◇心の扉〜深い河を越えて


五、急転

 次の日、天道家では家族会議が重々しく行われていた。
 あかねの今後を話し合うためである。
 
「このままでいいとは思わないね。」
 早雲が口を開いた。この家の中で一番憔悴しているのは、あかねの父親、この人だろう。
 ここ数日で頬がこけるほど痩せていた。
 かすみが差し出した一冊の本を巡って、各々意見を交換しているところだった。
 机上にあるのは「人体のツボ刺激と効能」という本。一見して東風の所蔵だということがわかる。
「で、かすみくん、記憶操作を行うツボというのが現実に存在しているのかね?」
 玄馬が信じられないと言う風にかすみを見上げた。
「ええ、確かにあるらしいんですの。東風先生ならきっと出来る筈ですわ。前に一度伺ったことがありますもの。東風先生、おどけていらっしゃってあまり良くはわからなかったんですが。」
 かすみはゆっくりとした口調で答えた。
「まあ、あっても然りだな。ほら、早乙女君も記憶にあるだろう?シャンプーが日本へ始めてきたときの「指圧拳騒動」のこともある。人体のツボの中には記憶操作をするものがあったって不思議じゃない。」
 早雲は腕を組みながら答えた。
 そう、この場の人々は、黙して語ろうともしない、憔悴しきったあかねの現状打開のために、記憶を操作して忌まわしい事件を忘れさせるべきかどうかの思案に暮れていたのである。
「私はかすみの事案に賛成だ。」
 力なく早雲はそう言った。
「でも、天道くん、それではあまりにあかねくんの基本的人権を無視していることになりはせんかね?」
 玄馬が心配そうに言った。
「それはある程度仕方がないことだろう。でも、本人は辛い記憶を失う訳だから、それはそれで良いと私は思うのだがね…。」
 早雲は難しい顔をしながらも言った。
「だからって、それで抜本的解決に至るのかしら。」
 超現実主義の次女なびきは父親の顔を見上げた。
「どういうことかね?なびきくん。」
 玄馬の問いかけになびきは答えた。
「確かに記憶は消えるのかもしれないけれど、いつまたフィードバックして思い出すか知れたものじゃないわよ。現にあの指圧拳騒動の時だって、あかねは乱馬君を完全に忘れることはできなかったじゃないの。」
「でもね、何度かツボ刺激を続けるうちに、すっかり記憶の痕跡を消せるって東風先生からお借りした本には書いてあったけれど。」
 かすみはゆっくりと言葉を噛み締めながら言った。
「臭いものに蓋をするだけで、本当の解決になるのかしら。」
 なびきは突き放すように言いながらちらっと乱馬を見た。
(あんたはどう思うのよ…。)
 なびきの視線がそう乱馬に問い掛けていた。
「しかしだなあ…。このまま放っておくと、あかねは自殺すらしかねんぞ。現に自虐行為に走っているそうじゃないか。」
 早雲は困ったという表情を次女へ向けた。

 あかねの自虐行為。

 そうなのである。Pちゃんが居なくなってからというもの、あかねの精神的苦痛は前にも増してしまった観があった。全く食べ物を口へ運ぼうとしないばかりか、折角治りかけていた手足や体の傷を己の手で穿り返すような行為も目に付き始めたのである。世話をしているのどかとかすみの報告によれば、一旦塞がった傷のかさぶたを、意識的にか無意識的にか己の手で引き剥がすような行為に走っているというのだ。ほっておくと血まみれになっていることもあった。
 あまりの痛々しいあかねの姿を、正視出来ない状況になってきていたのである。

「俺は…。反対です。」

 乱馬は静かに口火を切った。

「反対とは?」
 早雲が乱馬を見返した。
「だから、記憶を消してしまうことにです。記憶を消したところで、抜本的な解決にはならないと思うんです。少なくとも俺たちは知ってしまったわけだから…。腫れ物に触るように一生あかねと接してゆくのは、俺は願い下げです。」
 乱馬の声は凛としていた。
「しかし、このままではあかねが…。」
 早雲が答えかけたのを制して乱馬は続けた。
「確かに、今の状態が普通だとは思いません。でも、あかねは自分で現況を受け入れて立ち直らなければいけないんです。そのためなら俺は武道家として、真っ向からあかねに差し向けられた現実と対決します。いや、武道家としてだけではなく、あかねの許婚として、彼女を信じて見守りたい。」
 一同は乱馬の言葉に黙って聞き入った。
 乱馬が「許婚」としての己の立場を明確に言い表したのは、恐らくこれが初めてだったかもしれない。
 昨夜、良牙に言い含められて以来、彼は彼なりに固い決意を持って、この事態に臨もうとしていたのである。

