◇まほろば
第五話 乱子とあかね
十、
あかねが退院した日。
その日から乱馬は、「女の子」のままで居ることを強要された。
そう。記憶が無くなったままのあかねの前では、男に戻ることを、禁じられたのだ。
「今のあかねには、君たち親子ことも、記憶に残ってはいまい。それに、変身する人間など目の当たりにしたら、ますます、混乱を招いてしまいかねないからね。」
早雲が、壮絶なおかず争いの結果、パンダと女の子に変身してしまった、ずぶ濡れの玄馬と乱馬、父子に釘を刺したのである。
「この場合、しゃーねぇーか。」
ふうっと、溜息が漏れた。
が、内心、ホッとしたのも、正直なところである。
あかねが乱馬の記憶を無くしている現状のもとで、男の姿で同じ屋根の下で過ごすことは、ある意味、もっと、複雑な問題を孕む。
早雲の言には、一理あるのも理解できた。確かに、変身自在の人間など、同じ屋根の下に同居しているとなると、あかねも混乱するに違いない。
勿論、問題は、それだけではない。
早乙女乱馬が天道あかねの許婚であることを、どう、彼女に説明するべきなのか…。当事者のクセに、迷宮に入り込んでしまっている。
肌身離さす持っていた指輪の小箱を、そっと座卓の上に置いた。折りたたみ式の、小さな四角い座卓は、乱馬専用の机となっていた。当然、引き出しなどという物は無い。が、ここに本を広げて、宿題をすることもままあった。
ホワイトデーは、とっくに過ぎ去ってしまった。暫くは渡せない。そう、思ってのことだった。
もちろん、今すぐにでも渡したい気持ちはある。が、色々と状況がこじれてしまった現状では、不可能に近いことは、自分でも納得していた。
赤い包装紙の小箱を置くと、そのまま、手枕でゴロンと横になった。脚は座卓に突っ込んだままだ。
当のあかねは、ジャイアントパンダが家の中をうろうろしていても、左程、気にしていないようだ。
普通なら、パンダが家に居るだけで、度肝を抜いているのだろうが、あかねは至って平然としている。乱馬にとっては、そのことの方が、不思議でならなかった。
ぽかぽか陽気の昼下がりとはいえ、北側に面している彼の部屋は、少しひんやりとしている。
「たく…。ざまあないのう…。」
影が己の頭上にさしたかと思うと、ザアッとやかんから湯が注ぎ込まれた。
「なっ!いきなり何しやがる!」
ガバッと置き上がって、玄馬の胸倉をつかみかかる。
「親父っ!てめー、おじさんにずっと変身したまま居ろって言わたこと、忘れやがったのか?」
と、食ってかかった。
「それは、あかね君の前での話じゃろー?」
「だからと言って、下手に戻って、あかねに見られたら、どーすんでいっ!」
「別にどーってことなかろう?」
父親に軽く言い飛ばされた。
「親父…てめー。」
ギュッと拳骨を握りしめたのを制しながら、玄馬は言った。
「さっき、あかね君は天道君とかすみさんと一緒に買い物に出かけた。」
「あん?」
「雨も上がったから、散歩がてら、ぐるっと巡ってくるそうじゃ。一時間は帰らんじゃろう…。」
「だから?」
「たく…そんなことでは、早乙女流二代目の名折れぞ!とっとと、着替えて道場へ来いと言っておるんじゃ。」
「はああ?」
ますます、父親の言が意味不明に陥って、素っ頓狂な声を張り上げる乱馬。
「今後、暫く、変身した姿で居なければ、ならんのじゃ!あかね君が留守にしておるときくらいしか、男には戻れん。この、好機を逃すな!いいから、とっとと道場へ来いっ!修行するぞっ!」
玄馬は機関銃のように、言いたいことを口にすると、とっとと階下へと降りてゆく。
「わかったよ…。」
父親の言いたいことが理解できた乱馬は、ゆっくりと重い腰を上げる。
確かに、あかねの不在は、男に戻って修行するチャンスの到来でもある。
その、短い時間を有効に使えと、珍しく父親らしい言葉を、玄馬が投げかけてきたのだ。
乱馬は押入タンスから道着を出すと、ぎゅっと黒帯を締めた。
(近いうちに、あいつとやりあわねーと、いけねーかもしんねーんだ…。修行を怠る訳にはいかねー。)
