◇まほろば 7
第七話 帰って来たお邪魔虫
十四、
昼になって、ようやく雨が上がった。太陽が見え隠れしているにもかかわらず、俄かに冷えてきた。
彼岸を前に、最後の小さな寒波が、日本列島の上空を覆っている…そんなことを、天気予報士がテレビの箱の中で伝えていたのを思い出す。
昼食の後、こたつに入ってほっこりタイム。と、あかねは、そのまま眠ってしまっている。午前中は乱馬と久しぶりに道場で身体を動かしたので、疲れていたのだろう。
乱馬も大きく欠伸をひとつ。あかね同様、眠気が降りてきたので、こたつで横になろうと、足を投げ出した途端、Pちゃんと視線があった。じっとこちらを睨みつけている。
あれから…。
道場で散々、Pちゃんに噛みつかれた。
どうやら、乱馬があかねを、道場でやりこめそうになったと勘違いしたらしい。真っ向の勝負であったが、Pちゃんの瞳にはそうは映らなかったようだ。
「ててて…だから、落ちつけって、言ってるだろー。」
縦横無尽に暴れまわるPちゃんを、やっとのことで取り押さえた乱馬。小動物に変化している良牙では、女化していたとしても、乱馬には所詮かなわない。乱馬はPちゃんの首にまかれた黄色いバンダナをくっと掴み取る。と、両者のやり取りを、目をぱちくりとして見ていたあかねへと、渡した。
「そいつ…おまえのペットだぜ。」
「この子豚ちゃんが?」
「ああ…おめーが世話をしてたんだよ。」
「乱子ちゃんのペットじゃないの?」
「いや、違うぜ。俺のペットはパンダだけだ。」
Pちゃんは、あかねと乱馬のやり取りを、不思議そうに眺めていた。
子豚に変化しているとはいえ、元は人間の男子だ。喋れないだけで、ちゃんと理解できている。
あかねが乱馬に対して「乱子ちゃん」と呼んでいることと、己に対しても、「子豚ちゃん」と言っている現況を目の当たりにして、首をしきりに傾げていた。
そんなPちゃんを見越して、乱馬があかねへと声をかける。
「時々、迷子になってどこかへ行っちまうことがあるけど…。一応、飼い主はおめーだよ。」
「ふうん…。そうなの。」
あかねはPちゃんを胸に抱えながら、頭を撫でる。
「覚えてねーか、やっぱ。」
ふうっとため息をひとつ吐き出すと、
「だとよー、Pちゃん。」
乱馬はチラッとPちゃんを振り返りながら、意味深に言った。
ピクンと動いたPちゃん。途端、Pちゃんの表情は険しくなった。
何かがあかねの身の上に起こっている…おぼろげに察したのだろう。
それから、Pちゃんは、打って変って大人しくなった。
瞳は乱馬を睨み据えるが、あかねの腕にチョコんと抱かれている。そこから、天道家の様子を伺いにかかった。
彼の目に映った天道家は、いつもと様子が違っていた。
変なのは、あかねだけではない。天道早雲にしても、かすみやなびきにしても、乱馬のことを「乱子ちゃん」と連呼するし、いつもよりも、他人行儀に思えた。つまり、何か一呼吸置いて、あかねと接していることに、気付いたのだ。
玄馬も、パンダのままだ。もっとも、玄馬の場合は、普段からパンダ仕様で居ることが多かったので、そう疑問には思わなかったが、天道家の皆が、あかねに対して、妙に気を遣っているのが、Pちゃんの瞳にも、異様に映った。
おまけに、庭先には、白い犬まで居る。新たに飼われたというには、首輪がない。
犬は、Pちゃんに興味を持っているようだが、殺気は一切感じられなかった。食う気も絡む気も無い様子で、大人しく、ちょこまかと庭をうろつき回っていた。
自分が迷子になっている間に、何があったのか…。機会を伺って人間(良牙)に戻り、乱馬へと問い質してやろうと、心に決める。
あかねが、完全に寝入ってしまったことを確認すると、プッと一声鳴いて、Pちゃんが立ちあがった。そして、乱馬を振り返る。まるで、ついて来いと言わんばかりの、態度だった。
「こら、先に行くなっ!てめーが先に行ったら迷うだろーが。」
小さな声で合鎚を打つと、乱馬もあかねを起こさないように、ゆっくりとこたつから出て、立ち上がった。
この事態は何だ…。天道家に何が起こっている…。Pちゃんは、良牙に戻って、訳を聞くつもりなのだろう。
立ち上がった乱馬の脇を、台所の方へと、ぺちぺち蹄を動かして、歩いて行く。
「ま…俺がおめーでも、同じことを考えるだろーからな。」
