◇まほろば 4

第四話 退院前後

八、
 病院から逃げるように帰って来た乱馬。
 その後ろを、一緒にくっついて来た、白い犬。オス犬だ。
 首輪は無いが、どこかで飼われているのだろう。やせ細るでもなく、艶やかな毛並をしていた。
 利口そうな顔つきをしていた。
 
 とうとう、天道家の門戸の前まで、くっついてきてしまった。

「おい…。…ここから先に、入らせる訳にはいかないぜ。犬っころ。」
 後ろの犬に向かって、乱馬は苦笑いを浮かべながら、話しかける。
 犬はじっと乱馬の瞳を見据えたまま、尾っぽを振り続けている。
「めしでも貰えると思ってるのか?」
 その言葉に、オンと一声、犬は吠えた。
 まるで、そうだと言わんばかりの声だった。
「でも、生憎、俺には決定権の一つだってねーんだよ…。俺も居候の身の上だから。」
 そんな言葉を吐き付けるが、犬に理解できる筈も無い。犬は、相変わらず、尾っぽを振り続けている。
「だから…一緒に入れねえって…。」

 門戸の前で、犬とそんな光景を繰り広げていると、中から人の気配がした。

「あら…。乱馬君。何やってるのよ、玄関先で。」
 ひょいっと声をかけてきたのは、なびきであった。
 新聞受けを見に出てきたようで、脇に夕刊を抱えていた。
「いや、犬が一緒にくっついて来ちまって…。」
「犬?どこに犬なんて居るのよ。」
 なびきが不可思議な顔を突き返して来た。
「俺の傍に…。」
 振り返っても犬は居ない。あれっと思って、辺りを見回すと、居た。
 道端ではなく、天道家の敷地の中に入り込んで、こちらへ向かって尾っぽを振っている。
 どうやら、なびきが顔を出したすきに、門戸の中へと入ってしまったようだ。
「あ…こらっ!こいつっ!いつの間に!」
 思わず乱馬が声を荒げると、
「あらあら…ほんと。すばしっこい犬ねえ。」
 なびきも一緒になって、振り向いて苦笑いを浮かべた。
「こらっ!ここは、てめーん家じゃねーだろ?とっとと出て行けっ!」
 門戸へ入って、犬へと声をかけるが、如何せん、獣だ。人に従順とて、人語が完全に理解できる訳でもあるまい。犬は、遊んで貰っていると勘違いしたのか、天道家の庭先を、ちょこまかと走り回って、喜んでいる。

「アオンッ!オンッ!」

 嬉しそうに、吠え声を上げながら、跳ねまわる。

「こらっ!こいつっ!」
 捕まえようと、躍起になるが、案外身軽ですばしっこい。乱馬に捕縛されるほど、とろくもなかった。

「何をやっとるんだね?乱馬君。」
 庭先の喧騒を聞きつけて、ガラガラっと縁側の引き戸が開いた。まだ、雨戸はさしていない。
「あ…いえ、こいつが侵入したから。」
 乱馬は早雲へと応え返す。
「おお、これは、小さなお客さんか。」
 早雲は犬を見つけると、そう言いながら笑った。
「犬畜生と言えども、わざわざ訪ねて来てくれたのなら、そう邪険に扱うこともあるまい。いいよ、好きなだけ、泊まっていきたまえ。」
 早雲は犬へとそんな言葉をかける。生来きってのお人好しというべきか、犬に対しても、懐の深さを示す、天道家の主だ。
「でも…おじさん。」
 犬を連れ込んだ手前、少しばつが悪い乱馬だ。縁側の早雲へと言葉を返そうとした。
「いい、いいよ、乱馬君。うちにはパンダだって居候しているのだから。」
 と背後を指差した。
「ばふぉ?」
 白と黒のどでかい毛並が、背後から、にゅっと図体を現した。
 パンダ…もとい、乱馬の父、玄馬の変身体だ。
 目も止まらぬ速さで、(わしゃ、人間じゃが)と書いた看板を差し上げる。
「この図体のどこが人間なのかね?」
 ぶよぶよとした毛皮に、早雲が軽く肘鉄を食らわせる。
「別に、いいんじゃないの?お父さんもああ言ってるから…。犬の一匹や二匹。この家に居候が増えても。」
 呆れ顔でパンダを見上げながら、乱馬へとなびきが言葉を継いだ。

