◇まほろば 8

第八話 不穏な気配


十六、


 黒い霧がどこかへ去ってしまうと、シンと静まり返った天道家の二階。
 かすみやなびきの部屋からは、何の反応も無い。あれだけ大声を出したのだから、一階に寝ている、早雲や玄馬にも聞えていて、良さそうなものなのに、一向に誰も様子を見に来なかった。
 あかねは「乱子」の腕の中で、気を失っている。
 
「新月の日に、迎えに来るってか…。」
 闇の声が残した言葉を反芻しながら、乱馬はPちゃんへと声をかけた。
「どう思う?もう今夜はあいつは、現れねえかな?」
「プピッ!」
 コクンコクンと二つ、頷いた。すぐにでも、湯を浴びて人間に戻りたいが、あかねが傍にいる以上、それは無理な話だ。良牙もその辺りは心得ていた。
「そーか、おめーもそう思うか…。奴の気配は消えたからな…。」
 じっと、闇に向かって神経を研ぎ澄ませながら、乱馬は頷いた。
「ま、もし来たら、俺たち二人で応じれば良いし…。寝ようぜ。体力保持も大切だからな。」
 そのまま、あかねを隣の蒲団へと寝かせる。
 穏やかな寝顔…とは言えそうになかった。彼女の顔から笑顔は消えている。眉間にしわを寄せ、心なしか、苦しげに見えた。もっとも、暗がりの中なので、そう、見えただけかもしれない。
「新月までどのくらい日数があるかだな…。夜が明けたら、調べなくちゃいけねーな…。」
 乱馬はそう言うと、ゴロンと横になった。
 普段、あまり、天体などには興味は無い。従って、月齢が今、どのくらいのところにあるかなど、予測だにできない。
 全身を研ぎ澄ませて、辺りの気配を探ったが、特に、異変は感じなかった。
 天道家の面々はみな、眠りに就いている。
 
(あかねは俺が守る…。絶対に…。)
 そう、心に強く誓うと、大きく息を吸い込んだ。
 それから、ゆっくりと吐き出しながら、瞳を閉じる。やがて、眠りの淵へと、吸い込まれて行った。

 朝、夜が明けると、あかねが先に起き出した。

「おはよう…乱子ちゃん。」
 あかねは起き上がると、乱子へとそう声をかけた。輝くような笑顔には、一縷(いちる)の曇った表情が無い。
「もう起きたのか?」
 寝ボケ眼で恨めしそうに、あかねを見上げる。時計の針はまだ、七時前。今日は学校へ行く必要がないから、もっと眠れるにも拘らず、起こされてしまった。
 普段のあかねになら、文句の一つも吐き付ける乱馬だが、記憶を失った彼女にきつくあたるのは躊躇(ためら)われた。彼女が起きたいのであれば、付き合うしかない。
 ふわああっと大きく伸び上がると、Pちゃんも一緒に欠伸(あくび)をした。
 Pちゃんも、睡眠時間が足りているとは言えない様子だ。
「おめー、元気だな…。」
 まだ開き切らぬ目をこすりながら、あかねへと声をかけた。
「乱子ちゃんって武道家だって言う割には、朝寝坊なのね。」
 てきぱきと蒲団をあげながら、あかねが明るく笑った。
「ゆうべ、あんなことがあったからな…。」
「あんなこと?」
 キョトンとあかねが問い質して来た。
 へっとなって、乱馬はあかねの顔を覗きこんだ。

 …もしかして…こいつ、覚えてねえ?…

 そう、言葉を飲み込む。

「何か、あったの?」
 あかねが逆に問いかけてきた。

「あ…いや…あの…。」
 咄嗟にどう答えてよいやら、乱馬は戸惑った。
「夜中、バタバタと外がうるさかったからよー…。あんまりぐっすり眠れなかったんだ…俺…。」
 ボリボリとわざとらしく頭をかきながら、言い訳がましく吐き捨てる。もちろん、口から出まかせだ。
「ふーん…あたしは気にならなかったけど…。Pちゃんはどーだったの?」
 わっしとPちゃんの身体をつかんで問いかける。
「プープピ…。」
 Pちゃんも寝ボケ眼だ。まだ、彼岸へと意識が入り込んで眠りこんでいる。
「P介は動物だからなあ…。気になったのかもしんねーぞ…。」
「ふーん…。そーなの?」
 コクコクと縦に顔を揺らせて、バタンとそのまま眠りの淵へとまた降りて行くPちゃん、もとい、良牙だった。
「乱子ちゃんも、もう少し眠る?」
「あ…いや、もう起きるぜ。目が冴えちまった。」
 そう言って、やおら、起き上がった。
 あかねは、一向に迷う素振りも見せず、そのまま、パジャマを脱ぎにかかる。慌てて、乱馬は彼女から、目を背けた。女同士とはいえ、元は健康な男児だ。あかねの着換えをまともに、見ていられる訳がない。
(たく…こいつは…。恥ずかしいとか思わねえーのかな…。)
 女同士の気安さからか、何ら意識していないあかねが、少し羨ましくさえ思えた。
 乱馬も、そそくさと着換えを手に取ると、後ろ向きのまま、ざっと着替える。

「あ…おれ、こいつの散歩がてら、ロードワークに行ってくらあ…。」
 着換え終えると、乱馬は、ひょいっとPちゃんのバンダナを掴みあげて、腕に抱え込んだ。
「Pちゃん、まだ、眠たそうよ。」
 あかねが後ろから覗きこむのを制しながら、
「こいつも、ゆうべの騒がしさで、たまってるだろーから、ちょっと発散させてきてやるよ…。っと…おめーは、付いて来なくてもいーからな…。」
 そう言うと、乱馬はダッと部屋から駈け出した。