あいつ…。あかねの病室に真っ赤なバラの花束を届けに来た、青年だ。風林館高校の制服を着ていたが、どうやら、生徒ではないらしい。
あれから、なびきが、己の情報を見なおしていて、そう断言するように乱馬へと耳打ちしてくれたのだ。
『調べてみたんだけど…。どこにも、あの人の痕跡を見つけることができなかったわ。』
こそっとそんなことを吐き出していた。
もちろん、あの男に意味深な言葉を投げられたことを、なびきに明かした訳ではないが、乱馬を警戒させるのに、充分な情報であった。
(あいつ…相当、強い筈だ…。)
道着に着替えると、階下へと下って行く。
確かに、家の中には、あかねの気配が無かった。父親の早雲と、姉のかすみと一緒に、でかけたと、玄馬が言ったことも、まんざら嘘ではないようだ。
茶の間では、なびきが、雑誌を流し読みしながら、連続ドラマの再放送を見ていた。
台所にある裏口から、つっかけ草履で道場へと回る。
「遅いぞっ!」
先に入っていた玄馬から声を出された。
「うるせー。道着に着替えろって言ったのは、そっちだろーが!」
「時間が勿体ない!来いっ!久々に、組手じゃーっ!」
「じゃ、遠慮なく、行くぜっ!」
白と白の道着が、交差する。
思えば、父とさしで取っ組み合うのは久しぶりだった。
サボっていた訳ではないが、あかねの入院以来、心そぞろで、修行にも集中できないでいた。
そのせいかどうか。身体の切れが悪い…そう感じた。
身体は至極、正直なのである。気合いを込めずに、修行していた結果は、すぐにも露呈してしまった。
「でやっ…ったああーっ!」
すぐに、父親につかまると、胸倉をグッとひきつかまれ、次の瞬間、空を舞っていた。
「何を、こんなものっ!」
クルクルと回転して、床板に降りた途端、右足を玄馬に引っかけられたのである。
「で?」
予測外の玄馬の動きであった。そのまま、すくわれた足は、床板からズルッと滑った。
「わああっ!」
声を荒げた途端、尻から床に落下する。
ドタンという、大きな音と共に、激しく打ち付ける。思い切り尻もちをつかされたのである。
「たく…情けないのー!」
見上げる玄馬が、腕組みをして、無様に投げ出された息子を見て、溜息をはきかけた。
「てめー…姑息な手を…。」
みっともない姿を見せつけた乱馬は、思わず負け惜しみを口にする。
「何を言うか!勝負に姑息も何もないわいっ!もっと、相手を見極めて、先を読まんか!このバカ息子っ!」
ポカリと頭を拳骨で叩かれた。
「それに…情けないぞっ!足元を救われて、踏ん張りもきかんのか?貴様はっ!」
玄馬は、不甲斐ない息子を見下ろして、煽るような言葉を投げつける。
「うるせーっ!」
「ほらっ!次じゃっ!時間が勿体ないぞっ!バカ息子っ!」
「バカは余計だっ!バカ親父!」
乱馬の闘争本能のスイッチが、入ったようだった。
ここは、格闘バカ親子だ。それぞれ、格闘修行に明け暮れてきた。共に、闘争本能が芽生えた時、無限の集中力が投下される。
結果…。周りの状況が目に入らなくなる。
目も耳も鼻も、身体全ての感覚が、目の前の「対戦」にしか集中できなくなるのだ。
それは、ごく自然な摂理でもあった。闘いは気を削がれた方に、負けが生じる。従って、闘いに集中しているときは、他のことに、一切、気が回らなくなる。
この時の早乙女親子も、まさにそうで、勝負にしか神経が集中できなかった。
結果…、時間の経過も忘れて、無我夢中で身体を動かし続ける。おまけに、共に、実力も拮抗している。ということは、簡単に勝敗は決まらない。また、試合ではないので、無制限一本勝負だ。体力が削がれた方が負けとなるまで、延々と繰り出され続ける、蹴りや拳。「他人の経営する道場」という制限つきの閉鎖空間での勝負なので、「気技」だけは封印しているから、余計に、勝敗はつかない。
そう…二人とも、あかねが帰宅してきて、道場の入口で、買い物袋を下げながら、じっと、闘いぶりを、瞬きするのも忘れて見入っていたことに、気がつかなかったのだ。その背後で、かすみと早雲が苦笑いを浮かべていた。