「まあ、おじさんがそう言ってくれるのなら…。」
 そう言いながら、乱馬は犬ころを見返した。
 と、犬は「ワン!」と一声吠える。
「パンダ親父よりも、おめーの方が利口そうだしな…。番犬くらいにはなりそーだし…。」
 ふつっと乱馬の口から、そんな言葉が零れ落ちた。
 
 それから、乱馬は勝手口へと回った。一緒に犬も回り込む。

「あら、かわいらしいワンちゃんね。」
 勝手口の扉を開くと、乱馬の母、のどかが、台所を動き回っていた。あかねの付き添いをしている天道家の主婦・かすみの代わりに、のどかが台所を切り盛りしているのだ。
「オフクロ…人肌のお湯をくれねーかな。」
 乱馬はのどかへと声をかけた。
「お湯?」
「ああ。」
「何に使うのかしら?」
「何でもいいから、くれよ。」
 と声をかける。
「はいはい、ちょっと待っててね。」
 
 暫くして、のどかがやかんに適温の湯を入れて、持って来た。

「サンキュ…おふくろ。」
 乱馬は礼を言うと、渡されたやかんを手に、犬の方へと歩き出す。
「お座り…くれーはできるか?おまえ。」
 乱馬がそう声をかけると、アオンと一声。鳴いた犬は、ストンと腰を落として見せた。
「よっし…いい子だ…。大人しくしてろよー。」
 そう言い置くと、唐突に、犬の身体に、ほこほこと湯気が立ち上るやかんの注ぎ口を手向る。そして、そのまま背中に、しゅばしゅばと湯を浴びせかけた。
 犬は、目を白黒とさせるや否や、腰を上げ、ぶるぶるっと身体を回して、滴った湯水を弾き飛ばす。
 湯煙の向こうには、何の変化もない白い牡犬が、ずぶ濡れになって、佇んでいた。
 びっくりしたのは犬だけではない。
「ちょっと!何、やってんの?乱馬君…。」
 背後に居たなびきが、呆れかえった声を乱馬へと張り上げた。
 それには答えず、乱馬はじっと犬に視線を落とす。
「なんだ…ただの犬ころか…おまえ。」
 犬はしきりに尻尾を立たせて身体を摺り寄せてきた。びしょ濡れにされてもなお、機嫌を取ってくる。
「もしかして、呪泉郷で溺れた人間かとでも、思ったの?あんた。」
「ああ…悪いか?」
 ボソッと吐きつける。
「たく…何、神経質になってんのよ。おかしいわよ。」
 なびきが、指摘して来る。
「仕方ねーだろ?天道家(ここ)までくっついて来たから、念のために確かめただけだ…。」
 ムスッとした表情のまま、なびきへと答えを返した。

 あまりに馴れ馴れしく、乱馬の傍からちっとも離れようとしないので、大方、呪泉郷がらみの客かもしれないと、乱馬は変に気をまわしたのだった。
 呪泉郷で溺れて以来、変身体質になった乱馬の前には、同じ身の上の客人が時々ひょっこりと現れる。
 ときどき飼豚のPちゃん…もとい良牙、猫娘・シャンプー、アヒル男・ムース。迷惑怪人・パンスト太郎、阿修羅変化する娘・ルージュ。スケベ達筆爺・楽京斎に、蛙使い・蛙仙人。あげればきりがないほど、不可思議な迷惑連中が訪れる。
 己に並々ならぬ好奇心を寄せて、くっついてきた目の前の白犬も、案外、呪泉郷で溺れた輩かもしれないと思ったのだ。
 記憶を無くしたあかねが、明日、天道家に戻って来ると言う。ならば、変な生き物を天道家に上げる訳にはいかない…。そう思ったから、念のためにお湯で確かめようとしたのであった。

