◆心(MIND)
第二話 偽りのウエディングベル



一、

「乱馬、シャンプーちゃんが来たわよ。」

 のどかが心配げに顔を覗かせた。

「あ、う、うん…。」
 乱馬は蒲団の中からその声に答えた。

 頭がずきずきする。脳に膜でも張ったようなそんな最悪の気分だった。

「たく…。健康なことしか取り得のないあなたが、倒れるなんて、余程この風邪はきついらしいわね。」
 のどかはころころと笑って見せた。
「うるせえなあ…。俺だって好きで寝てるんじゃねえぞ…。オフクロ。」
「折角、許婚が来るんだから、しゃんとなさいっ!!」
 と叱咤する。

 自分では記憶が無いのだが、夕べ、道場でぶっ倒れていたところを、シャンプーが見つけて、部屋へ運び込んでくれたらしい。
 疲れから来る風邪だだろうと、早乙女家伝来の「万金丹」を飲まされて、床へ寝かしつけられていたのだ。

 窓の外を見やると、雨がしとしとと降り続けていた。 

「ニーハオ、愛人(アイレン)。具合どうあるか?」
 薄ピンクのチャイナドレスの光沢が眩しく、乱馬の目に入って来た。
「お、おう…。」
 乱馬はその声に呼応した。
「さてさて、邪魔者は消えるわね。ごゆっくり、シャンプーちゃん。」
 のどかは軽く笑みを返すとそそくさと部屋から出て行った。
 冷たい風が、開いた窓の外から流れ込んでくる。

「乱馬でもダウンすることあるね…。」
 シャンプーは極上の笑顔を乱馬に差し向けた。
「で、何の用だよ…。」
 乱馬は蒲団の中から、無愛想にシャンプーを見上げた。
「熱出たときの特製料理作ってきたね。」
 にっこりと微笑むシャンプーに乱馬は頬を染めた。
「悪いな…。食えるかどうか、わかんねーぞ。殆ど食欲なくて…。」
 と、覇気のない顔で微笑み返す。
「そう思って、特製お粥作ってきたね。お粥なら食べられるよ。ちょっと台所借りて温めてくるから、待ってるね。」
 いそいそとシャンプーは腰を上げた。
 
「たく…。熱だって?色男が廃るわよ…。」
 シャンプーと入れ違いになびきがひょいっと顔を出した。
「るせえ…。」
 むすっとした表情をなびきに向けた。
「許婚かあ…。シャンプーちゃんかいがいしいわね。ホント、早く治さないと明後日の結婚式、大変だわよ。新郎は。」
 なびきは乱馬に問い掛けた。
(そっか…。明後日かあ、式は。)
 乱馬はなびきの声を聞き流しながら考えを巡らせた。

 乱馬もなびきも、ごっそりとあかねの存在の記憶はこそげ落ちていた。あかねへの愛情が、そのままシャンプーへと移行したような…そんな風だった。
 

「やっと、重い腰上げて結婚するんだから。散々、彼女を待たせたでしょ?罪作りな奴ねえ…。」
 なびきはうりうりと云わんばかりに乱馬を見詰めた。
「で、彼女と一緒に中国へ行っちゃうの?」
「中国へ行くって言ったって、女傑族のあいつの両親に報告しに行くだけで、すぐに日本へは戻って来るぜ。俺が手伝わねえと回らないだろが、この道場は…。」
 乱馬は無愛想に答えた。
「ホント…。あんたには感謝してるわよ。だって、うちは女系家族でしょ。女ばかりの三人姉妹じゃ道場もなかなか経営が上手くいかないから。」
 となびきはさらっと言った。
「三人?おめーは二人姉妹だろ?おい、なびき。」
 乱馬はきょとんと聴き返した。
「あ、いっけない…。勘違い。我が家はかすみお姉ちゃんと私の二人姉妹だっけ。」
 なびきはぺロリと舌を出した。
「たく…しっかりしてくれよ。勘定方がしっかりしてねえと、天道家も大変なんだからよ。」
 乱馬は笑った。
 が、内心、あれっという感情が湧き上がる。…誰か一人、欠落しているような気がしたのだ。

「本当、乱馬くんには悪いと思ってるのよ。もともとあんたは天道家(うち)の許婚ってことだったのに、かすみお姉ちゃんは東風先生一筋だし、あたしもあんたに興味が湧かなくって…。」
「ああ、そうだったな。俺も、特にかすみさんやおめえに何の恋愛感情も抱いちゃいねえしさ。それよか、こちのわがままで無差別格闘流の看板を預けてもらうことになってよ…。」
「良いわよ。元々そういう約束が父さんたちの間にできていたんでしょ?但し…。お金ができたら。」
「わかってるよ…。俺が無差別格闘流をもっと世に流布して、そして、シャンプーが猫飯店で稼いでくれたら、道場の譲渡費用は俺たちで払って買い取るから…。」
「それだけわかっていたら上等、上等…。ほら、シャンプーちゃんが来たみたいだから、あたしあこれで。ごゆっくりっと。」
 なびきはウィンクするとさっと部屋から出て行った。
 その後姿を見送りながら、乱馬はふと考え込んだ。
(さっきなびきが言ってた三人姉妹…。この家にはもう一人、誰か居たような…。)
 思い出そうと巡らせたが暗い靄がかかっていて良く分からなかった。
(たく…。俺も熱でうかされてるかな…。天道家はかすみさんとなびきの二人姉妹じゃねえか…。)
 そう思い直すと、ほっと溜息を吐いた。

「溜息あるかあ?どうしたね…。」
 シャンプーが温め直したお粥を持ってそこに立っていた。
「いや、何でもねえよ…。」
 乱馬はふっと表情を緩めた。
(これね…。私が望んでいた幸せは。)
 シャンプーは内心ほくほくと微笑んだ。

 あかねを消して手に入れたもの。それは乱馬の溢れんばかりの愛情だった。今の乱馬はあかねの存在など、忘れている。いや、乱馬だけではない
 天道家の人々、乱馬の級友たち。そう、世に生きる人全てからあかねの存在は消え果ている。もちろん、彼女の痕跡全てが消えていたのだ。最大のタンコブが消えてシャンプーにとっては心地良い世界であった。
「それより、これ食べるよろしね…。」
 シャンプーはお粥の入った土鍋を脇に置くと、お椀を取って注ぎ始めた。いい匂いが部屋に満ちてくる。

