◇心の扉〜深い河を越えて


一、受難

 さめざめと梅雨の長雨が降り続く蒸し暑い夜更け、一人の少女が濡れながら歩いていた。
 肩を震わせ、涙に濡れ、放心したようにふらふらと歩いている。衣服は乱れ、怪我をしたのか、白い柔肌から所々血が滲み出している。
「あかねちゃん?」
 呼び止めたのは、すらりとした髪の長い女性。
「お姉ちゃんっ!」
 少女はそう叫んでその場へと崩れ去った。
「あかね?あかねちゃん?」
 傘を投げ出して駆け寄る姉に、力なく微笑むと、少女はそのまま意識を失ってしまった。




「嘘だろ?」
 乱馬はなびきの言葉に己を失った。
 みるみる表情が凍り付いてゆく。
「とにかく、今日はそっとしておいた方がいいわね。」
 なびきはらしくなく、険しい表情を彼に向けていた。
「念のために婦人科の病院へも行ったようだけど、放心状態で、何も話そうとしないのよ。よっぽど酷い目にあったようね。」
「で?今は、どうしているのかね?」
 乱馬の父、玄馬がなびきに問い返した。
「東風先生のところに預かって貰ってるわ。結構、傷もあったみたいだし…。暫く、天道家(うち)には戻れないかもしれないわね。」
 そう言い終わらないうちに乱馬が駆け出していた。
「あ、乱馬君っ!今日はあかねをそっとしておいてって…行っちゃったか。もう…。乱馬君が顔を出したらあかねはもっと辛くなるでしょうに…。」
 苦笑しながらなびきは言った。
「ワシがちょっと行って呼び戻して来ようか?」
 玄馬が立ち上がろうとしたのをなびきが止めた。
「おじさまが行ったところでどうにもならないわよ。お父さんだってあかねには近寄れないんですもの。」
 なびきは傍らの父を見てふうっと溜息を吐いた。あかねの父、天道早雲は、焦点定まらず、虚ろげにぼおっと座していた。彼が持つ煙草の先には灰が燻り、ポトンと灰皿に落ちて粉々に砕けた。
「で、あかねくん、今はどうしているのかね?」
 玄馬は真剣な表情を天道家の次女へと向けた。
「かすみお姉ちゃんと早乙女のおばさまが傍に付いていてくださってる。」
「かすみさんで大丈夫なのかね?東風先生は…。」
「ええ…。珍しく東風先生がまともなのよ。それだけ、深刻な事態なのかもしれないけれど…。乱馬君のことは、東風先生と早乙女のおばさまが上手く取り成してくださるでしょう。大人な人たちだから。…それより、雨、まだ降ってるのね。」
 なびきは雨音がする外に向かってふっと息を吐いた。


 乱馬は闇の中をひた走った。
 何があかねの身に起きたのか、良く事情が飲み込めなかった。が、今までの中で最悪の事態に直面していることは理解できた。
(畜生っ、俺のせいだ。)
 降りしきる雨の中を駆けながら乱馬はぐっと下唇を噛んだ。



