◆心(MIND)
第三話 消えた名前


一、

「う…。」

 乱馬はふっと目を開いた。

「やっと気がつきよったか。」

 見上げると、そこに見知らぬ老婆の顔が映った。

「こ、ここは…。」

 身体を起こそうとして、全身に痛みが走った。見渡すと、そこここに傷がある。引っかいたような傷や打ち付けたような青痣だった。
「急に起き上がってはならぬ。傷だらけじゃぞ!」

 そう言って老婆に押し戻された。彼女は乱馬をベッドに寝かせつけた。
 きしっと音がして、沈んだ木のベッド。周りを見渡すと、どうやら家の中だ。土壁がすすけているのがぼんやりと見えた。
 老婆は髪が真っ白で、みずらに髪を結わえていた。顔には皺が刻まれ、年輪が伺われる。背も曲がっており、八十歳は悠に過ぎていそうだった。

「俺は…。」
 乱馬は問いかけた。何故自分がここに居て、こうしてたくさんの傷ができたのか、問おうとしたのだ。
 
「おぬしは、ここの村はずれに倒れていたんじゃよ。」
「倒れていた…?」
「そうじゃ。行き倒れておったのを連れてきた。」
 老婆はにっと、笑って見せた。
「ま、これで顔でも拭きなされ。落ち着くじゃろうて。」
 タオルを軽く絞ると、乱馬に差し出した。
 ひんやりと冷たいタオルを顔に宛がいながら乱馬は答えた。
 最大限に記憶を張り巡らせて、どこから来たのか、自分は誰か、探り出そうとしたが、頭の中はモヤがかかるように、記憶の片鱗ひとつない。

「無理はするな。」
 老婆は乱馬をゆっくりと見下ろした。
「大方、おまえさんも、誰かの呪いを受けて、この世界へ引きずり込まれたんじゃろうからな。」
 事情を知っているのか、老婆は意味深な言葉を投げ返した。
「呪い?…。引っ張り込まれた?」
 乱馬はきょとんとして彼女を見据えた。
「ああそうじゃよ。ここは呪いを穿たれて引きずり込まれた者たちとその子孫たちがひっそりと暮らしておる村じゃからのう。」
 老婆は言った。
 事情が良く飲み込めない乱馬は、ただ、豆鉄砲をくらった鳩のように、老婆を見上げるばかりだ。
「ま、この世界について、ある程度の知識は必要じゃろうな。良く聞きなされ。これからワシが話す事をな。その前に。」
 婆さんは一呼吸置くと乱馬に問いかけた。
「おまえさん、自分が誰だかわかるかな?」
「そんなこと…。」
 造作もないと答えようと乱馬は思った。
「ならば、名前は何と言う?」
 老婆は畳み掛けるように問うた。
「俺の名前は…。」
 そう言いかけて乱馬は口を噤(つぐ)んだ。
「な、名前が浮かばねえ…。」
 そうなのだった。自分の名前を口にしようとしたが、何も浮かんでは来ないのだ。
「なら、訊こう。おまえはどこから来た?」
 老婆はたたみかけた。
「う…。」
 乱馬は言葉に窮した。

「やはりな…。ここへ招き入れられた者は、尽(ことごと)く、名前も自分の生来の記憶もなくしてしまう。」

「こ、こんなこと、あるのか…。」
 乱馬は放心したように自分の手を見詰めた。

「まあ、良い。ワシの話をきくがいい。」

 老婆は乱馬に向かって、この世界のことを話し始めた。
 乱馬は何が自分の身に起こったのか、そして、この女性が何を言わんとしているのか。暫し黙って聴いていた。


「ここはのう、「魔道書」の中の世界なのじゃ…。」
 唐突に彼女が言った。
「魔道書?」
「そうじゃ、「魔道書」…遥か昔、まだ人間が文明を持つ以前から、栄えた古い記憶を伝えた奇伝書、とでも言うかのう。ぬしらの世界ではとっくに滅びた「魔道王」の痕跡を記した唯一の本、『魔道黙示録』の中の世界。その魔道書の中の空間なのじゃよ。」

「良くわからねえな…。」
 小首を傾げる乱馬。老婆はそのベッドの脇に立つと、ゆっくりと噛み砕くように乱馬に話し始めた。


 太古、人間の歴史が始まる以前のことだ。この世界は光の国と闇の国、そして人間の居る世界の三つから成っておった。光の国には光が、闇の国には闇が、満ち溢れておった。光と闇はそれぞれ相反するようで居て、二つともなければならない存在。その間にあるのが人間界じゃった。
 光と闇、二つの国の人々は、仲良く、それぞれの国の掟を受け入れ、尊重しあいながら融和して暮らしておった。
 でも、中にはそれを望まない者が居た。
 平穏な暮らしに飽きたその者は、いつしか、世界を全て自分の手中に収めようと野望を燃やしておった。そして、並外れた力をつけた。腕力だけではなく呪力もじゃ。
 彼はその力を持って、まずは自分の生国でもあった、闇の国を支配した。闇の力で成り立つその世界に於いて、彼の力は有効だった。すぐさま、彼は闇の大王として、君臨したのじゃ。彼は「魔道王」と呼ばれた。
 魔道王は闇の国だけではなく、光の国をも欲し始めた。そして、光の国をも自らの手で支配しようと目論んだのだ。まずは光と闇の中間にある人間界を手中に収めようとした。
 だが、光の国の長が彼をその術で『魔道黙示録』の中へ封じ込めた。そして、魔道王は滅びた。闇の国と共に。