「おっ!美味そうじゃねえか。あいつの作ったもんとはやっぱり出来が違うぜ…。」
 乱馬の口から言葉が漏れた。

「あいつ?」
 一瞬、シャンプーの顔が歪んだ。

「どうした?シャンプー。」
 乱馬は己が口にした言葉を気にとめている様子は無かった。
(無意識にあかねのこと口にしたか?)
 シャンプーの表情は表面の笑顔とは裏腹に戦慄に駆られる。
(確かにあかねの痕跡は全て断ってしまったというのに…。)
「おいっ!!早く食わせてくれよ…。」
 乱馬が黙りこくってしまったシャンプーを促した。
「あ、ごめんある。ほら、私が食べさせてあげるね…。」
 そう言うと、れんげを取った。
「いいよ、自分で食べられるぜ…。」
 ちょっと躊躇する乱馬が堪らなく可愛く感じた。
「遠慮しないね…。明後日には夫婦になるね。」
 そう言い聞かせるように返事する。
「あーん。」
 シャンプーに促されて口をあんぐりと開ける乱馬。そこへ注がれるお粥。

「美味えっ!やっぱ、最高だな。脳天かける不味さのあいつのとは違ってよ…。」
 乱馬はもぐもぐやりながら答えた。

(また…。)
 怪訝な表情を浮かべたシャンプーは、
「乱馬、あいつって誰ね?」
 と、わざと乱馬に問い掛けた。

「あいつ…。うーん。誰だったか思い出せないけど、俺にいつもまっずーい料理を食わせてにこにこ笑ってた奴…。」
 乱馬は思い出そうと、考え込んだ。

「…んな奴、いないか…。ごめん。どうかしてるぜ。俺。熱のせいかな。」
 諦めて、そんな言葉を吐きだした。


(やっぱり、完全に記憶消えたわけではないね…。不味いね。このままでは。)
 シャンプーは複雑な思いを描きながら乱馬を見返した。


 あかねの記憶は、シャンプー以外の誰もの脳裏から、きれいさっぱり消えている筈である。
 嘘で塗り固められた世界。
 それがここである。
 この世界を確かなものにするためにも、乱馬と早く結ばれたかった。
 明後日まで待てない。

(ようし…。)

 シャンプーは姦計を巡らせると。軽く微笑んだ。



二、

 食事が済むと、シャンプーはお粥の入っていた器を袂へと下げた。

「乱馬、気分はどうか?」
 と尋ねる。
 さっそく、思い立ったことを実行に移そうと企んだ。

「だいぶん好いぜ…。大丈夫、明後日の結婚式にはちゃんと回復できてるって。おまえを軽々と持ち上げられるくらいにさ。」
 と笑って見せた。
「嬉しいっ!!」
 シャンプーはわざとらしく彼に抱きついた。

「お、おい…。」
 乱馬は焦りながら迫ってきたシャンプーを抱え込んだ。
 ばさりと後ろ向きに薙ぎ倒された。ふわっと蒲団へと落下する。
 シャンプーは倒れこんだまま、乱馬の上体へと抱きついた。
 乱馬はドキドキとした表情を彼女へ差し向ける。

 本来ならあかねに差し出すであろう、その恥かしそうな笑顔だ。
「乱馬…。」
 シャンプーは甘い吐息を吐くと、乱馬に迫った。
「ん…。」
 甘い口元で乱馬に頬ずりする。口付けのおねだりだ。
 乱馬は軽く払いのけてシャンプーに言った。
「お、おい…。シャンプー。不味いぜ…。この体制は…。」
 そう促すのがやっとだった。

 この純情男はあかねの記憶が消えたとしても、奥手な本質まで変わってしまったわけではない。両手も蒲団を掴んだまま、石のように身体が固まってしまった。

「明後日には私は乱馬のもの。それに、乱馬も私のもの…。」
 シャンプーは乱馬の身体にしなやかな腕を絡みつかせた。そして、おさげ髪を弄びながら問い掛ける。
「待ちきれないね…。私の全部を、乱馬にあげるね…。」
 腰をくねらせながら乱馬の顔を覗き込んだ。

 この場で、一気に既成事実を作ってしまおう。それが彼女の狙いであった。

 今の乱馬にはあかねの記憶がない。だが、その痕跡がどこか心の奥に残っている。そう危惧した彼女は、思い出される前に強引に行動に出ようと思ったのだ。
 ここで我が身を乱馬に捧げ、あかねの記憶そのものを消し去ろうと考えたのだ。
 それに、 彼女の計算が間違っていなければ、隣の部屋でなびきがデジカメを構えて、決定的瞬間を捕えようと、虎視眈々シャッターチャンスを狙っている筈だ。写真さえ撮られてしまえば、言い逃れもできなくなる。

(ふふ…。ここで乱馬に抱かれれば、あかねの記憶も消えるね。乱馬の頭の中には私しか映らなくなるね。それに、私も子種を貰えれば、目的が早く達成できるね。)

「ちょっと、シャンプー。おい…。冗談は止せって。」
 乱馬はあたふたとシャンプーに組み敷かれながら言葉を継いだ。
「何戸惑ってるか?乱馬、私のこと嫌いか?」
 シャンプーは拗ねた表情を見せた。
「とんでもねえっ!!」
 乱馬は抗いながらも首を横に振った。
「おまえを愛しているからこそ、我慢したいと思ってるんだ。バカッ!!」
 乱馬はシャンプーの身体をぐいっと撥ね退けた。ガバッと起き上がってシャンプーの二の腕を掴んだ。
「それに、まだ俺は熱っぽくて…。結婚式までにおまえにたちの悪い風邪、うつしちまったら、それこそ大変だろうが…。聞き分けてくれ。」
 乱馬はそう言うとシャンプーから目を反らせた。これ以上凝視続けると理性が飛ぶと彼なりに堪えた結果だった。シャンプーの衣服は乱れて、福与かな胸の谷間が目の前にあった。
「私のことなら、気にしなくてもいいのに…。」
 シャンプーは熱っぽい目を乱馬に見せようと顔を近づける。
「シャンプー…。」
 乱馬はその誘惑を堪えるのが必死であった。目の前に伸ばせばある、芳醇な女体の輝き。決して興味が無い訳ではなかった。増してやそれが「許婚」とインプットされている女性であれば、少なくとも何を躊躇うことがあろうか。理性と本能の戦いである。
 シャンプーはそんな乱馬の葛藤を楽しむように、誘惑を続けた。
「私は乱馬のものね…。だから、好きにする。結婚式は明後日ね。もう決まっているのだから、婚前の交渉に何を躊躇うことがあるね…。」
 そう言いながらまた乱馬へと身体を預けた。ふっと吹き付ける吐息は乱馬の耳元をくすぐった。
 痺れてしまいそうな感覚に、乱馬は耐え難い衝動に捉われた。
 このまま彼女を抱いて本望を遂げようか。
 迷いは心を揺さぶり続ける。
「乱馬。愛してるね…。」
「シャンプー…俺もだ…。」
 目を閉じて、こみ上げる激流に身を投じようと絡みつく彼女の細い腰に手を伸ばした。
 そして半開きになった唇へ己の口を近づけてあわせようとしたときだ。