 放課後、いつものように三人娘に絡まれた乱馬は、ほうほうの体で逃げ出した。いつもながらにしつこい攻勢のかけ方だった。来月の七夕縁日のペアリングを巡って、乱馬の争奪戦の前哨戦を今から繰り広げているのである。もう一八歳になった彼と今年こそはという思いは、少女たちの密かな願いであった。
「一八歳の夏、七夕縁日の宵に機織神社でお守りを買えば必ず結ばれる。」
 誰が言い出したのかそんなジンクスがこの辺りの少女たちに囁かれていたのだ。
 霊験あらたかな七夕縁日に肩を並べて、二人でお守りを買う。ささやかな少女たちの願い事であった。
 許婚のあかねとしては面白くないらしく、彼女たちが執拗に追ってくれば追って来るほど不機嫌になり、何かというと乱馬に食って掛かってくる。
「あたしは関係ありませんから。」
 そう口に出して言ってはみるが、内心は「ヤキモチ」で煮えたぎっているらしかった。
 互いに乱馬の相手として己の正統性を主張してやまない少女たち。乱馬にしてはいい迷惑であったが、元来の優柔不断ぶりは、月日が経っても変わらずに、真っ向から否定するでもなく、ただだらだらと逃げ回る日々を送っていた。
 そんな日常に慣れ切っていた。
 あかねが機嫌を損ねていても、いつものことだと馴れっ子になっていた。
 乱馬の心の隙を突いてあかねに襲い掛かった禍。
 事態を把握しようにも、何がどうなっているのか、彼にはわからなかった。いや、俄かにはあかねの身に起こった「重大事」が信じられなかったと言ってもいい。
「あかねが何者かに襲われた。」
 その知らせは青天の霹靂であった。
 とにかく己の目で確かめたい。そう思うと、家人たちの静止も聞かぬままに家を飛び出したのであった。



 ばしゃばしゃと水音を立てながら、雨の中を突き進む。
 呪泉郷の泉の呪いで、水を浴びると性転換をしてしまう己の体のことなど、今は眼中になかった。傘も持たず、とにかくひた走る。少しでも早く、あかねのところへ辿り着きたい。それ一心で駆けていた。
 とっぷりと暮れてしまった夕闇を、物凄い勢いで駆けてゆくおさげ髪の少女を、道行く家路を急ぐ人たちは、不思議そうに振り返ってゆく。
 ものの五分もたたないうちに、見慣れた接骨院の玄関先に着いた。
 丸い電灯が寂しげに雨に揺れている。
 乱馬は濡れたままの身体で、入口へ履いていた靴を脱ぎ捨てると、裸足で駆け上がった。

「乱馬君。」
 濡れて来た乱馬を出迎えたのはここの責任者でもある接骨医の東風だった。
 夕方から激しく振り出した雨のせいなのか、患者は珍しく誰もいない。早くに引けてしまったようだ。廊下の電灯は消され、診察室だけに灯が煌々と輝いていた。
 東風は乱馬を認めると、難しい顔をして頷いた。
「とにかく、そのままじゃ風邪をひいてしまう。こっちへ上がりなさい。」 
 肩で息をしている乱馬に東風は声を掛けた。
「あかねは…。」
 荒い息の下から、ようよう言葉を紡ぎ出した乱馬に、東風は顔を横に振ってみせた。
「ダメだ…。今は混乱していて、君に会わせるわけにはいかない。」 
 凛とした声で東風はきっぱりと言った。眼鏡の奥の目は決して甘くはなく、いつにもとは違う厳しい風体の東風がそこに居た。
 何故という疑問を投げる前に東風は静かに話し始めた。
「上手くは言えないが、ある意味、身体を傷つけられた以上にあかねちゃんの心は、傷ついているんだ。僕ですら病室へ入ることを躊躇してしまうくらいにね…。君はあまりにもあかねちゃんに近すぎる。これ以上彼女の心を傷つけてしまう訳にはいかないだろう?勿論、凍り付いてしまった彼女の心を癒せるのは君だけだろう。だけど、今夜は…。」
 乱馬は東風が云わんとしていることが良く理解できないという顔をした。
「でも…。」
 反論を試みようとしたときに、彼の母、早乙女のどかがひょいっと顔を出した。
「乱馬、先生の言うとおり、今晩はあかねちゃんの傍に行くのはおやめなさい。あなたが傍に行けば、あかねちゃんはもっと辛くなるでしょう。いくらあなたが女の形をしていても、彼女にとってあなたは、一人の男性にしか映らないから。あかねちゃんを心配する気持ちは分かります。だからこそ、離れて見守ることも大切な場合があるでしょう。」
 穏やかそうだが、のどかの声は透き通るように乱馬の心を刺して来る。
「わかった。あかねの前に顔はださねえ…。だけど…。」
 ぎゅっと拳を握った彼は二人を見返した。東風は暫く思案していたが、一つ息を軽く吐き出すと乱馬に告げた。
「君がそうしたいのなら…。二階の端の病室だよ。」
 東風は何か言おうとしたのどかを制して、乱馬に向かって言った。
 納得したように、軽く頷くと、乱馬は静かに階段を登り出した。息を殺し、気配を断つ。東風は黙していたが、そうしろと言わんばかりの視線を乱馬に向けたからだ。
 武道家である彼に、気配を断つことなどは造作ないことであった。
 濡れた服は乾ききってはいなかった。ポタポタと滴が床に落ちる。ずっしりと重い水を吸ってしまったチャイナ服。
 階段をゆっくりと踏みしめるように上り切る。長い廊下の先にはぼんやりと開き放たれた扉から漏れる一筋の蛍光灯の頼りげない光が見えた。乱馬は一つ、深呼吸をすると、意を決したように、そっと廊下を歩き出した。ミシっという木の音に心を配りながら歩いた。そして、完全にその場の空気と同化しながら、開け放たれた扉からそっとあかねの気配を伺った。
 中にはかすみが一緒に侍っていた。何も言わずにベットの中のあかねを心配げに見ていた。
 あかねはただ、ぼんやりとベットに仰向けになっていた。そこからでは表情は窺い知れなかったが、憔悴しきっていることは一目でわかった。いつもの生気が彼女からは感じ取れなかった。手に巻かれた包帯が痛々しく映った。
(あかね…。)
 心で叫ぶようにそう搾り出すと、乱馬はくるりと背を向けた。
 それから、あかねの隣りの部屋の扉へと手を掛けると、そこへと入っていった。