 少し、Pちゃん、いや、良牙とも、話しておく必要がある。そう思ったのだ。
 乱馬は台所へ入ると、いつも持ち歩いているステンレスボトルに、お湯を貰って、そのまま門外へ出た。
 朝は、まだ、冷え込む。桜の季節の前だ。白い息を吐くまではいかないものの、朝露で路面がぬれていた。
 まだ、終業式は終わっていなかったが、もう、休みに入ったようなものだ。故に、高校生たちの姿は無い。運動部ですら、今は休みだ。後は、明日、終業式に成績表を貰いに行くだけだ。
 小学生と中学生が登校するための、集団を作って、歩いていた。
 その脇を、すり抜けて駆けながら、天道家から遠ざかる。

「この辺でいいだろー。」
 公園に入ると、乱馬は持っていたポットを、Pちゃんへと浴びせかけた。
 もわもわと煙の向こう側から、良牙が現れる。
「そら良牙、服、着ろよ!」
 乱馬はそう言って、紙袋に持って来た良牙の服を手渡す。慣れた物で、良牙は湯けむりが消えるまでに、さっさと衣服を着込んだ。
「ぶはっ!やっと人間に戻れたぜ。」
 湯けむりをあげながら、良牙が溜息を吐き付けた。
「ああ…。」
「乱馬、おまえは男に戻らなくて良いのか?」
「また、水をかぶるのも面倒だし、このままでいいや。」
「あかねさんが来たらどうする?」
「多分、来ねーよ…。武道やってたことを、すっかり忘れてやがるしな…。それより…。おまえの意見も、ちゃんと、聞いておこうと思ってよー。」
「嫌に、低姿勢じゃねーか、おまえらしくねー。」
 良牙がじっと睨み返して来た。
「うるせーよ…。あんなことがあったんだ。」
 ムスッとした表情を良牙へと返した。
「で…良牙。率直に聞くが…おまえはどう思う?」
「あかねさんの記憶喪失のことか?」
「いや、昨日の声のことだ…。」
「あの声か…。そうだな…。どこのどいつかわからんが、ふざけた野郎だぜ。」
「ふざけた野郎ねえ…。俺には、大真面目に聞こえたが…。」
「いや、ふざけた茶番だぜ…。多分、おまえには聞こえなかったかもしれねーが。」
 そう言って、意味深に、良牙は乱馬を見返した。その態度が少し、琴線に引っ掛かったのだろう。乱馬はムッとして良牙を見返した。
「聞えなかったって?何が…だ?何か、おめーにしか分かんねー言葉をはきつけてやがったのか?あいつ…。」
「そうやって、俺に問い質して来るところを見たら、やっぱ、聞こえてねえな。」
 少し優越感に浸ったように、良牙がニッと笑った。
「だから、何か、特別なことを言ってやがったのか?もったいぶってねーで説明しろっ!」
 だんだん。語気が荒くなる。
「恐らく…俺だけじゃなく、おまえの親父さんにも聞えてたんじゃねーのかな。」
 そう言いながら、良牙はキッと真横へと視線を流した。
「えっ?」
 と思って、良牙が流した視線の方へと向き直る。と、パンダがじっとこちらを見詰めて居るのが目に入った。そう、乱馬の父、玄馬である。
 どうやら、天道家から、こっそりと、二人の後を付いて来ていたらしい。
 ニッと笑ってパンダがピースサインをした。

「ばふぉ…!」『確かに、ワシも変な声を聞いたぞ!』
 パシッと看板を上にあげた。

「親父…てめー…ゆうべ、起きてやがったのか?」
 呆れ顔をしながら、乱馬が後ろを振り返る。
『然り!』
 玄馬は看板を上げた。
「ええいっ!まどろっこしー!人間に戻りやがれ!」
 乱馬はステンレスボトルに残っていた湯を、パンダの頭から、ぶっかけた。

「あちっ!いきなり、熱いじゃないか、このバカ息子!」
 玄馬がばっと現れた。もとい、人間に戻る気があったのだろう。最初から道着を羽織っていた。いくらなんでも、裸のまま、公園に突っ立っていれば、ただの「変質者」に成り下がってしまう。公序良俗に反するのは明らかなので、そのまま豚箱へ放り込まれることもあり得る訳で…。故に、天道家から外に出るときは、道着を身にまとっていることが増えた玄馬であった。

「で?てめーら二人に聞えて、俺に聞えなかったことってーのを、説明してもらおーか?」
 乱馬は良牙を玄馬を見比べながら、腕を組んだ。己にだけ聞こえていないのが、少し不満げな様子だった。
「もとい、そのつもりじゃよ…。」
 おっほんと、思わせぶりに玄馬が咳払いをした。
「っていうことは、やっぱり、おじさんにも聞えたんだな?」
 良牙が問い質す。
「ああ…。奴め、何やら、あかね君に向かって、暗示めいた言葉をたたみかけておったよな?」
「奴…っていうより…俺には別の声に聞こえたが…。」
「かもしれぬな…。」
「女の声に聞こえなかったか?俺の耳には、そう聞こえたが…。」
「確かに…。」
 玄馬と良牙は、二人で、頷き合っていた。
 その横で、乱馬だけが、不機嫌極まりない顔になる。そう、彼には、良牙と父が何を言っているのか、さっぱり訳がわからなかったからだ。

