◇まほろば 3

第三話 意気地無しの恋


六、

「ふう…。」
 とあかねから、溜息がこぼれおちた。

「あらあら、また、溜息なんかついちゃって…。そのバラの君が気になるのかしら。」

 そう言いながら、かすみはカタンとバラの入った花器を窓辺に置いた。
 昨今の病院では、匂いや花粉のきつい花の持ち込みは禁じられているところも増えて来たが、この総合病院では許されていた。もちろん、患者の病状にもよるのであろうが、問題は無いというお墨付きを貰って、かすみが丁寧に生けてくれたのだ。
「見事なバラね…。なびきちゃんが言っていたように、かなりのお値段がすると思うわ。」
 などと、主婦らしいコメントが、かすみの口からこぼれ落ちる。
「でも…。」
 あかねはバラをへと、少し複雑な表情を浮かべた。

 もちろん、バラを持って来た青年の顔に見覚えは無い。こんな高価な花を受けとって良かったのか、迷っていた。
 いや、それだけではない。
 気にかかっていた乱馬も、青年が帰ると、そのまま、何も告げずに帰宅してしまった。彼の横顔には、明らかに「不快感」が浮かんでいたように思う。

『あかねさんは、わたしがいただきます。』
 乱馬と青年の間に交わされた会話は、あかねにも、かすみやなびきにも、聞き取れなかった。
 何か、一言二言、喋ったくらいにしか、見受けられなかった。

 自分のファンだと言って、置いていった真っ赤なバラの花束。
 ただ、かすみやなびきが口を揃えるのは、見知らぬ青年だということだった。明らかに昨日が初対面だったという。 
 つい先ごろまで、風林館高校に通っていたなびきも、彼についての情報は、一切持っていないとはっきり口にしていた。
「見たことないわよ。あんな人。あれだけイケメンだったら、目立つでしょうに…。」
 と首を傾げていた。

 ますます、混迷していく、想いと記憶。
 
 すっかり日が落ちた窓の向こうには、街の遠景がぼんやりと映っている。
 
「そんなに、肩肘を張らなくてもよいわよ…あかねちゃん。きっと全てのことを、思い出せるから、焦らないで。」
 かすみは、おっとりと、声をかけてくれる。
 ローテンポのかすみだからこそ、安心して何でも話せた。
 でも、彼のことは、かすみにも問い質せなかった。
 彼…乱馬のことだ。
 問い質そうと、何度口元から言葉が出そうになったことか。しかし、なびきが『自分で思い出しなさい。』と、言ったことが、あかねにブレーキをかけていた。だから、かすみにも問い質せないでいた。

 自ら思い出さないと意味が無いのかもしれない。

 問いかけた言葉を、ぐっと喉の奥に飲み込むと、溜息となって漏れる。
 その繰り返しだった。

 「乱馬」という青年が、大切な存在であることは、おぼろげだが理解できる。
 これが、何に付随することなのか。考えを巡らせても、思いつかない。
 「仲の良い友達」、「片想いの彼」、「恋人」。どれも、該当していそうで、違うような気がする。

 思い余ったあかねは、
『早く戻って来いよ 乱馬』
 そう書かれたカードを手に取ってみた。

 と、その時だった。

 バラの香りがふわっと漂って来たかと思うと、頭の中を、嫌な違和感が突き抜けて行く。

 キーン…

 低い音が耳奥で鳴っているような、感覚。
 思わず、頭を抱えてうずくまってしまった。

「どうしたの?気分でも悪いのかしら?」
 
 急に、俯いたあかねに、姉は慌てて問いかけてきた。

「ううん…大丈夫。ちょっとクラっときただけだから。」
 と愛想笑いを浮かべる。
「少し横になると良いわ…。窓辺のカーテンを引いてあげるわね。」
 かすみは、そう言いながらおもむろに立ち上がると、暗闇に包まれた窓辺のカーテンをゆっくりと引いて行く。
 と、かすみの傍らを、すうっと細い影が流れて行く。バラの花弁から少しずつ流れ出た筋状の煙だった。怪しい煙は、かすみの横をかすめて、あかねの方へと自ずから伸び上がっていった。
 もちろん、二人は気付かない。
 煙は意志を持っているかのように、あかねの傍へ来ると、両耳へと侵入していった。
 
 グン…と何か強い力に、背中ごとベッドに押しつけられた。
 えっと思った瞬間、再び、キーンと甲高い耳鳴りが、脳裏を横切って行った。


「キャッ…。」
 悲鳴をあげようとして、喉も抑え込まれる。
「う…く…。」
 口を大きく開いて声をあげようと足掻いた。
「かすみ…おねえ…ちゃん…。」
 姉に助けを求めようとしたが、声が音にならない。焦れば焦るほど、身体も口も動かない。