「ふうん…。光と闇の争いみてえなものか。」
「まあ、端的に言えばそうなるな。でも、事はそれだけでは終わらなかった。闇の国が封印された時、同時に光の国も封印されたのじゃ。」
「あん?」
「闇は光がないと生まれないもの。闇の国が滅んだ時、光の国も運命を共にしたのじゃよ。そうやって数万年、年月は流れた。そして、悠久の時を経て、魔道王はこの魔道書の中で再び蠢き始めたのよ。その、闇の力で。」
「どういいうことだ?」
 乱馬は婆さんをじっと見詰め返した。
「魔道王は闇の国が滅んだ時、光の呪文で封じられたが、その活動を完全に停止したわけではなかったのじゃ。彼は、この本の中に、自分の支配の闇の世界を作ったのじゃ。その圧倒的な呪力を用いてな。」
「もしかして、それがここって言いたい訳か?」
 こくんと縦に振られる頭。
「彼は、おまえさんたち人間界に『魔道黙示録』を投げやって、己が力の根源となる、人間たちの深き闇や欲望を吸い込もうとしておるのじゃ。本という媒体を通じてな。」
「人間の欲望…。」
「彼の闇の原動力は、おぬしら人間の強欲。そして、清き乙女のたちの身体じゃ。」
「強欲と乙女の身体…。」
 激しい言葉が老婆の口から発せられる。
「やつらは闇の国復活のために、子孫を作らねばならぬでな。だから乙女を欲する。」
「よくわからねえな…。」
「ふふ、闇の住人、魔人は単体では子孫は作れぬのじゃよ。だから、人間の女子が必要なんじゃ。優秀な種族を残すための媒体としてな。」
「で、何で俺がここに居るのと関係して来るんだ?」
「ここへ女を呼びこむための呪いを受けたのじゃよ。多分な。」
「呪いだって?」
「ああ。誰かが、おまえさんの名前をこの本に記したんじゃよ。」
「名前だって?」
「おそらく、誰かが何かの意図を持っておまえさんの名前を本に書いたのじゃ。つまり、この本に名前を書かれると、それだけで、引き入れられる獲物に成り得るのじゃよ。そして、記憶も操作される。…結果、この本がその意志で、おまえさんを強く欲して、ここへ引きずり込んでしまったのじゃろうな。引き込まれた者は、名前の記憶、自分の記憶全てが消し飛ぶ…。」
 老婆はゆっくりと吐き出した。
「つまり、俺の名前を誰かが本に書き示したので、ここへ意図的に招き入れたって訳なのか?…何でだ?何で俺…なんだ?…。」
「さあ、そこまではわしにもわからぬ。引き入れた本人に訊かねばな。まあ、おまえさん自身が自分の欲望を満たそうと、名前を書いたのかもしれぬがのう…。この本は己の願い事を成就させる本として、おぬしたちの世界では流布されておるからのう…。
 可能性は二つある。恋敵としておまえさんを恨む誰かが名前を意図的に書き込んでこの世界へと突き落とした。または、おまえさんが己の欲望をかなえるために、この本の力を使おうとしてこの世界へと導かれたか…。この二つの可能性の、どちらかじゃろうて…。」
「じ、冗談じゃねーっ!俺は天地神明に誓っても、そんな妖しげな本へ自分や他人の名前を入れるほど腐っちゃいねーぜ!」
 乱馬は力を込めて吐き出した。

「……。観たところ、そうじゃな…確かに、おまえが自分で名前を書いたようには見えぬわのう…じゃとしたら恨まれた側かのう…。恋敵として恨まれてここへ名前を書き込まれたのじゃろうて…。」
「くそっ!誰が何のために俺の名前をここへ書きやがったんだ。」

 乱馬の苛立ちは当然であろう。誰かの陰謀によって、訳の分からない世界へ招き入れられた。そして、自分が誰かすらもわからない状態に陥っている。

「古来、色恋に関しては、人間の情念が強く絡むもの。それだけに、生贄としての女を容易く得やすいのじゃよ。魔人たちにとってもな。おまえさん、けっこう可愛らしいから、誰かに強く恨まれたとか、或いは強く思われたとか。そんなところじゃろうて。」
「俺がか?」
「詳細はわからないが、そう思うのが自然じゃろうな。とにかく、わかったか?ここは本の中の世界なのだ。どう足掻いても簡単には抜けられぬのじゃ。」

 乱馬は放心してしまった。

「過酷な話じゃが、自分に与えられた必然の世界を、受け入れなければならぬのだ。」
 老婆は乱馬を振り返る。
「さて、能書はこのくらいにして…。おまえさんは、いずれにしても、この世界で生きていかねばならぬ。そのためには新しい名前が必要じゃ。」
 すっと婆さんは持っていた杖を乱馬に差し出した。
「新しい名前?」
 乱馬は老婆を顧みた。
「そうじゃ、名前だよ…。本当の名前を思い出せぬからといって、いつまでも、名無しの権兵衛で居るわけにもいかぬだろうて。」
「って、どういうことだ?」
「だから、この世界の通称、呼び名を決めなければならぬのだ。この世界に来て最初にすることじなんじゃよ。」
「呼び名…。」
「ああ、自分の呼び名じゃ。自分の名前は自分で決める。それがこの世界のルールなのでな。」
「突然、名前をつけろと言われたって…。」
 乱馬は口ごもった。
 いきなり、ここが異世界だと説明されても実感がない。それに、これからどうしろというのか。
「俺は、どうなる?このまま、この世界に居続けなければならないのか?自分自身が誰かも分からぬままに…。」

 苦悩し始めた乱馬に、老婆はさっと杖を差し出した。それを背後へと手向けた。
「見よ!あそこを。」
 今まで気がつかなかったが、部屋には窓があり、そこから外が見えた。いや、外がというより、窓がスクリーンのようになっていて、景色が飛び込んできたのである。白い世界。そこには幾多の木の棒が大地に突き立てられている。
「あれは、卒塔婆(そとば)。いわば墓標。」
 老婆は噛み砕くように言った。
「墓標?」
「ああ。ここへ来てこの世界で生き抜いて土に返っ女たちのな…。」
「じゃあ、俺もいずれはあそこに名前が刻まれるのか?」
 虚ろげに乱馬は卒塔婆を見渡した。
「それはわからぬ。…。それが、おまえの運命ならばそうなるじゃろうし…。おまえの運と意志次第じゃろう。」
「運や意志次第?」