『今はあかねと同じ空間には居てはならない。』

 あかねの様子を見て、東風と母親が言わんとしたことを理解した。
 だが、傍に居たい。あかねと近い場所に居たい。
 その思いは消せるものではなかった。
 彼は空き部屋になっているその病室に入ると、静かにあかねの病室と接する壁に背中をくっつけて座り込んだ。真っ黒な闇の中に腰を落として身体を沈める。微かな衣擦れと己の呼吸の音が暗闇に浮かんだ。
 両手で濡れた身体を抱え込むようにして、じっと迫り来る暗闇へと目を凝らした。


「やっぱり、乱馬君も相当ショックだったようですね。」
 東風は、そんな乱馬を気遣いながら、のどかへと声を掛けた。
「ええ…。でも、本当に大変なのはこれからでしょう…。」
「あかねちゃんがどこまで突きつけられた現実に耐えられるか。」
「乱馬がどこまでそれを支えられるか…。」
「彼の力量を信じてやらないのですか?」
 東風は目を細めてのどかを振り返った。
「勿論、信じていますわ。まだ若いんですもの。」
「そうですね、若いからこそ…。心配だ。暴走しないかが…。」

 雨脚はさっきよりも激しくなった。
 稲光がゴロゴロと走り始めた。
 その光の浮かぶ中、乱馬はじっとみじろぎもせずに、そこに座していた。
 迫り来る自戒の念と激しい後悔と、そして彼女への慈しみと深い愛情と。それらを持て余しながら、じっとそこに座っていた。

