◆心(MIND)
第一話、邪まなる書


一、

 街のイルミネーションが輝く、年の瀬。
 この冬初めての冬将軍が到来し、寒い日が続く東京の空。時雨がちの空はどんよりと重たく、雨が降るのか降らぬのか、それとも雪になるのか、一向に意志の定まらない有様に、愚痴の一つも吐き出したくなる。

「たく、乱馬ったら。」
 あかねは、はあっ、といつものような重苦しい溜息を放つ。
「あの子たちに追いかけられてばかりで。…だらしないったらありゃしない…。」
 視線の先には許婚の乱馬が逃げ惑う姿が目に映る。
 彼の後ろを追い回すのは三人の少女たち。大騒ぎしながら四つの影は次第にあかねの視野から遠ざかってゆく。

「乱馬くん、また、三人娘に追いかけられてるの?」
 背後から声がした。
 振り返ると姉のなびきがにっこりと微笑んでいる。傍らにはデジタルカメラ。
「あ、お姉ちゃん。今日はもう、帰って来たの?」
 あかねは愛そう笑いを浮かべながら、姉へと丸い瞳を手向けた。
「まあね。あたしだって、たまには早く帰るわよ。でも、乱馬君も相変わらずねえ…。」
「たく…クリスマスからこちら、ずっと逃げ惑ってるみたいよー。」
 と素っ気無い言葉が帰って来る。
「たく、乱馬君もあんたも、いい加減に腹を括ったらどうなのかしらねえ…。ま、余計な老婆心かもしれないけど。」
 姉はあかねに目を投じた。
「腹を括るって?」
「ぼちぼち結論出したらどうかってことよ…。あんたたちも十八になったし、卒業も近いじゃない。年があらたまったら、そろそろ仮祝言…って話出てるの、ちらっと小耳に挟んだわよ。」
「ああ、あれね…。」
 あかねはふうっと黙ってしまった。

 乱馬と許婚になって三度目の正月を迎えようとしている。
 親たちが何を血迷ったのか、そろそろ仮祝言を挙げてみてはどうかと、急に話を投げてきたのである。
 一度祝言を不意にした前歴がある。あれから一年以上の年月が流れている。
 二人の仲は進展したように見えて、何も変わっていない。ただ、少しだけではあるが、乱馬が優しくなった。そして、「許婚」という関係も否定しなくなった。いずれは祝言を挙げよう…という暗黙の了解はある。そんな曖昧模糊とした関係。

「父さんたちが痺れを切らしてどうこう言っても仕方ないのにねえ。」
 なびきが、ふふっと笑いかける。
 そうなのである。
 大切なのは当人たちの意志だ。
「で、あんたはどう思ってる訳?」
 あかねは姉の言葉にポツンと言った。
「別に…。なるようにしかならないって思ってるわよ。」
「暢気ねえ。」
 今度ははくくっと笑って見せる。

 姉妹で肩を並べて家に帰り着く。と、先に乱馬が逃げ帰っていたようだ。
 ほうほうの体で逃げ惑ったのか、身体中のそこここにある生傷が痛々しい。

「たく…。相変らず逃げることしか知らないの?」
 あかねは苦笑いしながら、救急箱を持ってきて手当てを始める。彼と知り合ってこの方、料理は上手くならないが、傷の手当てだけは上手くできるようになってきた。最初は包帯一つまともに巻けない不器用だった彼女も、今ではすっかり乱馬の専属看護婦のように手当できるようになっていた。
 消毒液を綿に浸し、ピンセットで傷の上を抑えてゆく。
「いてて…。たく、あいつらときたら…。好き勝手言いやがって!」
 乱馬はオキシドールが染みる傷に顔を歪ませながら、文句を垂れる。
「内心チヤホヤされて嬉しいんじゃないの?」
 あかねは憤然とした表情でそれに問いかける。

 冷たい風が縁側から吹き上げてくる。溜まらず、障子を閉めた。
 家の中は、静かだ。
 一緒に帰って来たはずのなびきは、さっさと自室へ籠ってしまったようだ。いつもは縁側で将棋など打っている父親たちも居ない。かすみも気配が無い所をみれば、夕飯の買出しにでも行っているのだろう。のどかはいつものように、お茶かお花、または着付け教室の出張稽古といったところだろうか。
 誰も居ない母屋。寒さが下りてきて、余計に静寂さが深まっているような気がする。

「また、いつものヤキモチかよ…。」
 ふと乱馬は独りごちるように吐き出した。
「あのねえ、何であたしがあんたに「ヤキモチ」を妬かないといけないわけ?」
 あかねは一つ一つ言葉を区切りながら乱馬に言った。
「別に俺はヤキモチがダメだとかそういう言い方はしてないつもりだけど…。」
 乱馬はムッとして言い返してきた。
「あんたが誰に追い掛け回されようと、あたしの知ったこっちゃないんですからねっ!!」
 あかねはバンソウコウを張りながら言い含めた。
「じゃあ、何でそんなにいちいち俺に突っかかってくるんだよ!」
 ちょっと意地悪い質問をあかねに返してきた。
「それは…。」
 答えに詰まるあかねを見ながら乱馬はにっと笑った。
「ほら、ヤキモチじゃねえか…。俺がもてるからって、そんなに目くじら立てることねーじゃんか。」
 と吐き出した。
「何背負ってるのよっ!己惚れないでよ。」
 あかねはすっかりヘソを曲げてしまったようだ。
「あかねの怒りんぼ!」
 乱馬はくすっと笑いながら言葉を投げた。
「いい加減にしないと…。」
 あかねは乱馬を睨みつけた。
「じゃあきくけどよ。何でこうやっていつも俺の手当てを進んでやってくれるんだ?頼みもしねえのに…。」
 乱馬はすまし顔であかねに言葉を継いでくる。
「べ、別に、特別な理由なんてないわよ。」
 言葉を濁すあかねに乱馬は畳み掛けてきた。
「俺が好きだからじゃねえのかよ…。」