「乱馬。気分はどうかね?」

 ガラリと音がして父親の玄馬がずかずかと入って来た。

「あ…。」
 息子とシャンプーの様相を見て、父親は言葉を止めた。
「悪い、悪い…。ささ…。ご自由に続けてくれ。」

 そう言うと、ぱったりと襖を閉めた。

 ご自由に続けてくれと言われても、白んだ空気は取り戻せる筈がない。シャンプーはともかく、乱馬の昂ぶった気持ちは萎えてしまうのに十分であった。

「やっぱり止めよう…。シャンプー。」
 乱馬は伸ばした手を引っ込めた。
「どうしてか?」
 シャンプーは火照った身体を持て余してしまったのか、ちょっと物憂げな瞳で乱馬を見返した。
「この家は人が多すぎる。隣りにカメラを構えたなびきがいるかも知れないし…。」
「じゃあこの続きは?」
「ちゃんと式を挙げてからだ。そしたら、誰彼憚ることなく、契りを結べるさ。」
 乱馬はシャンプーを見て笑った。
「あと二日の辛抱だ。そのくらい、屁でもねえだろう?今までずっと我慢してきたんだぜ…。」
 乱馬は笑顔を手向けた。
 そう言われてしまってはシャンプーもすごすごと引き下がるしかなかった。
(もう少しだったのに…。)
 そう心で吐き出しながら下唇を噛んだ。

 それにしても、と彼女は思った。
 乱馬のあかねへの想いは純情一徹だったということに改めて気がつかされた。彼の頭から「あかね」という存在は喪失してしまっているものの、愛情パターンはそのままシャンプーへと移行しただけである。
 何だか、とっても、忌々しくて口惜しい複雑な心情に、自身が捉われてゆくのを感じずには居られなかった。

 一方乱馬はシャンプーを見送った後、複雑な表情で天井を睨みつけていた。

(シャンプーの奴…。何を思いつめていたんだろう…。)

 愛しくて堪らない筈のシャンプーが、何故か急に遠い存在に感じ始めていた。
 この違和感は何か。
(やっぱ、風邪のせいだな…。)

 そう吐き出すと、乱馬は静かに目を閉じた。



三、

 そのまままどろんだ彼は、夢を見た。 

 広い草原を真っ直ぐに駆けている己の夢だ。
 空は何処までも青く、一面のクローバーの花絨毯。
 愛しい少女の後を追う。
 髪が長いその少女。
「シャンプー!」
 追い縋りながら名前を呼んだ。
 少女はふとその声に歩みを止めた。
「シャンプー?」
 乱馬は戸惑いながら少女に声をかけた。

 ゆっくりと振り返る少女。

「え…?」

 その少女はシャンプーではなかった。
 揺れる黒髪は腰まで靡き、円らな瞳は物憂げな表情を浮かべた。

 その真っ直ぐな瞳には確かに見覚えがあった。

(誰だろう…。)

 立ち止まって彼は記憶の隅へ思考を巡らせた。
 重なっては消えてゆく、少女の面影。
「おまえは…?」
 耐え切れなくなった己は思わず彼女に問い質していた。
 少女はゆっくりと名前を象ろうとした。
 だが、突然吹き抜けた風にそれを妨げられた。

 寂しげに佇みながら、少女は微笑を返した。
 その微笑の柔らかさ。たおやかさ。
 心は千路に乱れた。

 少女はふっと涙ぐむと、そのまま何も言わずに空へと溶け始める。

「待ってよ…。」

 必死に追い縋ろうとした。
 風がまたそれを押し止める。
「待ってくれ…。」
 叫ぼうとしたが声が出なかった。
 少女は消えた。
 
 ただ闇がそこへと迫り来る。
 
「待ってくれ…。」

 乱馬はようやくそう言うと、目がさめた。
 辺りは夕闇に包まれて真っ暗になっていた。
 どうやらまどろんでしまったらしい。
 身体は汗にぐっしょりと濡れていた。ハアハアと息が荒い。
「夢…か。」
 乱馬は右手を上に当てて汗を拭った。
「あの少女…。誰だったんだろう…。」
 嫌にはっきりと覚えている。
 得も云われぬ喪失感が彼の上に降りてきた。

(俺は、何か…とても大事なことを忘れている…。)

 心が警鐘を鳴らしているかのように、息苦しくなった。

 彼は起き上がると、部屋を出た。着替えようと思い、脱衣所へ行く。
 途中、天道家の団欒が階下で行われているのがちらりと見えた。
 ここの家長の天道早雲と長姉のかすみ、次女のなびき。そしてパンダの形をした己の親父とにこやかなオフクロ。小さな爺さんも居る。
(何か物足りねえな…。)
 乱馬はふと障子の袂に目が入った。己の空間だ。いつもあそこに己は座ってこの家族たちとご飯を食べている。その横にある空間。
(何故思い出せねえ…。)
 




 そのとき、頭がぎゅっと何かに締め付けられたような感覚に陥った。

『何故、忘レヌ!』

 ギンと声が響いて頭を支配しようとしているのを感じた。

『思イ出シテハナラヌ!』

 激しい命令口調の闇の声だった。

「何で思い出しちゃ、いけねーんだ?」
 耳をふさぎながら、そう思った時、傍らで声がした。





「あら、乱馬くん…。こんな夜中にどうしたの?」
 乱馬が佇んでいることに気がついたのはなびきだった。
 
 ふと気が付くと、一階の長廊下の真ん中に佇んでいた。洗面所の近くだ。

「起きちゃったの?」
 のどかが心配げに話し掛ける。廊下に立ったままの彼は、
「汗かいちまったから、着替えようと思って…。」
 と言い訳をした。
「まだ具合悪そうね…。」
 かすみが小首をかしげながらそう答えた。
「着替えたら、また寝ます…。」
 乱馬は力なく答えた。もう、さっきの少女の幻影など、忘れていた。
「シャンプー君と頑張りすぎたかの?結婚式までにはきちんと治せよ。」
 含み笑いをしながら玄馬が乱馬に言葉を投げた。
「え?何、なに?シャンプーちゃんと何かあったの?」
 なびきがそわそわとそそり立った。
「てめえらが考えているようなやましい真似なんか、してねえぞ…!!」
 乱馬はそう言葉を返すと、むすっとした表情でその場を離れた。

 シャンプーとは口付けの一つも交わさなかった。いや、交わせなかったのだ。心の中で何かの抑止力が働いた。乱馬は無意識に彼女を避けたような、そんな想いに捉われた。

(考えすぎだな…。ひょっとしてマリッジブルーっていう奴なのかもしれねえ…。)