「いーから、とっとと、説明しやがれーっ!」

 短気になって、つい、玄馬と良牙、両人の胸倉を、両手でつかみかかっていた。

「要するにあれじゃよ!あの、間際…。男の声とは別に、女の声が、響いておったんじゃよ!」
「女の声だあ?」

 もちろん、乱馬には聞こえなかった。聞えてきたのは、あの、「バラの君に似た男」の声だけだった。女の声が響いていたことなど、気付かなかった。

「ああ…。『天道あかね…あかね…そなたが欲しい…。そなたの無垢な肉体をわらわに捧げよ…。』そーんな感じの言葉を、延々と、ぼそぼそやっていたようじゃったぞ…。なあ、良牙君よ。」
「確かに、俺の耳にも聞えたぜ。おじさんが言ってるような言葉を、ずっと闇の中から囁いていたな。」

「何で、親父や良牙に聞こえて、俺には聞えなかったんだ?」」
 ガッと掴みかかる乱馬を、良牙も玄馬も跳ねのけながら言った。
「それは、あれじゃろ?ワシも良牙君も、動物に変身しとったからじゃないのかのう…。」
「あん?」
「動物は、人間と違い、嗅覚や聴覚が優れておろう?」
 玄馬の言葉を受けて、良牙も頷いた。
「恐らく、そう考えるのが妥当だろーぜ。動物に変化しているときにしか、聞えねえ音域ってーのがあってしかりだろ?って言うか、現にあるぜ。俺には…。」
 良牙が言った。
「ってことは、何か?人間の俺の耳には聞こえなかったってーのか?」
「恐らくな…。」
「じゃろーな…。」
 玄馬も良牙も、云々と頷いた。

「いや…もしかすると…。あかねさんにも聞えてたかもしれねーけどな。」
 ぼそっと良牙が言い放った。
「え?」
「その女の声に、呼応するように…。あかねさんは頭を抱えて倒れ込んだからな…。」
 良牙の顔が険しくなった。
「どういう意味だ?」
 乱馬はすぐさま、良牙へと問い質していた。
「黒い煙が圧し掛かって来た時、『さあ、寄こせ…おまえの余計なものを…全て…。そして、我が傀儡になれ…天道あかね…。』…そんな声に、『嫌よ、嫌いや』って抵抗していたからな…あかねさんは。」

 むろん、乱馬には初耳の言葉だった。衝撃的な言葉だった。

「親父にも、あかねの声が聞えたのか?」
 と、問い質すのがやっとだった。

「いんや…。ワシは一階の蒲団の中に居たからのう…。あかね君の言葉はさすがに、聞き取れんかったよ。恐らく、あかね君に吐きつけていた女性の声は、根本的に質が違っていたというのかな…。あれは、耳についたぞ!はっきりとな!」

「つーか…。てめー…。まさかと思うが…。蒲団被って、震えてやがったな?化け物が来たと思って…。」
 ジト目で父親をギロリと見返した。
「わははは…。当り前じゃ…。何か、得体の知れんものが、ゆらゆらと暗がりの中で蠢いていたんじゃから…。驚くわいっ!フツーは!」
「図星か!情けねー!それで良く、武道家が勤まるな…。」
 はああっと乱馬から特大の溜息が漏れた。
「仕方なかろー?あの気配は、尋常ではなかったぞ…。こう、天道家全体を覆い尽くすような、嫌な気じゃったからな…。」

 恐らく玄馬は、蒲団を頭からかぶり、ガタガタと震え、とうてい、化け物の正体を明かそうなどとは、考え及ばなかったに違いあるまい。そのまま、気絶したか、それとも、素知らぬふりを続けたか。いずれにせよ、情けない行動であることは、否めまい。

「良牙や親父の言うことが、本当だとしたら…。やばいな…。」
 乱馬は腕を組んだ。ふくよかな胸が、手からはみ出して、ぷるるんと揺れる。今は、女の形をしているから、仕方がない。
「ああ…。あの女の声…明らかにあかねさんを操っていたんじゃねーかな。」
 良牙も頷く。恐らく、あかねが気を失ったのは、その女の声に反応したからではないかと、察知できた。女性の声は聞えなかったが、倒れる刹那、あかねは『いや…やめて…。』と苦しげに呟いていたのを思い出したのだ。
 良牙の言う、女の声に反応していたとするならば…あかねは得体の知れぬ敵の攻撃を受けていたことになる。

「なあ…乱馬。あかねさんの記憶喪失も…或いは…もしかすると…。」
 そう言いかけた良牙の言を受けて、玄馬が吐き出した。
「あの声の主に、操られた結果かもしれぬな…。」

 乱馬はその問いかけには、口をつぐんだ。
 今は、まだ、そう言いきるには、判断材料が少なすぎた。が、己の優柔不断が引き金になっていることは、どう足掻いても、完全否定できないような気がしたからだ。

「いずれにしても…次の新月…。あいつは、あかねを迎えに来ると言っていた…。それだけは、阻止しねーと…。」
 乱馬の瞳に、闘志の炎が灯った。女の肉体からは程遠い、激しい揺らめきだった。



十七、


 良牙は公園の水飲み場で、水を浴びて、Pちゃんへと姿をやつし、女乱馬と一緒に、天道家へと戻った。
 もちろん、玄馬も一緒に、パンダへと変化する。
 道行く人は、みな、パンダをひきつれ、黒豚を抱っこして歩く女乱馬を見て、何事かと、後ずさる。考えてみれば、東京の住宅街のど真ん中を、パンダが二足歩行で平然と歩いているのである。引かない方がおかしかろう。
 が、良く考えてみると、パンダは二足歩行はしない。もちろん、することもあろうが、基本は四つ足歩行だ。その時点で、ぬいぐるみか何かを被った人間だろうと、推測できる。時折、通報する人も居るようだが、この辺りの交番のお巡りさんも心得たもので、天道家の住人の一人がパンダの着ぐるみを愛用していると、解釈していた。もちろん、人間とパンダを行き来する体質など、ふざけ過ぎているので、それを理解しているのは、ごく限られた人間だけである。
 パンダがのっしのっしと道を行く姿は、天道家の周りの住民からしてみれば、ごくありふれた「日常風景」と化していたのである。