 乱馬の一言にふとバンソウコウを持つ手がそのまま動かずに、止まってしまった。二人の空間が、静止して動かない。
 今日は何故か乱馬に分がある。彼の方が余裕であかねを見返していた。

「なあ、あかねはどう思ってるんだ?」
「どう思うって、何がよ。」
「仮祝言の件だよ。」
「突然そんなこと訊かれたって…。」
「俺はそろそろ潮時かなあ…って思ってんだけどさあ…。」
 えっ、と言うように驚いた目をあかねは乱馬に手向けた。意外な言葉だったからだ。突然、何を言い出すのかと、目を丸くしながら、彼を見つめ返す。
「潮時って…どういう意味よ?」
「そろそろ本腰を入れて将来のことを考えるときが来たんじゃねえかなってことだよ。おめえはどうしたいんだ?無差別格闘流を継ぐ気はあるのか?」
「も、勿論、あるわ。」
「この道場もか?」
「あるに決まってるでしょ?」
 元から道場は自分が継ぐつもりだった。かすみやなびきは武道を嗜まない。二人とも、武道には無関心だ。
 だが、末娘の己だけは違った。道場を継ぎたいという意思を最初から強く持って武道を始めた訳ではなかったが、続けるうちに、いつしか無差別格闘天道流の看板を背負って立つ武道家になりたいと、願うようになっていた。

「ら、乱馬はどうなのよ…あんたはどう考えているのよ?無差別格闘流のこととか、この道場のこととか…。」
 あかねは恐る恐る言葉を並べて乱馬へ問い返してみた。
「もちろん、俺は無差別格闘早乙女流を継承するぜ。」
「天道道場はどうなの?」
 少し、意地悪い質問も返してみた。
 乱馬は、その問いかけに、一つ一つ、言葉を選ぶように丁寧に返してきた。

「親父たちは、天道流と早乙女流、この二つの無差別格闘流派を俺たちの代で一本の道へと流れを変えてえみたいだがな…。
 俺は…早乙女流と天道流の二つの流派を無理矢理「一本の流れ」にしたいと思ったことはねえ…。でも……それも悪くはねえと、最近、思えるようになってきたんだ。」

 トクンとあかねの心臓が一つ跳ねた。一体、乱馬は何を言おうとしているのだろう。

「いつかは俺も自分の手で確立した流派を継ぐ継承者を作らなければならねえ。それが己の血縁であれば、言うことはねえだろう?…なあ…あかね。」
 乱馬はそう言いながら、柔らかい瞳をあかねに向けてきた。
「どうだ?俺と一緒に早乙女流と天道流、二つの無差別格闘流を継ぎ、そして次世代へ伝えるという大切な役割を成し遂げてみる気はねえか?」

 心音が高まり始める。
「ちょっとそれって…。」
 あかねは言葉を止めた。
「俺はおまえの許婚だ…そして、おまえは俺の許婚だ…。これ以上、言わなくちゃわかんねーか?」

 あかねは、どう答えて良いのやら、正直迷った。いつもと違う、瞳の輝きが、己の前できらめいている。

「返事は今すぐじゃなくてもいい。でも、きちんと考えて、そして、結論を出して欲しいんだ。」
 強い意志の言葉だった。
「で、乱馬はいいの?あたしで…。」
 あかねは彼の瞳に吸い込まれそうになる自分を必死で抑えながら言葉を継いだ。
「今更なこと訊くな…バカ。」
 と垂れる悪態。
「おまえ以外の奴を伴侶にすることは、考えたことはねえよ。」
 続いてはっきりと言葉にした。
 優柔不断ないつもの彼とは目線が違っていた。真っ直ぐに向けられる澄んだ瞳は、あかねを捕らえて離さなかった。
「わかった。乱馬がそこまで決意してくれているのなら。あたしも真剣に考えて、結論を出すわ…。」
 あかねもまた澄んだ瞳で言葉を返した。

「俺の意志は伝えたぜ…。これでもう、ヤキモチは妬かねえでいいだろう?」
 乱馬はそう言いながら笑った。

 と途端。障子がガラガラと開き、天道家の面々がにゅっと顔を突き出していた。

「げっ!親父っ!おふくろっ!!」
「お父さんっ!かすみお姉ちゃんになびきおねえちゃん!」

『聴いちゃった〜♪』
 玄馬がパンダの形で看板を持って三白眼を向けて、ひゅうひゅうと口笛を鳴らした。
「乱馬くんっ!ありがとう。くーっ!何度この日を夢見たか。」
 早雲が腕を上げておいおい泣き出した。
 のどかはひたすら日本刀を掲げ「乱馬っ!男らしいわっ!!」を連発している。
「祝言挙げる気になったのね。おめでとう。乱馬くん、あかねちゃん。」
 かすみはエプロン姿でにこにこしていた。

「ちょっと待てっ!俺はその、決意をあかねに問うただけで…。」
「そうよっ!あたしだって、真剣に考えるって言ったけど…祝言がどうのこうのって…。そこまでは言ってないわ…。」
 二人は躊躇いながら言い放った。