 かすみは妹の異変に全く気付かないまま、パイプ椅子へと腰を落とし、スプリングセーターを編み始めた。暇つぶしに病室へ持ち込んだものだ。編み針を熱心に動かす姉の瞳には、あかねは映らない。

「お…姉ちゃん…。」
 苦し紛れに腕を伸ばそうとするが、そこで力尽きた。
 そう、意識が混濁し始めたのだ。

『おやすみなさい…あかねさん。』
 遠くで誰かの声がする。
 どこかで聞いたことがある声…。そう、バラを持って現れた青年の声に似ている。
『この香りに心を委ねて、ぐっすりとお眠りなさい…。』
 心地よく漂ってくるバラの香り。甘ったるい安らぎが降りて来る。
 耳を通り過ぎてゆく、高音の不快音が、だんだんと伸びやかに低く音色を変えた。ずっと同じ音域で鳴り続けていたのが、不意に変化したのだ。
 その低い地鳴りのような音に誘導されるように、あかねの瞳が閉じて行く。
 最早、意志というものは、存在していない。いや、意識も混濁し始めた。

『そう…眠らせておしまい…。必要のない記憶は全て…。』
 男の声とは、別の声が、耳元へと流れ込んで来た。こちらは、聞き覚えのない「女の声」。
 少しばかり、ドスが効いている。素人ではない、かなり年上の女の声のように思えた。
 その、邪悪に満ちた不気味な声に、眠りかけていたあかねの意識がフッと浮き上がった。

(嫌…嫌よ…。手放さないわっ!)
 即座に心根で「ノー」を言い渡す。

『おまえ…私の声が聞こえるのか?』
 その声は驚いたように問いかけてきた。
(あなたが、誰か知らないけれど、記憶はあげない!)
『言うことを、お聞きっ!』
 強い声で怒鳴り返された。
(嫌っ!あたしの記憶はあたしの物。眠らせなどしないっ!)
『ならば、無理やり、奪い去るまで。』
 瞳の裏に、黒い霧が覆い始めた。閉じた瞼の裏側…否、頭の中を真っ黒に染め上げようと、襲いかかって来る不気味な霧。

(やめて、やめてーっ!乱馬っ!乱馬ーっ!助けてっ!)

 いつしかあかねは、乱馬の名前を叫んでいた。いつも傍らにあった、己を守ってくれる強靭な気の持ち主。  
 浮かびあがってくる、頼もしい青年の影。
『踏ん張れっ!あかね…。絶対に手放すな…。俺の記憶を…。』
 脳内へと沁みわたってくる、懐かしい声。

(乱馬…。あたし…。手放さないわっ!絶対に…手放さない…。)
 あかねは、必死で抵抗した。頭の中に充満して来る黒い煙を、両手、両足をバタバタと振り回し、必死で払拭しようと足掻いた。

『ふん!強情な娘だこと…。まあ、そのくらい意志の強い娘の方が、相応しいのかもしれないね…。』
 ゆらっと黒い霧が、瞳の奥で揺らめいた。
『追々、全てを眠らせてあげるから…。せいぜい、抵抗して見せるがいい…。くく…くくく…。』
 退散を決めたのだろうか。黒い霧が晴れて行く。同時に、遠のいていく、女性の声。


 ハッと気がつくと、病室の天井の明りが眩く瞳に映った。その下で、かすみが心配げに自分を見下ろしている。
「あらあら、寝汗をぐっしょりかいちゃって…。熱が出たのかしら…。」
 かすみが、心配げにあかねを見詰めていた。
「う…ううん。大丈夫…。ちょっと怖い夢をみただけだから、熱は無いわ。」
「どら…。」
 そう言いながら、額に手を当てるかすみ。
「そうね…熱はないみたいね。大丈夫?随分うなされていたみたいだけれど…。」

 枕元の時計の針は、まだ、十二時くらいだ。ということは、まだまだ夜明けまでは遠い。

 ハッと気付くと、右手にそれを握っていることに気がついた。乱馬がキャンデーに添えた小さなカードだ。
『早く戻って来い。』そう認められた、カードだった。
 随分強い力で握ったのだろう。くちゃくちゃに折れ曲がっていた。慌てて、それを広げようとする。
 が、折り目はぐしゃっと入ってしまっている。当然、元には戻らない。

