◇心の扉〜深い河を越えて

七、妹背

 三人娘が帰ってしまうと、その場に乱馬とあかねの二人が取り残される形になってしまった。
 先ほどまでの喧騒は嘘のように静かになった。
 再び無言の空間が降りてくる。
 目を転じるとあかねはじっと俯いたまま、手の傷を撫でていた。いや、出来上がったかさぶたをぽろりぽろりと剥がしている。その回りには血が滲み出していた。

 乱馬は静かにあかねに歩み寄った。

 あかねの体が一瞬硬直した。
 緊張したのだろう。
 虚ろな瞳が怯えるように乱馬を見上げた。
 乱馬は満面に寂しげな笑みを讃えて、じっと彼女を透かすように見詰めた。
 あかねは耐えられなかったのか、視線を外した。
「現実から逃避するな。あかね。」
 乱馬はあかねに静かに語り始めた。
「俺を見ろ。しっかりと。」
 乱馬はあかねの細い方をぐっと掴んで覗き込んだ。
 あかねは困惑したような表情を乱馬に手向けた。そして、言った。
「何故…。」
 一言放って絶句する。
 無限の沈黙が下りてくるような重苦しい空気。
 乱馬はじっとあかねを見据えた。その視線に耐えかねたのか、あかねは再び声を出した。
「あたしはもう、あんたにふさわしい女じゃなくなったのよ…。あたしの身体は…。」
 か細い震える声だった。久しぶりに耳にするあかねの声だった。
「バカッ!」
 次の瞬間、乱馬は思わずあかねを抱き締めていた。
 あかねの身体は再び固く硬直する。男の強健な身体に氷の心が反応したのだろうか。あのときの恐怖を思い出したのだろうか。一瞬乱馬から逃れようと足掻いた。
 が、乱馬の腕はあかねを逃がそうとはしなかった。
「放してっ!あたしは、もう…。」
「嫌だ、放さねえっ!」
「お願い。あたしのことはいいから…。もうほっておいてくれていいから…。」
 腕の間からあかねの声が微かに聞こえた。
「ほっておけねえっ!」
 抵抗しようともがき掛けたあかねの手の動きが止まった。
 言葉の後に、彼の嗚咽が聞こえてきたからだ。

 乱馬は泣いていた。止めようもない涙が頬を伝い、そしてあかねの額へと落ちてきた。

「おまえは俺の半身だ。俺の半身がこんなに苦しんでもがいているのをほっておける訳ねだろうがっ…。バカ!」
 魂を呼び覚ますように、乱馬の声があかねの心の奥へと浸透しはじめた。

 あかねはその場に泣き崩れた。
 今まで忘れていた涙が、堰を切るように流れ始めた。
 あかねは泣いた。ただひたすら泣いた。
「でも、あたしは…。穢れてしまった…。」
 時々過ぎる不安をぶつけるようにそんな頼りない言葉を継いだ。
 そのたびに乱馬は優しく語りかけた。
「おまえは穢れてなんかいない。穢れていないからこそ苦しみ、悩み、傷つくんだ。それに…それに、おまえは掛け替えのない俺の、俺の許婚だ。誰にも侵させはしない。これ以上…。ずっと守ってやる。傍に居る。…他の誰が何と言おうと、どう思おうと、俺の意思は変わらねえ。」
 乱馬の厚い胸板に、迫り来る恐怖の体験の記憶を再び脳裏に描きながらも、それでも彼女は乱馬の胸に縋った。
 
「乱馬…。乱馬…。あたし…。乱馬ぁ…。」
 その存在を確かめるように、あかねは乱馬の胸板に全身を埋めた。
 
 乱馬はあかねが泣いている間中、ずっと、両腕に彼女を抱きしめていた。
 あかねの嗚咽が聞こえる度に、愛しさがこみ上げてくる。
「泣けばいい…。気が済むまで。俺は何処へも行かない。ずっと此処に居るから…。おまえと共に在るから…。」
 泣き続ける愛しい半身を、包み込むように柔らかく抱き締めた。