「この際だから、年内にどうだい?」
 早雲は宣言した。
「ちょ、ちょっとお父さんっ!」「おじさんっ!!」
 しどろもどろになりながらもみくちゃにされる二人の姿が中央にあった。

「ダメよ…。ここまで来たら、仮祝言だけでも挙げないと、後へは引けないわよ。」
 くくくとなびきが笑っていた。手にはMIDIレコーダーをしっかりと持っている。どうやら、録音したようだ。


「これは大変なことになったでござる。」
 天道家の天井に潜んでいた影がうそぶいた。
「あかね殿が乱馬殿と。仮祝言…。すわ一大事。帯刀さまへ、すぐに知らせに行かなければ。」
 侵入者は九能家のお庭番の葉隠佐助であった。
 佐助はたっと天井から屋根へ上がると、一目散に駆け出していた。




「あれは?佐助殿?天道家から出てきたようじゃがのう。果てさて、何をあんなに慌てておるのじゃ?」
 夕闇の中から一つの影がまた恣意的に浮かび上がった。猫飯店の女主人、女傑族のオババ、コロンであった。

「これ、佐助殿、どうした?そんなに慌てふためいて。」
 コロンは軽く声をかけた。
「ああ、これはオババ殿。あ、いや別に大した事ではござらんよ。天道家には何もござらんよ。」
 佐助は主人より早く手にした情報を他へ洩らすわけにはゆかず、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「おぬし、何か握っておるな。天道家の名を軽々と口にしたことこそ、怪しいぞ。」
 コロンの目はきらりと輝いた。
「べ、別に何も知らんでござるよ。」
 佐助が焦り始めた。
「しらばっくれてもワシにはわかるぞよ…。天道家で何があったか、じっくりと聞かせてもらおうかのっ!」
 そう言い放つと、コロンは持っていた杖を佐助に振った。
「わたっ!!」
 佐助はコロンの杖につまずいて屋根から転げ落ちた。
「ここでは人目につく。どりゃ、一旦、猫飯店へ来て貰ってそれからゆっくりと聞かせてもらうことにしようかのう…。ほっほっほ。」
 コロンは地面へ投げ出されて目を回した佐助をひょいっと杖の先に引っ掛けると、さも軽々しく、猫飯店へと帰って行った。



二、

「それは本当ね?」
 シャンプーが声を荒らげて佐助を問い質す。
「確かにそれがし、そう耳にしたでござる。」
 佐助は猫飯店の中で唾を飛ばしながら言った。
「本当に、乱馬、あかねと仮祝言挙げる気になったのか?」
 シャンプーは差し迫った形相で彼を締め上げる。
「本当でござるったらっ!!早くこの縄を解いてくだされよ。それがしは帯刀さまの元へお伝えに行かねばなりませぬ。」
 佐助はジタバタしながら喚いた。
「ふーむ。そろそろ天道家に動きがあると睨んではおったが……案外早かったな。」
「そんなの絶対許さないねっ!乱馬は私の婿殿。あかね如きに持っていかれるなんてっ!!」
 シャンプーは金切り声を張り上げている。
「乱馬の決意は固そうじゃなあ…ならば、アレを使ってみるかな…。」
 コロンは腕組みをしながら答えた。
「アレって?何ね。曾ばあちゃん。」
 シャンプーはコロンを見返して言った。
「『魔道妖鬼恋書』じゃよ。」
 コロンはポツンと言葉を吐いた。
「『魔道妖鬼恋書』、それ何ね?曾ばあちゃん。」
 シャンプーはコロンを見返した。
「我らが女傑族に伝わる秘伝書じゃよ。こっちへ…。」
 コロンはシャンプーを手招きすると、店の奥へと消えた。

「ちょっと、ワシはどうなるのでござる?早く解放してくだされーっ!」
 佐助は、殺生な…と言わんばかりの声を張り上げた。



 猫飯店の奥には地下室がある。倉庫となっており、いろいろな中華の材料が貯えられている。その一角に、コロンは故郷から持って来たものを仕舞いこんである。
「あった、あった…。これじゃ…。」
 コロンは料理書が並ぶ本棚の奥から、一冊の古びた書物を出してきた。ホコリまみれになった表紙に、浮かび上がるタイトル。
 『魔道妖鬼恋書』。
 黒い表紙に赤い文字で、そうおどろおどろしく書かれている。文字も印刷ではなく手書きだ。