「ただいまあー!」
 門戸を入って、邸内が何となくざわついていることに気がついた。
 誰も、「おかえりなさい」の言葉を返さない。いつもなら、かすみ辺りがおっとりと、声をかけてきそうなものだが、それもない。
 ただ、母屋の縁側辺りで、バタバタと人影が動き回って居るのが見えた。

「どーしたんだ?皆して…。」
 玄関を入らずに、そのまま庭に回った乱馬は、騒然としている家族たちを見て、声をかけた。

「おお…乱馬君…。良いところに帰って来てくれた。」
 早雲がひょこっと縁側の内側から声をかけてきた。
「何かあったのか?」
 乱馬が早雲へと声をかけると、なびきが、すっと指をさした。
「あれ…あれを見てよ…。」
 茶の間の奥の柱へと指を指し示した。
 怪訝な顔をして、なびきの指さす方を眺めて、驚いた。
 柱時計の少し下を、矢が一本、突き刺さっていたからだ。もちろん、おもちゃでは無い。神社などで売られているような立派な矢が、柱を見事に突き刺していた。

「誰だ?こんな性質の悪いイタズラをするやつは…。九能先輩か?」

「いや、僕ではないぞ、おさげの女。」
 ひょいっと九能が顔をもたげた。

「でえええっ!」
 唐突の九能の出現に、思わず、飛び退く。

「あー、びっくりした…。」
 そう言いながら、胸を撫でる。

「で?てめーは、うちで何してるんだ?」
 ジト目で九能を見返すと、
「あかね君が退院したと聞き及んでな…。様子を見に来たのだ…。おさげの女!」
 すりすりと、顔を乱馬の胸にくっつけながら、九能が吐き出す。
「っつー割には、俺の胸にすがってるように見えるんだが…。」
「気のせいだ!おさげの女。」
 一向に、胸から顔を離す気配は無い。
「ええいっ!いい加減にしやがれー!」
 思わず、ポカリと拳骨で殴りかかる。
「痛いではないか…。おさげの女…。」
「てめーは…。朝っぱらから…。」
 そう言いつつ、はああっと気焔を吐きだして、力を抜く。これ以上、九能先輩に絡(から)んでいては、肝心、要なことに辿りつけない…そう判断したからだ。
「で?あれが九能先輩の仕業じゃないとしたら…一体誰の仕業(しわざ)なんでい?」
 なびきへと言葉を手向ける。恐らく、一番、この場にあって冷静なのは、なびきかかすみだ。かすみも肝が据わっているが、意味不明な言葉も発することが多いので、この長けた天道姉妹の真ん中の娘へと、質問を投げかけるのが一番無難だと、判断したのだ。何より、この場にかすみの姿は無い。

「あたしも、よくわかんないんだけど…。朝ごはんを並べていたら…突然に、あれが飛んで来て、あそこに刺さったのよ。で…はいこれ…。」
 そう言って、丁寧に折られた紙を乱馬へと差し出した。
「何だ?」
「あの矢に結ばれていたものよ…。読んでみたら…。」
 なびきに言われるまでも無く、そうするつもりで、がさがさっと文を開いた。
 Pちゃんも乱馬の肩越しに、はっしと覗き込む。

『次の朔、三月二十一日の亥の刻、迦具夜霊女をお迎えに上がります。夜食国月読霊子』

 文面には、墨で丁寧にそう書かれていた。


「難しくて読めねえな…。」
 乱馬はポツンと吐き出した。
 見たことも無い漢字がつらつらと書き連ねてあったからだ。一応、楷書(かいしょ)だったが、漢字が意味不明で読めない。

「たく…。情けないのー!日本人のクセにーっ!喝っ!」
 ガサッと音がして、天井から人影が落ちて来た。と思った途端、そいつは、にょっと乱馬の胸へと割り込むように入り込んだ。

「でええええっ!何しやがんでーっ!」

 いきなり現れた人影を抱えて、己の身体から引き離そうとかかる。だが、敵もさる者、わしっと乱馬の胸倉を抱え込んだまま、動かない。それどころか、ちゃっかりと赤チャイナのフックを外して、豊満ならんまちゃんの胸をさらけ出す始末。

「こらー!じじいっ!どさくさにまぎれて、何やってやがるーっ!」
 思わず顔を真っ赤に怒鳴り散らす。

「よー、久しぶりじゃのーらんまちゃん!」
 ぬぼっと現れたのは、八宝斉の爺さん。

「お師匠様…これはこれは…。」
 早雲が後ろから覗きこんだ。
「よー、早雲!玄馬!元気にしとったかー!」
 乱馬の女体にしがみついたまま、超ご機嫌な八宝斉。
「いい加減にしやがれっ!エロじじいっ!」
 わしっと頭を掴んで、己の胸から引き剥がす。が、爺さんを引き離した後には、ぷるるんと乱馬の胸がチャイナ服から覗いている。
『いいから、胸しまって!』
 あかねが居たら、即座に指摘されたろうが、今は姿が無い。恐らく、矢を見て失神でもしたのだろう。かすみやのどかが居ないところを見ると、彼女に付き添っているに違いない。

