◇まほろば 2
第二話 謎の男
四、
目覚めた当初は、記憶の混濁で混乱していたあかねも、時間が経つにつれ、徐々に落ちつきを取り戻し始めた。
一体自分は、どこの誰なのか…。それすら、忘却の彼方に押しやってしまったあかね。
彼女が真っ先に心を開いたのは、天道家の長女のかすみだった。彼女が、最初の晩、あかねに付添って、病院に泊まったのである。
「良いのよ…あかねちゃん。焦らなくても。あなたが忘れてしまっていても、私たち家族があなたのことを忘れた訳ではないから。一つ一つ、思い出して行きましょうね。」
かすみの、のほほんとした雰囲気には、一切の刺が無く、硬くなったあかねの心を解きほぐす癒しの力がある。
記憶を失って、意気消沈したあかねを、柔らかな言葉で包み込む。
マイペースで、一つずつ、無くした記憶を埋め込んで、落ち着かせる…かすみの存在そのものが、不安を取り除いてくれる。そんな感じだったのだ。
かすみのまったりとした力は、天道家に住まう者、全てが理解できることだった。
早雲もなびきも、玄馬ものどかも、その辺りは良く分かっていたので、安心してかすみに付き添いを任せることにした。
「ずっと、付き添っていたい気持ちはわかるけど…。今日のところは、かすみお姉ちゃんに任せておけば良いわよ…。」
そんな、なびきの一言に、乱馬も、渋々、重い腰を挙げて、夕方には病院から立ち去った。
「せいぜい、毎日、あかねのところに顔を出しなさい。今は忘れていても、きっと思い出すと思うわよ。何、そんなに柔な子じゃないから、あかねは…。
にしても、お腹がすいちゃったわね。」
と、らしくない、慰めのような言葉が、なびきの口から、こぼれ出す。
無口な乱馬に気合いでも入れたいのだろう。
「夕ご飯は私に任せてくださいな。といっても、今からじゃ、大したものは作れないから、お鍋にでもしましょうか。」
「ありがとうございます…のどかさん。」
「いえいえ、こういうときしかお役に立てませんから。」
ゆったりとした会話が、帰りの道すがら、乱馬の耳を通り過ぎていく。
乱馬は…そんな、空気が溜まらなかった。軽く流そうとする天道家の人々の気遣いが、返って、重荷を背負わせていく。そんな気がした。
『どうして、あかねに怪我を負わせたのよ!』
『あかねの記憶が無くなってしまったのは、君のせいだよ、乱馬君!』
『あかねちゃんを守り切れなかったのね。男らしくない。』
『乱馬よ…父は、おまえを見損なったぞ!』
そういった、責め苦は、誰の口からも吐いて流れ出さなかった。
誰も、あかねのことで、乱馬を責めなかったのだ。
乱馬にとっては、それが、返って、歯痒く映る。
一層のこと、責められた方が楽だとも思えた。
(あかねの記憶が無くなったのは…俺のせいなのに…。)
一人、己への悔恨の言葉を拳の中に握りしめて、とぼとぼと家路を歩く。一言も発せずであった。
明けて、三月十四日。ホワイトデー。
翌日のあかねは、ごく普通に、落ちついていた。
かすみの付き添いが効を奏したのだろう。
当初は顔も強張って、無口だったあかねも、朝になって、少しずつだが、笑顔も浮かぶ様になっていった。
記憶が無くても、「天道あかねという十七歳の高校生」であることは、理解するに至っていた。
本当に、きれいさっぱりと、人の記憶が飛んでしまっているようで、日常生活のことや、学力が低下した訳ではなかった。
かすみの懇切丁寧な説明のおかげか、ほんの少しだったが、記憶の糸が繋がり始めたようだった。
かすみとなびき、そして、早雲。姉二人と父親のことは、おぼろげだが、家族と認識することができるようになっていた。一緒に居て大丈夫な家族…。その安心した存在であることは理解できた。だが、そのくらいしか、わからない。
「無理しないで。少しずつ、思い出していけばよいのよ…。」
かすみは、のほほんと笑っていた。
そんな姉に言われると、そんなものかとも思えた。
放課後。
乱馬は、真っ先にあかねのところに駆けつけていった。
矢のように、校門を飛び出して、病院へと一目散。