「よっぽど、乱馬くんのことが気に入ったのね、このワンちゃん。」
 なびきが笑った。
「よせよ…オスの犬に言い寄られても嬉しくネエぞ…。」
 乱馬は苦笑する。
「あらあら…。何を騒いでいるのかと思ったら…かわいらしいお客さんが来ていたのね。」
 乱馬となびきの声を聞きつけて、気になったのか、のどかが勝手口から顔を出した。
「まあ、乱馬ったら、この犬を洗ってあげようとしたのね。」
 ニコニコと乱馬を見返す。
 「のどか」という名前が示すとおり、危機感が薄く、どこか人と違った独特の感性を持った乱馬の母だ。やかんを所望したのは、犬を洗ってやろうとしたからだと、勝手に解釈してしまったようだ。
「犬だって風邪をひいちゃ、可哀そうだから。」
 そう言いながら、大きめのタオルを乱馬へと託す。
「洗った後はちゃんと、拭いてあげなきゃダメですよ。」
 と、頓珍漢な事を言い放つ。
「あ…ああ。」
 母親の言動に困惑の色を浮べつつも、タオルを母親から受け取ると、ごしごしと、犬の身体の水分を拭いてやりにかかる。犬はじっとして、乱馬のなすがままに身体を拭きとっている。本当に、賢い犬のようだった。

「お腹もすいているでしょうから…エサもあげるわね。」
 のどかはそう言って勝手口の奥に消えた。

 身体に残った水分を乱馬に丁寧に拭き取って貰うと、白犬は、何を思ったのか、道場の方へ向かって歩き始めた。
「お、おいっ。何処行くんだよ。」
 乱馬は犬に話し掛ける。
 犬はついて来いと言わんばかりに、尾を振りながら乱馬を振り返る。
「こら、待てって。」
 乱馬は、天道家にそいつを連れ込んだ責任上、目を離す訳にもいかず、犬の歩いて行こうとする方に、一緒に歩み出した。
 トトトトトと軽快に駆けながら、犬は道場の奥へと勝手に入って行く。
 そして、道場の裏側の茂み付近で、ピタッと止まった。庭先を縦横に駆けまわって修行する乱馬も、立ち入らない、茂みだった。裏手なので、窓もない壁際だった。
 犬はその辺りをクンクン嗅ぎ取ると、そのまま、低木の茂みの中へと入っていく。
「こら、どこへ行くんだよ…犬っころっ!」
 乱馬は慌てて、犬にくっつき、茂みへと分け入った。
「この子ったら、どこへ行く気なのかしらねえ。」
 背後から、なびきも、好奇心旺盛の瞳を瞬かせて、くっついてくる。