「あらあら…カードが折れまがっちゃったのね。。」
 かすみがそれを見つけて、思わず、苦笑いを浮かべる。
 
 もしかすると…このカードが、あの女性の声を払拭してくれたのではないか…。
 握りしめてくちゃくちゃになったカードへと視線を移しながら、そんなことを考える。
 このカードのおかげで、あの、女を撃退できたのではないかと。

「貸して御覧なさい。」
 そう言うと、姉は、ポケットからハンカチを取り出した。かすみらしい、ピンクの花模様のハンカチだった。
 そして、あかねからカードを取りあげると、ハンカチの中にくるくるっと器用に包み込んだ。
「はい…。これ。ちょっとお守りみたいになったでしょ?」
 そう言いながらあかねへと戻す。
 お守りとまではいかなくても、「ちょっとした大切な物感」が出ている。
「枕元に入れておけば良いわ。そうしたら、もう、悪夢でうなされないわよ。」
 柔らかな瞳で、かすみは妹を見下ろした。
「ありがとう…お姉ちゃん。」
 かすれた声であかねは姉に礼を言った。
 枕元に忍ばせておけば、もう、悪夢に苛まれないような気がしてきた。理由はわからないが、このカードが自分を守ってくれる…そう思ったのだ。
 そして、あかねは自覚した。
 「乱馬」という青年は、常に傍にあり、己を守ってくれる大切な人。それは、思いすごしなのかもしれなかったが、少なくとも、この人を大切に思っていた自分が、かつて、ここに存在していたのだと。
 
 
 殆ど、同時刻。
 乱馬にも微かな異変が起こっていた。
 早めに就寝した彼もまた、やはり、夢を見ていたのだ。
 真っ暗な暗闇の中で、あかねが己に助けを求める声が響いて来た。

「あかねっ!」
 
 思わず、声のする方を見た。
 と、真っ黒な煙が、彼女を包み込んでいるのが見えた。その中心で、あかねが溺れるように天を仰いで足掻いている。

「くっ!」
 無我夢中で彼女の方向へと身体を進めようとした。
 だが、彼女にまとわりつく煙が、己の方にも伸び上がって来て、邪魔をした。まるで、あかねのところには行かせないぞと言わんばかりに、くすぶっている。
 もちろん、そんな威嚇に屈する乱馬では無かった。
「でやーっ!」
 身体から気をほとばしらせ、黒い霧を薙ぎ払う。
「クソッ!消えやがれっ!」
 ボムボムと勢いよく気弾を投げつける。滅多ら滅法撃ちまくった。あかねの危機に、黙って手をこまねいていられる乱馬ではなかったからだ。やがて、乱馬の攻勢に、黒い霧が怯んだ。そう、微かだがあかねへの呪縛が緩んだ。
 その好機を見逃す手はない。
「あかねーっ!」
 無我夢中であかねの方へ身体ごとダイビングする。
 がっと彼女の肢体を腕に抱え込んだ。
 冷たく冷え切った彼女の身体を、真正面から抱き締める。
 黒い霧が、また、復活してきて、乱馬の周りをぐるぐると巡り始める。
『渡せ…。その女を渡せ…。』
 誰かの声が響いた。聞いたこともない女の声。魔性の声に聞こえた。
「嫌だ。」
 乱馬は霧へ向かって、真っ向から声を荒げた。
「あかねは渡さねー。」
 そう言って、がっしとあかねを強く抱き締める。
『ならば、これでどうだっ!』
 声と共に、襲い来る黒い霧。あかねを抱え込んだ乱馬ごと、ぐるぐると巻き付き、ぎゅっときつく締め付けられる。
「うっ!」
 思わず、苦痛の声が漏れた。物凄い力で全身を締めあげられたからだ。
『その女を渡せ…。さもなくば、絞め殺すぞ!』
 容赦なく声が脅しにかかってきた。
「断るっ!」
 また、拘束がきつくなった。
『渡せ…。』
「渡すもんかっ!あかねは…俺が…守るっ!守るんだーっ!」
 無我夢中、乱馬は己の中に内包する気を、外側に炸裂させた。己を核に、流れ出していく、蒼いな気の塊。
 その気に触れて、黒い霧がバチバチっと弾けて吹き飛ぶ。

『ふん…。まあ、良かろう。今宵のところは、このまま大人しく立ち去ってあげるわ。でも、覚えておおき。彼女は必ず、貰って行くわ。せいぜい、抵抗して楽しませておくれ。ふふふ…あはは…あはははは。』
 黒い霧と共に、女の声が遠ざかって行く。