乱馬は台所ののれんを、右手でさっと持ちあげると、洗い物をしていたかすみへと、声をかけた。
「かすみさん、お湯を沸かしてくれませんか。」
「あら、お茶でも飲みたいのかしら?」
「ま…そんなところです。」
Pちゃんの正体を、気付いていないのは、恐らく、あかねだけだろうと思っていたが、実はそうでもないらしかった。目の前で変身を見た早雲はともかく、天道三姉は、Pちゃんと良牙を別個で捕えている向きがある。
鈍すぎて、全く気付いていないあかねは別として、なびきは両者が同一個体だと、何となく察しているようだ。が、かすみは…気付いていてもあかねの手前、ボケているか、それとも、全く気にしていないか…そのいずれかのようだが釈然としない。つまり裏を返せば、Pちゃんが良牙だろうが、かすみにとっては、どうでもよいことなのだろう。
「はい。これ。」
すぐに沸かして貰ったやかんを手に、Pちゃんを伴って、道場まで足を伸ばした。
寒気団がきているのも、頷けるほどに、道場の中はひんやりしていた。
風が吹き抜けて、更に、体感温度を下げているようにも思えた。
赤いチャイナ上着から突き出した二の腕が、傷が見え隠れする。
顔や腕には不揃いにはられたバンソウコウ。Pちゃんに思い切り噛みつかれた傷痕だ。このおおざっぱな貼り方は、もちろん、あかねの仕業だ。その、不器用なバンソウコウが、返って生々しさを醸し出している。
ばしゃばしゃばしゃ…。
道場の入口のところで、Pちゃんへとやかんの湯を注いだ。
身体から湯けむりをたたせながら、黄色いバンダナを頭に巻いた男が現れる。
「そらよっ!」
乱馬は良牙の衣服を、そばに投げてやった。裸のまま、突っ立たせるわけにもいかないからだ。
礼を言わず、無言のまま、良牙は投げられた服を身につけて行く。パンツ、ズボン、ランニングシャツ、そして、上着。
服を着終わると、ずいっと、乱馬の胸倉へと掴みかかっていた。
「乱馬…。ちゃんとわかるように、説明してくれるんだろーな?」
「ああ…。ちゃんと洗いざらい喋ってやるから…落ちつけ、良牙。」
女体化したまま、男を見上げる。
「これが、落ちついていられるかっ!」
じろっと、キツイ瞳を、乱馬へと手向けて来る。バンっと道場の壁板を叩いた。バリッと音がして、板が少し割れて、地面に落ちた。
「こらこら、人んちの道場を壊すつもりか?」
乱馬は、下に落ちた木くずを眺めながら、文句を吐き付けた。そんな、乱馬にお構いなしに、良牙は怒鳴つける。
「いつからだ?いつから、あかねさんは、あんなになっちまったんだ?」
「六日ほど前だよ。」
乱馬はぼそっと歯切れわるく吐き出した。
「原因は何だ?」
「…まあ…強いて言うなら、俺だ…俺に全ての原因がある。」
瞳を反らしながら、言い放つ。
「で…?何があったんだ?」
道場の壁板に、良牙は腕を組んでもたうっすらとれかかった。うっすらと日差しが雲間から下りて来る。さあっと、辺りが明るくなった。
「俺が下手にシャンプーやウっちゃん、小太刀から追いかけられて、逃げようとしたばっかりに…。小太刀が投げたこん棒が頭にかすって、昨日まで入院してたんだ。」
「ぬわんだとおお?」
また、良牙が、グッと乱馬に掴みかかった。
「そのままあかねは倒れて、緊急搬送。目覚めたら…記憶を無くしてやがった。」
嘘をついたところで、どうにもなるものではない。ぼそぼそっと、乱馬は、あかねの身体に起こった出来事を、淡々と良牙に話して聞かせる。
「おまえ…あかねさんが、ああなったわりには、落ちつき払ってるな。」
そう、良牙が吐き出したのに、ムッとした表情を突き返す。
「落ちつき払ってる?何を根拠にそんなこと、言いやがるっ!落ちつき払ってなんか、居ねえよっ!」
今度は乱馬が高揚する番だった。バシッと壁板を拳骨で打ち付ける。
「…の割には、何だ、その格好は。」
良牙はじっと乱馬を見下ろす。
その瞳に映るのは、女化した自分。しかも、あかねには「乱子」と呼ばれている。
乱馬は溜まらず、良牙から視線を外した。
「仕方ねーんだよ…。」
「女の格好が…か?」
「ああ…。記憶を無くしたあかねは…俺のことも、きれいさっぱり忘れてしまってやがる…。それに、色々事情があって、あいつの前では、この姿で居ることを、おじさんたちに強いられてるんだ。」