「あれ…?」

 犬の止まった先を見て乱馬は思わず声を出した。茂みの向こう側に、意外な物を発見したからだ。
 そう、茂みの奥に、小さな井戸を見つけたのだ。
「こんなところに井戸がある…。」
 茂みの向こう側に忽然と現れた井戸。そいつを見つけて、思わず声が漏れた。
 天道家の隅々まで知っている気でいた乱馬だが、今、この犬に促されるまで、井戸の存在を見過ごしていた。
「その井戸ね、今は使ってないけど、随分昔からウチにあったのよ。」
 乱馬の背後から、なびきが声をかけてきた。
「へえ…知らなかったなあ…。」
 乱馬が感心して見せる。
「危険だからって、わざと茂みを生やして、隠しているくらいだからね…。」
「まあ、古いボロ家だから、井戸の一つもあっても、不思議じゃねーけど…。」
 感心しながら、井戸を見た。
「こらこら、ボロ家は言い過ぎでしょーが。」
 一メートル四方あるかないかの、丸いコンクリート枠の小さな井戸だった。釣瓶や排水溝すら存在していなかった。ただ、丸い突出孔に、上から鉄板を敷いて頑強に蓋がなされていた。
 誤って人が落ちないように、そうしてあるようだった。
 忘れ去られた井戸の遺構。そんな言葉がしっくりくる。
「もう、とっくに水は枯れ果てて、空洞があるだけだから、埋めてしまってもいいんだけど…井戸ってなかなか埋められない物みたいなのよ。」
 なびきが背後から、そんな言葉を投げつけて来た。
 犬は木の茂みに覆われた井戸端を一回りして、鼻でくんくんやっていたと思うと、やおら片足を上げてマーキングの行為(もとい、立ちションベン)に打って出た。
「お。おいっ!こらっ!人んチで何するんだよ!」
 乱馬は慌てた。
「まあ、お茶目な犬だこと…。」
 腕組みしながら、なびきも苦笑いを浮かべる。
「たく…何考えてんだよ…おまえは…。ションベンを見せるために、俺をここまで連れて来たのかあ?」
 そんな言葉の一つもかけたくなった。
 犬が小水を落とした少し先…そいつが、キランと煌めいたような気がした。
 豆電球ほどの耀きが、暗くなり始めた庭先で、確かに一度、光ったのだ。
「ん?」
 何だろうと、目を凝らした。
 薄い青い色の輝きが瞬いたように思えた。
「石っころ?」
 乱馬はそれを拾い上げた。
 擦り減った碁石より少し大きめの長細い蒼白な塊だった。真ん中にきれいな丸い穴が一つ開いている。自然石ではなく、明かに人の手が加えられた痕跡がある石ころだった。
「きれいだな…。」
 乱馬が石ころを手に取ると、犬は尾っぽを振りながら見せてくれと言わんばかりに、両足を競りあげて、身を乗り出してきた。その毛並が乱馬の首筋を動いていく。
「おい…こら…くすぐったいぞ。」
 犬の鼻息に思わず身体をよじる。乱馬はバランスを崩して、尻もちをつきそうになった。ぐっと堪える、両足。その辺りは、並みの運動神経の持ち主でないことをうかがわせる。
「何すんだよ…たく…。」
 犬に文句を放った時、また、何かが土の上で光った。
 ハッとして、瞳を巡らすと、同じような石ころがまた一つ、足元に転がっているのが目に入る。
「もう一つあるのか?」
 拾い上げてみると、さっきと同じく、真ん中に穴が開いた石ころだった。違うのは、さっきのが蒼い輝きを放っていたのに対し、今度のは緑色の輝きを放っていることくらいだろう。
 もう一つは、夕闇の中でも、はっきりと見通せるくらい、澄んだ耀きの青と緑の勾玉だった。長さが三センチ、丸い部分の直径が一センチほど。同じくらいの大きさをしている。
 犬は嬉しそうに乱馬の背後から、尾っぽを振りながら、その石ころを覗き込んでくる。

「ふーん、勾玉みたいね。」
 不意に後ろで声がした。なびきの声だ。
 クンと乱馬の肩が上がった。石のことに集中しすぎて、彼女の存在を忘れていたから、驚いて、息を飲んだのだった。
「まがたま?」
 振りかえりざまになびきに問い掛けた。
「ええ。日本史の教科書か資料集にでてきたでしょ。古代人の装飾品みたいな加工品よ。憶えてない?」
 なびきは、小馬鹿にしたように、乱馬を見詰め返した。
「勾玉くれー知っとるわいっ!」
 思わず、声を荒げた。なびきに小馬鹿にされたからだ。
「でも、なんでこんなもんがここに落っこちてんだ?」
 乱馬は更に疑問を投げかけた。
「そんなこと私にわかる訳ないでしょ。それより、あたしにも見せて。」
 なびきが乱馬へと手を伸ばすと、いきなり、犬が低く唸り声をあげた。

 ウ―…と歯茎を剥きだしにして、唸りながら、なびきの介入を拒むような素振りだった。

「何よ…この犬…。私が持ったらダメっとでも言いたいの?」
 なびきが睨み返すと、そうだと言わんばかりに、「わん!」と一言吠えた。そして、なびきを睨み返す。
「わかったわよ…。それで?…乱馬君がそのまま持ってたらいいのよね?」
 
「わん!」

 犬は、また、一声吠えた。

「だってさ…。あんた、責任を持って、その勾玉、所持してなさいよ。それから…一応、うちの庭に落ちてたんだから、天道家のものよ!」
 と、業突く張りのなびきらしく、乱馬へと言葉を吐き出した。
「…たく、何を言い出すかと思ったら…。」
「だって、高く売れるかもしれないじゃないの!」
「おまーなあ…。銭金のことしか、頭に無いのか?」
 ジト目で返答を突き返すと、
「当り前なこと、訊くんじゃないのっ!」
 と吐き出された。
「へいへい…その時が来たら、ちゃんとおじさんに手渡すぜ…ったく。」
「できれば、私に渡してよね。」
「こらっ!天道家の当主はおじさんだろーが!」
「いいの…。お父さんより、私の方が、高く売る自信があるから。」
「この、欲張りめ!」