 ハッと思って目覚めた時、ぐっしょりと寝汗をかいていた。汗は額にも浮かび、そして、パジャマをも濡らす。

「夢…か。にしては、リアルだったな…。」
 ホオッと大きな息を吐きだした。
 当然、目の前にあかねは居ない。枕元に畳んで置かれた真っ赤なチャイナ上着の上を、覗きこむ。そこには小さな小箱がちょこんと置かれている。後生大事に持ち歩いている、あかねへの贈り物。
「良かった…。指輪は無事か。」
 その箱を確認して、また、大きな息を吐きだす。
 おもむろにその小箱を手に納めると、豆電球の方へと透かして見る。ホワイトデーは過ぎ去ってしまった。結局、渡せないままに、ここに持っている。
「やっぱ、ちゃんと渡してやらなきゃな…。」
 これを買った時のことを、ふっと思い出した。
 アルバイトしていたモールの片隅にあった宝飾店。女化して覗いた訳ではない。変身せずに、男のまま、赴いた。でなければ、意味がないような気がしたからだ。
 惚れた女性に手渡す、生まれて初めての、贈り物らしい贈り物だ。しかも、指輪だと決めて買いに行った。

(前にオフクロが薬箱を持ち出して来た時は、大騒ぎになったもんな…。結局、指輪だと思ってたのは、単なる早乙女家の女性に伝わる薬箱だった訳だし…。あの後、シャンプーたちに家を壊されて、結局、天道家(ここ)へ舞い戻羽目になっちまった訳だし…。)

 指輪と思って、散々に振り回されたあの事件も、今では思い出になってしまった。
 箱を開けて、指輪ではなく薬箱だとわかった時の、己の間抜けた顔。それから、一瞬見せたあかねのがっかりとした表情。
 あの時からだ。あかねにはちゃんと指輪を自分で買ってやろう…などと、強く決意したのは。
 まだ、素直になりきれない、二人。従って、友達以上、恋人未満の複雑な関係は、まだそのまま継続している。積極的にその関係から脱却しようとは思わないが…それでも、何かしらちゃんとした意思表示はそろそろ必要なのではないかと思い始めていた。
 春休みが明ければ、高校三年生だ。そろそろ、本格的に進路について考えなければならない。
 二人分の人生を背負うまで、まだまだ時間はかかるだろうが、それでも、あかねにはずっと傍に居て欲しいと、切に願っている。

「あかね…早く…戻って来い…。俺のことを思い出して…。じゃ、ねーと…俺は…。」
 指輪をぎゅっと握りしめながら、再び寝床へ入る。
「あかね…。」

 彼女の居ない、何度か目の夜は、静かに帳を下ろしていった。
 


七、

 翌日も、放課後になると、いそいそとあかねの病院へと駆けだしていた。
 手には、ゆかとさゆりから預かったノートのコピー。
 今日は晴れて週末。学年末最後の平常授業の日だった。
 明けて翌週は学年末大掃除の日となり、二十日が修了式となる。

 病室に入ると、あかねは眠っていた。
 かすみによると、午前中は検査で病院中を引っ張りまわされたらしい。
 乱馬が来た気配も感じることができず、眠ったままなので、相当疲れたのだろう。
 
「それでね、明日には退院できるんですって。」
 にっこりと、かすみが微笑んだ。
「え…、もう退院ですか?」
 思わず、問い返してしまった。
「まさか、あかねの記憶が…。」
「残念ながら、それは…まだ。」
 少し曇った顔を手向けながら、かすみがおっとりと言葉を継ぐ。
「後は、自宅療養で、追々、様子を見ましょうってことになったのよ。今、お父さんが担当の先生と、お話していらっしゃるから。」
「そうですか。」

 ふと、ベッドを覗きこむと、あかねがすやすやと眠っていた。
 穏やかないい寝顔をしていた。叩き起こせば、『乱馬ぁーっ!』と、食ってかかってくるのではないかとすら、思えた。
 いつもの乱馬なら、きっと、あかねの眠りを平然と叩き起こす行動をとるだろう。だが、この日は勿論、違っていた。
(あかね…。まだ、思い出してねーんだよな…俺のこと…。俺たちのこと…。)
 言葉にならない声が、苦しげに乱馬の脳裏へ木霊する。

「座る?乱馬君。」
 かすみが乱馬へとパイプ椅子を差し出した。いつもは、あかねが使う椅子だ。
「いえ…別に座らなくても…。」

 そんなかすみと乱馬のやり取りで、気配を感じたのだろう。あかねの意識がフッと浮かびあがった。眠りの淵から醒めたのだ。

 ふと、瞳を開くと、穏やかな視線を感じた。
 じっと、己を見据えてくるダークグレイの瞳。憂いを帯びた光が、じっと、己を見据えて来る。
(来て下さったのね…。乱馬さん…。)
 声にならない言葉が、あかねの脳裏に木霊する。
 ドクンと高鳴る心音。
 ほんの少しだけ、笑みがこぼれた。