昨日の今日だ。さすがに、気が引けたのか、右京もシャンプーも小太刀も、積極的に関ってはこなかった。「ホワイトデー」にもかからずだ。乱馬を刺激するのは、得策ではないと、常識を逸した彼女たちも、判断したらしい。
有難いとは思えども、あかねのことが気にかかる。
大介やひろし、ゆかやさゆりといった、近しい級友たちも、そんな乱馬を見て見ぬふりをする。昨日の喧騒を見聞きしているので、腫れものに障るように、誰も、「あかねのところに行くのか?」「ホワイトデーはどうするんだ?」などという、下賤な問いかけは一切、発して来なかった。
ポケットには、指輪の小箱。
あかねに記憶が戻らぬ限り、恐らく渡せるあては無い。
それでも、カタカタとポケットの中で揺れていた。
開け放たれた、病室のドア越しに覗いてみると、かすみとあかねは、穏やかな時間を、過ごしていた。
誰が差し入れたのか、「骨盤のマル秘ツボ」とかいう本が、蒲団の傍らに置かれている。壁際の小さなテレビには、奥様向けのワイドショーが映し出されて、人畜無害そうなタレントが軽快なトークを繰り広げているのが見える。
姉妹の穏やかな午後のひと時を邪魔するのが忍びなくて、そっと、病室を覗いて、一つ溜息を吐きだす。
病室へ一歩を踏み入れる勇気がない。意気地の無いことだと思った。
その気配を察したのは、あかねではなく、かすみだった。
乱馬をドアの外に見つけると、ふっと微笑みかけた。
「あら、乱馬君、いらっしゃい…。」
と部屋の隅っこに立つ乱馬へと声をかけた。
戸惑いながらも、ドア越しに、軽く会釈する。
キョトンとあかねは乱馬を見つめ返してきた。
その表情には、感情が湧きあがって来る気配が無かった。
「お姉ちゃんの知り合い?」
ぽそっとあかねからそんな言葉が漏れ聞こえた。
今のあかねにとって、乱馬は見知らぬ青年。
そのことを思い知らされた瞬間でもあった。
「何言ってるの…乱馬君よ。そんなところで突っ立ってないで、入ってらっしゃいな。」
かすみはのほほんとそう言い放つと、乱馬を手招きする。
「は…はい。」
返答を発すると、乱馬は、病室へと足を踏み入れた。
ベッドの上のあかねには、戸惑いの表情が浮かんでいる。
正視するのも耐えられなかった。
「あ…これ、今日の授業ノートのコピーだ。それから、プリント。」
と言いながら、鞄から徐にノートを取り出して、無造作に差し出す。指輪の箱には手をかけられない。
「ゆかと、さゆりがコピーしてくれた。英語と国語…それから化学のが入ってる。」
視線は彼女をまともに捕えられない。もごもごと早口になる。
「ゆか…や…さゆり?」
案の定、記憶に引っかからなかったのだろう。すぐにきびすを返して来た。
「…おまえの、クラスメイト。親友だろ?」
そう言いながら、乱馬は怒ったように、言葉をポンポンと投げつけた。
その言葉遣いの荒さに、気後れしたのか。少し、怖々とした表情があかねに浮かんだ。
「そ…そうですか。あ…ありがとうございます。わざわざ。」
らしくないあかねの返答に、ピクンと心がざわつく。
己に対して発せられた「丁寧語」。その言葉に、動揺する。
乱馬を見知らぬ男としか理解していないあかね。
「許婚」としての己の存在を、全否定されてしまった…その曲がらぬ事実を、真っ向から突き付けられてしまったようで、ズキンと心が痛んだ。
この先、あかねとどう接すれば良いのか…そんな混沌とした不安が脳裏をぐるぐる回り始めていた。
記憶が、見事にふっつりと途切れているあかね。自身のことも、良くわかっていない様子に、千路に心は乱れる。
自分たちが共有した時を、重ねた年月を、全て、忘れ去ってしまっている。
そう、ベットの上にはいつもの勝気なあかねではなく、別人格のあかねが座っていた。
と、かすみが、乱馬の複雑な心の動きを、察したようで、プリント類をじっと見詰めたままのあかねの肩を、ポンと叩いた。
「ポットのお茶、換えてくるわね。」
と軽く言い放ち、ポットを持って、病室を出る。
(何でも良いから、お話してあげてね…。)
かすみの後ろ姿は、そう乱馬へと語りかけているのだが、一向に、あかねへ言葉を掛けられない。