 あかねは目の前で己を優しく抱きとめてくれる、その暖かさに、全身全霊を預けた。
 いつしか、恐怖は、安堵へと変化し始める。
 あれほど怖いと思っていた乱馬の逞しい腕が、胸が、己を守ってくれる盾のように思え始めていた。
「乱馬…。乱馬…。」
 ただひたすら彼の名を呼び続けた。
 それに答えるように、乱馬は包んだ腕の指先で、あかねの柔らかな髪を愛撫した。
 
 怒りも哀しみも憂いも恐れも、全て愛情が払拭しはじめていた。
 穏やかに交わる心と心。
 

「忘れるな、あかね…。おまえは俺の半分だ。そして、おまえの半分は俺だ。おまえの悩みは俺の悩みだ。おまえが傷ついたときは、俺が癒してやる。だから、何も恐れるな。」

 やがてあかねは安心しきったのだろう。
 乱馬の腕の中で眠りについた。
 ベットの縁に深く腰掛けてもたれ掛かるあかねをそっと抱きとめながら、乱馬はその寝顔に魅せられる。彼女の暖かさを確かめながら、飽きずに眺め続けた。
 彼女の寝顔からは苦渋の表情は消えていた。
 そして、寝入ってしまった彼女の濡れた唇へゆっくりと自分の唇を重ねた。
 
「愛してる…。」

 結ばれた唇で乱馬はそっと囁いた。



八、撹乱

 次の日、あかねは自宅へと戻った。
「もう怪我は癒えているから…。後は家でじっくり療養するといいよ。あかねちゃん。」
 東風の優しい声にあかねは無言で頷き返す。
 乱馬が寄り添うように傍らに居た。
 完全に傷が癒えるにはまだ時間がかかるだろうが、それでも、昨夜、ぐっすり眠ったあかねは少しはすっきりとした顔をしていた。一晩中それを守りながら乱馬はあかねの傍に居た。寝不足であったが心は晴れやかだった。まだ、思うように言葉が継げないらしかったが、あかねの顔に生き生きとした表情が戻り始めていた。
 太陽が昇りきった時、目覚めた彼女ははにかむような笑顔を傍に居た乱馬に返した。
 無言で頷きながら彼は額へ軽くキスをする。
 やっと動き始めた彼女の時を、乱馬は慈しむように包み込んだ。

 久しぶりの我が家。
 天道家の人々は皆、笑顔でこの末娘の帰還を出迎えた。
 皆一様に、事件については触れようとはしなかった。
 あかねもまた、口数は少ないとはいえ、少しずつ、言葉を話せるようになっていた。
「一晩で、こうも変わるものなのね…。」
 かすみは乱馬をまざまざと見返して感心したように言った。
「乱馬くん、どんなマジック使ったの?」
 なびきが意味深な視線を送る。
「うるせえっ!聞く耳持たねえよっ!」
 乱馬はぷいっとそう言うと、あかねに一言投げた。
「着替えて来いよ。一本組み手やろうぜ。おめえも、長いこと身体動かしてねえから鈍ってるだろ。打ち合わないまでも、道場の雰囲気だけは慣れておけよ。じゃねえと、無差別格闘天道流を継げないぜ。」
「たく、帰って来た日くらいゆっくりしたらどうなのよ…。」
 なびきが笑いながら二人を見比べた。
「俺たちは武道家だからな。稽古をそう何日もサボってられねえ。サボりすぎると身体がいざというとき動かなくなるじゃねえか。」
 乱馬はぼそっとそれに反論した。
「はいはい…。たく…。あんたたちには付いていけないわ。」 
 なびきは手内輪を仰ぎながら、くるりと後ろを向いた。
「とにかく、道着に着替えて来いよ。」
 乱馬はそう指図すると、己も着替えに自室へと引き上げた。