「ちょっと…乱馬君…。胸しまった方が良いんじゃないの?」
 あかねの代わりになびきが、横から口を挟んで来た。
「あん?」
「だから胸…。皆の目が固まってるんだけど…。老婆心ながら忠告しておくわよ。」
 と、あっさりと言い放つ。

「でえっ!」
 辺りを見回して、今度は乱馬が固まった。

 早雲に玄馬、それから、Pちゃんに九能…それぞれの瞳が、乱馬の胸元へと、奔放に注がれている。みな、瞬きもせずに、乱馬の胸をガン見していた。

「てめーら!タダ見すんじゃねーっ!」
 さすがに、気不味いと思ったのだろう。乱馬は、じいさんを床に投げつけると、必死でチャイナ服のフックを止めた。

「久々に、いいものを見せて貰ったのー。」
 爺さんは一人、上機嫌だ。

「たく…油断も隙もねえ…。で?じじいは、いつ戻って来たんだ?」
「さっきじゃー。」
 床から這い上がると、八宝斉はちょこんと乱馬の頭上に座った。
「どこに座ってやがる…。」
 乱馬は、また、拳骨を握りしめようとしたが、それを脇から早雲が止めた。
「乱馬君…ここは堪(こら)えて…。じゃないと、話が前に進まないよ。」
 真顔で早雲に詰め寄られると、仕方がないかと、矛先を収めるしかなかった。
「何ぞ、不穏な空気を感じたでな…。戻ってみれば、案の定じゃったわい…。」
 爺さんは真顔で、そんな言葉を吐き付けた。

「あん?」
 乱馬が怪訝な顔を手向ける。
 いきなり何を言い出す…とでも言いたげだった。

「いやのう…。昨晩じゃったかな…。ワシはいつものとおり、夜の修行に励んでおったのじゃが…。」
「夜の修行ねえ…。大方、下着ドロボーでもやってたんじゃねーのか?」
 乱馬は頭の上に向かって吐き付ける。
「失礼なっ!下着を抱えて夜を駆け抜けるのは、立派な修行じゃぞ!」
「どこが修行でー!単なるドロボーじゃねーか、そいつはっ!」
 爺さんはキセルでポカンと、終えを荒げた乱馬の頭を叩いた。
「痛ってー!何しやがる!じじいっ!」
「いーから、乱馬君はちょっと黙って!」
 身構えかけた乱馬を、なびきが横から抑えにかかる。
「わかったよ…。百歩譲って、爺さんが修行していたことにして…だ。で?それからどーした?」
 ヤケクソになって、頭上のじじいに問いかける。
「闇夜に不穏な空気が、辺りに充満したんじゃよ。ほんの数分ではあったがのー。」
「不穏な空気?」
「ああ…。まぎれもなくそれは、空間の割れ目から流れ込んできておった。」
「空間の割れ目だあ?」
 素っ頓狂な声を上げた乱馬に、爺さんは言った。
「おぬしら若輩者にはわからんだろーが…。ワシらくらい悠久の年月を重ねて生きておるとな、普通では感じられん気配を読めるようになるんじゃよ。のう…。コロンちゃんよ。」

「あーそうじゃな…ハッピーよ。」

 えっと思って後ろを振り返ると、コロンばあさんが杖を片手に、こちらを向いていた。

「ちぇっ!役者が揃いやがったか…。気に食わねえな…。」
 乱馬はぺっと吐き捨てた。

 どこでどう嗅ぎつけたのか、八宝斉のみならず、コロン婆さんまで天道家に現れた。狡猾な老体二人がペアで現れたのだ。乱馬が思い切り、顔をしかめたのも、仕方のない話である。
「多分…その矢と同じ流れの気じゃったな…。のう、コロンちゃんや。」
「ああ…そうじゃな。」
 コロン婆さんは、半開きになった瞳を、サッと矢へと投げかけた。

「感じるか?P介。」
「ぷぎぎ…。」
 Pちゃんは首を横に振った。
「親父は?」
「ぱふぉふぉ」(わからん!)
 動物鼻の二人には、嗅ぎとれなかったようだ。だが、この二人の老人は、なみなみならぬ気配をこの矢から感じるという。しかも、昨晩感じた、空間の歪みから流れ出したものと同じだと言い放つ。
(たいした、自信だな…二人とも…。)
 じっと八宝斉を見やると、今度は乱馬が持っていた矢文を、八宝斉が読み始めた。

「どら…。その文…貸してみろ…。貴様らには読めんじゃろーから、ワシが読んでやる。」
「読めるのか?じじいに?」
 乱馬は疑いの瞳を持って、八宝斉を見上げた。
「貴様…師匠を信用しとらんな?」
「ああ…。エロ師匠だかんな…」
 そう言いきったところで、また、キセルでポカンとやられた。
「師匠に対して失敬なっ!」
「ててて…。いてえな…。そんなに言うなら読んでみやがれ!エロじじいっ!」
 頭を抱えながら、乱馬が吐き付ける。

 と、八宝斉が「真面目」に文面をさらりと読んだ。

「次の朔(さく)、三月二十一日の亥(い)の刻(こく)、迦具夜霊女「かぐやひめ」をお迎えに上がります。夜食国月夜霊子「よるのおすくにのつくよひこ」…もしくは「つきよひこ」かもしれぬな。」