先に気が付いたのは、乱馬の方だった。
玄馬に襲いかかろうと、飛び上がった瞬間、玄馬の後ろに、その姿を認めたのだ。
「え?あかね?」
ハッとした瞬間、玄馬の蹴りが真正面から飛んできた。
我に返り、咄嗟に右に避けたので、直撃は免れたが、バランスを崩した。その好機を、玄馬が見逃す訳がない。
「貰ったっ!」
右手を乱馬目がけて、打ちおろして来る。
「クッ!」
乱馬も負けじと、際どい体制から、拳を打ち返す。
ガツン…
互いの拳が弾けて、力を相殺した。
「まだまだぁっ!」
拳の襲撃が不発に終わるや否や、玄馬が後ろに身を引いて、攻撃態勢を整えようとした。
「待てっ!親父っ!タンマだタンマッ!」
慌てて、乱馬が休戦を申し入れる。
「何、戯言を!まだまだこれからだぞっ!乱馬っ!」
更に攻撃を加えんと、いきり立った玄馬に、乱馬が大声でそれに応じた。
「あっち!あっちを見ろって!」
「フン…そんな古い手に引っ掛かる父ではないわっ!」
どうやら玄馬は、息子が気を反らせようという手段に転じたと思ったらしい。
容赦なく、拳を差し向けて来た。
己に向けて繰り出されて来た父の拳を、大人しく身体で受けるほど、乱馬もお人好しでは無い。
「だから、待てって言ってるだろーが、バカ親父ーっ!」
そう叫ぶと、己に向けて差し出された玄馬の右手へ、ガシッと突っかかる。そして、そのままの勢いで、放り投げた。
バシン!
鋭い音がして、玄馬が天井を仰ぎながら、床に投げ出された。
「うーぬ…。まだまだぁっ!」
が、即座にまた、攻撃態勢を取ろうと、起き上がって来る。
しつこい、しぶとい…それが、玄馬の持ち味と言ってしまえば、それまでだが、乱馬はこれ以上闘いを続ける気持ちは萎えている。背後に天道早雲とあかねが目を瞬かせて、二人をガン見していたからだ。
悠長に取っ組み合いを続けている場合ではない。
「だから、やめろって言ってんだよ。」
大慌てで、つかみかかろうとする玄馬を身体ごと抑え込む。
「貴様っ!臆したかっ!」
息子が止めに入る理由が理解できず、食い下がろうとする玄馬。
「臆した…とかいう問題じゃ無え…。あれを見ろ!あれをっ!」
乱馬は背後へと親指を立てた。
百聞は一見にしかず…そう思って、早雲とあかねの立っている方向へと、玄馬の視線を誘ったのである。
「見ろとは何をじゃ?」
「だから、その眼、かっぽじって、よっく見ろっ!」
辛抱たまらず、乱馬はガッと玄馬の頭を両手でつかむと、思い切り、横を振り向かせた。
「げ…。天道君…。」
さすがの玄馬も、乱馬の言わんとしていたことに気が付いたらしく、そのまま絶句する。
「だから、言っただろーが…。おじさんとあかねが帰って来たんだよ…。」
ぼそぼそっと耳元で乱馬が玄馬へと言葉を吐き付けた。
「おい…親父…これって、思いっきり、不味いんじゃねーのか?」
「あは…あはは…。思ったより、帰還が早かったみたいだね…。」
顔をひきつらせている玄馬に
「どうするんだよ?この場をどうやって乗り切るつもりなんだ?」
乱馬がぼそぼそっと吐き付けると、やおら、玄馬は立ち上がって、愛想笑いを浮かべて、早雲へと言葉を投げた。
「こりゃあ、こりゃあ、天道君!久しぶりだねー。」
と、乱馬には意味不明な言葉を、あっけらかんと、早雲へと投げかけた。
「いいきなり何を言い出すんだ?親父…。」
「いいから、貴様もワシに合わせろっ!」
ごそごそっと玄馬が言い放つ。
「君が留守の間に、道場を貸してもらっていたんじゃよー。天道君。いやあ…やっぱり、道場での組手は愉しいねえ…なあ、乱馬よっ!」
バシッバシッと乱馬の背中を叩いた。
どうやら、このパンダ親父は、勝手に状況をでっち上げようとしているらしい。
玄馬の言葉を受けると、
「何だ…そういうことだったのかい…早乙女君。」
引きつった顔をしながら、早雲もこちらへとやってきた。
「一体、何をやってるんだね?君たちは。」