ぼそぼそと歯切れわるく言い放つ。
「どんな事情があるかは、知らねえが…それを理由に、己の正体を、きちんとあかねさんに説明してやる気は無いってことなんだろ?」
意地悪く良牙が質問を、ポンと投げて来た。
「どうやって、説明するんだよ…。湯と水で変幻自在に性別が入れ換わるだなんて、現実離れし過ぎてるだろ?…それに…これ以上、あかねに混乱や動揺を与えちゃいけねーんだ…。だから、俺は…。」
「そーやって、言われたとおり、女の格好をしているって訳か…情けねーな。」
良牙の言葉に、乱馬もカチンと来た。
「あかねの前で、豚になってへらへらしているおめーに、言われたかねーよっ!」
「何だと?」
良牙も、熱い心の持ち主だ。乱馬の言に、血が上る。
グッと拳を作って、乱馬の胸倉へとつかみかかった。
「じゃあ、聞くが、おめーも、あかねに、豚になる体質を、説明できるのかよっ!」
乱馬は良牙へと問い返した。
「おまえと俺じゃあ、置かれた立場が違うだろーがっ!」
「どう違うってんだ?」
「おまえは、あかねさんの許婚だろーがっ!」
高揚していく、二人の闘気。
何かにつけ、すぐ、対決という形になる、好敵手の二人だ。そこに、あかねの問題が絡めば、両人とも、熱がこもる。
良牙が言わんとしていることが、乱馬にはわかるだけに、いら立ちも高まる。そう、乱馬がもやもやしていることを、この男は、バシッと言い当てているからだ。
このままではいけない…。
乱馬もそう思っていた。女化したまま、あかねに接するということは、突き付けられてた現実から逃げていることと同義だ。記憶を無くしたあかねに、嫌われるのではないかという恐怖。いや、それだけではない。
今まで積み上げてきたものが、音も無く崩れていきそうで、怖かったのだ。
あかねの記憶を飛ばしたのも、己の浅はかな行動に要因があるから、余計に、「想い」は迷宮へと入りこむ。
『何故、堂々としていない。真実の己をあかねへさらけ出さないのか。この弱虫め!』
良牙の瞳は、そう自分を責め立てて来る。
良く分かっていた。わかっていたが、行動に移せない。情けない自分への悔恨と、全否定したい現実が、ぐっちゃぐちゃに心をかき乱して、良牙への反発に繋がっていく。
道場の玄関先で、睨み合う。どちらも、目をそらそうとはしない。
ただ、この時の乱馬は、女化していた。そう、男同士で睨み合っていた訳ではない。
そこに、問題があった。
ガタン…。
ハッとして、二人、音のした方へ視線を流した。
「いっ!」
「えっ!」
良牙と乱馬の視線の先。そこに、立ち尽くすあかねの姿が目に入ったからだ。
「ご…ごめんなさい…。あたし…。」
どういう訳か、あかねがおろおろしている。いや、戸惑っている様子がありありと伝わってきた。
部外者が、見てはいけないものを、見てしまった…そんな、表情が伺える。
「なんだ、乱子ちゃん、ちゃんと彼氏が居るじゃない。」
驚愕の一言が、あかねから投げつけられる。言ったあかねの顔が真っ赤に熟れている。
あかねが放った「彼氏」という言葉。乱馬と良牙、二人の脳裏に、くわんくわんと鳴り響いた。
どうやら、対戦よろしく睨み合っていた二人に、とんでもない誤解を抱いてしまったらしい。
「ち…違うっ!こいつは彼氏なんかじゃねーっ!」
乱馬は真っ赤になって、言い返した。が、時すでに遅し…後の祭り。
「お…お邪魔しました。ごゆっくりどうぞっ!」
ぺこんとお辞儀するや、ぐるっと後ろを向き直り、母屋の方へと駆けて行く。
その姿を見送りながら、良牙も乱馬も、その場に凍りついて、固まった。
しかも、二人にとっては、超弩級の痛い誤解だ。
二人の顔から、血の気がサアーッと引いて行く。
「おい…。何か、変な誤解、されちまったみてーだな…。」
ぼそぼそっと歯切れわるく、乱馬が呟いた。
「ああ…。俺…しばらく、立ち直れねーかもしれねー…。」
良牙の肩が、ガクンと落ちた、瞳には、薄らと、涙まで浮かんでいた。
その後、良牙は自ら水をかぶり、再び、Pちゃんへと姿を変えていた。
乱馬とやり合おうとして、あかねに、茶々を入れられてしまった。
それも、あらぬ誤解をあかねに与えてしまい、凹んでしまった。
そう。あかねは、良牙が乱子の彼氏だと、勝手に思い込んでしまったようなのである。思い込みほど恐ろしい物は無い。