「よっ!」
 乱馬も、少し砕けて、右手を差し上げて見せる。あかねが己を見つけて、少しだけ微笑んでくれたことが、嬉しかったのだ。
 ゆったりとした間合いが、二人の上を流れて行く。

「お花の水を変えてくるわね。」
 二人に気を遣ったのだろう。かすみがそう言って、バラの入った花瓶を持ち上げた。
 そして、病室を出て行った。

「具合…どうだ?」
 初めてまともに、言葉を吐きだしたような気がする。
「ええ…今日はとっても気分がいいわ…。あなたに会えたから…。」
 もじもじとしながら、あかねが小声で答えた。
 あかねらしいはきはきとした口調ではなかったが、返ってそれが、乱馬の胸を射抜く。良く知った娘の見知らぬ部分を見せつけられたようで、ときめき始める心。あかねには悪かったが、心底、「かわいい」と思ってしまったのだった。
 あかねであって、あかねでない娘。目の前に居るのは、そんな彼女。なのに、メロメロに溶け始める、男の本能。勿論、記憶を取り戻して貰いたかったが、今は、そんなことはどうでも良いと思った。
(二人の時間を大切にしてえ…。たとえ、あかねが記憶を失っていても…。)
 身勝手だとも思ったが、そんなことを考えた。

 ほわほわと、良い空気になりかけた。
 今なら、素直な自分が出せる。強がり、天邪鬼といった武装を取り払って、あかねが好きだという態度を、ありのままに表現できる…。
「あのさ…、あかね……これを…。」
 思い切って、口を開きかけた。ポケットに入っている指輪を握りしめて。それを、あかねへと渡そうと、踏み出したのだ。



 と、そこへ今度はひょいっと久遠寺右京が顔を出した。
「あかねちゃん、どうや、加減は?」
 お好み焼きのパックを右手に携えながら彼女はドアから入って来た。

(げ…ウっちゃん…。)
 今、まさに、差し出しかけた指輪は、そのままポケットに戻される。
 丁度見計らって入って来た、お邪魔虫だ。
「あの…あなたは?」
 当然、右京の顔も忘れてしまっていたあかねは、そう彼女へときびすを返す。
「ウチやウチ。久遠寺右京。」
「久遠寺さん?」
 キョトンと見上げたあかねに、右京はふっと言葉を投げた。

「そっか、やっぱり、記憶を無くしたって噂…ほんまやったんか。」
 右京はは心配しているというより、好奇の目であかねを見詰めながら、後ろにつっ立っていた、乱馬へと声をかけた。
「ああ…。」
 乱馬は一言、無愛想に言葉を投げつけた。
 彼からしてみれば、右京にタイミングを外されてしまったのだから、一層のこと、不機嫌になる。
 ずっと内緒できた、あかねの「記憶喪失」の事実が、ここで明るみに出てしまうことも、少し危惧した。が、目の前のあかねを見れば、一目瞭然だ。否定する訳にもいくまい。

 すると、病室のドアの外から、また声がした。
「あかね、記憶ないまま、ずっといてくれると、わたし、大変ありがたいね。」
 シャンプーだった。
 かなり失礼な言動だった。記憶をなくして有難いとは何事だ。乱馬は睨み返したが、言われたかねはきょとんとしていた。
 普段の彼女なら烈火の如く怒り出すに違いない。しかし、あかねは穏やかに、問い掛ける。
「あの、あなたはどなたかしら…。ごめんなさい、思い出せなくて…。」
 右京とシャンプーは反応が薄いあかねを見て、思わず顔を見合せた。
「やっぱり、ホンマにウチらのこと…覚えてへんみたいやな…。」
「そのよう…あるね…。」
と 傍らで、こそこそ言い合った。
「ここはお互い、乱ちゃんをあかねから引き離すチャンスの到来かもしれへんで。」
「そうあるね。この最良的な状況を逃す手はないね。」 
 もちろん、後ろの乱馬には筒抜けであった。

(まったく、こいつ等ときたら。相変わらず、いい根性してやがるぜ…。あかねの記憶喪失の責任の一端も感じてねーのか…。)
 乱馬はその声を聞き流しながら、むっとなった。