 若くして世帯を持つのである。
 それ相応のストレスを感じているのかもしれないと受け流すに十分だ。
 廊下に掲げられた、残り一枚のカレンダーには紅い印が打ってある。結婚式の日だ。

 乱馬はほおーっと深い溜息を吐くと、のろのろと冷たい階段を上がって行った。



四、

「さあ、ほら、さっさと支度なさいっ!!」
 なびきが乱馬を促した。

「ずっと寝てばかりだったから身体が鈍ってるの?」
 少し意地悪そうな目を乱馬に差し向けてくる、天道家の次女。

「熱はちゃんと下がったのかい?」
 この家の主、天道早雲が声をかけた。
「はい、おかげさまで…。」
 乱馬は脱いだパジャマをたたみながら答えた。
「皆、お待ちかねよ…。さっさとタキシード着ちゃってよね。」
 蒲団をバタバタと上げながら、なびきが促す。
「たく…。病み上がりの俺を何だと思ってやがる。」
 乱馬は独りごちながらボリボリと頭を掻いた。

「不潔ねえ…。風呂、入ってきなさいっ!」
 なびきは姉さん女房のようにそう言うと、乱馬を階下へと追い遣った。
「この家も寂しくなるねえ…。早乙女君。」
 早雲は乱馬を見送ると溜息を吐いた。
「何、正月を中国で迎えがてらの新婚旅行から帰ってきたら、また、奴もここの道場ヘ入り浸るんじゃから、そう、しょげることもないぞ、天道くん。」 お気楽な親父がそう答えた。

 手ぬぐいを携えて浴室へ入る。
 カポンと桶のすれる音がする。
 朝の浴室。光が滑らかに窓から零れ落ちてくる。小鳥たちが楽しそうに囀る。愛の言葉を交わしているのだろうか。

 浴槽に深々と身体を沈めながら、乱馬はほおっと息を吐いた。
 湯を手繰り寄せて掻き回して見る。
「結婚式…か。綺麗な花嫁姿なんだろうな…。シャンプー。」
 乱馬は自然と笑みを零した。
 晴れの日の主役は純白の衣裳に身を包む花嫁だ。
 水面にシャンプーの花嫁姿が浮かぶような錯覚を覚えた。己がために装う美しき可憐な衣装。
「跳ね返りで、泣き虫で…いつも怒ってばかりで…。」
 乱馬は独り呟いた。
「ここで出会った頃はどうしようもないじゃじゃ馬だったっけ…。」
 そう言ってひとりでに微笑んだ。

 少し開いた窓から、冷たい風がサアーッと乱馬の元へ流れ込んでくる。

「…待てよ…。シャンプーと俺ってここで出会ったんじゃねえよな…。女傑族の村で戦ったのが始めてだった。…何だ?今の…。」
 思考がそこで止まった。

『思イ出シテハイケナイ…。』

「う…。まただ、頭が割れるように痛い…。」
 乱馬は湯の中で頭を抱え込んだ。
 何かを思い出そうとするたびに、誰かが己の思考に鉄槌を打ち込んでくる。そんな感覚に襲われるのであった。
 暫くすると、すうっとそんな頭の痛みも消える。そして、何事も無かったように、我に返るのである。そのときには悩んだことも、思い出そうと足掻いたこともすっかりと彼の記憶からは消え果てている。

「乱馬くん。長湯してると湯あたりするわよ。」
 かすみが声をかけてきた。
 一向に上がる気配を見せない乱馬を心配しているのだろう。
「あ、はい…。上がります。」

 乱馬は慌てて浴室から飛び出した。



 式場は天道道場から近い、教会だった。
 元々、早雲が、乱馬とあかねのために準備していた教会だったようだ。年内に仮祝言を挙げさせようと、かなり前から抑えていたようだ。

 そわそわと乱馬は黒いタキシードに身を包んでいた。

「おめでとう!乱馬。」
「おまえ、結局、シャンプーちゃんを射止めやがったか。」
 大介やひろしといった悪友たちもスーツ姿で列席していた。
「乱ちゃんっ!おめでとう…。」
 右京の寂しそうな姿もそこにあった。横には小夏と紅つばさがしっかりと支えている。
「うっちゃん…。悪かったな。」
 乱馬はすまなさそうな視線をこのもう一人の許婚に返した。
「いいんや…。うちは。シャンプーの方がうちなんかよりずっと強いさかいな。泣かせたらあかんで。」
 右京はしっかりとした口調で物を言った。
「それより…。気をつけんとあかんのは小太刀やで。」
 そう言って声を潜めた。
「小太刀?」
 乱馬は右京を見返した。
「ああ…。あいつ、何か企んでるらしいで。シャンプーの弱点とか聞きまくってたもんなあ…。あの手の女は諦めが悪いから。」
 さも有りなん、乱馬は右京の忠告をありがたく思った。
「大丈夫だ…。何人にも挙式は妨げさせねえ。」
「その意気込みがあるんやったら大丈夫や…。ほら、シャンプーの支度部屋、一緒に行こう。」
 右京が清々しく笑っていた。この男っぽい性格の元許婚は精一杯に笑顔で立ち居振舞おうとしているのが乱馬にはわかるのだ。だが、彼女の心情を汲み取って、何ら気にしていない風を彼も最後の優しさで装うことにした。

 花嫁の支度部屋には人が大勢集まっていた。


「シャンプー…残念じゃ。乱馬の元へ嫁に行ってしまうだか…。」
 ムースが涙にくれていた。
「ムース…悪いある…。女傑族の掟、これ絶対。ムースにもきっと、可愛いお嫁さん見つかるあるよ。」
 シャンプーはにっこりとほほ笑んだ。
「よう、ムースが乱ちゃんとの納得したなあ。」
 と、右京が感心していた。
「シャンプー…乱馬とそりがあわなかったら、すぐにでも離婚するだ。オラ…シャンプーが離婚してくるのを、じっと待ってるだ。」
 などと、頓珍漢なことを言っている。
「有難迷惑あるよ、それ。」
 苦笑いするシャンプーに
「まあ、我慢したり。精一杯のムースのはなむけの言葉なんやから…。」
 とあきれ顔で右京がとりなした。