「な、何だか薄気味悪い書物あるね…。」
 シャンプーはぺらぺらとめくってみた。
 前半部から中ほどには人の名前のような漢字の羅列。後半部は白紙が続いていた。ただ、最後のページに魔法陣のような図案が書き込まれている。
「これはな…。人を吸い込んでしまう魔力を秘めた本なのじゃよ。」
 コロンは声を落として孫を見た。
「人を吸い込んでしまう本?」
 シャンプーは、ぞくっと背中が毛羽立つのを感じた。どうやら、コロンが言っているのは、戯言ではないようだ。
「我が一族は昔から、強き男から子種を宿して貰う事により栄えてきたのは、シャンプーよ、おまえも知ってのとおりじゃ。じゃが、意に染まぬこともあろう?例えば今の婿殿のように、別の女子にうつつを抜かし結婚を承諾してしまうことも有り得る。そんな時に、この書物を使うのじゃ。この書物を使って、恋敵を生贄として、この本へと与えるのじゃ…。」
「つまり、恋敵をを抹殺するための本…こうね?」
 シャンプーはにやっと笑った。それに応じ、コロンは深々と頭を垂れた。
「これは云わば禁断の書じゃ。この本に引きこまれた者の、全ての痕跡はこの世から消えるのじゃ。
 無論、それだけではないぞ。この本を使った者が、引きこまれた者と取って変わることもできる。」
「つまり…あかねの立場が私にすり替わり、乱馬と仮祝言を挙げることができる…そういうことあるか?」
「ああ…。そういうことになるな。じゃが、使うに当たって、一つだけ、注意しておかねばならぬことがある。」
「どういうことか?」
「この本には、当事者三名…つまり、使用者とその婿殿にしようとする者とそれから恋敵と…三人の名前を書かねばならぬ。」
「あかねの名前だけじゃ、ダメあるか?」
「ああ…おまえが婿殿と結ばれたいのなら、しっかりと婿殿、それからおまえの名前も書かねばならんのじゃよ。そして、名前を書き連ねた者は、数日は、本の世界へと引き込まれる可能性がある…ということを覚悟しておかねばならぬのじゃ。多少はリスクを伴う…ということになろうかのう。」
「数日ってどのくらいね?」
「一応、七日七晩…と言われておる。その間、本に引きこまれぬように、注意せねばならんのじゃ。」
「七日七晩、用心すれば良いのだな?」
「ああ。どうじゃ?…使ってみるかの?」
「面白そうね…。」
 シャンプーはニッと笑った。
「多少のリスクは覚悟せねばならぬが…本当に、良いのだな?」
 コロンは念を押した。
「使うね!これで乱馬とあかねの絆が断ち切れ、私が乱馬と結ばれるならば、たとえ悪魔にでも魂を売るね。」
 シャンプーはほくそえんだ。
「そこまで言うのなら、良かろう。では、そこへ書き入れるが良い。当事者三名の名前、そいつを、しっかり書き込むのじゃ。そう、最初は使う者の名前…つまり、シャンプー、おまえの名前、次に、結ばれたい男…つまり婿殿の名前、そして最後に生贄として与える者…つまりあかねの名前の順じゃ。そして、閉じよ。」 
 シャンプーは、コロンに言われたとおり、順番に三人の名前を書き並べた。
 それからパタンと本を閉じた。
 するとその本の背表紙は怪しげに光り始めた。どうやら、何か蠢き始めたようだ。

「ふふ、後はこの本をあかねに差し向ければ、彼女はこの本の中へ吸い込まれよう…。
 それから、あかねがこの本へ吸い込まれて、七日七晩の間、決して本を開いてはならぬぞ。」
「開くとどうなるある?」
「おまえも婿殿もこの本へと引き入れられてしまう可能性が高いのじゃよ。開いた本の近くへ寄れば、名前を記入したものは、否が応でも中へと引きずりこまれる。そうなっては元も子もあるまい?」
 コロンは、孫娘に言い含めた。
「分かった。これであかねがこの世から消えてしまえば、めでたく、乱馬と私は結ばれるね。」
「ああ。そういうことじゃ。この本にあかねが引きこまれたら、続いて引きこまれぬように…用心せいよ。シャンプー。」
「わかったある。あかねが引きこまれるまでは、本を開いても大丈夫あるね?」
 シャンプーは再確認するようにコロンへと尋ねた。
「ああ…そういうことになるな。…後は、どうやってあかねだけをこの本へ近づけて吸い込ませるかじゃが…。」
 コロンは思案に暮れた。
「それは大丈夫ね。私にいい考えが浮かんだね…。」
 シャンプーは自信ありげにほくそ笑んだ。上手い具合に、良い考えが浮かんだのだろう。
「曾ばあちゃん、新種の傀儡茸、仕入れたよな?それ、どこにあるか?」
 シャンプーは妖しく目を光らせてコロンを見た。
「この前、中国商人が持ってきた、改良傀儡茸かな?それ、そこの籠の中に入っておらんかのう。」
 コロンは暗い灯の下でシャンプーを促す。この地下室の材料倉に置いてあるのだろう。シャンプーは言われたように、棚の下にあった籠をごそごそと漁り始めた。
「あった…。これね。」
 シャンプーはにやっと笑うと、コロンにそれを差し出した。
「曾婆ちゃん、これを使って美味しい肉まん作って欲しいね。」
「肉まんをか?婿殿に食べさせるのかのう?」
 コロンはシャンプーを不思議そうに見返した。
「違うね。佐助に食べさせるある。」
「佐助殿にか?」
「そうある。」
「わかった、何か考えがあってのことじゃな?」
 シャンプーはコクンと頷いた。
「もちろんある。」
 シャンプーはにっこりと微笑むと、くるりと後ろを向いて、本を脇に抱え込み、さっさと地下倉庫の階段を上がっていった。

 店の奥の座敷には佐助が縛られたまま転がっている。
「佐助。立つね。」
 シャンプーは佐助を促した。
「手荒い真似は、勘弁でござるよ。」
 佐助は少し身構えて後ろへ下がった。
「何もしないね。事情はわかったから縄を解くね。ご苦労さまね。この後、九能に乱馬とあかねのこと報告に行くね?」
「まあ、主君への忠義は忍びの者の鉄則でござれば。本当に帰してくれるのでござろうなあ?」
 半信半疑の目をシャンプーへ向けた。
「当然ある。私は乱馬とあかねのこと聞きたかっただけ、情報貰った。もう佐助には用ない。縛り上げて悪かったある。」
 シャンプーは怪しげに笑った。
「どうも引っかかるでござるが…。まあいいでござる。」
「そうそう、情報を貰ったお礼に肉まん食べていくね。今、婆ちゃんが作ってるある。」
「肉まんでござるか?」
 佐助の瞳が輝いた。
「そうある。半時間も待ってくれれば、蒸しあがるね。そのくらい待てるあるな?」
 にっこりと微笑んだ。
「それはありがたいでござる。それを夕食にしても宜しいでござるか?」
「勿論ね。たくさん作ってもらってるある。」
「待つでござるよ!喜んで!」
 九能家では、ろくなものを口にしていない。肉まんと聞いただけで、口の中に唾が充満していく。
 すっかり、肉まんの虜だ。