「あかね、乱馬のこと憶えているのか?」
 突然シャンプーが乱馬の方を指差した。
「え…。あの。」
 あかねは口篭もった。
 当然だろう。乱馬との関係は誰も教えていなかったし、自分で思い出したことは何もない。
 闇雲に混乱させてもいけないと思い、天道家の誰もが「乱馬との複雑な関係」のことは、一切、説明していなかったし、乱馬もまだ、言い出せていなかったのだ。

 乱馬はじっと腕組したまま黙って、一歩、後ろに下がる。

 あかねは懸命に記憶を辿った。頭の底を総ざらいしてあがいたが、何一つ思い出せない。
 頭の隅にただ、何かしら懐かしいようなそれでいて柔らかな感情が沸き立つのだけははっきりと自覚していた。その感情が何に起因しているのかもわからない不安。
「この前から、ずっと毎日来てくださってる方だけど…。乱馬さん…あなたは一体…何者なんですか?」
 あかねの目が切なげに乱馬に向けられた。恐る恐る、乱馬へと問いかけている。
 それが痛々しくて乱馬は思わずあかねから目を反らせた。

「やっぱり、思い出されへんみたいやで!」
「これは画期的好都合あるね。」
「じゃ、打ち合わせどうりに。」
「わかったある。」

 後ろでそう声がしたかと思うと、いきなり前へつかつかと出るや、右京がが乱馬の右腕にしがみ付いた。
 あまりに突然のうちゃんの行動に、乱馬は避ける手だてを知らなかった。
「ちょっと、ウっちゃん!いきなり…。」
 焦る乱馬に右京はこそっとは耳打ちした。
「ショック療法や!乱ちゃんはウチの言う通りにしたらええ。」
 そう言い終わるや、
「乱ちゃんはウチの許婚やねん。」
 とニコニコと答えた。
 いつものあかねならここいら辺りで、ヤキモチの拳を振りかざしてくるだろうが、その場の彼女は、いたっておとなしかった。何の感情もその瞳に篭らない。
「そ…そうですか…。」
 小さな声だったが、震えていた。明らかに、動揺しているのが、ありありとうかがえる。
 収まらないのはシャンプーの方だった。
 乱馬にしがみついている右京に目を向けると、物凄い勢いで怒号を上げた。
「右京!打ち合わせと違うあるねっ!抜け駆けは許さないね!乱馬は私の婿殿ね!」
 そう金切り声を上げて今度は乱馬の左手にしがみつく。
「お、おいっ!おめーらっ!」
 二人同時にしがみつかれて、堪らず乱馬は声を荒らげた。

 あかねは驚いて、二の句も継げられない様子だった。
 驚いた表情で、右京とシャンプー、それから乱馬を見比べていた。

 乱馬が困ってあたふたしていると、今度はそこへ、黒薔薇の花びらが舞い上がる…。
「ホーホッホッホッ」
 花びらの乱舞とともに甲高い笑い声が響いてきた。
「お二人とも、乱馬さまからお離れあそばせっ!厚かましいっ!」
 黒バラの小太刀の登場だった。
(ややこしいときに、また、ややこしい奴が…。)
 冷や汗が乱馬の額からこぼれおちる。

「おまえこそ何ね!乱馬は私の婿殿!」
「違う、ウチの許嫁や!」
「私のフィアンセですわっ!」

 口々に好き勝手罵り始める。女の争いは壮絶だった。
 それぞれ、乱馬は自分のものだと言って譲らない。
 その喧騒に堪らず、あかねが口を開いた。

「あの…あなたって、女好きなんですか?」

 突拍子もない疑問を投げつけたのだ。
 それだけではない。侮蔑の表情が、あかねに浮かんだように見えた。

「ば、ばかっ!そんな訳ねーっ!」

(俺はおまえの許婚だろーがっ!俺をそんな目で見るなっ!)
 心の中でそう叫ぶと、乱馬は戦線から離脱しにかかった。
 そう、居た堪れなくなって、病室から逃げ出したのだ。
 我ながら情けない選択だと乱馬は思ったが、そうせずには居られなかった。

 乱馬は逃げたかった。右京やシャンプー、小太刀だけではなく、記憶を全て失ってしまったという、突き付けられたあかねの現実から。
「ごめん、また来る…。」
 それだけを辛うじて言い含めると、乱馬は病室から駆け出していた。

「あらあら…。たく、この期に及んでまだ逃げちゃったのね…乱馬君。」
 やれやれというようにかすみが、花瓶を持ったまま後ろから吐きだした。
「逃げたって、何も問題は解決しないのに……。」
 かすみの非難めいた言葉が、あかねの心に、覆い被さるように響き渡る。
 その瞬間、ふつふつと「激しい感情」めいたものが、心から沸き立ったのだ。
(彼のこと…思い出したい…。)
 心がざわめきだった。
 が、反面、また、頭が痛み始めた。