『俺は逃げない。』
 
 それが乱馬の今の心情であった。あかねのためにだけではなく、己のためにも逃げたくないと思ったのである。己が現実を受け入れてこそあかねは立ち直る術を見い出せる。それは身勝手な奢り昂ぶりなのかもしれないが、もう決して言い分けたり逃げたりはしないと、己の心に誓ったのである。
 ただ、何ら具体的な打開策があるわけではなかった。それも重々承知の上の決意であった。
 
「わかった…。あかねの様子をもう少し見てから最終判断をしよう…。乱馬君がそこまで言ってくれるのなら…。だが、あかねの命が危ういとなれば手段は選んでいられないからね。それだけは念頭へ入れておいて欲しい。」
 早雲はそう言って一同を見渡した。
 ごく常識的な意見であり、一番理にかなった対処方法と思われた。


 と、そのときであった。
 天道家の庭先が俄かに騒がしくなった。

「早乙女っ!貴様ぁーっ!!」
 そう言いながら竹刀を振り回し乱入してきた迷惑な客人。
 九能帯刀であった。
「帯刀さまっ!お心をお沈めにっ!!」
 彼の後をひた走ってきたのは九能家のお庭番、葉隠佐助。

「何だよ、騒々しいっ!!」 
 馴れっこになったとはいえ、鬱陶しいという目を乱馬は九能に差し向けた。
「うるさいっ!貴様、あかねくんが傷物になったというのは本当のことか?」

「傷物?」

 一同はその言葉に凍りついた。

「何だ?その傷物っていうのはっ!!」
 乱馬の罵声が飛んだ次の瞬間、九能の木刀が空(くう)を切った。
「本当かと聴いておるのだーっ!!」
 我武者羅に飛び込んでくる九能に圧倒されながら、天道家の人々は壁際に避けた。

 バリンッ!ガタンッ!

 花瓶が割れ、卓袱台が真っ二つになる。
 だが、乱馬は怯まずに、九能の木刀を右手の拳でだっとのし上げた。
「暴れるなっ!この野郎ッ!!」
 そう言いながら、次の瞬間には九能を捉え、畳へと押さえつけて沈めていた。
 九能は彼の敵ではなかった。畳に押さえつけれれて、顔に痕が出来た。
「ぐぬぬっ!僕という決まった者がありながら、あかねくんをみすみす傷物に…。」
 九能はわなわなと泣いている。
「落ち着けっ!先輩っ!」
 乱馬は九能の首根っこを押さえつけながら怒鳴り散らした。
「帯刀様…。まだ確認が取れたことではございませぬゆえ…。」
 後ろで佐助がおろおろしていた。
「佐助…。どういうことだ?説明しろっ!」 
 乱馬は暴れ出さないように九能を押さえつけながら佐助へと問い掛けた。

「あ、いえ、あかねさまが集団で暴行を受けてしまわれたと、小耳に挟みましたので…。」
 佐助は乱馬を恐る恐る見上げて切り返した。
 さあっと天道家の人々の顔から血の気が引いた。
「あたしじゃないわよ。あたしが情報をリークする筈がないでしょっ!」
 なびきがぶんぶんと首を振った。たとえ守銭奴のなびきとはいえ、妹を売り渡す程、性根が腐り切っているわけではないだろう。
「どこでそれを知った。」
 乱馬は物凄い形相で佐助を見返した。返答次第ではという気迫が佐助を怖がらせた。
「巷の噂でござるよ。何でも、警察の方が校長室へ参られたそうで…。」
「けっ!あの変態校長か…。噂の出所は。」
 乱馬は言葉を投げ捨てると、九能を見返した。
「ぐぬっ!無念。やはり父上の言っていたことは本当だったのか。」
 九能がほぞを噛んだ。それをきっと睨んで乱馬は言い放った。
「事実がどうであれ、「傷物」という言い方は気に食わねえな。あかねは物じゃねえ。今度もしそんな言い方をしたら…。どうなっても責任は持てねえぞ…。」
 九能は乱馬の気迫には抗えなかった。
「でもさ、乱馬君、真相がどうであれ、そんなことが噂になってるんじゃ…。」
 なびきが横から口を挟んだ。
「佐助、どのくらい噂になってるんだ?」
 乱馬は九能を無視して、お庭番の佐助を見返した。
「もう、そんじょそこら中の噂になってござりまするよ。小太刀さまなどは、天道あかねに申し開くことがあるとか何とか言って、ご機嫌で出て行かれましたから。」
「何だと?」
 乱馬の表情が変わった。
「乱馬さまはこれでわたくしのものですわ…天道あかねに許婚の資格はなくなりましたわ…とか嬉しそうに言っておったな。あの変態の妹は。」
 九能が傍でそううそぶいた。
「乱馬君…。」
 かすみが心配げに乱馬を見た。
「不味いな…。」
 苦虫を潰したように親指を噛みながら乱馬はじっと考え込んだ。
「そう言えば、シャンプー殿と右京殿も同じように浮かれておられるのに先ほど出くわしたでござるよ。」
 佐助が思い出したようにそう告げた。
「何だって?」
 それを聴いた乱馬の表情が一層険しさを増した。