「シャンプー…。」
 
 支度ができた乱馬は、真ん中に座っている彼女に精一杯の笑顔を向け歩み寄って来た。
 元々美しいシャンプーである。純白の花嫁衣裳が眩しいくらいに輝いていた。
「綺麗だ…。」
 それは花嫁にとって極上の花婿からの賞賛であろう。
 薄く化粧した彼女は勝ち誇ったように乱馬を見上げた。大輪の白い薔薇。そんな形容がつきそうなくらい、堂々とした美しさに栄えていた。
「婿殿。しっかりシャンプーを守ってやってくだされや。」
 コロンが目頭を抑えている。孫娘の晴れ姿に思わず涙が溢れたのだろう。
 乱馬は
「ああ。」
 と軽く受け流した。
 シャンプーは怖いくらいに美しかった。触るのにも躊躇してしまうくらいに、気高き花である。
「乱馬…。これで、乱馬は私のものね…。」
 シャンプーはそう吐き出してにっこりと微笑んだ。ぞくっとするような美しさ。乱馬は暫し我を忘れて魅入ってしまった。
「悔しいけど、シャンプー、綺麗やわ。」
 右京が溜息を吐いた。完敗を宣言したかのような口ぶりであった。
「私、右京の分も、乱馬と幸せになるね…。(勿論、あかねの分もね…。)」
 シャンプーは満面の笑みで微笑み返した。

 時が満ちて、結婚式が始まった。
 牧師が前に立って、花嫁と花婿を出迎える。
 花嫁は花婿に導かれるように、バージンロードへとゆっくり歩み始める。
 両脇に別れて座った列席者たちが、オルガンの静かな音色に聞き入りながら、乱馬とシャンプーの入場を待ち侘びていた。
 シャンプーは軽く微笑んで、牧師の方へと視線を流した。
 そこには壇があり、聖書が据えられている。聖書の傍らにはもう一冊、黒い背表紙の本がおどろおどろしく置かれていた。
 そう、『魔道妖鬼恋書』である。
 『魔道妖鬼恋書』は閉じられていた。おばばの言うことには、魔道書は開かない限り、乱馬やシャンプーを中へ導くことは無いと。念のため、封印のシールと共に、セロハンテープで数か所、本が開かないように張りつけてある。

(あかね…。悪いあるね。おまえの愛した乱馬、私が頂く。結婚してしまえばこちらのもの。乱馬の子種、私が宿す。そして、魔道界を開くのだ…。ふふ。安心して。あかねの分も精一杯乱馬を愛してあげるね。) 
 勝ち誇ったように視線を投げた。

 隣りの乱馬はいつもに増して、静粛に歩いていた。彼なりに緊張しているのが良くわかる。シャンプーはつかんでいた乱馬の腕に力を入れて、頼りにしていると云わんばかりに合図を送った。乱馬ははにかんでそれに答えた。
(大丈夫…。これからは俺がずっと守ってやる。)
 シャンプーには彼の腕がそう頼もしげに感じられた。

 式は順当に進んでゆく。
 オルガンの前奏に始まり、祈り、そして賛美、厳かに進んでいった。
 そして、牧師を介して誓いの儀式。
 永遠の愛を誓う時がきた。

 前に進み出た二人は、一身の祝福を受けるために向かい合った。

 シャンプーは幸せに満ちていた。
 たとえそれがまやかしの愛情だとしても、これから注がれるのは乱馬の等身大の物へと変わる。

 あかねに勝った。

 シャンプーは慢心した。
 乱馬がこの結婚を受け入れてしまえば、もう、彼女の蘇る隙は無くなる。
 永遠の愛の誓いを立ててしまえば、己の望みは満願を迎える。魔神に心を売り渡しででも欲しかった彼の愛情。それを満身で受け入れられるのだ。
 その瞬間を今や遅しと彼女ははやる心で待ち侘びてきたのだ。
 目の前で微笑む愛しき男。
 彼に倒されて三年以上の月日が満ちた。追いかけても追いかけても逃げていた彼が。魔道の力によってこちらへと振り向いてくれた。何の躊躇いも疑問も彼女には持ち合わせる猶予がなかった。
『おまえがその男と結ばれた暁には…。』
 彼女の心の奥で闇の声が鳴り響いた。
(わかってるある。彼との間の子供を一人、おまえに差し出せばよいいのであろう?)
 シャンプーは牧師の静かに祈りの言葉を聴きながらその声に反芻していた。
『その男、そんなにも強いのか?誇り高き女傑族の血を煮えたぎらせるほど…。』
 闇の声はシャンプーに囁き続けた。
(強いね…。彼は最高の婿になるね。女傑族の血を滾らせるほど、力と自信に溢れているね…。)
『そんなにそやつの子供を宿したいか?』
 声は更に畳み掛ける。
(当たり前ね。私の血と彼の血を混合させれば、最強の子孫が残せる。)
 自信に満ち溢れた答えだった。
『良かろう…。その最初の子供は我に差し出せ…。この魔道界を手に握る大魔道王へとしてやるという契約、ゆめゆめ忘れるなかれ。その夢叶わぬ時は…。』
(わかってるね…。私、乱馬が手に入るなら何でもする。彼のためなら命も心も惜しくはないね。)
『ふふ…。待っておるぞ…。魔道界でな…。』
 魔の声はすうっとシャンプーの心から消えてなくなっていた。

「さあ、誓いを…。汝、富めるときも病めるときも、かの人を妻と定めて・・・。」
 牧師がゆっくりと宣誓の義を唱えはじめた。
 乱馬は軽く微笑むと、その言葉に向かって頭を垂れようとしたときだ。

「お待ちなさいっ!!」

 高らかな声ががチャペルの中へと響き渡った。



五、

「誰じゃ?聖なる空間を邪魔しようとする悪しき者は!」
 コロンがきっと叫んだ。

「その結婚式に異議がありますわ!!」
 たっと現れたのは、真っ黒な薔薇を手にしたレオタードの少女であった。
「黒薔薇の小太刀っ見参っ!!」
 黒いバラの花びらがとおっと虚空を待った。

「小太刀っ!!」
 シャンプーはきっと彼女を睨みつけた。

「うわあ…。」
「何、これ?」
「痺れ薬?」

 列席者が黒薔薇の毒に身悶え始めた。
「小太刀っ!貴様っ!」
 乱馬はきっと彼女を見返していた。
「乱馬さまっ!私は認めませんですわよ!!」
 小太刀はにっと不敵な笑みを返した。
「小太刀、執念深い女ね!乱馬と私、これから誓いの儀を挙げるところだったのに…。」
 シャンプーも負けじと睨み上げた。
「そうだ…。俺たちの愛はどんなことがあっても…。」
「変わらないとおっしゃりたいのですね…。でも、これでもそう言いきれますかしら…。佐助っ!!」
 小太刀は合図を送った。

「はっ!小太刀様っ!!」

 九能家のお庭番佐助が忍んでいたようだ。

「とりゃーっ!!」
 
 佐助は天井から伝う糸をぎゅんと引っ張った。

「何が起こっても、こっちは絶対に動じねえぞっ!!」
 乱馬が見上げた。

 ばっしゃん!!