 なびきは言いたいことを言ってしまうと、、それ以上は突っ込まずに母屋の方へとさっさと引き上げて行った。


 この石ころが実はとんでもない代物だったということは、後々になってから気づかされることになるのだが、その時の乱馬には、この勾玉の重要性が全く判っていなかった。
 二つの勾玉の持つ壮大な霊力に…。そして、それらに振り回されることになろうとは…。

 それはさておき、この白い犬は天道家の食客として、暫らく放し飼いで庭先に置かれることになった。そして勾玉は乱馬が大切に、指輪と一緒に仕舞いこんだのだった。




九、

 翌、三月十六日。

 その日は、朝から、しとしとと雨が降り注いでいた。決して激しい雨では無かったが、雨露がしっとりと庭を濡らす。
 朝ごはんを食べて暫くすると、早雲が、いそいそと出かけていった。
 そう、あかねを迎えに行ったのだ。


 あかねの退院日。

 本来なら、うきうきとする筈なのに、今朝の天気の如く、乱馬の心は晴れなかった。
 昨日、逃げ帰って来てしまったことに起因している。
 それに、記憶が戻って居ないあかねが、家の中に乱馬を見つけたら、どう思うのだろう…。
 何故、乱馬が親子でこの家に居候しているのか。普通に考えれば、困惑して余りある。しかも、「許婚同士」であることも、まだ、彼女には伝わっていない筈だ。

『あなたって、女ったらしなんですか?』
 昨日去り際に、あかねに言われた言葉が、胸に突き刺さったままだ。
 すぐさま、違うと否定したかったが、それもできないで逃げ出してしまった。
 あの時はああするしか、思い浮かばなかった。名うての非常識娘たちの手前だったことも、影響している。彼女たちの前で、下手に言い訳などすると、病室を破壊されかねない。右京はともかくも、シャンプーと小太刀には一切の「常識」が通用するまい。
 いくらあかねが武道に秀でていても、記憶を一切失っている。そんなところに、また、彼女たちの奔放な攻防戦が始まったら…そして、また、怪我でもされたら…。
 あの状況下では、逃げ出すことが最良の選択だった筈だ。

「何か、浮かない顔してるわねえ…。」
 なびきが通りがかりに声をかけて来た。
「別に、そんなことねーぞ。」
「まだ、迷ってるんだ。」
 ポツンと言葉を落とされる。
「迷いなんてねーぞ。」
 不機嫌な言葉を投げつける。
「ホント、器が小さいんだから…。うじうじと悩んじゃってさ。」
「うるせーっ!」

 あかねのすぐ上の姉は、乱馬の心を見事に見透かしている。
 同居人であるからこそ、これから起こる、ハプニングを予想して、楽しんでいるのかもしれない。つい、そんな余計な感情に囚われる。

 あかねは昼食を病院で済ませてから、かすみと早雲に伴われて、帰宅してくることになっていた。
 退院の手続きや、これからの治療の相談など、いろいろこなしてこなければならない、用事もあるからだ。

 雨は止むことも無く、ずっと、庭を湿らせ続けている。

「あかねちゃんたちが帰って来る前に、ご飯を済ませておきましょうね。」
 かすみの代わりに、天道家を預かっている、乱馬の母・のどかが声をかけた。
 彼女によって、食卓が並べられる。かすみと早雲、それから、あかねが居ない現況では、乱馬と玄馬となびきとのどかの四人しか食卓に居ない。四人も居れば十分賑やかだと思われるのに、寂しい気がした。
「今夜からは、全員揃うのよね。お祝いだから、ご馳走するわ。」
 のどかが、にこにこと笑っている。
「ご馳走、賛成!」
 玄馬がカラカラと笑った。
「たく…貴様は気楽で良いよな…親父。」
 つい悪態が口から溢れ出す。
「何を言う!あかね君が折角帰ってくるんじゃ!陰気を醸し出してどうするぞ!ほれ、乱馬。貴様ももっと、嬉しそうな顔をせんかっ!」
 バシッと背中を叩かれた。
「いってーなっ!何しやがんでーっ!」
 つい、声を荒げてしまった。
「おまえは、あかね君の許婚じゃーがっ!もっと覇気をしっかり持たんでどうするっ!」
「許婚ったって…てめーらが勝手に決めただけだろーがっ!」