「待たせたな…。特製肉まんが、蒸し上がったぞい。ほうれ…。」
 半時間後、コロンはセイロを持ってやってきた。
「うわあ…。これをみどもに食べさせてくれるでござるか?」
 佐助の腹が、くうっと鳴った。
「勿論ね。」
 シャンプーはにっこりと笑う。
「これはまた…。ほっこりと蒸し上がって…。何年ぶりでござろうか…肉まんなぞ。」
 佐助は目の前の肉まんに大感激していた。久しぶりに味わえる肉まんに、心もそぞろになっていく。
「どーぞ、たくさん召し上がれ。」
 シャンプーは誘惑するような猫なで声で佐助を誘った。
「いっただきまーすでござる。」
 佐助は目の前のご馳走にがっついた。

 シャンプーはコロンに目配せする。と、シャンプーは、佐助の耳元へ立ち、バチンと指を一つ鳴らした。

「佐助、これから暗示にかけるね。おまえ九能家に帰ってつぶさに天道家で見聞きしたことを告げるね。それから、九能にこの本を渡すね。この本には邪魔者を払拭する力がある力があると九能に教えるね。そして、九能を使ってこの本を乱馬に差し向けるある…ふふ、わかったか?佐助。」
 シャンプーの甘い声に佐助は一瞬我を忘れたように放心した。そして「はい。」と一つ力なく呟いた。
 パチンとシャンプーは再び指を鳴らした。
「はっ?私は…。あれえ?肉まんを頬張って…。」
 佐助は我に返った。シャンプーに暗示を吹き込まれたことなど忘れている。
「まだまだたくさんあるね。食べるか?」
 シャンプーはにこにこ笑っている。
(この肉まんには「改良傀儡茸」がたっぷり入ってるね。私と乱馬の未来のために、働いてもらうね。佐助。)
 シャンプーはほくそえみながら佐助に肉まんを勧めた。
「かたじけないでござる。これで二、三日は食べなくても帯刀さまにお仕えすることが出来るでござる。」
 心尽くしと思っている佐助はにこにこと笑いながら肉まんを食べ尽くした。

「さてと…。帰るでござる。シャンプー殿、コロン殿、すっかり馳走になってかたじけないでござった。」
 佐助は何事もなかったように猫飯店を辞した。

 見送るシャンプーには不敵な笑いがこみ上げている。

「曾ばあちゃん、私出かけてくるね。帰って来た時は、あかね、この世から消えている筈ある…。期待して待つよろし。」
「わかった、気をつけていくんじゃぞ。」
「じゃ、行ってくるある!」
 シャンプーは、佐助を追って、暗闇へと飛び出していった。不安げに孫娘を見送るコロン。
 果たして可愛い孫娘に、女傑族の秘伝書『魔道妖鬼恋書』を与えてしまってよかったのかどうか…。一抹の不安がコロンの脳裏を横切った。

「もう、引きかえせぬな…。後は天に命運を任せるのみ…じゃな。」
 ふうっと溜め息を吐きながら、コロンは店へと入って行った。





 
「何ぃ?あかね君が早乙女乱馬と仮祝言をあげるだとぉ?」

 九能帯刀は思わず佐助に向かって怒鳴り声を上げていた。
 シャンプーに暗示をかけられて九能家に放たれた佐助は、天道家で見聞きした一部始終を九能へつぶさに伝えていた。お庭番の勤めである。

「おのれえっ!早乙女乱馬っ!!遂にあかね君を誑かしよったのか。」
 九能は持っていた木刀を握り締めてわなわなと振るえた。
「待てよ…。」
 九能は何を思ったのか、電話を持ってくるように佐助に命じた。
「帯刀様。何処へご連絡を?」
「知れたことだ。おまえの言ったことが本当かどうか、確かめてやる。」
 そう言うと、持ち込まれた電話の子機に、諳んじていた番号をプッシュし始める。ややあって、彼の電話は、とある者へと通じたようだ。
 暫く彼はその電話の声の主とやりあっていた。情報を確認しているような口ぶりであった。
「そうか。やはり本当の話なのだな?仮祝言というのは…。ふむふむ、次の大安吉日。何ぃ?三日後だあ?急すぎるではないか!年内に、内輪だけでやる?…ふむ。…ああ、そうだ。何だとぉ?祝儀をよこせだと。何をたわけたことをっ!!…当たり前だ。何故、僕が祝儀をやらねばならぬのだあ?」

 九能の電話のやり取りを傍で聴いていた佐助は、
「通話の相手は、天道なびきどのでござるか。」
 と苦笑しながらうそぶいた。彼のこの高圧的ではあるが、歯切れの良い口ぶり。それにもれ聴こえてくる話の内容ぶりから、佐助は確信した。なびきは、情報を確認するのに最も適した相手である。

「あん?情報料を寄越せだとおっ?貴様っ!どこまでずうずうしい奴なのだ…。ふむ…おさげの女の生写真をおまけにつける?…良かろう。これから払いがてらそっちへ出向いてやる。待っておけ。それから早乙女乱馬にも逃げるなと伝えておくのだぞっ!!」