何をどう話しかければ良いのかさえ、見当がつかない。
己のせいで、あかねは全てを忘れてしまった…そんな想いが、乱馬を苦しめた。自分からあかねに話しかけるのに気おくれしていたのだった。
あかねに一言侘びを入れたいと思っていたが、なかなか言い出せず、乱馬は乱馬なりに忸怩(じくじ)たる想いを抱いていた。
いつから己は、こんな意気地なしになったのか…、一言、昨日はごめんと、言葉を継ぎたいだけなのに…。
拳を握りしめる。
あかねも、乱馬のことを識別しかねているのだろう。急にノートのコピーを持って現れたクラスメイト。そうとしか、映っていまい。
彼女の方から声をかけて来ることも無かった。
ポンポンと喧嘩腰で言葉を飛ばしあっていた、つい、昨日までの二人が、遠い過去のように思えた。
だんまりを決め込む。いや、言葉が継げないまま、重い空気が病室を覆っていく。
無言のまま、二人きりの、重苦しい時間が、過ぎて行く。五分ほどの短い時間しか経っていないのに、逃げ出してしまいたい心情に駆られる。
お茶を貰いに行っただけだ…。すぐに、かすみさんも戻って来るだろう。早く戻って来て欲しい…そんな風にも思い始める。
とそこへ、タイミングを計ったように、九能帯刀が、巨大なクマのぬいぐるみを抱えてなびきと一緒に現れた。
でかいだけが取り柄のような、可愛いとは言い難いオッサン熊のぬいぐるみだった。シャケを口にくわえているところが、変にリアルな代物だ。。
「おお、天道あかね。来てやったぞ。」
相変わらず、高飛車な態度で、そう声高に吐き出しながら、戸惑いも無く、病室に入って来た。
あかねは勿論、九能など覚えていないようで、ベットで軽くお辞儀をして微笑んだ。もちろん、正常なあかねなら、九能に対して微笑みかけることなど、絶対しないに違いあるまい。
(なんで、九能なんかにそんな極上の笑顔を見せるんだよ…。)
乱馬は、思わずしかめっ面をしながら、九能の様子をうかがっていた。
先に来た自分には、愛想笑いの一つも、手向けて居ない。このヤキモチ妬きの男は、一瞬、ムスッと口を結んだ。
それから、ベッドから離れて、無言のまま、九能とは反対の方向へと身を引いた。
別に、九能に遠慮した訳ではないが、身体が勝手に後退したのだ。
「受け取れっ!ホワイトデーの贈り物だ。わざわざおフランスから取り寄せたのだぞ。」
クマのぬいぐるみとフランスがどう結びつくのか不明だが、そんな言葉をあかねへと差し向ける。
「ホワイトデー…ですか?」
あかねがキョトンと問いかける。
「ああ、バレンタインの有り余る僕からのお返しだ。」
と九能は鼻息が荒い。
「あら…九能ちゃん…。あかねにバレンタインなんか貰ってたっけ?」
横からなびきが突っ込んできた。
「貰っていなくても、ホワイトデーのお返しは出来るぞ!」
不可思議な理屈だったが、九能に常識は通じない。
「へええ…貰ってないあかねに盛大にお返ししといて、チョコをちゃんとあげた私には無しのつぶてかしらん?」
などと、軽口を叩いている。
「貴様には、八十円の板チョコしか貰っていないぞ?しかも、無包装の。」
「あら…消費税入れたら八十八円の板チョコよ。」
「やかましー。そんな安いチョコでお返しをせびるつもりか?」
「当り前よ…ほら、あたしにも、ちょーだいっ!」
てっと差し出す、右手。
「貴様は後だ!天道なびきっ!」
九能となびきのやり取りは、夫婦漫才のようだ。
離れていた乱馬は、思わず苦笑いが零れる。
(たく…なびきの奴…俺にも無包装の板チョコを渡してきたが…。俺は九能と同じ扱いか?ま…良いけど…。)
思わず、ジト目でなびきを盗み見る。
「しかるに…天道あかね、記憶がなくなったというのは本当か?」
九能はあかねを見るや、率直に話しかけた。乱馬が苦労しても、一言も吐き出せないままいたのに対し、この男は、見事に口火を切った。
乱馬には、深い思慮がない、軽薄男の爽快さが、羨ましくも思えた。
「は、はい…あの…。ごめんなさい、あなたは…どなたですか?思い出せなくて…。」