「あ…いや、天道君とあかねちゃんが留守の間に、ちょっと稽古を…。」
「稽古だったら、パンダのままでもできるのではないのかね?」
「ちょっと、こいつに気合いを入れたかっただけじゃよ。」
「気合いなら、女のままでも入れられるんじゃないのかね?早乙女君…。」
「もう、ばれちゃったんだから…。そう…固いこと言わずに…。」
「で?この落とし前はどうつけるんだい?」
「変身したところを、あかね君に見られた訳ではないから、誤魔化す。」
目を丸くして、まだ、入口付近で突っ立っているあかねには、聞こえないように、ぼそぼそと親父たちは言い合いを続ける。乱馬も黙って、二人のやりとりを傍で聞いていた。
「ワシらがここに、尋ねて来て、君が不在だったから、勝手に道場に上がり込んだ…という設定で、行くからね。合わせてくれよ、天道君。」
「もう…本当に、しょうがなんだからー…。君たちは…。」
苦笑いを浮かべている早雲だが、玄馬の言に乗ったようだ。
「あ…あかね。」
そう言って、早雲は、あかねへと振り返る。
「この人はお父さんの、親しい友人でねえ…。早乙女君って言うんだ。」
とわざとらしく、芝居を打って見せる。
「早乙女玄馬と言いまーす。よろしくね…。あかね君。」
頭を掻きながら、玄馬があかねへと声をかけた。
あかねは、父親に紹介されて、コクンと頭を垂れた。勿論、戸惑い気味に、小さくだ。
自分の家の道場で、激しく組手をしていた玄馬と乱馬に、すっかり気後れしてしまって、委縮している様子だった。
「これは、ワシの息子の早乙女乱馬じゃよ。」
玄馬は乱馬の頭を押さえこんだ。
「あ…お…俺、乱馬です。」
この場合、どうリアクションしたら良いのかわからずに、乱馬もしどろもどろで答えた。
(いや…病室で何度か、顔を合わせてっから…こういう返答も変なんだけど…。)
という違和感を感じつつも、玄馬に合わせていた。
とにかく、何で自分たちがここに居るのか…適当に理由を作って誤魔化さなければ…という思いの方が強い。
「もう…留守中に、ドロボーが入ったのかと思って、びっくりしちゃったじゃないかー、早乙女君ったら…。」
「いやあ、すまんね。勝手に上がり込んじゃって。わっはっはー。」
肩を叩きあって、わざとらしい会話を、あかねに見せつけている、父親二人。その傍で白んだ瞳を手向ける乱馬。
早雲は、玄馬と乱馬を、客間に通した。
一応、客人という扱いになるのが、自然の流れだ。
客人として来ているのに、道着姿は変ではないかと思うのだが、背に腹は代えられない。
早雲と玄馬の、わざとらしい「会話」をぼんやりと聞き流しながら、乱馬はちんまりと、座布団の上に乗っていた。
向かい側に、あかねとなびきも坐している。かすみが茶菓子を持って来る。
何故だか、天道家の茶の間がそのまま客間に移動したような感じだ。
なびきは、しらっとしながら、茶菓子をほおばっているし、かすみは、まったりと笑っている。
のどかは、朝からどこかへ行ってしまっている。恐らく、彼女の稼ぎ口でもある、お茶かお花の出張講師だ。
あかねは緊張しているようで、口をへの字に結んだまま、にこりともしない。
この客間の空間は、天道家であり、天道家ではない…。あかねの記憶が欠落してしまっているからだ。
かすみがいれてくれた、熱いお茶を口に運びながら、乱馬はその空間が、痛々しく思えて仕方が無かった。
喜怒哀楽のはっきりとしている、あかね。今の表情は暗い…乱馬にはそう映った。
(やっぱり、この前のこと…気にしているのかな…。)
ちらっちらっと伺いながら、乱馬はそんなことを思った。
あの時は、一瞬だったが、「好い雰囲気」になりかけたのに…。三人娘の乱入で潰えた。
乱馬とあかねが近づくのを良しとしないぞ…という、三人娘の横槍だったのかもしれない。
あかねはずっと、視線を乱馬と合わそうともしない。わざと避けているようにも見えた。
前に一度、シャンプーによって、乱馬の記憶だけ奪われてしまったことがあったが、あの時の憔悴とは全く違っている。あの時は、乱馬の記憶だけが、きれいさっぱりと抜け落ちていただけで、あかねの性質が変わった訳ではない。