「自分の名前を思い出すことは、前の世界での自分を取り戻すことになる…。自分を取り戻せたら、或いは元居た世界へ戻れる手立ても見つかるかも知れぬ。ただ、それは殆ど不可能に近いがな。」
 老婆はゆっくりと言葉を手向けた。
「まあ、十中八九、自分の名前を思い出すことはない。だからといって、生への営みを止めるわけにも行かぬ。ここへ来た人々は、自分で新しい名前を付け、この世界を受け入れ、新しい生活へと身を置くのだ。現にワシもそうじゃった。」
「婆さんも外界から来たのか?」 
 こくんと頷く頭。
「もう随分昔のことになるからのう…。本当の自分は潰えて久しい。ワシも何も思い出せぬまま、ここに居る。」
 少し憂いた瞳を空へと転じた。どうやら、嘘ではないようだ。
「じゃあ、今までの話は?」
「おまえさんと同じように、ここへ招き入れられたときに、長老から伝え聞いた話じゃ。」
「だったら、俺もこの世界で生きていくしか術がねえのか?」
 強い瞳が婆さんを捉えた。
「おまえが元の記憶を取り戻せぬ限りはこの世界に居なければならぬ。ここへ招き入れられた人々は、大概はここでその後の人生を暮らしている。平穏にな。突きつけられた現実を素直に受け入れ、新しい環境に慣れること、じゃ。」
 老婆は乱馬にたたみかける。
「だから、まずは名前をつけるのじゃよ。名前が無かったら、この世界での自分の位置づけも不可能じゃからな…。いつまでも自分の現実を受け入れぬというわけにはいかなぬ。人間は生きておるんじゃ。そして、この世界の時も確実に進んでおるのじゃから。」
 と呟くように言う。
「そう難しく考えないで良い。自分の心に浮かんだ名前でいいのじゃ。自然に浮かんだものでね。」
 老婆は催促するように乱馬の横に立った。
「自分の心に浮かんだ名前?」
 乱馬は怜悧を見上げた。
「そうじゃ。たとえそれが即興の名前でも、おまえには縁があるものかもしれぬぞ。ほら、胸に手を当てて…。浮かんで来た名前を言ってご覧…。」

「胸に手を当てて…。」

 言われたとおりに乱馬は手を当てた。
 そして静かに目を閉じる。
「名前…。浮かんだ名前…。」

(あ…か…ね…。)

 ポツンと浮かんだ名前があった。

「あかね。」

 念じるうちにいつしか呟いていた。

「あかね、なるほど。いい名前じゃないか。おまえさんを呼び習わすにぴったりじゃ。」

 老婆は乱馬を覗き込んだ。

「あかね…。おまえは今日からあかねじゃ。」
 老婆はにっこりと笑った。それから、部屋の隅にさりげなく置いてあった水晶玉を手でさすりだした。乱馬の横顔がそこへ映し出される。
「彼女の名前は…あかね。」
 玉にそう言い聞かせるように囁きかける。ぱあっと玉に光が宿ったように見えた。勿論、乱馬には見えなかった。

「あかね…。」

 乱馬は自分で名前を反芻してみた。何故か妙に懐かしい気分になった。この名前に縁(えにし)がある。かすかだがそう心が囁いた。大事な名前。そう思ったのだ。
 だがそれ以上はどうしても思い出せない。

「さあ、あかね。今からそなたはもここの新しい住人になる。棲家はここでいいじゃろう。ゆっくりと慣れていくがよい。他の住人は粗方、ここへ堕ちてきた人間とその子孫じゃ。ワシの名前は「怜悧(れいり)」。よろしくな。」
 にっこりと老婆は笑った。
「元の記憶を戻せたら帰れるんだな?」
「……保証はないけれど、おそらくは。」
 歯切れの悪い答えであった。
「俺は、絶対に自分自身を取り戻す。そして、元居た世界に帰るんだ。」
「ほほほ、元気の良いことじゃ。それはいいとして、まずは体力を戻さないとね。ほら、これを飲んで気を落ち着けて、今は休みなさい。おまえが自分を取り戻せるかどうかはわからないけれど、それを強く望むならかなうかもしれぬ。まずは、望みを失わぬことじゃ。」
 乱馬は温かいスープが入ったマグカップを受け取った。とろっとしたポタージュ。そんな感じだった。

「薬草がたくさん入っているから、体力を回復させるには持って来いじゃろうて。食事が済んだら、やすみなされ。」
 怜悧は乱馬を振り返った。
「ここの人たちはみな、親切だから心配は無用じゃ。心配しないで、今日のところ。ゆっくりおやすみ。」


 怜悧が出て行く頃には、乱馬は再び目を閉じていた。どうやら、マグの中には睡眠薬系の薬草が入れられていたのかもしれない。
 穏やかな寝息をたて始めるのにそんなに時間はかからなかった。



二、


「眠ったか。」

 乱馬がベッドで寝入ってしまったとき、側で浮き上がった影があった。
 黒髪の男と女がすっと闇に浮かんだ。男のほうは目は薄い青色。薄い透明な衣を羽織り、目鼻立ちも整ったすらっとした若者だ。女の方は赤い色の目。そして、少しけばけばしい化粧を施している。特に唇の赤は鮮やかだ。