乱馬も、あかねと、顔を合わせるのが、何となく、気が引けた。完全な誤解であるし、男同士、恋愛感情など入りこむ余地もないのだが、説明の仕様がないからだ。
中途半端に言い訳するのもおかしいだろうし、かといって、逢引と思われたまま、いられるのも痛かった。
それから先、乱馬もあかねも、良牙のことには敢えて触れようとはしなかった。ただ、少しばかり、乱子とあかねの間にも距離が出来たのではないかと、乱馬は危惧した。
「どーしてくれるんだ?乱馬よ。」
湯気の向こう側から、再び、姿を現した、良牙。
「知るかよー。事故だ事故。」
対する乱馬も、男の姿に立ち戻る。
今度は、男と女ではなく、男同士、しかも、裸体で向かい合う。
天道家の風呂場。そう、「乱子とPちゃんの入浴タイム」だ。
窓の外は、真っ暗。夜も更け始めている。
「何が事故だ…。完全に誤解されちまったじゃねーか…。」
「みてーだな…。」
良牙の言葉に、乱馬はムスッと言葉を投げ返す。
「ああ…よりにもよって、乱馬…おまえとカップルだあ?」
良牙は頭を抱えて、洗い場にへたりこむ。
「それは、こっちも同じでいっ!」
乱馬も鼻息が荒い。
この二人、何故一緒に入浴しているのか。
久しぶりに帰宅してきた迷い豚Pちゃん。自分が飼い主だから、お風呂に一緒に入ると、あかねが言いだしたことに起因している。
『汚れてるみたいだし…。洗ってあげなきゃ。』
自分の順番に風呂が回ってきたときに、抱きあげながらそう言った。むろん、抱かれたPちゃんは、焦った。
当り前である。このまま、風呂場に連れて行かれ、湯をかけられようものなら…。男に戻る。確実、修羅場が訪れる。
記憶を無くしていたとて、あかねはあかねだ。正体がばれるのは不味い。
『ブヒイイイー。』
必死であかねから逃れようと足掻く。
『こらこら、Pちゃん…ダメよ、お風呂に入らなきゃ。ずっと、お外に出ていたんでしょ?』
傍で見ていた乱馬も、無関係を装う訳にもいかなかった。
『いいよ、Pちゃんは俺が一緒に入るから。』
と、声をかけたのだ。
『でも、あたしが飼い主なんでしょ?飼い主のあたしが入れてあげないと…。』
『いや、こいつの風呂入れは俺が担当だ。』
苦し紛れに、口から出まかせを言い放つ。
『でも…。』
『いーから、おめーは一人で入りな。』
あかねからPちゃんを無理やり引き剥がす。Pちゃんもあかねと一緒に入るつもりはさらさらないので、反抗もしなかった。
あかねも、記憶を失って大人しくなっていたため、強く押しとどめもしなかった。が、また、更なる問題発言を発する。
『じゃあ、三人で入りましょうよ!ね?』
『えっ…。』『プギッ…。』
二人、一気に固まる。
三人で風呂に入れば、どうなるか…。乱馬は男に戻り、Pちゃんは良牙になる…。冗談ではない。
『ダメだ、ダメっ!絶対ダメだっ!』
つい声を荒げた。
『いいじゃない。三人で愉しく入れば。ね、Pちゃん。』
屈託ない笑顔を手向けながら、自分の提案に一人納得している。
『あの…その…。三人で入るには、まだ、寒いぜ。ほら、寒気団が来てるんだろ?か…風邪ひいちまうぞ。』
『そんなことないわよ。』
『ある!』
つい強く言い放つ。あかねは、ハッとして、一歩下がった。
『あ…いや…。俺やあかねは風邪をひかねーかもしんねーけど…。Pちゃんが風邪ひいたら不味いし…。豚インフルエンザとかにかかったら困るんじゃねーのか?こいつ、まだ、子豚だし…。』
言い訳が滑っているが、おかまいなしに、たたみかける。Pちゃんもわざとらしく、そこで一発、「くちゅん」とくしゃみして見せる。勿論、演技だ。
『わかったわ。じゃあ、乱子ちゃんがPちゃんを洗ってくれるのね?』
『ああ…、そりゃあ、無茶苦茶、ていねーいに洗ってやるぜ。』
こんな、とんでもない会話を交わした後、風呂へ入った訳だ。
「ああ…変な誤解は、とっとと解かないと…。あかねさんに合わせる顔が無いぜ。』
ガクンとうな垂れる良牙。
「こっちだって、一緒だぜ…たく…。」
男二人、湯船で向かい合い、同時に溜息を吐きだした。あまり、感心された場面ではない。
と、脱衣所の方に人影が立った。
「ねえ…やっぱり、私も一緒に入らせて。」
明るい声と共に、ガラガラガラっと、浴室の引き戸が開いた。
「え?」
引き戸に手を置いたまま、固まるあかね。