「食事くらい静かに食べさせてほしいわね。」
 ふうっとなびきが溜息を吐きだす。

「あらいけない…シロちゃんにもご飯をあげなきゃ。」
 のどかが、思い出したように声を出した。
「シロちゃん?」
 怪訝な顔をして、母親を見返した乱馬。
「ええ…呼び名がないのも不便だから、シロちゃんって名前をつけてみたんだけど…。」
 チラッと縁側の外を見ると、白犬が、窓越しにこちらをじっと見ていた。
「シロ…。見たまんまのネーミングだな…。」
「その、まんまが良いんじゃよ。素直な母さんらしいわい。」
「ほほほ…あなたったら、お上手ね。」
 そう言いながらのどかはご機嫌で台所へと入って行く。

「子供の前でいちゃつくな。」
 ボソッと玄馬へと苦言が漏れる。
「好いじゃろ?今は天道君も留守なんじゃし。」
「けっ!おじさんの前では、いちゃつけねーってか?」
「当り前じゃ!これでも気を遣っておるんじゃぞ!」

「もう…いいから、静かにご飯を食べさせてくれるかしら…。」
 再び、なびきが声を出した。

 早雲、かすみ、あかねが居ない現在、天道家の屋根の下、早乙女家の中になびきが一人混ざっている…そんな、不思議な空間が広がっている。
 もっとも、静かな食卓風景が、続くような、甘い事態ではないことは、早乙女家…いや、早乙女父子の常でもある。
 折に触れて勃発する「親子間の争乱」。
 もくもくと箸を動かしていた乱馬の隙を狙って、玄馬が己の箸を繰り出してくる。

「これ、もーらいっ!」
 そう言って、乱馬が食べようとした、コロッケを掴み取った。
「あーっ!こらっ!クソ親父っ!それは俺んだろーがっ!」
 目の前から昼ご飯のメインでもある、コロッケが掠め取られたのだ。乱馬の唾が飛ぶ。
「あなたっ!お行儀は悪くてよ!」
 のどかも、玄馬を制しに掛った。
「何を言うかっ!食事も修行の一貫ぞ!油断せずに食いつくせっ!これが早乙女家の家訓じゃ!」
 と訳のわからない理屈が、玄馬から飛び出す。
「なら、好いです。」
 立ち上がりかけたのどかが、しずしずと腰を落とした。
「こらーっ、何が家訓だ!今の今までそんな家訓、聞いたことねーぞっ!」
 つい、声が荒らいだ、乱馬だ。
「家訓は家訓じゃっ!武道家らしく、実力で取り戻せっ!」
「よーっし、じゃあ、そうするぜっ!」

 バタバタと、コロッケを巡る、争奪戦が、食卓で始まった。

「このコロッケ…駅前の肉屋さんのですか?おばさま。」
「ええ…。買い物ついでに安かったから、買ってきたのよ。」
「ちょっと、前より小ぶりになったかしら…。」
「この不景気だもの。その代わり、値段は据え置きだったわ…それに、今日は一割引きの日だったから。」
「お買い得ですね。」
 争う、父子の前で、なびきとのどかの、穏やかな会話が流れて行く。

「このクソ親父っ!返せって言ってんじゃあねえか!!」
「イヤーなこった!」
「そいつは、俺んだっ!」
「息子の物は親であるワシにも食う権利がある。」
「何、勝手な、御託並べてやがんでーっ!」
「わっはっは!油断している貴様が悪い…ほれっ!」
 あんぐりと開いた口で、玄馬は乱馬のコロッケへとかぶりついた。
「あーーーっ!!てめえーっ!食いやがったなっ!!」
 乱馬の声が一層大きくなる。
「あー、うまかった!ごちっ!」
「もー許さねえっ!」
 父親の大人気ない立居振舞いに、プッツンと来た乱馬は、これまた、全力で攻撃に打って出た。
 瞬時に父親の背後へ立ち回り、右足で思いっきり玄馬の背中を蹴り飛ばした。
「食い物の恨み、思い知りやがれーっ!」