「あら、風靡(ふうび)ったら、気が早いわね。」
 くすくすっと笑って女が若者を見返した。
「そりゃあそうさ。今度来た娘は俺の玩具になるんだぜ。ちょっとでも早く顔を拝みたいじゃねえか。」
 にんまりとそいつは笑った。
「顔だけかしらん?」
 女は意地悪そうに振り返る。
「ふふ、身体もだよ。勿論。」
 眠っている乱馬の布団をはいで、そいつはじろっと一瞥する。
「背は思ったより小さいが、身体はいいな…。この胸のふくよかさ。それから、引き締まったウエストに凹凸がある体のライン。」
「気に入って?」
 女はにこっと笑いかけた。
「及第点だな。」
 丁寧に剥いだ布団を乱馬にかぶせるとそいつは頷いて見せた。
「この世界での名前は…。」
 手に持っていた玉をすかした。
「あかね…。か。いい名前だ。この娘に似合ってる。」
 ふっと口元が上がる。
「今回もこっちは女かあ…あーあ、いいな。風靡は。三度も続けて玩具が出来てさ。あたしなんか…。」
 女は口を尖らせた。
「へへ、残念だったな、明倫。」
「本当!残念よ。こっちに堕ちて来たのが男だったら、あたしの玩具だったのに。あーあ。不公平!」
「そう愚痴るなよ。儀式が終わって、人間界への扉が開けば、男なんか数多居るじゃないか。一人残らず、肝を喰らってやることだってできるぜ。」
「まあね…。結界が破れて扉が開けば、人間なんてあたしたち、魔道王族の敵じゃないわ。長かったわね…。悠に数万年は年月が流れてる。」
「そうだな…。なかなか、素晴らしい素質を持った娘は居なかったからな。一万組目の満願か。ふふふ、父上もさぞかし喜んでおられるだろうに…。」
「何やら趣向をこらすんですってよ…。父上ったら、さっさと生贄なんか喰らっちゃえばいいのに。」
「また、明倫はそんなことを言う。父上にだって都合はあるんだろうさ。」
「都合ねえ…。」
 明倫はふんと鼻先で笑った。
「で、この娘が俺の玩具だ。」
「早く喰らいたいって顔してるわよ。風靡。」
「そうか?」
「で、肝を喰らうの?それとも子供を生ませるの?」
「さあな…。まだ決めてないよ。抱いてみてからだな。」
 青年の目は妖しく光った。
「せいぜい、自分に手なずけなさいな。……。お父様はもう、生贄を手なずけはじめていらっしゃるの?」
「さあな。親父のことはわからねえよ。何か企んではいるみたいだけどな。ふふ、いずれにしても面白くなるぜ。」

 すうっと二人の人影は闇の中へと消えていった。




 異変は魔道書の中だけではなかった。
 外の世界にも、それは如実に表れたのだ。

 コロンとムースは店を閉めて、ひたすらに魔道書を見守っていた。
 見守って変化があったとしても、何一つなす術はない。だが、それでも、二人は魔道書を見詰めていた。


「おばば、魔道書から乱馬たちの名前が消えたっていうのは本当だか?」
 ムースが慌てて駆け込んできた。一応、猫飯店の下働きだ。掃除洗濯、様々にこき使われていて、日課をこなしていたのだ。

「ああ。本当じゃ。これを見よ。」
 コロン婆さんが持っていた本をムースに差し出した。
「わしがシャンプーに姦計を持ちかけたとき、シャンプーは確かにここへ三つ、名前を並べて書いたんじゃ。」
「どら…。」
 ムースは眼鏡を光らせて該当するページを探した。
「こら、ムース。どこを見ておる。」
 コロンは本をすっと彼から取り上げた。近眼過ぎてムースには何も見つけ出せなかったらしい。
「ここじゃ、ここ。その目をかっぽじって良く見るのじゃ。」
 コロンは叫んだ。
 ムースは黙ってそこをまざまざと見る。
 薄っすらとそこには字の痕跡が見えた。
「珊璞。確かにそう見えるだ。」
 ムースは愛しいものを追うように、薄くなった字を手でなぞった。
「珊璞の名前はかろうじて見えておる。じゃが、その隣に書き込まれていた筈の乱馬とあかねの名前は消えてしまっておろう?」
 ムースは天井に透かしたり、じっと目を近づけたりして字を探した。だが、「珊璞」という筆跡以外には確かに何も存在していなかった。綺麗さっぱりと消えていたのだ。
「伝説によると、一週間ほどで名前が完全に消えるというが、まだ、二晩しか経ってはおらぬ。なのにこれは一体、どうしたことじゃろう。」
 首を傾げるコロン婆さんだった。

「そう言えば、ワシら二人以外の者たちの脳裏から、婿殿とシャンプーの記憶が削げ落ちてしまったというのは本当か?」
 コロン婆さんがムースへと問いかけた。
「ああ…。きれいさっぱりと、皆、あかねの時と同じように、乱馬とシャンプーの存在を忘れてしまったようじゃ。」
 ムースが言った。
「何故、おぬしは忘れんのじゃ?ワシは当事者の一人じゃから、忘れんでも、不思議ではないが…。当事者ではないおまえに三人の記憶があるのが…。」
「解せんとでも言いたいだか?生憎様、オラには、このお札があるだからな。」
 ムースは懐辺りをさすった。
「お札…あの封印のお札か?」
「そうじゃ。この本を管理していた家の男子として、お札を渡されていたからのう…。多分、そのことが影響して、三人のことを覚えていると思うだぞ。」
「なるほどのう…。腐っても、管理一族の男子…とな。」
「別に、オラは腐ってなどないわっ!」
 

 
「名前が消えた…。まさかとは思うが、乱馬とあかねの二人が、魔道王の手に堕ちてしまったということでは…なかろうな。」
 コロンが難しい顔をして言った。
「それは、大丈夫じゃとおもうだよ。ほれ、まだ、こっちに名前が来ておらんじゃろう?奴らが魔道王の手に堕ちたなら、ここへ名前が浮き上がってくる筈じゃ。今のところ、名前は無い。」
「そうじゃな…。そう理解するのが一番じゃな。」
 コロン婆さんは、一応、安堵の顔を浮かべた。だが、いつ、ここに名前が記載されるか、それはそれで、ドキドキした。