湯船に浸っていた、男二人がまともに目に飛び込んで来たのだ。
「き…きやあああーっ!」
金切り声が響き渡る。
「何事っ!」
「どうしたのっ?」
バタバタッと駆けこんで来る、天道家の面々。
あかねはふるふると、脱衣所で浴室を指差したまま、震えている。
乱馬と良牙の入浴姿…つまり、裸体を、まともに、見てしまったのだ。
二人とも、手で咄嗟に前を隠していた。当り前である。ぶらぶらさせているものを、乙女に見せる訳にはいくまい。
「あんたたち…。何やってるの?」
なびきが、じっとっと話しかける。
「何って…入浴だけど…。」
ぼそぼそっと乱馬が言い放つ。
「だから、何で、乱馬君と良牙君が一緒に風呂に入ってる訳?」
「し、しゃーねーだろ…。事情が事情なんだからよっ!いいから、とっとと出てけーっ!風呂くらいゆっくり入らせてくれーっ!」
怒声を上げる乱馬の横で、再び良牙が、しくしくとうな垂れていた。
十五
入浴騒動の後、乱馬は乱子、良牙はPちゃんと、一人二役をこなさなければならない事態へと、陥ってしまった。二人、一緒に、大きな墓穴を掘ってしまったのである。
「一緒に修行していて、汗をかいたから、いつも世話になっている天道家の風呂を借りていた。」
何とも苦しい言い訳を、ひねり出して、風呂から上がった。
あかねは、殿方二人の裸体をまともに見てしまったことに、かなり動揺している様子だった。湯船につかっていたので、見られたのは上半身だけであろうが、すっかり性格が大人しくなってしまった彼女を、大いに動揺させるのに十分過ぎるハプニングだった。
「す…すいません。つい、いつもの調子で、黙ったままお風呂を借りちゃって。」
乱馬はわざとらしい言い訳を天道家の面々の前に言って退けた。乱子と同じ洋服を着るわけにもいかず、黒ラン一枚とズボンだ。良牙は無言のまま、ちんまりと座っていた。
「あは…うちは別にかまわんのだけどねえ…。」
この落とし前はどうつけるのか…と言わんばかりに、早雲の顔がおどろおどろしく、目の前で揺れている。
「ま、ともかく、やっちゃったことは仕方がないが…一人二役…完ぺきに演じ分けるんだよ…二人とも…。」
耳元でぼそぼそっと囁かれる。
「は…はい…任せてください…。」
じわっじわっと迫って来る、早雲の恐々とした顔へと、返答を投げ返す。
「と…とりあえず、今夜は俺たち、こいつのテントで寝ます。」
グイッと乱馬は良牙の身体を引いた。
シチュエーションは、荒修業中の若者二人。互いに武道を切磋琢磨させるため、町はずれで修行していたことに、強引に持っていった。
この場を自然に退散するには、良牙のテントで寝ると言うのが一番だろう。
「今夜は寒気団が来ているっていうから、泊まっていきなさいな。」
横からかすみが要らぬことを言い放った。
乱馬は、一瞬、彼女へ向けて、顔を引きつらせて反応したが、気がつかなかったらしい。乱馬と乱子が同一人物であることを忘れてボケたのか、それとも、生来のお人好しが露呈したのか。かすみの真意をはかりかねた。
泊まるとなれば、一人二役がきつくなる。
「あ…いいです。とにかく…俺たちは、テントに戻ります。また、風呂を借りに来てもいいですか?」
と、わざと明るく言い放つ。
こう言っておかねば、風呂に安心して入れまい。そう判断したのだ。
「ああ…君たちなら別にかまわんよ。」
引きつり笑いしながら、早雲が言った。
「と…とにかく、お邪魔しましたーっ!」
まだ、しくしく涙を流して放心している良牙の首根っこを掴むと、天道家からそそくさと立ち去りにかかる。三十八計逃げるに如かず…まさにそんな感じで逃げ去った。
「ほらっ!良牙…。いつまで呆けてやがる!いい加減、立ち直れっ!」
玄関の引き戸を丁寧に締めた後、良牙へと声をかける。
「ううう…。貴様と関ったばっかりに…。おまえの彼氏呼ばわれされた上に、男の裸体をあかねさんへと晒してしまった…。」
まだ、ぶつぶつ言っている。
「しゃーねーだろっ!恨むなら、呪泉郷に落ちた自分を恨め。」
「いや…呪泉郷に突き落とした、おまえを、恨むーっ!」
ふっと良牙の瞳に光が戻った。そして、上体を起こすと、乱馬目がけて攻撃を仕掛けようと、拳を振り上げた。
「だから、争ってる場合じゃねぇっつーのっ!」
どばしゃーん!