『思い出してはダメだ!』
 強い男の声が脳内に充満する。
 キーンと強い耳鳴りが、両耳から脳へと突き上げて来た。

「あ…。」
 思わず頭を抱えて、ベッドへとうずくまる。

「あかねちゃん?」
 あかねの様子が変なことに気がついたかすみは、慌てて身体を抱き起こす。

「だ…大丈夫…。ちょっと、頭痛がしただけだから…。」
 あかねはそう言って、頭を起こした。
 ほんの一瞬で、痛みも耳鳴りも消えていた。
「みなさん、悪いんですけど…。今日のところは帰ってくださいな。どうも、あかねちゃんの具合が良くないみたいなので…。」
 のほほんとしたテンポには変わりがないが、かすみの言葉には凛とした響きがあった。
「せやな…。邪魔したな、あかねちゃん。」
「ゆっくり、療養するよろし。」
「では、ごきげんよう。」
 さすがに、ばつが悪くなったのだろう。三人とも、しずしずと立ち去った。


 三人娘が帰ったあと、かすみが言葉をかけた。
「あかねちゃん…大丈夫?お医者様を呼んでこようかしら?」
「平気よ…。ちょっと、クラっと来ただけだから。もう、全然平気…。久しぶりに会った友達なんでしょうけど…。全然思い出せないで、ちょっと頭が混乱しただけ…。」
 そう言いながら、わざと明るく笑った。
「そう…なら、良いけど…。」
 かすみはポットを持ち上げた。
「あら、お茶も空っぽになってるわね。貰って来てあげるわ。」
 そう言い放つと、かすみはポットを持って、また、病室を出て行く。

 その背中を見送りながら、あかねは、ふうっと大きな溜息を吐きだした。

(あの人は…何故、あの場から逃げたの…。それに…どうして、頭がこんなに痛むの…。ううん…頭だけじゃない…心も痛い…。)
 さっきのことを思い出して、心の奥がしくしく痛んだ。
 嬉しそうに、乱馬の腕にからみついた右京とシャンプー。彼女たちを見て、心が激しく動揺したのは何故なのか…。

『思い出しても、君が苦しむだけよ……。』
 とうとうと、脳裏に言葉が響き始める。男の声だった。昨日、病室にバラを持って来た青年の。
『だから…何も…思い出さなくても良い。彼との記憶は、きれいさっぱり凍らせて…眠らせてしまえば良いんだよ…。』
 不気味な声が脳裏に響く。
「でも…。あたしは、手放したくないの…。」
 嫌々をするように、あかねが首を振ると、
『あんな、いい加減な女たらしでもかい?』

 ぶわんと、さっきの光景が、頭一面と、映し出される。
 右京とシャンプーが嬉しそうに、腕にしがみついた、乱馬の姿だ。

『奴は君に相応しい男ではないよ…。』
 声は、とうとうと話しかけてくる。
 ビジョンを消そうと足掻くが、一向に消えない。
『今までだって、散々に苦しめられて来たのじゃないのかい?』
 その声に、沸き上がる、様々な光景。頭の片隅に残っていた、乱馬との記憶の中で、嫌な想いをしたビジョンだけが、鮮明に映し出されて来る。
 シャンプーとキスした光景。小太刀とキスしそうになった光景。右京の店で愉しく語らう光景。三人の笑顔と乱馬の不埒な行動と。そこに、一切の音は無かった。ただ、スライドし映写機のように、次々と現れてくる、不快な光景。

『ね…。いい加減な奴だろう?あいつは…。』
 嘲笑うように、男は言い切った。
「でも…。」
『この期に及んで、まだ迷っているのか…君は…。すぐに忘れるのが怖いなら…、その…バラの花を、一本、掴んでご覧…。』
 強く、声があかねへと命じた。
 が、頑としてあかねはその声に抗おうとした。
『全く…強情な人だ…。なら…。』
 キーンともっと高音な音があかねを覆った。
 あかねの瞳から、光が消える。
 意識がどこかへ一瞬だけ飛んだ。

 ちくっ!