 重苦しい時間だけが猫飯店へとのしかかってくる。

「いずれにしても、オババよ、信じるしかあるまい。珊璞たちが元気で戻って来ることを…。」
「ああ、そうじゃな。でないと、気が持たんわい。」
「ふっ!待つだけの身の上か…。それも虚しいのう…。」
 ムースは本をじっと眺めた。おどろおどろしい装丁の黒い魔道書を。




三、

 乱馬がこの世界に来て数日が経った。それも平穏に時が流れている。
 怜悧(れいり)婆さんが最初に言ったように、この里の人々は、皆一様に親切であった。何より、堕ち人の乱馬を温かく受け入れてくれた。ただ、彼は、この世界では名前も記憶もすっかり削げ落ち、「あかね」という自分でつけた名前で呼ばれていた。
 そう、「早乙女乱馬」という本当の名前を忘れてしまったのだ。
 いや、そればかりか、彼は男である本来の自分自身をも見失っていた。
 この世界では、彼は少年ではなかった。少女なのである。
 自身の記憶を失った彼は、何故か、湯に浴びても変身しなかった。そもそもここが魔道書の中という特殊世界がそう成せるのか。それとも、他に原因があるのか。
 誰も彼が女であることを疑って止まなかった。当の本人さえも。


「あかねっ!こっちを手伝ってちょうだいっ!」
 明るい声が響き渡った。
「あかねーっ、あかねってばっ!!」
 年のころも同じ位の少女がしきりに乱馬を呼んだ。
「ああん?」
 彼女がすぐ側に来て、ようやく自分を呼んでいたことに気がつく。
「まだその名前に慣れないのね、あかねは。」
 少女は笑った。髪が長い可愛い少女だった。
「何だ、リナか。ああ、まあな。何だか自分の名前じゃねえみたいで、呼ばれてもすぐには反応できねえんだ。」
 乱馬は苦笑いしながら語りかけた。
「まあ、仕方がないわ。誰だって、自分にあった記憶が突然吹っ飛んで、新しい名前をつけたところで、すぐに馴染むわけじゃないもの。それより、そっちの籠、いっぱいになった?」
 少女は乱馬の持っている籠を覗き込んだ。籠の中にはたくさんの木の実が入っていた。
「わあ、凄い。いつの間にそんなに採っちゃったの?」
「さあな…。何だか野や山には慣れてるような気がするんだ。土の臭いや草いきれ、嫌いじゃねーからな俺は。」
「ふふふ、あかねって男の子みたいね。」
「そうか?」
「うん…。皆言ってたわ。密かにあかねのファンもたくさんいるのよ。」
「ああん?」
「だって、この里は女ばっかりですもの。」
 リナはふうっと溜息を吐いた。
「そういえば、そうだな。何で男が一人もいねーんだ?」
「あら、怜悧婆さんからはまだ聴かされてないの?」
「ああ、別に興味なかったしな。」
「ふうん…。」
「なあ、この里、何で女しかいねーんだ?」
「男はね、すぐに魔人に魔石に変えられてしまうか、魔族そのものにされてしまうからよ。」
「魔石?」
 リナは空を見詰めて言った。
「ここはいくつかの階層にわかれた世界なの。ここはその中でも最下層。で、こことは別に様々な次元の空間があるの。それから更に上には魔天がある。」
「魔天?」
「ここを支配する、魔人たちの住処よ。」
 リナは目を真ん丸くしている乱馬に、自分の知っているこの世界のことを少し教えてくれた。

「ここへ堕ちてきた人間は、その性別や性分によって、様々な空間へ分けられて転送されるみたいなの。そこで新しい生活が始まるってわけ。」
「ふうん…。でもよ、子孫を作る時はどうするんだ?ここには子供も居るじゃねえか。ってことは男がどっかに居るってことなんじゃねーのか?」
「ああ、それね…。」
 リナは考える素振りをした。
「この世界で結婚できるのは、魔天の魔人に選ばれた者だけなの。男も女もね。」
「あん?なんだそりゃ…。」
「もうちょっとしたら、あかねにもわかるわよ。多分、魔人が嫁さらいにここへ降りて来るでしょうから…。前に来たのは二週間前だったから、そろそろね。」
「ますます良くわからねえな。」
「わからない方が幸せなこともあるわ…。あたしたちは、管理されてるの。魔人たちによってね。この世界は閉じられた世界とはいえ、そもそも魔人の棲む世界ですもの。当然かもしれないけれど。」
「ふうん…。リナもここへは堕ちてきたのか?」
 リナは首を横に振った。
「あたしは堕(お)ち人の母と魔人の混血よ。いわゆる「堕(お)ちこぼれ」なの。」
「堕ちこぼれ?」
「ええ、魔人の血を引きながらも、魔よりも人間に転化してしまったため、ここで生活してるのよ。」
「何だそりゃ…。」
 リナの言っている言葉がよくわからずに、乱馬は問い返した。
「魔人と交わると子供が生まれる。これは人間同士でも同じだけれど、魔人との間にできるのは、魔力を持つ人間とそうでない人間なの。父か母、どちらの血が濃いかによって、魔力の有無は左右されるみたいなんだけど…。あたしには魔力はない。だから人間と同等と見なされて、ここに堕ちてきて住んでるのよ。」
「ふうん…。そんなこと、誰が決めたんだ?」
「ここの支配者、魔道王よ。」
「魔道王…。胡散臭い名前だな。」
 乱馬の言葉に、リナはしーっと指をあてる。
「軽はずみに魔道王の悪口を言っちゃ駄目よ。誰が聞いてるとも限らないし。命が惜しかったら…ね。」
 余程やばげなことがあるのだろう。口の悪い乱馬も、リナの言葉を受けて、黙り込んだ。

 この世界は穏やかで平和だった。
 里の女たちは皆親切だったし、怜悧婆さんを中心に良くまとまっていた。争いごとなど無いような女たちの楽園。乱馬にはそういう風に映っていた。
 ゆっくりのんびりと時が流れていく。男という異生命体がいないせいもあるのかと思ったほどだ。
 だが、それはまやかしの現実で、本当は、もっと過酷な世界であったのだ。