庭先に置いてあった防水バケツをひっつかむと、良牙の頭から冷や水をぶっかけた。
「ブヒブヒブヒ…。」
再びPちゃんに戻った良牙に、乱馬は指さしながら吐き付ける。
「争ってる場合じゃねーんだっ!おじさんにも言われたろ?一人二役しっかりこなせって。」
「ブヒ?」
「だから、P介と乱子に戻らなきゃ、なんねーだろーがっ!」
「ブヒヒ…。」
そうであった。
乱馬と良牙が退散したからとて、お役御免になった訳ではない。もう一つの人格を演じなければならないのだ。
「おらよっと!」
乱馬も自分から水をかぶった。
ひゅうーッと風が吹き抜けて行く。しかも、黒ラン一つだ。
「こうしちゃいられねー。ほれ、とっとと、母屋へ戻るぜ。」
そう言うと乱馬は、勝手口の方へと回って行く。
身体は冷え切っていたが、再び、風呂場へ向かう訳にはいくまい。冷えを我慢して、あかねのところに戻らなければ、Pちゃんと乱子が居ないと、あかねが騒ぎ始めるだろう。
チャッと裏口から侵入し、そのまま、廊下と階段を駆け上がる。恐らく、あかねは入浴中だ。彼女が風呂場から上がって来る前に、部屋に戻っておかないと、やばい。
「いーか…。良牙。今、俺は乱子。そして、おまえはPちゃんだ。じゃねーと、おめーの正体をばらしちまうぜ。で、この先何があろーと、変に俺に絡むなよ…わかったな?」
ずいっと上体を乗り出して、Pちゃんへと迫る。
Pちゃんは納得いかないという顔を一瞬手向けたが、背に腹は代えられまい。そう観念して、コクンコクンと小さな頭を縦に揺らせた。
部屋に戻ると、トンと、隅っこに置かれた蒲団を二組、広げにかかる。
「ぷぎ?」
Pちゃんが、不思議そうな顔を手向ける。
「今、俺たちは一つ部屋で寝てるんだ。」
隠したところですぐにばれる。乱馬は蒲団を下ろしながら、淡々とPちゃんに言って聞かせる。
「誤解のねーよーに言っておくが…乱子として、一緒に寝てるんだ。わかるな?」
「プウ…。」
「あいつ、どうやら、一人で眠るのが怖いらしいんだ。だから、俺と一緒に寝てくれって…。ま、昨日までは、おめーが居なかったしな。ってことで、今夜からは、おめーと俺とあかね…三人で一部屋だ。」
「ブブブ。」
わかったというように、Pちゃんは頷く。もっとも、軽い嫉妬を覚えたが、今夜は自分もこの部屋で眠る。ならば、乱馬が変なことをあかねに仕掛けないように、じっくり見張っていればよい。そう、納得させた。
「ああ、好いお湯だったわ。」
ほこほこと風呂上がりの湯気を身体から湧きあがらせながら、あかねが乱馬の部屋へと入って来た。
もちろん、今夜もここで寝る気満々の様子だ。自室ではなく、真っ直ぐに、ここに入って来た。
一瞬、Pちゃんの顔が曇ったが、さっき、乱馬に言われたことを思い出し、大人しく、あかねの蒲団の上にちょこんと座っていた。
あかねはPちゃんを抱き上げる前に、蒲団の端っこを引っ張り始めた。ゴロンと反動でPちゃんが敷き蒲団の上で転げた。
「お…おめー何してんだよ。」
キョトンと乱馬があかねを見詰めた。二十センチほど間合いを開いて敷いていた蒲団を、あかねがひっつけにかかったからだ。
「だって…少しでもひっついて寝たいから。」
また、あかねは、乱馬がドキッとするような言葉を、ポンと投げて来た。
昨夜の密着度を思い出して、思わず、顔が紅潮した。
「ひっつくっておめー。」
あかねの蒲団からPちゃんが睨みあげてくる。あからさまに不機嫌なのがわかる。
「すぐ手が届くところで寝て欲しいの…ダメ?乱子ちゃん。」
上目遣いで懇願されると、嫌とは言えまい。
「わかった。でも、今夜はPちゃんも一緒だぜ。」
チラッとPちゃんへ視線を流す。
「そうね。仲よし三人組で一緒に寝ましょう。」
あかねはPちゃんを抱き上げると、自分と乱馬の間に寝かせた。
「まるで、川の字みたいね。」
と自分で言って、悦に入って笑っている。
(俺と良牙とあかねの川の字ねえ…。こいつ、俺たちの正体を知ったら、絶対、悲鳴をあげるだろーな…。)
苦笑いが乱馬から零れ落ちる。恐らく、Pちゃんも同じ想いだろう。
このまま、平穏に床に就くのが一番良い。
「さて、とっとと寝ようぜ…。昨日あんまり寝てねーから、眠いや。」
わざとらしく、ふわああっとあくびをすると、電灯の紐を引っ張った。