 どのくらいそうしていたのか。

 意識しないままに彼はふらりと病室を出た。まだ濡れる闇夜の街へとぼんやりと足を進める。定まらぬ心を持て余しながら。




二、悔恨


「で、あかねはどうだったの?」
 なびきは食い入るように朝帰りしてきた姉を眺めた。
「ええ…。大事には至らなかった。ただそれだけしか聴いてないわ。」
 かすみはふうっと息を吐いてそう言った。
「大事には至らなかったか…。中途半端な言い回しだわね。妊娠はしなかったと取るべきなのかとれとも、乙女の純情は守られたというのか。」
「それ以上は怖くて聴き出せなかったわ。あまりに酷い現実ですもの。」
「で、あかね、本人は?」
 かすみは首を横へと振った。
「殆ど食べものは咽喉に通らないみたいだし、喋ろうともしないの。ただ、ぼんやりとベットから外を眺めるばかりで、トイレ以外には立ち上がろうともしないの。」
「あかねを手篭めに出来る相手ってそういないと思うんだけど…。」
「集団だったそうよ。そう聴いたわ。何でも今まで何度も女性を襲ってたそうよ。」
「捕まったの?」
 なびきは姉を見詰めながら言った。姉の言葉が過去形で語られていたことに気がついたからだ。
「ええ…。今朝、警察から連絡があったわ。夕べあかねを襲った川沿いの廃屋から少し行った所で、コテンパンにやられていたところを御用になったって…。また、女の子を襲っていたというから呆れたものね。」
「ふうん…。コテンパンにねえ。」
「詳しいことはわからないけど、男四人組なのに、誰にやられたのか。話したくても話せないくらいボロボロに殴られていたそうよ。」
 なびきは意味深に姉に向かって言葉を継いだ。
「で、乱馬君は?」
「さっき、泥だらけになって帰って来たわ。シャワーでも浴びているんじゃないかしら。」
「そっ…夜中(よるじゅう)起きていたんなら、今日はパスかしらね。学校。」
「暫く、彼もそっとしておいた方がいいのかもしれないわね。なびきちゃん、その辺り…。」
「わかってるわよ。上手く誤魔化しておくわ。じゃ、行ってきます。」
 なびきは姉に微笑み返すと、鞄を持って玄関へと急いだ。

 途中、風呂から上がってきた乱馬と廊下ですれ違った。

「半殺しくらいで、あんた良く我慢したわね。」
 なびきはすれ違いざま、乱馬にそう声をかけた。
「あん?何のことだよ…。」
 不機嫌そうに彼は答えた。
「ううん。こっちの話よ。適当にサボりの口実見繕って置いてあげるから、殆ど寝てないんでしょ?目にクマがあるわよ。あ、今日のはサービスしておいてあげる。じゃね。」
 なびきはそう言い放つと、反論を試みようとする乱馬の間をすり抜けた。

「へっ!殺したっていいと思ったけどよ。それじゃあ、あかねが…。あんな奴らに叩きつけるほど、俺の拳は穢れちゃいねえんだ。」
 なびきを見送ると乱馬は拳を見ながら言った。酷く薄汚れた拳に見えた。