 玄馬の躯体が、茶の間から吹っ飛び、縁側をすり抜けていく。犬飯を貰って、食べていた白犬の真横を突き抜けて、勢いよく飛んで行く。

 ドバシャーン!!

 落下点は庭の池。頭から玄馬は、池へと突っ込んで行った。
 少し間があって、お約束の光景へと展開する。

「ばふぉーっ!」

 水飛沫を上げながら、池の中から巨大パンダが姿を現わす…水を浴びて変身した玄馬だった。

「へっざまあみろ。」
 乱馬は得意げにそれを縁側から見下ろした。

 蓮の葉を頭に乗せた玄馬は、「バフォッ!!」と怒りの雄叫びを上げると、今度は乱馬へと、攻撃を開始した。
 短い真っ黒な両手で乱馬に突っかかると、軽々と、背負い投げを食らわせた。
「わああああー!」
 今度は乱馬が放り出される番だった。
 乱馬もつい油断していたので、玄馬の反撃をかわすことができず、引っ張られるままに池の中へと吸い込まれていく。

 ドバシャーン!

 再び、大きな水柱が、池から上がった。

 水飛沫が乱馬の身体を包み込み。そして彼…乱馬は…男から女へと変身を遂げていた。
「ちめてーっ!!」
 ぶるぶると一回り小さくなった身体を、池の中で震わせた。いや、震えていたのは水の冷たさのせいだけではない。怒り心頭突き抜けて、身体が震えていたのだ。

「ばふぉふぉふぉふぉ」(ざまあみろ!)
 玄馬が白犬の真横で、看板を持っておどけている。
「親父!てめー、絶対に許さねえーっ!」
「ぱふぉふぉ?」(やるか?)
「あったりめーだぁっ!」

 父子…いや、パンダとお下げの女の、不毛な闘いが切って落とされた。
 雨がしとしと降る、庭先で、組んず解れつの不毛な闘いが始まってしまったのだ。

 ちょうど、そのタイミングであった。
 退院してきたあかねがかすみや早雲と玄関から上がってきて、縁側伝いの廊下に立ったのは。
 記憶の無い彼女は、緊張気味に玄関の引き戸を開け、姉に促されながら、ここまで入ってきたのだ。

 そして、縁側に立って、最初に目にしたのが、玄馬パンダと女乱馬の取っ組み合い。壮絶、かつ、どこか滑稽さを帯びた、闘いだったのだ。

「この野郎っ!」
「ばふぉっ!」
「こなくそっ!」
「かぽぽ!」
「ちょこまかと!」
「きぽぽ。」
「動き回りやがってーっ!」
「くぽぽっ!」
「大人しくつかまりやがれーっ!」
「けぽぽっ!」
「でやああーっ!」

 白黒の塊と紅いチャイナ服の塊、それらが、庭先で混じり合う。

「こぽぽーっ!」

 ザッブーーーン!

 特大の水飛沫が池から上がった。水の中を泳いでいた緋鯉も一緒に、水柱へと吸い込まれる。

「たく…。このバカ親父―っ!」
「あぽっ!」
 水から身を乗り出して、乱馬がポカンとパンダの背中を殴りつけた。
 その、脳天には緋鯉がピチャピチャと跳ねあがっている。
 
 あかねは、池の中でずぶ濡れになっている乱馬たち親子を見て、一瞬戸惑ったような表情を見せたが、ぷっと噴出した。余程、その笑いの琴線に振れたのか、その場にへたり込んで笑い転げた。
「ごめんなさい…あなた達の仕草が余りに面白かったから…。」
 あかねは、よじれそうなくらい笑い転げていた。
 勿論、パンダ仕様の玄馬のことも女の乱馬のことも記憶から欠落しているらしかったが、おかまいなしに笑い続けた。