フッと灯火が消え、豆電球一つの明かりへと転じる。
蒲団へ入ると、ホッと息を吐きだす。
「でも…あたし、びっくりしちゃったわ。」
あかねが乱馬へと話しかけて来た。
「あん?」
「乱子ちゃん、彼氏が居たのね。」
ズキュンと突き刺さる、あかねの一言。
Pちゃんも、もそっと動いたところを見ると、動揺しているようだった。
「あ…良牙なら彼氏じゃねーよ。」
ポツンと言葉を投げた。
「え?そうなの?」
好奇心をたぎらせて、あかねが問い返して来た。
「ああ…。ま、友達ではあるが、彼氏じゃねーぞ。」
と言葉を投げる。本当のことだからだ。
「遠慮しなくていいわよ。彼氏なんでしょ?」
「つーか、あいつが彼氏だなんて考えたこともねーよ。」
当り前である。男同士、付き合うも何も、恋愛感情など浮き上がる訳がない。しかも、乱馬も良牙も、あかねに惹かれている。恋人というより、ライバル同士と言った方がしっくりくる。
「そうかな…。あいつ呼ばわりできるんだもん。少しは気があるんじゃないの?」
(そんなに、良牙と俺を付き合わせたいのか?)
思わず、乱馬から苦笑いが零れ落ちた。
「別にあいつには、恋愛感情なんて抱いていねーよ。第一、あいつにはちゃんと想い人が居るからな。」
ポツンと言葉を投げた。
そうだ。良牙には「雲竜あかり」という彼女が居る。また、あかねにも多少は想いを残している。乱馬は乱馬で、ちゃんと知っていたから、そう答えた。
「っていうことは、乱子ちゃんの片想いになるの?」
「何で、そーゆーことになるんだよ。」
カクッと枕から頭がずり落ちそうになる。
「言っとくけど、俺には俺で、ちゃんと想い人が居るんだから。」
つい、要らぬ言葉を投げてしまった。
「じゃあ、乱子ちゃんが想いを寄せている人ってどんな人なの?」
あかねが興味津々、身を乗り出して問いかけてきた。
「不器用で、寸胴で、がさつで、気が強くって、意地っ張りで、泣き虫で、鈍感で…。」
乱子はあかねに聞こえるか聞こえないかの小さな声で、つらつらと平坦に答えた。
(要するに…俺が好きなのは…おまえなんだよ!あかねっ!)
そう言い放ちたい気持ちを、押し殺しながら答えて行く。
「いいな、好きな人のことが、そうやって、はっきり言えて…。」
あかねの顔が一瞬曇った。
「え?」
その気配を察した乱馬は、あかねへと視線を流した。薄明かりの中で、あかねの瞳がさびしげに揺れている。
「だって…あたしには思い出せないんだもの。」
ポツンと言葉を投げられた。ドキッと唸る心臓。
「ねえ…乱子ちゃんなら、私が好きだった人のこと、わかるかな…」
あかねは真顔でらんまに向き直る。乱子は少しうろたえた。
(あかねが好きだった奴…多分、俺のことだ。確証はねえが…。)
己の動揺を悟られないように、ぐっと心に力を入れた。
「あかねの好きだったやつのことは、正直、俺にはよくわかんねーよ…。やっぱり思い出せねえのか?」
少し間を置いて尋ねてみた。
「うん…。でも、多分、あの人かも…って思う人は居るわ。」
「え?」
どきんと再び、跳ねあがる心音。
思い出したのか、それとも、他に気になる奴ができたのか。もやっと浮かんだのは、何故か、あの、バラの男。
「最近、見掛けなくなったけど…お下げ髪の男の子…。」
その言葉を耳にして、ほおっと安堵のため息が漏れる。
(やっぱり、俺のこと…だよな…。)
「多分…としか言えないわ。だって…好きだったのかさえ思い出せないから。」
あかねは寂しそうに笑った。その力ない笑顔を見たとき、身が引き千切れるような想いに捕らわれる。
「いつも、私のこと優しげに見詰めていてくれた…そんな気がするの…。でも…、でもね、怖いの…彼のこと思い出すのが。このままでも良いかなって思うこともあるのよ。」
弱音にも聞こえる言葉があかねの口元から漏れた。
「何で、そんなこと思うんだよ。」
つい、きつめに問い返している自分が居た。それを耳にして、Pちゃんが乱馬の腕を、トンと少し蹴った。あまり、強く言うな…と言いたげに、Pちゃんが、睨みあげている。
「だって、その人、何人の彼女が居るみたいで…。」
(いや、彼女なんて居ねーぞ!許婚なら居るけど…。)
グッと飲み込む言葉。