 乱馬は、あかねを再び立ち直らせるには「道場で組み合う」ことが一番だと彼なりに考えていた。
 あかねも武道家を目指し幼少時から身体を鍛え上げてきた。
 武道家にとって道場は神聖な場所であった。己を鍛錬し、練達させてくれる場所。ここに居ると、全てが己の練成へと連なるような気がした。それが、己の馴染みの道場であれば尚更に。
 母屋から長い回廊を渡り、古びた引き戸を開ける。そこには凛とした空間が広がる。
 ふっと湿った匂いがした。まだ続く梅雨独特の匂いだ。
 素足で踏み入る聖なる空間。なんとなく床板にも湿気が染み渡っているようだ。今日は湿度がいつもより高い。
 乱馬自身も此処へ立つのは久しぶりであった。
 ずっとあかねのことが気になって、修業どころではなかったからだ。
 軽く流してみた。空を蹴り上げ、拳を切り、一通り基本の型をこなしてみた。
 じめっとした湿っぽい空気が鼻をつく。すぐに身体から汗がだらだらと流れ始めた。蒸し暑い。
「ちぇっ!身体が鈍ってやがる。」
 乱馬は吐き出した。
 と、入口に気配がして見上げるとあかねがじっと佇んでいた。
「待ってたぜ。組むか?」
 乱馬はにっと笑って見せた。
 あかねは躊躇するように構えた。
「中途半端な構えをしてると怪我するぜ。」
 乱馬は腰が引けてしまっている彼女に声を掛けた。
 軽く一礼をして対峙する。始まりの合図だ。
 礼を終えると、たちどころに闘士の塊へと変化する。ブランクがあってもそれは同じであった。
「来いっ!」
 躊躇するあかねに乱馬は声を掛けた。おそらく彼女は乱馬の男っぽいがっしりした身体に恐れを感じているのだろう。
 乱馬とてそれは十分に承知していた。
 忌まわしい記憶が脳裏に蘇っているのかもしれない。あかねの身体は己の意思に反して固くなっているように見えた。
(やっぱりな…。)
 乱馬はその様子を見て、複雑な想いに捕らわれる。
 彼が帰るなりここへ引っ張り出したのも、少しでもあかねに前進して欲しいと思ったからだ。武道家の闘士を少しでも引き出して、気を楽にしてやりたいと欲したからだ。
 弱々しいながらも、それでもあかねは懸命に乱馬と対峙しようと踏ん張っている。
 その様子が手に取るようにわかるのだ。複雑な思いではあったが、必死で立ち向かおうとする彼女が、また同時に堪らなく愛しくなるのを感じた。
 激しいとまではいかないが、あかねは無我夢中で乱馬へと拳や蹴りを繰り出してくる。
「もっと打って来いっ!おめえはそんな物じゃねえはずだろ?」
 乱馬は発破をかける。
 始めは遠慮がちだった彼女の拳が、少しずつではあったが、空(くう)を切り始めていた。
「いいぞ…その調子だ。」
 嬉しそうに乱馬はあかねを見た。
 この調子で少しずつでもいいからあかね本来の動きを取り戻してくれれば良いと彼は思った。

 その時だ。

 乱馬は身の毛が弥立つような殺気を感じた。

「危ねえっ!」
 乱馬は飛んできた気砲を紙一重で交わした。あかねを辛くも突き飛ばした。

 どおーんっ!

 あかねとの間に打ち込まれた気が弾けた。
 もくもくと立ち昇る白い煙。
「な?」
 むせながら乱馬は道場の入口を見た。

 人影が三つ。

「うっちゃん、シャンプー、小太刀…。」
 煙を避けながら乱馬は人影に声を掛けた。
 少しずつ晴れる白煙の向こう側に、三人の娘たちが厳しい表情を向けてこちらを睨んでいた。
「何のつもりだ?」
 乱馬は立ち上がって彼女たちを見比べた。

「知れたこと…。乱馬さまがあくまでも天道あかねと手を切らないのなら私たちにも考えがあります。それをお伝えに参りましたの。」
 小太刀がまず前へ進み出た。
「乱馬…。今一度訊くね。あかねと別れる気はないか?」
 シャンプーが戦闘服を靡かせて尋ねてきた。
 乱馬は一言、「ああ。」と答えた。
「残念ね。ならば、ここであかねには死んでもらう。」
 シャンプーは身構えた。
「シャンプー。」
 乱馬は彼女を見上げた。
「勿論、乱馬にもっ!」