 それは、同じように山へ木の実を採りに入っていった或る日のことだった。

 いつものように山から降りる途中、何やら人の悲鳴を聞いた。

「何だ?」
 乱馬はだっと、そちらに向かって走り出す。

 目の前には、一人の男が、里の少女に絡んでいた。
「だから、俺と来いって、言ってるだろう?」
 異様な姿の男だった。背中に黒い羽が生えている。一目で人間ではないことがわかる。
 男は少女の腕をつかんでいた。だが、少女は身を捩じらせて嫌々を繰り返している。

「あかね。あんたまさか。」
 突然走り出した乱馬を、リナは乱馬を牽制しにかかった。
「だめっ!魔人に関わっちゃっ!」
 
 だが、リナの必死の叫びも虚しく、乱馬は、絡み合う二人の前に仁王立ちになっていた。

「てめえ、何だよっ!」
 乱馬はすっと男に向かって身構えた。
「何だって?無粋だな…。俺は、情婦を求めにここまで降りて来ただけだぜ。へへ、今夜は新月だからな。」
 ぎろりとそいつは目を乱馬に差し向けた。
「情婦?」
 乱馬は思わず顔をしかめた。
「おまえ、その年で、情婦が何ぞや知らぬなどとは言わねーだろうな。」
 ギョロ目の男は下衆な笑みを浮かべた。
 彼が引っ張っている少女は目に涙を浮かべていた。どうやら、情婦にされるのが嫌なのだろう。
「そいつから手を放しな。」
 乱馬は身構えながら吐き出した。
「へへへ…。てめえ、自分の立場がわかってないのか?人間の分際でっ!」
 男の拳が乱馬を襲った。
 乱馬は難なくひょいっとそいつを避けたのだ。元々彼の中には、並外れた格闘センスが眠っている。記憶をなくしていたとはいえ、身体はその動きを読んでいた。

「てめえ…。」
 男は再び方向を変えると、乱馬に飛び掛った。
 だが何度やっても彼の拳は乱馬にかすりさえしない。

「あかね…。凄い。」
 さっきは止めに入ったリナが思わず見惚れたほどだ。乱馬の動きには隙が無い。そればかりか、男の動きなど見切っているように、すいすいと翻弄した。
「おのれっ!ちょこまかと動きやがってっ!」
 頭にきたのは男のほうだ。自分よりも小さな女が相手にも拘らず、捕まるどころか、コケにされているのだ。プライドが許すわけはない。
「怒ったぜ。おまえ、俺が喰らってやるっ!」
 男は後ろに身構えて乱馬を見据えた。
「俺の爆裂弾を受けてみろっ!気絶しなかったら褒めてやるぜっ、女ぁっ!」
 対する乱馬は、闘争本能に火がついていた。武道をやっていたことすら記憶にはない筈なのに、身体は自然に反応して動いていた。一分の隙もない。そればかりではなく、その魔人が放った気弾へ、正面から見据えて対峙した。

「あかねっ!いくらあんたでも、魔人の気を受けるのは危険よっ!やめてーっ!!」

 リナの叫びが荒野をこだまする。

 ドオンっと音がして、砂煙が舞い上がった。男の気が乱馬を真正面から捕らえた瞬間だった。
 
「ふふ、気絶しやがったか…。」
 男には確たる手応えがあったのだろう。砂煙の向こう側に倒した筈の乱馬に向かって言葉を吐き出していた。
「気絶したところを、身体ごと肝を喰らってやる。そして、俺様の血肉と化して、魔力を手に入れるんだ。おまえたち人間には生殖機能だけじゃなく、俺たち魔人を強くする利用価値があるんでな。ふふふ、喰らった後はさっきの女を情婦にして…。」

「言いたいことはそれだけか?」

 すっと乱馬の影が男の後ろに立った。

「き、貴様っ!さっきの爆裂弾は…。」

「あーんなものっ!片手だけで弾き飛ばせたぜ。」
 
「う、嘘だっ!貴様っ!!何故、俺様の技を…。」
 男は唸った。
「さあな、知らねーよ。記憶がねえんだからな。でも簡単にてめえの技は見切れたぜ。俺は。だが…、俺に喧嘩売ったおまえをこのまま逃す手もないんでな。悪いが沈んでもらうぜっ!」

 男の背後から乱馬の鉄拳が唸った。
 どすっと鈍い音がして、男の目が血走った。

「おまえ…。く、くそ。お、俺様ともあろう者が、こんな人間の女に…。」

 それだけ言うと、どおっと倒れ付した。



四、


「あかね、凄いっ!」
 リナがいきり立って駆け寄ってきた。
「ここへは外の世界から様々な強い女の子が紛れ込んできたけれど、あんたほどの使い手は見たことが無いわ。怜悧婆さんをも超える力を持ってるんじゃないのかしら。」
 興奮気味に言った。
「ありがとうございます。あかねさん。こいつ、すごくしつこくて、半年程前からずっと新月になるたびに、迫ってきていたんです。新月の日はずっと里から離れないように気を配っていたんですけれど…。今日はすっかりそれを忘れてしまったの。」
 どうやら「新月」の日は特別な日らしい。乱馬は何となく助けた娘の言葉からそれを感じ取っていた。
「なあ、新月の日って何かあるのか?」
 乱馬は少女二人を見返した。
 少女たちの顔は曇った。