今回は…。
まるで、借りて来た猫のような、あかねがそこに居る。
元気の塊が、存在感も薄い影のようになってしまっている。
その原因を引き起したのは、己の「優柔不断」だ。
乱馬は乱馬で、自責という迷路へと、はまり込んでしまっている。
今のあかねを、得意の「悪口」で煽る訳にもいかなかった。あかねの返しがわかっているからこそできる、掛け合い。それが封印されてしまったことが、こんなにも心苦しいことなのか。
痛い時間を客間でじっと耐え、夕刻が迫る頃、玄馬と一緒に天道家を辞する形で、その場を立ち去った。
「とっとと、公園で変化して戻って来てくれたまえよ…。早乙女君。」
去り際、早雲が玄馬の道着をつかんで、耳元でそう囁いた。
「で…今後、風呂以外では絶対に、その姿をさらさないでくれたまえよ…。今度、晒したら、追い出すよ…。」
と、念を押す。
「あは…あはは…。だねー。以後は気を付けます…。」
玄馬は、早雲の形相に、肝を冷やしていた。そのまま、巨顔化してしまいそうな、早雲の気迫に、乱馬も、おののいてしまったくらいだ。
十一、
「どこへ行ってたの?乱子ちゃん。」
公園で水を浴び、変身して戻ってきた乱馬を、玄関先捕まえると、あかねは、ぼそっとそんな言葉を吐き出した。
背後には、一緒に玄馬も居る。もちろん、パンダ化している。
(いや…ずっと、家に居たんだけど…。)
そう言葉を飲み込みながら、
「ちょっと、お散歩に行ってた。」
と言って、軽く笑って見せた。
「パンダちゃんのお散歩?」
「ええ…まあ、そういったもんだな…。」
そう言って誤魔化すしかあるまい。
二人の雰囲気を察したのか、玄馬は玄関の引き戸を締めると、トトトトトっと三和土を上がって、奥へ入ってしまった。
乱子を見て、あかねの表情は変わった。
相変わらず、大人しくて、覇気も無いが、それでも、幾分かは和らいで見えた。
さっき、客間で垣間見た、緊張した表情とは一変していた。
女の子らしく取り繕ったところで、芝居はばれるだろうから、ごく自然体で居ることにした乱馬。
つまり、姿形は女でも、心根は男だ。言葉も粗ければ、女性らしい柔らかな雰囲気などない。
世の種族で言えば、「ボクっ子」…いや、乱子の場合は「俺っ子」だ。
早雲をはじめ、天道家の人々は、付け焼刃は返って変だということを、理解しているのだろう。
女化していても、乱馬が素のまま、「乱子」を演じていても、とがめることは無かった。
(たく…普通、パンダが家の中をうろついてたら、驚くもんだろーが…。)
内心、苦笑いを浮かべつつも、茶の間へ入って行く。
「おい…親父…。てめー、家族と一緒に夕飯食う気か?」
ぼそぼそぼそっと乱馬が玄馬に話しかける。
『当然じゃ!』
さっと玄馬が看板を掲げる。
「パンダって、人と同じもの食うんだっけ?…あかねに疑問を持たれたら、どーすんでいっ!」
『あかねくんなら、にぶいから大丈夫だ』
「確かにあいつは、にぶいけどよー…。」
ふっと溜息を吐き出したところで、あかねが入って来た。手には夕飯のお皿が盛ってあるお盆を携えている。
その中央に、得体の知れない、黒々としたものが、混じっていた。
「ねえ…あかねちゃん…。」
乱馬は思わず、あかねへと声をかけた。一応、呼び捨てにするのも躊躇われたので、「ちゃん」付けで呼びとめる。
「なあに?乱子ちゃん。」
「もしかして…料理…手伝った?」
「うん!」
意図も明るく答えられた。
「この黒いの…。」
恐る恐る指をさして見ると、微笑みと共に、コクンと頭が揺れた。
「それ、あたしが作ったの。」
白い歯を出して笑った。
「そっか…。手伝ったのか…。」
乱子の背中を、たらーりと、脂ぎった汗が流れて行く。
「食べてね、乱子ちゃん。」
恐ろしい言葉が付け加えられる。
「まだまだ、たくさん、お料理を作ったから…期待してて、乱子ちゃん。」
と台所へお盆と共に戻って行った。