恐る恐る、あかねは九能へと問いかける。
「おお。天道あかね。可愛そうに。未来の旦那様の顔まで忘れてしまったのか…哀れな。」
九能はあかねに、にじり寄る。
傍らで乱馬は、いつでも拳を振り上げられるように、態勢を整えていた。
(冗談じゃねえ。未来の旦那は、九能先輩じゃなくて俺だぞ…。)
グッと拳を握りしめる。
九能の気迫に飲まれたあかね。
「未来の旦那様って言われても…あたし…全然、覚えていないんです…けど…。あなたと、お付き合いでもしていましたか?」
と困り果てた表情を浮かべる。
「お付き合い…。くうう…。」
九能は、はらはらと涙を浮かべる。
「あの…ちょっと…。」
その様子に、すっかりおろおろし始めるあかね。その傍で、なびきだけが、クククと笑いを堪えていた。
「そうか…二人の愛の記憶を忘れてしまったのか…。」
ぐぬぬっと涙を拭うと、九能はあかねをはっしと見詰め、吐き出した。
「よいのだ。過去など、僕たち二人の間には必要ない。さあ、今、ここから、新しい愛の歴史を切り開こうではないか。あかねくーん!」
九能はそう言って、あかねに抱きつこうと飛びかかった。
「いやあああっ!」
どかっ!ばきっ!
悲鳴と共に上がる、破壊音。
次の瞬間、九能はあかねのカウンターパンチを食らっていた。
あかねの見事な反応に、もちろん、乱馬は飛び出すのを忘れて、思わず見入ってしまった。呆気にとられたまま、立ちつくす乱馬。
あかねの眠っている格闘家の本能が、反射的に働いて九能を排除する行動へと導いたのだ。記憶を失っていても、嫌なものは否で、拒否する本能が炸裂したに違いない。
「うっ。愛とは…かくも痛いものなのか…。」
九能はそのまま病室の床に沈んで果てた。
「あちゃーっ。九能ちゃん。記憶を無くしたあかねにまで、のされちゃうなんて、情けないわね…。」
なびきが苦笑いしながら、倒れた九能を覗きこむ。
当のあかねは自分の反射攻撃に驚いたようで、九能をのしあげた己の右手を見つめている。
「あ、あの。あたし…。この人のこと…、無意識に殴っちゃったみたいですけど…。」
と困惑しながら、なびきへと言葉を投げる。
「ああ、九能ちゃんなら平気よ。いつものことだから。」
「いつものこと…?」
「ええ…いつも、あんたにのされているから…こんなことくらいで、まいるような奴じゃないわ。」
「そうだ…。めげないぞ、天道あかね。」
なびきの言葉を受けて、九能がむっくりと起き上がった。
しぶとい奴だ…と、乱馬からも苦笑いがこぼれる。
「そんなに力いっぱいのしてくれるなんて…可愛いではないか!ささ、今度こそ、熱い抱擁を!」
白い歯を輝かせながら。九能が再びあかねに襲いかかった。
「いやあーっ!!来ないでーっ!」
あかねのパンチが再び炸裂した。
今度のあかねのパンチはさっきのと比ではないくらい、凄まじかった。
「天道あかねー。愛とはやっぱり痛いものなのだなああぁぁぁぁぁ……。」
そう叫びながら、空へと高く舞い上がる、九能。
哀れ、彼は、病室の窓からあかねに殴り飛ばされてしまったのだった。
「あーあ。九能ちゃん、行っちゃったか…。」
遠ざかる九能を仰ぎながら、なびきが淡々と言い放つ。
「あ…あたし…。」
ベッドの上には、目を丸くして、自分の行状の結果を見据えるあかね。ハアハアと肩で息が弾んでいる。
「大丈夫…。あのくらいでまいる人じゃないから…九能ちゃんは…。っていうより、やるじゃん、あかね。馬鹿力は健在ね。」
トントンとあかねの背中を叩く、なびき。
(これで暫らくあの厄介者は帰ってこねーだろ…。いい気味だぜ…。にしても…あかねの格闘センスは、全く鈍ってねーか…。)
傍らで乱馬は腕を組んでほくそえんでしまったくらい、見事なスクリューパンチだった。
「さすがだな…。安心したぜ。」
乱馬は軽く微笑んであかねへと告げた。
自然に流れた言葉だった。
「え?」
あかねが不思議そうに乱馬を見詰め返す。
「いや…こっちのことだ…。じゃ、また来る。」
乱馬はそれだけを言い放つと、あかねの病室を離れた。