 そう言うと彼女は乱馬に襲い掛かった。

「させるかっ!」
 乱馬は電光石火のように動いた。
 バチンと音がして、シャンプーの持っていた武器が弾けた。
「な?」
 バラバラと落ちてくる白い粉。
「これは?」

「私が調合した毒薬ですわ。」
 小太刀とがにやりと笑った。

「毒薬だと?」
 乱馬は粉を浴びながら反芻した。
 確かに、身体が僅かだが痺れている。
「くっ!このくらいの毒で封じられるほど俺は柔じゃねっ!」
 乱馬は小太刀目掛けて気を放った。
 と、シャンプーが前に立ちはだかり、にやりと笑って何かを投げつけた。乱馬の放たれた気砲がそれに当って弾けた。

 バズンッ!

 鈍い音がして、そいつが空で弾けた。
 と、もくもくと紫色の煙が上がる。

「かかったね、乱馬っ!」
 シャンプーが勝ち誇ったように言った。
「何の真似だ?」
 彼の周りの視界が急に暗くなる。
「悪いな、乱ちゃん。こんなやり口、うちは不本意やけど、乱ちゃんの気持ち、しかと確かめさせて貰うでっ!」
 横から右京があかね目掛けて何かを投げつけた。
「あかねっ!」
 あかねの方へ飛ぼうと思った乱馬であったが、叶わなかった。
「何っ?」
 身体が思うように動かなかったのである。
「この毒は即効性ですわ。乱馬さま。」
 小太刀が満面の笑みを浮かべて笑った。
「畜生っ!だが、少しでも俺は動けるぜ。」
 乱馬は小太刀目掛けて拳を振り上げる。
 ふわっと小太刀が飛んだ。
「なっ?」
 余裕で避けられてしまったのだ。
「この毒薬は、相手の動きを緩慢にさせるもの。ふふ。乱馬さまの動き、亀のようにのろまですわよ。」
 小太刀はそう言うと、目も止まらぬ速さでリボンを投げてきた。
「くっ!」
 乱馬の腕にリボンが絡みつく。
「暫く、そこであかねがやられるところを見ていただきましょうか?」
 小太刀は乱馬の動きをリボンで封じると、アゴでシャンプーに合図を送った。

「あかね、こっちね。」
 シャンプーはにやりと笑った。

 あかねは右京に投げつけられた煙幕にむせっていた。
「あかねっ!」
 乱馬は思わず叫んだ。
 あかねは膝をついて肩で息をしている。
 様子が明らかに変だ。何かに怯えるように、その場にへたり込んでいる。
「どうしたんだっ!あかねっ!」
 乱馬は動かない身体から声を発した。

「無駄ね…。あかねは己の中にある恐怖に捕らわれたね。」

 シャンプーは冷たく言い放った。
「己の中の恐怖だって?」
 乱馬はキッとシャンプーを見た。
「そうね…。あかね、自分の身体と脳裏に埋め尽くされている忌々しい記憶に取り込まれてるね…。ふふ。襲われて手篭めにされたときのね…。」
「な、何だってっ?」
 乱馬は険しい表情をシャンプーに向けた。
「そう…。あかねは、己の中の恐怖に押しつぶされるね…。そして、のた打ち回ったところを耐えかねて己でとどめを刺すね。」
 シャンプーはキラリと光る物を出した。
 それをコトンとあかねの傍に置いた。
「自ずから死を選ばせてあげるのですわ…。」
 小太刀が高らかに笑った。

「そうはさせねえっ!」
 乱馬はギリギリとリボンを手繰った。
「ふふ、無駄ですわ。あと二、三十分は乱馬さまは思うように動けませんことよ。」
 小太刀は持っていたリボンをぐっと締め付けるように動かした。
「うっ!」
 乱馬は床へと投げ出されのた打ち回った。
「てめえらっ!」
 乱馬はギリッと三人を見比べた。
「見ものですわよ…。あかねがとどめを刺したら、今度はあなたに同じ物を差し上げますわ。あかねを選んでしまったことを後悔なさいませ。」
 小太刀はクククと笑いながら乱馬を見下す。
「さあ、見世物が始まるある…。」
 シャンプーが冷たく言い放った。





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