「お見事です!お師匠様!」
「ぱふぉ!」
 父親たち二人が、手をぱちぱち叩いた。
「どーじゃ、ちゃんと読めたろうが!」
 えっへんと爺さんもしたり顔だ。

「何か、訳の分かんねー文面だけど…かぐやひめって言ってたな……あの伝説上の姫様のことか?」
 思わず、声のトーンが上がる。

「恐らくそうじゃろう…。で、この場合、多分、あかねちゃんを示しておるのではないかのう…。」
「何で、そう言い切れる?じじい…。」
 次の瞬間、乱馬は頭の上に向かって、そう吐き出していた。
「だって、あかねちゃんは、この矢が突き刺さった途端、倒れたんじゃろ?」

「そーなのか?おじさんっ!」
 その場に居なかった乱馬は、咄嗟に早雲へと問いかけていた。

「お師匠様のおっしゃる通り…。この矢があそこに突き刺さるや否や、あかねは倒れた…。」
「おい…。初めて聞くぜ!」
「当り前じゃ、おぬし、居らんかったろう?」
「じじいは居たのか?」
「いや、お師匠様も、おられなかったよ。」
 早雲が続けざまに言いきった。
「見て来たようなウソを…吐く気か?じじいは。」
 ジト目で爺さんを見上げると、大きな瞳をうるうるさせながら、八宝斉は叫んだ。
「ワシもおったもーん!帰って来て、ずっと、ここの天井裏で寝てたもーん!夜中駆けずりまわって下着を集めて回ってたから、疲れきって寝てたんじゃもーん!だから、矢が飛んできて、あかねちゃんが倒れたところを、しかと見たもーん!」

「ええいっ!威張れたことかっ!やっぱ、修行じゃなくて下着泥やってた訳じゃねーか!このクソじじいっ!」
 頭の上に手を伸ばして、爺さんを引きずり下ろしながら、乱馬が吐き出す。

「まあまあまあ…。お師匠様のことはそのくらいにして…。乱馬君…。ことは、重要な局面を迎えていることだけは、確かなのではないのかね?」
 冷静な言葉を早雲が言い放った。

「あかねがかぐや姫…そして、それを連れに来るのが…月夜霊子…。それが引っかかるわね。」
 なびきが言った。
「どう、ひっかかるんでい?」
「かぐや姫の物語は、あんたも知ってるわね?」
「…うーん…あんまり自信はねーが…。竹から生まれたかぐや姫が成長して、育ての爺さん婆さんの抵抗も空しく、月に帰ちゃったって話だろ?」
「まあ。端的に言うとそうなるね…。もっとも、その間に、婿取りの話やら御門(みかど)の話がらが入ってきて、物語のいできはじめの親とか評されているがね…。」
「この文面に絡まっている名前は、竹取物語だけではないぞ!」
 乱馬に首根っこを掴まれた八宝斉の爺さんが、吐き付けた。
「あん?」
「ここに夜食国(よるのおすくに)…とあろう?」
 その文字を指差す。
「ああ…。この国がどーした?」
「古事記じゃよ…。」
「あん?」
「だから、古事記に表記があるんじゃよ「夜食国」は!黄泉国(よみのくに)から帰った伊耶那岐(いざなぎ)命が、阿波岐原(あわきはら)で禊(みそぎ)をしたときに、生まれた三貴神(さんきしん)のうち、月読命が治めよと言い渡された国が、夜食国なんじゃよ。」

「三貴神?何だそれ…。」
 良く飲み込めなかったらしく、乱馬が問いかけた。
「「天照(アマテラス)、月読(ツクヨミ)、須佐之男(スサノオ)の三柱の神々のことよ。これくらい高校生なら常識よ、乱馬君。」
 なびきはらんまを小馬鹿にしたような表情で答えた。
「知らねえーつーのっ!神話なんかに、興味はねーよ!」
 と吐き捨てる。

 三貴神。つまり、天照、月読、そして、須佐之男。その三柱の神を指し示す。天照は高天原、月読は夜食国、そして、須佐之男は海原を知らせ(=おさめよ)と伊耶那岐(イザナギ)が述べたことが、『古事記』には書き示されている。その解釈は、定まってはおらず、未だ、諸説ある。


「夜の食(お)す国」を治めているのは月読命じゃ…。この月夜霊子とは月読(ツクヨミ)のことを現しておるのではないかのー。」
と八宝斎が嫌に神妙に答えた。
「神話上の神が実在する訳ねーじゃねーかよ!ふざけた名前使いやがって。」
 乱馬は舌打ちしながら言い放った。
「この世はいろいろな亜空間と繋がりを持っておると言われていてのう、神話的界も何処かに実在すると言われておるんじゃぞ。婿殿。」
 横からコロン婆さんが諫(いさ)めるように言った。
「何、真顔で語り始めてやがんでー。婆さん。」
 乱馬がじろりと瞳を巡らす。
「この世には我々の科学力や知識だけでは捉えられない不思議がまだたくさん散らばっておろうが…。ほれ、ここにも実例があろう!」
 そう言いおいて、コロン婆さんは突然、湯の入ったコップをPちゃんへ向かって投げつけた。
「あちゃちゃっ!熱いじゃねーか、婆さんっ!」
 にょっと良牙が現れた、しかも、素っ裸だ。
「確かに理不尽な現象もたくさんあるわねぇ…。」
 なびきが頬杖をつきながら抑揚なく言ってのけた。
「とにかく…世の中は、理不尽なことで溢れておる…。神話と現実が交差することも、全くあり得ん話ではないのじゃろーて。」
 コロン婆さんは腕組しながら言った。
「何か、気になることでもあるのですかな?」
 早雲は納得が出来ない様子で、婆さんに詰め寄った。
「いや、ワシの思い過ごしかもしれんのじゃが…。のう、ハッピーよ、お主はどう思う?」
 コロン婆さんに言葉をふられた八宝斎はいつになく真面目に答えた。
「散々乱れている気の流れ…これが、何よりの証拠じゃろーよ。」
「お主も、思い当たるのか…。。」
 老人同志、通じ合うものがあるのか、八宝斉もコロンも、そう言うなり黙り込んでしまった。