 夕べの記憶が蘇る。
 東風の接骨院を後にして、雨上がりの町をぼんやりと歩いていた時に、たまたま出くわした奴ら。
 乱馬を少女と思って声をかけてきたのだ。勿論無視を決め込むと、にやついた奴が一言発した。
『夕方のあばずれ女にはやっている途中で逃げられたからな。いいところだったのによ。もう少しだったのによ。丁度いいや。さっき最後までやりそこなった分、この子でってことで…。』
『そうだな。夕方の女、泣き叫びながらも俺の股間を蹴りやがった。縛っておけばよかったな。』
『同じ鉄はふまねえ。こいつはふん縛って、回そうぜ…。さっきの子はリーダーだけが良い思いして終ったからなあ。』
『そう良い思いもしてねえぞ。あのショートカット女、処女だったみたいだし。』
『処女かあ…。いい響きだぜ。こいつも処女だったら今度は俺がご開帳させてやる。』
 乱馬を取り囲みながらにやついてそんな会話を投げてきた。
 きっと睨み返すと、
『怯えねえんだな。さっきの子と同じくらい気が強そうだぜ…。へへ。さっきの子はおとなしくさせるのにかなりてこずったけどよ。でも、生憎だな。俺は武道の有段者なんだ。押さえ技は得意だぜ。』
 そう言って襲い掛かってきた。きっとあかねは奴に取り押さえられたのだ。
 乱馬はそう思うと怒りが頂点に達した。
『なあ、ねえちゃん。たっぷり朝まで可愛がってやるからよ…。大人しくしなよ。』
 そう言って囲んだ男たち。乱馬の服に手をかけようとした時、炸裂した右アッパー。
『こいつっ!抵抗しやがる気か。往生際が悪い…。』
 乱馬のパンチを食らって唇を切った金髪が叫んだ。が、次の瞬間、彼の蹴りがそいつの背中を打ち抜いていた。
 どおっと倒れこむ音。
 そのとき、奴らは始めて、相手にしてはならない闘士を敵に回したことに気がついた。
 乱馬は一人の武道家に立ち戻っていた。ひ弱そうな少女という見てくれとは違う、激しい闘気の塊。燃える闘志は立ちはだかるものを容赦なく打ち据える。正義の鉄拳ではなく、怒りの鉄槌。
『やめてくれっ!俺たちが悪かった。』
『助けてくれーっ!!』
 闇夜に木魂する愚連隊どもの怒号と悲鳴。
『俺の大切なあかねの痛みを、思い知れっ!』
 全ての男たちが、地面に這ったとき、乱馬はぼそっとそう吐き出した。
 だが、胸は一向に晴れなかった。
 それどころか、行き場のない怒りが同時にこみ上げてくる。
(こんな奴らにあかねが…。くそうっ!何でだっ!何でだよ…。)

 騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた警官が来る前に、乱馬はその場から姿を消した。集まってきた野次馬たちの間を抜けて、飄々と歩いて去ったのだ。まさか、目の前の惨状をこの少女一人がやったとは、その場に集まってきた人々の誰もが思わず、左程気にも留めないで乱馬を流し見た。
 そして、救急車で搬送されてゆく男たちを遥か遠くで見送り、また、東風の接骨院へと足を向けた。
 特に何をしにいくわけでもなく。ただ、夜が明けるまで、あかねの傍に戻りたかった。勿論、彼女が眠る病室には足を踏み入れず、隣りの病室から、気配だけを伺うというそれだけのことであった。例え息が掛かるほど傍に居なくても、同じ空気を吸っていたいと切に思った。傍でつきっきりで眠っている己の母親。そしてあかね。
 朝日が上りはじめた頃、彼女たちが目を覚ます前に、そっと抜け出して天道家へと帰ってきたのである。


「急所だけは外したよ。外しちまった…。畜生っ!」
 まだ血生臭い匂いが残っていそうな拳を握り締めて力を篭めた。
 気持ちは沈んでいった。
 相手をのしあげたところで、現状は何も変わらない。傷ついたあかねを癒す方法がわからない。どう声を掛けて良いのやらもわからないままなのである。
 あかねと会うのが怖かった。
 なびきが気を回してくれたように、学校は今日はサボろうと思った。流石に、こんな状態で登校する気にはなれない。シャワーを浴びて男に戻ったところで、二階にある自室へと上がっていった。

 と、早乙女夫婦の寝屋になっている部屋の襖の向こうで父の玄馬が念入りに荷造りをしていた。
「親父…。」
 乱馬は怪訝そうに父親を見た。
「おう…。やっと戻ってきたか。」
 そう言うと玄馬はたっと彼にリュックサックを投げた。
「何のつもりだ?」
 乱馬は玄馬を見返した。
「さっさと支度しろ。暫く修業へ行くぞ。」
 唐突な言葉であった。
「修業だあ?こんなときにか?」
 乱馬は父親の心を図りかねてそう切り返した。
「こんな時だからこそ、ワシらはこの家に居てはいかんのだ。わからんのか!」
 玄馬はもっともらしい口調でそう吐き捨てた。
 あかねに振って湧いた災難は、決して己ら親子と無縁ではないことを玄馬はわかっていた。あかねの許婚は乱馬ということになっている。当人同士は目に見えるところでは反発しあっていつも喧嘩を繰り返している。だが、この非常事態だ。暫くこの家から遠ざかったほうが良いと、玄馬なりに判断したのであろう。ごく普通の選択であった。
 乱馬は一瞬立ち止まって、投げられたリュックを見た。
「何をぼさっとしておるっ!さっさとせんか!」
 動こうとしない息子に玄馬は恫喝の言葉を投げた。