 と、バラの枝のトゲがあかねの中指を差していた。

「痛っ!」
 思わず引いた、右の指から鮮血が流れ滴る。
 見ると、いつの間にか、バラを掴んでいた。

(今…あたし。誰かに操られた?)
 ドクンと心音が一つ跳ねあがった。

『そんな、顔しないで…。君に中にこのバラのエキスがしみわたった時、君はあの男との記憶を眠りにつかせるんだ…。自然にね…。だから、何も気に病むことは無い。もうしばらく、この世界を楽しんでいると良いよ…。僕から迎えに来るから…。』

 コクンと一つ呟くと、つうっと涙が伝わる。何故、涙が零れ落ちたのか、自分でも理解できなかった。
 一瞬でも意識を操られたことへの悔恨…?それとも、他の娘たちと仲良く睦みあっていた乱馬と言う青年への嫉妬…?
 右手に持った一輪のバラは、毒々しくあかねの瞳に迫って来る。

「あらあら、あかねちゃん…どうしたの?」
 そこへポットを抱えたかすみが戻ってきた。
 バラの花を一輪つかんだままのあかねを見つけて、声をかけた。
「まあ…トゲで刺しちゃったのね。しょうのない子ね…。バンソウコウと消毒液貰って来てあげましょうね。」
 そう言って、バタバタと病室を出て行く。

(そんなんじゃないの…お姉ちゃん…。そんなんじゃなくて…。)
 言葉が飲み込まれ、あかねはそのまま、深い眠りに落ちていった。




 あかねの病室を逃げ出した乱馬も、複雑な思いに駆られていた。

 右京とシャンプーが、あかねの目の前で、腕に思い切り抱きついてきた。
 その行状を目の当たりにしたあかねからは、
『あなたって、女好きなんですか?』
 と突き刺さる言葉を投げつけられた。
 
 居たたまれなくなって、逃げ出した後、乱馬は複雑な想いを抱え込みながら、トボトボ帰路に就く。
 春とはいえ、まだ、日暮は早い。
 夕なずんだ空は暗く、街灯がひとつ、またひとつ、ぽっと暗闇に浮かび上がってゆく。
 乱馬は一人、夕闇に影を落し、いつもの道を辿りながら、あかねのことをずっと考えていた。
 逃げてしまったことへの贖罪…否、それだけではなく、あかねの記憶を奪ったのが、己の浅はかな行動の招いた結果という、変えられぬ事実。
 様々な思いが、交錯する。
 
 時間の許す限り、ずっとあかねの傍にいたい。
 同じ空間に身を置いて、時間だけでも共有したい。
 それは、切ないほど純粋な想いから来る願いだった。

 だが、逃げて来た以上、これからは同じように、病室に足を運ぶのは、許されまい。
 非難めいたあかねの言葉が、頭にこだまする。
 

(俺は…この先、どうあいつと向き合っていけばいいんだ?
 失われたあいつの記憶は戻るのか?
 俺はあいつの許婚として、ずっと傍についていてやっていいのか?
 …それに、あいつは…きっと、俺を避けるだろう…。)

 記憶をなくしてしまった彼女からは、本当に己がいい加減な「女たらし」に見えただろう。
 打ち消せぬ事実だ。
 本当はきちんとあかねとの関係を、包み隠さず、自分の口から説明をしてやるべきだと思っていた。
 が、どう切り出してよいのやら、皆目、見当がつかず、結局、あかねに何一つ言葉を掛けることができなかった。
 「好きだ」という言葉は、素直に浮かび上がっては来ない。

 それほど、「乱馬の恋」は不器用だった。悲しいくらいに…。

 一旦、迷い道に駆け込んだ想いは、複雑な軌跡を描いていく。出口のない想い。
 許婚など、不確かな絆でしかないことを、今ほど感じたことは無い。

 想いが次々に逆流してゆく。その想いをいつも持て余す。そして、迷路に入り込む。

(優柔不断じゃねえ…単なる意気地なしだ…俺は…。好きなら好き…それで良いのに…。どうして、素直になれねえっ!素直に、好きだって…あかねに言ってやれねーんだ!)
 輝き始めた星へと、瞳を転じる。

「クウーン」
 いつのまにか、一匹の犬が、乱馬の傍らを歩いていた。
 白い毛並みの、牡の若犬だった。
「何だ…犬っころか…。俺はおめえが喜びそうな物は何一つ持っちゃあいないぜ…。」
 そう言葉を落とす。
 おそらく、どこかの飼い犬が離れたのだろう。毛並みは野良のものではなく、艶やかな白色をしていた。
 牙は凛々しく、血統書でもついているのではないかと見紛うほど利口そうな顔つきをしていた。
「おめーも、行くところがねーのか?俺みたいに…。」
 
 肩を落としたまま、帰路へ就く。
 その傍らを、犬が尾っぽを振りながら、追いかけるようにくっついて行った。








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