ポンと横から、なびきが肩を叩いて来た。
「相当、張り切ってたみたいよ…。それ作るのに。」
「で?」
「わかってると思うけど…。拒否らないで食べなさいよ。」
「何で?」
思い切り、強い口調で答えてしまった。
「許婚でしょーが…。」
「あのなあ…今の俺は女なの。乱子なの!だから、許婚の乱馬じゃねーのっ!」
ムスッとした表情で言い返す。
「あの、あかねの笑顔に、水をさすことができるの?あんた…。」
そう言って、なびきは、ふふんと鼻を鳴らした。
あかねは、嬉々としながら、のどかと一緒に、料理を台所から運んで来る。
確かに…。その笑顔は、生き生きして、輝いている。
(確かに…。拒否は出来ねぇー…よな…。)
手元にある、お皿の中には、明らかに「得体の知れない物体」がいくつか混じっている。
全員揃っての食卓は、華やいで見えた。
昨日まで、乱馬の横は空席だった。が、今は、あかねがチョコンと座っている。
それが、記憶を無くした彼女であっても、自分が女性化していても…心は弾んでいた。
あかねが戻って来て、傍に座ってくれているだけで、ちょっとした幸せな気分になる。
なびきが指摘したとおり、彼女に料理をすすめられたら、食べずにいられまい、たとえ、それが、地獄行きのの味付けだとしても。
天道家の面々も、慣れたもので、押し並べて箸はあかねの作った(と思われる)不可解な物体を器用に避けていた。
それに気付くと、あかねの顔が少し曇る。
「あたしの作ったの、誰も食べてくれてないわ…。」
「気のせいだよ…気のせい…。」
あはは、と早雲が笑った。
「大丈夫よ…乱子ちゃんが食べてくれるから。」
なびきが、一言、乱馬へと投げた。
ギクッと揺れる肩。要らんことを言うな…となびきへときつい視線を投げかける。
「乱子ちゃんは、好き嫌いがないから、何でもばくばく食べられるものね。」
と、煽るように言い放つ。明らかに、乱馬の反応を楽しんでいるようだ。
「わあ…乱子ちゃんが食べてくれるのね。」
ぱあっと、あかねの顔に笑顔が栄えた。
その笑顔に、ドキュンと一発、心臓をわしづかみにされたような気がした。
(こりゃ…逃げられねえな…。)
女化していても、心は男だ。それも、あかねに激惚れしている。
(腹くくるしかねーか…。)
じっと見つめるテーブルの上。
「得体の知れない固形物」が、皿の上でその異様な輝きを放っている。
恐る恐る近づける箸。それをじっと見詰めてくる、熱い瞳。
コンと目の前に水がいっぱい入ったコップを置く。そして、あかねの作った物体へと箸を伸ばした。
「なあ…これ、何だ?」
一応聞いてみた。
「コロッケ。」
即答された。
「コロッケねえ…。中味もあかねが作ったのかな?」
「うん!お姉ちゃんに教わりながら、作ったのよ。ちょっと揚げ過ぎちゃって、真っ黒になっちゃったけど。」
(ちょっとって代物じゃねーぞ…。揚げ過ぎて衣が破裂して、中身が飛び出して一緒に焦げ付いてやがる…。)
ゴクンと唾を飲み込む。
(仕方ねーか…俺が食ってやらねーと…誰も手をつけねーよな…。)
「じゃ、いただきます。」
箸を持って、手を合わせると、食い遂せるように祈りながら、ぱくっと一口。
即、広がって行く、異様な味覚。喉の奥へは入って行かなかった。
いつもなら、一かけらくらい食べ切る乱馬ではあったが、この日は、一発撃沈。
白目を剥くと、天道家の面々がじっと、見詰める中で、真後ろに倒れて行った。
遠くで、あかねが自分のことを、「乱子ちゃん!」と連呼しているような気がした。
(たく…。記憶を失ったことで、逆に、増強されてねーか…。その味音痴…。)
遠のく意識の下で、がっくりとうな垂れる。
次に目が覚めた時は、そのまま、茶の間のこたつの中で横たわっていた。
そんな乱馬を心配げに眺める、二つの瞳と視線がかち合った。
あかねである。
「大丈夫?乱子ちゃん…。」
心配げに声をかけてきた。
「あ…ああ。何とかな…。」
そう言いながら、どっこらしょと、身体を起こした。
「ごめんなさい…。あんまり美味しくなかったみたいで。」