 久しぶりに、あかねの素の笑顔を見たような気がした。

(あかねが…声をたてて…笑ってる…。)
 乱馬は奇妙な満足感が己の中を渡ってゆくの感じた。

 こちらに手向けられている、はちきれんばかりの艶やかな笑顔。

(こいつの笑顔はやっぱり、輝いてやがる…。)

 乱馬はふっと赤面した。ぽろっと自分の頬にも笑顔が零れ落ちた。
「ばふぉ?」(笑われているのに、嬉しいのか?)
 横から玄馬が看板を突き出して来た。
「うるせー!」
 照れ隠しに怒鳴ってはみたが、それ以上、言葉は継がなかった。

 あかねの笑顔が眩しかった。どんな形にしろ、心から笑ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。

「あらあら…ずぶ濡れ…。早く着替えた方が良いわ、乱子ちゃん。」
 池から這い上がった乱馬に、かすみがそう声をかけた。
「ほらほら、パンダちゃんも一緒にね。」
 穏やかな声で先導する。

(乱子ちゃん?…パンダちゃん?)
 一瞬、乱馬の耳がピクンとした。
 と、背後からにゅっと早雲が顔を出した。
「早乙女君…それから乱馬君…。悪いんだが、君たち…。暫く、そのままの格好で居てくれるかね?」
 こそっと話しかけられる。
「は?」
 思わず、問い返した乱馬に、淡々と早雲が言い放った。

「あかねは、ご覧の如く、記憶が欠落している…。これ以上、あの子を混乱させたくないから…。早乙女君、君はペットのパンダちゃん…それから、乱馬君は乱子ちゃんということで、過ごしていただきたい。」
 
「ちょっと…待てっ!おじさんっ!」
 思わず、声が荒くなりかけた乱馬を、一緒に覗きこんだかすみが言った。
「とっても、良い考えだと思うわ。」
「そうね…。呪泉郷のことだって…今のあの子には理解できないだろうから…。」
 なびきも頷いている。
「それが、あかねちゃんのためになることなら…あなた、乱馬…。そうなさい!」
 のどかまでもが、白んだ微笑みを手向けてくる。

 その背後では、あかねがまだ、笑い転げているのが見えた。

 確かに、記憶が無いあかねに「呪泉郷」のことや「パンダ」や「乱子」の正体をそのまま明かすのは、危険が伴うだろう。


「親父…どーする?」
 こそっとパンダへと言葉を投げる。
「ぱふぉ」(この際仕方があるまい)
 玄馬は看板文字で即答した。
「そうだよな…。確かに、俺たちのことを、そのままあかねに話して、理解させるのは至難の業だよな…。」
 この場は、納得せずには居られないだろう。

「ということで…あかねのリハビリにも手を貸してくれるね?乱子ちゃん…。」
 ずいいっと早雲が顔を手向けて来た。顔が巨大化して、目の前で揺れ始める。
「え…あ…はい。」
 巨顔化した早雲の勢いにのまれながら、つい、頭を縦に揺らせる。
「その言葉に二言は無いね?」
「あ…ありません…。」
 しゅるるっと早雲は巨顔化を解く、
「じゃあ、よろしく頼むよっ!乱子ちゃんっ!」
 バシッと背中を叩かれた。

 その後ろ側で、あかねはまだ、笑っている。

(まあ…しゃーないか…。この際…。)
 ふうっと溜息が口から溢れた。

(あかねの笑顔は…何にも代えがたい…俺の宝物だし…。)
 眩いばかりの笑顔を目の前に、渋々承諾した。

(少しでもあかねに笑顔が戻るのなら…あいつの笑顔が傍で見ていられるのなら…。)
 乱馬は複雑な己の心を無理に納得させて、女のまま生活をすることを受け入れたのだった。

 それはそれで、また、様々な問題を孕んでいることを、知らぬままに。



第五話へ続く


この調子だと、やっぱり長編になりそうな…。また重量級になるのは必至です…(あうあう)。
次回は、さらっと流した元作に、女乱馬とあかねを絡めてねっとり書き直すつもりです…。複雑な乱馬の心情が全面に押し出せたら良いなあ…。



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