記憶を仕込んでいったのだ。
 そして、忘れ草の効用が利き始めると同時に、彼女の髪の毛が後ろへと靡くくらいに伸び始めた。今では、東風先生へ恋焦がれていた頃と同じくらい、ふさふさとした髪が背中で揺れていた。

「あとは、この娘が闇の魔力で白金様を男として受け入れれば、全てが変わる。戻ることなく…。」
 初対面にも関わらず、何不自然なとことなく、穏やかに話しているあかねを見て、老婆はしめしめとほくそえんだ。

「紅玉様、今夜の床はどうなさります?」
 食事が終わったところでばあやが訊いた。
「どうって?」
 きょとんと見詰める円らな瞳。
「白金さまと共になされまするか?」
「まあ…。」
 そう言うとあかねは頬を染めた。
「まだ、婚儀は結んでいませんから、べ、別でいいですわ。」
 あかねは真っ赤になって答えた。
「もう、婚儀も整ったと同じことでございますれば…。」 
 ばあやはしきりにあかねを突付いた。
「いえ、ばあや。紅玉は清廉な乙女を最後まで貫きたいのでしょう。どの道、彼女と結ばれるのはもう目前。私は別の部屋で寝ますから、お気遣いなさりますな。」
 すらっと白金が言ってのけた。だが、一方でよきに計らえと言わんばかりの含み笑いを残している。
「では…。」

 ばあやが下がると、白金はあかねにとある小箱を差し出した。

「これを紅玉に。」
 にっこりと微笑んでみせる。
「何かしら…。」
「開いて御覧なさいませ。」
 促されて、小箱を開く。と、中から真っ黒な宝石の指輪が現れた。
「これは?」
「婚約の指輪です。正式に婚約が整ったのに、今まで紅玉には何一つ、印を与えておりませんでしたから。」
 妖しげに白金の顔が笑った。
「これは、この世に二つとない「黒ダイヤ」です。」
「まあ、そんな高価なもの、わたくしに?」
「当然でございますれば…。気に入っていただけましたかな?」
 こくんとゆれる頭。
「私がつけてさしあげましょう。左手を…。」
 彼の手は指輪をつかむと、あかねへと添えられた。そして軽く微笑んだ。その下心は「これでおまえは俺の物だ。」という確信。

(この指輪は、魔石。そう、これをはめた時から、おまえは、魔界の住人となる。誰にもこの指輪は外せない。……あとは完全におまえの記憶を消し去ってしまえば、もう、一生俺の呪縛からは抜けられない。紅玉として、俺と共に生きるのだ。)

 そんな心の声を押し殺しながら、白金はあかねに指輪を宛がった。
 計ったかのように、指輪はあかねの薬指にぴったりだった。
 滑るようにあかねの白い手へと入っていく。黒い宝石が妖しげに光り輝いて見えた。

「良く似合ってるよ、紅玉。」
 白金は満足そうにあかねを見返した。
 


四、

「畜生っ!白金の奴っ!」

 ガンっと物にぶち当たる大きな音。そして甲高い女性の声。
 怒りが収まらないというように、明倫は激しく気を叩きつけていた。

「そんなに怒る…。良くない。肌が荒れる元ね。」
 一匹の猫が笑いながら彼女を見上げた。薄いピンク色という変わった色の毛並み。耳には鈴をつけている。それだけではない。猫は人間の言葉を喋った。
 勘のいい方なら、この猫の正体は一目瞭然だろう。そう、これはこちらの世界に巻き込まれた三人目の人間。シャンプーが変化した形態だった。

「これが荒れずに居られるかってんだっ!たく、あの業突く張りめっ!あたしと勝負だなんて調子のいいこと言っておいて…。イカサマじゃなかったのかしら?さっきの勝負はっ!!」
 ガンガンガンっと側のテーブルの脚に蹴りが入る。思わず力余ってテーブルは脚の部分から薙ぎ倒れる。

「折角、目をつけて、やっとの思いで捕らえた男から生成した、黒魔石をあいつははした金で持っていっちまったんだよっ!こっちは、どれだけ金を積まれても譲る気持ちなんて全然なかったってえのにさっ!」
 荒くれだった彼女は遂に、ワインへと手を伸ばした。そのままコルク栓を抜き、荒々しくグラスへと注ぎ込む。作法も何もあったものではない。そして、そのまま、一気にぐぐっと飲み干した。

「仕方がないあるね…。それが魔道王様の意志ならばね…。」
 猫は癖のある喋り方をしていた。それにやけになれなれしい。

「魔道王様の意志、か…。たく、何だってあんな出来損ないの肩を持つのさ。お父様はっ!」

「これもそれも、この世界の発展のためあるね。魔道王様、きっと考えある。じゃないと、わざと、あの白金というボンクラに勝たせるわけはないね。」
 猫はそう言うとしゃっと起き上がった。しなやかな身体。猫にしておくには勿体無いような、色香が何となく漂っていた。
「もしや次の満月の儀式に関係があるのやら…。」