「まーな…。」
どう、言葉を返すべきか、迷いながら、乱馬が答えた。
すっかり、あかねは意気消沈している…。そんな気配が見て取れたからだ。
家族たちは、茶の間から離れていた。時計の針を見上げると、十時を回っていた。
天道家の人間は、押し並べて就寝が早い。健康的な家族であった。
「ずっと、見守ってくれてたのか?」
乱馬はあかねへと声をかけた。
コクンと揺れるあかねの頭。
「そっか…。」
ふっと乱馬の瞳が柔らかくなる。
慰めの言葉を、一つでもかけたいところだが、何も浮かんでは来ない。代わりに、悪態が口を吐く。
「たく…。久々に、凄いもん食ったぜ。」
と、吐き出してしまった。
「凄いもの?」
あかねがきびすを返して来た。
「ああ…。おまえの作る物だよ…。俺、おまえの料理で毎度毎度…ひでー目にあってるからな。」
ちょっと意地悪な顔つきであかねへと、言葉を返す。
「ごめんなさい…。」
しゅんとしてあかねが、俯いた。
「ま…でも、安心したぜ。」
「安心?」
「ああ…。記憶を失っちゃいるが、おめーはおめーだからだよ。」
ポツンと投げる本音。
「あたしはあたし?」
「そうだよ。おまえは、何も変わっちゃいねー。…だから、安心した。記憶が無くても、あかねは…あかねだ。」
にっこりとほほ笑んだ。
「乱子ちゃん…。」
その言葉に、何か感じることがあったのだろう。あかねの瞳に涙が浮かんだ。
「おい…泣くなって…。」
記憶を無くしていても、あかねがあかねであるように、女に姿をやつしていても、乱馬は乱馬だ。目の前で女の子に泣かれると、狼狽してしまう。それが、惚れた娘なら、尚更のこと。
「うん……ありがとう…乱子ちゃん。」
見事な泣き笑い。その笑顔に、ガツンと一発。心にカウンターパンチが入った。
「あかね…。」
愛しさがこみ上げてきて、あかねの頬へと自然に手が伸びた。
が、さし出した己の指先を見て、ハッとする。
そこにあるのは、女の細腕と小さな指。
男(本当)の自分の手ではない。
(今の俺は…乱子。乱馬じゃねえ。)
寸でで、止めた手を、ギュッ、と胸の前で握りしめた。
「乱子ちゃん?」
乱馬の複雑な心の動きを、察したのか、あかねがキョトンと声をかけてきた。
「あ…いや…。何でもねえ…。」
慌てて右手を引っ込めると、笑って誤魔化しにかかる。
「それより、もう遅いから…。寝ろよ。退院したばかりだから、疲れてるだろ?俺も、部屋に戻って、蒲団で寝るからよ。」
そう言って、慌てて、あかねの前から立ち去る。そうするしか、術が無かった。
複雑な想いが、とうとうと流れて行く。
(あかねはあかねなのに…俺は…。)
己を偽っている自分への憎悪感が、心の中に広がって行く。
(本当の自分を、あかねの前に晒すこともできねえ…。)
だからと言って、男の姿に戻る勇気も、持ち合わせていない。
後ろ手に、自室の襖を閉めながら、ふうっと大きな溜息を吐きだした。真っ暗な闇の中、手さぐりで電灯の紐を引っ張る。
パチパチっと時間差を置いて灯る、蛍光灯。その明るさに、思わず目を伏せる。
座卓の上に置かれた、小さな小箱に瞳を落とし、サッと目を背けた。
「寝よう…考えていても、どうしようもならねえ…。この体質だけは…。」
あきらめとも、居直りとも言えそうな言葉を、吐きだすと、押入れから蒲団を引き出して、畳の上に広げた。
そして、徐に、潜り込む。
ふて寝しても、どうなる訳でもあるまいが、一旦、思考を停止してしまいたかった。それが、抜本的な解決にはならないとわかっていても。
浅い春の夜は更けていく。
空にうっすらと、雲がかかり始めたのか、星もさざめいてはいなかった。
第六話につづく
本当はもうちょっと、第五話を長く書き下ろしたかったのですが、次のエピソードは第六話へ繰り越しました。
故に、他の話より第五話は、ちょっとボリュームが少なめです。これでもね(汗
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