「ええいっ!勿体ぶらんで、俺にも、わかるようにちゃんと説明しやがれっ!前に進まねえじゃねーか!」
 まどろっこしさに耐えかねた乱馬がいきなり叫んだ。
 このまま、話を置かれては、対策を練るどころか、重苦しい空気に、やる気まで削がれてしまいそうだった。

「仕方がないのー…。」
 コロン婆さんが重い口を開いた。
「ここのところ、陽の気と陰の気が激しくぶつかり合うのを感じるようになったんじゃよ。ハッピーも感じておるじゃろ?」
「ああ…。感じとるよー。」
 いともあっさりと答える八宝斉。
「何か我々の預かり知れぬところで、激しく「気」が動いておるのを感じるのじゃよ。」
「しかも…下手をすると、この世も巻き込まれて消滅するやもしれぬ…それほどの危うさを孕んだ気が動いておるわい。」
 婆さんだけではなく、スケベの権化の八宝斎までが、大真面目に吐き付ける始末。

「確かに…。嫌な気配を、時々、俺も感じることがあるな…。こう、春先からずっとだ…。」
 良牙までもが、口を開いた。
「そうか、良牙にもわかるか。」
 コロン婆さんが少しニヤッと微笑んだ。
「ああ…。動物的カンって奴かもしれねーが…。こう、逃げ出したくなるような衝動に、時々駆られることがある。特に、豚に変身しているときによくあるな。」
 両手を眺めながら、良牙がそんな言葉を吐き付けた。

「俺には。全く感じねーな…。」
 乱馬は不機嫌にそう一言吐き出すと、そのまま黙り込んでしまった。
 自分には良牙や八宝斉、コロン婆さんが感じる陰湿な気など、微塵も感じられない。まだまだ修行が足りないからわからないのだ…そう言われているような気分になった。勝気な乱馬には、少しばかり、不服だった。

(でも…。恐らく、あかねの異変と直結していやがる…。これは…。)
 気のぶつかり合いは、感じとれなかったが、あかねの異変と関係していることだけは、己にも察しがつく。そして、恐らく、己に宣戦布告したあの男も、深く関係しているだろう。
(もしかすると、奴が月夜霊子なのか…。)
 そうも思えた。

「とにかく、この気の乱れと、あかねの記憶喪失と、今回の矢文には、相関関係があると、お師匠様は思われるのでありましょうか?」
 早雲が問い質した。

「あるっ!」

 八宝斎の爺さんとコロンは揃って言い切った。
 そして、すっとコロン婆さんが前に立った。
「ワシらに細かいことまではわからぬが、このまま手を拱(こまねい)ている訳にもいかんじゃろう。今は、新月の夜に迎えに来るという「月夜霊子(つくよひこ)」の浸入を阻止してあかね殿を守ることが一番の対策となると思うが…どうじゃ?」
 コロンの進言に異を唱える者はいなかった。

 だが、その影で、乱馬だけは、一人浮かぬ顔をしていた。
 
(どうも…気に食わねえな…。八宝斉のじじいや…婆さんがからんで来やがったことが…。)
 しかし、口には出さなかった。いや、出せなかったのだ。


 その後、とにかく勝負は、二十一日の新月の夜だということで、決着を見て、それぞれ、解散した。とはいえ、今日は十九日。


 案の定あかねは、矢に気圧されて、気を失っていたようだった。
 二階の乱子の部屋に寝かされていた。
 かすみとのどかが、交代で見守っていたのを、皆が散った後は、乱馬が引き受けた。

「ごめんね…。乱子ちゃん。」
 かすみによると、また、少し熱が出たとかで、あかねが蒲団の上で水枕をして、寝そべっていた。心なしか瞳に力が無い。
「倒れたんだってな…。」
 昼ご飯用にかすみが作った雑炊を、あかねへと渡しながら、そんな言葉をかけた。
「うん…。」
 あかねはコクンと頷いた。
「たく…。そんなじゃ、いつまでたっても、元気になんねーぞ!」
 乱馬は明るく笑って見せた。
「まずは、食わねえとな…。体力も回復しねえぞ…。」
「そーよね…。頑張って食べるわ。」
 そうは言ったものの、食欲はわいて来ないようだった。
 体力の塊だった娘が、このありさまだ。すっかり、食が細くなってしまっている。
「俺が食わせてやろーか?」
 などと、からかってみる。
「いいわ…。自分で食べる。」
 真っ赤になりながら、あかねが言った。
 男の自分が言ったなら、拒否したろうか…。そんなことを、ぼんやりと考えながら、あかねを見詰める。
 まだ、本当のことは話せそうになかった。本当は俺は男で…おまえの許婚で…そして、愛していると…。口元まで出かかっている言葉が言い出せないままだ。

「Pちゃんはどうしたの?」
 あかねは、食べながら、乱馬へと問いかけた。
「P介なら…。あかりちゃんに預けた。」
「あかりちゃん?」
 キョトンとあかねが瞳を巡らせた。どうやら、記憶に引っかからない名前のようだった。
「おまえの友達だよ。何か、取り入りそうだからって、かすみさんがあかりちゃんに頼んで預かって貰ったんだ。」
「ふーん…。」
 咄嗟に出まかせを言った。
 Pちゃん…否、良牙は、そのまま、豚に変身することを拒んだのだ。