 明倫はそういうと考え込んだ。賭け事には負けたことがない、己が負けた。それも、相手のイカサマを見抜いておきながら、父の魔道王の声によって、暴くなと身体を押さえつけられたのだ。勝ちに行くために持っていたカード札は、その場で変化した。父の魔力によって。
 そして、結果は己の負け。

「約束どおり、自分が気に入った宝石を、この値段で譲ってもらいますよ。何、そんなに安い値段ではない。魔空の屋敷を一つ、丸々明倫殿に差し上げようというのですから。」
 白金はいけしゃあしゃあと言ってのけた。

「魔空の屋敷っつーたって、あんなもの、黒魔石の一欠片にも取るに足らないわっ!」
 明倫の怒りはまだ収まりそうに無かった。
 とにかく、白金は事もあろうに、乱馬を飲み込んだ「魔宝石」に眼をつけたのだ。かなりの目利きであることは否めない。一瞬、顔が曇った明倫を刺激するように言ったのだ。
「この石。私にくっついて来たがっているようですね。」
 広がる動揺を隠しながら、明倫が他のを薦めようとしたが、
「僕が勝ったら、どんな宝石でも、この金額で売ってくれるって契約したじゃやないですか。」
 と、強引な白金によって結局振り切られてしまったのだ。

「たく、釈然としないわねえっ!!」
 
「ふふふ、大丈夫よ。あの黒魔石はいずれ、あなたの元へと戻ってくるね。もっと美しい闇色に染められて…。楽しみにしてる、よろし!」
 猫は面白おかしそうに笑うと、すっと立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「帰るね。魔道王様が私の帰還を待っているね。」
 そう言うとひょいっと開け放たれた窓から外へと飛び出していった。

「ふん、高慢チキな猫め。あんただって、あの黒魔石ねらってるんでしょ?お父様の言いつけなのかもしれないけれど…。絶対、あたしの元へ取り戻すわよ。あの青年を飲み込んだ黒い美しい魔石は…。」




 明倫が投げかける厳しい視線を背に受けて、猫は闇を駆け出していた。
「待ってるがいい。あかね、おまえは、真っ赤な魔宝石に変化させてやるね。くくく…。そして、今度こそ、乱馬は私の物に。」
 そうだ。
 このピンク色の毛並みの猫こそ、シャンプーであった。この魔道界へあかねのみならず、乱馬までも突き落とした張本人。
 何故か今は呪泉で変化した「猫」の姿に身をやつしていた。わざとなのか、それとも必然なのか、定かではなかったが、彼女は他の二人とは違い、「記憶」を無くしてはいなかった。それがどういう意味を持つものなのか、現時点では不明である。
 一つだけ言えることは、この世界へ来てもなお、彼女の乱馬への想いは潰えることは無く、いや、むしろ、もっと顕著化していたかもしれない。己の欲求のままに動く。それが現世に居た頃よりも、もっと輪がかかってしまったようだ。言い換えれば、きっかけはいかにあれ、彼女の乱馬への想いが、それだけ「真剣」だったことへの裏返しになるのかもしれない。
 ただ、困ったことに、彼女には「乱馬の意志」という、一番肝心な部分が欠落していたのである。だからこそ、こんな世界へと、あかや乱馬だけではなく、己をも引き込む結果になったことに、彼女自身気がついていなかったのかもしれない。
 想いが純粋であればあるほど、この世界を統べる「魔道王」には扱いやすい魂だったのである。純粋さはまた、邪へ導くに容易かったのである。

 いずれにしても、シャンプーの心には最早「乱馬を手に入れること」以外は何も存在していなかった。
 どんな手を尽くしてでも手に入れる。そして、その愛情を独り占めする。そう、そこには乱馬の「意志」など、ひとかけらも介在していなかった。
 「魔道書」の妖気に魅入られたときから、既に彼女は平常心も全て失われてしまっていたのかもしれない。魔道王は彼女を心から支配してしまったのだろう。利用された哀しき女心なのかもしれなかった。



五、

 一方、紅玉としてその世界に魅入られてしまったあかね。
 彼女は与えられた自分の情報が、全て正しいものと疑う余地もなかった。自分はここで生まれ、育ち、そして、目の前の男、白金と結ばれる。それに対して、疑問すら持ち合わせていない。
 与えられた情報や記憶が全てまやかしであろうなど、指先っぽっちも思っていなかった。
 あかねの左指には、本当の許婚を飲み込んだ黒い石。それが妖しく黒く光っている。

「紅玉…。」

 二人きりになった部屋の中で、白金はつっと手を伸ばしてきた。
 ロウソクの明かりが仄かに二人のシルエットを浮かび上がらせる。
 何かに魅入られたように、あかねはすっと彼を見返した。  
 その魅力的な白い肌。洗練された美しさ。
 白金はその頬にそっと手を触れる。ふわっと髪の毛が後に靡いた。口付けをねだるように、白金はその黒い瞳をじっと覗き込んだ。あかねの瞳から光が消える。闇に塗りこまれるように、目を閉じる。