(あかねが危ない…。)

 直感が彼を駆け抜けた。

「俺、ちょっとあかねのところへ行って来ます。」
 乱馬はそう言い置くと、だっとその場を駆け出していた。



六、意思


 乱馬の危惧は大きな不安となって彼にのしかかってきた。
 三人娘はあかねを葬り去ることを心のどこかで望んでいる。あかねを蹴落として、己の横に並ぶことを強く望んでいる。
(くそっ!俺がはっきりと意思表示をしないで来たばっかりに…。)
 自分の優柔不断さが、またあかねを窮地に追い込んでいる…そのことを乱馬は瞬時に悟ったのである。

 懸命に駆けながら、まず、彼は道すがらにある右京の店へと足を踏み入れた。
「うっちゃんっ!」
 乱馬はまだ上がらぬ暖簾を諸共せずに、引き戸をガラッと開けた。
「乱馬さま…。右京さまならシャンプーさんと一緒に先ほど出ていかれましたわ。」
 店先を箒で掃きながら小夏が見上げた。
「シャンプーと?」
 乱馬の顔色はますます蒼白になってゆく。
「ええ…。うちに望みが湧いてきたって嬉しそうにして出て行かれましたけれど…。」
「不味いっ!」
 乱馬はそう言い捨てると、懸命に駆けた。
「あ、乱馬さま?」
 小夏は駆け出した乱馬に驚いて声を出したが、彼は疾風のようにダッと駆け出して、みるみる姿が見えなくなった。

 シャンプーの店、猫飯店の前を通り抜けると、コロンが暖簾を掲げて開店準備をしているところであった。
「婿どの。何をそんなに慌てておられる。」
 コロンは何事かと乱馬を見やった。
「何でもねえっ!先を急いでいるんだ。」
 乱馬はそう吐き捨てるように言い放つと、その場を駆け抜けた。
「たくのう…。シャンプーもさっき嬉しそうに「今夜は祝いの祝宴ね。」とか言いながら駆けていったと出て行ったと思うたが。たく、若い者は血気さかんじゃのう…。活きが良いのう…。ほーっほっほっ。」
 さも愉快そうに笑いながら乱馬を見送った。

 疾風怒濤の如く駆け抜ける乱馬は、一目散に東風の接骨院へと雪崩れ込んだ。
「東風先生っ!!」
 息を切らして駆け込むと、東風が待っていたと云わんばかりに顔を出した。
「今しがた、天道さんのところへ電話したところだったんだ。君がこっちへ向かっていると聴いて安心したんだけれど…。」
 彼の表情は険しかった。
「やっぱり、あいつら…。来てるんだな?」
 乱馬は息せき切って東風を見返した。
 東風は首を縦に頷いた。
「止めようとしたんだけど…。あ、乱馬君、どうするんだい?」
 東風は争いは困るというような表情を向けた。
「心配は無用だよ、先生。俺がはっきりと意思表示すればことは収まる。そうだろ?」
 乱馬は真摯な目を東風へと向けた。
「乱馬君…。君…。」
 東風はにっこりと微笑んで乱馬に言った。
「そうだね…。これは君の問題でもあるんだ…。あかねちゃんを守っておあげ。」
 乱馬は一度だけ頷くと、意を決したようにあかねの居る病室へと駆け上がっていった。