 シャンデリアからバケツが飛んできた。

「うわっ!!!」
 何が飛び出してくるのかと思えば、水だ。
 だが、水は彼を震撼させるのに十分であった。
 彼の身体は水のせいで、変身を余儀なくされたからだ。男の身体はみるみる縮まって、おさげの女へと変身を遂げる。
「ち、ちめてえーっ!!」
 が、混乱はそれだけでは到底治まる筈もなかった。何故ならシャンプーにも水が掛かったからである。

「にゃーんっ!!」

 シャンプーは悲鳴に近い泣き声を一つ声高に上げた。
 彼女もまた、水のせいで変身したのである。そう、乱馬が一番恐れる「猫」にだ。

「うわーっ!!猫っ!ねこ゛ーっ!!」

 予想違わず、女性化した乱馬は自制心を失って暴れ始めた。

「ふふ、おさげの女も乱馬様同様、猫がお嫌いですか?ならば、これでどうでしょう?」
 小太刀は更に佐助を促した。と、佐助は何処から持ち込んだのか、野良猫がわんさかと入った檻を、彼の目の前に出した。
「それ、行くでござるよーっ!!」
 佐助は檻の錠を開けた。そして、竹輪をばら撒いたのである。

 にゃー、にゃー、にゃんにゃん、みいみい…

 飢えた猫たちが一斉に飛び出してくる。

「うわあーっ!こっちにも。あっちにも、ねこ、ねこーっ!!」
 乱馬は涙目になっていた。

「さあ、おさげの女!乱馬様の結婚式の妨害のために、好き勝手、存分に暴れなさい。そして、式など粉砕してしまうがよろしいことよ!私を出し抜こうなどとした天罰ですわっ!!ほーっほっほっほっほ!!」
 小太刀は高らかに笑い始めた。

「乱馬っ!!」
「ダメだ…。完全に自制心を失っとる…。」
 痺れ薬から辛うじて立ち上がった級友たちが虚ろげに乱馬を見た。
 彼はわたわたと走り回り、祭壇を薙ぎ倒し、収拾がつかない状態へと陥り始めていた。

「にゃん、にゃん、にゃんーっ!!」
 物憂げそうに変身したシャンプーが乱馬の背中に乗っかってしまったから、さあ大変。事態は最悪へと向かい出す。
「にゃあー。」
 乱馬は高らかに一声鳴いた。
 そう、猫への恐怖が極限に達した彼は、遂に切れてしまったのである。
 猫の大群の投下により、最大限に高められてしまった猫への恐怖。遂に彼は自らを猫化したのだ。当然こうなると結婚式どころの騒ぎではない。

 何とか収拾を図ろうと、シャンプーの曾ばあさん、コロンはポットを持って待合室から現れた。
「シャンプー、とにかく人間に戻るのじゃーっ!!」

 彼女の機転で何とかシャンプーは人間には戻れたものの、ウエディングドレスはボロボロ、成す術もなく立ち尽くした。
「乱馬…。」

 そう声をかけたが、彼は最早人間の言葉を解さない、ただの獣へと変化を遂げていた。しかも女体に変化してしまっている。

「誰か、乱馬を止めないと…。」
 のどかが声を荒げた。
「おばさまっ!だめっ!!」
 なびきが飛び出そうとしたのどかを押し止めた。
「今の乱馬くんは危険よ。誰彼構わずに攻撃を仕掛けてくるわ。下手に動いたら、大怪我するわ!」
 なびきはのどかの背中を引っ張りながら声をかけた。
「でも…。あのままじゃ乱馬は…。」

 そうなのである。
 こうなった乱馬をなだめられるのは、この世にただ一人。あかねだけであった。
 だが、彼の記憶からも、ここに居る全員からも、あかねの記憶は削ぎ落とされている。誰も乱馬を阻止できないのだ。
 教会のシャンデリアはボロボロに、壁はかつ節のささくれ状態に、走り回る猫どもと一緒に「にゃん、にゃん。」と造作ない。

 しかもだ。勢い余って、花が飾られた花瓶へと、頭から突っ込む始末。

 ガシャンと花瓶が砕け散り、頭から水をかぶってしまった。
 が、一向に、正気に戻る気配も無く、再び、「にゃあ、にゃあ」と暴れまくった。

 散々教会の礼拝堂の中を暴れ回った乱馬は、ふと、牧師の居る方へと目を転じた。
「わ…。こちらへ来ないでください!おお、神よっ!!」
 牧師は思わず聖書を盾に平伏してしまった。が、立てた聖書の横に置いてあった古びた本、『魔道妖鬼恋書』を猫乱馬の瞳が捕えた。

「にゃにゃにゃにゃにゃ!」
 乱馬は鋭い爪で、魔道書のセロハンテープを引きちぎった。
 
 バサッ!

 その弾みで、魔道書が壇の上から、床へと投げ出されて、落下した。

 ドサッ!

 鈍い音と共に、魔道書は背を下に、ぱらぱらとめくれ上がった。 

「にゃああーっ!」

 何を思ったのか、乱馬はその本へ、憧憬の目を差し向けた。震えて地面に這いつくばっている牧師を尻目に、乱馬は、猪突猛進。ページが開いた魔道書へ向かって突進していく。
 

 その様子に、シャンプーがしまったという表情を向けた。

 あかねが消えて一週間は、魔道書を乱馬に近づけてはならない。結婚式に夢中になっていた彼女は、その轍を忘れ去っていたのだ。

「ダメあるっ!乱馬っ!」
 己の身体から、血の気が引いてゆくのを覚えた。

 猫化した彼は、人間である時には忘れ去っていた「何か」をあの本の中に察知したに違いなかった。
 多分、それは、あかねの匂い。

「にゃん、にゃん。」
 彼は愛しそうに本へと身体を擦り付けた。
(あかねの匂いか気配でも嗅ぎつけたか!)
 シャンプーは慌てふためいて、彼からその本を引き離そうとした。
「ふーっ!!」
 乱馬はシャンプーを敵と見なしたのだろう。近寄ってきた彼女に背中を怒らせて挑発しはじめた。これ以上近寄ると容赦はしない。獣の目はそう語っていた。
「渡せないねっ!その本はっ!!」
 シャンプーが飛び掛ろうとしたときだった。
 魔道書が光り始めた。