『子豚のままじゃ、戦闘に加われねーからな!』
 ごく、単純明快な理由だった。
 豚に戻れと、乱馬には言えなかった。得体の知れない敵を前にして闘うのだ。一人でも闘える人間が居る方が、有難い。
『でも、迷子になったら、一緒だぜ。』
『それも安心しろ!天道家から離れるつもりはない。』
 とふんぞり返る。
『どこで寝起きするんでー?』
『この家は広い。道場の隅っこにでも寝かせて貰うぜ。昼間はおじさんたちと修行を兼ねて、身体を動かすつもりだ。』
 と腕をたくしあげる。
『まー、せいぜい、頑張りな…。』
 くるりと背を向けた乱馬に、逆に良牙が問い質して来た。
『乱馬…おめーは、いつまで、その格好であかねさんの前に立ってるつもりだ?』
 鋭い瞳が、乱馬をさして来た。
 ピクンと肩が揺れたが、その問いかけには、答を返せなかった。
『悪いことは言わん…とっとと、ありのままの自分をあかねさんの前に曝け出せ!でないと、後悔するぜ。』
 そう、畳みかけられたが、一切、言葉が口を吐いて流れ出さなかった。

(わかってる…!わかってるけど…。)
 グッと、噛み殺す言葉。
 あかねの笑った顔と戸惑う顔が、交互に揺れる。

「Pちゃん、居ないんだ…。」
 不安げに揺れるあかねの瞳を見て、乱馬はまた、嘘を並べる。
「雲竜あかりちゃんの家ってーのは、豚相撲部屋だから…その、何だ。豚を飼うことはプロだから…。預かって貰った。心配すんな!今までだって、良く預かって貰ってたんだから。」
 と明るく笑う。
「そーなんだ…。」
「そんな顔すんなって!おめーが良くなったら、戻って来るんだからよ!とっとと食って、元気出せっ!」
 トンと肩を叩いた。
「そーね…。まずは元気にならなくっちゃね。」
 あかねは力なく笑った。
 弓矢のことも、どこまで覚えているのかは、定かではない。が、心なしか、憔悴しきっているようにも見えた。
 あかねは黙々と箸と口を動かし続けた。
 入らないお腹に、必死に掻きこんでいるようにも見える。
 半分ほど食べたところで、蓮華を置いた。
「ごちそうさま…。」
 小さな声で吐き出した。
「もういいのか?」
 問いかけた乱馬に、コクンと小さな頭(こうべ)が揺れた。
「じゃ、下げようか…。」
 お盆を持って行こうとした乱馬に、追いすがるように、あかねがギュッと赤いチャイナ服の裾をつかんで引き戻した。

「ねえ…乱子ちゃん!教えて!あたしの周りで、一体…何が起こってるの?」
 すがるような声を張り上げた。
 不安で押しつぶされそうな瞳をしている。

「何がって…。」
 そう言ったまま、乱馬は黙った。それから、カタンとお盆を傍らに置いた。

「あたし…。怖いの…。何か、恐ろしいものが、あたしを引き込もうとしているんじゃないかって…。」
 小刻みに震えるあかねの身体を、グッと抱きよせていた。
「大丈夫…。大丈夫だ…。皆がついている…。俺も…。」
「乱子ちゃん…?」
 乱馬の勢いが、あまりに強かったせいか、あかねはハッとして乱馬を見上げていた。
「守ってやるから…。だから…。安心しろ…あかね…。」
 声は少女のものでも、語気は青年に立ち戻っていた。
 あかねも、ぎゅっと、抱き締めてきた、乱馬の細い手を掴んだ。
「ありがとう…。乱子ちゃん…。」
 そう言って、微笑み返すと、あかねはそっと瞳を閉じた。

 流れて来る乱子の温もり…その中に、感じる、懐かしい気配。それが、何なのかわからなかったが、こうして、乱子に触れているだけで、和らいでいく心を感じていた。
 暗い女の声は流れて来なかった。いつも、忘れろと命じる声が、今は聞えて来ない。
 そのまま、乱馬の柔らかい腕の中で、真っ直ぐな眠りへと降りて行く。
 寝息を立てるまで、時間はかからなかった。

「眠っちまったか…。」
 定期的に流れて来る吐息を耳にして、乱馬もフッと微笑んだ。
 
「たとえ、女の身に姿をやつしていても…俺は、おまえを守る…。あかね。」
 一度だけ深く抱きしめると、腕からあかねを外して、蒲団の上に横たえた。


「たく…ざまあねえな…。まだ、そのままの姿で居るつもりかよ…。おまえは…。」
 襖の向こう側で、良牙が深い溜息を吐きだした。こっそりと、様子を伺いに来たのだが、女同士の熱い抱擁を見て、その場を離れた。
「荒療治が必要になりそーだな…。」
 窓の外へ瞳を移す、と、薄水色の春の空が、真っ白な雲を浮かべていた。



第九話につづく



比較的無動な話運びですいません。
次は、極上の乱あを表現できるように頑張ります…。
迦具夜霊女と月夜霊子はもちろん、「かぐや姫」と「月読命」から引っ張っています…。かぐやも色んな当て字がありまして…。黄泉の国と関係している「迦具土(かぐつち)」からイメージを貰っております…。一回、かぐや姫譚を思いっきり乱あで描きたかったので…すが、どう転ぶか、まだ、模索しております…。ざっくりとしか決めて無いんで…。細部は書きながら転がしているので…。ラストだけが決まっているという、おそろしかパターンだったりして(汗


参考文献…『古事記』新潮社刊



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