(上辺は忘れてしまっていても…。或いは、心の底には残っているかもしれねえ…。)
少しだけ…ほんの少しだけ、光明が見えたような気がしたのだ。
「ねえ…なびきお姉さん…。あのおさげの人は…一体、誰?」
立ち去った乱馬を見送って、あかねはなびきへと問いかけていた。
「それは…あんたがちゃんと、思い出してあげなさいな。」
なびきは、トンとあかねの肩を叩いた。
そして、傍らに置いてあった、紙袋をあかねへと差し出す。
「それ…何?」
あかねがキョトンと。なびきに問いかけると、
「さあ…。あんたにって置いて行ったもんじゃないかしら?開けてみたら?」
あかねはなびきに促されて、ごそごそっと紙袋を開く。と、白い包装紙が見えた。
不器用な手つきで、包装紙を開くと、キャンデーの入った透明の小箱が現れる。
包みと一緒に小さなカードが添えられていた。
『早く戻って来いよ 乱馬』
そうたどたどしい男文字が、黒のサインペンで書かれていた。
「これ…。」
無論、記憶が飛んでいるあかねには、誰からのものなのか、想像もつかないらしい。
困惑げに、なびきへとカードを透かし見せる。
「ホワイトデーのお返しかしらね。」
なびきはにんまりと笑った。
「あらあら…乱馬君からなのね。良かったわね、あかねちゃん。」
背後で、お茶を汲み終わったかすみが笑っていた。
どこまで汲みに出かけていたのか、かなり遅い戻りだ。
乱馬がどこの誰なのか。どういう関りがある人なのか。でも…どこか懐かしい響きの名前であった。
(乱馬さん…さっきの…おさげの人…。)
そっと、カードを握りしめる。
「たく…。相変わらず、どこまでいっても不器用なんだから…。これだけじゃないでしょうに…ホワイトデーのお返しは…。」
そう言いながら、なびきへと促すと、ふっとなびきが笑った。
「それは言いっこなしですよ、なびきちゃん…。乱馬君だって今は…まだ渡せないんでしょうから。」
二人の姉たちだけがわかる、会話だった。乱馬があかねに買った指輪のことを示唆していたのだ。
そう、乱馬は終ぞ、渡せなかった。
指輪はチャイナ服のポケットの中で、その存在を誇示している。どうして、渡さなかったのかと言わんばかりに。
(今は…まだ、渡せねーけど…。でも、きっと、必ず、あかねに渡すんだ…。その時が来たら。」
ギュッと握りしめる、大切な小箱。
五、
翌日も、よく晴れていた。
そろそろ、本格的に春到来。そんな、雰囲気が、巷にあふれ始めている。
もう、すっかり頭の傷は癒えている。
もともとは大した傷ではない。
あかねの怪我は、すぐに癒えた。打撲痕も、青たんやコブになることもなく、幸い、ぱっくりと傷口が開いて、縫った訳でもない。少しかすって、切れただけだった。
多少の出血が伴ったが、時間がたてば、その痕跡も残るまいと診断された。
それを聞いて、ホッと胸を撫で下ろしたのは、父親の天道早雲であった。娘に傷が残ることは、父親としては、忍びないことだった。
元々、武道に秀でていたことが幸いしたのだろう。
武道家の本能が働いてが、咄嗟に受け身を取らせたに違いないと、医者はあかねにそんな言葉を残した。
「武道…そんなこと、あたし…やっていたのかな…。」
ふつっと漏れた溜息。
昨日来た、九能という青年に、抱きつかれそうになった時、パンチが飛び出して、虚空へと殴り飛ばしていた。身体が、勝手に動いていたのだ。
後で、なびきに尋ねると、『相手は九能ちゃんなら、ああいう行動もあり得るわねえ…。あんた、いっつも、蹴り飛ばすか殴り飛ばすかしてたもん…。気にしなくてもいいわよ。九能ちゃんだって、慣れっこになってるだろうし…彼も頑強だからね。』と笑っていた。
『でも、流石ねえ…。記憶を無くしていても、あんたの闘争能力はちっとも落ちていないもんねえ…。』
返す口で、なびきが言っていた気になること。
『闘争能力…って、あたし、何かスポーツでも、やってたの?』
『スポーツというより、格闘技ね。』
『格闘技?柔道とか空手みたいな?』
『無差別格闘よ…。』
『へええ…。』
言われても、一向にピンとこなかった。