「ええ…。満月と新月の日には、魔人たちが空から降りてくるの。…その魔力を増力するためにね。さっきも話したでしょ?この世界は魔人たちによって管理されてるって。大方、こいつは「新月」の闇夜が一番進化に適していたのかもしれないわ。」
「なるほどな…。」
「今夜は新月…。どのくらいの魔人たちが降りてくるか…。」
「魔人って数が多いのか?」
 リナは首を振った。
「数は問題じゃないわ。要は質よ。奴らは様々な技を繰り出して、圧倒的な力で人間を支配しているの。」
「ふうん…。泣き寝入りって奴か。」
「そうね。そういうことになるわね。」
「だから、満月と新月の夜は、あたしたちはじっと息を潜めるしかないの。できるだけ身を寄せ合って。」
「あいつ、まさか闇の力が弱い昼間にうろつくなんて思わなかったけど。よっぽど、早くあなたをさらっていきたかったのね。まあ、今日は曇っていて、太陽の光がないから、闇の力も強いのかもしれないけれど…。」

 この世界の唯一にして最大の問題は、平穏でいて、実はそうではない殺伐とした現実にあるのだろう。乱馬は複雑な面持ちで彼女たちを見比べた。




「くそうっ!女めっ!このまま無事ですむとは思うなよっ!俺様をコケにしたこと、後悔させてやる。」

 倒れこんでいた魔人の男は、いつの間にか体制を整えていた。息を潜めて、乱馬たちの様子を伺っていた。手には黒い羽を持っている。それを空に浮かせて、乱馬へと照準を合わせている。

「おいっ!」
 
 そいつの肩を一人の金髪の青年がつかんで引き戻した。

「風靡の兄貴…。」
 はっとしてそいつは金髪青年を見返した。
「おまえ、その黒い羽、あのおさげの女に打つつもりじゃねえだろうな。」
 金髪男は凄みをきかせた。
「ああ、何か不都合でもあるか?」

「あの女は風靡の玩具よ、剛鬼(ごうき)。」

 背後で女性が笑っていた。

「ほ、本当か?風靡兄貴。」

 それには返事せず、風靡はにっと笑った。
 同時に凍りつく剛鬼。ぽとりと背中の羽が一つ、抜け落ちた。それを風靡は目線だけで焼き落とした。じゅっと音がして羽は燃え尽きる。

「わかったよ、あの女に関わるのは諦めるぜ。兄貴。」
 剛鬼は震えながら彼を見返した。
「ふふ…。お利巧さんね。その方が長生きできるわ。」
 後ろから明倫が顔をのぞかせた。
「今回は見逃してやる。行けっ!」
 その声を合図に、剛鬼はさっとその場から消えた。余程、この風靡という青年が怖いのだろう。

「にしても…。あの娘、なかなかやるわね。あの剛鬼の気を一撃で蹴散らすなんて。」
 乱馬と剛鬼のやりとりの一部始終を見ていたのだろう。女は笑った。
「一撃と言っても、剛鬼の気なんか、よわっちいからな。人間の女とてあのくらい一撃で倒せる奴は居ても不思議ではないだろうさ。」
 あっさりと答えた。
「でも、あそこまで達観している人間も珍しいわ。」
「まあな…。あいつの身体からは、他の人間に無い「闘気」を感じるからな。」
「ふふ、風靡が一目で気に入ったのもわかるような気がするわ。だから、わざと女里へ堕としたってこともね。…喰らうにしても、結ぶにしても、相手にとって不服はないわね。あの子が男じゃないことが悔しいわ。」
「明倫はしつこいな…。」
 風靡は彼女を振り返った。




「誰だっ?」

 乱馬はふっと魔人たちが居た茂みへと檄を飛ばした。
 彼の直感が禍々しい者の気配を捕らえたのだろう。
 恐る恐るそちらへと足を手向けた。

 ガサガサっと音がして、何かが飛び立った。

「鳥?」

 乱馬はその影を追ったが、目にとらえることはできなかった。だが、何かおどろおどろしい嫌な気がそこには確かに存在していた。

「あかね、帰るわよ。そろそろ戻らないと、夜が来るわ。」
 
 引き戻されるようにリナの方を見詰めた。
 
「お、おう…。」

 乱馬は慌てて彼女たちの後を追った。





五、

 新月の夜は静かだった。
 何事もなく、平穏に過ぎてゆく。

「今夜は魔人が一人としてここへは現れないのね。」
 気が抜けたのか、リナが怜悧婆さんの方を見ながら溜息を吐いた。
「まあ、そんな夜もあるじゃろうて。めぼしい女がこの里に居ないだけか、はたまた、別に意味があるのか、ワシらにはわからんがな。」
 怜悧婆さんは、何か不穏な空気がこの世界に漂い始めていることに、気がついていたのかもしれない。だが、あえてそれは口にはしなかった。

(この世界の終焉が近づいておるのか…。)

 これもまた、長年、この世界に暮らしてきたオババの「予感」だったかもしれない。
 この世界へ引き込まれて百年近い。ここへ来て、己の本当の姿を模索し続けた。記憶を辿ろうと足掻いた。だが、記憶の片鱗すら思い出せずに来た。
 怜悧婆さんは、己にも異変が起こり始めていることに、気がつき始めていた。
 それと同時に、のしかかるような世界の重圧。

(彼女が、あかねがここへ来てからじゃな。こんなに顕著に兆しが現れだしたのは。)

 じっと側で佇む乱馬へと目を手向けた。

 その視線に気がついた乱馬は怜悧に声を掛けた。

「婆さん、何だよ。俺をじっと見詰めて。」

「あ、いや…。久々に月占(つきうら)でもしてみようかと思ってな。」

 婆さんの言葉に色めき立ったのはリナだった。

「わあ、婆さま直々の月占なんて…。」
 彼女の声に、女たちが輪を作り始める。この里へ身を寄せて暮らす、女たちの老いも若きもの半分くらいがこの場に居たろうか。
「何だよ、その「月占」って。」
 乱馬は困惑気味に婆さんを見た。

「怜悧婆さまの占いよ。あなたの過去や未来の啓示が得られるかもしれないわ。或いは本当のあなたの姿も垣間見られるかも。」
 リナがにこにこと笑った。
「俺、こんな占いとかあんまり興味ねえんだけどな。」
「いいからいいから、ほらここへ座って。」