 九能はそう言って電話を切った。
 ハラワタが煮えくり返っている。そんな形容詞がぴったりの九能であった。
「帯刀さま。天道家へ乗り込まれるので?」
 佐助は恐る恐る聞き返していた。
「当たり前だ。ふざけた祝言話は、この僕がこの剣で粉砕してくれるわっ!!」
 九能の鼻息は荒い。
「ならば、これをお使いくださいませ。」
 佐助はすかさず、シャンプーから渡すように暗示をかけられていた魔道書を九能へと差し出していた。
「これは、なんだ?本か?『魔道妖鬼恋書』。何やら妖しげな本じゃないか。これをどこで手に入れた?佐助。」
 九能は興味を示した。
「この本は何でも霊験あらたかな魔法書だそうで。これを恋敵、早乙女乱馬に差し向けると、あら不思議、奴の身体はこの中へと吸い込まれて、消え果てるという摩訶不思議な魔法の本にてござりまする。」
 佐助は特にシャンプーに教えてもらった筈はないのに、独りでにそうすらすらと説明した。これこそ、この本の魔力によって引き起こされたことであったが、勿論、佐助が気付く筈も無い。
「ほお、魔道書とな…。眉唾的な代物だが…。ふうむ…確かに何やら物凄い妖気が漂っておるな、この本は。」
 九能も単なる剣道バカではなかった。それ相応なりに、本から立ち昇る妖気の気配を察知していた。
「いいだろう。使ってみる価値はありそうだな。佐助。この本は僕が預かっておこう。」
 九能は佐助の手渡した「魔道書」を、着物の襟元へと差し込んだ。
「いざ、佐助!共に、早乙女乱馬を手打ちに行こうぞ!」
 九能はそう言うと佐助を促した。
「御意、それがしもお供いたしまする。」
 九能は、佐助を従えて、天道家へと、夜道をたどり始めた。

(うふふ…。上手い具合に、九能が魔道書を手にしたね。これでほぼ、策略が相成ったも同じね。)
 シャンプーはほくそえみながら二人の後をこっそりと追いかける。気付かれないように気配を断ちながら、丁寧に道をなぞる。
 佐助に魔道書を手渡したのは他ならぬ彼女である。それも暗示という手段を使って秘密裏に差し向けたのである。
(これで、予定通り、あかねを本へ誘い込めるある。)

 シャンプーはくくっと不敵な笑いを浮かべた。手には、肉まんを蒸しあげている間に、改めてコロンから託されたものを握り締めていた。
 それは、何やら短冊のようなものであった。
『これを使うんじゃ。シャンプー。良いか、あかねが本へと吸い込まれたら、間髪いれず、この呪文を唱えるのじゃ。そして呪符を本へ貼れ。さすればあかねは本から抜け出せなくなる。それに、おまえがあかねの存在と取って変わることができるぞよ。後は、予定通りに乱馬と祝言を挙げる。それだけで良い。たとえあかねが本から解放されて、出てこられたとしても、婿殿と結婚したという既成事実を作り上げてしまえばそれまでのこと。良いな、くれぐれも仕損じるではないぞ。仕損じると、シャンプー。おまえに禍が巡ってくるかもしれぬでな。』
 コロンはゆっくりと諭すようにシャンプーに告げたのだった。

(守備は上々ね。)
 シャンプーは独りごちた。

 九能は真っ直ぐに天道家へと向かった。
 そして門の前に立つと、すうっと息を一つ吸い込んだ。
「佐助、行くぞっ!!」
 九能はそう言うと天道家へと雪崩れ込んでいった。



四、

 天道家では、乱馬とあかねが道場で組していた。
 お互い道着になり、若い肉体と肉体をぶつけ合っていた。

「来いっ!あかねっ!」
 乱馬はそう檄を飛ばした。
「やあーっ!!」
 元気な声が響き渡り、あかねは乱馬目掛けて脚を振り上げた。
 がっと肉体がぶつかる音がする。
 乱馬はあかねの脚を左腕一本で受け止めた。
「まだまだっ!!」
 あかねはそう叫ぶと。今度は腕を大きく右へ振る。そして、身体をしなやかに捻らせると、反対の脚を振り上げた。
「でやあーっ!!」
 彼女の甲高い声が道場中に響き渡る。
「たあーっ!!」
 乱馬はあかねが繰り出した右足の攻撃をひょっとかわした。ブンと脚が空で唸る音がした。
「てやーっ!!」
 乱馬は空振りに終った彼女の右足を今度は右手の反動で軽く薙ぎ倒した。 
 どおっと鈍い音がして、あかねが床へと這いつくばる。咄嗟に彼女は受け身の体制に入り、無様に転がることだけは避けられたようだ。
「一本。俺の勝ち。」
 頭上で乱馬がにやりと笑った。
「悔しいけど、やられたわ。完敗よ。」 
 あかねは恨めしそうに上を見返した。
「そうでもないぜ。ほら。」
 乱馬は苦笑しながら左の肘をあかねに見せた。
 薄っすらと赤い打身がそこに残っていた。
「俺としたことが、おめえの蹴りを寸でで交わしそびれっちまったぜ。」
 乱馬は傷を擦って見せた。
「強くなったな。」
 乱馬は愛しげな目であかねを見詰めた。
「まだまだよ。あたしはもっと強くなるの。あんたと一緒に…ね。」
 差し出された手にあかねはそっと触れながらにっこりと微笑んだ。
「そうだな。これからは一緒に…。」
 乱馬もこくんと頷き返した。
「この道場から始めよう。ここから無差別格闘流は世界へと広がるんだ。俺たちの手でな。」
 やっとお互いの気持ちに素直になったカップル。その前に立ち塞がる魔の手は着実に彼らに伸び始めていた。