『そっか…うちの流派のことも忘れてるのか…。ま、それはそれで、正解かもね。』
さばさばとなびきはあかねに言い放った。
『正解って?』
『だって、格闘技なんて、女の子がやる世界じゃないでしょ?無理して、思い出さなくても良いんじゃない?』
昨夕交わした、そんなやり取り。
それを思い出しながら、ふうっと溜息が洩れる。
「こらこら…溜息ばかり、吐いてちゃダメよ。ダメよ、幸せが逃げちゃうわよ。」
かすみが、にっこりと笑いながら、あかねをたしなめた。
気になるのは、それだけではない。
昨日、キャンデーの入った小箱を置いて行った青年、乱馬。
あれから、ずっと気になっていた。
彼のことを聞こうとしても、心にブレーキがかかる。
というのも、なびきにはっきり言われたからだ。
『彼のことは、…あんたがちゃんと、思い出してあげなさいな。』
かすみに問い質そうとも考えたが、その言葉が歯止めをかける。
抱きつかれそうになった九能には、全く関心が向かなかったのに、何故か、おさげの青年のことを思うと、キュンと心が痛んだ。
(あなたは、誰…。そして、あたしの何だった人なの?)
キャンデーの小箱を開いて、一欠片、口に含んでみた。赤い宝石のような飴玉。甘酸っぱい、杏の味がする。
(思い出したい…。)
小さなカードに認められた、男文字。
『早く戻って来いよ 乱馬』。そう書かれた文字を、目で追いながら、じっと想いに耽っては、溜息を吐きだしている。
「そろそろ放課後ね…。」
かすみが、ふつっと声を出した。
「放課後…。」
残念ながら、今学期はもう学校には行けない。いや、無理して行かない方が良いと、診察の時に言われたこをと思い出す。
もう、あと一週間もすれば、春休みに入る。
放課後になれば、あの青年が、駆けて来るかもしれない。
少しだけ、心が弾んだ。
多分…あの乱馬という青年は…自分の大切な人だ…。
そのことだけは、薄々と感じ取っていた。
終業ベルが鳴る。終礼も終えて、カタンと椅子を引いた。
「はい、これ。今日もあかねのところに行くんでしょ?」
サッと差し出されるノート。視線を移すと、ゆかとさゆりがニッと笑っていた。
「あ…ああ…。ありがとな…。」
否定どころか、感謝の言葉が乱馬の口を吐いて流れた。
「で?どう?あかねは…。」
「元気になった?」
「怪我は大したことはねーよ…。」
「じゃあ、そろそろ退院するのかな?」
「さー、俺は医者じゃねーから、そこまではわかんねーよ。」
と言葉を濁した。
あかねが記憶を失ったことは、まだ、クラスメイトには伏せていた。九能が察したくらいだ。そろそろ漏れ聞え出すだろうが、できるだけ秘密にしておきたかった。
「そろそろお見舞いに行ってもいい?」
とゆかが乱馬へと問いかける。
「うーん…。勝気なあいつのことだから、ベッドでへたってるところを見せたくねーんじゃないかな…。もうちょっと待ってくれって、言ってた。」
と嘘も方便とりつくろう。
「でも、乱馬君は行くんだ。」
「まーな…。」
「許婚だもんね。」
さゆりの放った言葉に、クッと肩が上がる。
今は「許婚」というその関係すら、絵空事のように思える。あかねの記憶は全て、抜け落ちている。
「ほら、あんまり引きとめちゃ悪いよ、さゆり。」
「そーね…。あかねにはよろしく言っといて。」
「ああ…。」
乱馬はノートを受け取ると、鞄へと仕舞込む。そして、そいつを背負い込むと、タッと軽快に駆けだす。
「さよならー乱馬。」
「また明日な。」
「あかねによろしくー。」
追い越すクラスメイト達も、軽快に乱馬へと声をかけていく。
皆、こぞって優しいのだ。
ここには、安穏とした世界が広がっている…。でも、あかねは…。
キッと前を見詰めて、乱馬は顔を上げた。
(うだうだ考えてても、ダメだな…。それより…これからのことを真剣に考えるのに、いい機会なのかもしんねえ…。)
ポケットには、渡せないままいる「指輪」が入ったままだ。
今日も校門に、三人娘の姿は無かった。
あかねが入院して三日目。そろそろ、蟲のように動き出しても好さそうなものだったが、居ないなら居ないで、乱馬にとっては有難かった。