恋愛相談になっていくのではないかという、危惧。その当事者に話すあかね。彼女は目の前の乱子の正体が、おさげの男だということを知らない。
「それに、それだけじゃないの…。彼のこと思い出そうとすると邪魔が入るの。」
それは、予想外の言葉だった。思わずハッとあかねを見詰め返す。
何か思いつめている様子が、あかねの表情に浮かんでいる。
「頭の中で誰かが囁くの。」
「あん?」
「思い出さなくていい…。彼との記憶は、きれいさっぱり凍らせて…忘れなさい、って…。」
「……。」
「それから、黒い霧があたしの身体に流れて来て…惑わせるの…汝全て忘れ去り、新しき世界へ我とともに来れ…って。」
あかねの身体が、小さく震えていた。
「あかねっ!」
思わず、あかねの手を取った。
「男の声が頭にはっきり響くの…新月の夜、私を迎えに行くから、そのまま、おとなしく待っていなさいって…。」
「新月?」
「ええ、それだけ言っていつも声は途切れるわ。」
「いつからだ?いつから、そんな声が…。」
乱馬は自分の心が、一気に不気味な闇に支配されてゆくのを感じ取った。
その場にいるわけでもないのに、急に不敵なバラの男の笑みが脳裏に広がり始める。
(ひょっとして、この前の男…。いや、あかねの記憶喪失ってあいつが絡んでいるとか…。)
初めて、疑った瞬間であった。
「ぷぎっ!」
Pちゃんの瞳がいきなり鋭くなった。
「お、おい、P介?」
乱馬が声をかけるや否や、Pちゃんは蒲団から飛び出した。
「プウウウ…。」
襖に向かって、四足で身構えている。何かの気配を感じたのか。明らかに、様子がおかしい。
Pちゃんの動きを察した乱馬は、がばっと起き上がると、サッと襖を開いた。誰かが潜んできたのかと思ったからだ。
だが、襖の向こうは、ただの暗い廊下。しかし、廊下の闇の向こうに、確かに何かの気配がこちらをじっと伺っていた。
ぎゅっと拳を握って、気を身体へと充満させた。あかねはおびえ切って、乱馬の肩にしがみついている。
と、黒い煙状の霧が、すうっと廊下の奥から姿を現した。霧というよりは、触手と言った方がよさげだった。
そいつは、ゆらゆらと襖の向こうで揺れていた。ジジジっと小さな音が真っ赤な光と共に漏れてくる。
その音に反応したのか、あかねが耳を抑えて、蒲団に膝まずいた
「いや…やめて…。」
頭を抱えて、うずくまる。
「てめーっ!何だ?」
乱馬はあかねを抱えながら、煙に向かって気焔を吐きだした。
『そう身構えなくても良いですよ…。まだ、今夜は闇が満ちていない。…でも、次の朔の晩は、必ずこの娘をお迎えに上がります…。』
あのバラの青年の声と同じだと、乱馬は瞬時に感じ取った。
「てめー、ふざけるなっ!」
『っと…、気弾を打つおつもりでしょうが、この真夜中に、そんな物騒なものを解き放ったら、この家ごと吹っ飛びますよ…。』
確かにそうだ。この真夜中に、家の中で気弾を打つわけにはいくまい。
『大丈夫です。今夜はこのまま引きあげます…。』
くすっと闇が笑った。
『それから…早乙女乱馬さんにお伝えください。朔の夜にはぜひとも、お手合わせしましょうと…。確かによろしくお願いしますよ…勇敢なお嬢さんと子豚ちゃん…。』
そう告げた声の主は、目の前の女が乱馬と同一人物と知っている訳ではなさそうだった。
一度、襖の前でくるりと一回転すると、すうっと闇に溶けて消えていった。
あかねはガクンと頭を落とし、気を失っている。
何か奴にされたのか、それとも、単に恐怖で動転したのか。
慌てて乱馬はあかねをその腕に抱く。もちろん、女の身体で。
(次の朔…新月…。守ってやる…いや、絶対守らねば…あかねは俺の大切な存在だ。誰にも渡さない…渡してたまるか!)
襖の向こうの闇に、乱馬の心の声が沁みわたっていった。
第八話につづく
やっと大きく物語が動き出します…多分ですけれど(汗
なお、私には良乱や乱良の属性は、全くありません。腐女子方面の創作は一切しません。なので、この挿話もギャグとして扱ってくださいませ。(別分野で数作、書いたことはありますが、やっぱり無理という自己判断に至ったので、以後やめとります…。)
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