「いいえ、それはいけません!」
 
 と、後ろで声がした。決して大きな声ではなかったが、厳しい声色だった。
 振り返るとのどかがきりっと立っていた。いつ接骨院から帰ってきたのだろうか。

「いけないとは、如何に?」
 玄馬が胡散臭そうな目を差し向けた。
「乱馬はあかねちゃんの許婚でしょう。あなたが凛としていなければ、納まる鞘も納まらなくなります。」
「しかしだな、この場合、ワシら親子がここに居ては、天道くんたちも変な気を遣うであろうが。常識だぞ?」
 凡そ一般常識から程遠い、玄馬がそんなことを口にした。普段なら、笑い飛ばすか蹴り飛ばすかしてして「ふざけんなっ!」と一喝する乱馬だが、黙って両親のやり取りを聞いていた。
「いいえ。それは違います。乱馬、あかねちゃんと添い遂げる覚悟があるのなら、これまでどおりに立ち居振舞いなさい。厳しいかもしれないけれど、逃げてはダメ。男の責任を果たしなさい。」

 乱馬はじっと母親の意見を聴いていた。
 そして、一言放った。
「わかった。」
 と。
 玄馬はのどかの剣幕に言い返す術も失った。
「いいのか?乱馬。辛いぞ、苦しいぞ。」
「元から覚悟はできている。あいつだけを苦しませたりはしねえ…。俺はあいつの傍に居る。喩えあいつがそれを望まなくても。」
 乱馬はそう言うと、部屋を出て行った。
 あかねが乱馬の存在を望まなくても、己にはあかねが必要だ。それは痛いほど分かっている。
 守れなかったあかねへの贖罪。そんなチンケな理由でもない。確かにあるのはあかねへの強い想いである。傷つけられた己の半身を快気させるため、喩え棘の道でも歩んでいこうとそのとき彼は強く決心した。
 
 そんな息子の背中をのどかは黙って見送った。

(そう…。今はまだあかねちゃんはあなたの顔を見たくないほど、乱れているけれど、あかねちゃんに一番必要なのは、乱馬、あなたなの…。あなたの愛情の真価が問われる。辛いけれど、逃げてはダメなの。頑張りなさい。乱馬。自分を、いえ、あかねちゃんを信じて。)
 この母は強かった。
 伊達に数十年、修業という荒波へ放り投げたまま、夫と我が子の帰りを待ち侘びてはいなかったようだ。
「さて、お洗濯してしまいましょうかね。あなた。ほら、都合が悪くなるとすぐパンダになるその癖、そろそろおなおしになった方が好いわね。」
 何時の間にか玄馬は、傍の花瓶にあった水を頭から被っていた。傍を早雲が物凄い形相をして覗き込んでいたからだ。あかねを傷つけられて、平常心を一番失っているのは、父親の早雲その人かもしれなかった。
「早乙女くん…。逃げようったって逃がさないんだからね。乱馬君がああ言ってくれたんだ。君だけ修業へ出かけようなんて魂胆では、ないだろうね?」
 でんでろでんと妖怪化した顔つきで、パンダになった玄馬を恨めしそうに見た。
 玄馬パンダはぶんぶんと首を横に振りながら否定に走った。
 
「乱馬君、あかねを宜しく頼む。」

 早雲は立ち去る無差別格闘流の跡取りの背中にそう言葉をかけていた。






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