右京はクラスメイトだが、時々お好み焼きの修行と称して学校を休む。あれから彼女は登校してきていない。店は開いているようだが、立ち寄る気持ちも持ち合わせていなかった。
小太刀もシャンプーもあれっきりだ。
(変なことを考えてなきゃいいけど…。)
そう思いつつ、校門をくぐる。
そして、あかねの居る病院へ、駆けて行く。
そろそろ、桜のつぼみも膨らみ初めている。あと数日もすれば、薄桃の花を開くだろう。
今日こそは、一言でもあかねに言葉をかけよう…そんな決意を胸に秘める。
昨日九能を突き上げた、見事なスクリューパンチ。彼女の格闘家としての心は滅していない。今の乱馬のたったひとつの「拠り所」であった。無差別格闘流を持ってすれば或いは…。淡い期待が胸をかすめる。
病院内を駆けるわけにはいかないので、正面玄関を入ると、大人しく歩き出す。
階段を上がって右手の病棟。
ナースステーションに記名して、あかねの病室へと急ぐ。
今日もかすみとなびきが、あかねに寄りそっている。
なびきはもう卒業式もすんでいたので、乱馬よりは比較的時間は自由だ。アルバイトをしている訳でもなく、大学入学までをのんびりと過ごしている。
「乱馬君、いらっしゃい。」
乱馬の気配を察したかすみが、おっとりと声をかける。
その声に、あかねの身体が少し固くなった。
待ち焦がれていた人の登場だ。
もう、今日は来ないと思っていた人が、来てくれた。
そう思うだけで、胸がときめくのを感じた。
あかねとて、一皮むけば、ごく普通の女の子だ。恋に焦がれる心もちゃんと持っている。
記憶を失う前と、今では、すっかり様子が変わっていた。
待っていた人に、なかなか声もかけられない。恥ずかしい…という、通常のあかねからは、考えも及ばない感情が、彼女を支配し始める。
彼女の真骨頂である「積極性」も形を潜めていた。記憶を無くしたと同時に、性質も豹変してしまったのである。
すっかりおとなしくなったあかね。覇気も無い。
かすみやなびきと会話するときも、その声はか細い。一言一言を、小さな声で囁きかけていた。
本当の性格とは真逆のあかねが、そこに居た。
いや、案外、強がり勝気という武装を解いた、素のあかねなのかもしれない。
乱馬も、いつものように、喧嘩腰にはならなかった。
あかねが喧嘩を吹っかけて来ない以上、声を荒げるのも変な話だ。普段、乱暴な物言いであかねと接していたことが、まるで嘘のように、借りて来た乱馬が居る。
「あの…い…いらっしゃい。」
小さな声で話しかけながら、もじもじと手を動かしている。
顔は真っ赤に熟れて、俯き加減だ。
さっきから、ドッドッドと心臓は、飛び出すのではないかと思うくらい激しく波打っている。
「あ…ああ。」
乱馬もそれに吊られて、口ごもる。
どう、切り出して良いのやら、大人しいあかねを前に、また混迷に入り込む。
二人、俯いたまま、数分が流れて行く。その間、一切、会話は無い。
まるで、病室で「お見合い」をしているような、二人であった。
「晩熟(おくて)が二人揃うと、ある意味壮観ね。」
「ほんとうね…微笑ましいわ。」
「まどろっこしいわっ!いらいらするわよ。とっとと会話しろって…。」
「まあ、そんなにせかしちゃ、気の毒よ、なびきちゃん。」
かすみとなびきが、ぼそぼそと、一歩下がったところで見守る。
姉たちが評する通り、乱馬とあかねの会話は、全く進まない。
「平和だわ…。あの子たちを見ていると…。」
やれやれというように、なびきがそう吐き付けた、まさにその時だった。
見知らぬ風林館の詰襟姿の男生徒が一人、病室のドアに立っているのがなびきの視界に入った。
切れ長の目に高い鼻。透き通るくらいに肌が白い。女性と見紛うかと思わんばかりの、柔肌の持ち主だった。しかも、端麗な顔つきをしている。
言わば、筋骨がっしりした体格の、乱馬とは、まるで対照的な感じの若者だった。
ひとくくりにした黒い髪は、後ろ側に靡く。乱馬よりも長いかもしれない長髪だ。
耳には五ミリほどのシルバーピアスをしていた。良く見ると、三日月の形をしている。