「にゃ?」

 魔道書が眩しく閃光を発したのである。

「に、にゃーーっ!!」

 みるみるうちに、その魔道書の発した光源に飲まれるように、身体ごと吸い込まれていった。



「乱馬ーっ!!」
 シャンプーが叫んだ。
「ごおおおん」と本は唸りを上げる。その中で乱馬が「にゃん。」と嬉しそうに一声鳴いたように聴こえた。

「乱馬…。」

 シャンプーは放心したままその場へとへたり込んでしまった。

「シャンプー、乱馬は?婿殿は?」
 コロンが駆け寄って来て、放心した孫娘を労わった。
「ダメ…。魔道書へ、呑み込まれてしまった…。もう少しで乱馬と契りを結べたのに。」
 シャンプーは取り乱していた。
「シャンプー、落ち着けっ。」
 背後からコロンが顔を出した。
「ふふふ…。はははは…。」
 へたり込んで放心していたシャンプーは今度はいきなり笑い始めた。
「本の中のあかね…。乱馬を呼んだね…。そうはさせない。魔道王と契約したのはこの私。乱馬渡せない。絶対に渡さないっ!!」
「シャンプー?」
 何を口走っているのかわからない取り巻きの人々が見守る中、シャンプーはそう繰り返し笑った。まるで何かに取り憑かれているように。一頻り笑い終えると、シャンプーは魔道書を手にした。

「あかね、待ってるね…。私も本の中へ行く。乱馬、見つけて、先に契るはこの私。そして魔道王との契約を果たすね。」
 そう言うと本をたっと開いた。

「シャンプー、いかんっ!行くでないっ!!」
 何もかも思い出したコロンが喚いた。
「シャンプー、どうしただ?何が起こっただ?」
 同じく我に返ったムースもシャンプーを行かせまいとしがみ付いた。

『雑魚どもは引っ込んでおれっ!!』

 シャンプーの中に巣食っているのか、別人格の声が彼女の口から漏れた。
「シャンプー?」
 痛恨はムースとコロンがその声に一瞬怯んだことだろう。シャンプーは二人を振り切ると、本へと自ずから身を投じたのである。
「シャンプーっ!!!」
 コロン婆さんの絶唱が響き渡った時、みるみるシャンプーは魔道書の中へと呑み込まれて見えなくなった。
 コロン婆さんは己を悔いるように魔道書を見た。そしてバラバラと頁をめくったが、最早、魔道書からは何の気配も感じられなかった。

「何じゃ?この本は…。」
 訳を知らないムースが、魔道書を手に取って、しげしげと見渡した。眼の悪い彼は、乱馬とシャンプーがこの本の中に飲まれたのが、見えなかったようだ。
 と、その時だ。ムースが手にした魔道書が、鮮やかな赤い色へと変化を遂げた。
「わわわわ、本の色が変化しただ…。」
 ムースはパッと本から手を離した。
 と、表紙に何か文字が浮き上がった。赤色の冊子に黒い文字。『魔道黙示録』
 そう読めた。
「これは…。『魔道黙示録』。」
 持っていたムースの表情が、変わった。わなわなと手が震え始める。

「ムース?おぬし…この本を知っておるのか?」
 婆さんがムースへと、問いかけた。

「知っておるも何も…。もともと、おらの家に代々伝わっていた本じゃ。何で、こんなところにあるんじゃ?」

「何じゃと?」
 おばばの驚く声に、ムースは恐る恐る尋ねた。

「おばば様、もしかして、シャンプーは…この本の中に飲まれただか?」
 血相を変えて、ムースがおばばへと詰め寄った。いつもは、頓珍漢な彼も、この時ばかりは、真っ直ぐにコロン婆さんの方へと近眼の視線を投げかけていた。
「ああ…。シャンプーは自ずからこの本の中へと、身を投じていったよ。乱馬を追ってな…。」
「な…なんてことじゃ。おらのシャンプーが…魔道黙示録の中へ…。この世は滅びるかもしれぬだ…。」

 ムースはぎゅうっと、魔道書を胸に抱きしめた。

「この世が滅びる?どういうことじゃ…ムース。」
 今度は婆さんがムースへと詰め寄った。
 

六、

 雨が降り始めた。
 
 猫乱馬によって荒らされた、教会の屋根に、雨音が激しく打ち付け始めた。

 主役の乱馬とシャンプーが消えた今、人々は、それぞれ、バラバラに家路に就いた。
 猫乱馬が暴れまくり、シャンプーがそれを追って、どこかへ行ってしまった…。

「たく、しょうがないのう…バカ息子め!」
 新郎の父、玄馬が、苦笑いをした。
「ま、そのうち、帰ってくるでしょうから、ほっといてお、良いんじゃないの?」
 なびきはあっさりと言い放った。
「そうだね…。披露宴の御馳走がぱあになるのもあれだから、先に天道家へ帰って、我々は一杯、やっておこうかねえ。」
「誓いの儀式はどうするんじゃ?」
 玄馬の問いかけになびきが答える。
「後で、牧師さんを家へ呼んで、改めたら良いわ。」
「で?これは誰が片付けるんだい?」
 早雲の問いにも、なびきが答える。
「さあ、適当に、教会の人がやってくれるんじゃない?会場代払ってんだから。」
 

 この場に居合わせた者のうちで、魔道書の中へと二人が飲まれたことを知るのは、ムースとコロン婆さんの二人だけだった。それほど、一瞬で、二人は、魔道書の中へと引きずり込まれたのだ。
 

「そは誠か?ムースよ。」
「ああ、確かじゃ…。」

 乱馬が蹴散らした、瓦礫を片付けながら、コロンがムースへと問いかけた。

「あの本は、我が家に元々伝わっていた魔道の書の一つだったんじゃ。オラのばっちゃんが良く言ってただ。『魔道黙示録』が無くなって久しいと…その本が、まさか猫飯店にあったとは…。」
 ムースは珍しく真剣な顔をコロンへと差し向けていた。
「人聞きが悪いことを言うでないぞ。これはずっと以前にハッピーからワシが貰い受けたものじゃ。女傑族の者しか扱えぬ伝説の本じゃからワシにやると貰ったものじゃ。
 じゃから、おぬしの家の蔵から盗み出したのは、ワシではなくて、ハッピーじゃぞ。誤解するでないぞ。」
 とコロン婆さんは、自分が盗人にならないように、本の出所を言い訳した。