 リナは席を立とうとした乱馬を引き戻し、場の中央へと落ち着かせた。

「ちぇっ!…リナってばよう、強引なんだから。」
 しぶしぶ、その場へと鎮座する。

「どら、あかね…。おまえさんの息をこの水晶玉に吹きかけてご覧。」
 乱馬は気乗りしない顔で、言われたように水晶玉へと向き合い、息をふっと吹きかけた。
 乱馬の顔を映し出していた水晶玉は、彼の息が吐き出されると当時に、ぱあっと光を照らし出す。婆さんは真剣にその水晶玉を覗き込み、占いの結果を読み解き始めた。

「卦が出たな。どら…。」
 婆さんは、目を半開きにして、水晶玉から占いを解き明かし始める。

「この玉の向こう側に、清らかな乙女の影が見える。名前は「あかね」…。そうか…。おまえさんの記憶の中に沈んでいた大切な名前、それが「あかね」と見えた。」

 乱馬ははっとして婆さんを見上げた。
 自分が勝手につけたここでの名称。それは、忘却の淵に沈んだ己の本当の記憶の片鱗なのかもしれない。「あかね」という響きの中に見え隠れする懐かしい気持ち。それが誰なのかはわからなかったが、自分自身にはなくてはならない大切な人の名前だという予感だけはあった。

「それだけではない…。あかねよ、おまえのその姿は「仮初(かりそめ)」の姿と見える…。」

「え…?」

 意外な婆さんの言葉に、乱馬は再び目を見開いた。
「俺のこの姿が仮初だと言うのか…。」
「ああ、おまえの真実の姿は全く異なるものだと、この水晶玉は暗示している。」
 婆さんは水晶玉に手を翳しながら答えた。
「だったら、俺は…。俺の本当の姿って、一体何なんだ?」
 乱馬は思わすにじり寄った。

「残念だが、今のワシにはそこまで読み解く力はない。じゃが…。真実の泉に行けば何か分かるかも知れぬ…。その泉に己の姿を映せば、或いは本当の姿が見えるかも…。」
 婆さんはそこまで言うと、ほおっと深い息を吐いた。

「怜悧さま、その辺にしておきなされ。でないと、精力を使い果たしてしまわれますよ。」
 まわりの女性からの声に、リナが思わずふらついた婆さんを支えた。
「そうじゃな。月占はただでさえ力を使い込む。これ以上、読み解くのは無理じゃな。もう少しワシが若ければ、深く読めたのかもしれぬが…。」
 水晶玉はすうっと光を収めていった。そして、何事もなかったように、静かに鎮座する。

「俺の姿は仮初…。本当の姿は別にある…。」
 乱馬の心の中に、その言葉が波状として広がり始めた。
 辿れない記憶。途切れるように闇に包まれる自分自身の記憶。

「あかね…。怜悧婆さんの月占が気にかかるのね。」
 レナがすっと側に立った。
「ああ…。俺の記憶の鍵になるかもしれねえからな。」
 夜空は月がなく真っ暗だ。
「あかね…。あかね、か。」
「その名前気になるの?」
 こくんと頷く頭。懐かしい響きの中に、もっと大切な想いがあるような気がした。
「あかね…。」
 そう呟きながら掌を握り締める。
「あかね、あんたって不思議よね…。大切な記憶の欠片を、少しだけ失わずに持ってこの世界へ来たんだから。」
 ふっとレナが言葉を継いだ。
「大切な記憶を失わずに?」
 はっとして乱馬はレナを見上げた。
「そうよ…。その名前に記憶がなくても、あんたにとっては大切な名前なのよ。だから、すっと心に浮かんで、この世界でのあんたの名前になってる。」
 確かにレナの言うとおりだろう。
 あかねという名前の持ち主が誰なのか。今の自分には見当もつかなかったが、己と縁の深い名前であることだけはわかったのだ。
「それに、あかねって、ホント、男の子みたいだって。」
「男の子?」
「あたしも男ってどんななのか良くはわからないけど、言葉使いが全然違うんだって。この前、怜悧婆さんが言ってたわ。あかねの使っている言葉は男の子のそれみたいだって。」
「男…。」
 乱馬は握った掌を再び開いてみた。
「でも、あかねはどこから見ても女の子だものね。じゃないと、女里へ来ることもなかったでしょうし。ふふ、不思議ね。」
「ああそうだな。俺は女だもんな。」
 そうだ。胸はふくよかだし、ここの皆と変わりは無い。声も甲高いし、背も高くは無い。

(でも、何なんだ。この違和感は。確かに怜悧婆さんが言ってたように…俺は、元はこの身体じゃなかったのかもしれねえ…。だったら何だ?動物か?それとも…。)

 思考はそこで止まってしまった。
 いや止めざるを得なかったのだ。
 
 すぐ側で湧き上がる禍々しい気配。昼間感じたそれに似ている。

「誰だっ!」

 乱馬は闇に向かって声を荒げていた。


「ふうん…。やっぱり君は気配を読むことができるんだ。」

 闇の中から声がした。

「あかねっ!」
 リナは乱馬の側に駆け寄った。
「大丈夫だ。リナ。俺に任せておけっ!」
 
 乱馬は闇を凝視した。

「そんなに身構えなくても、今は君に危害を加える気はないよ…。あかね君。」
 闇が答えた。
「おまえ、何で俺の名を…。」

「ふふ、君は僕の「玩具」になるんだからね。」

 すうっと闇が開いて、青年が現れた。
 乱馬は腰を落として身構えた。
(こいつ、只者じゃねえっ!)


 真っ暗な闇が乱馬に迫ってきた。




つづく



一之瀬的戯言
乱馬だけど名前は「あかね」。で、女乱馬。
展開メチャクチャですいません(汗
こう書くしか手法が見当たらなくって…。
 


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