「あの、天道あかねさんの病室はこちらですか?」
確かに風林館高校の詰襟を着用していたが、なびきには全く見覚えがなかった。
「え、ああ。ああ。そうですけど…。」
なびきが狐に摘まれたように言った。情報通のなびきもその男に全く心当たりがない様子だった。多分、なびきの明晰な頭脳には、風高生全員のデーターが蓄積されているに違いない。にもかかわらず、見知らぬ顔だ。
こんなに、端麗な顔つきなら、目立たない筈がない。
怪訝な表情をしながらも、邪険に扱うのも気が引けて、青年を病室へと招き入れる。
「あかねの知り合いですか?」
と率直に疑問を投げた。
「ええ…。まあ、そうです。」
口ごもりながら、青年は答えた。
(何者だ?こいつ…。)
あかねと向き合っていた乱馬も、瞬時に、尋常ならぬ警戒心を持った。
彼の格闘家としての直感が。その男の放つ気に、過剰に反応を示したのである。
(声をかけられるまで、全く気配を感じなかったぜ…。)
そいつが病室の戸口に立った気配を全く読み取れなかった。
何かしら、薄ら寒い戦慄が乱馬に走っていく。
男はゆっくりと戸口から病室へと入ってきた。そして、あかねの前にすっと立った。
「天道あかねさん。突然、入院されたと聞いて、お見舞いに伺いました…あの、これ、お花です。よかったら病室にでも飾って下さい。」
男はにっこりと微笑むと、手にした薔薇の見事な花束をあかねに差し出した。
「ありがとうございます…」
あかねはやはり記憶がないのだろう。花束を受け取りながら、一瞬戸惑いの表情を男へと手向けた。
「あの…どなたでしょうか…。」
恐る恐る、男へと問い質す。
「何、名乗るほどの者じゃありません…。あなたのファンですよ。お見舞いに花束を届けに伺っただけです…。それより、よかった、思ったより傷が浅くて…。」
男はにっこりと、あかねへ微笑みかけた。そして、身体をベッドから立ち上がりかけたあかねを、制しながら言った。
「わざわざ起き上がらなくてもいいですよ…。何、今日はご挨拶に伺っただけですから。また、後日、ゆっくり、来ます。お大事にしてください…あかねさん。」
そう言って男は軽くあかねに会釈をすると、くるりと背を向けた。
本当に花束を届けにきただけのようだった。
軽く息を吐き出して、ゆっくりと廊下へと足を差し向ける。
そして、出際に不気味に微笑みながら、乱馬をちらりと一瞥して、立ち止まった。
乱馬の耳元に囁きかけられた、戦慄の言葉。
「あかねさんはわたくしが頂きます…乱馬さん。」
「な…?」
突然の挑発に、乱馬は言葉を失い、体が凍りついた。
咄嗟に握りかけた拳を、そいつは上から押さえつけ、言い放つ。
「ここは病室ですよ…荒っぽいことは無しだ…。」
クスッとそいつは鼻先で乱馬をあざ笑った。
乱馬の右拳へ添えられたそいつの手は、ひんやりと冷たかった。否、それだけではない。乱馬の拳を押しとどめるに余りある力が籠っている。咄嗟に感じ取る、青年の発する闘気。尋常な大きさではなかった。
「今日は軽くご挨拶に伺っただけです…。いずれ、あなたとは、勝負する日が来るでしょうから…。楽しみにしていてください…。」
それだけを口早に言い貫く。
そいつは不敵な笑みを浮かべたまま、悠々と病室から去って行った。
なびきには、対立しかけた、男と乱馬のその言動を全く察知できなかったらしく、
「いい男ねえ…誰かしら。私の情報網に引っかからない風高生って…。まだ、居るのね…。」
と、後ろ姿を見つめながら、しきりに首を捻っていた。
(どういう意味だ?今の野郎…。あかねを頂くだと…?それに、あの力…。只者じゃねえ…。)
得も言われぬ不安が心に広がって行くのを、乱馬には押さえることが出来なかった。
乱馬は知らなかった。
それが、男の、宣戦布告だったということに。
そして、あかねの記憶喪失にかかわる、青年だということに。
まだ、顕わになっていない「真実」を知るには、時期尚早であったのだった。
つづく
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