「その本の管理をしっかりと申し付かっておったのがオラの家じゃった。じゃが、いつの間にか、オラの家の書物庫からその本は忽然と消えたんじゃ。
 そうか、八宝斎の爺さんが盗んでいただか…。」
「で?この本は、恋敵を葬るためだけの本ではないのか?」
 とコロン婆さんは、ムースへと問いかけた。
「確かに、恋敵を葬り去るための物じゃが…。それだけではないだ。」
 とムースが言った。
「この本の中には、魔道王という魔物が棲んでいるだ…いや、正確には、封印されていると言われているだ。」
「魔道王?」
「ああ…。ちと厄介な魔物じゃそうじゃ。おらも、詳しい事は知らんのじゃがのう…昔、その魔物に手を焼いた皇帝が、術師に頼んで、この本の中に、封印してもらったそうじゃ。
 じゃが、その魔道王…なかなか巧妙な奴で、再臨を望んで、この本の中から、人々を惑わし続けているというだ。」
「ほう…惑わすとな?」
「ああ。魔道王の復活の方法はただ一つ。強い人間の生気を集めることじゃ。人々の欲望を刺激して、この本に恋敵同士の女二人と男一人の名前を書かせる。そして、名前を書かれた人間を、この本の中へ引き入れるだ。
 それから、魔道王は引きずり込んだ男へと乗り移り、女の一人は糧として食らい、もう一人の女と交わりを持つ…。糧とした女からは生気を、交わった女には子供を産ませる…。復活への階段を一段ずつ上がる…この目で見た訳ではないが、そんな風に言われているだ。」
「交わる…とな?」
 ギョッとして、婆さんが問い返した。
「ああ…。色恋沙汰は人間の大きな欲望の一つじゃからな…。言い伝えによると、一万組目の交わりが持たれた時、魔道王が復活する…と言われているだ。」
「一万組人目…。」
「で、死んだばっちゃんが言うには、ぼちぼちその一万組目に近づいている…と言っていただ。」
「ほう…何で、そんなことがわかるのじゃ?」

「それは…ここを見ればわかるだ。」
 そう言うと、ムースはおもむろに本を開いて、頁を繰った。そして、白紙と墨文字の境界へと手を当てながら言った。
「ちゃんと、数が書いてあろう?九千九百九十九組で止まっているだ。」

 確かに、彼が指摘するように、縦文字で九千九百九十九組という文字で止まっていた。その下に、名前と見られる文字が三人分書きこまれている。一人は赤文字で、一人は青文字、そして一人は黄文字だった。

「不味いな…。」
 コロン婆さんが吐き出した。

「ああ、不味いかもしれぬな。」
 ムースも一緒に頷いた。

 この状況から察するに、あかねと乱馬、そしてシャンプーが一万組目となるのは、ほぼ間違いない。
 しかも、既に三人とも、魔道書の中へと引き込まれてしまった。

「しかし、ムースよ、何故、おぬしの家にこの本が伝えられていたのじゃ?」
 コロン婆さんの問いかけにムースが答えた。

「残念ながら、この本が我が家に伝えられていた詳細はオラも知らないだ。まだ、当主として家を継いだ訳ではないだからな…。
 でも、死んだばっちゃんが言うには、この本の存在は女傑族の中でも微々たる者しか知らんそうじゃ。下手に使うと大変な事態を引き起こす元になるというでな…。村長すらおそらくは知らぬじゃろう…と言っておった。
 オラはばっちゃんから身罷る前に、この屋の男子の一人として、行方知れずになった魔道書を探し出せ…と言われただ。この封印の札につられて、いずれ、オラの前に魔道書が現れるかもしれない…とな。」
 ムースは懐から、冊子を出してきて、コロンへと見せた。その冊子の中に、仰々しく挟みこまれた十センチにも満たない真四角の紙きれが収められていた。

「ほう…それは…。」
 おばばは目を細めて、そのお札を見入った。

「魔道黙示録を封印するための札じゃ。魔道王が甦りそうになった時、これを使えと、先祖代々伝えられているもののうちの数枚じゃ。
「それを使えば、魔道王は滅びるのか?」
「一応、そういう風に言われているだ。一万組目の満願が満ちる刹那…魔道王が飛び出す前にこれを貼れ…とな。」
「今は使えぬのか?」
 コロンが問いかけると、
「当然じゃ。今使えば、シャンプーはこの中に永遠に閉じ込められることになるが…おばばはそれでも良いだか?」
 そう問いかけられて、コロンは黙った。
「ほうれ、みい。オラだってシャンプーと会えなくなるのは嫌じゃ。じゃから、ギリギリまで使わんだ。」
 と言って退けた。

「それにしても、おばば殿ともあろう方が、大変なことをしでかしてくれたものじゃのう。」
 お札を懐にしまいこみながら、溜め息と共に、吐き出した。

「ええい!やかましい!あの本がそんなにおぞましい代物だとは知らんかったのじゃ!」
 怒鳴ってみたところ、どうなるわけでもなかった。コロンもはああっと特大の溜め息を吐きだした。

「知らぬ事だったとは言え、それほどまでに恐ろしい魔道書だったとは…。しかも、シャンプーにまで禍が振りかかろうとしておろうとは…。」
「オラのばっちゃんがその本を、ある術者に託して処分しようとしていた矢先に書物庫から魔道書は消えたそうじゃ。或いはその本は…。」
「自ずから望んで、おぬしの家から逃げたと…そう言いたいか?」
「そう考えた方が自然かもしれないだ。それで、八宝斎という妖怪じじいに、己を盗ませて…。」
「ワシの手元で長きに渡って次の咒法者が来るのを待っていたというのか…。くっ!ワシとしたことが、つい孫娘可愛さに目が眩んで。」
「オババだけのせいではないだよ。きっと魔道書にオババもシャンプーも惑わされてしまったに過ぎないだ。満願が近づいたことを知り、魔道書が自ら作り出した禍じゃったかもしれん。」


 いつの間にか、外では暮れの嵐が暴れ始めていた。
 冬には珍しい雷がゴロゴロと空を走り始める。寒さは少し緩み、季節を間違えたのではないかと言うほどの、湿気が流れる。
 閃光はまるでこれから起こる不気味な出来事の予兆のように、空を一瞬一瞬明るく照らし出しては、消える。



「いずれにせよ、最早、我々の力の及ぶものではないのう…。本の扉は閉ざされてしまったのじゃから…。」
 コロンは観念したように、瞳を閉じた。
「じゃな。オラたちにできることは、何もないだ…。」
 悲痛な表情で肩を落としたムースに、コロンはそっと囁いた。
「後は…。後は乱馬に任せよう…。彼なら或いは…。シャンプーもあかねも、そして、魔道王からこの世界を守ってくれるやもしれぬ…。我々は祈りながら、その本を見守るしかないのじゃ…。ムース。」
 コロンは悲痛な表情で魔道書を胸に泣崩れる少年を見詰めた。

「ワシらにできることは、待つことだけじゃ…。」

 コロンはそうチャペルの祭壇に向かってそう囁いた。





つづく



一之瀬的戯言
 私が一番、らんま作品で忌むべきこと…それは、乱馬×シャンプー
 乱馬×右京とか乱馬×なびき…とか。他にバリエーションがありましょうが、どうも、この二人の組み合わせだけは、「勘弁!」なのであります。従って「反転宝珠」とか「魔猫鈴」とか…アニメでいえば、「シャンプーの赤い糸」とか、絶対受け付けません。
 …のくせに、書いてるし…。この話が進まなかった訳もその辺にあるのかも…。


(c)Copyright 2000-2011 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。