 病室のドアは開け放たれていた。
 乱馬がそこへ立つと、小太刀と右京とシャンプーがあかねを取り囲んで得意満面に笑っているのが見えた。乱馬はその風体を見ただけで、得も云えぬ不快感が湧き上がるのを抑えられなかった。
 ベットの上に座すあかねは死人のように血色を失い、ただ、呆然とうな垂れている。目の焦点は定まらず、何処を見ているのかもわからないような様子であった。
 乱馬は黙って入口へ手をかけた。
 彼の気配を察した三人娘は、晴れやかな笑顔で彼を出迎えた。
「ほら、乱馬も来たね。これではっきりするね。」
 口火を切ったのはシャンプーであった。
「ご機嫌よろしゅう、乱馬様。」
「乱ちゃん…。待ってたで。」
 彼がここへ現れるのは必然だろうと三人娘は思っていたようだ。招かれざる客でもなかったらしい。
「てめえら…。三人揃って何だ?」
 まずは低い声で牽制した。
「いえ、これから誰が乱馬さまに相応しいか、決めていただこうとこうしてお待ちしていただけですわ。」
 小太刀がにこにこと笑いながら答えた。
「一つだけはっきりしてるね。あかねは、乱馬の許婚を名乗る資格はもうないということね。」
 シャンプーが勝ち誇ったように言葉を投げた。
「どういう意味だ?」
 乱馬はじっと彼女を見返した。
「知れたこと。聴く所によると天道あかねはもう乙女ではありませぬ。他の男と不義密通をし、しゃあしゃあと乱馬さまの許婚の椅子に座っているとは笑止千万。」
「そうや…。あかねは乱ちゃんに捧げる操を失った今、許婚の座からは退いて貰う。当然のことやろ?乱ちゃん。」
「女傑族の女、婿殿以外の男に柔肌も見せない。勿論、手もかけさせない。あかねは己を守れなかった。だからさっさとその座を明渡す。当然ね。」
 
 怒りが心の奥から湧き上がってくるのを、乱馬はどうにも抑えることができなかった。
 この少女たちが侮辱しているのは、己が誠心誠意をこめて守ろうとしている乙女だ。

「天道あかねは最早「傷物」ですわ。さあ乱馬さま、さっさと引導を渡して差し上げてくださいませな。せめてもの、武士の情けですわ。」

 小太刀の声に遂に乱馬は激昂した。

「ふざけるなっ!!」

 その声は病室中を震撼させるに十分過ぎた。

「誰が「傷物」なんだ?おまえら自分たちが言ってることの意味わかってるんだろうな!」
 乱馬の気迫に三人は呆然となって立ち尽くした。
「はっきり言っておく。俺の許婚はあかねただ一人だ。それ以外の奴と結ばれる気は俺にはねえっ!」
「乱馬さま?」「乱馬?」「乱ちゃん?」
 血相の変わった乱馬を不思議そうに三人は見詰めた。
「あかねが傷物だと?寄ってたかって好き放題言いやがって!あかねは、…あかねは俺の大切な許婚だ。それを侵す奴は、たとえ婦女子だろうが、容赦はしねえっ!あかねは俺の一部だ。てめえら、俺に喧嘩を売ろうっていうんなら、それ相応の覚悟はできてるんだろうな?」
 今までにない剣幕であった。
「乱馬さま、お気を確かに。」
 小太刀が取り成そうと必死に言葉を継いだ。
 と、乱馬はくわっと気炎を立ち上げた。

 ボンッ!

 音とともに背中から立ち上がる気は激しく、ゆらゆらと揺らめいているように見えた。
 三人はその激しさに一瞬飲まれて、ごくんと生唾を飲んだ。
 どうやら怒らせてはならない相手を揺さぶってしまった。そんな後悔が三人の上にのしかかる。

「今日のところは引き上げますわ。でも、私たちは諦めませんわ。」
 小太刀が言い放った。
「そうね…。乱馬は私の婿になる。それだけは覚えて置くね。」
「乱ちゃん…。あかねが喩え不義をしていたとしてもええんやな?」

 乱馬はあかねの前に立ちはだかると、三人に向かって言い放った。
「これだけははっきりと言って置く。俺はおめえらと結婚する意思は持ち合わせていねえ。俺が結ばれたいのはあかねだけだ。他の誰でもねえ。俺は自分の意思であかねを選んだ。誰にも文句は言わせねえ。
 帰れ!そして二度と俺たちの間に割って入ろうなどという気は起こすな。
 俺はあかねを守る。あかねを傷つけるものは、俺にとっても敵だ。覚えておけっ!」
 はっきりとそう言われてしまっては、三人も身を引くしかなかった。
 合点がいかないという顔をしながらも、三人はすごすごとその場から退散を決め込んだ。

「はっきり言うもんだね…。乱馬君。でも、それでいいんだ。君の意思さえしっかりしていれば、あかねちゃんも救われる…。」
 東風は傍らでその様子をじっと見守っていた。
 そして、三人娘を見送るとふっと言葉を吐いた。
「あかねちゃん…。君も心を開くがいい。今の彼なら、君の全てを受け入れるだけの包容力を持っている。頑張りたまえ。辛いだろうけれど…。」
 東風は病室に佇む二人へ微笑みを一つ、降り注ぐと、ゆっくりとまた階下へと下りていった。





(c)Copyright 2012 Ichinose Keiko All rights reserved.