『駄目だっ!』

 はっと目が開いた。誰かが自分へ自制を呼びかけてきたのだ。

「どうしたの?」
 途中で目を見開いたあかねに白金は不思議そうに目をやった。
「い、いえ、別に…。」
 まさか誰かが語りかけてきたなどという、不条理なことは言い出せず、あかねは口ごもった。
「紅玉…。」
 また白金に名前を呼ばれた。熱っぽい目が側で揺れている。彼の手はあかねの唇をなぞった。
「そんな憂いを帯びた顔は紅玉らしくない。」
 彼は優しげにあかねに囁いた。再び閉じられる瞳。

『駄目だっ!奴と唇を合わせるなっ!』

 殆ど脅しに近い声が、また脳内で響き渡った。
 また見開いた目。白金の目とぶつかる。
「ごめんなさいっ!あたし…。今は駄目。」
 そう言って払いのけた手。
 はっとして見返す白金の瞳に、黒い影が落ちる。
「駄目だ…。待てない。」
 そう言って彼はあかねの身体を、後のソファへと引き倒した。
「きゃっ!」
 小さな声がしてあかねの身体が柔らかいソファへと倒れこんだ。そこへのしかかる強靭な男の身体。白金が牙を剥いたのだ。
「紅玉…。今宵こそは、おまえと。」
 そう言って強引に彼女を引き寄せようとした。

「駄目ーっ!いやああっ!!」

 あかねがグンと腕を差し上げた。精一杯の抵抗だ。
 このまま組み敷かれるのは嫌だ。彼女の本能が雄叫びを上げたのだろうか。
「紅玉っ!」
 その時だった。あかねの指先から強い光が漏れた。
 しつこく食い下がろうとする白金に、その光は鉄槌のように打ち付けたのだ。

「うわっ!!」

 その神々しい眩しさに、白金は思わずのけぞった。

「この光…。何。」
 あかねははっとして指輪を見た。今発した光は、確かにこの中から発したものだった。
 光に押し戻された白金は、よろよろと立ち上がった。
「くそ…。今日のところはここまでか…。まあ、いい。だが、次は必ずっ!」 
 ただそれだけを言い置くと、白金は慌てて部屋を出て行った。


「くそっ!あの光はいったい何だった。あと少しで紅玉を俺の物にできたのに…。」
 部屋の外で白金は、息を上がらせて、そう吐き出した。
「白金様。どうなされました?」
 ばあやが心配げに覗き込んだ。
「あ…。ちょっと、妖力を使いすぎただけだ。気にするな。」
「でも、妖気がはがれかけて…。」
 ばあやの言葉に驚いたのは白金だった。彼の左腕の肌が赤茶けた肌が覗いていた。
 彼は妖気を身体から発して、本当の姿をあかねからは見えないように変化していたのだ。本当の姿とは、魔道の中でも取り分け醜い姿。それもこれも、あかねに恐怖心を抱かせないように、何よりも彼女に逃げだれないように「人の姿」に変化していたのである。一皮剥けば、化け物だった。

「ぐ…。肌が剥がれ落ちて、地肌が覗いたか。」
 何故、覆っていた妖気が剥がれて、地肌が露出したのか。白金は考えた。
(あのとき、あかねから発っした光。あの光が影響したのか。)
 それ以外考えられなかった。
(あの光…。障害になるやもしれん!くそっ。でも、絶対に紅玉は我が物にしてみせる。)
「白金様?」
 じっと考え込んで動かなくなった白金に、ばあやは声をかけた。
「今日はもう休む。おまえは紅玉が逃げ出さぬように、見張っておけ。」
 それだけを言い残すと、彼はその場から消えた。深い闇の中に。



 寝室のベッドに身体を横たえたまま、あかねは深い溜息を吐いた。

 何故、白銀様を拒絶してしまったのか。…少し後味の悪さが残っている。
 発作的に自分は、彼を遠ざけたのだ。「許婚」である「白金」をだ。愛している筈の彼をだ。

 あかねは白金が立ち去った後の部屋で、放心したように佇んでいた。
「光…。それから、誰かが私に話しかけてきたわ。どこかで聞いたことがある声で…。」
 あかねが白金と唇を合わせようとした瞬間に、飛び込むように聞こえてきた青年の声。懐かしいような切ないような響きが、確かに自分の耳奥にこだました。
 その声の主を思い出そうと、ありったけの記憶をめぐらせたが、何も思い浮かばなかった。どこの誰の声なのか。何故、彼は自分を制したのか。
「私、何か大事なことを忘れてしまっているのかもしれない…。」
 あかねはその時初めて「紅玉」としての記憶に、曖昧な疑問めいたものを感じはじめたのであった。
 彼女の指には黒い魔石の指輪。彼女を無言で見上げていた。





つづく




一之瀬的戯言
 紅玉…りんごの種類じゃありません。赤いルビーのことです。あしからず。
 で、多分、この辺りで連載が止まっていた筈です。

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