 冬なのに、ゴロゴロと遠雷が鳴った。

 稲光が古びた道場のガラス窓へと走ってゆく。


「早乙女乱馬ぁーっ!!」

 俄かに声が庭先で響いた。
 九能帯刀の怒声だ。

「九能先輩?」
 乱馬とあかねは絡ませた手を握り締めながら、勢い込んで雪崩れ込んできた人影を見返した。
 ハアハアと肩で息をしながら九能がそこへと立っていた。
 手には魔道書と木刀を携えて、今にも飛び掛らんばかりの形相である。
「何だ?先輩。こんな夜更けに。」
 乱馬は悪びれる風もなく、この闖入者に向かって言葉を発した。
「何だもへったくれもないわっ!貴様。あかねくんを誑(たぶら)かしよって!!」
 九能は興奮収まらぬ口調で罵り始めた。
「人聞きが悪いこと言うなよ。俺は誰も誑かしたりはしてねえぞ。」
 乱馬は眉の皺を寄せて九能を見返した。
「黙れ、黙れ、黙れっ!!その不埒な手が証拠だっ!!」
 ビシッと九能は繋がれた手を指した。
「あかねくんを力で捻じ伏せて結婚を承諾させるとは。貴様ぁ…武道家の風上にも置けぬ奴。」

「ちょっと九能先輩っ!!乱馬は誑かしたり力で捻じ伏せようとした訳じゃないわっ!!」
 繋がれた手を解いてあかねが抗議し始めた。
「問答無用っ!あかねくん、下がっておれ。この九能帯刀が早乙女乱馬を闇へ葬ってあげよう。」

 九能の目が怪しく光った。

「ふふ。今夜こそおまえを、この剣で粉砕してくれるわ!」
 九能は不気味に笑い始めた。

 ごくんと乱馬は生唾を飲んだ。
(こいつ…いつもの九能じゃねえ…。)

「九能先輩?」
 乱馬のみならず、あかねも武道家の本能で、九能の尋常ではない様を瞬時に見抜いていた。
「乱馬…。気をつけて。」
 あかねは前に一歩踏み出した許婚の背後から声を掛けた。

「ああ…。わかってる。九能から発せられるこの妖気…。只事じゃねえ。」
 乱馬も真剣な面持ちとなって身構えていた。


五、

「九能先輩…。」
 
 乱馬は低く唸って中段へと腰を屈めて構えた。
 いつもより九能が大きく見えた。
(くそう…。何がどうなっちまってるんだ?)
 乱馬はその妖気に飲まれ始めていた。

 妖気の源…それは、シャンプーから佐助、佐助から九能へと

(ふふ…。そうね…。このまま、乱馬たち襲うよろし。万が一、あかね吸い込まれず、乱馬吸い込まれたら、私が本へと飛び込めばいいね…。二人で本の中でいちゃいちゃする。これもよろし…。)
 シャンプーの目は天道道場の天井で妖しげに光っていた。獲物を捕らえた魔物の目であった。

「早乙女乱馬、行くぞっ!!」
 九能が先に飛び出した。
「くっ!!早えっ!」
 乱馬も飛んだ。己目掛けて打ち下ろされる木刀の切っ先から辛うじて逃げ得た。

 ヒュンッ!!

 九能の木刀は乱馬の髪の毛を掠って音を立てた。
「乱馬っ!!」
 あかねは思わず手を握り締めていた。
 九能は息つく暇もなく乱馬目掛けて木刀を乱れ打って来る。

「そりゃ、そりゃ、そりゃ、そりゃーっ!!」
 九能の動きは面白いほど滑らかだ。
「ほっ、ほっ、ほっ。」
 乱馬はリズミカルに打ち出される切っ先を、それでも辛うじて避け続けた。
「どりゃーっ!!」
 道場の端に来て、九能がダンッと木刀を突き出した。

 バズッ!!メリッ!!

 激しい音がして、九能の木刀が道場の壁を貫いていた。

 何事かと天道家の住人たちが、道場の方へと駆け込んで来た。
 乱馬は九能の後ろへとたっと降り立った。

「乱馬くんっ!!九能くんっ!!」
 口々に、吐きながら、道場へとずかずかと駆け上がってくる。
「ダメよ…。皆ッ!危険だから下がって。」
 あかねが怒鳴った。

「ふん…。逃げ回ってばかりでは、埒が明かんぞ。」
 九能はゆっくりと切っ先をめり込んだ壁から抜き去って乱馬を見返した。
 ゆらりと九能の肩が揺れる。
(ちっ!隙がねえっ!!)
 滴り落ちる汗を拭いながら乱馬は次の攻撃を考えた。

「覚悟は良いか…。早乙女乱馬。」
 九能はにやりと笑って懐へと手を入れた。
 そして右手でそれを引き抜いた。
「ふふ…。早乙女乱馬。おまえをこの本へと吸い込んでやる。」
 九能はそう叫ぶと、本をがばっと見開いた。

「なっ?」

 九能が手にした本は妖しげに青白い光を放つ。そして、そこから、吸引するような風が吹き始めた。掃除機に吸い込まれるようなそんな勢いだった。
「うわあーっ!!」
 体が引き寄せられてゆくのを堪えることができない。そのくらい強い風が乱馬の身体を絡めとってゆく。

「乱馬ーっ!!構えてーっ!!」
 あかねの声が傍で響いた。
 目を開けていられないほどの強風が一瞬凪いだ。
「あかねっ!!」
 乱馬は九能と引き込まれそうな己の間に飛び込んできた人影を見た。
 あかねだ。
 あかねは懸命に風の唸りの中へと身を投じてきたのである。
「バカッ!あぶねえーっ!!」
「早く、九能先輩を打って。」
 九能の尋常でない様を見抜き、黙っていられなくなったあかねが思わず飛び込んできたのである。
「おう、天道あかね…。」
 九能の顔が一瞬和いだ。
 が、彼の手にしていた本は、怯むことなく、いや、返ってその魔風の威力を増していた。

(ふふ…。いいね。そのままあかねを吸い込むね。)

 天井に身を潜めていたシャンプーの目が怪しく光った。
 それに呼応するように風はあかねを捉えた。

「きゃーっ!!」
 あかねは自分に向かって手を広げるように向かってくる風の魔手をそこに見たような気がした。と、躊躇する間もなく、身体を捕まれた。そんな感覚に溺れた。駆逐されるように身体は、本へと引き込まれてゆく。

「あかねーっ!!」

 乱馬の悲鳴が轟いた。

「乱馬ぁーっ!!」

 絶唱を残して、あかねの身体は本の中へと吸い込まれて消えていった。


 乱馬が吸い込まれた方へ目を投じ放心したように見詰めていた。
 あかねが本へと引き込まれてゆく姿を、目の当たりにしたのである。あかねの姿はもうそこには存在していなかった。

「モラニム、スニラム、ボソワカ、ダット…魔界へ巣食いし闇よ我に力を。ふふ…。これでいいね。呪文は唱えた…。」

 背後で声がした。
「誰だっ!」
 乱馬は声の方を振り返った。
 そこには長い髪を揺らめかせながらシャンプーが勝ち誇ったように立っていた。
「皆、あかねのこと忘れる。そして、乱馬、私を愛す。これからこの世は私の思い通り。」
 シャンプーはにっと笑った。
「それは一体、どういうことだ?シャンプーっ!」
 乱馬は彼女の姦計にはまったことを瞬時に察した。あかねを捉えたのはシャンプーだ。本能的にそう捉えたのである。そして、拳を握り締めると、彼女へと食ってかかった。
「あかねは魔道書へ吸い込まれたね…。」
「魔道書?」
 乱馬は放心したように突っ立っている九能を見た。彼の手元には怪しげな本があった。
「あの本にあかねが?」
 乱馬は駆け出そうとした。
 と、ビリビリと大地が揺れ始めた。足元が崩れ去るような感覚にその場の人々は襲われていた。
 九能の手にしていた本がぽとりと床へと閉じて落ちた。
 世界の雷同と共に本も震撼しはじめる。
「無駄ね…。」
 シャンプーは九能が落とした本を拾い上げるとにんまりと吐き出した。
「もう魔道界は動き出したね…。乱馬、あかねのこと忘れる。そして私だけを愛する。この本にそう書いてあるね。」
「シャンプー、おまえ…。」
 乱馬は凍りついた目でシャンプーを見下した。
「そんな目で見詰めるでないね…。全ては乱馬のためね。あかね忘れて私と結ばれる、これ定め。」
「ぬけぬけとよくも…。」
 乱馬は崩れゆく世界の中でシャンプーを罵った。
『いいぞ…。おぬしのその憎しみ、全て愛情へと変わる。』
 シャンプーの声色が一瞬魔物のそれと入れ替わった。
 乱馬の身体は思うように動かず、声も出せなかった。

『私が憑依したこの娘に、憎しみ…いや、憎しみから変換した愛情を注ぐのだ…。
 消えたあかねという名の娘のことは全て忘れよ!
 そしてお前の中に眠る熱い想いを、このシャンプーという娘に与えるがよい…。』


(くそう…。俺は忘れねえっ!!あかねのことを決して忘れたりはしねえっ!!)

 崩壊してゆく世界に引き込まれながら、乱馬は心でそう叫んだ。

(絶対、あかねを取り戻して見せるっ!!あかねーっ!!)

 世界は白み始めた。
 轟く音と共に、乱馬の意識は、その場に居た者達の意識は遠のき始める。

『賽は投げられた…。もう、後戻りはできない…。ふふふふふふ。あはははは。』
 
 シャンプーの体を借りた魔物が面白そうに笑い始めた。
 


つづく




一之瀬的戯言
旧パソコンの中から、創作用のフォルダーを発見して、引っ張ってきました。
 休眠前のデーターを洗っていたら、第二章の途中(今回編集した第三話辺り)までしかアップ作業していませんでしたが、実は、ラスト一歩手前のクライマックスまで書き進めてありました。
 今回、今の私のスタイルと一話分の分量に合わせて、話数を編成しなおし、季節も梅雨から年末へと転換し、加筆修正を加えて、作品を完成させました。


 旧パソコンでは、年度ごとに整理して作品やプロットを保管していたのですが、中でも、2003年、2004年は妄想源の宝庫。
 03年には「蜜月浪漫」「有無草紙」「幽顕鬼話」「不知火」など。04年には「東雲の鬼」「ラブ☆パニック」「暁闇」「呪いの緋布」など。代表作と言っても過言ではない濃厚な作品ばかり。
 当時、まだ、小遣い稼ぎ程度の昼間の二時間半ほどの短時間パートにしか出ていなかったゆえ、集中して作品を書く時間が、結構、取れていた名残です。

書きかけで途中でほっぽった作品や、濃厚なプロットをたくさん発掘しましたので、近いうちに、何本か、そこから新たに文章を書き起こして、仕上げたいと思っています。
 


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